楽書快評
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書名 武家の棟梁の条件
著者 野口実
初出 1994年 中公新書
 武士は在地領主として発生・発展して来たという従来の史学に対して、職能的な側面から捉えることで武士の実像に迫ろうとしたのがこの「武士の棟梁の条件」である。野口実は、「はじめに」で次のように分析の方法を明らかにすることからはじめる。
 「従来、幕府論は武士=在地領主という前提のもとに、時の流れにそった形で政治史の対象として研究されてきた。」「武士の政治的結集について考える際、一つの時代の社会を静態的にとらえる社会史の方法、すなわち職能的に武士をとらえる方法が有効であろう。そして最近の職能論的武士論の成果を踏まえると、@狩猟習俗、A呪術的側面(辟邪の担い手)、B武家故実(武家社会独自の儀礼・作法)、C武器論(技術・流通・呪術性)などにその方法は分類できよう。」
 特に注目されるのは呪術的側面の重要性である。これは対人間への物理的な打撃の行使者(人殺し)としての武士の役割ではなく、鬼・鵺退治の伝承に示されるような物怪から天皇や宮中・畿内・王土を守る者としての武士の役割が強調されたものである。
頼政神社(古河) 例えば、酒呑童子説話で知られる源頼光を祖とする摂津源氏は、天皇を守る「辟邪の武」の第1任者であり、呪術的武の頂点に立っていた。鵺退治で知られる源頼政は摂津源氏の嫡流を継ぐ。13世紀末には滝口武士を務める渡辺党を郎党として統括者の立場にあった。1161年 永暦2 4月、伊勢公卿使となった平清盛は、大内守護の源頼政に内裏のケガレを調査させている。また、藤原秀郷の流れをくんだ武芸の名門下河辺氏を郎党として組み込んでいた。源頼政は以仁王を奉じて平家打倒を掲げて敗死したが、源頼朝は幕府樹立後、その子孫を大内守護に任じている。ちなみに源頼政の首は、郎党に守られて常陸国古河にいたって動かなくなった、と伝えられている。呪術的武の頂点に立つ者にふさわしい伝承である。古河には頼政神社がある。古河の近くには下河辺荘がある。東国にまで至った源頼政の首の伝承も、この下河辺荘とのかかわりがあるのではないでしょうか。
 源氏の棟梁的な立場にあり、大内守護であった摂津源氏は滝口武士など、天皇を物怪等から守る武士を内に抱え込んでいた。「滝口は非物理的な外敵から天皇を護る存在であったのである。」「滝口は、このような鬼とかモノノケ・邪気・穢(ケガレ)などから天皇(王権)を守護するという、『辟邪の武』を担う存在だったのである。」「滝口に要求された能力が、むきだしの武的能力ではなく呪的能力であったことを、この事実は端的に物語っている。ただし、滝口の呪的能力とは、類い稀なる武的能力に裏打ちされたものであった。それは、かれらの多くが、奈良時代以来の軍事貴族かあるいは平安初期以来顕著な活動をみせる軍事官僚の氏に属すか、代々弓馬の芸に傑出した武人を輩出した渡辺党(嵯峨源氏と忠文流藤原氏)や辺境で夷狄征伐に活躍した利仁流藤原氏・桓武平氏などの一族から、射芸の試を経て選抜されていることから明らかである。滝口が宿直の時に行った鳴弦は、すぐれた武人が行うことによってこそ、大きな効果があらわすものと考えられたのである。」「辺境はケガレの充満した地であり、化外の夷狄はケガレそのものであった。東国の群党(群盗)蜂起を鎮圧して鎮守府将軍に任じた藤原利仁や、平将門の乱平定に活躍した平公雅、征東大将軍に任じた藤原忠文の子孫の多くが滝口に祗候するにするのは、辺境で物理的な武力を行使して功績をあげた者の血統を引くことが、『辟邪の武』を支えるものとして要求されたからであろう。」
 武士の棟梁としての条件に、この天皇を守る辟邪の担い手であることは必須である。では、大内守護ではない河内源氏が武士の棟梁としての条件をどのように身につけていたか。まず、国家を守護してきた八幡神とのかかわりを詐称する系譜を作り出す。
 「世にいう『清和源氏』(初代経基を清和天皇の皇子貞純親王の子とする)が詐称であり、実は『陽成源氏』(経基を陽成天皇の皇子元平親王の子とする)であったことは研究者の多くが認めるところである。ではなぜ頼朝が清和源氏を称したのかといえば、本来の源氏嫡流で大内(大内裏)守護を家職とした摂津源氏(頼光流)の存在を意識し、河内源氏(頼信流)の祖神である八幡神の擁護によって即位した清和天皇を祖と仰いだのではないかと考えられる。」国家的な呪術性の獲得である。
 ヤマト政権以来、国家的な武力の発揮は、征夷として示されてきた。王化になじむかどうかは、領土的・経済的な把握ではなく「穢」であるかどうかの問題であった。それゆえ、征夷は「辟邪」の問題であったという分析をおこなう。辟邪の武としての征夷は武士の棟梁の条件である。「中近世の日本列島には、武家が公家と並存して国家権力を構成していた。その武家政権の最終的な存在理由が『征夷』であったとすれば『夷』とは何であったのか。『夷』は王化になじまない存在であるがゆえに『穢』そのものであった。しかりとすれば、再び武士の辟邪性が問われることになる。」
