■2010/7/31〜8/8
のんびりしました。体調はすこぶる悪く、ほとんどお酒を飲むことができませんでした。31日、昼、川上庵で鴨せいろ。夜、ささくらで天丼と蕎麦、食べすぎ。1日昼、げいんで1000円の昼食。3日、山桜で昼食、久しぶりに「御湖鶴」を飲む。「さみしいネコ」「華栄の丘」を読む。4日、昼食はくろがねで定食。「資本の帝国」を読む。5日、昼食はせんで蕎麦。「学校と社会」を読む。6日、昼食、くろがねで定食。7日、昼食はドルチェ、桃のスープがおいしい。8日、昼食は酢重。ドメイヌ・ソガを頂く。指圧を受けてから帰路に着きました。
■2010/7/27
文部科学省と総務省との話し合い。地方自治法210条の規定を知らん振りの言い方にカツン。懇親会はどういうわけかこの暑い最中になべでした。
■2010/7/24
若い同業者と大宮で話しをしながら蛸の卵や鹿の肉を頂きながら越生の「さざなみ」を飲みました。楽しいひと時でした。
■2010/7/23
Oさんと浦和で3軒回りました。無愛想で美味しいお店から始まり、次に少し高いけれど素材のいい店で岩がきを食べながら日本酒を少々、最後に「なんやかんや」で締めて今夜も終わりです。
■2010/7/17
高田馬場で、小さな研究会です。クラウド化の問題を提起してみました。問題と感じる人が少なくて残念です。高田馬場にある「心」というところで日本酒を楽しみました。ここはお刺身の美味しいお店です。
■2010/7/10
今日も神田神保町のS大学で、5月に行った集まりの反省会がありました。ゆっくりと飲んで、さて明日は参議院選挙です。
■2010/7/9
二十歳の頃から友人Sさんと久しぶりの飲み会。浦和が好きで引っ越してきました。無愛想な行きつけの店で昔話が尽きませんでした。
■2010/7/3、4
神田のS大学での小さな集まり。2次会まで出て、帰りました。
■2010/7/1
浦和駅東口のパルコの上の会議室で会議後、沖縄料理の店に入って楽しいひと時。浦和に沖縄料理をしっかりといただける店があったことは初めて知りました。
■2010/6/8
退職した上司I氏を祝うささやかな会に参加しました。総勢5名。昔話に花が咲き、又退職後の身の処し方についても教授を受けました。「さみしいネコ」を是非読んでみろと話してくれた大先輩U氏とはさらに2次会に回り、ふと気がつくと午前3時を回っていました。次の日の勤務は、いるだけという状態でした。人生の先輩たちの恐るべきパワーを見た思いです。
■2010/5/22―23
神田のS大学で集まりです。久しぶりに会う顔、思いもかけずに会える顔、疲れも飛ぶような楽しさです。集まりそのものは反省することが多々ありました。民主党政権はさまざまな人たちの期待を受けて成り立ち、当然期待に応えられずに評価を落としています。
■2010/5/2
ゆっくりした日々が続いています。山桜で極上の昼食です。息子と一緒の庭仕事も楽しいものです。
■2010/4/23
和光のはんなりやでT氏が持ち込んだドメイヌソガを楽しみました。極楽でした。
■2010/3/20―21
鎌倉に遊んで、泊まりは大磯プリンスホテルです。大嵐で海からの風が音を立てていました。釈迦堂の切通や竹寺を楽しみました。
■2010/2/13―14
関西のK大学で集まりがあり、一泊して南禅寺から琵琶湖疏水にそって哲学の道を歩き、銀閣寺まで至りました。学校歴史博物館にも寄ってみました。旧い町が近代化を必死に受け入れようとしたけなげさを感じました。近代公教育も琵琶湖疏水と同様に近代遺産となっているに違いありません。
■2010/1/29−31
福井へはじめていきました。会合後の懇親会では、昔お世話になった福井のMさんに案内してもらって繁華街を歩きました。次の日はT氏の運転で東尋坊、丸岡城址、新田義貞墓碑、朝倉館跡を忙しく回って古跡を堪能しました。
■2010/1/3
私の父は、姉の家で、正月の料理を食べてはまた寝る。しばらく寝てはまた食べる96歳になりました。
■2009/12/19〜20
24年ぶりという大雪の新潟に行きました。寒さに震え、海鳴りの音を聞きながら、砂防林を築いた川村修就に敬意を表しに砂防林に入りました。派遣されて来た官僚のことなど忘れてしまった地元の人もたくさんいると思います。地元の本屋さんをいくつか回りましたが、川村修就の本は一冊もありませんでした。
■2009/11/28〜30
山口市に一泊した後、兵庫県福崎町に至り、柳田國男の実家・松岡家に伺いました。兄弟とも一つの枠に入らないような多芸の持ち主の一家であったようです。途中に生野銀山跡を見、さらに進んで目的地の朝来市の竹田城跡を対岸の立雲峡から眺めて2泊目の和田山に到着しました。西国まわりでは岡山のK氏、山口のT氏がいつも一緒です。豊富な薀蓄を聞きながらの旅は楽しく、日常の時間を忘れることができます。恐れていた天気ではなく、次の朝は濃い霧がかかっていました。雲海に浮かぶ日本のマチュピチュ・竹田城跡への思いが募ります。30日早朝、朝食もとらずに藤和峠に向かいます。眺めるのは雲海の上に浮かぶ竹田城跡、標高353M縄張南北400M東西100M。最後の城主である赤松広通が積んだ太穴積み構築の石垣が見事に残っています。さて次は竹田城跡に足を踏み入れる運びです。城跡に登ると下は円山川から上がってきた霧で見事な雲海が広がっていました。しばらく散策して堪能した後は、早めの昼食を頂いて帰路です。鹿丼を頂てさて、明日は下界の仕事にもどります。
■2009/10/27
書評NO0001、0067、0145に写真を載せました。昨日まで行っていた「天地人」旅行で撮った写真です。春雨庵が補修中であったのは残念です。
■2009/10/26
台風の影響で朝から雨。村上市は信濃で武田氏と死闘を演じた村上義清が上杉を頼って得た新たな領地でした。今日では鮭と瀬波温泉で有名です。雨の中、雲洞庵を訪ねました。雨にもかかわらず、たくさんの大型バスが停車しているような盛況です。たくさんの古文書があまり管理されている様子もなく並べられていました。NHKの「天地人」ブームでえた拝観料を古文書の維持管理に使ってほしいと願う気持ちで一杯です。
帰りには越後湯沢の「中野屋」で蕎麦を頂いて帰路に着きました。
■2009/10/25
昨晩はTさんが持ち込んだワインを飲みすぎて、不調。上山に来たら見たいと思っていた沢庵和尚の流配の庵・春雨庵を見に出かけました。残念ながら屋根の吹き替え中でした。沢庵は出石の秋葉家の出身。相模の三浦家の一族で、新補地頭として備中松山城を拠点とした秋庭の流れです。徳川家康の宗教弾圧(統制)に反発して,上山に3年間流配されました。その後、徳川の保護下に品川に壮大な東海寺を与えられ飼い殺しのような後半生を送りました。吉川英次の描く宮本武蔵の師としての姿とは大分違います。品川は秋庭の苗字の地とも近いところです。沢庵和尚の話はこれくらいで、関が原と同時に進められた奥州での上杉と最上・伊達の戦いの激戦地・長谷堂をめぐって雪を頂く月山を遠く眺めながら酒田への山越えの道を走りました。酒田では豪商の本間家、鐙屋の家のつくりを見、鈴政で寿司を食べて、鶴岡へ。鶴岡は藤沢周平が歴史小説の舞台としたところです。こじんまりとした感じによい町の眺めでした。その後は日本海に沿って山形県から新潟県へ、村上市の瀬波温泉でもう一泊。曇天のため、夕陽を眺めることはできませんでした。
■2009/10/24
和光のTさんに迎えに来てもらって、Mさんの家まで。Mさんの車で直江兼続の旅に出発。月曜日を休みを取って今回も土、日、月の旅行。天気は上々。会津若松では、飯盛山にあるさざえ堂です。らせん状になっている堂内が特徴の寛政年間に建てられた観音堂です。廃仏毀釈の影響で三十三観音はありません。ただ螺旋上の構造物をサザエに喩えて、面白みを味わうだけです。さざえ堂を堪能したので、会津若松城を見に行きました。紅葉したつた類の趣に、再建された城も風情があります。神指城(こうざしじょう)は建築半ばで放棄された城跡があります。城跡を見た後は、米沢まで峠越えです。紅葉の山は見ごたえがありました。米沢では上杉神社、ここには直江の「愛」のかぶとがあります。直江夫婦のお墓のある林泉寺に詣でて、吉亭で米沢牛のしゃぶしゃぶ。食後はこの旅で一番見たいと思っていた直江堤を見ました。大事なのは治水です。今日は上山温泉で一泊です。
■2009/9/26.27.28
26日、ある雑誌のMさんへのインタビューアをしました。終るとお決まりの一杯、また一杯。
次の日は、午後から泊まりの協議会。延々と時計が28日を指すまで喧々諤々。そしてまた一杯、さらに一杯。28日は10時まで昨日のまとめ。貸し切りバスで会場を移動して、ある研究学会の創立総会への参加。総会行事とシンポジウムが済めば、さらに一杯。懇親会場で撮った写真はいずれもピンボケの顔が楽しげに揺らいでしました。場所を変えてかつて学会の設立を話し合った酒場でなお一杯。創立は始まりの合図にしかすぎません。設立した学会で次の仕掛けが始まります。もうじき人間ドックです。酒の入ったお腹でドックに行くのは気が引けます。
■2009/9/21
シルバーウィークだそうです。シルバー世代なので、楽しむことにしました。赤白のコスモス、白い蕎麦の花、真弓の赤い実など高原の景色を堪能しました。吉川幸次郎の「杜甫私記 第1巻」は高校の折に教師に進められて購入したまま40年以上が経ちました。ようやく読める歳になり、第1巻が杜甫が杜甫として革新的な詩を歌うにいたる苦難の始まりを叙したものであることが分かりました。杜甫44歳。安禄山の反乱に先立つ数日前、微官に任じられた杜甫は奉先県に預けていた妻子を見舞うべく旅立ちました。その折の長詩「京より奉先県に赴くときの詠懐五百字」の終わり近く悲しみが杜甫を襲います。わが子の今亡くなったのです。「門に入りてさけびなくこえを聞くは 幼子の餓えて巳に卒り(みまかり)しなりけり 吾れ寧ろ捨んじて(あまんじて)一たび哀かん 里巷も亦嗚咽しぬ 愧ずる所は人の父と為りて 食無くして夭折を致きしを」と。だが、杜甫はふり返って自分は士族であるため租税や軍役の義務も無い。「平の人(つねのひと)」の悩みを歌って国家の将来を嘆くのでした。その嘆きは現実のものとなり、杜甫も長い放浪の末に病に倒れることとなります。日本の詩歌の残念なのは、個人の悲しみや喜びを、その社会的な背景とともに歌う蓄積が無いことです。
■2009/8/30
ようやく600ページに及ぶ「リオリエント」を読み終わりました。大変面白く、私たちが右も左もヨーロッパ的な思想体系の中で物事を見ているのだと反省しました。これから衆議院選挙の投票に行ってきます。
23日に作文をひとつ出稿して、8月24日に熊本に入り、午後の会議では白熱した論議、そして楽しい宴会(熊本の香露を飲みました)、そして2次会。胃の疲れを抱きながら、新幹線で鹿児島に25日入り、午後からは別の研究会です。研究会が終ると楽しい宴会(ただしほとんど飲めませんでした。)、そして20年ぶりくらいのカラオケ。26日は午前中はまた研究会、ようやく終って鹿児島一周の旅が始まりました。鹿児島市から150円を払ってカーフェリーで櫻島に。さらに大隈半島を南下してMさんの出身小学校をみて、「山川・根占フェリー」で指宿へ。もちろん砂風呂に入って、心置きなく延々と宴会です。だれが一番タフなのか、そんな気持ちを持って最終日27日を迎えました。開聞岳中腹の公園に放牧されているトカラ馬を見に行きました。眼下には東シナ海が広がる中で草を食む馬の様子は美しい絵でした。さらに車は鑑真和上の上陸した坊の津まで走りました。ここは江戸時代には幕府の目を逃れた薩摩藩の密貿易の拠点だったそうです。どこにでありそうな小さな港です。歴史に名を残すような雰囲気は今ではありません。さて、ここから知覧の茶畑を眺めながら車はようやくひきかえすことになりました。一度行ってみたいと思っていた知覧の城下町を歩いて、軽くお蕎麦で昼食。そして一路、鹿児島空港へ。駆け巡る中年でした。
■2009/8/19
浦和のパルコ内にある図書館で「リオリエント」(A・G・フランク)を借りて、O氏と待ち合わせ場所に。「うみぼうず」で岩がきを食べながら長い飲み会の始まりです。うみぼうずでは、始まりに個別にくるこんろで突き出しを炭で焼いて食します。美味しい魚介類が食べられます。日本酒は「梵」などは置いてありますが、もう一踏ん張りです。
次のお店は「なんやかんや」。ここは珍しい日本酒が置いてあります。静岡の「開運」の杜氏・波瀬正吉の名前の入った日本酒を、タンクごとにのみ比べをさせてもらいました。同じ銘柄でもタンクごとにこれほどの違いがあるのか、驚きでした。ニッカの余一工場でもタンクごとのウイスキーを飲ませてもらったことがあります。日本酒でもこのような相違があり、新たな日本酒の楽しみ方として嬉しい話です。
■2009/8/6
佐久行。小諸から小海線に乗り換えて2両編制のローカル電車は結構人でにぎわっていました。まず目指すは西洋式城郭・龍岡城址です。龍岡城という駅に降り立つ。朝から暑い。木陰のない一本道を歩くと龍岡城の枡形が現れました。そのまま、龍岡城址に向かっても良いのですが、左手にある蕃松院に寄っていきます。大改修中であるので中まで入れませんでした。門前の松並木のくねったつくりが印象的でした。そのまま、黒塀の続く街道を新海三(しんがいさん)社神社まで歩く。子燕が巣から顔をのぞかせて餌をねだっていました。頭の上には数羽の燕が舞っています。山すその森閑としたなかに佐久郡三庄三十六郷の総社である新海三社神社の大きな社を臨む。東本社と三重塔は国の重要文化財に指定されています。特に三重塔は見ごたえがありました。三層のひさしには大きな蜂の巣もあり、古社の雰囲気を漂わせています。
