楽書快評
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書名 古代東国の王者
著者 茜史朗(熊倉浩靖)
初出 1985年 あさを社
 上毛野、あるいは下毛野という地方の名を負った氏族が古代中央政界で活躍している不思議を、その特異な名が出るたびに思っていた。それを解き明かしてくれたのが「古代東国の王者」である。そしてこれをダイジェストしたような「上毛野(かみけぬ)氏と東国六腹の朝臣」(熊倉浩靖 「東国と大和王権」所収 原島礼二、金井塚良一編 1996年 吉川弘文館)である。東国六腹の朝臣とはなにか。「事実、上毛野朝臣は、祖を同じくすると称する5つの氏族、下毛野朝臣・佐味朝臣・池田朝臣・車持朝臣・大野朝臣とともに『東国六腹の朝臣』と称されてきた(『続日本紀』延暦10年4月5日条)。この6氏は、畿内出身の有勢氏族とともに、684年(天武天皇13)に早々と最高の貴族の位『朝臣』(あそみ)をならんで得ており、7世紀後半から8世紀前半にかけて四位に昇りうる中級貴族の地位にあった。畿内以外の地から最高の貴族と成りえた氏族がほとんど存在しないことを考えれば、得筆に価する事実である。そしてまた『毛野六腹の朝臣』ではなく『東国六腹の朝臣』と呼ばれたことも注目される。」(「上毛野(かみけぬ)氏と東国六腹の朝臣」)と述べている。東国を代表する特異な氏族集団であった。
 東国のこの6氏族の共通の始祖は、東国を治めに来た伝承をもっていた。「『日本書紀』に見える上毛野始祖伝承においても同じであって、『(上毛野氏らの祖)豊城命(とよきのみこと)を以って東国を治めしむ』(祟神天皇48年条),『(御諸別王 みもろわけのみこ)其の子孫、今に東国にあり』(景行天皇56年条)などと書かれている。そして、豊城命の孫で御諸別王の父という彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の屍もまた『東国百姓』により運ばれたと伝わる。もっとも、その中心地域として上毛野国が意識されており、彦狭嶋王の屍が運ばれたのは『上野国』であったと云う(景行天皇55年条)。」(同上)
 このような共通の始祖伝承は、実は東国にいる六腹朝臣のみではなく、次の二つのグループにおいても見いだすことができる。一つのグループは田辺史をはじめとする渡来系氏族である。このグループには田辺史をはじめ住吉朝臣、池原朝臣、桑原公、商長首(あきおさのおびと)、河合公である。
 もう一つは紀伊・和泉グループである。もうひとつのグループは紀伊国を始まりとして摂津などに土着している氏族である。佐代公,珍県主、登美首、葛原部、茨木造、丹比部、軽部、我孫公である。
 このような3グループの分類から、茜史朗は次のような推断を下す。「上限は定かではないが、遅くとも五世紀までには、和歌山県紀ノ川流域を中心とする地域に確固たる勢力を張る集団があった。その集団は『荒河戸畔』の名と、倭王権が確立されはじめる頃の倭王を擁立したという伝えを持ち、自らの始祖伝承のモチーフは、ここに根ざすと考えられる。この勢力は、倭王権中枢との密接な関係を保ちながら、五世紀には和泉・摂津・広義の河内方面にも力を伸ばし、そこでの氏族形成を開始する。これが紀伊・和泉グループの母胎である。」
 「彼らの中からは、朝鮮諸国に派遣される人々が現れた形跡がうかがわれ、五世紀後半頃に、彼らの一員である多奇波世君が百済(勢力圏)との交渉に関与した可能性が高い。『日本書紀』にいう荒田別・鹿我別の朝鮮派遣伝承や荒田別・巫別(かむきわけ)による西文氏の始祖王仁招請伝承も、こうした流れと関わりを持つと言ってよい。そして、そうした伝えを、古代の貴族・官人層が広く認めていたことも注目に値するところである。
 朝鮮に渡った人々の一部は、朝鮮の人々と関係を結び、五世紀後半以降、朝鮮(主として百済勢力圏)で氏族形成を図ったと考えられ、やがて600年前後から、彼らの後裔を名のる人々が再渡来し、摂津・河内地方に定着する。その人々か形成するグループが多奇波世君・男持君グループである。」
