楽書快評
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0093
書名 魏晋南北朝
著者 川勝義雄
初出 2003年 講談社学術文庫(1974年 「中国の歴史第3巻」講談社)
 魏は魏呉蜀三国の魏であり、魏史倭人伝の魏である。「魏晋南北朝」は漢が滅んだ後、随・唐が起こるまでの戦乱の時代を描いている。184年から589年までの400年間である。このような乱世にあっては武力が唯一であり武人が社会を動かすと思いがちである。川勝義雄は「かれら武人が支配階級を構成し、封建的な武家社会をつくりあげることは、中国ではついにできなかった。戦乱時代であったにもかかわらず、支配階級にはいるためには、知識と教養を備えた文人でなければならないという原則が、中国ではだいたい貫徹されていた。」と述べて、通念に反して、中国ではこの時代を含めて文人貴族層が国家の興亡をこえて中国文明を強靱に維持発展させたことを論証しようとしている。それがこの本の縦糸となって各地各時代の興亡を横糸として分厚くまとめたのが「魏晋南北朝」史である。
 氣賀澤保規の解説によると、京都に生まれ京都に育った川勝義雄が、京都学派の立場から、魏晋南北朝を中国中世として把握し、ヨーロッパの中世に比しながら、なおヨーロッパの暗黒時代を引き合いにして「華やかな暗黒時代」として押し出したことに特徴がある。このような姿勢を取らせる川勝義雄の感性を京都人そのものとし、「困難な時代を生き抜いた中国の文人貴族の貴族制度の世界に限りない愛着を抱く発想と目線が、京都人だから起こり得るものと密かに思っていた。」と氣賀澤保規は述べている。川勝義雄の論述を読み終わって、その史実の評価の仕方に意見を指し挟める力量はないが、文人貴族を持ち上げるその姿勢の源を納得した。
 文人貴族の強靱さは、社会的な歴史性を帯びている。中国の農村は日本の農村に見られる散村と違って、城郭の中に居住し、塀の外の田畑に働きに行くというスタイルである。城内を細かく区分して「里」「郷」「県」などと人の集まりを名付けている。この郷村共同体では名望家がその単位ごとの長を勤めていた。このような郷村共同体の在り方と、儒教が理念とする「孝悌」、親には孝、兄または年長者には悌という家族倫理を国家社会全般の規範とする理念とは一致するものであった。だが、後漢時代になると未開拓地の開拓を中心として豪族が生まれ、従来の郷村共同体の生活倫理に納まらない制度・思考が生まれてきた。豪族の強大化と農民層の階級分化である。この豪族が基盤となって文人貴族が生まれてくる。この文人貴族の社会的な基盤はどん欲な大規模地主であり、郷村共同体を解体し貧民を農奴化し、あるいは異族を拉致してきて下人とすることによって労働力を確保してきた。このような経済的基盤と、文人貴族としての政治・生活倫理である儒教とは相いれない要素を持っていた。川勝義雄に言わせると、失われた郷村共同体の孝悌理念を理想化したのが儒教倫理である。
 後漢時代では、「帝室を中心とする外戚家・姻戚家の王朝貴族群ができていた。ただ、日本の平安朝において、藤原氏が圧倒して冠絶したのとはちがい、後漢では若干の貴族がかわるがわる外戚家となって、つぎつぎに権勢をふるったのである。そして、権勢を他家に奪われたあとの、かつて外戚家では、大学者・馬融のように、むしろ公正な官僚の立場をとる傾向があることも注視しておこう。」と描かれたようにどん欲な現実感覚と、理想的な官僚とのバランスが社会の荒廃を防いでいた。後漢末期に高級官僚を生み出す貴族一族からは同時に清議の士も出現した。だが、貧農の激増と宮廷官僚・宦官の腐敗は黄巾の乱や五斗米道の反乱を誘発し、やがて魏呉蜀の三国分立をもたらす。
