自転車旅行を計画している君たちのために!
古き良き昭和30年代の出来事東京ー九州サイクリング
1960年(昭和35年)
numades
昭和35年6月18日、神宮外苑に集結した若者達は安保反対のデモ行進を挙行、15日に死亡した東大学生の樺美智子さんの”かんばを返せ"の喚声がこだました。<写真は筆者が撮影したもの>
はじめに
  1960年(昭和35年)6月15日午後、安保反対、国会即時解散を要求し、全学連主流派の学生2万人が国会周辺に集合、国会構内を占領して抗議集会を開いた。
この乱闘で東大生樺美智子さん(22歳)が病院に収容の途中で死亡した。
「先生や学友に守られて 樺美智子さんの国民葬」(毎日新聞夕刊)が東京日比谷公会堂で執り行われた。
この時期、デモ隊に参加したノンポリ学生が、東京の喧噪を逃れるように、東京を飛び出し、西に向けてペダルを踏み続けた。
まだサイクリングブームは到来して居らず、小中学校での宿泊も許された時代であった。

  しかし、無銭旅行は一人旅が鉄則。私が実行した2年後に東京放送(今のTBS)がサイクリング番組を放映し、サイクリングブームが到来した。多くの若者が無銭旅行に出かけ、宿泊先で略奪を繰り返した。
とくに北海道での被害は大きかった。以来、何処でも無銭旅行をする人たちはボイコットされていった。
これも、集団のなせる技、一人旅だったら、こんなことは起きなかっただろう。

若者に自転車の乗り方を教えているとき気がつくことは、スピードのだしすぎである。最近は自転車の質が良くなり、ギヤチェンジする事によって、乗り心地は良くなった。しかし長距離を乗るためには、自分にあったスピード、1日間の走行距離、走るときのマナーなどを知らなければならない。
今や全国何処でも、舗装された道路が続く。私の時代のような、パンクに苦労することはないと思うが、修理要領くらいはマスターして出かけてください。
アイゼンハワー・アメリカ大統領訪日の最終打ち合わせのため、ハガチー米大統領新聞係秘書が10日に羽田空港に到着した。警官隊に護られたハガチー氏一行はヘリコプターに駆け乗り、飛び乗って/飛び去った。
このため、阻止しようとする全学連主流派は6月15日に国会乱入して警官隊と衝突、投石する学生に襲いかかった警棒で女子学生が負傷し、亡くなった。
ノンポリ学生の多い我が大学でも、6月15日の樺美智子さんの死は多くの学生のやる気を起こさせることになった。
夜遅くまで、討論が繰り返され、翌日には『樺を返せ』のシュピレヒコールを叫びながら、警視庁の玄関前に座り込んだ。
しかし、6月19日午前零時、新安保は自然承認された。
岸退陣を求める学生4万人は首相官邸を包囲し、座り込んだ。
この結果、自民党総裁に池田勇人と石井光次郎が立候補、302票対194票の大差で池田勇人が第4代総裁となった。
このような状況の中で、私は、3段ミッション付きの改造自転車で、西に向かって出発した。20才の記念事業として、地方の学生に「死の乱闘」を伝えるために、九州・四国を廻って大阪に戻り、北陸に出て北海道に向かい、東北を経て東京に戻るという計画であった。
◆行程◆
千葉県我孫子→松戸→神奈川県大磯海岸→静岡県原海岸→静岡県浜松→愛知県清洲→彦根→京都→大阪→姫路→岡山県倉敷→広島県西条→山口県熊毛→山口県宇部市→福岡県福岡市→福岡県武雄→長崎→熊本県宮原→熊本県水俣→鹿児島県川内→鹿児島県小浜→宮崎県庄内→宮崎県宮崎→宮崎県日向→大分県宇藤木→熊本県阿蘇→大分県別府→愛媛県松山→愛媛県川之江→香川県鳴門→大阪
※自転車走行距離:約2593キロ
この計画を実行に移すために、様々な出来事があった。まず、丈夫な自転車を手に入れることだ。まだ、変速装置が出始めた頃で、購入するとき内装にするか外装にするかで迷った。
自転車は競輪用の自転車を多く作っているセキネ。たまたまアルバイト先の社員が手放しても良いということを聞いて、安く購入した。その自転車に外装の三段ギヤを取り付けた。
次は親父を説得すること。結局、ハガキを毎日投函することを条件にOKがでた。後で聞いた話だが、親父はお店に大きな地図をぶら下げ、いまどの辺を走っているかを毎日記入していたとか。しかし、ハガキは町中のポストに投函したのと山の中のポストに投函したのでは、配達が前後する。そのため、途中で引っ返したのだろうかと迷ったこともあったそうだ。
次は資金の問題だ。アルバイトで稼いだ金で必要なものを買いそろえ、結局手元に残った金は10,210円、餞別が3,000円、借金が5,000円で総額18,210円であった。
初日(7月19日)千葉県我孫子→千葉県松戸:17キロ
【宿泊は松戸・同級生の下宿】

この日は宮崎の実家に自転車で帰るという大学の同級生の下宿に泊まった。お互いに意見を出し合い、計画を練った仲間だ。
2日目(7月20日)千葉県松戸→神奈川県大磯:90キロ/107キロ
【宿泊は大磯海岸・テント】

7時に松戸を出発、大学の正門で記念写真を撮った後、東京に向かった。出足は順調、水戸街道を西に向かう。都心もすいすい、4時30分には大磯海岸に到着した。街道筋に使われていない別荘があったので、その中庭にテントを張り1泊。


<写真は千葉大学工学部正門前の愛車>
3日目(7月21日)大磯→静岡県原:78キロ/185キロ
【宿泊は静岡原海岸でテント】

小田原城上を見学したのち、箱根にとりついたのは8時30分頃であった。湯元の先からは自転車を押しての箱根越え。湯元・塔ノ沢・宮ノ下。このあたりから急な坂道になる。自転車を押し始めてから、何度休憩したか。時間も大幅にかかっている。
しかし、ここまでの苦しみは芦ノ湖の素晴らしい眺めに癒された。ホットしたのもつかの間、ここから十国峠までの登りも大変だ。
とにかく体力は完全に消耗し、惰性で足を前後に動かしているだけ。意識も朦朧としてきた。
これだけ時間をかけて登ってきた静岡県との県境、ここから三島までたったの30分で下ったのだから、すごいスピードだ。
自転車でも60キロは出せることを知った。とにかくハンドルを握る手に力が入り、余りの恐ろしさに目線は前輪を支えるフレームを見るだけが精一杯。地上に着いたときの満足感と空腹感が頭を占領した。
沼津の海岸線に伸びる松原は許可なしでは使えない。
やむを得ず、原の海岸まで行きそこにテントを張った。
4日目(7月22日)原→静岡県浜松市船越町:134キロ/319キロ
【宿泊は浜松・樋沢自転車店】

場所を提供してくれたお店の方にお礼を言い、吉原に向かった。パルプ工場からの臭気は、慣れない我々には耐えがたい苦しみである。良くもまあ、こんな所で生活している人がいるものだ。静岡は大きな街だ。女の人が皆美人に見える。必要なものを買いそろえ、佐夜の中山という峠越え。磐田で昼食。天竜川を渡ると浜松市。すでに7時が過ぎている。橋のたもとで涼んでいた中年のおじさんが一緒についてきた。泊まるところを探しているのなら、俺の所に来いと誘ってくる。言われるままに、その人の後をついていった。自転車屋のご主人で、サイクリング協会の理事を務め、各地のロードレースに参加しているという。若い人が寄ってきては、自転車の話をしていく。奥さんもご主人に似て気さくな人で、食事の用意をしてくれたり、蚊帳を吊ってくれたりと良く動く。
風呂に入り、疲れをとる。

<写真はイチヤ自転車店>
5日目(7月23日)浜松→愛知県清洲町:109キロ/428キロ
【宿泊は清洲・清涼寺】

朝起きると自転車をこまめに点検し、サドルの高さなどを調節してくれた。朝食をご馳走になり、次の目的地に向かう。浜名湖を通り抜け、豊川で道を間違えたりしたが、岡崎へ。味噌のにおいが街中に漂う、そんな気がする。名古屋に入り、従姉妹がつとめる中京病院に電話して、叔母さんからの用件を伝える。
名古屋では泊まるところも見つからないだろうと、食事だけを済ませて通過。織田信長の居城のあった清洲のお寺に泊めてもらうことになった。最初は庭を借りるつもりだったが、土蔵を使わさせてくれた。お風呂に入り、奥さんと盆踊りを見に出かけた。


<左の写真は岡崎城、右は浜名湖>
6日目(7月24日)清洲→彦根:97キロ/525キロ
【宿泊は彦根旭森小学校校庭でテント】

5時頃いったん目を覚ましたが、また眠ってしまい、起き出したのは9時近くであった。朝食が用意されている。赤味噌で作ったみそ汁。初めてだが、しょっぱいみそ汁だ。のり、なすの芯焼などがでた。
またまた11時近く、パンとお茶がでた。とにかく、お袋替わりに色々と面倒を見てくれる。
お茶を戴いた後、早々にお暇した。
大垣で志乃だ飯という混ぜご飯を食べた。ここで、養老の滝を見に行くという彼と別れ、いよいよ一人旅となった。垂井、関ヶ原までは舗装されているが、その先は車が通るとほこりで先が見えなくなる。これは東海道ではなく、中山道なのだそうだ。醒の井辺りからまた道が良くなり、彦根町には行った。小山の上に小さなお城が建っている。旭森小学校の校庭を借り、テントを張った。

<清洲・清涼寺/家族の方々>
7日目(7月25日)彦根→京都:60キロ/585キロ
【宿泊は京都・育英友の会学生会館】

琵琶湖に沿って京都に向かう。特に印象に残ったのが近江八幡。八幡神社の大鳥居、近江八幡電報電話局の趣のある建物、水郷にイメージの水路、和船がもやってある。草津のうばがもちも美味しい名物品だ。所で、今日は大失敗をしでかした。あまりにも暑いので、半ズボンに履き替えたのがいけなかったのだ。直射日光に晒された太股は見事に火ぶくれ。あわてて旅館に連絡し、宿泊を申し込んだ。旅館(南禅寺下川原・学生会館・1泊200円・朝食60円)に直行し、水で冷やしたのだが、既に遅し、その日の夜は、あまりの痛さに寝付かれなかった。しかし、部屋に閉じこもっているのも癪なので、同部屋の福井大学学芸学部学芸学科の学生、杉田晃一さんと京都見物に出かけた。
<写真は京都御所>
8日目(7月26日)京都
【宿泊は京都・学生会館】

太股はパンパンに腫れあがり、大きな水ぶくれが出来ている。とにかく、時間が惜しいので、再び杉田さんと京都見物に出かけた。
この日も朝から快晴、銀閣寺の池の水も暑さには適わない。東求堂の砂山にはたくさんのハエが群がっていた。これは、銀閣寺も同じ。その後、山沿いに法然院、ノートルダム女学院、八坂神社、円山公園、東大谷、霊山観音と見て、清水寺に到着。水を求めて多くの観光客が群がる。
土産物屋でとっくり2本、お猪口5個を買い、郵便で送った。400円。その後、楽焼きをして、自転車の絵を描いた湯飲みを作った。
杉田さんはこれから三十三間堂を見に行くというので、先に宿屋に戻った。
夜は、旅館で知り合った立命館大学の学生が京都を案内してくれるというのでついていった。夜の京都大学校内や御所、鴨川などを案内して貰った。

<写真は清水寺>
9日目(7月27日)京都
【宿泊は京都・学生会館】

福井大学の杉田さんが帰っていった。再会を約して別れる。太股の回復も順調で、今日は自転車で動くことにした。再び金閣寺を訪れ、金色に輝いたお堂の姿に見取れる。竜安寺の石庭、仁和寺、広隆寺の弥勒菩薩。これだけは見逃すなと言うことで宝物殿に入ったのだが、これで参観料は40円。桂離宮、ここは前もって宮内庁の許可をとらないと見ることは出来ない。東寺、西本願寺、東本願寺、平安神宮、さすがに自転車で回ると早い。
夜になってまた人が入れ替わった。太股の大きな水ぶくれは、歩くのに不便なので、はさみで切って、中にたまった水を出した。水が何度も何度もでてくるので、乾きそうもない。
10日目(7月28日)京都→大阪市住吉:101キロ/686キロ
【宿泊は住吉・長居小学校教室】

朝起きてみると、右側の痛みも取れ、左側は乾き始めた。これなら、出発できそうだ。
宿泊代は3泊朝食付きで合計780円。京都で少し散財したので、この後が心配だ。
宇治、井手、山城、木津を通って11時過ぎに奈良に入った。春日神社の参道の樹木のすばらしさに圧倒される。東大寺の大仏さんも大きいものだ。興福寺、猿沢の池、奈良駅。
そのあと、阪奈道路の手前を左に折れ、唐招提寺、薬師寺へ。
大和郡山を過ぎて斑鳩の里にはいる。法隆寺を駆け足で見、そこを4時30分にでる。王寺、国分、八尾を抜けて大阪へ。あまり中心部に行っても泊まるところはないだろうと、住吉の長居駅前にある小学校に泊めてもらうことが出来た。
11日目(7月29日)大阪→姫路:106.6キロ/792.6キロ
【宿泊は姫路・ベットハウス】

蚊の大軍との戦いが明け方まで繰り返された。
教室の中がだんだん明るくなるにつれ、蚊は姿を消していったが、睡眠不足のためか、めまいがして体を起こすことはできなかった。
しばらく横になっていたが、通りを走る車の音を耳にすると、ガバッと身を起こした。八つ当たりする相手もないまま、黒板に向かうと白墨で大きく“蚊のばか野郎!”と書きなぐった。
住吉を出ると西成、西、港区を抜け、満員の路面電車を見やりながら、尼崎、西宮、芦屋をとおって神戸についた。
右に六甲の山々を、左に工場地帯を持つ神戸、工場の煙突群から噴き上げる煙が、高級アパートの建ち並ぶ山の手に流れていく。
神戸のターミナルステーション三ノ宮駅、長い神戸駅。両替、銀行、あらゆる国の旗が見られる外国商社のビル群。
チンチン鐘を鳴らしながらゆったり走る港湾の汽車。
横浜をアメリカの港湾都市とするならば、神戸はサンチャゴかブエノスアイレスといった感じのする町である。
神戸港の沖合いには、いくつかの大きな貨物船が停泊中。
そして桟橋には豪華な自家用船が浮かんでいる。小学生が何人か画用紙に港の風景を描いている。平和な街神戸。
みなとの男たちの守り神湊川神社。この神社にはいつでも航海に出る人たちなどでにぎわうとか。
光源氏が京都を離れて過ごした須磨の海は、昔の面影そのままに、美しい姿を見せている。
須磨浦には神戸市経営の海水浴場が並んでいる。
山を利用した公園も出来上がりつつある。山の頂からは、ロープウエイが地上の人間を高く高く運び去る。
舞子に鳥居のある海水浴場がある。よしず張りの小屋が2,二、三軒建ち、ボートが砂の上に甲羅を干している。
よしずばりの下で水着になると、冷たい海の中へ飛び込んだ。縛り付けてあるタオルを通して太ももの赤い肌に塩水が触れた。瞬間、体中にびゅるんと震えがきたようだった。
その次に太ももがじーんと熱くなり、それが去ると、あまり気にならなくなった。残っている皮膚の中に塩水が入り、大きく膨らんだ。
この付近は別荘地となっており、泳いでいる人も数少なかった。サングラスをかけ、ゴムボートに乗った女の子が一人、青白い青年に押させながら、浮かんでいた。
小屋の後ろにできているシャワー室で真水を浴び、体を清めると小屋の中で太ももに薬を塗りたくった。
赤い薄い新しい肌が出来上がりつつあった。
氷水を飲んでいると、麦藁帽子を横っちょにかぶり、アロハの胸をはだけた若いあんちゃんが三人よってきて、僕の周りに座り込んだ。
『おにいさん、どこから来たの。』
『東京。』
『へえ!東京か。おれたちも学校の旅行で行ったことがあるが、雨に降られてよ。』
『あんまり見られなかったな。皇居とよ、上野とよ、それから銀座とよ。』
『どこが一番よかった。』
『駆け足だったもんな。良くわからねえや。』
『君たち中学でたんだろ、今なにやっているの。』
『みんな川鉄に行ってるよ。臨時工員として入ってよう、二三年して本工になるんだ。』
『川鉄って、みなこの辺の人?』
『そうじゃねえよなあー。』
『ああ、方々から集まってくるな。』
『ここは何というところ?』
『たるみ、垂れる水とか書くんだ。』
『どうだ、写真撮ってやろうか。送ってやるからここへ住所と名前を書いてごらん。』
『たのむたのむ。』
そういうと彼らは、僕の出したノートに一人一人名前を書いていった。
神戸市垂水区西垂水本町駅前 仲島美智史
神戸市垂水区西垂水日向208 吉田達三

