〜タイピングとボキャブラリー強化のための試み〜トップに戻る
第 三 部
1
ラスコーリニコフは身を起して、ソファの上に坐った。
彼はけだるそうにラズミーヒンに手をふって、母と妹に対するとりとめのない熱心ななぐさめをやめさせると、二人の手をとって、ものも言わず二分ほど母と妹をかわるがわる見つめていた。母は彼の目を見てぎょッとした。その目には苦悩にちかいはげしい感情が見えたが、それと同時にじっとすわってうごかぬ、むしろ狂人の目をさえ思わせるような何ものかがあった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣きだしてしまった。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナは顔が真っ蒼だった。手は兄の手の中でふるえていた。
「宿へかえってください……彼といっしょに」彼はラズミーヒンをさしながら、とぎれとぎれの声で言った。「明日会いましょう、明日はもう大丈夫です……いつ着いたの、もう大分まえ?」
「夕方ですよ、ロージャ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは答えた。「汽車がひどくおくれてねえ。でも、ロージャ、わたしは今日はどんなことがあってもおまえのそばをはなれないよ! ここに泊めてもらいます……」
「ぼくを苦しめないでください!」彼はじりじりしながら片手をふって、言った。
「ぼくもここにのこります!」とラズミーヒンが叫ぶように言った。「いっときもそばをはなれない。客なんか知るもんか、暴れさせておくさ! まあ伯父がうまくやってくれるだろう」
「ほんとに、あなたにはなんとお礼を申しあげてよいやら!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはまたラズミーヒンの手をにぎりながら、こう言いかけると、ラスコーリニコフがまたそれをさえぎった。
「だめだよ、だめだったら」と彼はじりじりしながらくりかえした。「ぼくを苦しめないでくれ! もうたくさんだ、かえってください……ぼくは堪えられない……」
「行きましょうよ、お母さん、ちょっとだけでも部屋を出ましょうよ」とドゥーニャはおろおろしてささやいた。「わたしたち兄さんを苦しめてるのよ、見たらわかるわ」
「あんまりだよ、三年もわかれていたのに、ゆっくり顔も見られないなんて!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは泣きだした。
「待ってください!」とラスコーリニコフは呼びとめた。「みんな勝手なことばかり言うから、頭が混乱してしまったよ……ルージンに会いましたか?」
「いいえ、まだだよ、ロージャ、でもあの方はもうわたしたちが着いたことを知ってなさるよ。さっき聞いたんだけど、ロージャ、ピョートル・ペトローヴィチはほんとにご親切に、今日おまえを訪ねてくだすったんだってねえ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいくらかおどおどしながらつけ加えた。
「そう……ご親切にね……ドゥーニャ、ぼくはさっきルージンに、階段から突きおとすぞってどなって、ここから追い出したんだよ……」
「ロージャ、おまえはなんてことを! おまえは、きっと……言うのがいやなんだね」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびっくりしてしまって、こう言いかけたが、ドゥーニャを見ると、口をつぐんだ。
アヴドーチヤ・ロマーノヴナはじいッと兄を凝視して、その先の言葉を待っていた。二人はもう口論のことについては、ナスターシヤから彼女なりに判断したことをできるだけ詳しく聞かされていたので、疑惑に苦しめられながら、身のほそる思いで説明を待っていたのだった。
「ドゥーニャ」とラスコーリニコフは苦しそうにやっと言った。「ぼくはこの結婚を望まない、だからおまえは、明日ルージンに会ったら、まっさきにことわるんだ。あんなやつの匂いもかぎたくない」
「まあ、なんてことを!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「兄さん、すこしは考えてものを言うものよ!」アヴドーチヤ・ロマーノヴナはむっとしてこう言いかけたが、すぐに自分をおさえた。「兄さんは、きっと、まだほんとじゃないのね、疲れているんだわ」と彼女はやさしく言った。
「熱にうかされているというのか? ちがうよ……おまえはぼくのためにルージンに嫁ごうとしている。だがぼくはそういう犠牲は受けないよ。だから、明日までに、手紙を書きなさい……ことわりの……そして朝ぼくに見せなさい、それでおしまいだよ!」
「そんなことできないわ!」とドゥーニャはかっとなって叫んだ。「なんの権利があって……」