 魏が成立すると、官制および官吏の登用について「九品官人法」を制定し、官職と位階に分ける原則を立て、あわせて郷村からの名望家として選ばれて(郷論を経て)中央政界へ進出するという官吏任用制度を作り出した。この個人の賢と徳を基準とする評価は、やがて個人から家柄のランキングへと横滑りしていった。魏は重臣であった司馬氏によって簒奪され、晋王朝が作られた。この時代に有名な「竹林の七賢人」が生きていた。かれらも貴族の経済的基盤と理念の矛盾の中に生きたのである。晋(西晋)はやがて、姻族による支配を経て一族間が相争う八王の乱に向かう。313年懐帝が匈奴の劉聡によって殺され、北朝は漢民族以外の王朝が次々に乱立する時代を迎える。五胡一六国時代である。
 北朝では「豪族たちは、武人領主としての支配階級を作る方向に驀進することができず、共同体を志向する郷論の上に立って、知識と教養を持った文人的な『士』としての支配層をつくることになり、その『士』階層の上に貴族社交界が積み上げられたのであった。」そしてそこには清談という相互批判の場が成り立っていた、と見ている。
 南朝の歴史はどうであったか。川勝義雄の論述をなぞってみる。魏呉蜀の呉国は建業(現在の南京)を首都とし、呉郡富春の孫氏によって建てられた。富春は2世紀の終わり頃は江南における漢人の植民地の点の一つであった。河北のように自立的な自作農民が育たない中で、屯田による農地開発と一部地域の開発地主による開発によって呉の国家基盤が成り立っていった。彼らはそれぞれ私的な世襲軍団を抱えていた。孫氏は彼らとの個人的な主従関係によって国家を成り立たせていた。軍事的な圧政によって成り立っていた屯田体制は、度重なる内紛によって崩壊する。国家的な危機は280年にやってきた。西晋が兵を呉に向けたとき抵抗する軍隊はなかったのである。
 その後、河北での漢人以外の氏族による侵入によって、流民化した人びとが大挙して江南に逃れてきた。その中には、晋(西晋)の司馬一族の王族もおり、東晋を江南の地に建てた。政治・経済的に後進的な江南に打ち立てられた東晋では、魏晋時代に完成した政治システムを導入し、また河北の文化がもたらされた。江南にも貴族社会が出現し、こうして書芸術を完成させた王義之など文化人を排出した。東晋の一軍人であった劉裕が420年に宋を起こした。この間、相変わらず貴族は広大な荘園をバックして閉鎖的な貴族社会をつくりだしていた。時に450年、宋の文帝は貴族たちの賛成を得て北魏征伐の軍を起こした。御前会議で武人の沈慶之が反対して論じた。「国をおさめることは、たとえば、家をおさめるようなものです。畑仕事は下僕にたずね、はた織りごとは下女に問うものです。陛下はいま敵国を討たんとせられるのに、白面書生どもと事を謀られる。なにが成功するものですか。」予言の通りに北伐は失敗し逆に攻め込まれる事態の中で、その後宋は衰えていく。王族同士が相争って自滅し、軍人の簫が479年には宋に代わって南斉を起こす。さらに南斉に取って代わったのは同じ簫一族の王族の軍団長であり、502年クーデタにより梁を建国した。梁の武帝の治政50年は文化が花開いた時代である。皇太子簫統が「文選」を編纂したのをはじめ巨大な仏教寺院が建立されていった。貨幣経済の振興に伴って、銅銭を大量に鋳造して社会の繁栄を築き、上述の文化の基盤をつくりだした。だが、このような政策は貧富の差を拡大し、梁の人民の大半が流民化して兵隊となった、と言われるほどの状況となった。この状況の中で、北方から逃れてきた敗軍の将・侯景の1000人の軍隊によって首都が陥落、梁が滅亡してしまった。この混乱に乗じて江南で政権を奪取したのは梁の広東省の一軍団長であった陳覇先である。かれは陳をつくる。このような興亡を繰り返した南朝はやがて起こった北朝の随によって滅亡させられた。中国はこうして魏晋南北朝がおわる。隋は大運河を建設して江南の富を北に運んでいったのである。このように川勝義雄は南朝の歴史を概括する。