美しい海の中には淡路島が横たわり、島の景色が手に取るように良く見える。
明石、加古川、六時ごろ姫路市に入った。
夕立が今にも来そうな、暗い空となっていた。
早く宿を見つけねばならない。姫路駅前通りをちょっと入ったところに中学校あった。古い校舎は取り壊し中で、立派なコンクリートの教室が出来上がっていた。出てきた宿直は、
『今引越しの最中で、取り込んでおりますので、申し訳ないんですが。この後ろに小学校がありますので、そちらへ行ってみてください。』と断ってきた。
小学校の小使いは
『今先生風呂に入っていますので、一寸お待ちください。』
しばらくして体から湯気を立てながら、パンツ姿の太った背の低い男が出てきた。
『どうもお待たせいたしました。ところで、どんなご用件でしょうか?』
『こんな者ですが、今夜一晩お願いしようと思いまして…』
この教師もこの申し出を断ってき、その代わり、この隣に野球のグランドがあるから、そこへテントを張ったらという案を持ち出した。
しかし、こんな天候ではいつ雨が降り出すかわかったもんではない。それに、こう暗くなってきてはテントも張れないので、それを断ると、通りに引っ返した。
付近をぶらぶらさまよっているとポツリポツリと振ってきた。やがて、電柱に張ってある看板を見つけた。
ベットハウス 150円より 白鷺荘
白鷺荘を細い路地の中に見つけ出したときには、雨はどしゃ降りになっていた。
自転車を板の間に入れ、荷物を降ろすと、部屋を見て回った。150円というのは,一部屋に上下4人ずつ8人、足と頭がつながるようになっており、ちょっと用心が悪い。
200円というのが左右上下で4人、中央にテーブルが置かれている。
三等寝台と同じこのベットハウスでは上のクラス。そこの上の段のベットに決め、荷物をほうり込んだ。
布団の上にゴザが敷かれている。
夫婦と娘一人のこの家の家族は、玄関を入った右のところに住んでい、夜になるとこっちにきてテレビを見ていた。
湯のきれいなうちに入りなさいというおかみさんの言葉にしたがって、彼らの住んでいる部屋を抜けて風呂場に入った。半坪ほどのところにタイル張りの浴槽があり、流し場は二段になっていた。
太ももの柔らかい肌は、海に入ったため白くむけ、その下に新しい皮が出来上がっていた。
風呂から上がってほっとすると、テレビを見ている家族の仲間入りをした。
この辺は地理が悪く、どんなに高いアンテナを使っても良く入らないとかで、時折画面が斜線で崩れる。
女の子が一言も発することなくテレビの画面を見詰めていた。
やがて雨も上がり、星が輝き始めた。外に出てみた。
この旅館のある付近は歓楽街になっていて、小さな飲み屋、バーが路地路地を埋め、、盛んに嬌声を発している。
駅前通りには旅館が並び、客を集めている。
けばけばしい看板をならべたストリップ劇場が裸電球をいくつもつけて、あたりを明るく照らしている。
駅のターミナルには、イルミネートされた噴水が美しく夜空に輝いている。駅前に大きな食堂があり、アサヒビールの文字が見える。
十時を回ったというのに、中はたくさんの人で混み合っていた。入り口に近いところに席を見つけると、生ビールを注文した。
その夜遅くなって、僕の居る部屋の四つのベットはすべて埋まった。彼らはみな、半月とか一ヶ月とかをこのベットの中で過ごしているということであった。

<写真は姫路市内のベットハウス、右側は海岸であった若者達>
12日目(7月30日)姫路→倉敷:104.7キロ/897.3キロ
【宿泊は食堂で仮眠】

白鷺城は、この地方の豪族赤松貞範が正平元年(1346)に築いたものである。
その後天正8年(1580)になって羽柴秀吉が新しい方式の城として大修理を完工、さらに慶長6年(1601)から池田輝政が徳川家康の女婿という後ろ盾と、80万石の財力を傾けて築城、16年後には本多忠政が引き継いで現在の城を完成した。
たくさんの観光客から賞賛されてきたこの美しいお城も、今は4億4千万円をかけての天守閣解体修理のため足場が組まれ、よしずが天守閣をすっぽり包んでしまっている。
白い長い壁、瓦、近世築城の代表的存在を誇るこの姫路城は33万の都市姫路には、なくてはならない観光資源である。
県庁所在地である姫路はまた、この地方のビジネスタウンでもあり、山陽本線のほかに、播但線、姫新線などを利用して集まる通学通勤人は一日10万人と推定されている。
特にバスの量は驚くほどである。

市内を出て良く舗装された国道二号線をしばらく行くと、太子町というところに出た。
山に囲まれた静かなところで、小川のほとりによこはま屋≠ニいう名の大衆食堂がある。カウンターに並んでテーブルが二つ三つ、声をかけると、奥の方から三十前後のおかみさんが出てきた。
『ご飯、出来ますか?』
『はい、何にしましょうか?』
『この辺はなにが取れるの?』
『鮎はとれます。今走りでおいしいですよ。』
『そう、じゃあ鮎を、そうねえ、揚げて下さい。ところで、この店の名、よこはま≠ニいうけど、横浜となんか関係あるの。』
『ええ、私が横浜生まれのものだから。良く向こうから来た人に聞かれますけど。あなたも東京ですか?』
『ええ。』
『私が23の時、こっちへ来たんですが、横浜が懐かしくて、この名をつけたの。どうもお待ちどうさま。』
どんぶりご飯と味噌汁、そして皿の上には油で揚げた小さな鮎が三匹のっていた。箸をつけてみると、まだ中身は生。
『おばさん、この鮎まだ生だよ。』
『あらそうですか、どうもすいません。』
『ここは太子町というけれど、聖徳太子となんか関係があるの?』
『え・・、昔、太子様が奈良へ法隆寺を作りました時、一緒に作ったといわれている古い寺があります。見ておくと良いですよ。』
『赤穂もこの付近でしたね。しかし、わざわざ見に行くほどの価値があるのかな。』
『それは見た方がよろしいですよ。せっかく,ここまでいらっしゃったのですから。』
『ところで、どうもご馳走様。全部でおいくらになります?』
『ご飯の方が120円、鮎が100円の合計220円ですね。』
これは高い、あんな生で食わされた鮎が100円なんて、しかし、いろいろと話を聞かされたから我慢しておこう。
『どうもありがとうございました。お大事にどうぞ。』

国道から逸れて、田んぼ道を行くと、田んぼの中に塀を巡らしたお寺が見えてきた。大きなわらじの下がっている門をくぐると、中央にお堂、右の方に三重の塔が立っている。
塔の手前に石の箱があり、「我が国で最古の石棺」と書いた札が立っている。六角堂があり、それらを長い回廊でつなげている。
奈良の法隆寺とまったく似てはいるが、人の姿はどこにも見当たらない。
自転車のところに戻ると、畑を耕していた農夫がのんびりこちらを見つめていた。
揖保川を渡り、那波というところで完全舗装の国道に別れを告げ、田んぼ道の県道に入った。相生駅前通りをとおり、砂利道をしばらく行くと、傾斜のついた村外れに出た。
そこを右に入る。ここから難所の七曲峠。道が山にぐるぐる巻きついていて、進めど進めど一向に先に行く様子がない。遠くに車の警笛がしているかと思うと、急に目の前に現れたりする。
車が通り過ぎると、しばらくはほこりで動くこともできなくなる。頂上には狭い崩れそうなトンネルがあり、車一台がやっととおれるほど、中は電灯もなく、真っ暗。
しばらく立ち止まって、通る車のないのを見計らって、遠くに見える出口の明かりを目当てに、無我夢中で突き進んでいった。
トンネルの中は水溜まりが多いらしく、自転車が穴に落ち込む毎に、水が跳ね上がった。石ころ道のため、下りも時間をかけねばならなかった。
山の中腹あたりまで下りてきた時、汚いランニングを着、汚れた手ぬぐいをかぶった男に通行止めにあった。
その男は、腰から赤い旗を取り出すと、やまのうえに向かって振り始めた。すると、それに応えるかのように、山の上にも一人、同じように旗を振る。
しばらくすると、ものすごい爆発音とともに、目の前の白い岩肌が、砂煙を上げて崩れ落ち始めた。たくさんの砕けた小石が僕の立っている近くまで飛んできた。
やがて、砂煙が晴れ始めた。
『おい、もういいよ。』
それまで、じっと様子を見ていた男の声に、砕けた石ででこぼこになった道を、恐る恐る進み始めた。
崩された石を取りに行くのだろう、何台ものダンプカーが唸りを上げて通り過ぎていった。
                 ・・・・・
坂を下りると堤に出た。
清んだ水の流れている川のほとりには青々と草が生い茂り、白と黒の斑の乳牛が二頭、三頭のんびりと草を食べている。
丸太で作られた細い長い橋を渡り、農家のわら屋根を見やりながら、細い道を進んでいった。
トンネルから出てきた線路が真っ直ぐ赤穂駅構内に入っていく。平屋の駅舎は近代的な造り、駅前を広く取り、ロータリーを作って草木を植えている。
まだ匂いのするようなコンクリート舗装道路、駅前通りも広く、その両脇に申し訳程度の店が並んでいる。
土産物屋がある。赤穂義士の姿を彫った人形や絵葉書が並び、風呂敷き包みを背負ったおばさん連中が騒々しく買い物をしている。
通りを右に入るとすぐのところに、つるべ井戸が道の真ん中にあり、竹囲いが作られている。息継ぎの井戸=B
江戸の事件をいち早く知らせんがために、使者がはるばるこの赤穂の地に戻り、ここで水を飲んで息をついたというのだが、われわれの知っている忠臣蔵によると、使者は大石から竹ひしゃくで水をもらって息を継いだことになっており、その辺は事実とことなっている。
        ・・・・・
また砂利道が続いた。
道は海岸や山道を抜けて、その度に視界が変わった。
塩屋の部落を出、山道に差し掛かった時、後ろのタイヤが鈍い音を立てて空気が抜け、ぺちゃんこになった。
パンクだ。このタイヤは新しく買い求めたものであったが、荷物と人間の荷重には耐え切れなかったのだろう。
見渡したところ、家一軒見つかるわけでもなし、やむを得ず、自転車を押して行った。
あたりの景色を眺めながら、暑い太陽の下をテクテク歩く。
波が道の上まで飛び上がり、水溜まりができている。
山の鼻を曲がると漁村があった。
製材所があり、回転鋸が唸りを上げて、大きな木を切っていた。
漁に使う網を作っている工場があり、大きな寄宿舎を持っていた。その二階の窓からは、非番の女工さんが何人か、シュミーズ姿で休んでいるのが見られた。
丸顔の色の白い、目鼻立ちの整った娘さんが通り過ぎていった。その娘の顔は、工場の近くの家から出てきた娘の顔に良く似ていた。
しばらく行くと、中学生ほどの女のこが二、三人、道の端に立っているのにであった。
彼女たちも同じように、丸顔で目鼻立ちが整っていた。まるで、皆同じ顔の人間が住んでいる世界に来たような錯覚を起こさせるほどであった。
部落の中には一軒の自転車屋も見つけることはできなかった。
また、家のない道が続いた。パンクしてから三時間ほど歩きつづけた時、やっと日生という少し大きい部落にたどり着いた。港には観光船らしきものが浮かび、大きな看板に鹿久居島、長島、大多府島などの島巡りを記した地図が書いてあった。
通りには幾分活気らしきものが呈され、人が出入りしていた。マンボズボンをはいたバイク屋の若者がアイシャドーをし、口紅をつけた美しい女とたのしげに談笑していた。
『自転車のパンクは直しませんか?』
『自転車?おれんところはバイクだけだ。この先に自転車屋があるよ。』
『そう、どうもありがとう。』
大きな車庫を兼ねたバス乗り場があり、五六人の客が長椅子に腰を下ろして、バスの来るのを待っている。
その隣が自転車屋だった。
店の奥には新車が並び、私設水道の水を使って道路に打水をしていた。声をかけると、親父は水を撒くのを止めて、店の中に入ってきた。
荷物を全部降ろすと、彼は車を逆さにして、タイヤを外し始めた。その間に食事をと思い付き、隣の休み処に入ってみた。手製の団子が皿に盛られ、一つ30円の値段がつけられていた。岡山の吉備団子である。物は試しとばかり、それを注文してみた。
茶と一緒に運ばれてきた皿には、普通のもち団子が載っているに過ぎなかった。
備前の町を抜け、急な坂道を上ると、新国道に出た。
まだできたばかりの舗装道路で、今までの街道とは違った山をくり貫き、橋を架けて直線コースを保持したものであった。
しかし、その道もすぐ終わり、またほこりの立つ旧街道に戻った。
工事中のため、、掘り起こされた道は余計ひどいほこりが舞いあがった。
香燈、福岡、上島町、高屋そして岡山市に入った。後楽園につながる道は舗装されていたが、遠回りになりそうなので、真っ直ぐ進んでいった。
床屋の子どもがホースで水撒きをしていた。
「ねえ、水を飲ませてくれない。」
その子どもの差し出すホースを受け取ると、くちをつけて飲みながら、ほこりで汚れた顔を洗った。
岡山市の中央を流れる旭川には、小橋、中橋、京橋の三つがかかり、川の中央にある二つの島が結ばれている。
道は丁字路になり、右側は商店街になっている。左の道を今度は右に曲がると、岡山市のメインストリートとも言うべき、幅のある、大きな道に出る。市役所の大きなビルが建つ。銀行があり、その入り口のところに
「ご自由にお飲み下さい。」と書いた水飲み場が作られてある。水は冷たく、15度位に冷やしてある。
太陽は地平線近くまで下がり、だんだん暮色があたりを包み始めた。
寝るところを見つけるつもりで、岡山市を出たあたりから裏道を通って物色したのだが、適当な家はない。
今度は国道の反対側の部落に行ってみ、小学校を見つけて頼み込んだ。
「私はまだ新参のものですから、そういった事は良く分からないのですが。私としては良いと思うのですが。」
すると、向かいの給食室から出てきた小使いが、
「先生、そんちゅうことは前にもありましたんですが、そのときはことわりましたんけど。」
「そうですか、それじゃしようがありませんな。というわけでして、申し訳ないんですが、私だけではきめられん
で。」
宿直は、さも気の毒でといったような顔で、名刺を返してきた。
庄村を過ぎ、倉敷に差し掛かった時、ものすごい夕立が降ってきた。あわてて、近くにあった食堂の軒先に自転車もろとも飛び込んでいった。
雨はなかなか止みそうもない。店の中に入ってみた。運ちゃん相手の昼夜食堂らしく、魚の煮たのやおしんこなどが皿に盛られ、ガラスのケースの中に並んでいた。
煮魚で夕食を済ませたころ、雨は止んでいたが、当たりは真っ暗になっていた。しばらく考えていたが、こういう店は頼めば休ませてくれるということを聞いていたので、「えっと、実は頼みがあるのですが。」
若いその店の親父に切り出した。
「実は、今自転車旅行をしている途中なんですが、今夜は少々走るつもりで、店が閉まるまでどっかで休ませてもらえませんか?」
しばらく僕の顔を見ていた親父は、一度奥に引っ込んだ。
中で子どもを寝かせていたおかみさんに相談したのだろう。出てきたおかみさんが
「いいですよ。どうぞ。」と、代わって返事した。
調理場というよりも土間にかまどを並べたような台所に靴を脱ぐと、おかみさんの後に従って二階へ通じる狭い階段を上がっていった。
二階は二間になっていて、中央においてある大きなテーブル以外は何もなく、白い壁がむき出しになっている。自転車から蚊取り線香を持ってくると、そのわきにごろっと横になった。電灯を消しても、近くを走る汽車の音や、今からのことを考えると、なかなか寝付かれなかった。

