とある英霊と少女の夜。

 

 

 ここ数日ですっかり日常と化してしまった衛宮邸のドタバタ騒ぎだったが、少女の叫びに中断する。

 魔術師と英霊の14の瞳を一身に浴びるが、そんな事ぐらいで動じるような娘さんではなかった。

「そこっ! そこの貴方は一体何者なの!?」

 イリヤが指差す先にいるのは、赤い英霊──アーチャーだった。

「何者かと問われて答えるのは構わんが……」

「なによっ」

 指名されたアーチャーは眉をひそめると、何か苦い物を思い出すように少女に語りかける。

「人を指差し声を荒げるのは、淑女としてどうかと思うがね」

 アーチャーの言葉にイリヤは一瞬だけ声を失うが、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべ髪をかきあげる。

「あら、初対面の相手に淑女の何たるかをご教授されるとは思わなかったわ」

「なあに、私にも君と同じ年頃の、妹とも呼べる女性がいたものでね。せめてもの老婆心だ」

 イリヤが挑発とも取れる物言いをするが、アーチャーはサラリと流す。逆にイリヤの表情に怯えが走った。

 それに気がついたのだろうか、アーチャーは軽い調子で話を続ける。

「可愛らしい女性だったよ。本当にお姫様のような少女だった」

 背後でバーサーカーの表情がほころび、セイバー一号がジト目となる。

「お姫様?」

「ああ、そうだった……そうだったんだが……」

 アーチャーが言いよどむ。そんなアーチャーに、イリヤは続きを促す。

「ど、どうしたの?」

「いや、本当に彼女はお姫様のような少女だったよ。

 可愛らしく無邪気で……、彼女と……皆の生活は幸せだったな。永遠に続くと錯覚していた。彼女の余命が1年と聞かされるまでは」

 それは、冬の娘の確定された運命。

 イリヤにとっては既に事実であり、その事で感情など動かない。

 それよりも、彼が……このアーチャーのサーヴァントの正体が彼ならば、彼の世界の彼女は、彼と暮らした時期があると言う事の方が、イリヤにとっては驚愕の事実だった。

 そしてそれは魔術師達にとっても意外な言葉だった。サーヴァント達がこのアインツベルンのマスターに警戒心を抱かなかったのは、彼らが彼らの世界のこの少女と深い関係にあったのだ。

「一緒に暮らしていたの、その女の子と」

「ああ、もっとも自称保護者が余計な口を挟んだ為に寝起きは別の家だったがね。

 彼女が余命1年と聞かされたときはショックだったよ。もっとも、彼女は既に覚悟はできていて、残された時間は神様がプレゼントしてくれたのだと逆に私を慰めるほどだった……」

 明確な単語は出さない。

 だが、これは未来に起こりえる可能性の一つ。自分たちの事を語っているのだ。

 何時もの騒がしい面々が神妙な面持ちでアーチャーの言葉に耳を傾け、イリヤが怯えながらも質問を続ける。

「そっか、貴方も彼女も幸せだったんだ」

 誰かがごくりと唾を飲む。アーチャーの言葉が本当なら、この小さな少女の余命は一年しかない事になるからだ。

「ああ、彼女は延命よりも私と……私たちと思い出を作る事を望んだよ。彼女に振り回される生活は不快ではなかった。友人たちも、口では文句を言いながらも楽しそうに付き合ってくれた」