 北朝の歴史に戻ろう。北魏は鮮卑族の拓跋部の族長拓跋珪が386年につくりだした国である。拓跋部の故地は興案嶺東麓のシラムスレン流域であった。拓跋珪の祖先が代に進出、前秦の崩壊に乗じて建国した。北魏が安定した政権を運営できたのは、北方部族を解体して軍団として再編成したからである。それとともに漢人貴族を官僚として登用した結果である。北魏では貴族制原理を重んじた。「孝文帝は南朝の先進的な貴族制社会に追いつこうと努力した。貴族制社会を成り立たせる原理は、人格的な資質に価値の基準を置き、しかもその資質は、代々学問教養を伝えて優秀な家風を維持してきた家においてこそ生まれるものであって、庶民層からは例外的に優れた人物がでることはあっても、そのような資質は一般的には一朝一夕でつくりあげられるものではないという考え方にもとづいている。そして、種族の相違を超えたこのような人格主義的な貴族制原理こそ、当時の胡族国家の体質を超克するための、より普遍的な原理となりえたのである。」と川勝義雄は叙述する。これは体制維持の装置でしかない官僚制度を担う層であった貴族への過大な思い入れでしかない。
 日本にも影響与えた均田制をはじめたのも北魏である。文化的にも仏教を重んじ、龍門・雲岡石窟の仏像などがあげられる。この繁栄した北魏も、解体された北方部族軍団が漢人貴族への反発を強め、北方に置かれた六鎮の反乱が起こって滅亡した。懐朔鎮出身の高歓が実権を握る東魏と、これに反発する武川鎮の宇文泰が傀儡を立てた西魏とに分裂、それを「日本の幕府時代、ことに南北朝に分かれて争った時代を想起させるであろう。」と川勝義雄は述べる。ここで両傀儡政権の課題は共通していて「北魏末期の貴族制国家が生みだした極端な身分格差の矛盾に対して、鎮民・城民および郷兵たちがまきおこした自由回復のエネルギーを、もっとも効率性の高い戦力に統合し、組織化することであり、民衆の自発性を持続させながら、いわば軍国主義体制をつくりだすことにあった。」と川勝義雄は分析している。高氏は禅譲を受けて、北斉を建国、他方宇文氏も北周を建国した。勝ち残ったのは西魏=北周である。名前の通り、過去の時代の復古的な政策を援用して国家をまとめた。こうして北周による北朝(華北)統一が実現する。577年のことであった。この北周も力のある初代が亡くなると、崩壊過程に入る。
 統一国家を形成した楊一族はこの北周の府兵六軍団長の一人であった。北周王朝内部の崩壊から、隋がうまれた。
 文人貴族は混乱の時代を乗り切り統一国家のなかで、どのように官僚制と結びついたのか。それは随の文帝がはじめた科挙である。応募者の出身を問わず試験によって為政者としての職と身分を与える制度である。「読書によって『古聖人の道』を学ぶことが、そのまま職をえて身分を維持することにつながるという読書人理念を、国家的規模で実現しようとするものである。」それは「身分と階層序列の固定した貴族社会が崩壊しつつあるという一種の巨大な水平化現象」への新たな対応であった。このように評価する川勝義雄は京都人らしく、武人を嫌い、伝統的な倫理を身につけた知識人が階層として成り立ち、国家を運営する官僚として輩出する事を理想としているように見受けられる。残念ながら日本では「蒙昧」な武家が長く政権を維持し、京都の伝統的な知識階層でもある貴族を圧迫し続け、政権運営から除外してきた。川勝義雄はまた、第二次世界大戦後に米国合衆国によってもたらされたアングロサクソン的な平民民主主義への反発を伺わせる文章を、事態の比喩として用いる。それはこんな風である。開発が遅れた河南地域へ流入した華北の亡命貴族が地盤もないのに支配階層として君臨できた理由を、彼らが掲げた先進政治思想である郷論主義を挙げる。現実の社会と上からの郷論主義のごまかしを批判した葛洪の「抱朴史」を引用して「『民主主義・自由競争主義の美名を標榜するもの』に置き換えれば、現在でも耳の痛い人は少なくないだろう。」と述べている。アングロサクソン的な原理が必ずしも世界普遍性を持つとは思わない。そして、中国を中心とする東アジア文化の継承が必要とも思う。だが、それは貴族・官僚制の継承とは違う。少なくとも日本列島に生きる者としては。(2005/9/9)
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