<写真は姫路城(工事中のため天守閣は見えない)と息継ぎの井戸(赤穂の藩士が江戸からの知らせを持って戻り、ここで水を飲んで一息入れた。)>
13日目(7月31日)倉敷→広島県西条町:119キロ/1016キロ
【西条小学校宿直室】

「兄さん、起きてくれんか。店を閉めるので。」
意識が戻ってくるにつれ、周りがはっきりとしてきた。階段をやっとこさ下りると、店はカーテンが下がり、ひっそりしていた。
「どこまで行くんだ?」
「長崎までです。」
「学生さんかね?」
「ええ、ところで、どうもお世話になりまして、ありがとうございました。」
「気をつけて行くんだな。」
「ええ、ありがとうございます。奥さんにもよろしく。おやすみなさい。」
店の時計は1時30分を示していた。さすがに、深夜の外はひんやりとしていた。
しばらく走ってみたが、どうも調子がおかしい。真っ暗なので良く分からないが、またパンクをしているらしい。市内に入った。明かりのある処で携帯用のポンプで空気を入れ、しばらく走ってみたが、すぐぺちゃんこになってしまう。それでも何度も繰り返しながら少しずつ進んで行った。どの家も戸を閉ざし、眠っている。
市の中心を過ぎ、外れまで来た時、明かりの点いている家が一軒あるのが目に入った。ラビット販売所である。天の助けとばかり飛び込むと、30くらいの人が一人、片づけをしていた。
「すいませんが、自転車がパンクしちゃって困っているんです。何とかなりませんか?」
「自転車?。俺は自転車は扱ったことはないが、やってみよう。」
「しかし、助かりました。今夜は走るつもりで出てきたんですが、よりによってパンクなんかしてしまって。どこも開いていませんし。」
「東京から来たって。まあ、ご苦労さんのこったな。俺も明日は日曜日だし、友達が来ていたもんだから、つい、話し込んじゃってな。」
「ここはラビットしか扱ってないんですか?」
「ああ、中古と新品と両方だが。ところで、今東京じゃ日産とトヨタと、どっちが多く走っている?」
「そうですね、トヨタの方が多いんじゃないですか。」
「そうだろうな、俺も時々東京へ行って車を捜してくるんだが….こりゃひでえな、タイヤとチューブにこんな大
きな穴があいてやがる。両方貼らないと。」
運ちゃんが二人、ガソリンタンクをもって入ってきた。
「ガソリンねえかな。この先で車がえんこしちゃってよ。ガソリンスタンドはどこもあいてねえんで弱ってるん
だ。」
「おれんところはガソリンなんかねえな。しかし、待てよ。ラビットから集めれば少しはあるかも。」
そういうと、彼はバケツを持ってきて、並んでいるラビットから少しずつ、カソリンを集め始めた。
「このくらいしかないな。」
「ああ、これで何とか動く。悪いけど貰って行くよ。」
「ああ、いいよ。」
帰って行く運ちゃんを見送ると、またパンク貼りの作業に取り掛かった。
「遅くまで起きていると必ずこういうやつが来るんだ。」
話し好きなのか、作業が終わるといろんな事を話し掛けてきた。
「さあ、直ったぞ。今度は大丈夫だ。」
「どうもどうも、で、おいくらでしょうか?」
「そうだな、50円でも貰っておこうか。」
「50円、それじゃ安すぎますよ。深夜だし、二個所も貼ったんですから。」
「いいよ、50円で。」
「そうですか、どうもありがとうございました。」
「もう二時だ。明日は日曜でも寝坊はできんでな。とにかく気をつけて行けよ。」
「ええ、どうも。それではおやすみなさい。」
通るものの何もない深夜の国道、スピードを上げるにつれ、涼風が心地よく体を包んだ。車は快調だった。静かな中に、ランプの発電機の回転音だけが響き渡った。
玉島市の明かりが、高梁川に映り、美しい情景を呈している。金光町を出ると、すぐ道は二つになった。
暗闇の中では道標の字も読めず、途方に暮れていると、今来た方向から定期便のトラックが猛スピードで近づいてき、左の道に走り去って行った。
「そうだ、あの車は広島の方に行くのだろうから、左で良いのかもしれない。」
やがて、道は工事中のでこぼこ道に変わった。後ろからトラックが来るのを知ると車を止め、道の端に寄って通り過ぎるのを待った。深夜のため、定期便はみな、ものすごいスピードで、まるで戦車のようなうなり音を立てて走りすぎて行った。ものすごい砂煙が、後ろのトラックのヘッドライトに浮かび上がってみられた。自転車はのろくなり、ランプは暗くなって、前方の確認ができないまま、何度も道路の窪みにはまり込んだ。
やがて遠くの山の峰が明るく浮かび上がり、夜明けがやってきた。自転車で街に向かう新聞配達人の姿が一つ二つと現れ始めた。時計の針は四時を指していた。
やがて、道は海岸に出、船着き場が見えてきた。ここから四国の多度津港に定期船が出るとかで、4、50人ほどの団体がたのしげに乗船の順番を待っている。
駅の裏側を抜け、踏み切りを渡って、駅前通りに出た。ベーカリーだけが店を開け、暖かそうなパンを車に積んでいる。
「パン売る?」
「ええ、売りますよ。」
「コッペパンあったら二つくれない?」
コッペパンはまだ暖かい。駅に行ってみた。待合室にはまだ蛍光燈がつけっぱなしになっていて、こじきがベンチに横になっていた。左側の明るい感じのする洗面所に入ると、ほこりで真っ黒になった顔を洗った。
真ん前の菓子屋が戸を開け始めた。
「おばさん、牛乳あるかい?」
「牛乳はねえが、ヨーグルトならあるよ。」
「ヨーグルトでいいわ。おばさん、ちょっと場所貸してよ。パンを食べるから。」
奥の上がりかまちに腰を下ろすと、さっき買ったコッペパンを取り出して、かじりついた。

笠岡からは道も良くなり、いたるところにガードレールが取り付けられ、バスやトラックが勢い良く走りまわっている。
深安町、福山市、赤坂、松永市と35キロの道のりを元気良く走りすぎ、10時近くにごみごみした尾道市に入った。
港から山の上までぎっしり建てられた家々、港にはたくさんの船が浮かび、目と鼻の先にある向島にもたくさんの家が建っている。ここと、造船所のある因島とは、連絡船で結ばれ、その他に小さなダルマ船が行き来していて、海は、交通ラッシュを呈している。
日立造船向島工場と書かれた大きな看板がこちらに向けて立てられ、その近くに大要漁業の大きな遠洋漁業船が碇を下ろしていた。
通りに面した商店街は、いずれもけばけばしい装飾を施し、客を集めている。その商店街の中央に大きな鳥居があり、目の回るようなたくさんの石段に上に神社らしきものが見える。飲食店関係は夜遅くまで営業しているのだろう、朝は11時過ぎにならないと開かないということであった。
船着き場に通じる道の角に、暖簾を下げた酒場があるので中に入ってみた。起きたばかりの男と女が水撒きをしたり窓ガラスを洗ったりしてい、奥の方から味噌汁のにおいが漂ってきた。
女はまだ化粧もしていないのか、乱れた髪の毛をたくし上げながら、白っぽい乾いた唇を動かして言った。
「いらっしゃい。」
「ごはん、できる?」
「朝の定食なら。」
「それでいい。」
洋酒樽が椅子や台に利用され、いろんな名の日本酒が並んでいる。
炊き立ての湯気を立てた熱いご飯と味噌汁は、寝不足で疲れた体を幾分和らげてくれた。
昆布に埋まれた家々が海辺にいくつも建っている。
三原市はだだっぴろい町で、尾道とは異なって平坦なところに位置していた。道はひどいほこり道となった。
自転車に乗った四十年配の、どっしりした感じの男が寄ってきて話し掛けた。
「学生さん、自転車旅行?」
「ええ。」
「どこからきなはった?」
「東京です。」
「どこまで行くの?」
「長崎。」
「たいしたもんだな。私も自転車旅行が好きでね。若い時は四千キロの記録を作りましたよ。」
「へえー」
「いや、その動機というのがね、私が役人仕事をしておった時、三原小町といわれたほどの美人と結婚したというわけ。その女がいつのまにか男を作りやがって、男と一緒に駆け落ちしやがって。まあ、そのときは、私もどうしたら良いか分からず、仕事も手につかない。いろいろと考えた末、好きな旅行でもして気を紛らわせようと思い立ち、役人も辞め、旅館代を稼ぐため行商しながら全国を歩きましたよ。
写真を撮ったり、名所や小説に出てくるところに行ってみたり。そのうち、ある旅館で跡取りが亡くなり、家を継ぐものがいないから来てくれないかということになり、そこの養子に入ったというわけ。三原市内で経営していますから、ついでの時によって下さい。」
彼は話している間も、ほこりの立たない細い田んぼ道を案内してくれた。嘘のような長話が彼の口から流れるようにほとばしりでた。旅館の名前も言ってくれたが、今は記憶にない。
「私はここでお別れします。向こう側が国道ですが、とにかく道が悪く、ほこりがすごいから、こっちがわの土手を行くと良いでしょう。途中で一緒になりますから。じゃあ、さよなら。」
「さよなら、いろいろとありがとう。」
僕は教えられた沼田川の土手を、何とかキツネと一緒に歩いていたような変な気持ちで走りつづけた。
本郷町でまた国道に入った。わずかながら舗装道が出来上がっている。
時雨が降ってきた。近くにあった菓子屋に飛び込んだついでにパンを買い、かじりながら外を見ていた。雨はすぐ止んだ。ほこりは相変わらず舞い上がった。歩道は舗装前の状態で、両脇には下水道が出来上がり、道慣らしの石が敷かれているので、余計に自転車を進みづらくしている。
山が続き、道はあがったり下がったりの連続である。
道を間違えたのではないかと思われるほど山奥の横大路村。
山には段々状に水田が作られ、それぞれコンクリートで囲いが作られ、山の上から全体の田に水が回るよう水路が作られている。
峠を下りる時、スピードを出しすぎた所為か、後ろのタイヤがパンクした。
「またか、パンクする時はいつも辺ぴな場所だ。」
どこまで行っても自転車屋らしきものは見当たらない。
道路工事をしている人夫や砂利運びのおばさん連中が、汗まみれになって歩く僕を気の毒そうに見守る。
部落はあっても自転車屋はない。太陽は寝不足の頭を遠慮なく照りつける。石を踏む足が安定のないまま、転げそうになる。喉が渇き、唇が痛くなってきた。少し休まないと日射病にかかるかもしれない。一寸、体のことが心配になってきた。
道路から一寸入ったところに、農家が一軒目に入った。庭を通って入り口から声をかけた。
「ごめんください、ごめんください。」
少し経って、おかっぱ頭に袖の短いアッパパを着た女のこが出てきて、黙ってこっちを向いている。
「水を飲ませてくれませんか。」
その子はこっくりうなずくと、土間にある井戸ポンプのハンドルを握って水を出してくれた。冷たい井戸水が体の中を駆け巡った。真っ黒になった顔を洗い、首筋や腕をぬらした。体の熱気が一時に吹っ飛んだ。
「なんだかや?」
二階から降りてきた母親らしき四十過ぎの太った女がいぶかしげに声をかけた。
「ああ、お邪魔して、水をいただきました。」
「そんか、まったくあつうでのう。」
「この辺に自転車やさんはありませんか。自転車がパンクしてしまって、ずっと歩いてきたんです。」
「パンク?、パンクならおれん所の奴が直せるで。おい、あんちゃん呼んでこう。」
すぐ二階から坊主頭の高校生位の男の子が下りてきた。
「まさ、この人がパンクで困ってるんだ。直してあげろ。」
「パンク?、自転車のかよ。」
「ええ、自転車です。すいません、外に止めてあるんですが。」
男の子は、僕に向かってぴょこんと頭を下げると、自転車の所に引っ返した僕についてきた。
「どれどれ。」
「まさ、そこは暑いから、裏の涼しい所でやれ。」
後から来た母親が声をかけた。母屋と納屋の間に屋根だけが作られ、涼しい風が吹きぬけていた。
ゴザを借りると、その上に荷物を降ろした。男の子は道具を持ってきて器用にタイヤを外した。
「あなたは高校生?」
「うん。竹原高校に行ってる。」
「なにをやっているの?」
「醸造科。酒を作るんだ。」
「へえ、酒をね。」
「とうちゃんも酒を造っている工場に行ってんだ。だから、酒はみな自分で作ったのを持ってきて飲んでんだ。」
「へえー、いいな、それは。」
しばらくして自転車の修理は終わった。
「どうもありがとう、えーと、いくら?」
「かねなんか、えんねえよ。」
「そいつは困った。そうだ、写真を撮ってやろう。妹さんもつれて来いよ。」
彼らの姿を二.三枚撮ると、
「帰ったら、さっそく送るから。ここは何という所?君の名前は?」
「広島県竹原市田万里町 手島昌義」
「どうもありがとう。」
礼を言うと、母親が、
「今は外が一番暑いでのう、少し涼しくなるまで休んでた方がええよ。昼寝でもしてよ。」
「そうですね。では一寸休まさせていただきます。」
さっそく、畳の上に大の字になると、疲れが一度に出て、すぐ眠ってしまった。
目を覚ました時は五時を過ぎていた。
「ああ、良く寝た。どうもどうも、おかげで体の疲れが取れました。本当にありがとうございました。」
庭先まで出て、送ってくれた親子に礼を告げ、また、でこぼこ道を進み始めた。進むにつれ、厳島の形がいろいろと変化する。青い海、松、それらの間に別荘や保養所がいくつも並んでいる。道は上りが続いた。エンコした車を囲んで、四、五人の若い男たちが困った顔でこっちを見つめていた。
トンネルを抜け、坂を下りると、そこから道は舗装されていた。西条町についた。駅に通じる道が交差している付近だけ商店が続いていた。
狂い雨がものすごい音を立てて降り始め、すぐ止んだ。
慌てて飛び込んだ店で、早めの夕食を済ませると、あたりを物色しながら進んだ。西条町は全国でも有数の酒の産地で、農家も裕福なものが多かった。そして彼らは、競って家を立派にし、屋根も大きな鬼瓦をつけたり、白く塗ったりして飾りをつけていた。
農業短大などもあり、農業技術の進歩に大きな役割を果たしてきている。
田んぼの中に立っている西条小学校に行ってみた。子どもたちを集めて遊んでいた若い太った先生に用件を告げると、すぐ承諾してくれた。
宿直室は二間になっていて、奥の部屋にはラジオや将棋の台などが、雑然と置かれてあった。
片づけが済んだ後、まだ明るいので、洗濯をし、渡り廊下に紐を張って干した。
先生から事情を聞いた、公民館の管理人をしているというおばさんが風呂に誘いに来た。支度をしようとすると、
「そでいいですよ、近いんですから。」というので、パンツ一つでついて行った。
校庭の外れに家はあった。
「さあどうぞ、家の人はみな済んだから、ゆっくり入りなさい。」
台所の片隅に風呂桶がぽつんとおかれ、みなのいる茶の間の方に、申し訳程度のビニールのカーテンが下がっている。
僕が入ってくると、茶の間でゴロゴロしていた十七、八前後の娘二人と二十くらいの息子がゾロゾロと外へ出て行った。
のんびりと湯に浸っていると、体の疲れがどんどん取れていった。湯でほてった体で外に出ると、おばさんと息子、娘たちが腰を下ろして、夕涼みをしていた。
「どうも、いいお湯でした。」
「少し、涼んで行きなさいよ。」
おばさんが声をかけると、下の娘が自分の椅子を差し出した。
「すいません。」
「東京から来たんですってね。」
「ええ。」
「この前安保反対で全学連が参加したそうですが、どうでした?」
大学に行っている息子が尋ねた。僕も反対デモに参加し、国会から警視庁までデモった話しをすると、娘たちも一緒に聞き入っていた。その後、この寺西町と西条町とが合併する時だいぶもめた話しや、西条でできる酒の話しなど、話題はなかなか尽きない。娘たちは二人とも、母親似で、ぽっちゃりしていた。適当な時間を見計らって、まだ話しを続けたそうな顔をしているおばさんに礼を言うと、宿直室に戻った。帰り道、パンツ一つの自分が年頃の娘さんの前で雄弁をふるっている姿を思い浮かべ、苦笑いした。
奥の部屋には二つの床が作られ、蚊帳が吊ってあった。
14日目(8月1日)西条→山口県熊毛町88.5キロ/1217キロ
【宿泊三丘小学校家庭科教室】

