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書名 隼人の古代史
著者 中村明蔵
初出 2001年 平凡社新書
隼人の「反乱」に焦点を絞って考えてみたい。「反乱」は隼人にとっては抵抗運動である。隼人の反乱を含めて反乱といわれているものは、ヤマト政権の膨張政策への抵抗闘争の性格を持っている。大隅国で大規模な反乱が起った。中村明蔵は次のように叙述する。「養老4年(720)2月29日のことであった。大宰府から朝廷に、飛駅によって急報されたその内容は、『隼人反きて、大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺せり』という、ショッキングなものであった。朝廷の狼狽ぶりは想像にあまりある。とりあえず4日後に、中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍とし、授刀助笠御室・民部少輔巨勢真人を副将軍として任命した。大将軍に副将軍2人を任命するのは、兵士1万人以上をつけて出征するのが軍防令の規定であるから、大軍派遣が計画されたのである。」抵抗は激しい。日本書紀の記述は「然れども、将軍原野に暴露れて、久しく旬月を延ぶ。時、盛熱に属し、豈に艱苦なからんや。使を遣はして慰問せしむ。忠勤を念ふべし。」慰問させたのは元正女帝である。翌年(721年)7月になって、副将軍らの還帰を伝えて、「斬首、獲虜合はせて千4百人」と記している。日本書紀の記述とは別に「八幡宇佐宮御神託集」の記載を中村明蔵は引用している。豊前守宇努首男人(うぬのおびとおひと)が宇佐神社の八幡大神(註1)に祈って出兵した。隼人は7ヶ所に城を構えて対戦したが、そのうち5城は落ち、曾於之石城、比売之城が最後まで残った。しかし、大神の加護によって「蜂起の隼人を伐り殺し畢んぬ」。豊前・豊後国からの移民の救援保護を名目とした出兵であろう。同時に八幡神の持ち込みがおこなわれている。鹿児島神宮(註2)である。隼人の屈服は、記紀成立期の輝ける勝利の記憶となった。神話形成にも作用したことであろう。
このような反乱を呼び起こしたのは律令国家の膨張政策であった。したがって南での反乱とともに北でも火の手が上がるのは当然である。大隅国守が殺害された7ヵ月後の720年 養老4 9月、陸奥国で按察使上毛野朝臣廣人が蝦夷の反乱によって殺害され、征夷の軍が発せられている。
この南北の反乱は、ヤマト政権の勢力範囲がどこまでであったかを逆に照らし出す。「古代日本列島史の中で、西日本におけるヤマト王権の勢力伸張は、5世紀代に肥後・日向の線を想定すれば、ほぼ承認されるであろう。」「両地域よりさらに南に位置する薩摩・大隅の主要部にヤマト王権の勢力が伸張してくるのはそれ以後であり、それが本格的になるのは7世紀の後半である。そこには、中央集権的国家体制の形成をめざす中央政権の政策とあいまって、対外的情勢の緊迫が、要因となっていた。その対外的情勢とは、朝鮮半島における諸国の対立、抗争であり、ヤマト王権との直接のかかわりは白村江の戦いであろう。」
律令国家の下に入るまでは、朝貢による関係が作られていた。日向の諸県君一族は大和王権との結びつきが強く、諸県君を介して大隅半島の大隅直一族が大和王権との関係を深めた。しかし、現在の国分、隼人地域である鹿児島湾最奥の沿岸一帯を支配していた贈於(そお 曾)君一族はヤマト政権に対して親しくはなかった。薩摩半島ではどうであったか。薩摩北西部には肥後の肥君一族が勢力を伸ばし、川内川下流部には薩麻君一族が、そして薩摩半島西側万之瀬川流域には阿多君一族が勢力を張っていた。もっとも自分たちを「隼人」と呼んでいたかは不明である。隼人という呼称は7世紀後半からの用語であると、中村明蔵はいう。