取って返して、雨川のほとり、星型の龍岡城址に向かいます。函館の五稜郭と同じコンセプトによって作られた江戸末期の西洋式城郭の跡です。大給系松平氏の最後の大名である乗謨(のりかた)によって築城されました。幕末にあって彼は勝海舟とともに江戸幕府の陸軍総裁を務めた人物です。誰に向かっての築城であったかは明らかです。元治元年3月着工し慶応3年4月竣工。総費用は4万余円。城持ち大名ではなかったので五稜郭の中は陣屋でありました。その一部である御台所は現存しています。前日に佐久市役所にお願いしておいたところ、現地で案内の方が「であいの館」で待っていてくれて、御台所内を見せてくれました。立派な梁に支えられた2階建ての御台所は明治5年の学制発布後、学校として使用され、現在、五稜郭内は校庭として使われ、別に小学校が建っています。敷地内には長岡戦争に明治政府軍として従軍して亡くなった三名の兵士を祀るにはじまる招魂社も建っています。激動期の微妙な立場の入れ替えを見る思いがしました。また、陽の照る中を龍岡城駅まで戻りました。疲れて口数は少ない。
小海線で滑津(なめず)で降りました。駅前の「鯉勝」で昼食。鯉のコース料理。空は雨雲を持って来ました。急いで旧中込学校を訪れました。1875年(明治8年)12月落成、小林寺にあった成知学校を移転しました。木造2階建寄棟造・桟瓦葺・八角塔屋付の校舎です。1階には半円形、2階には円形のステンドグラスがはめ込まれ「ギヤマン学校」と呼ばれていたほど瀟洒な西洋式校舎です。子どもたちは、校舎という最大の教材によって近代化を身につけたのであったことでしょう。展示されている教科書には「皇后陛下が病院に慰問する」場面が広げられていました。月謝30銭との領収綴りもあり、今日と同じく金のない家の子どもたちは公教育を受けらない状況となっていたこが窺われました。ギヤマンのステンドグラスから差し込む光によって進められた天皇制近代公教育は、全ての子どもたちに近代化を身につけて立身出世する方策は与えたのではなかったのです。降り始めた中を滑津駅までまた戻りました。
滑津駅からは2人の若い女の子の乗りました。髪を金色に染め、短いスカートをはいた彼女たちは新幹線の新駅佐久平で降りりました。ヨーロッパからの旅行客が、日本にはこんなにも娼婦があふれて入ると驚いたとの話を、そこだけ都会が持ち込まれたような平成の文明開化の街の風景を見ながら、思い出しました。
■2009
/8/4
「山桜」で食事。ご飯は土鍋で炊いていました。炊き上がる間の酒は小布施ワイナリーのドメイヌ・ソガ。地の物の野菜に、刺身。そして金目の甲の煮付け。
「天地一沙鴎」(旅夜書懐)。安禄山の反乱によって運命は杜甫を蜀の地に導いたといわれています。諸葛孔明を偲んで「登楼」を杜甫は歌います。「日暮 聊か為す 梁甫吟」。孔明が田を耕しながら吟じていたという「梁甫吟」を杜甫もまた吟じるのでした。その梁甫吟は漢代の無名氏によって、春秋時代の斉の宰相晏氏が「二桃三子を殺す」故事を、歌われたものです。晏嬰、諸葛孔明そして杜甫、いずれも風采の上がらぬ風体をしていたといいます。
■2009/8/3
小諸行です。布引観音を下から登り、一汗かいたところで観音堂から深山一面の緑を望めました。善光寺、別所温泉の北向き観音、そしてここ布引観音をお参りすれば、ご利益は確実とのこと。全てまわりました。布引観音の大黒さんに道を聞き、なだらかな稜線の道を歩いて「あぐりの湯こもろ」まで30分。露天風呂からは湯ノ丸山あたりから浅間山まで眺望することができました。コーヒー牛乳を一気に飲んで、次は小諸ワイナリ―に向かいます。
マンズワインが開いているワイナリーで、まずは貴腐ワインを頂く。カビを葡萄につけて水分を減らし糖度を増した、上品な甘さを持つ食前酒です。見晴らしの良い二階のレストランでゆっくりと昼食を頂く。向こうの丘には先ほどまで居たあぐりの湯こもろが見えました。だいぶ機嫌が良くなったところで、併設されている3千坪の日本庭園「万酔園」で酔い覚ましを兼ねてE-620で風景を切り取ってみました。
日が傾いたころ小諸市内に戻りました。整備された北国街道をぶらつき成田山光岳寺で曲がって、古本屋「りんどう書店」で時間をつぶした後、「刻」で田舎そばを頂きました。若い主人によるしっかりとした歯ごたえのそばに満足しました。酒は島根の「王禄」を飲みました。この近くの酒蔵元の酒がおいてないのが残念でした。駅前は「停車場ガーデン」が整備され3百種の草花が植えてありました。新幹線が止まらないためにハンディーとなった状況を打開しようとする意気込みを感じました。駅の無人販売で「米茄子」を購入して信濃鉄道に乗って帰りました。
■2009/7/9
秋葉原で総合環境研究会に参加しました。私も含めて歳もだいぶとった人たちが「わかば亭2」という一室に集まって、持ち寄りのつまみとお酒で、わいわいがやがや。懐かしい青春時代にもどったような気になりました。12日に行われる都議選、石原都知事が進めているオリンピック誘致、などなど。出版社に勤めるK氏が業界の様子を報告し、それにブックオフの話や電子化の話などいろいろな話題が飛び交いました。
■2009/7/4―5
香川県善通寺市に行ってきました。空海の生れたところとされる善通寺にも行って来ました。いたるところにうどん屋のかんばんを見ました。讃岐うどんを二箇所で頂きました。住んでいる埼玉県も、うどんを食べることがさかんなところです。関東の味付けがやはり口に合います。
■2009/6/20
久しぶりに息子が帰ってきました。お土産にラム酒:ロンサカパセンテナリオ23年、40度の度数も気にならない甘さと後味のきれがありました。様々に気がかりなことは尽きないのですが、しばし、ラムで忘れることができました。
■2009/5/6
この連休は久しぶりにゆっくりとした気持ちになりました。合鴨の卵を手に入れて食べてみました。鶏よりはやや大きめで、濃厚な味でした。また、雨の降った6日は川上庵に寄って鴨鍋蕎麦で体を温めました。酒は伝法。明日からまた塵網。
■2009/4/30
定年退職した岡山のK氏から「帰園田居」の手紙がきました。まだ塵網の中に落ちている身としては、羨ましい限りです。酒を飲まないT氏ですが、すでに「欲弁己忘言」の境地でしょうか。
■2009/4/17―19
昨年の10月のリベンジです。札幌から小樽、そして積丹半島の先の神威岬まで行ってきました。札幌では地元の仲間の歓待を受け、小樽では海猫屋でワインなどを頂き、そこから紹介を受けて大和屋で寿司を食べました。さてその先はもう一軒回って日本酒を頂いたのですが記憶がありません。海猫屋は雰囲気のあるお店で、村松友視の小説「海猫屋の客」の舞台となったところです。神威岬は行った甲斐のある神秘的な岬です。帰りは余市のニッカ工場に寄って、ウイスキーをお土産に買って帰りました。長い道中を運転してくれたT先生をはじめ思い出深い7人の旅でした。
■2009/2/14―15
長野県小布施でワイナリーによって小布施堂付近の蔵部で昼食を食べ、それから山田温泉風景館で一泊、次の日は須坂まで出て田中本店「豪商の館」や元・牧新七家を見ました。小布施ワイナリーでは日本酒がまだできていないのでとても残念でした。昼食まで時間があるので一緒に行った「はんなりや」の主人T氏と桝一市村酒造でしばし利き酒をしました。鞍かけ豆をうけにおいしいお酒を頂きました。カウンターの向こう側とこちら側との段差のないつくりに興味をおぼえたT氏の気持ちにお酒も弾みました。昼食は蔵部ですが、食事を作る人々の姿を見ながらの食事は楽しいものです。次の日の「豪商の館」は江戸期の政商が藩の財政を壟断する勢いの様を見て言葉がないほどでした。また田中氏が最初に商売の道を得た牧家の館のつくりの細微に感動をしました。須坂では造り酒屋がいくつかあり、遠藤酒造の「渓流朝しぼり」はふくよかな味わいのある日本酒です。企画した東京のTさん、そして道行を楽しんだ東京の同業者のみなさま、ありがとうございました。
■2009/2/1
横浜に2泊して、朝早くから金沢八景に向かいました。金沢区は鎌倉前期は六浦といわれ、鎌倉の外港でした。宝治の乱で、三浦氏が滅んだ後は北条氏の一族である金沢氏が外港・六浦を抑え、いつの間にかこの地域を金沢と呼ぶようになりました。金沢文庫は金沢氏の集めた図書の文庫です。さて、今回は山口のT氏(腰痛)、岡山のK氏(3月で定年退職)と埼玉のM氏と一緒の鎌倉行です。金沢八景駅は関東学院大の入試と重なり、にぎやかでしたが、私たちはタクシーに乗り朝比奈のバス停まで行き、そこから延々と鎌倉の寿福寺(源義朝の邸宅跡)まで鎌倉時代の基幹道路を歩きました。今回の眼目は、朝比奈の切通です。私の好きな場所です。寒気の中を、40分も歩きました。十二所神社に出て、疱瘡神をみて、塩嘗地蔵の光触寺、青砥橋と滑川に沿いに降りていって、報国寺で竹を見ながら一服。ここでK氏の薀蓄が開花。山茱萸から王維が17歳で故郷を思って歌った漢詩にある茱萸に至り、勉強させられました。漢詩に全く関心のなかった私ですが、王維の漢詩はピュアなものを感じました。その後、杉本寺の簡素な佇まい、宝戒寺(北條執権邸宅跡)でのしだれ梅、荏柄天神社で甘酒を頂き、白幡神社をめぐって、鎌倉で特に好きな寿福寺の参道を「体験」していただきました。最後に小町通のとある場所で食事兼酒宴にたどり着いたときは、すでに午後2時でありました。私は前日までの緊張から解き放たれて、心地よい冬の晴れ日を満喫しました。友達に感謝。
■2009/1/25
穏やかな日和なので、お台場海浜公園から隅田川を遡る船旅をしました。行き先は浅草の桜橋まで。大汐の日に重なったため、橋げたすれすれに船は遡ります。勝鬨橋、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、言問橋、桜橋をくぐって隅田川の川旅は終りました。待乳山聖天には大根や巾着のレリーフもあり、長い間庶民に親しまれた寺院であることが分かります。鬱々とした気持ちをわずかの間、晴らしてくれた冬の一日でした。
■2008/11/4
10月は北海道に行く予定がつぶれてから、予定がうまくいかず気分が落ち込んでいました。10月は、9日にインド舞踊を鑑賞、12日には「公教育における包摂と排除」の出版記念パーティに参加。また埼玉県立近代美術館で「アーツアンドクラフト」を見に行きました。しかし、心のうちに拡がる暗雲を払いのけることはできません。頭の芯が痛み出すような毎日です。今日は、カウンタを着けてみました。海の向こうでは投機的金融資本の破綻の中、大統領選の投票があります。
■2008/8/12
岐阜県にある旧中仙道美濃太田宿跡を見てきました(8月2,3日)。古い町並みが保存され、風情がありました。太田の渡しは時代とともに上流に移動して行ったようですが、最下流は承久の乱(1219/6/5)の折の大井戸の渡での戦いの激戦地でもあります。坪内逍遥は美濃太田の代官所の役人の子として生れました。岐阜県から長野県に移動してメルシャン軽井沢美術館でおこなっているシャガール「花束の伝説」展を見に行きました。花束というアイデアに限定されたために面白みはもう一つという印象でした。「故郷の廃屋」(饗庭孝男)を読み、「『敗者』の精神史」(山口昌男)の中ほどまで読みました。どちらも心に訴えるものがあります。
■2008/7/22
昨日今日と、栃尾又温泉に行って来ました。薬師堂の脇にある自在館の岩魚の炭火焼は絶品でした。もてなしもよく、「せいらん」という部屋も良い部屋でした。この旅行で飲んだ地元の玉川酒造で出している「目黒五郎助」はリーズナブルにしては良い味でした。また、さらに奥に入る奥只見湖へ通じる長い長いトンネルは掘削した人々の苦労が思いやられます。三島由紀夫がダム建築の技術者を描いた小説をつくっています。ここはまた織田裕二主演のホワイトアウトのロケ地でした。曲がりくねったトンネルは閉所恐怖症に襲われるかと思い、銀山平にでたときはまぶしいばかりの空気に触れた思いでした。
■2008/7/20
ようやく一息つけて5月からの課題にしていた福島正則を書評して見ました。幕府の検死が来る前に、御家断絶を覚悟して荼毘に付したのか不明なままに終りました。寒くて遠いから津軽は流配地として嫌だといってみたり、跡継ぎが亡くなると領地の半分を返却したり、そして勝手に荼毘に付したりと、これを幕府への「憤」と読むのは通俗的すぎるでしょう。不明なことは不明なままにしておきたいと思います。
■2008/5/4
前日に飲んだドメイヌソガ2007(生)を求めて、長野県小布施の小さなワイナリーに出かけました。ドメイヌソガはワインつくりをしている小さな小布施ワイナリーが出している日本酒です。正確には「ル サケ ナチュレル ド ドメイヌソガ 2007 ルミナシオン」です。自家農場産の美山錦を使用。精白歩合65%。酵母と麹は「協会7号 氷上吟醸用」です。日差しの強い中をテクテクと歩いてワイナリーを捜し、ワインを試飲しつつ、日本酒を求めました。生酒以外にも「ソガ ペールエフィスJミヤマニシキ」やその「J1」がありました。ドメイヌと名前がつかないのは、自家農場産ではないからです。やはり「生」が上等でした。長野県内の数箇所でしか飲めない「幻の絶品」です。
小布施ワイナリーを後にして、岩松院で北斎が描いた天井画「八方睨み鳳凰図」や福島正則の霊廟、そして小林一茶の「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」の池を見て、さらに浄光寺薬師堂を参り力水を頂きました。その後、小布施の中心街に戻り「蔵部」で遅い昼食を頂きました。雰囲気の良いお店で、ここで桝一酒造の「へきいけん」という日本酒が食前酒に出ました。これは美味しいお酒でした。小布施は栗だけではないのです。
■2008/4/29
4月26〜28日にかけて青森秋田旅行をしました。埼玉のT,M両氏とも一緒です。最初の目的は青森県の日本海側にある不老ふ死温泉です。ここは海岸に掘られた露天風呂にはいるのが楽しみでした。夕陽は見られませんでしたが満足しました。先に十二湖に回り、それからゆっくりと温泉につかりました。次の日は、目的は
十三湊(とさみなと)遺跡です。思いのほか、十三湖が大きいことに驚きました。それから、金木に回り