今日から8月に入った。
地図からの概算によると1016キロ走った事になる。長崎まで3分の2に近づいた。
所持金は1万1千円程度になっていた。
一応計画では、今日は岩国泊りということになるのだが、この調子ならその次の宿泊地宇部までたどり着けそうだ。
ラジオ体操をしている子どもたちを見やりながら。、自転車の点検を始めた。今度は前のタイヤがパンクしている。
通りに出た所の自転車屋で修理すると、パンをかじって朝食とした。
自衛隊の駐屯している八本松町、桑原、瀬野川町、呉市に通じる道の分岐点船越町を通って広島市に入った。
大きなデパートの建ち並ぶ駅前通り、稲荷大橋を渡り、天満屋の前を通って市民球場に出た。菓子屋に入り、パンをかじりながらそこの親父さんに原爆ドームのある処を聞いた。相生橋の手前を左に入り、大田川の土手をしばらく行くと、原爆の中心地、産業奨励館の崩れたビルが見えてきた。
昔、『原爆の子』という映画で、乙羽信子扮する小学校の先生が、このドームで遊び、子どもたちと言葉を交わすシーンがあったが、今は危険建築物ということで、鉄条網が張りめぐされ、立ち入り禁止となっていた。
その前を一組の母娘が通りかかった。僕がカメラをドームに向けていると、十歳くらいのその娘は、ドームを振り返ってみたが、母の方は、ただじっと前方を見据えて通り過ぎて行った。戦争を知るものと知らないものの違いだろうか。
川の中には、崩れた建物の柱とか煉瓦などが残っていた。
橋を渡ると平和公園、。鶴を持ち上げている子どもの像、はにわの家のような形をした記念碑、この中にあのドームがうまくおさまるように作られている。
いつでも花が絶えないということである。
公園の芝生に横になってぼんやりしていると、松葉杖をついた片足のない男がブラブラ歩いていた。
平和通りという幅の広い道、中央の緑地帯にはいろいろな彫刻がおいてある。イサム野口氏設計の近代的な欄干を持った橋が架かっている。
巳斐橋を渡り、広島湾に沿って五日市町、廿日市町を抜け、国鉄宮島口に出た。ここから厳島への連絡船「みやじま丸」(242トン)が一キロほどの距離を行き来していた。その他に、龍の飾りをつけた小さな観光船があるのでそれに乗ってみた。定員30人ほどの船で、テントの下に木の椅子が並んでいる。船はあっという間に宮島に着いた。厳島でただ一つの町である宮島は、土産物屋と旅館で出来上がっている。厳島神社を取り囲む砂浜は絶好の海水浴場となっていて、たくさんの家族連れでにぎわっている。ボート屋もある。海の中には赤い鳥居が立っている。神社を見るには、草履代として入場料が取られる。入り口で草履と履き替えるのも面倒くさいし、引き潮なので浜伝いに回ってみることにした。小さなカニが動き回っている。長い回廊、鉄の灯篭、海をバックにした舞殿、神楽殿と平家全盛の面影が残されている。
とにかく厳島神社境内には暗箱を担いだ写真屋さんがものすごくいる。そして、神社と船着き場の間の土産物屋の多いこと、名物の焼きまんじゅうのにおいがあたりに漂う。
杓文字が並べられ、小さなポストが立っている。杓文字に住所、名前を書いて投函するとそのまま郵送されるそうだ。
みやじま丸≠ナ宮島口に戻ると、預けておいた自転車を引っ張り出した。
海に面して作られている近代的な化学工場の多い大竹市、石油精製所の高炉の立っている岩国市。
港にはたくさんのタンカーが停泊し、通りには港まつり≠ニ書いた赤い旗が飾られている。
岩国の町々を遠くに見ながら、基地の前を通り、山の中に入って行くと、岩国川にぶつかった。川の中に石を積み上げて作った錦帯橋。台風で切られた橋も今は補修され、水の少ない岩国川は子どもたちの絶好の遊び場を提供している。転がるように渡って行く子どもたち、一歩一歩慎重に歩く老婆、錦帯橋は夢の架け橋。手前の土手には俗化した店が並ぶ。ステレオ喫茶、レストラン、などの横文字の看板が目に付く。
錦川とよばれている岩国川沿いに道は上りつづける。清流の中に、足の長い腰掛けを持ち込んで鮎釣りを楽しんでいる人、三〇メートルもあると思われるような崖の下に落ちた車を、星のマークがついたクレーン車で引き上げ中のG・Iなど、通りの少ないこの山の中では、一つ一つが大きな事件のように展開される。三叉路に出た。
菓子屋が一軒、ぽつんと立っている。重量制限の札のぶら下がっている壊れかかった長い吊り橋の所に若い警察官が一人、ぽつねんと立っていた。地図を広げ始めると、
「どこへ行くの?」
「徳山の方へ。」
「だったら、これを渡ってまっすぐですよ。」
「こんな橋を渡るの?、これで国道ですかね。」
「最近、車の量が多くなって、急に痛み出したんでね。」
「ここで見張りというわけですか。しかし、こんな処で一人じゃ、退屈しちゃうでしょうね。」
「交代ですから。」
「そう、どうもありがとう。」
歩くたびに、板が音を立てて持ち上がった。
「まったく、悪い橋ですね。」
こっちを見ていたおまわりは、そう言われると口元に笑いを浮かべた。道は砂利道になった。蓮華山がすごく近く見えてきた。崖の近くを通ったり、細く崩れていたり、道はだんだん悪くなってきた。
玖珂町を出て大きな峠に差しかかったときはすでに薄暗くなっていた。
「いめえからじゃ、こんれ越せねえで、こっち行った方がよかんべ。」と通りの人に言われ、峠の手前を左に入った。
しかし、同じような道がいくつも分かれ、その度に、土地の人に道を聞き直さなければならなかった。
暗くなって、川尻という部落についた。通りから一寸あがった所に、コンクリート造りの旅館が建っていて、観光バスが二、三台停まっている。ほこりのかぶった菓子屋の娘に、この辺に小学校があるかどうか聞いてみると、この裏がそうだという。
石の門を抜け、小さな校庭を横切り、校舎の端にある宿直室を覗いてみた。三〇くらいの男が、机に向かって一所懸命鉛筆を動かしている四、五人の子どもたちを見ている。
僕に気づいててきたその男は、名刺や身分証明書を見ると納得して、「裁縫室がよかっぺ。」と案内してくれた。
教室全体に畳を敷いたこの部屋には、すわり机や標本などがおかれ、扉のついた大きなテレビが隅の方に安置されていた。荷物を運んできて片づけていると、「風呂に行かんか。」と誘いに来た。
洗面道具を持ってついて行くと、さっき見た旅館の裏口から入って行った。番台に十円払うと、「じゃあ、ゆっくりしてってください。」と先生は帰って行った。
タイル張りの大浴室があり、十人ほどの村のものらしき人たちが楽しそうに湯を浴びていた。まわりはガラス張りになっていて、昼間だったら遠くの山々が見渡せるということである。また、この湯はラジウム放射能泉と硫化水素泉になっていて、リウマチに効くんだそうだ。
風呂から出て、大きな扇風機で汗をとると、中を見てまわった。
案内書によると【当十楽荘は農協組合員が健康を保たれ、日夜増産に励まれる傍ら、明日への力強い活動力を養われるための憩いの場所として、また、広く一般の方々にも経済的で気軽に利用していただく目的で、周東厚生施設農協連が三千五百万円の巨費を投じて建造したもので、その完備した近代的施設は、尽きることなく湧き出る天恵の温泉とともに、他に比肩なき農家のサービスセンターであります。
ほのぼのと立ち込める湯の気も爽やかな十楽荘は、療養はもちろん、ご家族さまや、あるいは団体での御行楽にも快適でございます。溢れる名泉の香りと心からなるサービスで皆様のご利用をお待ちしております。】
そして、八十畳敷きの大広間、ロビー、ホール、岩風呂、などが完備され、一泊二食付五百五十円から千百円(組合員以外の方は百円増し)の安さである。
ホールでは、この辺の子どもたちなのだろう、テレビを囲んでわいわい騒いでいる。売店には、羊羹、湯飲み、タオル、菓子などの土産物が並んでいた。
女中が来たので紅茶を頼んでみた。廊下の隅に作られた部屋のソフアに腰を下ろすと、行き交う人たちをぼんやり見ていた。
学校に戻ると、先生と男のこが一人、テレビを見ていた。
「あっ、お帰りなさい。」
「どうも。結構な所、ありがとうございました。なかなか良く出来た処ですね。」
『うん、まだ新しいんだ。』
そう言いながら先生は大きなやかんにお茶をわかして持ってきた。飲んでみるとあまりおいしくない。何でも茶の実で作るんだそうで、薦められるままに、なんども飲まされた。テレビに夢中になっている先生は、こんどはこれ、こんどはこれと、テレビを消して帰って行ったのは11時近くであった。

<写真は原爆中心地の産業奨励館、右は展示品>
15日目(8月2日)熊毛町→宇部市:88.5キロ/1217.9キロ
【宿泊は宇部市厚南区原小学校医務室】

今日も快晴だった。たくさんの蝉の声が共鳴して、独特な音を立てていた。河内文雄先生にくっついて離れない男のこが別れを惜しんで三丘の村外れまで送ってきた。
『にいちゃん、まだ来んか?』
『うん、機会があったらまた来るよ。ボクがもっと大きくなったら。ボク、東京へ来いよ。いろいろと観る所がある
ぞ。』
『学校からいくんかも知れん。』
『ボク、じゃあさよなら。』
『にいちゃん、さいなら。サ、イ、ナ、ラ。』
近くの子どもたちも二、三人加わって、遠ざかって行く自転車にいつまでも手を振りつづけていた。
山の中を走る細い道は車が通るたびにものすごいほこりを舞い上げる。やがて、道は下り坂になり、海岸に出た。
光市島田である。松林の続く海岸線は、至る所に海水浴場の看板が立っている。徳山と岩国を結ぶこの国道188号線は良く舗装されていた。
下松市に入った。日立の笠戸工場の大きな建物が延々と続き、町全体が工場のような感じがする。作業服を来た工員が自転車に乗って通って行く。
出光興産の本拠地、徳山。たくさんのパイプが整然と走り、交叉し、精製に用いる銀色の高い塔が聳え立つ。
出光の向上を左に見ながら坂を登って行くと、徳山の街が一望のもとに見渡せる。
南陽町、戸田、牟礼を過ぎて防府市に入った。この辺から日中の太陽が我慢できないほど暑い。一寸走ってもすぐ汗が出、足がだるくなる。
駅に通じる道と交叉している所にある食堂に入った。口の中はほこりでじゃりじゃりで、帽子を取ると頭から湯気が出ているのが分かった。シャツのボタンを外し、上半身裸になると、洗面所に駆け込んで水を浴びた。日焼けで真っ黒になった顔に、サングラスの跡がはっきりと浮き出ていた。
通りを抜け、国道に引っ返してしばらく行くと、小高くなった所に遊園地があり、大きな木がある。道路人夫が日中の暑さに耐え切れなくなったのだろう、十人ほどがむしろを敷いて休んでいる。私もその近くにごろっと横になった。。
目を閉じると星のような点点が浮かんで見える。一時になった。いつまでものんびりできないので、出かけることにした。台道、四つ辻、陶を通り過ぎ小郡町に入った。
幅の広い舗装された国道9号線が山口に向かって延びている。町の中を抜け、木陰を見つけて休むことにした。なんだか頭の中がくらくらしてハンドルを持つ手が小刻みに揺れ動く。
日射病にかかったようだ。道が緩くカーブしている所にあるカステラやの前で自転車を止め、店先のベンチ
に腰掛けてあまり冷えていないラムネを買い求めて飲んだ。
洗面所で顔を洗うと少し落ち着いてきた。店の奥さんがスイカをご馳走してくれたのだが、それを食べ終わるまで延々と息子夫婦の悪口を聞かされることになった。最初は適当に聞き流していたが、終わりそうもないので、道の反対側にある木陰に移動し横になった。
出かけるか、と自転車を道路に引っ張り上げ、地図を見ていた時に、オート三輪車がカーブを曲がりきれずに飛び込んできて、私の自転車と郵便屋の単車を投げ倒し、十メートルほど走って停車した。自転車に積んであったかばんが裂け、中に入っていた50個ほどのフイルムが道路上に散乱した。単車も前輪がくにゃくにゃに曲げられている。
郵便屋が真っ青になってオート三輪車の方に駆け出して行った。若い男が二人、車から降りるとキョロキョロしながら近づいてきた。道の真ん中に吹っ飛んだトランジスターラジを拾い上げるとスイッチを入れてみた。
音が出た。それから、つぶれたフイルムの缶を拾い集め、一つ一つ中をあらためた。懐中電灯が使い物にならないほどペシャンコになり、ガラスが砕けて細かくなっていた。
『どうもすいません。』なんども頭を下げる男たちを相手に、郵便屋は一生懸命文句を言いつづけていた。
『ところで、俺の方はどうするんだい。良く見てくれ。チェーンが切れているし、ギヤがガタガタだ。今から宇部までいかなくちゃならんのだから、早く何とかしてくれないと困るよ。おじさん,悪いけど俺の方で先に話しをつけるよ。』
こんな処で旅行を挫折させるのもしゃくなので、郵便屋に思い切りタンカをきった。
『どうもすいません。とにかく、自転車屋に持って行って直してもらいますから。おい、これを車に積んでくれ。』
三輪車に自転車と荷物を載せると、小郡の街に引っ返し、彼らの知り合いの自転車屋に運んだ。店の親父はあっちこっちひねくり回しながら修理を始めた。
私は近くの店で針と糸を買い求めると、破れたテント袋、リュック、カバンの応急処理を施した。
しばらくして、自転車は元どおりとなった。乗ってみて変速ギヤの調子を見、悪い所を見つけて直させた。
『ところで、カバンが真っ二つに切れているし、フイルムが二、三本使い物にならん、懐中電灯もこれじゃしようがないんで、何とかして貰いたいんだが。』
『申し訳ないんだが、いまこれしか持っていないんで、これで勘弁してもらいたいのだが。オートバイの方がだいぶかかりそうなので。』
840円しかないといわれ、渋々納得すると、遅れた時間を取り戻すつもりで飛び出した。事故現場に戻ると、まだ郵便屋がカステラ屋のばあさんと一生懸命話し合っていた。
『僕の方はけりがつきましたから。おばさん、さっきはご馳走さま。じゃあ、さよなら。』
それだけ言うと、、ボーとしている二人を後にした。
大分時間を無駄にしてしまったので、宇部に着いたのは6時頃、それから学校を探した。町中からはずれた厚南区第一原にある原小学校の医務室を借りることができた。
16日目(8月3日)宇部市→福岡市:112.7キロ/1330.6キロ
【宿泊は福岡市香椎小学校宿直室】