「ドゥーネチカ、おまえも気短かだねえ、およし、明日にしなさい……見たらわかりそうなものに……」と母はおびえきって、ドゥーニャにすがりついた。「さあ、出ましょうね、そのほうがいいよ!」
「うわごとですよ!」と酔いのでたラズミーヒンが叫んだ。「でなきゃ、こんなことが言えるもんですか! 明日になればケロッとおちますよ……今日はほんとにその人を追い出したんです。彼の言うとおりです。まあ、先さまも怒りましたね……ここで演説をぶって、知識のほどをひけらかしたが、結局はすごすごと退散しましたよ、しっぽを巻いて……」
「じゃ、それはほんとうですの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わず大声をだした。
「明日またね、兄さん」とドゥーニャはあわれむように言った。「行きましょう、お母さん……じゃ、さようなら、ロージャ!」
「聞いてくれ、ドゥーネチカ」と彼は最後の力をあつめて、うしろ姿に声をかけた。「ぼくはうわごとを言ってるんじゃないんだよ。この結婚は──卑劣だ。ぼくは卑劣な男でもかまわない、だがおまえはいかん……どちらか一人を……ぼくはたとえ卑劣な男でも、そんな妹を今後妹とは思わぬ。ぼくか、ルージンかだ! 行きなさい……」
「きみ、気でもちがったか! めちゃいうな!」とラズミーヒンはどなりつけた。
しかし、ラスコーリニコフはもう答えなかった。あるいは、もう答える力がなかったのかもしれぬ。彼はソファの上に横になると、ぐったりと壁のほうを向いた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは好奇の目をラズミーヒンに向けた。黒い目がキラリと光った。ラズミーヒンはその視線をあびて、思わずぎくッとした。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは呆然と突っ立っていた。
「わたしはどうしてもここをはなれられません!」と彼女はもうほとんどあきらめきった様子で力なくラズミーヒンにささやいた。「ここにのこります、どこかに場所を見つけて……どうか、ドゥーニャを連れてってください」
「そんなことをしたら、すっかりだめになってしまいますよ!」とラズミーヒンはじりじりしながら、やはり声を殺して言った。「階段まででも出ましょう。ナスターシヤ、あかり! ほんとのことを言いますが」もう階段のところへでてから、彼は低声で言った。「さっきぼくと医者が、あぶなく殴られるところだったんですよ! わかりますか! 医者がですよ! で医者は、苛々させないために、譲歩して、かえりました。ぼくはもしもの用心に下にのこったんですが、彼はいつの間にか服を着て、まんまと脱け出してしまったんですよ。いまだって、神経を苛々させたら、夜なかにこっそり脱け出して、何をしでかすかわかりませんよ……」
「まあ、あなたはなんてことを!」
「それにアヴドーチヤ・ロマーノヴナだってあの部屋に一人じゃいられませんよ! 実際、ひどいアパートだ! まったくけちな野郎だよ、ピョートル・ペトローヴィチってやつは。あなた方にあんな部屋しかさがしてやれんとは……こりゃいかん、実は、ぼくすこし酔ってるもので……つい悪口を言っちゃって。気にしないでください……」
「でも、わたしはここの主婦さんのところへ行きますよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いはった。「なんとか今夜一晩わたしとドゥーニャを、どんな隅っこでもいいから泊めてくださるよう、おねがいしてみます。このままあの子を放っておくなんて、そんなことできるもんですか!」
こんな話をしながら、彼らは主婦の部屋のすぐまえの踊り場まできていた。ナスターシヤは一段下から彼らの足もとを照らしていた。ラズミーヒンはいつになく気がたかぶっていた。つい三十分ほどまえ、ラスコーリニコフを送ってきたときは、自分でも認めたように、すこし舌がまわりすぎたが、それでもその夜飲んだおそろしいほどの酒の量から見れば、気はたしかで、酔いはほとんど見えなかった。ところがいまの彼は、まるで雲の上をあるいているような気持だった、そして同時に、飲んだ酒があらためて、二倍の力になって、一時にどっと頭におそいかかったようだった。彼は二人の婦人にはさまれて、それぞれの手をにぎり、びっくりするほど露骨にいろんな理由をあげながら、二人に納得させようとつとめていた。そしておそらく、確信を深めさせようとするつもりらしく、一言ごとに、まるで万力にでもかけるように、ぎゅッと痛いほど強く二人の手をにぎりしめ、そのうえすこしも気がねする様子なく、なめるような目でアヴドーチヤ・ロマーノヴナの顔をじろじろ見まわし、二人はあまりの痛さに、ときどき手を彼の骨ばった大きな手からひきぬこうとしたが、彼はそんなことに気がつかなかったばかりか、そのたびにますます強く二人をひきよせるのだった。二人がもしいま彼に、わたしたちのために階段からまっさかさまに飛びおりなさい、と命じたら、彼はすぐさま、考えも疑いもせずに、それを実行したにちがいない。