
書名 日本の誕生
著者 吉田満
初出 1997年 岩波新書
吉田満は「私の意図は『日本』を相対化することにある。結果として『日本』の特殊性を強調していると受けとめられるのは、まったく皮肉なこと」「本書の主題に則して言えば、天皇を核とするヤマト(日本)の古典的国政が、中世・近世の国制と重層しながら、基層として近・現代にまで持続してきたことである。」この視点から、刺激的な内容がたくさん並べられている。その中から、姓、生口、渡来系「日本」人について取り上げてみたい。
たとえば姓のことである。「周辺諸国が中国の姓の制度を継受して、独自の新しい姓を創始するには、この後の4〜5世紀の東晋〜宋(南朝)の時代まで待たねばならないからである。つまり、それまでは、少なくともこの時代には、『姓』をもっていたのは、「中国の姓を血縁(原則として父系)で継承している人びと(または、継承していると自称する人びと)に限られていた。」「もし(後漢書にでてくる)倭国王『帥升』が『師升』の誤写であったとすれば、彼もまた、中国風の姓名を称した渡来人であった可能性が出てくるのである。」このことは、倭が中国渡来の人びとによって建国された可能性を述べていることである。
魏志倭人伝で卑弥呼が朝貢した折りの貢ぎ物は生口つまり人間である。この人間は戦争奴隷と考えることができる。弥生時代は戦乱の時代である。米などの収奪の他に、人狩りが目的とされたのではないかと吉田満は推測している。このようなことは衝撃的ではあるが、中世以降の日本の戦争の実態から見て充分に推断できることである。中世では戦争奴隷は常態化され、人身売買を目的とする市も開かれていたのだ。このように、中国への朝貢をする周辺諸国で「生口を早くから朝貢品として用いた背景には、倭人が生口を――他の産物とともに――対外的な交易の対価として広く用いていたことが想定される。やや大胆に憶測すれば、倭人は生口を朝鮮半島(辰韓、弁辰)の鉄などと交換していたのではないだろうか。」米作の生産性の向上に必須であった鉄は当時、倭では採掘されていなかった。従って朝鮮半島からの輸入に頼っていたのである。では、鉄の代わりに何を交易したのかを問うことは誰もしなかった。そこに国内の人狩りで調達した戦争奴隷=生口が憶測される余地が出てくる。これはかなり真実に近いのではないか。戦争がなくなった江戸時代でも飢餓の年においての農村や、借金からの都市において親族による人身売買は常態化していた。そして今日でも東南アジアを初めとする世界中からの人身売買はこの日本において日常的な出来事であり、恥ずべきこのことは倭・日本の歴史にあって当初から付きまとってきた重要な事柄である。
中国の王朝の歴史とともにある東アジア全体の中で、はじめて倭の歴史もあったことは基本中の基本である。たとえば卑弥呼の要請によって対狗奴国戦争に魏は帯方郡の役人(塞曹掾史)張政を派遣、卑弥呼が死んだ後も残って壱与によって国が治まるまで支援している。このような全面的な魏のバックアップによって倭国の戦乱が収まったことはあまり注目されていない。
東アジアでは中国支配が緩む(五胡十六国時代)4世紀に入ると、国家形成が始まる。朝鮮半島でも高句麗の勢力に対抗しながら百済、新羅が国家としてまとまりをつけ、それぞれの国王が中国に倣って姓を名乗るようになる。高句麗は高、百済は夫餘族の出身であることから餘、そして倭は倭、このように種族名を姓として中国王朝との関係を保っていく。ただし新羅は金を姓とした。これは、新羅が金銀を産出したことによるのではないかと吉田満は推測している(シラキのシラは「金のある」という意の古語、キは集落)。宋(南朝)に421年以降に朝貢した倭の五王といわれる讃、珍、済、興、武は姓を倭としている。大王(天皇)にも姓があったのでる。武は古事記では「大長谷若建」、日本書紀では「大泊瀬幼武」と表記され、いずれも「オホハツセノワカタケル」と読む。ハツセは宮のあった場所である。タケルが武である。「『雄略』は奈良時代になって淡海三船が勅命で撰進した漢風諡号(中国風のおくり名)で、本来の記紀には書かれていなかった。」