原小学校を早々に引き上げ、セメントでお馴染みの小野田市に入った。とにかくほこりっぽい町だ。下関から通行料10円の有料道路を走り、山の中にある関門トンネル入り口に到着した。しかしここは自動車専用入り口。歩行者や自転車用の入り口は山をひとまわりした市内にあった。エレベータで隧道に入り、あとは自転車を押して九州側に行く。静かで涼しいまっすぐな道。これが海の底かと疑うほど、明るい道だった。
終点で再びエレベータに乗り、地上に出る。この間さすがに九州の太陽は熱い。門司でそうめんを食べ、しばらく昼寝をする。煙だらけの八幡を抜け、福間で夕食を食べてから福岡市に入った。
6時過ぎ、香椎の小学校に泊めてもらうことになった。
たまたま卒業生の集まりがあったのかどうか、スイカとラーメンをご馳走になった。
17日目(8月4日)香椎→武雄市:94キロ/1424.6キロ
【宿泊は武雄市武雄小学校宿直室】

朝、久しぶりに寝坊した。それほど、居心地の良い小学校だった。
足にサロンパスを貼り、出発した。福岡市内で道に迷い、11時頃まであっちへ行ったりこっちへ行ったり。
やっと3号線を見つけ、鳥栖方面に向かう。道が極端に悪く、5回目のパンク。
三田川あたりから少しは道も良くなったので、一気に佐賀市まで飛ばした。予定ではここで1泊するはずだったが、武雄まで走り、武雄小学校に宿を取った。
18日目(8月5日)武雄市→長崎市:78.7キロ/1503.3キロ
【宿泊は長崎海洋気象台官舎】

ここまで来ると、最初の目的地長崎までは残り80キロほど。大村、諫早を過ぎ、日見峠を越えると、もう長崎。長崎駅で叔父に電話をすると、すぐ来いという。叔父の勤務している長崎海洋気象台はグラバー邸に隣接していて、官舎というのはグラバー邸の屋敷の下だった。夜のグラバー邸に潜り込み、100万ドルの夜景を堪能した。

<写真は長崎海洋気象台敷地から見たグラバー邸>
19日目(8月6日)
【宿泊は長崎海洋気象台官舎】

従兄弟と一緒に、長崎の港が一望できる稲佐山に登る。といってもロープウエイでだ。
夜は市中をブラブラ。

<写真は平和の記念像>
20日目(8月7日)
【宿泊は長崎海洋気象台官舎】

映画「長崎の鐘」で見た長井隆博士の住んでいた如巳堂に行ってみた。小さな家だが、映画を見ていたので、何故か感動した。原爆中心地や平和公園の平和像、文化会館などを見て回った。

<写真は大浦天主堂と中国人の墓所>
21日目(8月8日)
【宿泊は長崎海洋気象台官舎】

朝早く起きると、弁当を作ってもらい、駅前からでている観光バスで雲仙に出かけた。日見峠を越えて諫早を抜け、島原半島にはいる。海岸にある小浜温泉。お湯を大量に海に流しているのだろうか、湯気がもうもうと上がっている。
地獄谷で有名な雲仙や仁田峠を見て市内に戻ってきた。
自転車を修理にだした。タイヤがぼろぼろなので1300円で新しいタイヤに交換、そのほか分解掃除代が500円、約2000円。修理に丸一日は掛かるというので、出発を一日遅らせることにした。
親父から、息子が世話になるので宜しく、というはがきが来ていた。
夜、グラバー邸で遠くに上がる花火を見ながら、これからの計画を立てた。自転車の修理代と帰りの汽車賃、自転車の送料などを差し引くと残りは3000円。1日200円として約10日、これだけあればなんとか神戸まではたどり着ける。しかし、これからは台風も来ることだろうし、雨で閉じこめられるかも知れない、泊まるところもなくて宿屋に泊まる羽目になるかも知れない。例えば四国あたりで断念しなければならなくなったら、困りものだ。しかし、ここから引き上げるわけには行かない。九州だけでも回りたいものだ。
22日目(8月9日)
【宿泊は長崎海洋気象台官舎】

心配していた台風もたいしたことなく通り過ぎていった。居眠りをむさぼっていると、下らないことばかり考える。ここまでは、ただ前へ前へと進んできただけ。心に残る風景にも出会えなかったし、カメラマンとしての写真も撮れなかった。国道を走っているだけでは地元の良さは分からない。
23日目(8月10日)長崎市→熊本県八代郡宮原町:128キロ/1631.3キロ
 【宿泊は宮原小学校宿直室】

今日も朝から暑い。しかし、それがかえって私を元気付けた。勇叔父が5000円の旅費を出してくれたので、自転車の修理代2310円が負担にならなかった。これなら四国まで行ける。朝の目覚めが良かったせいか、体の調子は上々。
弁当を作ってもらい、叔父さんや叔母さん、勉君の見送りを受けて長崎海洋気象台を後にした。
美しい長崎の風景も昼の暑い盛りに見ると、どうもごてごてしさが目立ってあまり良い風景ではない。長崎に到着した時、駅前のデパートの所でウロウロし、駅のトイレに入って身だしなみを整えたりしたことが今では滑稽に思えてきた。駅前から右にカーブし、小川町、古町を抜けて諏訪神社の前を通り、日見峠に差し掛かった。
長崎市民の喉を潤す水を溜める浄水場があり、文明堂の店主が作った記念公園などが峠の途中に出来ている。日見トンネルを越えると後は下り坂。トンネルを出た所に俳人を送った時読んだ歌が刻まれている場所がある。
道路は途中から工事のために一方通行になっている。東長崎から諫早に行く途中、両脇にしゅろの木を植えた道がある。なかなかいい風情だ。長崎本線を左に見ながら、右雲仙、左大村という三叉路を右折、小野、守山、釜の鼻などの島原鉄道の駅に沿って進み、愛野町に入った。
ここから雲仙方面と島原方面に別れる。そこの氷水屋で一休み、雲仙へと向かう。三輪車が来ると車を止めて端に寄らなければならないほど狭い道である。左に有明海、右に雲仙の山々が見通せる。海水浴場では家族連れや団体が甲羅干しをしている。
国見町に入ったあたりから道も良くなり、間に合わせに作ったようなフエリーボート発着場がある。一時の出発までにはまだ時間があったので、近くの茶店でソーセージをかじりながら叔母さんに作ってもらった弁当を食べた。
この田比良から熊本県側の長洲まで50分程度、自転車は原動機付と同じで200円。自転車をトラックやバスの間に置き、二階の客室で昼寝、団体客が一緒なので、騒がしいことおびただしい。
旅の恥は書き捨てとばかり、中年のおばさんが体を摺り寄せてくる。田比良からポンポン蒸気船がロープで引っ張られている。長洲は街といっても店が一軒あるだけで後は田んぼ。草が伸びている幅50センチ位の道を玉名市に向かった。
途中古墳のようなものがあり、坂を登って行くと赤とんぼが真っ黒になるほど飛んでいる。
自転車屋によって空気入れを借りる。菊地川に架かる橋は工事中、左に迂回して仮橋を渡り、元に戻る。午後4時、国道3号線に出た。植木町という。そこから熊本までは道が良く、11キロの行程を30分ほどでたどり着いた。熊本城は残念ながら修復中、古い門をくぐって中に入ると大きな石垣が曲がりくねって奥へ延びている。天守閣の立つ高台から熊本市内が良く見渡せる。
東京は上野あたりに似た目抜き通りはアーケードが続き、美しく飾りつけられている。鶴屋や大洋とか言う高層ビルのデパートが建ち並んでいる。放射状に出来た道も立体交差で、良く整備されている。
熊本の中心地から川尻までは家が密集し、熊本市街地の大きさが実感できた。道も幅広く舗装されていて気持ち良く走れる。この辺は熊本平野と呼ばれ、平地面積が広い。
緑川を渡ると宇土市に入るのだが、市内を抜けないでバイバスを行く。まだ舗装されていないが、整地されているので走りがいい。不知火町の松橋町からは道が良くなっている。
交通事故があったらしく、土地の消防団員が集まっている。
ボーイスカウトが近くでキャンプをしているのか、制服姿が見られる。小川町を抜けたところの橋の上で宿を見つけるかどうか迷ったが、まだ明るいし、道も良いので先に進むことにした。
氷川に架かっている橋を渡って宮原町に入ったのは七時過ぎ、今日の走りを終えることにした。町の中心から一寸行った所に宮原小学校があった。中に入ると中年の宿直員が居て、顔つきは悪いが、なかなか親切な人、小使いさんがさっそくお茶を入れてくれた。
荷物を降ろし、体を洗ってほっと一安心した所で、町に出て夕飯を食べる。部屋にはテレビがあって野球を見ていたが、「地方の番組もあるんですよ。」とチャンネルを切り替えて漫才を見せてくれたが、なにを言っているのかさっぱり理解できなかった。蚊帳に入り横になると睡魔が襲ってきて、そのまま寝てしまった。
      
24日目(8月11日)宮原町→水俣市:95キロ/1726.3キロ
【宿泊は水俣・袋小学校宿直室】

宿直の宮崎先生が用事があるので、早めに出発して下さいといわれていたので、七時ごろ小学校を出発した。まだ日が上がらないので、コントラストの強い山並みが迫ってくる。
それに涼しいので、ピッチも早くなり、あっという間に八代市に到着した。工業都市のような雰囲気で、駅の裏側、球磨川の橋の手前にあった食堂で朝食を済ませた。時折雨が降る。橋を渡ると、とたんに道は悪くなった。
左人吉、右水俣。海岸線が見えてくると日奈久という温泉町に入る。定期便は農道をお通り下さい≠ニいう看板が立っている。なるほど、町中を抜ける通りは狭く、商店が建ち並んで人も多い。日奈久を抜けて左に行く。湯気の立った温泉村という感じである。これから峠の多い道に突入する。
まず、赤松太郎峠。海岸線に沿っても行けるのだが、すごく遠回りになるので、挑戦することにした。焦ってもしょうがない、のんびりと上って行こう。それでも汗が体中から噴き出してくる。途中木陰で休むのだが、蝉の声がものすごい音で響き渡る。
鳩が寂しげに泣く。
峠を越えても道が悪いので、下り坂でも苦労する。田浦町という漁村まで下ると、昨夜書いたはがきをポストに入れ、ボールペンを買って次の佐敷太郎に挑んだ。
しかし、今度は体の方が言うことを聞かず、なんども車を止めて休んだ。頂上は素彫りのトンネルで真っ暗。、車が来ると恐いので来ないのを見計らって突入する。
やっとこさ、海辺の芦北町まで下りてきてパチンコ屋の隣にある食堂に入った。昼間から結構客が多く混んでいる。
手を洗いたいのだがと声をかけると、パチンコ屋の裏に案内された。隣に座っていた高校生に海岸線を行くとどうなると聞いたが、距離が倍以上になるというので、あきらめて第三の峠、津奈木太郎に挑戦することにした。
美しい川の流れに沿って上りつづける。土地の子達が真っ裸で水浴びをしている。遠くのわらぶきの家から親たちが監視している。のどかな風景である。木陰で昼寝をし、目を覚ますと女子高校生が上って行くのでその後ろをついて行った。
地図では更にこの上に峠があるはずなのに、道は下り坂になった。おかしいなと思いながら進んで行くと線路に出た。店で聞くと左へ行くと八代、右へ行くと人吉だという。
これは参った、まったく違う道に来てしまった。
土地柄には似合わない体つきのいい女のこが気の毒そうな顔でこちらを見守っていた。家の中から深い谷間が見通せる。大瀬といい、鉄道は湯前線。さっき道を教えてくれた郵便配達人はひどい奴だと腹を立てながら、今来た道を進み、白木峠を越えて芦北町まで21.8キロ、3時間を費やして戻ってきた。
氷やでスイカをとパンを食べ、この後、峠を越えるべきかどうかを親父さんに聞いてみた。
娘っこでも簡単に越えられますよ、ということで、さらに進むことにした。新しいアスフアルト道で、走りやすい。
佐敷駅、、湯の浦町を過ぎて工事中の現場に出た。新しい道を切り拓くので、ダイナマイトを使って崖を爆破している。鹿児島本線をくぐり、一回りしてから峠に差し掛かった。道が狭いため工事人が交通整理を行っている。
時折、ダイナマイトの爆発音が山中に響き渡る。あたり一面ほこりで真っ白だ。暑い。喉が渇く。疲れが最高潮に達し、救いを求めたくなる。やっとこさ、道路端に湧水を見つける。
水を舐めるようにして、少しずつ口の中を潤わせて行った。
一気に飲むと倒れてしまいそうな恐怖心に駆られたからだ。
峠を越え、道の悪さで自転車が跳ね上がるのを押さえながら麓に向かって進む。6時30分、やっと麓にある津奈木村に到着した。とにかく予定よりだいぶ遅れてしまったので気持ちは先へさきへ。、小さな坂道をいくつも越え、水俣市に入る。水俣病という先入観が或る所為か、なんとも陰気臭い感じを受ける。
居心地が悪そうなので、駅前で写真を撮ると、話題の工場の前を抜けて、街を抜け出した。
一山越えると月の浦湾に面した水俣市袋という村落に出た。
家が段々上に建てられ、一番高い所に小学校が建っていた。
半ズボンにランニング姿、下駄履きの先生が気軽に私の希望を受け入れてくれた。校庭の隅に建っている家に奥さんと子どもの三人で住んでいる。夕食をご馳走になり、入浴後、眼下に見える月の裏湾を観ながら話しが続いた。
九州の水俣病が発生した所、戦時中軍の施設であった工場で水銀を海に捨てたのが原因で、この付近で獲れる魚介類を食べると、高熱になり、脳がおかされ、一生馬鹿になるそうだ。現在、漁獲は禁止され、患者の数も減ったが、それでも水俣病院には明日にも死ぬのを待つ患者が数多く居
るとか。
この月の浦湾には魚がいるが、獲ってはいけないので漁民は保証金を貰い、水俣にある住友工場で工員として働いているそうだ。