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、愛するロージャを気づかう気持でいっぱいで、この青年のやることがちょっと奇抜すぎるし、それにあまりに痛く手をにぎりしめることを感じてはいたが、それと同時にこの青年を神さまのように思っていたので、彼のこうした奇抜な行いに目をつぶりたい気持だった。しかし、母のそうした気持はわかっていたが、そしてあまりものに動じないほうだったが、それでもアヴドーチヤ・ロマーノヴナは兄の親友のあやしくぎらぎら燃える目を見ると、おどろきというよりは、むしろ恐怖を感じた、そしてこの風変わりな男についてのナスターシヤの話によって吹き込まれたどこまでも信用する気持がなかったら、この拷問にたえられずに、母の手をひいて逃げだしたにちがいない。彼女はまた、いまはもうこの男から逃げられまい、ということもわかっていた。しかし、十分ほどすると、彼女はかなり落ち着いた気持になることができた。ラズミーヒンはどんな気分のときでも、いちどきにすっかりしゃべってしまわないとおさまらないという癖があった、それで誰でもはじめはびっくりするが、すぐに彼がどんな人間かわかってしまうのである。
「主婦のところなんて、だめですよ、とんでもない!」と彼は叫ぶように言って、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを説きふせにかかった。「たとえあなたがお母さんでも、あそこにのこったら、彼は気ちがいのようになってしまいますよ、そうなったが最後、どんなことになるかわなりゃしない! ねえ、こうしたらどうでしょう、とりあえずナスターシヤを彼のそばにつけておいて、ぼくはあなたたちを宿までおくりましょう。だって、あなたたちだけで夜の街を歩くのは危険です、ペテルブルグってとこはそういうことにかけては……まあ、こんなことはどうでもいい!……送りとどけたら、すぐにここへかけもどり、きっかり十五分後に、これはぜったいまちがいありません、容態はどうか? 眠っているかどうか? そのほかすべての報告をもってあなたたちの部屋へ行きます。それから、いいですか! その足でぼくは家へかけもどり、──ちょうど客がたくさん来ていて、飲んでるんですよ、──ゾシーモフを連れて行きます。ロージャを診てくれている医者ですよ。ちょうどいま家に来ているんです、なあに酔ってません。この男は酔いません、ぜったいに酔わない男です! 彼をロージャのところへひっぱって行き、それからすぐにまたあなたたちの部屋へもどります。つまりですね、一時間のあいだにあなたたちはロージャについて二つの報告を受けるわけです、──しかも一つは医者のです、わかりますか、医者からのじきじきの報告ですよ、ぼくなんかのとはわけがちがいます! で、もしよくないようでしたら、ぼくが自分であなたたちをここへ連れてきます、約束します、大丈夫でしたら、そのままおやすみになってください、ぼくは一晩中、ここの控室で夜あかしします。彼には聞えないようにしますよ。それからゾシーモフには、いつでもかけつけられるように、主婦の部屋でねてもらいます。ねえ、いまのロージャにとって、あなたと医者とどちらがいいでしょう? 医者のほうがどれほど役に立つか、そうでしょう。じゃ、さあ行きましょう! 主婦のところへはよしたほうがいいですよ。ぼくはかまわんけど、あなたたちはいけません。部屋へ通しませんよ、だって……なにしろばかな女ですからねえ。ぼくとアヴドーチヤ・ロマーノヴナを見たら、妬きますよ、ほんとです。あなたを見たって妬くでしょう……でも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナならもうまちがいありません。まったく、途方もない女ですよ! そういうぼくだって、ばかですが……そんなことどうだっていいや! さあ行きましょう! ぼくを信じてくれますか? どうです、信じてくれますか?」
「行きましょうよ、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。「この方はきっと約束したとおりに、してくださるわ。一度兄さんを助けてくだすったんですもの、お医者さまがここに泊ってくださるのがほんとうなら、これにこしたことはないじゃありませんか?」
「やっぱりあなたは……あなたは……ぼくをわかってくださる、それはあなたが──天使だからだ!」とラズミーヒンは感きわまって叫んだ。「行きましょう! ナスターシヤ! すぐに上へとんで行って、そばに坐っていてくれ、あかりを忘れないで。ぼくは十五分後にもどってくる……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすっかり信じはしなかったが、それ以上さからいもしなかった。ラズミーヒンは二人の腕をとって、階段を下りはじめた。やっぱり、彼の様子を見ると、彼女は不安になった。《気さくだし、いい人だけど、でもこんな風で約束したことが行えるのかしら? 酔っててなんだかたよりないみたいだけど……》