 「一方、五世紀の倭国の政治構造の中で、上毛野氏関係氏族母胎集団は、東国(古代貴族の意識にいう『関東』で、越地方を含む)諸勢力との結合を深めていった。彼らの東国に対するかかわりは『王族将軍』に近いものと推測され、いわば『東国都督』権を付与されたような形で東国諸勢力との関係を強化していったと考えられる。
 やがて、倭王権中枢の変貌などにも規定されて、紀伊・和泉地方での力を弱めた上毛野氏関係氏族母胎集団は、500年前後辺りから、東国諸勢力との結合に氏族形成の重心を移し、東国諸勢力に包摂される形で氏族形成を図っていったと推測される。上毛野君小熊が上毛野君と呼ばれた最初の上毛野氏であることは示唆的である。」
 つまり、紀ノ川沿いにはじまった氏族は、紀伊国の一部であった摂津などに進出。その過程でヤマト大王家に協力したが、大王家内部の政権交代によって東国での氏族確立を余儀なくされる。その後、天武天皇以降の律令国家確立過程で地方豪族としては中級貴族として尊重される。これが、他の地方豪族と分ける理由だというのである。ここまでの展開は読み応えのある古代史ストーリーである。なお「毛」は「紀」が変わったものだという論者もいる。
 この氏族は、古代中級貴族として活躍をする。684年10月天武天皇は八色の姓を制定し、継体天皇以降の皇親族を真人とし、朝臣賜姓した氏族52氏のうち、上毛野氏は6氏を数える。四位相当の中級貴族。それは文武官の両面があり、それぞれ実績を歴史に残している。軍事的には対蝦夷、及び朝鮮半島とのかかわりである。日本書紀の天智天皇2年条には白村江に臨むヤマト政権は3軍を発した。前将軍には上毛野君稚子、間人連大蓋。中将軍には巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂。後将軍には阿部引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄が派遣されている。上毛野君稚子が派遣された要因としては東国からの人員の動員の要素とともに、朝鮮交渉や軍事にかかわりの深い氏族からの任用という要素も著者の茜史朗は考えている。壬申の乱における東国六腹の動向としては軍事面で両陣営から尊重されている。大津政権側に立つ田辺史小隅は7月5日伊賀越えの奇襲部隊を率いて倉歴(くらふ)で田中臣足摩侶の軍営を襲い、さらに進んで6日にはたら野の多臣品治を襲ったが遮られて敗走している。同じく大津政権側の大野君果安は奈良方面軍の指揮官であった。7月4日、乃楽山で大伴吹負を破るも、倭古京防衛戦の堅さを見て引き返している。果安は持統朝になると直広肆(従五位)糺職大夫となり、その子東人は蝦夷への征服戦で活躍している。大海人皇子側に立った左味君宿那麻呂は大伴連馬来田、吹負からの誘いに応じて初動の数十人の一人として河内方面から大和に侵入しようとする大津政権軍へ対峙した。彼は「天武天皇14年(685)に山陽使者として巡察、また持統天皇3年(689)には撰善言司に選ばれている。」その後の蝦夷対策では、上毛野朝臣の関係氏族が東国という地域を支配していることから盛んに用いられている。「『壷の石碑』の名で親しまれてきた多賀城碑によれば、神亀元年(724)、『按察使兼鎮守府将軍従四位上勲四等大野朝臣東人』によってつくられたという。この大野朝臣は東国六腹の一氏族である。大野朝臣東人は太平洋岸の多賀城から日本海岸の出羽柵まで蝦夷の拠点男勝村(雄勝)を抜いて直道を通すことを図る。出羽柵から対応したのは同じ上毛野氏族の出羽国守田辺史難波であった。しかし、蝦夷の反発を恐れて直前になって引き返した。その行動は高く朝廷から評価され、その後、藤原広嗣の乱の平定にも用いられ742年 天平14年には参議従三位にまで昇った。」軍事貴族として歴史に現われる大野東人も、東国六腹の一族である。
 文官としてはどのような実績が上げられるであろうか。天武朝史局への参画としては上毛野君三千、及び大宝律令撰定作業への参画としては下毛野朝臣古麻呂が実務統括者として名前が挙がっている。このように律令体制を軍事、法制・史官として担った氏族として上毛野朝臣関係の氏族がいる。内政においても渡来系氏族を含んだ氏族として律令国家体制の確立に励んでいる。例えば、新たな国や郡の創設に積極的な姿勢を見せている。