太宰治の生家跡を見ました。その大きさにびっくり。この壮大な家から抜け出すに自殺を選んだのも頷けます。ソメイヨシノは終っていましたが、次に出かけた弘前城では枝垂桜がまだ咲いていました。遠くに岩木山も望まれて、良い景色です。その後レンタカーは長駆して、田沢湖畔の宿へ。最後の日は朝から田沢湖から奥に入り乳頭温泉郷へ。途中で水芭蕉の群生を見ることができました。蟹場温泉、孫六温泉、鶴の湯と浸かりました。孫六温泉では雪が降り出すというスチエーションでしたが、体はホカホカデす。角館の桜は全く終っていました。町全体がしおれたようになっていました。帰りには浦和で降りて、田やで根知男山を飲み稚鮎などのおいしい料理を頂きながら反省会をして楽しかった旅は終了。
■2008/3/1
「
のぼうの城」を読みながら、津山のK氏、宇部のT氏を迎えて、M氏の車で埼玉古墳群を案内した記憶が甦ってきました。
■2008/1/20
19〜20日と山口県に出かけました。山口市で一泊して、20日には長門峡を見て中原中也の「
冬の長門峡」に思いをはせました。、萩の藍場川沿いに「旧湯川家屋敷」や「桂太郎旧宅」そして目指す「善福寺の
吉見広長の墓」を見て、そして萩市内の割烹「千代」で萩沖の地の魚を頂きました。案内して頂いたT氏に感謝。
久坂玄瑞の生誕地を回り帰りました。
■2007/10/18
昨日、練馬区の石神井公園を散策しました。大田道灌に攻め滅ぼされた豊島氏が築いた石神井城跡もあり、三宝池にはかわせみが川魚を狙っている姿も見ることができました。久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことができました。
■2007/8/27
盛岡に行ってきました。27日は宮沢賢治の誕生日だそうです。紫波城跡は広大な城域でした。後は時間がなかったので、明治43年に建てられた旧第90銀行(現在、もりおか啄木・賢治青春館)や岩手銀行中ノ橋支店、ござ九など近世、近代の盛岡の隆盛を物語る建物をみて回りました。なるべく足で歩いて街を実感するのが楽しみです。28日には東京で研究会があるのでとんぼ返りの忙しい旅でした。盛岡には1月末に再び行く予定ですが。冬はまた冬で楽しみがあると思います。
■2007/7/30
長崎に行ってきました。中華街は横浜と比べることはできないほど小さい街でしたが、傾斜のかかった街の雰囲気は港町の明るさがありました。長く栄えた歴史に裏打ちされたとても感じのよい町でした。近代産業遺産として注目されている軍艦島を巡るツァーにも参加でき、昨年に訪れた冨岡製糸所跡とともに貴重な体験となりました。
■2007/6/24
「長崎ぎやまん波止場」(白石一郎)を読みました。描かれた一節に胸が衝かれました。父親の乙名頭取就任の夜のことです。「その日、母親が赤飯を炊いて父の帰宅を待っていた。親子で頭取就任を祝おうと清吉にも外出を禁じたが、清吉は父親の帰宅を待たずに家を抜け出してしまったのだ。真夜中に帰ると、茶の間には冷たくなった赤飯とお頭つきの魚が、清吉のぶんだけ残されていた。『なんという不幸者だったことか」いまさらのように悔やまれるのである。・・・父と母はおそらくおそくまで清吉の帰宅を待っていたろう。待ち疲れて二人で冷たくなった赤飯をぼそぼそと口にしたかもしれなかった。」
私も高校卒業の夜に同じようなことがありました。安田講堂が機動隊に囲まれて落城するのを見ながら受験勉強をしていた世代です。高校の卒業式は旧制中学校時代から唯一、途中で中止されたのです。その夜、興奮冷めやらぬ仲間とともに深夜までサントリーレッドを飲んでいました。帰ってみると食卓の上に自分のぶんの桶に入った寿司が残っていました。
■2007/5/27
「相模三浦一族とその周辺史」(著者 鈴木かおる 新人物往来社)を読みました。周辺史というように周りにも目配せした網羅的なよい本です。たとえば、承久の乱で後鳥羽上皇とともに隠岐へ渡った随身に、北面医王能茂(ほくめんのいおうよししげ)がいるが、彼は三浦光村の舅であるとともに、曹洞宗の開祖道元の兄に当たると書かれています。「蒙古来襲絵詞」に出てくる安達泰盛邸(甘縄)に侍る「あしなのはんがん」が三浦葦名判官盛宗(佐原一族)であるとか。あるいは永嶋が本名である島崎藤村も三浦氏の庶流につながる人物で「夜明け前」には横須賀まで主人公が出かけるシーンがあるとか、博覧強記です。三浦義明の子大多和義久から始まる大多和氏は和田の乱でも、宝治の乱でも北条氏に組して生き残り、鎌倉幕府滅亡時には相模国の兵6千を率いて鎌倉攻めに加わっているとのこと。大多和義勝は姓を永嶋に改め、1351年(観応2)頃楠木正成の4男正徳を娘婿に迎え(「新編相模国風土記稿)、後北条時代には浦奉行、江戸時代には水主差配役を務め「公郷の赤門」(横須賀市安浦町)といわれたそうです。永嶋正徳の庶子青山監物が馬込村に下って島崎を名乗り、その二子が馬込村を開いて宿の庄屋を営むようになったようです。
■2007/5/23
「斎宮百話」(斎宮歴史博物館 学芸普及課長 榎村寛之)というHPは、勉強させられます。第63話「百人一首の・・・謎?その4」では在原業平の「ちはやぶる神代も聞かず龍田川唐紅に水くくるとは」を取り上げています。古今和歌集には二条后藤原高子の所にある龍田川と紅葉の屏風を見て詠んだ歌であると詞書があり、伊勢物語の伝承では高子の産んだ陽成天皇は業平の子だというものです。これを踏まえて、榎村寛之は陽成天皇がわずか17歳で退位させられ、代わって光孝天皇が即位したことへの反発が歌いこまれているというのです。すなわち、「龍田川=竜(皇帝を意味する)の血統に『唐紅(外国の血)』が入るなんて、ということになります。唐紅は、光孝天皇の妃で、宇多天皇の母である班子女王の母が渡来系氏族の当宗氏で、その氏族祭祀である『当宗祭』が、宇多天皇即位の後に国家祭祀とされ、平安時代の終わりまでずっと続いていることを意識している、とも考えられます。」意識したとされるのは百人一首を選んだ藤原定家です。この読みは大変面白いと思いました。だが、本当にそうなのでしょうか。
東漢氏の一族に当宗忌寸があり、後漢献帝四世孫山陽公之後とされる弱小の渡来氏族です。桓武天皇の子のひとり仲野親王と当宗忌寸の娘との間に産まれた班子女王。その班子女王が光孝天皇との間に産んだのが宇多天皇です。これだけを見れば業平が唐紅と詠んだことが、「外国の血」であると連想することも可能です。だが、在原業平は桓武天皇の末であることから、自分の血の中にも渡来系の血が流れていることは充分に理解していたと思われます。桓武天皇の母は高野新笠です。続日本紀によれば高野新笠は父を土師氏(後の大枝氏、菅原氏)、百済武寧王の子孫を名乗る和(やまと)氏の娘を母にして産まれました。なお、班子女王の父仲野親王も桓武天皇の子です。したがって班子女王は母のみならず父方の曾祖母も高野新笠という渡来系の血が濃い女王です。
このような錯綜した系譜を見てくると業平が自分のことを度外視して、唐紅=外国の血と詠んだとは思われないのです。
■2007/4/29
埼玉県比企郡吉見町を歩きました。母の27回忌の法事でした。横見神社、息障院、安楽寺など時間の許す範囲で歩いてみました。比企丘陵の枝分かれした岡の麓にそれらはありました。麓を流れる横見川の流れにも沿っていました。岩殿山安楽寺は岡の上に立つ立地に優れた寺院でした。また、息障院は御所と名のつく場所に立っていました。御所が誰の住まいを指していたのか。源範頼の御所であったと伝承されていますが、どうでしょうか。いま、御所の変わりに吉見にはコカコーラボトラーズや東洋製罐の工場が立ち並びます。
■2007/3/4
「沢庵」を書いてみました。沢庵漬か剣豪小説で宮本武蔵や柳生但馬守の周辺人物ではかわいそうな気がしました。徳川幕府という権力に抗した思想家であり、宗教政治家の側面をのべたかったのです。
■2007/2/19
17.18と袋田の滝を見に行きました。残念ながら暖冬で凍結していませんでした。帰りには水戸の偕楽園に寄って五分咲きの梅の香りを堪能しました。常盤神社脇の展示場には水戸斉昭が作らせた大砲が展示されていましたが、砲身の短さや丸い砲弾から見て、とても異国船打ち払いに役立つとは思われませんでした。
■2007/2/13
明け方、愛犬が突然亡くなり、呆然。そこに居る、感覚に終日悩まさせられました。
■2007/1/29
26...27.28と山口市にある瑠璃光寺の五重塔を見に行ってきました。雪の五重塔が見てみたいと思いましたが、残念ながら暖冬の今年は見ることができませんでした。次は50年後といわれる秘仏を拝み、また大田・絵堂の戦いの跡や長登銅山跡(奈良の大仏はここの銅も使用した)、錦帯橋、防府の天満宮、毛利氏庭園、そして周防鋳銭司跡などたくさん見ることができました。ドライバーをしてくださったT,M氏に感謝です。瑠璃光寺はいつみてもすばらしい塔です。大田・絵堂の戦いは、毛利政府軍2000人が高地にあり、高杉晋作が呼びかけたわずか200人の反乱軍が坂を上るようにして戦いを挑んだにもかかわらず、勝利した理由が布陣だけを見てはわかりません。毛利氏庭園にある大正時代になって完成した貴族邸宅は見事なつくりでした。
■2007/1/14
NO142,143と埼玉県比企郡吉見町周辺の話を続けました。父方は吉見町出身ですので、扱ってみたかった地域でした。今年は心穏やかに過ごせることのみを願っています。
■2006/12/26
12月にはめずらしい大雨の日。閉じこもって「江戸東京《奇想》徘徊記」を読みました。種村季弘が江戸東京の今昔を徘徊した文章です。サライに連載したものに手を加えたものです。面白い。同じように徘徊して見たいと思いました。板橋、池袋あたりはかろうじて分かりますが、それ以外は江戸東京育ちでないので皆目分かりません。それでも大塚先儒墓所などは一度行ってみたいと思います。案内人を見つけないと。
■2006/12/10
鎌倉の七口の一つ、朝比奈の切通を歩いてみました。18メートルも切り開いた切通を歩くと時代は鎌倉です。太刀洗川に沿って道は続いています。上総介広常がこの切通に邸宅を設けた意味はすぐわかります。六浦湊まですぐなのです。湊から領地である上総国まで江戸湾を隔ててわずかの距離です。後には、足利氏が朝比奈切通から鎌倉に入ってすぐの紅葉谷を邸宅にしたのも同じ理由です。
■2006/12/2
浦和レッズがガンバ大阪に3―2で勝利して、Jリーグ初優勝を飾りました。昨年が残念だったので、とても嬉しい。ところが体調が悪くお祝いのお酒も飲めません。サッカーが終わり、後はラクビーを楽しみたいと思います。
■2006/11/26
昨日、郡馬県富岡市にある旧官営富岡製糸場を見学に行きました。群馬県は紅葉に彩られていました。寒い中をボランティア案内人が一時間にわたって内部も説明をしてくれました。今月から製糸場内部の見学が可能になったのを聞きつけての、見学です。近代化遺産は今見直されていますが、近代化遺産の最たるものが富岡製糸場だろうと思います。1872年・明治5年に設立された富岡製糸場はその後、片倉工業に払い下げられて昭和62年まで操業していたとのことです。
フランス人の指導によって近代的な製糸場が創設された当時、木骨レンガ造りのその巨大さに圧倒されたことと思います。長さが140mの繰り場一棟、104mの繭倉庫2棟が鏑川沿いの高台に築かれています。繰糸場に内部に入ると柱のない構造で、ニッサン24型の自動繰糸機が並んでいるのは壮観です。
■2006/11/14
東京国立博物館平成館に特別展「仏像」を見に行きました。今回は「一木にこめられた祈り」として、一木彫の仏像を集めてたものです。お目当ては国宝 十一面観音菩薩立像(滋賀 向源寺蔵 渡岸寺観音菩薩堂在)です。向源寺十一面観音は見上げるような大きさの一木彫でした。ビャクダンなどから作り出された檀像が特に気に入りました。いづれも小ぶりの十一面観音です。藤原鎌足の長男定恵が請来したと伝えられる唐時代の十一面観音はインド風の風貌をもち、おなじく山口・神福寺十一面観音の細かい細工、奈良・与楽寺の少し左に傾いた十一面観音はいづれも上品でした。30―40cmほどの伝来した仏像は国際宗教である仏教の力を見る思いがしました。
展示場で強力なインパクトを与えていたのは宝誌和尚立像です。平安時代の宝誌和尚の顔から仏様が現れたという伝承に基づいて作った異様な仏像です。顔の真ん中が割れて仏の顔が覗いています。人も木も同じです。一木にに内在する霊(仏、神)を彫り出す心がみえます。
特別展の後半部分を形作っている円空や木喰の仏像は木から仏を彫りだしたそのままです。円空の善女龍王立像(岐阜・高賀神社)、十一面観音菩薩立像(岐阜・高賀神社)、善財童子立像(岐阜・高賀神社)は木そのものが仏になったと思われました。各地に根が生えた木に仏像を彫る立木観音が見受けられますが、木(人間)そのものに仏が内在する思想は日本ローカルなものでしょうか。展示場の最後に木喰の立木造りの子安観音坐像が展示されているのも道理にかなった終わり方でした。
■2006/11/4
つわぶきの黄色い花が満開です。今日は鎌倉市立図書館と、逗子市立図書館を回って、逗子の海を見に行きました。川端康成が1972年4月16日に自殺した逗子マリーナは白亜のきらめく建物群でした。違和感はぬぐえません。
■2006/10/16
知人から戴いたジュウゲンジというきのこをベーコンとピーマンとでいためて、お酒のつまみとして食べました。歯ざわりのいいきのこです。いま、「都市鎌倉と坂東の海に暮らす」(新人物往来社)を読み始めました。
■2006/10/12
10月なのに暑いくらいな気候です。歳とともに人間ドックの結果が悪くなってきています。数値を見るにつけて、がっかりします。かかりつけの医者に結果をみせに行き、アドバイスをもらって帰ってきました。気を取り直して、おいしいお酒を飲みました。賀茂鶴酒造から出している大吟醸「五大天空」です。世のわずらいを忘れて、幸せなひと時です。9月は風待ちの月でした。10月は気持ちを乗せて暮らしたいと思います。
■2006/8/7
先週、信州の塩田平へ行ってきました。塩田3万石といわれる穀倉地帯ですが、降水量が少ないため溜池が随所にありました。信州の鎌倉といわれるだけあって、安楽寺の八角三重塔(国宝)をはじめ常楽寺、前山寺とも見事なつくりでした。よいものを見させて頂きました。
■2006/6/18
