書名 竹の民俗誌
著者 沖浦和光
初出 1991年 岩波新書
竹林(報国寺) 竹は身近にある自然である。しかし、これは人工的に拡大したものであって太古から自生していたものではないという。「古代から中世初期にかけては、温暖な南九州を除いて、竹林はまだ全国的には広がっていなかった。山野に見られたのは、おもに自生しているササ類であった。畿内やその周辺地域では、立派な竹林は数少なく、ほとんど権門勢家の庭園や特定の荘園で栽培されていたと思われる。竹林の造成技術が各地に伝わり、竹材がいろんな分野で用いられるようになったのは、中世も南北朝を過ぎてからであろう。すなわち、荘園制が完全に崩壊して、農民が自治的な共同体である惣村が各地で形成されるようになってからである。」それでは南九州から拡大させたのは誰なのであろうか。南九州からヤマト政権によって強制移住させられた隼人(畿内隼人)を想定することができる。畿内隼人の役務のひとつに竹細工があり、なお畿内の定住地に竹林が多い点からも、この想定が裏づけられる。沖浦和光が事例としてあげているのは紀ノ川を上って奈良県五条市を更に進んだところにある「阿陀の里」は阿多隼人の強制移住の地であり、見事な竹林が続く。
 あとがきで沖浦和光自身が述べるように、竹の民俗、南太平洋の島々、海洋民隼人、竹細工の歴史が「竹の民俗誌」の4つの柱である。竹の民俗が日本では隼人とのかかわりが濃厚であり、しかも竹の利用を介して南太平洋の島々の暮らしと共通するものが見受けられる。日本人は複雑な雑種であると沖浦和光が引いた鳥居龍蔵の「有史以前の日本」では6系統に分けられている。それは縄文文化を遺したアイヌ、朝鮮半島から入ってきた国津神系の「固有日本人」、南太平洋からのインドネシア系、江南地方などからの苗族、ツングース系の騎馬民族、朝鮮半島の植民地から応神・仁徳期に「帰化」した漢人である。その中で、沖浦和光が取り上げているのは、南太平洋からのインドネシア系として南九州にたどりついた隼人の持ち込んだ文化で、それを竹を介して見ることである。
 「周縁にいた山民系や海民系を動かして武力革命で政権を奪った」天武天皇からはじまる律令国家が整備されてくると、隼人を隷属させてきた隼人司では4つの役割を担わせた。その中には隷属儀式への参加とともに,油絹と竹器の制作があった。
 ここで沖浦和光は「貧窮の民の夢物語として読む」竹取物語に注目する。「『竹取物語』の古層に、サクヤヒメを始祖とする隼人の古伝承があったのではないか。」竹取物語の要素である竹中誕生説話、羽衣伝説、8月15日夜祭が江南・華南から東南アジア一帯、赤道直下の南太平洋の島々に広く分布している。竹の霊力やサクヤヒメ伝承が「国造り神話」として記紀神話に組み込まれたとは違い、隼人に伝わる「もう一つの伝承――竹から産まれた<小さき子>の話は、賤しい竹伐りたちの伝承なので、宮廷では採用されることはなかった。」と沖浦和光は思い巡らす。
 9世紀後半から10世紀はじめに成立したと沖浦和光はみなし、作者についても天武・持統の天皇中心体制という「時勢から疎外され、ヤマト王朝に睨まれていた原作者」を想定している。「藤原不比等に擬せられる車持皇子の奸計がばれる話は、難題説話の中の圧巻である。」「この不比等がこっぴどく愚弄され、なぶり者にされる『蓬莱の玉の枝』の話は、他の四話より長く、しかも念入りに語られている。」「たぶん藤原氏に対して、なんらかの理由で深い怨恨を抱いていたのだろう。」と断言する。論の成り行きとして、断言したい気持ちは分かるが、「竹取物語」の原文(岩波文庫版、阪倉篤義校訂)では「くらもち皇子」となっていて、これを車持皇子として読むことに確証はない、と阪倉篤義は述べている。藤原不比等を暗示したとの確証を沖浦和光は示す必要があると思う。
 竹取ということについての深い洞察を沖浦和光はおこなう。「彼ら竹伐りは、田畑を持たない貧しい民であった。正税や課役をちゃんと負担する公民ではなかった。律令体制では、耕田を持たず税や役を負担しない者は良民とはみなされていなかった。社会の周辺に生きる貧しい民として、さげすみの目でみられてきたのであった。しかし、真面目に働いてさえいれば、いつかきっと良い時節が巡ってくる。一生懸命努力しておれば、かならず思いがけない幸運がやってくる。―――そういう貧民致富譚が、竹取り仲間で信じられていたのであろう。」
 竹取物語が読み継がれてきたのは、王朝貴族物語ではなく、貴族・天皇の求愛を拒み続けてついには月の世界に帰っていくかぐや姫の姿に、現世の制度へ毅然と反発する天女への憧れを抱いたからだ、というのだ。「竹取翁を、貧賤の身分とみたのは柳田国男であった。」この視点を受けて、沖浦和光は論を深めていく。「公民」ではない人びとが長く竹細工を担ってきたことを明らかにする。それは隼人に始まり、被差別部落やサンカにつながる竹細工仕事であった。この視点は沖浦和光ならではの視点である。ただし、竹細工を担った律令時代の隼人から「貧賤の身分」一般へ広げる歴史分析には飛躍があり、あいまいな部分を残している、と感じられる。
 「賤民の生活と生業は、正面から歴史のオモテ舞台に出ることはなかったが、心底ではひとりの人間としての自負と誇りと持ちながら、迫害を乗り越え苦難に耐えつつ生き抜いてきたのであった。」と結んでいく。竹が南九州から隼人によって畿内にもたらされ、それが中世以降に広がっていったという流れを追いながら、それを担っていった貧賤の身分の人びとの夢の物語としての「竹取物語」を解析する手法は見事である。(2005/10/8)
楽書快評
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