「ああ、そうか、あなたはぼくがこんなだから、心配してるんですね!」と彼はそれを察して、彼女の思案の腰をおった、そして独特のびっくりするような大股で歩道をあるきだしたので、二人の婦人はついて行くのがやっとだったが、彼はそんなことに気がつかなかった。「ばからしい! というのは……ぼくが阿呆みたいに、酔ってることですが、でもちがうんです、ぼくが酔ってるのは酒のせいじゃないんです。つまり、あなた方を見たとたんに、頭にぐらッときたんです……でも、ぼくのことなんか笑いとばしてください! 気にしないでください。こんなことでたらめですよ。ぼくはあなた方に値しません……それこそ月とスッポンです!……あなた方を送りとどけたら、すぐにこの堀ばたで、桶に二杯ほど頭から水をかぶります、そしたらもうすかッとします……ただ、ぼくがどれほどあなた方二人を愛しているか、それだけ知っていただけたら!……笑わないでください、おこらないでください!……誰をおこってもいいから、ぼくだけはおこらないでください! ぼくは彼の親友です、だからあなた方の親友でもあるわけです。ぼくはそうありたいのです……ぼくはそれを予感していました……去年、ふとそんな気がしたことがあったんです……でも、まったく突然でした、あなた方はそれこそ天から降ったように、ひょっこりあらわれたんですもの。ぼくは、おそらく、一晩中ねないでしょう……ゾシーモフがさっき、彼が気が狂いはしないかと、心配していました……だから彼を苛々させてはいけないんです……」
「まあ、何をおっしゃいます!」と母は叫んだ。
「ほんとうに医者がそんなことを言いましたの?」アヴドーチヤ・ロマーノヴナはぎょッとして、尋ねた。
「言いました、でもそれはちがいます、ぜんぜんちがうんです。彼は薬を飲ませたんです、散薬を一服、ぼくは見ていました、そこへあなた方が来たんです……まずかった!……明日来てくれりゃよかった! でもぼくたちがでてきたから、まあいいようなものですが。一時間後にゾシーモフが直接あなた方にすべてを報告します。あいつはそんなに酔ってません! ぼくもそのころはすかッとしてます……それにしても、どうしてぼくはあんなに飲んだんだろう? うん、口論にまきこまれたからだ。まったくいまいましいやつらです! 口論はしないって誓ったはずだったのに!……あんまりばかばかしいことを言うからです! すんでになぐり合いをするところでしたよ! 伯父をのこしてきました。議長役です……ね、どうでしょう、あいつらは完全な無性格を要求して、そこに人間の本質を見出そうとしてるんですよ! なんとかして自分自身でなくなろう、自分自身にもっとも似ていないものになろう、というんです! これがやつらにいわせれば、最高の進歩だというんです。それも自分なりの嘘ならまだしも、それが……」
「ね、もし」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはこわごわ声をかけたが、それがかえって火に油をそそぐ結果になった。
「ああ、そうですか?」とラズミーヒンはいっそう声をはりあげて叫んだ。「あなたは、ぼくがこんなことを言うのは、やつらが嘘をつくからだと、そう思ったんですね? 阿呆らしい! ぼくは嘘をつかれるのが、好きですよ! 嘘をつくということはすべての生物に対する唯一の人間の特権です。嘘は──真実につながります! 嘘をつくからこそ、ぼくは人間なのです。十四回か、あるいは百十四回くらいの嘘をへないで、到達された真理はひとつもありません。しかもそれは一種の名誉なのです。ところで、ぼくらはその嘘すら、自分の知恵でつけない! 自分の知恵でぼくに嘘をつくやつがあったら、ぼくはそいつに接吻します。自分の知恵で嘘をつく──このほうが他人の知恵オンリーの真実よりも、ぜんぜんましですよ。前者の場合そいつは人間ですが、後者の場合ただの鳥にすぎません! 真理は逃げませんが、生命は打ち殺すことができます。そんな例はいくつもあります。さて、いまのわれわれはどうでしょう? われわれはすべて、一人の例外もなく、科学、発達、思索、発明、理念、欲望、リベラリズム、分別、経験その他すべての、すべての、すべての、すべての、すべての分野において、まだ予備校の一年生です! 他人の知恵でがまんするのが安直で、すっかりそれに慣れきってしまった! ちがいますか? ぼくの言うのがまちがってますか?」とラズミーヒンは二人の婦人の手をしめつけ、ゆすぶりながら叫んだ。「ちがいますか?」
「急にそんなことをおっしゃられたって、わたしわかりませんわ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおろおろしながら呟いた。