「なお、『隼人』の呼称は7世紀後半の天武朝ころからの用語であり、5〜6世紀の時期のこととして、『古事記』『日本書紀』に用いているのは、両書編纂時の遡及的文飾である。したがって、これらの『隼人』は、南九州の住民というほども意で用いられているとみてよい。」遡及的文飾という表現は的をえている。(註3)
隼人が史上にその具体的な姿をあらわすのは、682年 天武11 7月のことである(日本書紀)。「隼人、多く来て、方物を貢ぐ。是の日、大隅隼人と阿多隼人と、朝庭に相撲とる。大隅隼人勝つ。」その後も朝貢は続く。689年 持統3にも方物をもって朝貢している。相撲をとるのは一種の儀式であり、服属儀式としての隼人舞にもつながるものであろう。貢物は隼人174人、麻布50常、牛皮6枚、鹿皮50枚である。
東アジア国家群の形成に伴う危機意識は白村江の戦いの敗北(663年)によって決定的になる。この事態に対してヤマト政権は大津京への遷都、そして壬申の乱という古代史最大の内乱を経て、律令国家形成を始める。前述の日本書紀の記述にみられる隼人の朝貢から反乱・律令内隷属は、この危機感から発したヤマト政権の膨張政策を叙述したものである。律令国家は隼人の住む地域も律令の範囲内とすることに力を注ぐ。日向国(文武2年 698以前に成立。)から薩摩国を分立させる。702年 大宝2。「政府は、まず薩摩国の国府を川内川下流域に設置することにし、この地域に勢力を張っていた薩麻君一族の分断をはかった。」「薩麻君は、この作戦によって二分され、主勢力は川内川南側’左岸」の、のちの薩摩郡域に縮小された。いっぽう、川内川北側(右岸)には国府を設置し、肥後国からの移民によってその周辺部を固めている。」「薩摩国府は、川内川北側に高城郡を置いて新設された。薩摩国の誕生には薩摩地域の叛乱の鎮圧があった。薩摩国成立時の隼人鎮圧に対して「戦陣有功者千2百80余人」に勲位が授けられている。植民と分断と武力弾圧という侵略のテクニックが如何なく発揮された。さらに、次の大隅国においてはこれに宗教政策が加味された。
「古代日本の南島文化」(上田正昭)で「菅原道真が編纂した『類聚国史』という歴史書になかに『風俗の部』という項目があります。異なった風俗の人びとのことを記述しているもので、『風俗の部』に入れてられているのは次の人びとです。」国栖とともに隼人も含まれている。『類聚国史』巻59に、『延暦19年(800)12月、辛未、大隅、薩摩両国の百姓の墾田を収めて、便ち口分を授く』(「南方神話と古代日本」中西進編所収 1995年 角川選書)702年 大宝2 8月に記事にでてくる。異なった風俗の人びとも国家の中に隷属されたことを、後の知識階層は記録しているのである。
次に大隅国の日向国からの分立が713年 和銅6におこなわれる。翌年(714)には「隼人、昏荒野心にして、憲法に習はず。よつて豊前国の民2百戸を移して、相勧め導かしむ」の記事が出てくる。薩摩国成立時での手法と同じく植民地を国府の周りに作って基礎を固める。移民先は桑原郡で「和名抄」に桑原郡(郷名)大原、大分、豊国、答西、稲積、廣田、桑善、仲川(国用中津川三字)と豊前、豊後の郡名と同じものがある。豊国は渡来系の秦氏名が多く、機織の技術も継承されていた。桑原や桑善にもそれをうかがわせる。国府は2005年8月現在の国分市(2005年11月から霧島市)にあった。律令制度では戸籍が調べられ、口分田が支給される。それは国というものから自由であった隼人にとって国家支配組み込まれることを意味した。