 今から考えれば自分たちは皆、家族に飢えていたのだろうとアーチャーは思う。もっとも家族に恵まれていただろう自分ですらも……。

 そんなアーチャーに、イリヤは優しい目を向けた。もしこの戦争を生き延びたのなら、確かに自分なら延命よりも思い出を選ぶだろう。

「私と彼女たちの思いで作りは、本当に色々あった。

 色々ありすぎるくらいあった。色々有りすぎて、結局彼女の余命一年なんて設定はどこか行ってしまった。いや、そこまで行き着くには色々と大変ではあったがね」

「へっ?」

 アーチャーの言葉に、イリヤが間抜けな声を上げ目が点となる。自分の存在を根底から覆すような事をサラリといわれて、リアクションが停止する。

 不意に、アーチャーの眉間に皺が走った。何か良くないことを思い出しているらしい。

「徐々に弱っていく彼女が元気になったのは嬉しい事だった。……嬉しい事だったのだが……」

「ど、どうだったの……」

「周りの環境が悪かったのか、元気になりすぎた……。

 最初は可愛らしくポカポカと腕を振り回す程度だったのに、それがいつの間にかそれが魔力弾になり、そのうち人に向けて宝具をぶっ放すようになった……、つーか、大英雄が多頭の大蛇を一撃で葬ったような宝具や平行世界から無限の魔力を引き出す礼装をツッコミに使うのは人としてどうかと……」

 誰の影響かは、言うまでもない。

 てか、宝石剣やら宝具やらに吹っ飛ばされる日々で、よくもまあ死ななかったものだとアーチャーは今でも思う。

「それだけじゃなかった。いつの間にかあくまがうつるんだ。

 あかいあくまと結託して呪われた宝石に手を出して夜中にケタケタ笑いながら町を徘徊するヘンナモノを呼び出した挙句に人に後始末を全部押し付けたり、金のけものと一緒に妙な遺跡を開放して異貌の神を降臨させてロンドンが異界に飲み込まれかけてやっぱり後始末を人に押し付けたり、宝石爺と一緒になって妙な装置を作り上げて勝手に人を人体実験の被験者にして妙な世界に飛ばしたり……」

「ちょ、ちょっとアーチャー!」

 バーサーカーが抗議の声を上げるが、アーチャーはあえて無視をした。今この少女に伝えなければ、きっと手遅れになるからだ。

 アーチャーは少女の肩に片手を置くと、もう片方の手を握り絞めながら力説する。

「いいかい、君はそんな風になっちゃいけない。ダメなんだ。いや、苦労するのはきっとそこの未熟者だろうし、私だけ苦労してそこの男が平穏に暮らすのはちょっぴり口惜しいが、それでも君があーなってしまうのは偲びない。無垢なお姫様でいろとは言わないが、人間としてどーなんだというレベルまで堕ちるのは……うわわっ!」

 なにやら力説をするアーチャーだったが、不意に感じた気配に反射的に少女を士郎に向かって突き飛ばし、自らものその場を飛び退く。

 一瞬だけ送れて、アーチャーがいたその場所に巨大な石作りの斧剣が振り落とされる。

「バーサー……げげっ!」

 抗議をするべく斧剣を振り下ろした先に顔を向けるアーチャーだったが、次の瞬間絶句する。

 そう、そこにはソレが存在した。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■っ!」

 

 それは死と破壊の権化。

 鉛色の巨人が、突如道場にその姿を現したのだ。

 アーチャーが、眼球だけを動かして巨人の足元に控えるバーサーカーに視線を向ける。

 そこには、不敵な笑みを浮かべるバーサーカーの姿があった。なんだか、はるか昔、あの夜に、同じ様な光景に出会ったような気がする。

 アーチャーの視線に気がついたのだろう、バーサーカーは困ったような表情を浮かべる。

 

「ああ、たいへん。ばーさーかーがおきちゃった」

 

 棒読みだった。目がニヤニヤと笑っている。

「うそつけーっ!」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■っ!」

 アーチャーの力の限りの叫びは、巨人……バーサーカー・ヘラクレスの咆哮にかき消される。

 巨人は、その手に握られた斧剣を真横に振るう。道場の中でそんな物を振るえば道場が吹き飛んでしまいそうだが、そこは狂っても大英霊。アーチャー以外にはかすり傷一つつけない凄まじい剣技。