2001年に購入した日立のプリウスが動いたり動かなかったりの状態が続き、決断をしてNECのPC−VL570FGを購入しました。設定も終わりようやく書き込みをしています。
■2006/5/21
毎月のように鎌倉に行っています。暑い日でしたが、今日は瑞泉寺の石庭を見てから東慶寺に行きました。どちらも心惹かれるお寺です。瑞泉寺は優美な中にも無骨な雰囲気を持っていて清清しい気持ちになりました。東慶寺は駆け込み寺という壮絶な歴史を窺うことができないほど優雅な佇まいで、短歌や俳句が身近にありそうな女性たちがたくさん見かけました。
■2006/5/13
山田風太郎「魔群の通過」は水戸天狗党の話です。母方は水戸の出身です。人材の枯渇した地域という指摘に反論する術はありません。ごく若い頃に会沢正志斎の「新論」などを読んだことを思い出すのみです。
■2006/5/7
この数日、煙をはく浅間山を見に行ってきました。急に暖かくなった気候で、山桜が盛んに咲いていました。胃が重くなるような日常をしばし忘れて楽しいひと時でした。浅間の風が木をゆすり、花びらが舞う中で、食しまた本を読んで、うつらうつらした時を過ごしました。
■2006/5/1
今日は30度を越えました。いつも連休前後に咲く黄色い薔薇が今年も咲きました。黄色い薔薇はほっとする雰囲気があります。紫のテッセンも咲きました。明日はまた冷え込むようです。連休は宿題を一つ抱えて山篭りをします。テレビのない場所にいると時間がたっぷりとあるように思えます。
胸につかえるものもあるのですが、自分で切り開くしかないものを,傍からやきもきしていても事態が変わる訳ではありません。
■2006/4/20
八重桜が頃合です。雪柳が風に揺れ、雲南黄梅がつられて揺れています。春は苦手な季節です。花粉症に悩まされるだけでなく、身の回りの出来事、人事に心も揺れます。九つはうまくいかず、一つがうまくいけば、それは上出来ということは分かります。ですが、若いころは、一晩寝れば気分転換ができたのですが、気持ちの切り替えも歳とともにスムーズに行きません。耐えて待つしかないのでしょうか。
■2006/4/8
鎌倉の二階堂にある覚園寺を訪れました。鎌倉宮から入った狭い道を歩くと、ミツマタの花も黄色く色づいていました。門前に近い、鎌倉武士(たけし)という蕎麦店で桜蕎麦を頂きました。蕎麦に桜の塩漬けを練りこんだ、かおりを楽しむ蕎麦です。北条義時が戌神将のお告げによって実朝暗殺の場所から逃れた故事を持つ薬師堂は萱の吹き替えで見られませんでしたが、僧達が修業したというやぐらは霊気がこもっていました。「長州戦争」を取り上げてみました。長州関係の写真は山口のT氏から頂いたものです。
■2006/3/18
鎌倉の材木座にある来迎寺にミモザの花を見に行ってきました。丁度、黄色い花が咲き誇っていました。来迎寺は源頼朝が挙兵のときに捨石のように戦死した三浦大介義明を弔うために建てた寺です。小さな境内には義明と孫の多々良三郎の墓が並んで建ち、また三浦家臣団の墓もあります。合掌。近くには鎌倉攻めを稲村ヶ崎から始めた新田義貞は由比ヶ浜を巡って材木座に拠点を置きました。その拠点が今の九品寺です。ボケの花が咲いていました。
また、江ノ電の和田塚駅近くには同じく三浦一族の和田義盛達和田一族の戦死者を埋めたといわれる和田塚があります。ただし、これは伝承です。
■2006/2/22
今日はジーコジャパンのインド戦を見ました。ジーコが采配を振るって100ゴール目を小野伸二が決めました。小野選手の試合中のボール捌きは美しいものでした。それに反応する選手のタイミングが一歩遅いようです。またレッズから始めて参加した長谷部誠はセンスを感じさせる球扱いでした。気持ちのいい観戦。
■2006/2/17
近くの公立図書館に平日の午後、休みを取って訪れました。午後の日を浴びた図書館の光景は面白くも淋しいものでした。中高年の溜まり場とも見間違えました。書棚を見ながら歩いていると、乾いた音が聞こえます。覗いて見ると、椅子に胡坐をかいた中年の男性が豆を口に入れながらページをめくっているではありませんか。また、他方では床に半分寝転がって地図を広げている老年の男性がいます。わが町の文化の程度を見た思いがしました。
■2006/2/12
10日から金沢にいって来ました。思いのほか暖かく、雪も昨日までは降り積っていない町並みでした。金沢大学の川上光彦先生から街づくりの講演を聞いた後、歩いてみると景観を大切にした都市つくりが行われていることを気づきます。例えば小学校でも古都の風情に合うように作られていました。野村家など武家屋敷跡では美しい庭を見ることができました。
■2006/1/21
関東は今朝から雪です。昼ごろには4センチは積もったでしょうか。今年初めての積雪です。豪雪にみまわれている地方から見れば、積雪とはいえないほどの積もり方でも交通は麻痺しかねません。近頃は、治承から承久頃までの歴史を読んでいます。
■2006/1/8
今日はラグビー大学日本一を決める試合を見ました。早稲田大学と関東学院大学の一戦です。圧巻は早稲田の10番曽我部 佳憲のトライシーンです。一人を飛び上がって抜いて、3人に囲まれながら強引にゴールに向かって飛び込んでいくシーンは技と気持ちの強さを感じさせました。いつもへらへら笑っているようで、いや最後まで笑っていましたが、運動能力に裏打ちされた勝負勘は見事でした。若い人に敬服。もちろん早稲田8番の佐々木と関東の15番有賀にも乾杯。若い人にラクビーを堪能させてもらった一日でした。美味しいお酒でした。
■2006/1/7
昨夜は大塚にある馬肉屋で懇親会があり、朝早い遠出はどうかとも思ったのですが、鎌倉散策に行くことにしました。鎌倉五山のひとつ浄明寺は優雅な佇まいに蝋梅がすでに咲いていました。冬の日にもかかわらず暖かい境内でした。境内の脇には鎌足神社もあり、鎌倉の地名の発祥伝説の一つでもあります。また、普段は入れな寿福寺の境内に入れるという幸せがありました。鎌倉一とも言われている境内に入る道を木洩れ日を浴びながら通って、ビャクダンの大きな木がある境内に入り、源頼朝が父・義朝の館跡を政子がお寺にした寿福寺はすがすがしい雰囲気がありました。本尊の宝冠釈迦如来は見事な仏様でした。
■2005/12/31
2005年は自分にとってどんな年であったのでしょうか。いつものようにとりわけて大きな問題もないのですが、やや落ち込んで一年が過ぎた気がします。体力・気力の衰えは驚くほどです。
新たな展開を求めても、それが空回りしたようで、来年は様々に手を出していたことを、整理して体勢を立て直したいと思います。
■2005/12/24
この2週間は、帰りが遅くなる日々が続いて、ようやくゆっくりした3日間が送れそうです。関東を抜かして全国的に大雪のようです。天地も為政者の横暴とそれを支えている「国民」の姿に怒っているのでしょう。歴史を紐解くと為政者の横暴と堕落、それを無気力にされるがままになっている庶民の姿をよく見かけます。その絶望的な状況の中から次の展開が準備されています。でも次の展開は必ずしも幸せを用意しているとは限りません。
■2005/12/4
だんだんと寒くなってきました。今日は曇り空ですので、肩に力が入っています。司馬遼太郎の「三浦半島記」を読みました。司馬遼太郎が人気があるのは、小泉首相が人気があるのと同じく「ワンフレーズ」で物事を断言する、その分かり易さからだと思います。こんなフレーズに、なんとなく納得してしまうのです。「ところが、この半島から、12世紀末、それまでの日本史を、鉄を槌とたがねでもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである。」
あるいは三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)の17年忌に、源頼朝が臨んでなお生きている者として扱った故事(89歳で衣笠城に亡くなる。それから18年で、106歳になる勘定)にちなんで江戸時代に門付歌に歌われました。それを「江戸時代の村や町をうたいながされて行ったことは、文句のせんさくもなしに、人間がいきなり地獄から救済されているように、またふかし立ての饅頭を見るように、めでたいとしか言いようがない。」と表現している。何がふかし立ての饅頭がめでたいのか分からないが、司馬遼太郎だなと思います。
■2005/11/20
昨日は鎌倉に行ってきました。鶴岡八幡宮の大銀杏はまだ黄葉していませんでした。頼朝墓所(法華堂跡)、護良親王の土牢跡、勝長寿寺跡、そして寿福寺(政子墓)、明月院(北条時頼墓所)、円覚寺(帰源院)、そして八雲神社の清明石をまわって、横浜中華街で上海蟹を食して満足な一日でした。大銀杏は実朝の首に、法華堂跡は三浦一族の滅亡の場所として写真を入れたいと思います.。今日は熊本のSさんから貰った米焼酎「あそびこころ」を飲んでいます。飲みながらこれを書いています。菊池米の栽培から自分たちで作った熊本の「遊喜農業研究会」のお酒を楽しんでいます。
■2005/11/6
4.5.6日と熊本に行ってきました。夏目漱石の「草枕」の舞台である小天温泉にある旅館跡(風呂場跡)を見てきました。また、熊本市内にある漱石の坪井旧居では70坪に及ぶ邸宅に圧倒され、道をひとつ隔てた横井小楠生誕地を訪れることが出来ました。横井小楠の晩年に住んだ沼山津の四時軒跡からの風景も美しいものでした。とてもハードなスケジュールで疲れました。
■ 2005/10/30
100冊の書評ができました。ひとつの区切りです。
■ 2005/10/28
気持ちのいい夕暮れと書い直後から、トラブルが続き、やはり安穏な時を送ってはいけないのでしょう。気を引き締め周りを見渡しながら、足を踏み出す毎日が必要との事かもしれません。。楽な気分で一日をおくるほどの人生ではないということではないのでしょう。残念ながら。
■ 2005/10/23
気持ちのいい夕暮れです。暮れなずむ街の景色を見ながら、これを書いています。少し日本酒を飲みながら。伏見の「月の桂」です。毛野国探訪をして楽しかった思い出とともに、毛野朝臣など東国六腹の氏族についての書評を書いてみました。古代の毛野国が東国を代表する頃は、武蔵野国の平野部(関東平野)の多くは利根川などの河川が洪水ごとに流れを変える人の住みにくい地域であったのでしょう。
こんなことを思っている中に、目の前に一番星が輝き始めました。
■ 2005/10/16
昨日今日とM氏の運転で、T氏とともに3人で毛野国探訪に行ってきました。コンセプトは「碑」です。初日は栃木市の巴波川からはじまり、下野国衙跡、下野薬師寺跡、道鏡塚を見て那須に入りました。那須郡衙跡を見て初日の目的地、那須国造碑を見に行きました。国造碑は笠石神社のご神体です。その後は塩原温泉で美味しいお酒を頂く時を持ちました。
二日目の今日は、塩原温泉をたって群馬の吉井町・高崎市が目的地です。吉井町にある多胡碑がつぎの目的です。多胡碑を見て、金井沢碑、山ノ上碑をみて、さらに高崎市佐野地域にある定家神社と常世神社に至って旅の予定が終了です。それぞれ貴重な体験でした。撮った写真は0081と0078に一部貼り付けました。見てください。
■2005/9/25
小諸の懐古園に行って来ました。小諸駅そばにあって、車を使わない私としては好都合な場所でした。牧野家の居城跡で、島崎藤村の「千曲川のスケッチ」で持っているような感じでした。水の手展望台からは眼下に千曲川が流れていました。近くの「草笛小諸本店」で蕎麦を食べました。量が多くて、美味しいけれど、気持ちとしては軽井沢にある「川上庵」が好ましいです。
■2005/9/19
今日は古河まで歴史探訪です。
鷹見泉石関連で訪れた古河市は9月12日に合併したばかり。古河公方の時代からの古い街です。離れた古河公方館跡まで歩いていってきたのですっかり疲れてしまいました。鷹見泉石記念館は泉石の隠居所です。彼の子どもの時代には1864年 元治元年の天狗党の乱にあたって幕府に降った水戸藩士100人余を一時収容した屋敷でもあったとのことです。
古河といえば、思い出すことがあります。通っていた高校では強歩大会があり、ゴールが古河でした。街のかたが声援を送ってくれたことを思い出しました。マラソンの距離より長い道のりを、歩かずに走り抜ければ100位には入れました。
■2005/9/9
行田市の小針遺跡住居跡(平安時代初期 九世紀前半)から紡錘車が出土し、そこに「丈部鳥麻呂」と刻まれていた、との記事が載っていました(読売新聞埼玉版2005年9月9日)。埼玉古墳群に近いことから国宝鉄剣の金石文「杖刀人」から連想して発掘担当の中島洋一学芸員は「地方の豪族が丈部」を名乗るようになったのではないかと述べています。群馬大学森田梯氏は古代の阿部氏が配下を「丈部」を名乗らせていたことから、金石文のヲワケノオミと阿部氏との関係に言及しています。小針遺跡は埼玉古墳群から2kmの距離にあり、古墳時代前期(4世紀末)から平安時代前期に渉る遺跡です。騎西台地群の低台地上に位置し、水上交通の要衝として営まれた集落と推定されています。
さいたま市にある氷川神社を祀る丈部=武蔵宿禰一族のことを、この記事を読みながら思い出しました。研究ノートの「武芝伝説」に取り上げた一族です。丈部=武蔵宿禰氏は古代においては新しく勃興した一族で、その系譜は明らかではありません。また、平将門の乱に関連して急速に没落していった一族でもあります。行田市とさいたま市とは大宮台地という台地の端と端とにあります。まわりは乱流する川筋と見沼などの湖沼に、とりかこまれていました。古代においては水上交通が、重要でした。
■2005/8/23
隼人塚が見えてくると、霊気を感じました。