中村明蔵は豊国からの移住について200戸、5000人が移住。豊前国の戸籍によると氏名の49パーセントが「秦部」であることから渡来系であり、養蚕、鉱物資源の開発など技術を持った人々が移住し「移住地の桑原郡の名も、かれらの養蚕技術と無関係ではないと思われる。さらには、移住にさいして豊前地域の信仰を奉持し、集団の守護神として祭ったことが考えられる。とりわけ、国府の所在する国分平野の西にある鹿児島神社と、東にある韓国宇豆峯神社が注目され、いずれも式内社である。鹿児島神社は、その名称からしても在地性が認められ、もともとハヤトたちの信奉する神を祭っていたと見られる。ところが、この社は八幡神的性格も濃厚である。そこで考えられるのは、在地神と、豊前国の人びとの捧持してきた外来の宇佐八幡神との習合である。在地神と外来神との習合は、ハヤトの懐柔あるいは教化を重要な課題としていた政権としても積極的であり、それを推進したとみられる。」と語る。また、「韓国宇豆峯神社は、豊前国田河郡に所座した式内社、辛国息長大姫大目命神社(現 香春神社)との関連が指摘できよう。」(註4)と豊前との関連性を強調している。もちろん霧島山系の最高峰が韓国岳と呼ばれていることも忘れてはならない。律令制度は薩摩・大隅両国においては当初から植民と武力弾圧をともなって制度導入がなされた。さらに宗教による懐柔が加わる。(註5)そのことは、両国を通る官道を概ね植民地域を通らせていることにもうかがえる。
しかし、その基本となる班田制度は困難な側面を持っていた。中村明蔵は、植民された薩摩国高城郡と大隅国桑原郡以外の、隼人が大勢を占める郡では班田はできなかったと見ている。ようやく班田がおこなわれたのは800年 延暦19であり、班田制度が崩れ始める頃である。これに伴い隼人の朝貢は止まった。稲作に適しない畑作中心の薩摩・大隅両国は律令制度化における実態はいかなるものであったか。両国とも大・上・中・下国の区分によれば日向国と並んで中国である。下国は壱岐、対馬である。745年 天平17の諸国の正税のひとつ公廨稲で比較すると中国が20万束であるにもかかわらず両国とも4万束しかなく、下国10万束の半分以下でしかなかった。したがって「弘仁式」(820年頃)によると国分寺を賄う分の正税・公廨は薩摩国分を肥後国が2万束、大隅国分を日向国が2万束負担しているのである。経済的な基盤をつくることがなかなか出来なかった。延喜式(927年)を見ると両国とも国分寺料を2万束計上していることから自前の経営が出来るようになったことが知れる。しかし、同じ中国の日向国が正税・公廨各15万束であるのに薩摩国各8万5千束、大隅国正税8万6千40束、公廨8万5千束と半分程度の収入でしかない。南九州の火山性土壌に稲作は不適なのである。
「米だけについて記すと、大隅・薩摩二国の収穫高の平均は畿内五国の平均の半分以下、約47%であった。この一例からも、南九州が稲作の不適地であることは判然としていよう。」台地と山地における畑作でつくる雑穀が主な作物であり、それに近世になって薩摩芋が加わる。「独創的歴史地理学者(桐野利彦)は、シラス台地の三大作物として、さつまいも、大豆、なたねの三種をあげ、これらを食物にすることによって、江戸時代以降の南九州の住民は生活できたと述べている。」律令国家の基礎が米作にあるが、それは大隅・薩摩両国にとっては、長く困難な経済的な状況を強いることになったことを、具体的な数字をあげて中村明蔵は明らかにする。
律令国家への植民、分断、生産物の収奪、新たな宗教政策、そして武力的な背景が大隅国での隼人の反乱を招いた。頑強な抵抗もヤマト政権挙げての武力弾圧に屈する時が来る。
このようなヤマト政権への強制は、南方伝承とともに記紀神話によって兄・海彦の弟・山彦への屈服として記憶させられた。(註6)隼人の反乱は、鎮圧した側の記録によって永遠の屈服を神話の中でコンクリートされている。だが、反乱の跡に立ってみると隼人塚の言い伝えなど根強く、国家神話とは違った別の伝承が聞こえてくるように感じられる。(2005/9/17)