「そうですわ、そうです……でもあなたの言うことがすっかりそのとおりとは思われませんけど」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは真顔で言いそえた。そしてすぐにあッと悲鳴をあげた。そのとき彼の手にものすごい力が入り、あまりの痛さに思わず叫んでしまったのである。
「そうですね? そうだと言ってくれましたね? そうですか、それでこそあなたは……あなたは……」彼は感きわまって叫んだ。「あなたは善良、純潔、知性そして……完成の泉です! お手をください、どうぞ……あなたのお手を、ぼくはいま、ここで、ひざまずいて、あなた方のお手に接吻したいのです!」
そして彼は歩道のまん中にひざまずいた。さいわいにあたりに誰もいなかった。
「およしなさい、おねがいです、何をなさるんです?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすっかりうろたえてしまって、叫びたてた。
「お立ちください、お立ちください!」ドゥーニャもあわてて、笑いながら言った。
「お手をくださらないうちは、ぜったいに! そうです、ありがとう、さあ立ちました、まいりましょう! ぼくは不幸な阿呆です、ぼくはあなた方に値しません、それに酔っていて、恥ずかしいと思います……ぼくには、あなた方を愛する資格はありません、が、あなた方のまえにひざまずくこと──それは完全な畜生でないかぎり、誰でもの義務です! ぼくもひざまずきました……そらもうあなた方の宿です、この宿だけでも、さっきロジオンがピョートル・ペトローヴィチを追い出したのは、当然なんです! よくもこんな宿にあなた方を入れられたものだ! もの笑いですよ! ええ、あなたは誰です? 花嫁じゃありませんか! あなたは花嫁でしょう、そうでしょう? だからぼくは言いますが、これを見てもあなたの花婿は、卑劣な男です!」
「ねえ、ラズミーヒンさん、あなたは約束をお忘れに……」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いかけた。
「そう、そう、おっしゃるとおりです、ぼくは夢中になってしまって、恥ずかしいと思います!」とラズミーヒンはあわてて言った。「でも……でも……あなた方は、ぼくがこんなことを言ったからって、怒っちゃいけません! ぼくは心底から言ってるんで、別にその……ふん! それだったら卑劣だが、要するに、別にその、なにもぼくがあなたを……ふん!……まあ、しようがない、よしましょう、理由は言いません、言う勇気がないのです!……でもぼくたち全部が、さっき彼が入ってくるとすぐ、この男はわれわれの仲間じゃない、とさとったんです。それは、彼が床屋でカールしてきたからでも、あわてて自分の知識をひけらかしたからでもありません、彼が人をだます相場師だからです。けちでおべっかつかいだからです。そんなことはすぐわかります。あなたは彼が利口だと思いますか? とんでもない、ばかですよ、阿呆ですよ! あんなやつがあなたに似合いますか? まったく、お笑いですよ! ねえ、いいですか」彼はもう階段をのぼりかけていたが、不意に立ちどまった。「ぼくの部屋にいる連中はみんな酒飲みですが、そのかわり人間が誠実です、そして嘘もつきますが、これはまあぼくも嘘をつくからで、嘘をつみかさねていって、結局は、真理に到達します。なぜなら、ぼくたちはけがれのない道に立っているからです。ところがピョートル・ペトローヴィチのは……けがれのない道じゃありません……ぼくはいまあいつらをひどくののしりましたが、しかしほんとうは尊敬してるんです。ザミョートフのようなやつでさえ、尊敬はしませんが、そのかわり愛しています。人間が誠実で、しごとのできる男だからです……でも、もうよしましょう、すっかりしゃべってしまったし、それにおゆるしをいただいたんだ。ゆるしていただけますね? そうですね? さあ、行きましょう。ぼくはこの廊下を知ってます、来たことがありますから。すぐそこの、三つ目の部屋で、スキャンダルがあったんですよ……で、部屋はどこです? 何号? 八号? じゃ、夜は鍵をかけて、誰も入れてはいけませんよ。十五分後に報告をもってもどります、それからもう三十分したらゾシーモフときます、きっと! さようなら、かけあしです!」
「こまったわねえ、ドゥーネチカ、どんなことになるのかしら?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは不安そうに、おそるおそる娘のほうを見ながら、言った。
「だいじょうぶよ、お母さん」とドゥーニャは帽子と外套をぬぎながら、答えた。「神さまがわたしたちにあの方をおつかわしになったんだわ、そりゃまあ酒の席からいきなり出てきたらしいけど。あの方は頼りにしていいと思うわよ、お母さん。それにいままでだって、もうずいぶん兄さんのために尽してくださったんだもの……」