日曜日から鹿児島に行って来ました。隼人町(今年の11月には国分市などと合併して霧島市になる)にある隼人塚と鹿児島神宮に行って来ました。国分市は大隈国府のあった場所で、大隈国が作られて(713年和銅6)まもなく国守を隼人が殺害すると云う叛乱が起り(720年養老4)、中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍として鎮圧をしました。この折に大分県にある宇佐八幡宮が征隼人の神託をおこなったことは知られています。ちなみに、大隈国を設置した次の年に豊前国(大分県)から200戸をこの地に移住させています。1年数ヵ月後に鎮圧された隼人の叛乱で殺された隼人の供養塔と伝えられたのが隼人塚。隼人塚には五重の石塔3基と周りを囲む四天王像が建っています。隼人町教育委員会が発掘調査したところによると、平安末期の寺院跡である可能性が高い。しかし、それはこの地が隼人叛乱の遺跡であることを否定するものではありません。宇佐八幡宮でおこなわれている隼人の鎮魂儀式である放生会はこの隼人・国分でもおこなわれてきました。それは大隈国一宮鹿児島神宮から隼人塚をへて鹿児島湾最奥の浜の市までみこしを担いで下るのでものです。隼人塚のある一帯が激戦地のひとつかあるいは遺体を埋めた場所である可能性を示しているのではないでしょうか。1300年以上前の話ではありますが、土地はその記憶をとどめているといつも思います。
■2005/8/21
前に「ひつじ田」(2004/11/21)についてひつじが泥の意味であることを教えていただいたことがありました。記紀神話のなかにも「ひぢに」が出てきています。
「古事記」に出てくる神々の誕生でウヒヂニ・スヒヂニの対となった神々が出現する。「ヒヂニは泥のことで、ウヒヂニ・スヒヂニは泥の神格化である。」(「日本神話」上田正昭)。古い言葉なのですね。今日から鹿児島に行きます。
■2005/8/15
しばらく山篭りして下界に下りてくると、相変わらずの猛暑です。山篭りの折に古本屋で見つけた「
日本庶民生活誌」にあるように日本人は裸の生活が好きのようです。裸と子煩悩、これが古来からの習俗であるなら、歓迎です。もっとも貧しいから裸で生活し、自分の生活に未来がないから子どもを大切にすることであるということであっても、いいのです。
■2005/8/3
山口のTさんから、写真とともに次のようなコメントを頂きました。Tさんの言われるとおりだと思います。叛乱を企てた者は、その体制が変わるまで叛乱した者として扱われるのが、彼らの心を大切にすることであるかもしれません。『「佐々木祥一郎は山口、柊で諸士とともに斬首、遺族が遺体を引き取り
万倉の地に気を遣いながら埋葬。時代は下って昭和48年3月26日に吉田清水山奇兵隊墓地に移葬したようです。吉田の赤禰武人の墓は佐々木氏から近いところにありました。平成7年11月に「関係者」の願いで移葬された由。歴史は非情です。赤禰についてそう思います。同僚に惨殺されたにもかかわらず、もと奇兵隊士だからということだけで、清水山に埋葬する「関係者」の気持ちがわかりません。長州人としては複雑です。』
■2005/7/31
昨日の将門探訪の整理と、山口のTさんから送ってもらった写真を長州奇兵隊に貼り付けました。
武芝伝説と
65将門記にも写真を貼りました。
■2005/7/30
Mさんの車で今日は将門探訪です。まずは常陸国府のあった石岡市です。小学校の校庭となった国衙跡は高台にありました。その後、岩井市(現 坂東市)に向かいました。平将門の関連遺構を訪れました。将門の営所跡といわれる島広山は小高い丘(舌状地の端)にありました。慌しい旅にもかかわらず、一目現地を見たいと云う気持ちが旅の中ではありました。Mさん、ありがとう。
■2005/7/4
一昨日から、所用があって姫路に行って来ました。所用の件自体は、緊張したわりにはお褒めの言葉も受けてホッとした次第です。懇親会では地元の「龍力」も飲ませていただきました。
雨の中を姫路城を見ました。近くの田圃には白鷺がのんびりと過ごしていました。立派過ぎて町の発展の妨げになっていると云う噂もあります。兵庫県で2番目に人口の多いこの町でも、市街地のメインストリートのはずれではすでに閉まった店が数件ありました。このような光景は地方都市ではどこでもみかけることで、とても残念です。岸上大作がこの町の出身とは知りませんでした。
■2005/5/28
紫草を訪ねて深大寺の近くにある調布市立の野草園を出向きました。小さな野草園ですが、幻の紫草を武蔵野で見れるのはここだけだと思います。布に紫の色をつける染料として根が古代に使われました。白い可憐な花です。武芝伝説の1―3に貼り付けたので、是非見てください。江戸時代になり華岡清州が皮膚薬「紫雲膏」をこの根から作りだしたといわれています。深大寺の門前にある嶋田屋で深大寺蕎麦と野草のてんぷらをいただいたのは、当初の計画通りでした。神代植物園に薔薇を見に行きましたが、天候がよすぎて疲れがたまってしまいました。この数日、悩み事が消えないせいでしょうか。
■2005/5/14
庭のテッセンが紫の花を咲かせています。昨年に比べてたくさんの花が咲いたのでとてもうれしく見ています。深谷昌志の「子どもから大人になれない日本人」という本を読みました。子どもから青年そして大人になる過程がなくなった、と述べています。徒弟奉公などの大人になる訓練がなくなったと述べています。それは日本だけの問題ではないようなので、わざわざ日本人と限定した意味が分かりません。今日的なテレビやテレビゲームが子どもの一人遊びを助長させた状況を踏まえて大人にする!のにどんな有効な策があるのでしょうか。
■2005/4/30
ここは中軽井沢、昔は沓掛宿といいました。しかし旧い面影は残っていません。1951 昭和26年の大火で中心地が全滅したためです。長倉神社には沓掛時次郎の碑がたっています。長谷川伸の小説の中にした沓掛は残っていません。近くのお食事処に入りました。遠くに煙を吐く浅間山を望み、近くには山桜の咲く川辺で遅い昼食を摂りました。「真澄」を飲みながら山桜を見れば、頭のぼさぼさとした鵯が飛び来たり、桜花を啄むつどに花びらが散っていきます。
桜を観ることについて、今読んでいる本にこんなことが書かれています。812年 弘仁3 2月12日、嵯峨天皇が神泉苑で催した観花の宴が花宴の始まりとされています(日本後記)。「こうした観花の宴、つまり花見は、貴族のものというより、もともと農民の生活に密着した習俗であった。なぜなら、毎年、春ともなればはなやかに咲く桜は、その名も穀霊(サ)の宿る坐(クラ)と観念され、そこで農民は山入りと称して春先き桜の花の咲く丘にのぼって酒をくみかわし、その年の豊作を願い、予祝したのだった。」(「律令制の虚実」村井康彦)
予祝という行為は嫌いではありません。さて、わたしはなにを予祝したのでしょうか。
■2005/4/20
武芝伝説の5−1で登場した菅原行基の名前が「中世内乱期の群像」(中公文庫)に出てきました。「陸奥話記」の坂東の精兵について「頼義が、陸奥守・鎮守府将軍の権限によって徴発することのできた武士であり、平真平、
菅原行基、丸子弘政らの名前があげられている。かれらの多くは、頼義の門客であったろうが、その本質は、あくまでも国家権力を媒介としての徴発兵であり、頼義との関係は『将軍腹心』の武士と比して希薄であったことはいうまでもない。」と述べられています。もう一つは
幸徳秋水において鶏冠井(かでい)という地名・名前に注目しています。同じ「中世内乱期の群像」に引用されている「蜷川親元日記」所載の幕府奉書案に土一揆蜂起に関連して、京都の西岡御被官衆(西岡の土豪で、将軍直属の被官衆)の一人として鶏冠井(かでい)太郎左衛門の名前がでてきています。本を読むというのは出会いが重なってきます。
■2005/4/17
4月は、一年を見通してさまざまな準備をしなくてはならない季節です。仕切り直しの時期です。花粉が飛ぶ中で、先まで考えて一日を終わると、疲れが重く体を蔽います。
■ 2005/4/2
職場が変わり、新たな体験をしています。この現実の体験とともに、あるいはそれ以上に書物というものは大きな体験をさせてくれるものです。再び「東と西の語る 日本の歴史」を読み始めました。先日なくなられた網野善彦さんの力作です。深い共感とともに稀な体験をさせてもらっています。
■2005/3/27
同僚のYさんから借りた「兵隊を持ったアブラムシ」(青木重幸 どうぶつ社 1984)を読みました。アブラムシといえば家のバラにたかる姿しか思い浮かばず、アブラムシの社会にも蜂のように分業があり、外敵を防禦する兵隊がいたという本の内容にははじめ取っ付きが悪かった。自然界は一様ではありません。5分の魂を持った虫たちにも驚きの世界があります。だが、わたしが関心を持ちまた感心をしたのは仮説を以って自然の不思議を解き明かす著者の手法と、それを証明する為の多大な労力です。実証するために、1000個以上の1mmにも満たないアブラムシの分類を繰り返しているのです。
「ハミルトンは、"社会生物学≠ニ呼ばれることになった学問分野の創始者と見なされている。社会生物学とは、あらっぽく言えば、社会行動を含めた生物の形質が、どのような有利性で進化してきたのか、あるいはどのような有利性が保持されているのか説明をしようとする学問である。この形質の有利性を考えるにあたって、種にとって有利であればよしとする、社会生物学以前に多くの生物学者が暗黙に仮定していた前提と訣別する。その代わりに、その形質を支配している遺伝子にとっての有利性を、つまりその遺伝子が増えるか減るかを考える。」
兵隊アブラムシもこの遺伝子の増加を有利に導こうとする生物の行動として説明されています。同じ種のアブラムシの巣(ゴール)への移動と防禦の兵隊の分業的役割。これをハミルトンは青木に送ってきた手紙のなかで「家に留まって親・兄弟に協力せよ、家を離れて他人と争えーこれが生物の"モラル≠ナある」と解いています。
■2005/3/19
花粉が大量に飛んでいます。朝起きるとその日の状況が分かります。今日は午後から大事な集まりがありますが、不快感が先行しています。世の中で変らぬものはありません。30余年前にはじめた人の輪が、今日、とりあえず終わりを告げます。
■2005/3/6
昨日今日と山形県にある
銀山温泉に行ってきました。大正7.8年頃の木造4階立てもある古い温泉街です。新幹線の最寄り駅大石田といい、芭蕉が「五月雨を集めてはやし最上川」と詠んだ場所です。句碑のある西光寺を訪れました。残念ながら句碑は雪の下でした。住職に「こんな時期に訪れるひとはいない。」といわれてしまいました。なぜか消防団の出初式に出くわしてしまいました。旧暦が生活に基礎になっているのでしょうか。
■2005/3/4
昨晩から降り積った雪が道路を白く埋めていました。3月に積もることは久しぶりです。小林禎作の「
雪華図説正続新考」を読んでいます。これによると平安時代は温暖で、江戸中末期は低温のために冷害がたびたび起ったことが解かれています。「雪華図説」の著者は古河藩主土井利位です。また、彼は大阪城代の折には大塩平八郎の乱を鎮圧しています。古河でもまた大阪城中でも顕微鏡による雪の結晶の観察をしています。現在では古河でも雪の結晶は取れません。ましてや大阪では牡丹雪でしょう。見事な結晶が獲られるためにはマイナス10度の気候がよいそうです。大阪でも天保時代、マイナス10度まで下がってい可能性があります。もちろん、今日の雪では結晶を観察することは出来ません。
■2005/2/27
50「
源実朝」と60「
動物妖怪談」に写真をつけました。とくに座禅草を見てください。花粉が飛び始めました。この季節は苦手な季節で、体調を狂わすのはいつものことです。「渋江抽斎」が亡くなったのは54歳です。鴎外がこれを書いたのは54歳で、連載中に母を失い、また陸軍軍医総監を辞任しています。私もこの歳になりました。
■2005/2/26
那須野にある
玉藻稲荷神社に行ってきました。冷たい風が小さな社に吹き付けていました。これも小さな鏡池があり、周りには座禅草も咲いていました。そこから日光に回り陽明門から奥の院まで急ぎ足で訪ねて、合わせて近くにある二荒山神社(ふたらさん)にも行きました。二荒山神社の門にはツララもさがっていました。更に下って、宇都宮市へと足を伸ばし「宇都宮餃子」を食し、あわせて二荒山神社(ふたらやま)を視ました。久しぶりの遠出でしたのですっかり疲れてしまいました。
■2005/1/22
今日は穏やかな日なので、大宮市西区植田谷本周辺を散策しました。
足立郡内にあって最も栄えた地域と言われています。三条、島根には条里制の名残も残っています。田んぼの先には雪をかぶった富士山が大きく見えました。古代から旧入間川(荒川)河川の交易も盛んで、支流の鴨川沿いにある島根氷川神社では高鼻の
氷川神社と同じ神事が行われたとの事です。林光寺は名主小島家の菩提寺で、小島家は
足立遠元の子孫といわれています。
また、近世にあっては、武州一揆の折、水判土(みずはた)観音に結集した一揆勢と関東取締出役とが対峙した鳶坂(とんびさか)には1715年(正徳5)の庚申塔が立っていました。
■2005/1/16
冷たい雨が降りしきる中、昨日は港区三田にある
済海寺など亀塚伝説の跡と、北区
豊島郡衙跡とを訪ねました。武芝伝説に使う写真資料の収集です。大体目的は達しました。本日は岡山のK氏から送っていただいた
鞆ノ浦と
黄河断流の写真を貼り付けました。
■2005/1/1
雪の朝です。正月を雪の中で迎えるのは久しぶりのことです。 「研究ノート」に「
武芝伝説」を載せます。1年ぶりの研究です。伝説のフィールドは古代武蔵国足立郡です。今の埼玉県吹上市から南は東京都足立区までの細長い郡でした。足立は「蘆立ち」です。蘆荻の密生する低湿地帯です。「更級日記」の一節の「たけしば寺」の伝説に導かれながら、丈部直=武蔵宿禰一族の興亡の歴史を追ってみました。これを通して古代の東国の人々の心のありどころを捜して見たいと思いました。少しずつ載せますので楽しみに見てください。
■2004/12/26
先日取り上げた
石垣りんが亡くなった。84歳。これで家を背負わなくて済む。
■ 2004/12/24
平将門の乱は東国においては大きな事件です。この事件に関連して武蔵国の足立郡司の武蔵武芝が登場し、是を契機に没落します。他方で菅原孝標女が「更級日記」で
竹芝寺に言及しています。武蔵武芝は足立郡司であると共に氷川神社の社務を努め、没落した跡は武芝の娘から
菅原氏へと伝わります。菅原氏は