 一方アーチャーはそれどころではなかった。

 咄嗟に白と黒の短剣を生み出し前面で防御するが、巨人の凄まじいばかりの怪力に防御後と吹き飛ばされ、壁を突き破り庭に転がり落ちる。

「あああああっ、道場があああああっ!」

 士郎の悲痛な叫びが聞こえてくるが、そんな事にかまってなどいられない。アーチャーは転がった勢いのまま起き上がると、慌ててその場を離れる。

 一瞬前までアーチャーの身体があった場所に斧剣が叩き込まれて、大きくえぐれクレーターとなった。 

「ちょっとまてぇぇぇぇぇ! イリ……、じゃなかった、バーサーカー! こ、これは洒落にならないぞ!」

「大丈夫よ、アーチャーはバーサーカーを6回も殺せるんだから。

 だ、か、ら、本気で逃げてね」

「それは俺じゃないアーチャーだっ!」

 当人たち……というか、未来組しかわからない悲鳴を上げる。

「あっ、アーチャーは1回で6回分だっけ。ぜっつりーん」

「どんな意味だっ、それはっ! 大体、あの時はセイバーと遠坂がっ! って、うわわわっ!」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■っ!」

 アーチャーの悲鳴をさえぎって、巨人の斧剣が更に振るわれる。

 咄嗟に呼び出した盾代わりの剣が砕け散り、アーチャーの身体がゴムマリのように吹き飛び塀の向うに消えていく。

 巨人が心なしか嬉しそうな咆哮を上げ、消えていったアーチャーを追撃した。 

 

 深刻な沈黙が、道場に残された者達の間に広がる。

 一人ニコニコしているのは、バーサーカーのみだ。

「な、なあ、一号」

 完全武装の剣の騎士の少女に、士郎は語りかける。

「なんでしょうか?」

 何時もと同じ冷静そうな声に、士郎が言葉に詰る。

 そんな士郎の言葉を引き継いだのは、セイバー二号だった。自らの未来の姿に、二号は不安そうに語りかける。

「セイバー一号。彼を追わないのですか? たしかアーチャーは貴女の恋人だったはず……」

「アーチャーなら大丈夫でしょう。それに……」

「それに?」

「もうすぐ夕食ですから」

 セイバー一号の言葉に士郎は目を見開き、続いて二号の顔をまじまじと見つめる。

 その表情が『セイバー二号、君達って、そんな性格だったのか……』と言っている。

 セイバー二号が半分涙目で首をプルプルと震わせ『ち、違います。わ、私はこんな性格では……、シロウ、お願いですから信じてください』と、表情で訴えた。

 なんか、表情だけで会話をするマスターとサーヴァントを横目に、イリヤがどんよりとした声で呟く。

「な、なんなのよ……、アレは……、この家は……」

「気にしちゃいけないわ」

 凛が壁の穴を呆然と見つめながら答える。

「サーヴァント……いえ、英霊に対しての幻想が壊れた気がするわ」

「奇遇ね、わたしもよ……」

 そんな呆然としている二人の少女の後ろでドアが開き、三人目の少女が道場に入ってきた。

「あの、夕飯ができました……って、なんで道場の壁が壊れてるんですかっ!」

 

 

 後日、新都のビルを駆ける少年と巨人の伝説が生まれる事になるが、これはまた別の話しだ。

 

 

 その日の夕飯はとても美味しかった。

 一名分スペースが空いていた食卓だったけど。

 桜が一人しきりに聞きたがったが、誰もその事を口にしなかった。

 そして……。

 