のである。倭の五王が生きていた時代には「雄略」などとは名乗ってはいなかったのである。倭はその後1世紀に渉って朝貢しなくなり、それとともに倭姓も用いなくなった。再び中国の統一王朝・隋に朝貢したときには、姓を阿毎(アメ)、字を多利思比孤(タリシヒコ)、号を阿輩ケ弥(アヘケミ=あめきみ、あるいはおほきみ:ケは渓の右側にふるとり)と名乗っている。これは、アメタリシヒコと名乗ったのを、中国の官人は姓があるものと思い、そう解釈した可能性もある。607年に二度目の遣隋史として派遣された小野妹子は近江国滋賀郡小野村という地名から氏名を名乗ったらしい。そして、中国では「蘇因高」と呼んだと伝えられる。吉田満は、蘇因高は小(せう)妹子(いもこ)を漢字音で言い換えたもの推測している。当時、倭国には姓はなかった。このように朝貢はするが、中国の冊封体制からは離脱する倭国の基本姿勢は、天皇家が姓を必要とせず、臣下に(中国からもたらされた姓という制度を)民に与えるということを後に可能にした。それにしても姓を持つことは中国の模倣である。
倭国が国家体制を整えるには、朝鮮半島をはじめとする渡来系の人々の力が多大であった。同様に倭人も朝鮮半島南部を中心にして、定着同化していった。政治勢力としても新羅、百済との力関係の中で加羅を中心とする南部諸国と連合を組んで倭国の基盤を作ろうとしていた。このような国境(当時は近代的な概念としての国境は意識されず、首都を中心に実効支配できる地域を領土として意識していたものと思われる。近代的な国家、国境概念をもって古代、中世を把握するのは危険である。)を超えた諸民族の移動は、中国の魏晋南北朝時代に呼応し、あるいはゲルマン人の移動に呼応する。
吉田満はこんなエピソードを書いている。高松塚の古墳が発見されたころ、遠望できる丘陵で、在日朝鮮人の年配の方が「ここが祖先がやってきたところか」と感慨深くつぶやいておられることに、深い感動におそわれる。しばらくして「近代になって日本へ移住させられた在日朝鮮人(在日二世かもしれない)その人よりも、おそらく私の方が、古代に檜前へ渡来してきた人びととの血縁関係は、確率的に近いのではないか、ということに気がつい」たのである。雄略時代にこの大規模な人びとの移動が行われた後、次に大挙して渡来人が来たのは、唐・新羅の連合軍によって百済・高句麗が滅亡した7世紀中期である。660年白村江の戦いで倭の水軍が壊滅したことは、百済の滅亡を意味していた。敗北した倭軍は亡命を希望する百済の将軍・兵士とともに帰国した。国土防衛の危機感から朝鮮式山城を各地に築くとともに、都を近江の大津宮に移し中大兄皇子は即位して天智天皇を名乗る。この危機感は壬申の乱を経て、天武・持統天皇に依る日本的な律令国家の形成にいたる。百済からの亡命は4,5千人に及び、これに高句麗からの亡命者も多数におよび、畿内のみならず東国にも入植していった。こうして東国の開拓も始まったである。一国規模の論述では、純粋日本人を仮構するしかないが、このように中国文化・政治圏(倭は冊封体制には入らなかったとはいえ)全体の関連性から相対的に見ることは重要である。人びとの移動・交流も近代的な国家概念でとらえては、認識を誤る。
この後も吉田満は「仏教は神道を吸収して神仏習合を生み出したが、神道を解体しないで包摂しながら並存していった。それは、律令国家が、律令制の原理によって氏族制度を解体しつくさず、氏族制社会を包摂しながら形成され、両者の交流のなかから、平安時代に伝統的な国制を生み出した過程と、共通した構造を持っている。」など優れた分析をしつつ平安時代末までの歴史を急ぎ足で、日本の個性を論じている。それは相対化できる「特殊性」である。だが、内容としては日本の伝統的な国制ができる壬申の乱以降の記述よりも、それ以前の推測を交えた論述の方に魅力を感じ、啓発を受けた。(2005/9/3)
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