道真の末裔は、怨霊(御霊)を護る一家として続きます。また東国の受領としても名前が出てきます。このあたりを調べています。
■2004/12/9
天慶の乱を起こした
平将門の伝承は関東のみならず、京都より北に散らばっています。例えば、京と関東を結ぶ街道沿いににも伝承が残っています。京都に送られた将門の首は、故郷を目指して晒された獄門から飛び戻ります。そこを美濃の南宮大社の隼人神が矢を番えて射落としたというのです。現在の大垣市に矢の通った道の名をとって「矢道町」があり、首の落ちた荒尾には「御首神社」があります。関東に戻らぬように怒りを鎮めるために創建されたという謂れです。首より上の病気に効くといわれ、ボケ防止から学業成就まで御利益があるようです。
それにしても、なぜ、南宮大社が出てくるのでしょうか。また、隼人神なのでしょうか。
ヤマトタケルが熊襲を討ちに出かけた折に、美濃国のよく弓を射る人を連れて行ったという話があるようです(壬申の乱 大巧社)。美濃は弓取りとして伝統があるのかもしれません。
壬申の乱の折に、なぜ大海人皇子が東国(美濃、尾張)を目指したのか。それは「安八磨郡の湯沐邑」を目指した。もちろんそうですが、そこの地ははまた金生山の赤鉄鉱の鉱脈が露出していた,といわれています。兵器製造所でもあったのではないか、と八賀晋が「壬申の乱」(上掲)で推測しています。このような大津京から近い軍事拠点であった可能性があります。
このような地域の土豪が寄ってたかって京からの落ち武者を狩る風景は、源義朝の都落ちの場合にも見受けられました。関東の覇者・平将門の残党が、将門の首を抱えて故郷への道を風のように駆け抜けます。そこに群がり出た街道沿いの土豪の群れ。そんな状況が見えるようです。
■2004/12/5
一年かかって60枚の書評を書くことができました。白兎荘住人・中村文夫として塵も積もれば、という感慨です。
■2004/11/27
先月末に関が原を紀行しました。関が原は戦国末期から竹中氏の領有する土地です。
竹中半兵衛が有名ですが、どんな人物でしたのでしょうか。鬼骨という人、城取りという人、評価はさまざまです。豊かな街道を押さえた土豪の自由さと天下を見ない人物像が私の目には浮かび上がってきました。
「言語空間批評」も一年近くなり,60冊の批評ができそうです。当初に興味のあった書物が尽きるかと思いましたが、各地を紀行すると、再び興味が発展します。それでも書ききれないのが、平将門、
壬申の乱、ヤマトタケルなどがあります。
■2004/11/21
先日、
ひつじ田の写真を撮るために、見沼田んぼまで、自転車を走らせました。田んぼ遠くにはさいたま新都心のビル街が見えます。100万都市さいたま市といっても、周りは田んぼです。ひつじ田の語源についてはK・Nさんから教えてもらいました。ありがとうございます。さて、昨日、浦和レッズが初優勝を飾ることができました。試合には負けましたが、ほかも負けたので優勝が決まりました。うれしいことです。
■2004/11/8
10月末からの日程が混んでいたので、レベルダウンが続いていました。日曜日にようやく休みが取れて、ゆっくりとした時間を得ることができました。K氏はタフですね。一本の木をみるために閑谷学校まで行って来たそうです。13日には山口県の長門市までいくそうで、見習いたいものです。
■2004/11/1
K.T両氏とともに岐阜・関が原紀行は天候だけではなく、いくつもの幸運にも恵まれて無事に終わりました。特に、大垣市にある昼飯(ひるい)古墳は東海一の大規模古墳ですが、たまたま発掘作業中で、学芸員の方から様子を詳しく聞かせて頂ける機会を得ました。古墳から見渡せば近くを中仙道が通り、遠く金華山、反対側を見れば伊吹山まで、見通せます。昔は桑名までも見ることができたのではないでしょうか。関が原の戦いの折に徳川家康が最初に布陣した大岡の近くにあり、ここには福島正則が布陣したといわれています。関が原一体が見通せます。
桃配山は
大海人皇子が布陣し、桃を配下に配って勝利を得たという故事に倣って、家康が次に布陣した場所です。ここからは近くに野上一体が、遠くには関が原が見えます。反対に石田三成が布陣した笹尾山からは桃配山がよく見えます。南宮山の毛利勢を無視して桃配山まで前進した家康の動きに西軍は驚いたといわれています。ここで勝負の勢いは決まったのではないでしょうか。
紀行の最後は不破の関跡です。大海人皇子の反乱軍が不破道を塞いだことで東国を支配下に置いたことは、適切な措置でした。不破の関跡は三輪さんという民家の中にあります。大海人皇子が兜を掛けた石は畑の中にあります。松尾芭蕉が「秋風や藪も畠も不破の関」と歌ったように関の面影はありません。道を下ると藤古川です。壬申の乱の兵士の血で黒く染まった川です。672年も、1600年も昨日ようです。
今日、新しい5千円札(
樋口一葉)と千円札(野口英世)が発行されました。20年ぶりとのことですが、20年とは早すぎませんか。
■2004/10/26
旧暦の9月13日。
日本では中秋の名月として旧暦8月15日のお月見が行われ、歌にも歌われてきました。15夜お月さんです。芋名月ともいわれ、団子をサトイモに似せてお供えをしたという。これに対して、旧暦9月13日を後の名月として同じく「十三夜」として愛でられて来ました。栗名月、豆名月ともよばれ、芋名月に比されていました。各地で十三夜を拝むと物事がうまく運ぶなどの伝承が伝わるそうです。しかし、今晩は冷たい雨です。樋口一葉の「
十三夜」を読んで過ごすことにします。
■2004/10/24
昨夜は新潟で大規模な地震が起り、初めて新幹線が脱線しました。自然災害の多い年です。古来、自然災害の多発は、政治の乱れに起因するといわれています。今日でもこれは当てはまりそうです。時代の転換に当って、旧来の勢力が、改革を唱えてその場を乗り切ろうとする場合が歴史に禍根を残すケースが高いと思います。
■2004/10/9
本日は、台風が関東に近づいてきています。外にも出られず、「博士の愛した数式」(小川洋子)を読にはじめました。読み始めてすぐに自分に合わないことが分かりました。理由は簡単です。数学の原理は人間が存在する以前から真理としてある、という視点。そうだとしても、人間がいて始めて意味があるのだから、人間とともに宇宙の真理があるのだと思う。人間以前に真理があるという発想を人間がすることは、古風過ぎます。そして、作品を構成す人々が善意の人であること。「癒し」系なのでしょうか。人が悪意だとは思いません。いろんな要素をそぎ落としたような設定が、なじめないだけです。80分で消える記憶という問い設定も、微妙です。骨格となる部分で、私の言語空間の要素からは離れすぎています。
■2004/10/3
五木寛之の「百寺巡礼」が毎週土曜日に放映されています。10月2日は山口市の瑠璃光寺でした。その国宝というにふさわしい五重塔は優美です。先年、いつものK,T両氏とともに訪れた時の感動がよみがえって来ました。
■2004/9/28
今日は旧暦8月15日。仲秋の名月。でも曇って見えません。見えない月を想像しながら、月見酒です。更科紀行は芭蕉がわざわざ姨捨山の月(田毎の月)を見るために8月15日に日時をあわせて旅をした記録です。
『
俤や姥がひとり泣く月の友』は芭蕉の自信の作だそうです。月の友とは一緒に月を見る友とでも解釈するのでしょうか。
月には桂の高さ五百丈(1500m)の大樹がそびえているそうです。中国の方は発想がすごいですね。先日坂本竜馬の銅像が建っている桂浜を見に行きました。桂浜は観月の名所だそうです。したがって浜に桂が付いているのですね。伏見の銘酒『月の桂』は桂川のほとりにある酒蔵だからですが、それに月をかけたのは中国の伝承を受けているからでしょう。「
土佐日記」にも海に映っている月をみて桂の木がどうのという一文があったように記憶しています。
■2004/9/25
谷川健一の名著に「青銅の神の足跡」(小学館ライブラリー)があります。分厚い文庫本なので読むのに手間取りました。手間取るような書き方でもある、のですが。その中に、猿田彦の伝承も述べられています。「サルタヒコが土地の悪霊を屈伏させるのはその強い眼力によってである。」「サルタはもともと先立つとか先導するとかをあらわすサダルという語に由来する。つまり行列の立ちながら、土地の悪霊を屈伏させる神で、それがサルタヒコの邪視をもつゆえんである。」茨城県の東、西黄金(すな)神社の例祭にサルタヒコが先頭に立って踊っていたシーンを見たことがある。サルタの語源どおりの祭のあり方だったと思い出されました。
「サルタヒコは外部から侵入する悪霊を撃退するつよい目の力をもっていることから、サエの神ともみなされている。」私の住まいの隣の地名は道祖土である。サイドと読む。名前の由来の伝承はいくつかあるが、サイの神を祭った場所、あるいは賽の河原と同じく結界(境)を示す言葉ではないだろうか。では何の境であろうか。
現在この地に住む人々は駅を中心にして物事を見ます。浦和駅や北浦和駅まわりの市街地から離れるほど鄙であると感じてしまいます。しかし、道祖土などの地名ができた頃は、どうであったのでしょうか。見沼のほとりにある式内社・
氷川女体神社という精神世界を支配する聖域から、地図をつくってみると謎が解けそうです。見沼に突き出た岡の上に女体神社はあります。神社のある地域を宮本といい、そこからあがって神社の裏手を三室地域が取り囲むようにあります。三室地区には神仏一体の名残として文殊寺(元は女体神社の脇にあった)があり、さらに離れたところが道祖土です。道祖土には神明社があります。このあたりが氷川女体神社にとっての結界ではなかったのではないかと、思います。真岡市にも道祖土(さえど)があります。いずれも道祖神を祀った土地ということでしょう。
■2004/9/17
職場に羅漢槙があります。犬槙より小ぶりの槙です。昨日の浅間山の小噴火による火山灰が少し葉についていました。槙は今頃の季節に赤く熟した果托が食べられます。思いのほかの甘さです
永井路子の「執念の家譜」を読みました。鎌倉時代、北条氏に滅ぼされた三浦一族の話です。どうも、執念が伝わってこないので、戸惑っています。三浦一族には、九尾の狐(玉藻の前)を退治して三浦大介と大をつけて呼ばれるようになった義明が有名です。介は国の次官を、意味します。義明はまた、頼朝旗揚げの折に、三浦半島衣笠城に篭って討ち死にしました。齢89歳。義明17回忌法要を供養した時に、頼朝はまだ義明が存命としているとみなして「三浦大介百六ッ」と呼んだ。このことから後の世では、家々を回って厄払いをする人々が「鶴は千年、亀は万年、東方朔は9千年、三浦大介百六つ、向こうから鬼が来たら私しが払いましょう」と唱えたといわれています。外にもしたたかに生き抜いた一族には魅力的な人物を出しています。
■2004/9/12
勝海舟の父・
勝小吉のいとこに男谷精一郎がいます。江戸後期の剣聖といわれた人物です。高橋三千綱が男谷精一郎を題材に「空の剣」(集英社)を出すというので楽しみに買って読んでみました。15歳の精一郎が母を尋ねて、江戸から秩父まで歩く道中での厄介災難を描いた小説でした。これだけでは、小話です。このような少年時代を経た精一郎が剣聖として生きた様をぜひ描いて欲しい。幕末へいたる政治を作者がどのように考えるかによって、小説の深みも違ってくると思います。
山田風太郎はすごいと思っていたが、明治小説はすごさがいかんなく発揮されています。政治や社会を見る目の深さがすごいのです。「明治バベルの塔」には万朝報を舞台とした黒岩涙香と幸徳秋水との駆け引きから始まり、大逆事件、星亨までの人物が東京の街を闊歩しています。
■2004/8/28
「古代史津々浦々」(小学館ライブラリー)で森浩一は四万十川に触れています。この流域は北部九州の影響で、日本列島の中でも早い時期に稲作文化が行われた地域であると述べています。幡多地域には銅矛、銅剣が残っていて、それが現在でも祭礼に使われていることを驚きをもって伝えています。中国の「水経注」を引きながら、川の流れを治める儀式と関連させて論じています。
「日本の中の朝鮮文化9」(金達寿)は、すでに絶版になっている残念な書物です。9は四国を扱った本です。その中には四万十川流域の幡多地域も扱われています。波多い多国造は「北九州あたりからひろがって来て、そこに集住していた秦(波多)氏族の首長だったものであり、したがって波多とは秦国ということではなかったかと思っている。」と金達寿は述べています。新羅系統の秦氏はもとは波多と書いたと「新選姓氏録」に記されているといいます。朝鮮語のハタ=海からきたことばで、海の人、あるいは海を渡ってきた人の総称ではなかったかとも思います。高知県にはこの幡多地域のみならず、高知市の久万川近くに秦泉寺廃寺がありこの地域の秦地区です。また、四国の覇者となった長曽我部氏は秦氏の後裔を名乗っています。
この夏、高知市に泊まった宿は
鏡川沿いの唐人町にありました。宿の方に唐人町のいわれを聞いても、知りませんでした。金達寿によってそれを知ることができました。豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(壬申倭乱)の戦後に、朝鮮半島から慶尚北道の秋月城主だった朴好仁一族を長曽我部元親は高知に連れ帰りました。浦戸城下桂浜(坂本竜馬の銅像で有名な)に客分として遇されていました。しかし、山内氏に代わってからは、高知市内鏡川沿いの地に移り住み、豆腐つくりの技で生計を立てたようです。「高知市史」を孫引きさせてもらいます。「秋月氏と称して豆腐屋をなさしむ。当時、唐人町に68座の豆腐屋あり、古来此町の外、豆腐屋営業を許さざりしという、旧藩の時、豆腐屋に限り雨天には柄なき傘の如きものを冠りしが、是は韓国の遺風なりという。」これで疑問が解けました。でも地元の人は住んでいる場所の歴史に淡白なんでしょうか。不思議ですね。
■2004/8/23
数年前に立石寺を登ったことがあります。「