「まさか聖杯戦争中に他所のマスターの家に泊まることになるとは思わなかったわ」

 なにやら打ちひしがれた様子のイリヤが、借りた浴衣に身をくるみ、あてがわれた布団に包まりながら一人呟く。

 あのお人よしの少年は、夜も遅いのだからと泊まっていくことを薦めたのだ。しかも、反対する者が一人もいない。聖杯戦争中の魔術師の家とは思えないおおらかさだ。

「あら、楽しくない?」

 真横で同じように布団に包まっていたバーサーカーが、イリヤの独り言に答える。

「ううん、楽しいけどね……。で、バーサーカーは何で寝てるのよ」

「あら、夜なんだから寝るのは当然よ」

「魔術師の……、サーヴァントの言葉じゃないわね」

 基本的に、サーヴァントや魔術師の活動時間は夜だ。夜の闇にまぎれて事を行い、日の当たる世界に背を向ける。

 そんなサーヴァントや魔術師の基本を無視した言葉に、イリヤがジト目で己れのサーヴァントをにらみつけた。

 だが、その程度で動じるようなバーサーカーではなかった。楽しそうに言葉を重ねる。

「イリヤはまだまだわからないかもしれないけど、規則正しい生活は大切よ。

 わたしの友達なんか、タバコにお酒に夜更かしの不摂生三昧。もうお肌なんかボロボロでケアが大変だったんだから」

 どこかで、魔術師とサーヴァントがくしゃみをしていそうな事を口にする。

 そんな言葉に、イリヤがふてくされた言葉を口にする。

「いいわよ、そんなの。どうせ……」

 そこまで生きられないし。

 イリヤは続くはずの言葉を飲み込んだ。

 情けないとイリヤは思う。既に自分の運命など知っていたはず。いや、運命こそが自分だった。

 

 それなのに、バーサーカーを知ってしまった。

 それなのに、アーチャーの言葉に心をゆさぶられてしまった。

 そして、それなのにあの少年と出会ってしまった。

  

 イリヤは優秀な魔術師だった。優秀ゆえに、彼女は自分の中に決して存在しなかったはずの感情が生まれつつある事を、理解してしまった。

 あの弓兵の世界の自分は何を知ったのだろう、あの世界の自分は何を見たのだろう。あの世界のわたしは裏切り者の名を継いだ少年と、どんな気持ちで共に過ごしたのだろう。

 

 それは、イリヤが生まれて初めて感じた、人として生きてみたいという感情。

 