<写真は袋小学校の敷地内に住んでいる先生のご家族>
25日目(8月12日)水俣市→鹿児島県高城町
【宿泊は川内南中学校】

奥さんにいわれるままにのんびりと朝食をいただき、8時45分に学校をおいとました。
鹿児島県との県境に大きな石柱が立っている。鹿児島県側は道がいい。
海岸線を鹿児島本線と平行して走りつづける。米ノ津川の長い橋を渡り、工事中の道をなんども通って、11時45分に阿久根市に入った。駅前に大きなフエニックスの木がある。駅のベンチに腰を下ろし、のんびりと休憩。近くの店で水筒を買う。百三十円。冷たい水を客にサービスしていたのでそれを入れてもらったが、すぐ暖まってしまう。
海岸線の景色は抜群だが、海水浴客はほとんど姿が見えない。遊泳禁止なのだろうか。道路と海岸線とは高低差があるが、時折海岸すれすれにトンネルが作られている。
西方駅前の井戸で水をのみ、パンをかじって板の間にゴロッと横になった。空模様がおかしい。川内市内に入ったころに大粒の雨が降り出した。いわゆる南国の夕立、大地を揺るがすようなものすごさである。
自転車にビニールをかけ、木の下に駆け込んだ。止みそうもないので家の方に避難したが、おばあさんが胡散臭そうに見るので、十メートルほど離れた駄菓子屋に移動した。しばらくお店のおばさんと無駄話をしていたが、薄暗くなってきたので、その上にある中学校へ行ってみた。
宿直室では先生や生徒たちがたくさん集まってテレビを見ている。雷が大きな音を響かせる。
ここは川内南中学校といい、今回の旅では初めての中学校である。やがて生徒たちは小止みになったのを見計らって帰って行った。先生の前に地図を広げて、今まで歩いてきた行程を説明する。

<写真は阿久根の駅前>
26日目(8月13日)川内市→鹿児島県勇人町:75.4キロ/1856.4キロ
【宿泊は小浜小学校宿直室】

台風が四国に上陸するようなことを言っていたが、今朝は雨も上がり、七時に中学校を後にした。串木野、市来、伊集院町、河頭、伊勢を通り過ぎ、昼ごろに鹿児島市内に入った。
目抜き通りを抜けて鹿児島駅へ。至る所にフエニックスや蘇鉄が植えられ、南国情緒豊かである。駅の裏方から桜島が手に取るように見える。島津家の別荘磯御殿≠ノ行く。入園料を払い中に入ると、岩組みのすばらしい山水庭園があり、桜島の借景が見事。
猿が放し飼いされている。鹿児島市内は桜島の噴煙で電車も線路も真っ白だが、磯御殿だけは掃除が行き届いているのか、その気配はない。
しばらく休憩してから、桜島を見ながら鹿児島湾を回る。鹿児島本線の線路際に、西郷隆盛の生まれ育った家が残っていた。
午後は天候が崩れ、桜島に雲が覆い被さってきた。
この辺の海岸には軽石が多い。それを知らずに小間物屋で軽石を買おうとした。そんなもの海へ行けば落ちていますよといわれ、なるほど、行ってみるとすべて軽石ばかり。
加治木町に入るあたりから雨が降り始めた。菓子屋に飛び込み、菓子を食べながら雨の止むのを待ったが、なかなか止みそうもない。店の娘さんに学校のある場所を教えてもらう。
教えてもらった加治木小学校は鉄筋コンクリート造りの立派な校舎で、入っていくと日直の女の先生がいた。
宿直が山に行っていて夜にならないと戻らないから、校長先生に聞いてみましょう、と出ていったが、校長が許可しませんのでと断ってきた。
いつ雨が降り出すか分からなかったが、峠を越え、塔のようにそそり立つ山を回り込むと、小浜という漁村に出た。
山の中腹に学校らしき建物が見える。お寺を思わせるような造りで、校庭もあまり広くはない。若い人たちがたくさん集まっていて、何か準備をしている。宿直の先生は快く了解してくれた。小浜小学校という。
飯を食べに行こうとしたら先生に呼びとめられ、今若者たちのパーティが済んだところなので、残り物があるのはずだ、と言って頼んでくれた。
しばらくして女性陣がカレーライスを持ってきてくれた。
『俺も今ご馳走になったばかりだ。』と太った山元清と言う先生が隣に来て話し始めた。
『こんな田舎では若い人たちの楽しみが少ない。そこで青年団が合宿していろいろな行事を行っているのだが、何しろこの辺は夜這いが盛ん。そのため娘を夜外に出そうとはしない。この集まりでも女の人はほんの二、三人。あの人たちも役員になっているから出てこられたもので。』
校庭で青年団のキャンプフアイアが始まった。踊ったり歌ったり、スタンツをしたり。本部と四班ほどのグループに別れ、本部が指示したテーマに沿って演技をする。歌謡曲はほとんどが物まねでなかなか上手である。
スタンツは、彼らがなにを喋っているのかさっぱり分からない。
鹿児島県は明治維新前に独立するつもりで言葉を新たに開発した。奥さんのことを「うっかた」、この人たちを「コンシ」または「ザコンシ」。
後で翻訳してもらったのだが、スタンツに「銀座二四時間」という演しものがあった。
貧しい姿をした子どもたちのわきをドレッシーな紳士と淑女が通る。銀座通りをちんどんやが通る。デパートで遊ぶ子どもたち。銀座の中にある神社仏閣。デパートのエレベータガール。
東京から遠く離れると、銀座のイメージも変わるものだと感心してみていた。

『君は鹿児島の焼酎を飲んだことがあるかね。』という先生の提案で、四合瓶を持って「白銀の露」という焼酎を買いに行かされた。一合43円だから4合で172円、残りでつまみを買う。
先生は土瓶と湯飲みを用意し、『これで君と差し向かいで飲んでいれば、茶を飲んでいるように見えるだろう。』
焼酎の度数は30度、これに水を加え25度にして飲む。
私もいわれた通りにして飲んだが、どうも水臭くてあまりおいしくない。それに、焼酎は強い酒だからと言う先入観があるために、結局水ばかり飲んでいた。
先生は飲みながら方言の話し、土地の話しなどを聞かせてくれた。
ラジオは新しい台風の発生を伝えていた。

<写真は駅前のフエニックス、西郷隆盛の生家、磯御殿から見た桜島>
27日目(8月14日)隼人町→宮崎県庄内町
【宿泊は同級生宅】

目を覚ますと女の人がいる。山元先生は女の人に起こされた。日直の先生だそうだ。荷物を自転車に積んでいると『大変な荷物ですね。暑いのに大変ですね。』と声をかけてくれた。両先生の写真を撮り、礼を言って学校を出た。
平坦な道がやがて上り坂となった。舗装はされていないが、それほど悪い道ではない。
大きなフキの葉を持った親子が自転車に乗って通り過ぎていった。年老いた夫婦が力を合わせてリヤカーを押して行く。
峠を越えるころ天候が悪くなってきた。
ラジオ南日本とラジオ宮崎が交互に聞こえてくる。道が宮崎側と鹿児島側で入る電波が異なると言うわけ。
時折、三輪車が通り過ぎている。
雨が降ってきた。崖の下で休んでいると小降りになった。
光神山、小倉、新原。やがて道は下りとなった。雨が降ってくると木の下や店の中に飛び込む。太陽が出てきた。都城市に入った。大きな街だが、暑さのため静かだ。舗装工事が終わったばかりの所にある店に入り、パンと牛乳を買って腹に流し込んだ。出てきた娘さんに池田君の出た都城高校のあり場所を聞く。途中高校生を捕まえて案内させる。
宿直室で彼の住所を調べてもらうことにした。
『池田?、34年卒?、いないね、泉が丘高校じゃあない
のかね。』卒業生名簿を括っていた先生がいないと言う。
しばらくしてみつけたらしく
『いたよ、いたよ。池田稔昌、庄内町12689だ。ここ
から10`ほどの所だ。』
駅まで戻り、駅舎の写真を撮ると、教えられた庄内町に向かった。自衛隊があるのだろうか、隊員がジープで走っている。遠くに高千穂の山々が見えてきた。茶畑が多い。
庄内川を渡って上った所が庄内町、真ん中を舗装された道が貫いている。町の中に入り、氷水屋に飛び込んだ。都城から遊びに来たのか、家族連れがキャーキャー騒いでいる。
『12689番地?、番地だけじゃあ分からないね。池田?東京から自転車で帰ってきた人?そういえば、二、三日前の新聞に載っていた人が確か池田と言ったねえ、とうちゃん。』
そういいながら、奥から出てきた親父さんと一緒になって新聞を調べ始めた。
『見つからないね。そこの四つ角を左の方へ行くと郵便局があるから、そこで聞いたら。』
こんな小さな街で、番地も分からないし、名前を言っても分からないとはこの店の連中、よそ者だな。
郵便局で聞くと、なんと裏の家が池田君の家。生け垣に囲まれた農家である。
声をかけると、彼が怪訝な顔をして出てきた。
川内で住所を書いたノートを紛失したため、連絡が取れなかったことをわびた。井戸端で体を洗い、畳の上に大の字で横になった。なんか、久しぶりに家に帰ってきたと言う感じである。
彼の部屋には引き伸ばし機や本などが並んでいる。しばらくして彼とそっくりのお母さんが戻ってきた。
小柄で気さくな人である。妹さんと弟さんが静かに挨拶した。弟さんは手先が器用らしく、自分で作った立体地図が机の上に並べてあった。その夜は焼酎で晩酌をした。
徳利にお澗して出てきたので日本酒のつもりでグイグイ飲んでいたが、三本空にしたとたんに腰に来た。食事が済んで寝床を指示されたが、体が言うことを聞いてくれない。
ゴロゴロ転がって布団の中に入った。
焼酎がこんなに強い酒とは夢にも思わなかった。
28日目(8月15日)【宿泊は同級生宅】

今日は朝からすっきりと晴れ上がっている。この近くに世界でも有名な関の尾滝があるというので、朝の涼しいうちに出かけた。自転車で静かな山道を飛ばしていくと、清流の音が聞こえてきた。関の尾滝と言う案内板があり、観光バスが何台も並んでいる。土産物屋にはたくさんの人が群がっている。
自転車を預け、木立の中に入っていった。しばらくして滝が見えてきた。滝の上は岩が侵食されてくぼみが出来、小さな石が無数に並んでいるように見える。
家族連れやアベックが岩の上にビニールを敷いて休んでいる。
水がくぼみを勢い良く流れている。とにかく涼しい。しばらくのんびりと憩う。
家に戻って昼食を済ませ、午後はこの後の計画を練った。
そう言えば今日は8月15日、お盆の真っ盛りである。
料理はすべて野菜類、煮物のだしは海老を利用していた。
海老だけは精進料理でも使っていいのだそうだ。
『明日は高千穂に登ろう。』
『じゃあ、今日は早く寝よう。』
29日目(8月16日)【宿泊は同級生宅】

朝六時起床、すぐ支度をし、朝食を済ませ弁当を作って七時に自転車で家を出た。庄内の街を抜けて、そこから四`ほどはなれた谷頭と言う街に行った。
自転車屋に自転車を預けると、谷頭駅からジーゼルカーで高原と言う所まで行った。
単線だが、電車から見る眺望はすばらしい。
山あり谷ありで高千穂に近づいていく。高原駅前には歓迎のアーチが作られ、いかにも観光地に来たと言う雰囲気である。
そこからバスで御池に出た。山の中の湖はいかにも静かで、木々囲まれている。ボートがいくつも並んでいる。池の端を伝わっていったが、崖がせり出していて水の中に入らなければならない。
先ほどから一匹の犬が前になったり後になったりしてついてくる。しばらく行くと雨が降ってきた。
木陰で雨宿り。池の端から登山道に出た。生い茂った原生林の中を右に左にと進んでいくと、霧島神宮の社についた。
木を使って階段状にした坂道に鳥居が作られ、老いた社守りが一人、のんびりと境内の掃除をしていた。
大木で空が見えないので薄暗く、ひやっとする。
先ほどの犬が相変わらずついてくる。弁当を広げ昼食、おかずを一つ犬になげてやった。
霧島には約138科、510属、1250種の草木があると言われている。標高300メートル前後の山麓帯にはタブ、クス、イス、ウラシロガン、イティ、ガン、シイ、マテバシィなどの常緑広葉樹で、典型的な暖帯多雨林である。
ところが、標高700メートルになると、モミ、ツガ、赤松となり、針葉樹が千メートルまで続く。それ以上の高さになると針葉樹、落葉樹が混じってくる。1300メートルを超すと、シャブシ、ノリウツギ、ミヤマキリシタなどの潅木帯と化す。
覆い被さっていた木々の間を抜け、ススキの間を行くと見晴らしがよくなってきた。御池、小池などが美しい色と形を見せてくれる。
 霧島国立公園には獅子戸岳、韓国岳、甑岳、エビノ岳、現在まで噴火していた新燃岳などの大きな火口を持った山々から形成されているが、こちらからは見えない。
高千穂峰は二つ石、お鉢と両脇に従えた三段構えの標高1574メートルの山で、山頂にはニニギノミコトが天降ったという伝説のもとに天の逆鉾が祭られている。このような山の形を寄生火山という。二つ石というのはちょうどその山頂付近に大きな石が二つでんと据えられているからである。
山頂には石室の避難所と老夫婦が開いている売店があり、そこに宮崎県で行っている登山名簿があり、記名するようになっている。
あいにく雲が低くなってしまったので、そのほかの山々が見られなかったのは残念であった。
犬は反対側に下りていったのだろうか、山頂でちょっと姿を見ただけで、いなくなっていた。他のグループが四、五名いるだけであまりにも寒いので下山することにした。
仏法僧の渡来地としておなじみの狭野神社。神武天皇誕生地を記念した神社で、天を貫くほど高い杉や二つのおおきな根っこが一つの幹になった杉など、変わった形の杉の大木が密集している。残念ながら仏法僧の声を聞くことは出来なかった。
参道を出たところにバスの停留所があったが、高原行きはなかった。
『歩こう』ということで、ぽっくりぽっくり歩き出した。
行くときはバスで大分おくまで入ったような気がしたのだが、それほどの距離ではなかったが、高原に着いたときはすでに電灯が灯っていた。ジーゼルカーと自転車を乗り継いで家に戻ったが、家の人が心配するほど遅い時間になっていた。五右衛門風呂に入って体の汗を流し、夕飯を食べるとすぐ布団に潜り込んだ。
<写真は高千穂峯頂上>
30日目(8月17日)
【宿泊は同級生宅】