奥の細道」で蝉の声を松尾芭蕉が聞い山寺です。「奥の細道」を読んでみると、至るところで叙景の大きさが光ります。さすが、芭蕉です。細かい心のあやよりはわずかな言葉で大きな景色を映し出せる醍醐味が芭蕉の俳諧だと思いました。奥の細道を歩いた芭蕉は40歳台だったのですね。
■2004/8/19
いまは、ギリシャで行われているオリンピックのニュースばかりが流れています。その戦いにどのような自己満足が、自己実現があるのでしょうか。匹夫の勇とは論語の中の言葉です。西洋スタイルの自己とは別の人々のかかわりと自己実現が描かれている「論語」(中公クライシックス)をようやく、読み終わりました。訳者の貝塚茂樹は湯川秀樹と兄弟ですよね。続けて「孔子伝」(白川静)も読みました。学園闘争に時期に、それを背景に描いたそうです。関西の大学の当時の状況はいかがだったのでしょうか。武より文とは日本を含めた東洋の基本理念です。ただし、日本では鎌倉幕府以来軍事政権が続いたために、言葉が別の意味に取られてきたのではないでしょうか。 「論語」は結構時間がかかりました。半年近くかかりました。
今読み始めてのは、杉浦明平の「小説 渡辺崋山」です。1971年に発行された2巻ものでこれも時間がかかりそうです。ゆっくりと読んでみたいと思います。
■ 2004/8/1
7/29から31まで高知県に行きました。目的地は四万十川です。台風10号が来ているので気にしながらの旅でした。最初の
室戸岬はすでにあわ立っていました。高知で宿を取った場所が唐人町で、朝には蜆取りが
鏡川の中に入って入るのを見たのも驚きでした。一日で2万円にもなるとは宿の主人の言葉です。一路、西に下って四万十川に向かいました。窪川町では「郷土の偉人 谷干城」の生家跡を見ました。あとは四万十川です。昼食には天然うなぎを馳走になりました。腹開きで蒸さない蒲焼は、関東での蒲焼とはまた違う料理です。
中村市を一望できる城構えの幡多郷土資料館をぐると回って、幸徳秋水のお墓に線香を立てました。幸徳秋水も中村市にとっては「郷土の偉人」と紹介されています。幸徳秋水(伝次郎)は幼く「神童」と呼ばれていたそうです。「帝国主義」(岩波文庫)の解説で山泉進は、秋水の妻であった師岡千代子が「風々雨々」で秋水の先祖を「安部晴明の末裔で幸徳井某と云う人」と書いたことを紹介しています。
陰陽師の幸徳井(かでい)が応仁の乱を逃れた一条教房に従って幡多の荘園に土着したという言い伝えがあったのでしょう。
秋水の実家は薬種業と酒造業を営む町屈指の商家でしたが、若くして父が死ぬと没落が始まります。
さて四万十川です。河口近くを川下りをしました。河口で四万十川は狭くなっていて、台風の影響で白波が立っていました。その晩のさわち料理は天然うなぎ、鮎、手長えび、朝日かになど豪華な料理を堪能しました。
最後の31日は台風が高知県西部に上陸するとの事で帰りの飛行機も全便欠航。やむなく四国を横断し、尾道から新幹線で帰りました。企画し運転を続けてくれたK,T両氏に感謝。
■ 2004/7/20
松本清張の「或る『小倉日記』伝」を読みました。芥川賞を得た作品です。
森鴎外の小倉時代の日記が紛失していたことの題材をとった小説です。評価は、
坂口安吾の次の言葉以上に述べるものがありません。「小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はこれと趣きが変りながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った。」将来を見通す坂口安吾の目のすごさです。
■ 2004/7/17
原島礼二の「古代東国の風景」(吉川弘文堂)に、
氷川神社の例大祭の話が載っています。夏祭りで祇園御霊会のひとつ。供えられるものが出ています。「小麦の茎を御畳とみし、小麦の供御、一夜造りの神酒、きすのしらほし、芽のおりはしをそへ」(『氷川大宮縁起』)にあるとおり、今でも御輿は橋の上に敷かれた小麦の茎の蓆の上に安置され、小麦の神供、一夜造りの神酒、鱚の干し物が供えられる。」
私が幼い頃、父の実家である吉見町を訪れると、よくうどんを打って食べさせてもらったことを思い出しました。武蔵の国の旧入間川、旧荒川沿いは小麦文化であったのでしょう。
■2004/7/4
ようやく梅雨の季節が終わるようです。今年の前半は、強い日差しがあるかと思うと、台風が連続してきたりと不順な季節ばかりでした。梅雨とともに始まった腰痛は、今日も治まらず、10年ぶりの苦しさにあえいでいます。
土井晩翠の「天地有情」はまるで劇画調です。その中の「星落秋風五丈原」は祁山悲秋更けて 陣雲暗し五丈原と、諸葛亮の物語がはじまります。出師の表は卒業した高校に掲げられていたので懐かしいものです。「星落秋風五丈原」のなかほどに「丞相病篤かりき。 末は
黄河の水濁る 三代の源遠くして 伊周の跡は今いづこ、 道は衰え文弊ぶれ 管仲去りて九百年 楽毅滅びて四百年 誰か王者の治を思う。」と歌っています。壮大ですね。
烏山喜一がコンパクトな中国小史「
黄河の水」を文庫本で出していました。読み返してみようと思い立ちました。
■2004/6/20
「瀬戸内の民俗誌」は瀬戸内海に住む人々の歴史が描かれています。沖浦和光の風土に根ざした眼差しが注がれています。宗像、安曇・住吉、隼人、また朝鮮半島からと海を渡って瀬戸内に人々がやって来ました。それぞれの海神を伴って。そして、平家伝説に表れる敗北、織田・豊臣・徳川による全国統一による村上水軍に代表される海の人々の敗北。それらが折り重なって瀬戸内の島々に陰影を与えています。先日、K,T両氏が大三島の大山祗神社に行った話しを思い出しながら、この本を読みました。
■2004/6/13
中国岐山県の地中に巨大な陵墓群が眠っていることが発見された記事が載った(朝日新聞2004/6/8)。周の武王の曽祖父の時代に入植した岐山のふもと、周原遺跡から西へ18km、周公廟の北側での調査です。周の王墓群かそれに準じる高い身分の一族の墓とい見方が強まっているといいます。もし、周の王墓が発見されれば、殷跡蓆の発見に相当するもの。中国古代史の松丸道雄東京大学名誉教授は周の遺跡の発掘意義について、周が孔子に始まる儒教の理想社会、特に周公旦を理想の人としたこと。また日本では
織田信長が天下を取ろうと乗り出した時、拠点に「岐阜」と名づけたとされること。岐山から出発した周の武王に自分をなぞらえたこと、などを上げています。
そこで、酒見賢一の「
周公旦」を読んでみようと思いました。
■2004/6/7
「源頼朝の世界」(永井路子)を読んで、「歴史の変化というと、紙芝居のように一枚の絵からぱっと図柄の変わった次の絵に移るような移り変わりを思いうかべてしまう。」「歴史の中では栄えと滅びが一つの時間を共有しているのである。」といわれると、なるほどと思います。連続のうちに断絶が準備されているのでしょう。そして、頼朝の流刑20年という長さの感覚。この長さの感覚を自分なりに理解しようと思います。不遇といっては過酷な時間の長さにもかかわらず、来るべき日に向けて意識を維持することが出来た人々のみが、図柄を変えるとができるのだと、思います。
しかし、個人の人生は限りがあります。この変化の波がいつ来るかは予測が付きません。限りの中に栄えと滅びの時間を見ることは難しいこととも思います。では、個人を超えた意識を維持することは可能なのでしょうか。永井路子が描いた軍事政権確立期においては、一族としての意識の維持が問われました。では、21世紀のこの世では、どのような意識の継承が問われているのでしょうか。
■2004/5/30
大田区立郷土博物館はすぐれた研究をしていると思います。「
武蔵国造の乱」を発行しています。このなかには館長である西岡秀雄が1994年に 「武蔵の開拓と国造」と題して講演を行っています。そこにはグローバルな視点に立った発想がちりばめられて驚嘆します。例えば青銅器文化です。発祥の地メソポタミアのウル・シュメール語では銅のことを「ウルドウ(urudu)」という。それが中国語では「ドウ(du)」、日本語では「ドー(do)」。鋳物はウル・シュメール語では「シムグ(simug)」、ヨーロッパへ行きドイツ語「シューミドゥ(Schmied)」、イギリス語では「スミス(smith)。鍛冶屋のことをスミスという。Gがとれたのが中国の鋳物の神様「シュー=蚩尤」。日本に来るとSがとれて、「イムク(imuku)」。変化して「イモジ(imodzi)=鋳物師」或いは「伊吹山(ibuku)、伊福部(ifukube)、五百木頭(ifukibe)」などにつながり、秩父に在る銅の神様を祭る椋神社のmukuはイムクのIが落ちたもの、との解釈をのべています。
グローバルなつながりこそが、大切です。そして、在地に根付いてさまざまな変化を社会にもたらします。郷土の話を聞いていると郷土自慢や愛国(郷)心が過剰に出てきて辟易することがあります。どうしてでしょうか。
■2004/5/12
川路聖謨の「遺書」にこんなエピソードが書かれています。子を思う親の気持ちが伝わってきます。
養家の要望で、18歳で就職活動を始めます。それに対して実父はこのように切ない気持ちを述べます。「彼はかなりの材木になるかもしれずと思い、78歳の時よりこやしをなし、わろき芽はかり成長の後をはかるに、みなよりて、縁日の鉢植にして売らむとす。さてさて是非もなきこと也。」大きく伸ばすために育てたのに、少しばかりの「望み」にたわめられようとしている息子を見る実父の姿。「縁日の鉢植」とははならなかった
川路聖謨を見ることもなしに、実父は逝ってしまいました。
■2004/5/1
映画「梟の城」を見ました。篠田正浩監督が司馬遼太郎の小説を映画化したものです。コンセプトが気に入りました。
主人公葛籠重蔵に中井貴一を配したのも頷けます。重蔵は伊賀の忍者として幾人にも化けているうち自分が何者なのか、心の真実はどこにあるのか分からなくなります。秀吉暗殺は、自分自身の存在証明です。かつて伊賀の里は信長の5万人の大軍によって灰燼に帰されました。その一員であり、今日また朝鮮出兵で民を苦しめている秀吉暗殺により、アイデンティティを得ようとします。
そして、秀吉の寝所。忍び入った重蔵は秀吉の朝鮮出兵をなじります。秀吉は自分は民意に従っただけで、民意に逆らえば瞬く間に権力の座から追われることを語ります。そして、このような「私は誰だ」と逆に重蔵に問います。秀吉もまた自分が何者なのかを失っているという設定です。重蔵は笑って秀吉を一殴りして立ち去ります。
それから4年後、山中の民家のシーン。いま小萩と暮らす重蔵。小萩は採ってきた野草についてひとつまたひとつと名前と効用について尋ねます。それに答える重蔵。それはものと名前とを一致させる作業。まるで自分とは何かを作り出していく様子です。小萩も、滅ぼされた近江半国の守護佐々木家の姫君として偽りの人格形成をされて育てられた「くの一」でした。
この小萩を演じるのが鶴田真由。どこか北政所役にでている岩下志麻似です。
■2004/4/24
情報セキュリティは究極のアナログ以外では保障できないと思います。公的な情報通信手段を使えば、それを維持する側は必要とあれば個人情報を開けることは当然です。明治期において「
火はわが胸中にあり」で反乱兵の手紙が押さえられ裁判資料とされたことが描かれています。
「評伝
佐久間象山」でも次のようなエピソードが示されています。安政の大獄で弟子の吉田松陰をはじめ越前藩の橋本佐内、頼三樹三郎(頼山陽子)、梅田雲浜などが殺され、直前にコレラでなくなった梁川星巌も家宅捜査がされているようです。その中で佐久間象山が逃れえたのは、梁川星巌との音信を弟子の馬場常之助が直接手渡し、また直接返信を持ち帰っているからであるといいます。当然、、梁川星巌の妻紅蘭が証拠隠滅のためにすべて焼却処分したことも大きいと思います。安政の大獄の際、幕府は京都の飛脚屋すべてを探索したという。公的な情報通信手段は、いざとなれば信書の秘密など、吹けば飛ぶようなお題目なのです。
インターネット時代、必要とあれば覗かれるのです。インターネットの画期性は国境を越えることにあります。これを利用すべきです。しかし、一番大事な情報はアナログで保管し、また手渡すことです。
■2004/4/18
松本健一は、そのすぐれた著書「
評伝 佐久間象山」に、幕末の志士のほとんどは象山か、
横井小楠のどちらか(もしくは双方)の門人だった、と記しています。この中には会津公用人山本覚馬もいます。同じ公用人に広沢安任がいます。象山暗殺の原因となった天皇の彦根遷座に関して当時会津藩公用人であった山本、広沢との連携が評伝には述べられています。広沢といえば、
ある明治人の記録で述べたように会津人の明治時代への対応の一典型です。広沢には「象山先生を懐ふ」という文書があり、ここで天皇の彦根遷座が原因で暗殺された根拠を松本は見ています。人のつながりは思いもよらない広がりをもっています。
象山の門人には、吉田松陰、
小林虎之助(米百表)、河井継之助、武田斐三郎(五稜郭設計)、高杉晋作、宮部鼎蔵、加藤弘之,山本覚馬、津田真道、坂本竜馬、橋本佐内、真木和泉などを数えることが出来ます。なお、勝海舟は象山にとっては義理の兄に当ります。海舟の号は象山邸にかかっていた額を譲ってもらってつけた号です。
■2004/4/15
ある明治人の記録に鶴ヶ城の写真を載せました。約7年前の写真です。息子が撮った修学旅行の写真です。この城が燃えたと錯覚した少年たちが自刃したのが白虎隊の悲劇です。柴五郎少年も城下へ戻ろうとしましたが、戻りきれませんでした。お母さんから妹まで自刃したのが、後の竹橋事件と同じ8月23日でした。命日であると、回想しています。
■2004/4/7
「
花冠の志士」に蛤御門の弾痕と久坂玄瑞が斃れた鷹司邸跡の写真を加えました。春は苦手な季節です。体調がすぐれないのに、年度代わりの仕事が押し寄せてきます。忙しいとものを考えられなくなるのか、忙しいときこそあれこれ思うのか、人それぞれのようですね。
■2004/4/3
澤地久枝「
火はわが胸中にあり」を読みました。文春文庫版も廃刊となり、図書館でしか読めません。近衛兵が天皇への強訴を図った事件で、ほとんど記録がありません。残念なことです。