 だが、それは所詮夢物語だ。あのアーチャーの世界がどうだとしても、そんな砂漠に落ちた一粒の宝石のような、稀有な可能性を都合よく引き当てられるとは思えない。

 イリヤが一人考え込み始める。しかし、不意にイリヤの布団に進入してきた温もりに思考を停止させられる。

 隣りで寝ていたバーサーカーが、イリヤの布団にもぐりこみ、イリヤをそっと抱きしめたのだ。

「ちょ、ちょっとバーサーカー。放しなさいよ」

「遠慮しないの、イリヤ。あの子もぐずっていた時には、こうやって抱きしめてあげたらすぐに静かになったわね」

 バーサーカーの言葉に、イリヤの目が点となる。

「あれ、バーサーカーってもしかして子持ち?」

「ひみつ。淑女の秘密を聞き出すのは感心しないな」

 夕方のアーチャーの口調を真似たバーサーカーの言葉に、イリヤは小さく笑う。そして、バーサーカーの胸元に頭をうずめる。

 それは、おぼろげに憶えている母と同じ温もり、匂いがした。戦う道具でしかないはずの、バーサーカーなのに……。

 だからだろうか、イリヤは小さく言葉を紡いだ。

「──ねえ、バーサーカー。わたしにはお兄ちゃんがいるんだ。父を奪った……」

 そう、あの少年が父を奪った。父に母を捨てさせ、自分を捨てさせた。

 そんなイリヤに、バーサーカーは優しく答える。

「わたしも同じような境遇だったわ。わたしの場合は出来の悪い弟だったけど」

「弟だったんだ……、わたしはどうしたらいいのかな。殺しちゃおうと思ったのに……」

 もう、殺せない。

 殺したくは無いと、イリヤは思った。

 あの少年は、優しく温かい。殺したかった存在とは、なにか違う。

 それに殺してしまったら、もう、他の自分が見れたものを見れなくなる。あのお人よしの少年が、なんで英霊なんかになっているのか知ることができなくなる。

 そして、なんで自分が英霊になっているのか、知る事ができなくなる。

「イリヤはどうしたいの?」

 だけど、バーサーカーは答えをくれない。自分で答えを出せと言ってくる。

「お人形さんにしちゃおうかな」

「それも面白そうね」

 クスリとバーサーカーが微笑む。自分の過去を思い出しているのかもしれない。

「わたしはそれをやろうとして失敗しちゃったな。失敗して良かったと思ってるけど」

「なんで?」

「大人になったらわかるわ」

「むー、わたしは大人よ」

 むくれるイリヤを、バーサーカーが強く抱きしめる。

「ううん、イリヤはまだまだ子供よ」

「でも……」

「未来はわからないわよ。

 わたしみたいに長く生きたわたしもいる。戦争の最中に命を落としたわたしもいる。シロウを助ける為に聖杯となったわたしもいる……。

 わたしもアーチャーと一緒にいろんな世界に関わったから、わたしの運命が決まっていない事を知っているわ」

 それは、おそらく初めてバーサーカーが口にする己の正体。今まではぐらかしていた、彼女の真名への足がかり。

 知ってはいた。でも、聞くのが、口にするのが怖かった。

 でも、聞いてしまえば、何の事はなかった。自分の事は自分で決めればいい。それだけのことだった。

「そっか、そうなんだ。そうなんだよね」

「そうよ、イリヤ。だから、精一杯足掻きなさい。わたしは与えられただけだったけど……」

 あの少年は、絶対に何があってもイリヤを助けようとしてくれる。だから、自分の運命は自分で選びなさいとバーサーカーは小さな少女に語りかける。

 その言葉が少女に通じたのか、少女は少し眠そうな声を上げた。

「うん……、時間はそんなに無いけど、考えてみるね。

 おやすみ、大きなイリヤ」

「おやすみ、小さなイリヤ」

 そう言って、二人のイリヤはまどろみの世界に旅立った。

 

 

 

 続く・・・早くしたいなー><

 

 

 

 

 

 

幕間・冬源郷の夢

 

 

 冬木市の冬は、冬の名前を冠している町とは思えないほど随分と暖かい。

 二月も何日か過ぎ、気の早い花々は芽吹く準備を整え、咲乱れる日々を夢見る。

 

 特に今日は暖かな日だった。

 先日まで町を覆っていた暗雲も全て風に流され、その風すらも何処かに姿を隠してしまった。

 穏やかな日だった。

 

 そんな穏やかな日差しの中、その女性は縁側に腰をかけまどろみの中にいた。 

 

 女性は、老婦人だった。

 重ねていった年輪は女性に貫禄を与え、かわりに美しかった髪の色を奪い、肌から張りを奪っていった。

 もはや少女だった頃の面影は、その輝く瞳の中に残るのみ。

 それでも、その老婦人を形容する単語を探すなら、『美しい』という単語が最も似合うだろう。

 

 まどろみの中で、老婦人は思う。

 この冬木の地に移り住んでから、もうどれだけの月日が流れただろうと。

 もはや、寒かった故郷の記憶は磨耗し、ほとんど思い出す事はできない。

 思い出すのは、この地に移り住んでからの思い出ばかり。

 あの、最初の戦い、若者との出会い、この家に集う人たちとの愛し、愛された記憶。そして別れ。

 辛い事、悲しい事、苦しい事、出会いと別れ、楽しかった思い出ばかりではないのに、それでも自分の生涯は幸せだったと思う。

 

 もはや、初めてこの地に来た、少女だった頃の自分を知る人間はこの町には一人もいない。

 自らを知る人たちは、もう皆、あちらの世界に旅立ってしまった。

 皮肉な話しだ。

 あの時、もう余命一年だった自分が、決して許されるはずの無い老いを経験しているのに、あの有り余るほどの命の輝きを見せていた愛しき人たちは、皆早世してしまった。

 あの人たちが、まるで自分には死ぬな、生きろと言っているみたいに。

 だから、残された者の責務は全うしてきたつもりだ。

 もはや、この現世で思い残す事は無い。

 胸を張って、あの人たちに報告ができるはず……。

 

「──お嬢様」

 