「でも、ドゥーネチカ、あのひとが来てくれるかどうか、そんなことわかりゃしないよ! ああ、わたしは、ロージャをのこしてくるなんて、どうしてそんな気になれたのかしら?……それにしても、こんなふうにあの子に会うなんて、ゆめにも思わなかった! あの不機嫌そうな顔ったら、どうでしょう、まるでわたしたちに会うのがいやみたいに……」
彼女の目に涙がにじんだ。
「いいえ、それはちがうわ、お母さん。お母さんはよく見ていないのよ、泣いてばかりいたから。兄さんは重い病気のために神経がすっかりみだれているのよ、──なにもかもそのせいなのよ」
「ああ、その病気だがねえ! 何かよくないことが起りそうな気がするんだよ! おまえにあんなひどいことを言ったりして、ねえドゥーニャ!」と母は娘の考えを読みとろうと、こわごわ目の色をうかがいながら言った。そしてドゥーニャがロージャを弁護しているのは、もうゆるしているからだと思って、いくらかほっとした気持になっていた。「明日はきっと思い直しますよ」彼女は娘の気持を底までさぐってみたいと思って、こうつけ加えた。
「わたしはちがうわ、兄さんは明日もきっと同じことを言うと思うわ……あのことではね」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナはそっけなく言った、そしてそれがもうよしましょうというほのめかしであることは、わかりきっていた。その先にはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言いだすのをひどく恐れていた問題があったからである。ドゥーニャは母のそばへいって、接吻をした。母は何も言わずにかたく娘を抱きしめた。それからそこへ腰をおろして、ラズミーヒンの帰りを不安な思いで待ちながら、娘の姿をおずおずと目で追いはじめた。ドゥーニャも同じ思いで、両手を胸に組み、思案にくれながら部屋の中を往き来しはじめた。こんなふうに考えこみながら隅から隅へあるきまわるのは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのいつもの癖だった、そして母はそんなときはいつも、娘のもの思いをさまたげるのが、なんとなく恐いような気がした。
ラズミーヒンが酔ったいきおいで突然アヴドーチヤ・ロマーノヴナに情熱を燃やしたのは、たしかに滑稽だった。しかし、アヴドーチヤ・ロマーノヴナを見たら、特にいま、両手を胸に組み、さびしくもの思いにしずみながら、部屋のなかをあるきまわっている姿を見たら、たいていの人々は、その常識をはずれた狂態はともかくとして、ラズミーヒンをゆるしてやったにちがいない。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはどきっとするほど美しかった──すらりと背丈が高く、みごとに均整がとれて、気性の強さが見え、自信にあふれている、──それがちょっとした身のこなしにもあらわれていたが、ものごしのしなやかさと優雅さをすこしもそこなわなかった。顔立ちは兄に似ていたが、美人と呼ぶにふさわしかった。髪はくらい亜麻色だが、兄よりはいくらか明るく、目はまっくろに近く、うるみをおび、誇りにみちていたが、それでいてときどき、瞬間的に、びっくりするほどの善良さをあらわすことがあった。色は蒼白かったが、病的な蒼さではなく、顔はみずみずしい健康にかがやいていた。口はどちらかといえば小さいほうで、ぬれたように赤い下唇が心もち受け口気味で、顎もちょっとでているのが、この美しい顔でたったひとつ気になる点だが、それがかえって個性を、わけても負けん気らしさを顔にあたえていた。顔の表情はいつも晴れやかというよりはむしろきびしく、もの思いにしずみがちであったが、そのせいかその顔には微笑がじつによく似合った。明るい、若い、くったくのない笑いが、じつによく映った! かっとのぼせやすく、率直で、単純で、正直で、勇士のようにたくましいラズミーヒンが、酒が入っていたうえに、こういうものは一度も見たことがなかったのだから、一目でぼうっとなったのも無理はない。しかも偶然といおうか、はじめて見たのが、兄と対面して愛情とよろこびをみなぎらせたもっとも美しい瞬間のドゥーニャだったのである。彼はそれから、兄の不遜な恩知らずな残酷な命令を聞いて、彼女の小さな下唇が怒りにふるえたのを見た、──彼がどうやら自分をおさえることができたのは、そこまでだった。