この事件には埼玉県から5名の処刑者を出し、うち3名が秩父出身です。澤地は政府側にあった伊藤や山県を念頭において、「草莽崛起、豈に他人の力を仮らんや、恐れながら、天朝も幕府・吾が藩も入らぬ、只六尺の微体が入用」と語った
吉田松陰の「不肖の弟子ではないかという反発」を語っています。当時の陸軍卿近衛都督山県有朋は事件後、さらに兵士への引き締めを図ります。その結果はどうでしょう。
こんな数字も澤地は挙げています。竹橋事件の処刑者全員が下士官と兵。西南戦争の陸軍の死者6023名中士官は4.2%253名。昭和17年ミッドウェー海戦の日本側戦死者3057名中士官4%122名。同海戦によるアメリカ側戦死者362名中士官31.8%、下士官38.1%、兵30.1%。日本の士官は卑怯者であったと、この数字は語っていないでしょうか。そして消耗品のように兵を浪費する軍隊であったことも見えてきます。意図的でないならば、無能と言うことでしょうか。
■2004/3/27
信長の残虐性を示し、狂いだした兆候として引き合いに出されるエピソードがあります。天正2年(1574年)正月朔日に朝倉義景、浅井親子の首を薄濃(はくだみ)にして、供饗(くぎょう)に据え置いて、酒宴をしたというのです。ところは岐阜城。斉藤龍興から美濃稲葉山城を奪った信長は沢彦(たくぜん)の薦めによって周の文王が岐山に興って天下を平定した故事から稲葉山城を岐阜城、城下町井口を岐阜と改め、併せて「
天下布武」の印判を使用し始めました。このことからも、中国の故事に倣う作風も信長にはあると思われます。それだけではなく、信長のオリジナル性ある試みも中国のみならず、南蛮での施策も影響されたものがあります。
この髑髏杯も、中国の故事が影響しているのではないかと、思います。中国では春秋時代から戦国時代への転換を晋の国が家来筋である趙、魏、韓(三晋)に分割された時を契機とします。晋陽に立て篭もった趙襄子(無恤)を水攻めにをする知瑤に対して魏、韓を裏切らせて破った後、この知瑤の頭蓋骨を杯として使ったことがあります。「孟夏の太陽」で宮城谷昌光は「頭蓋骨をさかずきとしてつかう風習は狄にあり、狄の血が無恤にそうさせたともいえる。」と述べています。信長が時代の転換をもたらした戦いの故事に倣ったのだと思います。
■2004/3/7
昨日、日帰りで京都に行ってきました。主に山科を中心に見て回りました。
坂上田村麻呂の塚からはじめ、明智光秀の胴塚、同じく竹やりで刺された
明智藪などマイナーな史跡を巡り、醍醐寺(秀吉の花見で有名)の五重塔、唐門、三宝院の狩野山楽の障壁画等国宝を見て雨月茶屋でお食事を頂きました。
明智藪も含めて、小さな住宅の密集地にあり、かつての面影はありません。ただし、重要な街道が通っていたところであることは歩いてみて実感するところです。また、醍醐寺の三宝院にある国宝がいづれも傷みが激しいようで、手立てが必要に思われました。国の宝とするならば、それなりの財政的な支えが必要です。
午後は、蛤御門、清水邸の椋、鷹司邸、
横井小楠殉節碑などを見て回りました。霙は横殴りの雪に変わり、探訪を中止して暖かい場所へ避難した一日でした。
■2004/3/1
「夢酔独語」は幕末の江戸の御家人の世界が御家人言葉で語られているユニークな自叙伝です。司馬遼太郎は子母澤寛の祖父梅谷十次郎について語っています。徳川の御家人で彰義隊に加わり、五稜郭でも戦い逃れて北海道の厚田村に落ち延びました。竜の彫物を背中に背負って、将軍を「旦那」と呼び、徳川を「とくせん」と呼んでいたといいます。ちなみに上士である旗本は将軍を上様と呼んでいました。孫をひざの中に入れ、面白い話をしている最中に子母澤が尿意を覚えて立ち上がろうとすると、ここでしろと湯飲みの中の酒を飲み干し、それへさせた。そしてそのまま庭に投げ捨てたエピソードが述べられています(崖と入江)。十次郎の姿はまるで勝小吉を思い出させます。 このような風景は崩壊しつつある武家社会のただれを感じさせます。
しかし、前に書評した
「ある明治人の記録」にある会津藩では武家社会の倫理が背骨(モラルバックボーン)のように通っている風景を見ることができます。会津では子どもたちはグループを作って遊び、その中でトラブルがあった場合は通りがかった大人に是非を問うという共通の社会倫理が成り立っています。また、家に来訪者がある場合は決して声を荒あげないなど人間として生きるモラルが形作られています。まるで、別の時代の別の階層のようです。その社会が戊辰戦争で一気に崩れたとき、大きな悲劇を招いたのです。
さて、どちらが幸い多い世界であったのでしょうか。
■2004/2/24
多摩は4つあった。三多摩は元は神奈川県。後に東京府に編入された。編入された理由もなにやら訳あり。「歴史で読み解く 東京の地理」青春出版社には、以下のような記述があり、別の東京があったことを知ることができした。
「1893(明治26)年に神奈川県から三多摩地域が東京府に編入された。これに先立つ1871(明治11)年郡区町村編制法により、多摩郡は4つに分割。東多摩郡(現中野、杉並区)は東京府へ。西多摩郡(現福生市以西)、南多摩郡(現八王子市以南)、北多摩郡(現昭島市以東)は三つの多摩で三多摩。これらは神奈川県に属した。」江戸末期から生糸を介して横浜と結びついていたから、これは不思議ではありません。
「東京府は水管理を行うのに神奈川県に属していては不便という『水道問題』などを理由に東京府への編入を主張。しかし、実は1892(明治25)年の松方内閣による議会解散、総選挙に続く政治情勢の中で自由党の基盤である多摩と神奈川の分断をもくろんで、東京編入を実施したという説もある。神奈川県の人口の1/5。面積の1/4が東京府に移った。」
■2004/2/22
昨日今日と暖かい。杉の花粉も飛び始めた。
司馬遼太郎が紀州について書いた短文がある(雑賀と孫市のことなど)。その中で、おもしろい国だとして理由を三つあげている。ひとつは骨太なひとを生んだ。第二に醤油や鰹節などを生んだように創意工夫の盛んな土地だ。第三に紀州方言には敬語がない。このことは、紀ノ川の河口の雑賀の中世時代の賑わいと関連するという。
商工業地域としての賑わいと、米穀経済中心の日本的な封建体制との乖離がみられる。日本語から敬語がなくならない限り、自由平等な社会にはなりません。
■2004/2/16
札幌の開拓の村に一昨日、行ってきました。不在地主であった有島武郎の生家を見ました。しっかりとした作りですが、思っていたほどの豪邸ではありませんでした。鰊御殿の青山家の壮大な作りと比較してみても、相違がはっきりとします。
■2004/1/31
金子兜太は1919年生まれ。埼玉県は
秩父にある皆野町の出身の俳人です。初期の句集「少年」に浦和で作った俳句の中に
舌を帆柱のけぞる吾子と夕陽をゆく
という一句があり、わたしが始めてこの句を見たのは同じように子どもを抱いて育てていた頃です。優しい写真を見ているようです。
中学生神語りおり雪積む藁
切株あまた雪に現われ不安つづく
蝶のように綿入れの手振り吾子育つ
など昭和22年から23年頃の心の風景が描かれています。今では綿入れを着る子どももいないでしょうが、吾子を蝶のように見たいと思う親心はイメージできます。背伸びして神について語り合うのは旧制中学校の生徒でしょうか。微妙に現れた切り株に憶えた不安感と人生への不安感とを重ねた句もいいですね。
■2004/1/26
604年に聖徳太子によって作られた「憲法17条」の精神は「和を以て貴しと為し」であると言われ、これが日本人の心の本質であると論じる方もいたように憶えます。しかし、これは論語の「用和為貴」と通じます。中国の古典の心と同じであり、日本固有というわけにはいかないように思えるのは私だけでしょうか。
■2004/1/20
歌は心を切り取るよい表現手段だと思います。
1976年に当時17才の大谷雅彦はこのように歌っています。現実離れした絵画のなかに心楽しく引き込まれていきます。水の歌がいい。
山水を飲みつつはるか来たりけりこの道端に山吹の花
水近き匂いがありて幽かなる馬のひづめの音のみ聞こゆ
あるいは大正生まれの山崎方代さんの歌。第二次世界大戦で負った破片はこめかみを痛め続け、視力を更に奪っていったという。「土瓶の尻」「眼玉」「いじれば」など言葉の存在感。
砲弾の破片のうづくこめかみに土瓶の尻をのせて冷やせり
宿なしのわれの眼玉に落ちてきてどきりと赤い一ひらの落葉
こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた
■2004/1/12
関東でも早いところでは梅の花がふくらんできました。梅といえば思い出すのは、吉田松陰のことです。松陰は梅は百花の魁、と詠みました。いち早く咲くことを愛でたのでしょう。あるいは
与謝蕪村は「白梅や誰が昔より垣の外」と歌います。垣根のうちではなく、咲く白梅は家が立つ前からあった古木なのでしょう。
今日はこのあたりでも成人の式がありました。式に参加すること自体は意味もなく、幼き頃の友人との再会が目的であるかもしれません。梅は香りです。香り立つ人生を切り開いていってほしいと、そんな思いがあります。
■2004/1/5
今日は
横井小楠が京都で暗殺された日です。横井小楠についての書評を書きました。横井小楠を知ったことは、私にとってありがたいことです。
暗殺に加わった備前国上道郡の津下四郎左衛門について伝記を森鴎外が書いています。「私の立場から見れば、横井氏は栄誉あり慶祥ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎(おうきゅう)ある家であつて、私はそれを歎かずにはいられない」という四郎左衛門の子息の嘆きを聞き入れて書いたものです。
■2003/12/28
網野善彦の「中世的世界とは何だろうか」(朝日選書555 1996年)は、「これまで、『近代化』を志向してきた人々は、国際的な視点を欠いた日本人の『島国根性』を批判し、『日本的なもの』を賛美する人々は、日本文化の個性が『島国』なるが故に育まれたと強調してきた。」これらは学問的な根拠のない偏った『俗説』にすぎない、との考えから中世の意義を具体的な事象を通して明らかにしている好書です。「均質な日本人」へのアンチテーゼが描かれています。そのうちのひとつに西と東の異質さが強調されています。それはそれで納得するものがありますが、単純に西と東ではなく、近畿を中心とした都とそれ以外の辺境との相違も相当にあると思います。
均質である必要は今後ともないと思いますが、そして、島国概念に縛られる必要もないと思いますが、不均質は西東以外にもさまざまなファクターで考えて見たいと思います。そのことが、これからの不均質による将来の豊かさを描く仕方ではないかと思います。
■2003/12/19
横井小楠は幕末の儒学者です。松浦玲が「思想」1973年10月に「文明の衝突と儒者の立場」という優れた論文を書いています。小楠関係の一人者である松浦の論文であるから読み返したわけです。その中に、アメリカのハリスが強引に修商条約を結ぼうと幕府に交渉をおこなっている場面が出てきます。そこで信州松代藩で蟄居謹慎を余儀なくされていた佐久間象山が一人、状況を正しく把握し、しかも幕府宛上書稿を提出します(安政5年4月)。その折に、書評で取り上げた晏嬰が出てきてびっくりしました。松浦論文の脚注にありました。あわてて、
佐久間象山の本文に当たって(岩波書店、日本思想体系)、その脚注に左氏春秋にある話なので、本屋へ行って購入してきました。晏嬰が日本でどのように受容されていたかを知りました。中国では意見を言うときは、古事を引いてするとのこと。日本でもかつてはそのようでした。会話や意見交換の共通の基盤があったということですね。
■2003/12/6
白兎荘住人によるホームページを本日立ち上げます。近頃、身近な現実世界の対応で慌しく、なかなか言語空間に集中できませんでした。年内には形を作ろうと決めていましたので、始めることにしました。快く写真を提供してくれている岡山のKさん、山口のTさん、今後とも宜しくお願いします。
■2003/11/24
「
ある明治人の記録」はいつ読んでも悲痛なものです。飢餓だけであれば、北海道へ屯田兵など移住した人々とて同じような境遇であったと思います。五郎少年がオシメ粥や蕨団子で冬を過ごしたように、多くの移住者もたくさんの苦労を重ねました。東北列藩同盟に加担した仙台藩の支藩である亘理藩2万3千石はわずか58石に削られ藩士1362戸が路頭に迷うことになりました。北海道有珠郡への入植しか選ぶ道はありませんでした。ホタテの貝殻を椀代わりにしたため、子ども達は口を切り、血を流しながら食べました。毎日が自生の蕗ばかり食べるので、「仙台人は尻の穴まで蕗になる」と言われたそうです(「屯田兵のうた」理論社)。「記録」が優れているのは自分をも客観的に描写できる柴五郎の才能です。この客観的な描写力が恥辱を雪ごうとする一心さを印象づけるのです。
■2003/11/14
見沼を見下ろす舌状台地にある
中氷川神社に出かけました。ここでも女体神社と同じく鳥居は見沼に向かって建っていました。12月8日の祭りの準備に来ていた神主からお話を頂くことが出来ました。ここも、社の木立が立派です。その後、近くにある鎌倉公園(岩槻太田氏に属し、後に徳川氏の旗本となった松野氏の陣屋跡)をめぐってさらに、東新井交差点にある片柳の市場跡(岩槻太田氏が開いた)・天満宮まで行ってみました。秋の暖かな日でした。
■2003/11/4
二三日前から、胃袋の裏側の背中が張って、昨夜は相当痛みました。今日は、土曜日出勤の代わりの休日。とは言っても休みでないと修繕もできない場所があるので、業者が入り、そのため時々顔を見せに行く。その合間を縫って、針治療に行く。ついでに
大宮の氷川神社に行き写真を撮り、それを研究ノートに貼り付けました。
■2003/10/25
刻は刻むものです。言語空間批評は白兎荘住人が書籍批評を中心に、様々なメディア、そして刻を刻む様々な情報、そして体験を情報空間に表現しようとするものです。この「刻の手帖」は日々つれづれなるままに気付いたことを書き留める雑記帳です。