 不意に、老婦人はまどろみの淵より現実に引き戻される。

 彼女の背後に、いつの間にか大時代的な姿の使用人が控えていた。

 彼女は、まだ少女だった頃から自分に仕えてくれた、ヒトにあらざるもの。

 この歳になってお嬢様もないだろうと何度も注意しているのだが、彼女は頑なに呼び名を変えなかった。老婦人も最近では諦め、好きにさせている。

 老婦人は、視線を彼女に向ける。自分が少女だった頃より、彼女の表情は幾分柔らかくなっていた。

「──様が、御見えになられました」

 それは、彼女が孫と思っている少年の名前。

 血のつながりは無い。愛しい人たちの忘れ形見のそのまた子供。この家に来る時は、何時もまず最初に自分に挨拶に来る。

 こんなおばあちゃんを構わなくても良いと、何時も言っているのだけれども……。

 会った事も無い、写真の中でしか知らない祖父や祖母の御伽噺を、世界を幾度となく救ってきたあの人たちの事を、いくつになっても聞きたがる。

 いつか、話の中でしか知らない祖父に届き、祖母の極みに達し、すべてを追い越す為に。

「こちらに居る時は待たせなくてもいいのに」

「そういう訳には参りません」

 老婦人は苦笑をする。

 どうも彼女は、見た目が祖父に瓜二つな少年を快く思っていない節がある。

 いや、ちょっと違うか。意地悪をして楽しんでいるだけかもしれない。

 まあ、生前の彼にやったように、冬に城の物置に泊めるような酷い事はしていないけど。

 生真面目な表情を崩さない従者に老婦人はもう一度苦笑すると、彼を連れてくるようにとお願いする。

 使用人は優雅に一礼をすると、玄関で待たせているだろう少年を呼びに行く。

 

 縁側には、また老婦人一人となった。

 

 本当に暖かな日だ。

 この家に愛しき人たちが集っていた時の空気に、本当に良く似ている。

 

 不意に、老婦人の前に赤毛の少年の姿があらわれる。

 

 最初は少年がやってきたのかと思ったが、気配はまだ玄関だ。

 老婦人が不思議に目を細めると、少年の横に黄金色の髪の少女の姿が浮ぶ。

 

──ああ、そうなのね。

 

 老婦人はその姿が何なのか悟った。

 遠い過去に別れた、最も愛しき人たちの影。

 

 兄であり弟であった少年。己れの歪みに気がつきながらも、鋼の意思で力なき人々を護り、その短き生涯を駆け抜けた錬鉄の英雄。

 少年の傍らには、道に迷い、己の無力さに慟哭していた古の少女騎士の姿があった。

 

 それは、記憶の底に有るままの姿。

 もう思い出せないほど磨耗したはずなのに、この瞬間は克明にあの日々の事を思い出せる。

 

「また……、出会えたのですね……」

 

 老婦人の目から、一筋の涙が流れる。

 対になる運命を持ちながら、決して対になる事を許されなかった二人。

 奇跡とも言える時の果てに邂逅し、愛し合い、そして永久の別離を余儀なくされた二人……、もっとも惨酷な運命を背負わされながらも、戦いから逃げなかった二人。

 そして、道具でしかなかった自分を助けてくれた二人。

 

 あの二人が、悠久の時を越えて再会したのだ。

 これ以上、嬉しい事が有るだろうか。

 

「ああぁ……シロウ……、セイバー……」

 

 老婦人が歓喜の涙を流す。

 これを見るために、自分はこの瞬間まで生き長らえてきたのだろう。

 そして、この演劇の上演時間も、幕引きの時が来たのだ。

 

 泡沫の夢は覚める。

 

 未練も後悔も無い。伝えなければならない事はすべて伝えた。

 あの子達なら、あの人たちが残し、自分が育てたあの子達ならもう大丈夫だ。祖父と同じ夢を持ちながら、祖父と同じ過ちは犯さないだろう。

 だから……。

 

「わたしも……、そちらに参りますね……」

 

 老婦人は静かに呟くと、そっとその目を閉じた。

 

 

 

──それは、その晩に少女が見た夢。

 

──これが何だったのかは、少女にもわからない。

──ただ、それは……。

 

──少女には眩しく。

──そして、その歪さが何より腹立たしかった。