とはいえ、彼がさきほど階段のところで酔いにまかせて、ラスコーリニコフに部屋を貸している風変わりな主婦プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナばかりか、おそらくプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナにまでやきもちをやくだろうと、口から出まかせをいったが、あれはほんとうだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはもう四十三だったが、それでも顔にはまだむかしの美しさのおもかげがのこっていたし、それに年齢よりははるかに若く見えた。明朗な心と、清新な感覚と、素直な清らかな情熱を老年まで保っている婦人は、たいていは若く見えるものだ。ついでに言うが、これらすべてのものを保つことが、おばあさんになってからも自分の美しさを失わないたった一つの方法である。髪にはもう白いものがまじり、うすくなりかけていたし、目じりにはもうかなりまえからちりめんのような小じわがあらわれ、気苦労とかなしみのために頬はおちて、かさかさになってはいたが、それでもその顔は美しかった。それはドゥーネチカの顔のポートレートだった、ただちがいがあるといえば二十年たっていることと、彼女は受け口でなかったので、下唇の表情だけである。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは涙もろいが、それもいやらしいほどではなく、気が弱く従順だが、それにも程度があった。彼女はたいていのことには意地を折ることができたし、たいていは、ときには自分の信念に矛盾するようなことでさえ、素直に同意することができた。ところが彼女にはまことと、いましめと、ぎりぎりの信念の最後の一線があって、どんな事情も彼女にその一線をこえさせることはできなかった。
ラズミーヒンが去ってからかっきり二十分後に、低いが性急にドアをたたく音が二つ聞えた。彼がもどってきたのである。
「入りません、急ぎますから!」ドアが開くと、彼は大急ぎで言った。「死んだようにねてますよ、ぐっすり、しずかに。このまま十時間ほどねさせておきたいですよ。ナスターシヤがついてます。ぼくがくるまではなれないように言ってあります。これからゾシーモフをひっぱっていきます。彼の報告を聞いたうえで、ぐっすり休んでください。ほんとに、へとへとに疲れたでしょうね、わかりますよ」
そういうと、彼は廊下を去って行った。
「なんて気さくで……親切な若いひとでしょうねえ!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは嬉しさのあまり感きわまって、嘆声をあげた。
「ほんとにいいひとらしいわね!」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナはまた部屋のなかをあるきはじめながら、いくぶん熱っぽく答えた。
やや一時間ほどすると、廊下に足音が聞えて、またドアをノックする音が聞こえた。二人の婦人は、今度はもうラズミーヒンの約束をすっかり信じて、待っていた。果して、彼はゾシーモフをひっぱってきた。ゾシーモフはすぐに酒宴をやめてラスコーリニコフを診察に行くことは同意したが、二人の婦人を訪ねるのはなんだか気がしぶった。酔っているラズミーヒンの言うことが信用できず、ひどくあやふやな気持だった。ところが、彼の自尊心はたちまちなごめられたばかりか、くすぐられさえした。彼はほんとうに自分がまるで神の使者のように待たれていたことを見てとったのである。彼はちょうど十分そこにいる間に、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを完全に説きふせ、すっかり安心させることができた。彼は異常なほどの思いやりをこめて語ったが、その態度はひかえ目で、無理につくったような真剣さが見え、まるで重大な対診の席にのぞんだ二十七歳のインターンのようであった。そしてよけいなことは一言も言わず、二人の婦人ともっと親しい個人的関係に入りたいような素振りはつゆほども見せなかった。部屋へ入りかけに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのまぶしいほどの美貌に気づくと、彼はとっさに、つとめてそちらを見ないようにきめて、訪問のあいだじゅう、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナのほうばかり向いて話をしていた。そうすることが彼に極度の内心の満足をあたえた。彼は病人についての所見として、現在はきわめて満足すべき状態にある、とかたい言葉をつかった。彼の観察によると、患者の病気は、最近数カ月間の物質的な窮状のほかに、さらに若干の精神的な原因がある、《いわば、たくさんの複雑な精神的および物質的影響の結果なのです、例えば不安、危懼、心労、ある種の観念……などといったものですね》アヴドーチヤ・ロマーノヴナが特に注意深く聞き入りはじめたのを、ちらと見てとると、ゾシーモフはこのテーマをすこしひろげてみることにした。《なんだか発狂の疑いがすこしあるとか》という、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの不安そうな、おどおどした質問に対して、彼は落ち着いた率直な笑いをうかべながら、自分の言葉がすこし大げさすぎました、と答えた。