今日はのんびり休息。台風が近づいているので晴れたり曇ったり、雨が降ったりと不安定な天候である。山口で事故にあったとき破れたリュックやテントの袋などを、彼の妹さんの昌子さんがミシンできれいに繕ってくれた。
今日は盆明けとかで、飾ってあった岐阜提灯をお墓に持っていくことになった。新盆の家などでは提灯が20個も30個にもなるので、物干し竿にぶら下げて持っていくのだそうだ。たくさんの提灯が行き交い、なかなか壮観である。この辺では墓石は一人一個ということになっているので、狭い敷地に墓石が群をなしている。
31日目 (8月18日)庄内町→宮崎市:92.3キロ/2024.3キロ
【宿泊は宮崎市国富小学校青年の室】

疲れもとれて体の調子はずば抜けてよい。いよいよ彼の家を後にして再び旅に出た。台風が来ているので天気の具合がさえない。
天候も悪いことだし、もうこの辺で自転車旅行をやめて汽車で帰ったら、などどいろいろ言われたが、ここでやめるわけにはいかない。
弁当やお菓子類、缶詰などをおばあさんやお母さんがせっせと用意してくれている。
別れはつらかったが、庄内町にも別れを告げ、近道を通って都城の市内を抜けずに市のはずれに到達した。ここで彼と別れた。
何度か雨に遭い、そのたびに雨宿り。大淀川の鉄橋を渡り、川沿いに道が続く。川幅の大きい水のきれいな川だ。
高岡町の郵便局の前の菓子屋でまたしばらく雨宿り。宮崎市内にはいる道と日南市に行く道に分かれる。すでに3時半になっていたが、ここまで来て青島に行かないのも、と考え、右へ向かった。大宮崎という駅があり、アーケードが出来ている。ロバに車を引かせ、レコードを掛けながら行商している菓子屋が通り過ぎた。左に日南海岸を見ながら進むと、子どもの国という駅があり、大きな遊園地になっている。いろいろな遊び道具が並び、川、山、橋、海などが完備している。昨年には島津夫妻が来たと書いてある。青島に行く細い道路の両脇は土産物屋が軒を連ねている。台風接近で観光客は少ない。海に近い宿屋をかねた店でうどんを食べた。
『ねえさん、ここはいくらで泊まれるの?』
『800円。』
コンクリートの橋を渡ると青島、周りはいわゆる「鬼の洗濯板」と呼ばれる規則正しく抉れた岩が並んでいる。あいにく満潮で、その全容は伺えなかったが、一部は見ることが出来た。
貝細工を売っているおばさん達がいる。島を一周したいのだが、天気が悪いので、早々に引き上げた。
宮崎まで戻れば泊まるところは何とかなるだろうと自転車を飛ばしたが、途中で国富という小学校を見つけたので、宿をお願いした。
黒木という宿直の先生は、校舎の一番奥にある給食室の隣の四畳半を貸してくれた。
ここは地元青年団が使っている部屋で、写真や賞状が壁に貼ってあった。
身体を洗い、洗濯を済ませ、パンとバターを買ってきて食事を済ませた。
校庭で遊んでいた青年がボール用の空気入れを探しに来たが、見つからなかった。
その夜は、天候が心配でまんじりともしなかった。
<写真右は宮崎・青島>
32日目(8月19日)宮崎市→日向市:77.9キロ/2102.3キロ
【宿泊は日向市富高町・正念寺】

朝目を覚ますと、案の定、雨が降っている。あまり寝ていないので頭がボヤーとしているが、パンと缶詰で腹ごしらえし、雨具を着て出発した。宮崎市の繁華街を抜けて駅に行き、そこから神武天皇を祭った宮崎神宮に行ってみた。砂利道の手入れを四,五人の人が、休みなしに行っている。大正天皇お手植え、皇太子お手植えなどの木々が植えられている。境内には図書館が建っていて、学生達が出入りしている。境内には蘇鉄やフエニックスなどの熱帯植物が植えられ、南国情緒豊かである。
雨の中を進み、一ツ瀬川のたもとの菓子屋の前でしばらく休んだ。ふところが心細いので中へ入るわけにもいかない。高鍋の駅前で昼飯を食べる。どうも疲れと寂しさがいいようもなく全身に覆い被さってくる。
川南町を過ぎ、バスと競走しながらのんびりと走っていったが、道はますます悪くなっていった。
都濃町あたりにくると、周りの景色も目に入らなくなり、ただ、前へ前へと機械のようにペダルを踏み続ける。頼りになるのはトランジスタラジオから聞こえてくる声だけ。カメラを取り出す気力もなくなってしまった。
美々津を過ぎ、峠にさしかかる。車と衝突するのではないかと心配するほど道が狭い。峠を登りきると、暗い色した美々津湾が見え、漁村らしさが伺えた。塩見川に架かる橋を渡り、左へ行くと、あの有名な椎葉ダム、そのまま行くと、昔、九州一の賑わいを呈した細島港に着く。川っぷちにある食堂に飛び込み、水道を借りて身体や自転車を洗った。寒い、身体に震えがくる。店に入ってチャンポンを食べ、体を温めた。
店の女の子が客にたかっている。時間はすでに4時を回っている。雨がやんだので、元気を付けて町はずれまで走ったが、そこからはまた泥んこ道。やむを得ず、さっき当たりをつけておいた寺に引き返した。
境内には保育所があり、保母さんに用件を言うと、「お寺の方へ行ってください。」
話を聞いた住職はしばらく考えた後、良かろうという返事。
早速おばさんが出てきて、部屋を掃除したり片づけしたりしてくれた。住職の後に風呂に入ったときには、これまでの疲れがすべて取り除かれたような爽快な気持ちになった。食事をごちそうになる。麦のたくさん入ったごはんを思い切り食べ、なす、きゅり、がんもどきなどの精進料理であったが、とにかく美味しかった。夕飯の時紹介された息子さんは京都の龍谷大学を卒業して家に戻ってきた23,4歳の若者だ。
写真が好きで、「いろいろと撮ってあるので見てください」、とアルバムを置いて出かけていった。大学でのスナップや風景などを大きく延ばして貼ってある。なかなか様になっている。
日向市と延岡市のボーイスカウトがここの海岸でキャンプをしているので、明日、それに参加するとか。
君も行かないか、と誘われた。彼は今度日向市に出来る隊のリーダーになるために講習会に参加するという。息子さんが映画を見に行くと出かけていった後は、おばさんと世間話。この辺の者は皆東京に憧れて出ていってしまう。日向市はだんだん寂しくなる。ここは豊かな材木の出荷港で、駅名でもわかるように富高といわれるほど栄えた所だったと話が弾む。
時計を修理するため、町に出る。パンツとズボンを買い、喫茶店に入った。バーテンは慶応大学出だそうで、なかなかセンスのある店構えだった。
<写真は宮崎神宮>
33日目(8月20日)日向市→大分県弥生村:95.7キロ/2198キロ
【宿泊は宇藤木分校】

今日は土曜日、家を出てからちょうど1ヶ月になる。今朝は私のためにわざわざ白米を炊いてくれた。
昨夜も、来るのがわかっていたら、白米にしたのに、と言われ、涙が出た。味噌汁が旨く、お代わりする。
息子さんは朝早く出かけていったので、出かけていったので、逢うことは出来なかった。
昨夜買った新しいズボンをはくと、とたんに元気が出た。
それにしても、この家の人は皆親切な人ばかりであった。おかげで、昨日の落ち込みもすっかり取れ、曇っていた空も晴れ間が見えてきた。
道は舗装されていないが、昨日の雨で砂埃なし、出発は順調。南延岡駅の前を通って五ヶ瀬川を渡ると、すごくごみごみしたまちとなった。延岡駅前のキャンデー屋にはいる。福福饅頭が湯気を立てている。「○○様、何個、賞金1000円」と書いた紙がべたべた貼ってある。
饅頭を一定時間内に何個食べられるかということらしい。私は3個食べたが、これで満腹であった。水筒に冷たい水を入れてもらうと、再び出発した。
樫山から峠を越える道と海岸伝いに行く道とがあったが、どうも遠回りのようなので、峠に挑戦した。
とにかく険しい峠道だ。日豊本線を右に左に見ながら登る。鉄道は佐伯市まで数多くのトンネルがあるそうだ。もうこの辺では、田圃に稲が干してある。やがて、宮崎県、大分県と大きくかかれた標識の立つ県境に出た。宗太郎峠という。そこからは下り坂。それにしても、宮崎県側とは比較にならないほどのでこぼこ道で、自転車も乗れない。しかも日陰なので昨日の雨がそのまま残されている。
せっかくの新しいズボンも泥水が跳ねて、また汚れてしまった。
重岡という駅前の喫茶店であじの煮魚で昼飯を食べ、そこでしばらくのんびりした。佐伯の方からバイクで上がってきた人に「全く悪い道だよ。」といわれ、またまた元気がそげる。
悪い道もいつの間にか慣れてきて、それほど苦でもなくなり、ピッチも上がってきた。いつものことだが、朝のうちは元気が無く、スピードも出ないが、暑くなってくると俄然元気が出てきて、スピードも上がる。この日もそうで、4時頃には佐伯市の手前5キロほどの三叉路に着いていた。このまま佐伯市に入って今日の日程を終えるか、それとももっと先へ進むかと、菓子屋で牛乳を飲みながら考えた。
「よし!やってみよう。」
工事中の道を走って、坂本から弥生村に点在する学校を横目に、先に進む。宇藤木峠に入る所にバス停留所があり、ここが終点になっている。時間は5時15分。停留所の所にある菓子屋の近くに弥生村の宇藤木分校があった。亀井さんという先生が奥さんとお子さん2人と一緒に住んでおられる。1年生から3年生までの子を一つの教室で教育しているとか。夜は備え付けのテレビを見たり、時刻表を借りて犬飼から阿蘇行きの汽車の時間を調べた。奥さんはこの辺ではなかなか手に入らないのではないかと思われる刺身付きの夕食を用意してくれた。豪華な食事である。その後、風呂に入ってぐっすり寝ることが出来た。
34日目(8月21日)大分県宇藤木→大分県犬飼:24.2キロ/2222.2キロ
【宿泊は阿蘇町碧水小学校衛生室】
朝食を頂き、さらに、にぎりめし弁当を頂戴して分校を後にした。今回のテーマ「世間を知る」は殆どが、人間の親切を肌に感じた旅であった。その理由はこの宮崎や大分で受けた事が原因になっているのかも。
峠を上がっていくと、世話になった分校が見えた。子ども達が手を振るのに答えてくれた。峠を上り詰め、さあここからは下りだと行き込んだ瞬間、自転車はパンクした。
自転車を押して下るほか手がない。大分下ってきたところに人家が見えてきた。農家に頼んで洗面器と水を借り、パンクの修理に取りかかった。長崎で新品のタイヤに取り替えてから初めてのパンクだった。
風蓮鍾乳洞を見ていこうと国道をそれたが、遠そうなので、途中で引っ返して来た。犬飼の駅に着いたとき、予定していた汽車は出た後だった。駅前の茶店で鮎の煮魚と頂戴したおにぎりで昼食。自転車を預け、荷物を背負って駅のホームに立つ。機関車が煙を吐いてホームに滑り込んできた。熊本行きである。
島原に帰るんだという中年の夫婦が前に座っていた。何年かぶりで別府温泉に行き、普段の疲れを流してきたという。とてもむつまじい夫婦であった。
汽車はのろのろと上る。窓の景色は雄大で、山々がパノラマ状に展開する。とにかく、トンネルの多いのには驚く。窓際の人がトンネルに近づくと一斉に窓を閉める。これがタイミングを間違えると、車内は煙だらけになる。それ!トンネルだ、窓を閉めろ、ほらトンエルを出たぞ、窓を開けろ!。これの繰り返しである。
これはたまったものではない。この汽車で通勤している人がいると言うのだから驚きだ。
竹田という大きそうな町があり、汽車の一部はここで切り離された。
やがて汽車は阿蘇の雄大な外輪山の中に、赤牛が草をはんでいる。4時30分に汽車は防中の駅に到着した。ちょっとした観光地の駅だけあって、洒落た作りの洗面所があり、良く清掃されている。駅前には大きな土産物屋がいくつも並んでいる。残念ながら最終の登山バスはすでに出た後だった。
「旦那、今から阿蘇に上るんでしたら、タクシーがありますよ」「いくら?」「2000円ですが。」
駅前から下がったところに碧水という名の小学校が見つかった。中にはいると、女の先生が取り次いでくれて、OKが出た。早速衛生室に案内された。身体を洗い、一休みした後、駅に戻ってそばを食べた。阿蘇の山々が夕日に映えて美しい。このまま眠るのももったいないと思い、宿直室に顔を出してみた。
『入ってもいいですか?』
『ああ、どうぞ』
中で岩下先生が一人、床の間に置かれたテレビを見ていた。野球をやっていた。まず野球の話から、それからいろいろと話がはずんだ。
『お腹が空いたね。うどんでもとろうか?』
といいながら、電話で注文した。ごちそうさまでした。
35日目(8月22日)熊本県防中(列車)→大分県犬飼→大分県別府市:35キロ/2257.2キロ
【宿泊は別府温泉喜久屋旅館】