 「美作国は和銅6年(713)、備前守百済王南典と同国の介上毛野朝臣堅身の上申によって新設された国で」「その初代国守に、新設を上申した上毛野朝臣堅身が就任している。」「美作国の前身は、『日本書紀』が、欽明天皇16年(555)に置かれたと記す白猪屯倉(しらゐのみやけ)である可能性が高く、鉄生産という特殊な役割を負っていたらしい。」「つまり、美作国の新設は、その地に『定住』していた百済系渡来氏族集団を中心とする人々とその定住の地を、国家意志にしたがって支配する政策と考えられるのである。百済王族の流れをくむ百済王南典が、その新設に関与したのは、それなりの理由があるとしてよいだろう。同様のゆかりが、上毛野朝臣堅身、さらには上毛野氏族関係氏族にも感じられる。その点に、さらに踏み込むためにも、上野国多胡郡の新設事情を考えてみる必要がある。」「多胡郡は、隣接する甘良郡(かむら)とともに古い層の渡来人の定住地であるが、古墳のありようなどから、甘良郡などから押し出されてきた新羅系渡来人を主とする人々によって、7世紀代に開かれた新開地とする考え方が一般的である。また貫前神社(ぬきさき)の祭祀圏をめぐる問題から、多胡郡地域への新羅系渡来人の展開は、碓井郡に本拠を持つ石上部系集団の南下、甘良郡への展開によって引き起こされた後推論されている(尾崎喜左雄前掲論文)。」これは地方史を地方史に終わらせるのではなく、一氏族のグループを横糸としてつむいだ全国的、東アジアを含んだ広がりを感じさせ多胡碑覆堂多胡碑説明る茜史朗の視点である。上野三碑といわれる多胡碑、山ノ上碑、金井沢碑がうまれる地域的な文化の高さもこのような広がり抜きには考えられない。
 同じく東国六腹のひとつである下野国の下毛野君の本拠地は西暦500年を前後して足利・安蘇地域から都賀・河内地域へと移す。「大宝律令選定の中心人物、実務統括者であったとしてよいであろう。」(茜史朗)といわれる下毛野朝臣古麻呂が7世紀後半下野薬師寺跡に建てられた下野薬師寺には関与している。やがてここには天平宝字6年(762)には、東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ全国三戒壇のひとつが置かれる。宝亀元年(770)には道鏡がここに別当として流される。
 上毛野朝臣関係氏族の古代史における異様な位置について深みのある診断を茜史朗は論述した。だが、このような中級実務官僚としての活躍は、徐々に歴史の中から消えていく。平安時代になって名前が出てくるのは「足柄山の金太郎」であろうか。近衛府の官人・下級役人(舎人)として著名なのは下毛野(しもつけぬ)、播磨、尾張の三氏である。「近衛官人としての下毛野氏の地位を確立してのは、朱雀天皇代に馬芸で活躍した敦行、ついで著名なのは『足柄山の金太郎』のモデルとなった公時で、かれは藤原道長の随身として活躍、寛仁元年(1017)相撲使として筑紫に下向中、わずか18歳で夭折している。公時は、近衛府官人が近衛の馬場で行う正式な騎射である真手結の『堪能者』であるとともに相撲にも強く、さらに歌舞の上手でもあった。その死を知った道長は日記に『只今両府(左右近衛府)の者のうち第1の者なり、……憐れむ者ははなはだ多し』(「御堂関白記」同年8月24日条)と惜しんでいる。」「下毛野敦行の家宅が右京にあったことが知られるように、完全に都市民化している。」(「武家の棟梁の条件」野口実 1994年 中公新書)平安時代に実在した下毛野公時という近衛の官人が中世の源頼光の四天王の一人に伝説化され、近世になって足柄山と結びついたのである。
 上毛野朝臣関係氏族を概括するのに、茜史朗((熊倉浩靖)は国家意思のあり方を問うている。中級貴族として、律令国家形成期に積極的に寄与した氏族として強調している。このことが氏族のローカルな歴史ではない論点を浮き出させているといえよう。だが、その氏族も古代の多くの氏族と同じく律令制度の確立とともに役割を終えていく。それは「古代東国の王者」が在地性を失ったところで、東国の王者ばかりではなく、中央でも姿をかき消されていく運命に至った。それは「古代東国の王者」が西国に対抗する位置にいなかったことが起因している。(2005/10/22)

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