 軍事貴族は征夷にかかわってきた。鎮守府将軍である。桓武平氏は上総介として下向した高望王から派生した坂東東部に勢力を築き、鎮守府将軍として奥州への足かがりをつけていった。平将門の乱の後、鎮定した貞盛の子孫が国家の軍事力として中央へ進出した。貞盛の子維衡が摂関家に仕えながら伊勢平氏の祖となった。貞盛の孫で養子の維時は道長や実資に仕えながら紀伊守、常陸介を歴任している。維時の実父維将が相模介を受領していることから、鎌倉に私領をもった可能性がある。鎌倉は郡衙があった相模国の要地であり、房総半島へ渡るための旧東海道では海の道の始点であった。
 1028年 長元元 に顕在化した平忠常の乱は、武門平氏の族長的な立場にあった維時、直方にとって良文流平氏を排除する機会であった。摂関家への働きかけによって直方が追討使、維時が上総介に任じられ、追討支援として平正輔(維衡の子)は安房守に起用された。しかし、忠常追討は失敗し、源頼信がその後を受けて追討に成功し、坂東の覇者になる道を開く。面目を失った直方は、頼信の嫡男・頼義を婿に迎え、義家が生まれた。婿担ぎをしたのである。軍事的実力を父から坂東の武士の伝統的な軍事指揮者としての地位を母方から義家は受けている。源平両氏の統合のシンボルとして坂東を押さえた源義家が現実的な富と幻想の「征夷」とを得るために奥州に触手を伸ばすのは当然であった。この戦略は、数代後の源頼朝によって実現され、武家の棟梁の条件を完成し、そしてこの列島に長く君臨する軍事政権の幕を開いたのである。
 鎮守府は陸奥国に置かれた律令・摂関体制下の軍政府であり、10世紀になると坂東で活躍した軍事貴族を鎮守府将軍に任じた。この時期の鎮守府将軍は平将門の父の良持や藤原利仁である。将門の乱後は平貞盛・藤原秀郷およびその子孫から任用されている。出羽国の軍政官として秋田城介が置かれ、これには平貞盛の弟・繁盛の子孫が多く任じられている。11世紀前半になると鎮守府将軍は任じられず、この時期は俘囚の首長である安部氏が台頭して来た時期である。この安部氏が衣川関を越えて勢力を伸ばすに至って、源頼義を鎮守府将軍として任じた。前9年の役が始まる。しかし、その後、俘囚主であり安部氏滅亡に力のあった清原武則・貞衡が鎮守府将軍に任じられた。清原氏嫡子である真衡は後継者として海道小太郎成衡を養子に迎えたことから内紛が勃発した。これに介入して奥州への勢力拡大を狙った義家の私戦が後三年の役である。平繁衡の子安忠に発する海道平氏の出身である成衡が養子に迎えられ、その妻に源頼義が常陸平氏多気権守宗基との間にもうけた娘を配した。清原武則が清原氏にあっては庶子にすぎないのに多数の動員を可能としたり、鎮守府将軍になれたのは、彼自身もこの海道平氏の出身ではないかと野口実氏は推断している。(中世越後国奥山荘の地頭であった中条家に伝えられた桓武平氏諸流系図に貞衡が号岩城三郎大夫の傍注があることに基づいて)。「やはり清原氏は海道平氏と一体だったとみてよいのではなかろうか。」と。
 奥州の略奪を狙った源義家の仕掛けた後三年の役の果実は、清原清衡改め藤原清衡(父方の姓)に手に落ちた。鎮守府将軍を世襲した秀郷流藤原を名のったのである。衣川南の平泉に本拠も移した。世が平氏に移った時代になり、清衡、基衡と続いて秀衡になると前陸奥守兼鎮守府将軍藤原基成の娘を迎えて、中央政界との足かがりをつけた。基成の妹は関白藤原基実である。一度は京に戻った彼は平治の乱の首謀者藤原信頼の兄であったために再び陸奥に流されてきていた。1170年 嘉応2に鎮守府将軍に任じられた。こうして奥州の自治が源氏の介入を乗り切って維持されてきた。しかしそれは武家の棟梁に至る道ではなく、平家との事実上の分割支配しか意図されていなかった。
 平家を物理的な武力によって排除し、日本の統一を図る清和源氏・源頼朝は、征夷大将軍に任じられることで奥州藤原氏への武力介入を行う。平氏や藤原氏も担ってきた征夷=辟邪の武である鎮守府将軍を上回る国家的な呪術性は、征夷大将軍でしか得られない。これにこだわったところに、源頼朝の政治的な卓越性がある。
 職能としての武士を分析することによって、物理的な力を持っていてもそれが武士の棟梁としての条件を満たすわけではないこと、政治的な権力には王朝貴族たちが築いてきた幻想の中で役割を担うこと=辟邪の武、によってはじめて条件を満たすことになる。これを野口実は「武士の棟梁の条件」で示した。(2005/10/14)
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