天候はあまりパットしなかった。登山バスの始発が7時40分。バス賃と有料道路通行料(大人185円・小人80円)を払い乗り込む。
バスガイドの美しい声に誘われて客の顔は右に左に。女のお尻を思わせる烏帽子岳。中央に登山道がくっきりと描かれ、この美しさが、今回の旅を通して、最高の風景だった。
中岳にはたくさんの赤牛が放牧され、ゆったりと草を食べている。千里が浜は西部劇に出てくるような牛の大群が見られる。バスは山上終点に着いた。風が強くゴンドラは休止。バスの駅は円形で、二階には食堂や喫茶店、郵便局などがある。とにかく中岳に登ってみようと言うことになり、親しくなった女二人組と一緒に頂上を目指した。火口の中にはいると風は少し和らいだ。避難所がいくつか建っている。雲と煙が見分けがつかないような状態だったが、雲の切れ目をねらってシャッターを切った。
説明員が「ここに飛び込めば絶対助かりませんから、希望者はどうぞ。今年は20名ほどです。」とふざけて言う。
阿蘇神社で商売繁盛のお守りを買った。
防中の駅に戻り、次の駅宮地に行ってみた。駅に荷物を預け、のんびりと阿蘇神社を見物した。13時57分の下りで犬飼に戻り、別府に向かった。
大野川沿いに車を進め、「この先工事中につき通行止め」の横断幕が張ってあったが、無視して進んでいった。対岸は車の量が多いが、こちらは車も通らず、ほこりもない。5メートルほどの川に橋を掛ける工事、
困ったなと思案していると、工事人が人の通れる板橋を指で指した。助かった、これなら渡れる。
農家の縁先に工事の人たちが車座になってお茶を飲んでいた。
道はこの庭先を通るようになっている。
やがて舗装道路に出た。まだ出来たての道路で、走っていても気持ちがいい。やがて家が密集し、商店街を抜けて大分駅に到着した。ビルが建ち並び、その中をサラリーマンが家路に向かう。国道10号線にある寿司屋に入った。お腹はそれほど空いてはいなかったが。大分から別府までは別府湾に沿って海岸線を行く。平行してちんちん電車が走っている。
別府は大分とは反対に、たくさんの人と騒音の町であった。関西汽船などの建物が海に面して造られ、電車通りを隔てた向かい側にはホテルや旅館が建ち並んでいる。駅の裏側の公衆電話で、喜久屋旅館に宿泊を申し込んだ。旅館に着くと、主人と女中さんが迎えに出てきた。
『ようこそいらっしゃいました。ほお、自転車で。それではお疲れでしょう。さあ、どうぞ、どうぞ』
女中さんが自転車から荷物を降ろすのを手伝ってくれる。部屋は2階の玄関の上当たり、サッパリした部屋だった。一風呂浴びてから夕飯となった。刺身など結構料理は多い。ビールを1本頼んだ。
食事がすんで町中へ。駅周辺は見るものもない。山の手の旅館街には半裸に近い格好のバーの女給さんたちが客待ちをしていた。やり手婆さんが袖を引いてきた。
『学生さん、いい娘がいますよ』
『金がないよ』
それでもしつこく着いてきた。
夜の別府の街はケバケバした飾りと、外国の水夫、水兵などの入り交じった無国籍の街である。
ラジオは相変わらず台風の情報を流していた。寝る前にもう一度風呂に入った。
<写真は阿蘇・防中駅>
36日目(8月23日)別府→フエリー:9.6キロ/2266.8キロ
【宿泊は松山市の松山大学生の下宿】

食事を済ませ、アロハを着て亀の井のバス乗り場に出かけた。Aコース:地獄巡り/130円、Bコース:高崎山と地獄巡り/190円、Cコース:高崎高原コース/510円などいくつものコースに分かれている。
そこで、Bコースの切符を買った。生憎順番が悪く、中央の補助席。バスはまず大分と別府の丁度中間に位置する高崎山へ。電車のレールを渡って、猿の形をしたアーケードをくぐり抜け、高崎山にある古刹万寿寺の別院の境内へ。途中猿の作り物や猿の餌などを売っている。今日現れた猿の数が書き出されている。石段を登ると、客にくっついて歩く猿がたくさん歩いている。柵は作られているが、お構いなしだ。土産物屋も猿の被害にあうそうだ。記念写真を撮る。猿を入れ込むために、餌を用意する。子どもをおぶった猿など、一寸見回しても100匹は下らない。
5年ほど前に住職が猿を手なずけてからだそうだから、まだ最近の話だ。現在餌代は別府市が負担している。田畑が荒らされないために、高いネットが張り巡らされているそうだ。
バスに戻り、西日本雄一のケーブルカーなるものを見に行った。その急勾配は日本一だそうだ。
ここからの眺めは抜群、園内には花人形や動物園、飛行塔、展望大温泉、こどもの国などが完備されている。由布・鶴見・内山・伽藍岳などの山脈に囲まれ、温泉湧出量は一昼夜で72000キロリットル。西鉄の稲尾投手出身の緑が丘高校前を通る。
地獄巡りは温泉の色と形で名前が付いている。海地獄、血の池地獄、坊主地獄といった調子だ。
この間18.5キロ、2時間半程のコースだった。
ツアーを終えて旅館に戻り、一休みしてから、出かける支度をした。支払いは1泊2食付きで300円+サービス・入湯税50円、ビール1本を入れて390円だった。安い。
関西汽船の発着所に行く。自転車は580円、運賃は490円。人間よりも自転車のほうが高い。乗り込んだ船はむらさき丸。三等船室は海面の下で、外は何も見えない。毛布を30円で借りて畳の部屋にごろと転がる。別府温泉の旅客が多いのか、船が岸壁を離れるときは、テープの嵐で絵になる。
船は豊予海峡を横断し、11時に私が下船する松山の高浜港に着いた。6時間ほどの船旅だった。
港で牛乳とパンを食べ、松山市に向かった。さんざん道に迷い、まだ開いていたそば屋に入って、氷水を注文する。客は学生が二人。二人に西条への道を聞く。
『これから西条へ?それは一寸無理だよ。』
『道後栄町にある育英会指定の銀水旅館に泊まろうと思っていたのですが、この時間では開いていませんよね。』
『育英会に入っている人か、私も育英会関係の仕事をしているので、○○さんのおところへ行けば面倒見てくれるよ。』
というわけで、連れて行ってくれることになった。
『良かったら、汚いところだけど、私の下宿に泊まったら?』
ということになり、そこへ泊めてもらうことにした。彼は松山大学の学生で名前は高橋信之さん。
武者小路実篤が好きで、絵が下がっていた。

<左上:高崎山、右:別府温泉、左下:着岸した定期船>
37日目(8月24日)松山市→愛媛県川之江市:94.5キロ/2361.3キロ
【宿泊は川之江小学校宿直室】

目を覚ますと朝食が準備されていた。姉さんも同じアパートに住んでいるのだそうだ。その姉さんが用意してくれたものだが、会えなかった。
しばらくして雨も止んだので、彼と一緒に家を出た。近くには松山城や野球場、サッカー場、競輪場などが列んでいる。アメリカンPR館などもある。夏目漱石が愛した町でもある。
市内を通り抜け、三越百貨店の近くで彼と別れた。
そこからはアスフアルトの道が延々と続く。雨も上がり、空はどんどん明るくなっていく。小野村、川内町。町営の大きな病院が、白亜の姿を見せている。そこから檜皮峠。道が極端に悪くなる。峠のてっぺんで雨、合羽を着て木の下で雨宿り。道が悪いので下りでも自転車を押していかなければならない。
二つ目の峠はなかなか見晴らしがいいところだ。とにかくこれだけ山奥にはいると夏の暑さもそれほど感じない。出歩いている村人達も多い。渓流もすばらしい。ゴツゴツした岩が露出している。
道がカーブしているところに茶店があった。喫茶店と書くと近代的だが、峠の茶店と書くとさまになる。
農家の作りもなかなか豪華だ。遠くに西条市の家並みが見えてきたが、峠越えで体はくたくた。行ってみる気もしなかった。予讃本線が平行して走っている。関峠を越え、土居町に入った。次は伊予三島。小さな港がある。なかなか活気のある港だ、荷下ろしが続く。
川之江市の駅に着いたのが午後5時。しばらく考えたが、今夜はここに宿泊しようと決め、決め打ちしてあったお寺に行ってみた。案内をこうと若い娘さんが出てきた。これまで学校ばかりだったので、娘さんと会うチャンスはなかったが、これは期待できると一人納得。しかし、奥から戻ってきた娘さんは
『今取り込み中なので、お断りいたします。』
まあ、この手のお泊まり先は若い娘がいるところはタブーである。
川之江小学校に行ってみた。職員室へ行く途中で中年の先生に会ったので用件を話すと、簡単に了解してくれた。職員室にいた若い先生に用件を伝えている。あの口振りでは、今の先生は校長か教頭だったのだろう。
大体、学校でも、校長とか教頭など、責任のある先生はこの場合断ることが多い。今回は例外だ。
宿直室をおばさんに手伝ってもらって掃除をし、さっそく洗濯。大きな白い猫がいて、畳の上をゴロゴロ、カナリアが良く鳴く。町にはサーカスが来ていて、客寄せの声が聞こえてくる。
国道に出た所に食堂があったので、そこで夕食を済ませ、近くの店で朝食用のパンとバターを買った。
38日目(8月25日)川之江→鳴門市:123.4キロ/2484.7キロ
【宿泊はフエリポート・簡易宿泊所】

今日は全校生登校日だそうで、先生方が登校してくる前に学校を出た。
隣の豊浜町までは、高い防波堤に沿って道が続く。まっすぐ行くと坂出、左は観音寺市、右が琴平。
大野原町、山本町と狭い道を進むと、善通寺市に出る。この辺は、雨が少ないので、何処の家の壁も赤土に藁を混ぜ、そのまま竹組に塗り込んだだけ、上塗りはされていない。
塀も同じ作りだ。
琴平町が見えてきた。町の中央に川が流れ、山の上に金刀羅宮がある。両脇に土産物屋が列んだ石段が延々と続く。石段の右側にある店に自転車を預かって貰い、登り始めた。
足の悪い人には、駕籠が用意されている。
ここにエスカレータを作る話があり、直ぐにでも工事にはいるような状態だったが、地元の土産物屋が大反対したため、計画は中止になった。なんでも、エスカレータは登り専用なので、帰りは皆歩いてくるのだから、商売には影響ないのではないか、と強行組は主張するが、スイッチ一つで登りにも下りにも切り替えると言うことを知り、またまた反対派が強くなった。
登るに連れて、客引きが活発になってきた。
『暑いでしょう、うちわを持って行きなさい。』
というので、うちわを借り、仰ぎながらのんびり上がっていった。山門をくぐると、唐傘を立てて土産物を売る娘さんがいた。宿坊や無料接待所などがある。本社なのか、旭社と書いた扁額が掛かっている。
社を回り込んで行くと見晴台がある。<森の石松、金比羅代参>ではないが、ここまで来る道すがらがいいのだ。琴平市は他に見るものもなく、次の目的地に向かって、ペダルを踏んだ。
高松市はさすがに大きな都市だ。栗林公園は有名な公園だったような気がしたが、中に入らず通り過ぎた。公園の正門前に食堂のデパートみたいな建物があり、多いに賑わっている。
高松市を出た所に食堂が列んでいたので、その一軒に入った。丁度昼食時で、混んでいる。しかし、めしは安く、旨かった。
志度町。道路にはだし用の小魚が干してある。出来たてのコンクリート舗装なので、魚を干すには絶好の場所なのだろう。避けて通るわけにもいかず、大分踏みつぶしてしまった。
大坂峠を越え、牛の鼻岬を回ると鳴門だった。海岸は殆ど塩田となっていて、海水をポンプで汲み上げて、竹の小枝に吹き付け、塩を採るという、海水下式塩取り方法。水がザアザア音を立てて流れている。
鳴門フエリーポートに着いた。既に最終の4時50分の船は出た後だった。
このフエリーは自転車を乗せないと言う。
『何とかして下さいよ。長崎でも何処でも、皆乗せてくれましたよ。』
と食い下がると、
『この先に渡し船がありますから、それを利用したらどうでしょうか?』
『自転車と人間が別々では困るよ』
『じゃあ、どうでしょうか。トラック便の運転手で知っている人がいますから、その人に頼んでみたらどうでしょうか。トラックは3人まで乗れますから。いずれにしても今日は泊まるしか手がないですね。ここから市内までは遠いので、あの家に泊まるといいでしょう。』そこはいわゆる運ちゃん食堂。
世話好きのばあさんが出てきて、
『ああいいよ、明日の一番に乗っていけばいい。明日話を付けてあげるから、早く荷物を下ろしなさい。』
部屋は三つほどあり、両隣は客がゴロゴロしていたが、私の居た部屋には、誰も入って来なかった。
塩田の水の流れがうるさくて、なかなか寝付かれなかった。
39日目(8月26日)鳴門(船)→淡路島福良→淡路島淡路(船)→明石フエリポート→大阪市梅田:108.4キロ/2593.1キロ
【宿泊は急行月光】

目覚まし時計代わりのおばさん、薄暗いうちに起きると朝食を用意してくれ、食事をしている間いろいろと話が尽きなかった。定期便のトラックの運転手さんに話しておいたから、と紹介してくれた人は、無口な人だった。5時過ぎ、自転車をトラックのホロの上に載せ、荷物と一緒に運転手と助手の間に乗り込んだ。おばさんは、たばこのいこいを4個袋に入れて、「これを運転手にあげるといいよ。」と差し出した。宿泊費100円、たばこ代200円、その他食事代と、結構金を払った。しかし、パン代20円とピーナツ代20円を払うのを忘れた。ごめんなさい。
1時間ほどで淡路島の南端福良港に着いた。運転手は遠慮しながらたばこを受け取ると、なにも言わずに去っていった。
これが淡路島か、しかし、島という感じがしない。まだ時間が早いので、町はひっそりとしている。女の人が水撒きをしていたので、飲ませてもらった。南淡町の通りは舗装されていたが、町を出るとガタガタ道、三原町の自転車屋で空気入れを借りた。ラジオ体操の音楽が聞こえてくる。家族で卓袱台に向かう姿が見える。、たまねぎが特産らしく、至る所に捨ててあり、悪臭が漂っている。酪農が盛んらしく、牛乳缶を積んだ三輪車が走り抜ける。ほこり道を洲本に向かった。洲本市は川に沿って発展した町で、商店も結構多い。橋を渡り、舗装道が切れると今度は砂にタイヤがめり込んでスピードが出ない。海岸線を走り、淡路町にはいる。海岸では漁網をを修理している男や女が多い。フエリポートのある岩尾港に到着。ここでも自転車はお断り。トイレに行って顔を洗い、ほこりを払う。たこを平たくしたものが干してあったり、昆布などが土産物屋に並ぶ。ダンプカーがやってきた。大林組と書いてあり、荷物は積んでいない。岸壁に座ってぼんやりしている運転手に用件を話すと、即座にのOK。再び船で30分、明石に到着した。ダンプは上陸した後、舞子まで乗せてくれた。福良の時と同じようにたばこを用意しておいたので渡そうとしたが、受け取らない。「気をつけていけよ。」と励まされて、別れた。
ここからは一度通った道、舞子駅前で昼飯を食い、行くときに海水浴をした海岸に行ってみたが、休んだよしず張りは無くなっていた。途中からコースを変更して神戸港、二宮などを見物した。尼崎で愛用のマップを紛失する。戻ってみたが、表だけは見つけたが、中身はなかった。大阪駅に着いた。駅前の繊維問屋街でサラシ布地を買い、マジックで「2500キロ達成」と書いて、記念写真を撮った。
日通で自転車を、チッキでテントを自宅に送った。日通の守衛が話を聞かせてくれと近づいてきたので、守衛室で身体を洗い、着替えをした。大阪駅で列車を待つ乗客のために、子供達が椅子を10円で貸している。それに座って列の中に入った。10時40分発の急行月光。座っていてもお尻が痛いし、横にもなれないし、翌朝まで身体を持てあました。9時40分、月光は東京駅ホームに滑り込んだ。これで、20歳の青春の思い出となった自転車旅行は終わった。

<写真はトラックの荷台に載った自転車、淡路島点景、大阪市内スナップ>
0日目(8月27日)東京へ戻る

<最後に>
出発するときは、大阪に戻った後、伊丹→高槻→京都と進んで35日、京都から敦賀、福井、小松、金沢、富山、糸魚川、柏崎、新潟まで走り、41日目の9月1日に汽車で東京に戻るという予定だった。この間の距離が約700キロ。京都では熊野神社近くの美津濃旅館(1泊2食付き500円)、金沢市は香林坊の菊屋旅館(同500円)に泊まる予定であった。この間の距離が約700キロ。しかし、体の調子はいいのだが、これ以上旅を続ける金はなかった。実行できず、残念だ。
因みに、かかった費用は23,210円。

<写真はさらしに描いた横断幕>