そしてさらに、病人に、何か偏執狂を思わせるような、あるこりかたまった想念が認められることは事実です、──それで彼ゾシーモフはいま特に力を入れて、このひじょうに興味ある医学部門を研究しているのだが、──しかし忘れてならないのは、病人が今日までほとんど幻覚の世界をさまよいつづけてきたことです、と言い、それから……むろん、肉親の方々が見えられたことは、病人を元気づけ、気を晴らして、なおりを早めることになるでしょう、──《それも新しい特に強烈なショックをさけることができれば、ですがね》と彼は意味ありげにつけ加えた。それから立ちあがると、しっかりした態度でにこやかに会釈し、祝福や、熱い感謝の言葉や、祈るようなまなざしをあびせられ、こちらから求めもしないのに、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのかわいい手をさしのべられ、彼はこの訪問と、それよりも自分自身にすっかり満足して、部屋をでた。
「話は明日にしましょう。今日はこれで休んでください、きっと休むんですよ!」とゾシーモフといっしょに辞去しながら、ラズミーヒンは念をおした。「明日、できるだけ早く、知らせをもってうかがいます」
「しかしあのアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、なんてチャーミングな娘だろう!」通りへ出るとゾシーモフはいまにもよだれをたらさんばかりに言った。
「チャーミングだ? おい、チャーミングと言ったな!」と叫ぶと、ラズミーヒンはいきなりゾシーモフにとびかかって、のどをしめつけた。「もしも貴様がそのうち手でもだしてみろ……いいな? わかったな?」彼は襟をつかんでゆすぶり、壁へおしつけて、叫んだ。
「わかったな?」
「おい放せよ、飲んだくれ!」とゾシーモフはもがいた。そして相手が手をはなすと、しばらくじっとその顔を見つめていたが、突然腹をかかえて笑いだした。ラズミーヒンは両手を力なくたれ、くらい深刻なもの思いにしずんで、その前に突ったっていた。
「たしかに、おれは阿呆さ」と彼は雨雲のようにくらい顔で、ポツリと言った。「だが……きみもだぜ」
「そんなことはないさ、きみ、きみもはおかしいぜ。ぼくはばかな夢は見ないよ」
二人は黙ってあるきだした、そして、ラスコーリニコフのアパートのまえまできたときはじめて、ラズミーヒンがひどく不安そうな様子で、沈黙をやぶった。
「おいきみ」と彼はゾシーモフに言った。「きみはいい男だが、しかしきみは、ずいぶんいやなところもあるぜ。しかも、もひとつ女好きときている。ぼくは知ってるんだ。さらにそのうえどぶねずみの仲間だ。きみは気のちっちゃな腰ぬけで、甘ったれで、でくでくふとってきて、節制なんてまるでできない男だ、──こういうのをぼくはどぶねずみというんだよ、道がまっすぐきたならしいどぶにつづいているからさ。きみがこうまで自分をなまくらにしてしまったんで、実をいうと、このざまでどうしてりっぱな、しかも献身的な医者になれるかと、ぼくは大いに案じるよ。羽根ぶとんにねて(医者がだぜ!)、毎晩患者のために起きる! 三年もしたらきみはもう患者のために起きなくなるだろうさ……なにを、ばかな、そんなことはどうでもいいんだ、要はだな、きみは今夜主婦の部屋にねてくれ(やっとくどきおとしたんだぜ!)ぼくは台所にねる。あの女とねんごろになるいいチャンスだ! きみが考えているような女じゃないぜ! そんなところは、これっぽっちもないよ……」
「おい、ぼくは何も考えてやしないよ」
「あれは、きみ、恥ずかしがりで、無口で、内気で、おそろしく身持ちがかたく、そのくせ──なやましく溜息なんかついてさ、鑞みたいにとけちゃうんだよ、でれでれっとさ! きみ、たのむよ、このとおりだ、なんとかぼくをあの女から解放してくれ! とにかく変った女だよ! お礼はする、恩にきるよ!」
ゾシーモフはさっきよりいっそう声をはりあげて笑いだした。
「おいおい、だいぶ頭にきたようだな! どうしてぼくがあの女を?」
「うけあうよ、たいして面倒はないよ、なんでもいいからつまらん話をしてやりゃいいんだ。そばに坐って、しゃべってるだけでいいんだよ。それにきみは医者じゃないか、まあどこかわるいとこを見つけてやるんだな。ぜったいに、後悔するようなことはないよ。あの部屋にはピアノがある。きみも知ってるように、ぼくはちょっとばかりたたくんだ。ぼくはひとつロシアの唄を知っててね、《熱き涙にぬれて……》という現代ものだがね。あの女は現代ものが好きなんだよ、──結局、その唄がもとになったわけさ。きみのピアノは名人芸じゃないか、ルビンシュタインばりのさ……うけあうよ、けっして後悔はしないぜ!」
「おい、きみは女に何か約束でもしたんじゃないのか、ええ? 一札入れたんだな? きっと、結婚の約束でもしたんだろう……」
「とんでもない、よしてくれ、そんなものは何もないよ! それにあれはぜんぜんそんな女じゃない。チェバーロフともあったんだ……」
「ええ、そんならすてちゃえよ!」
「それがそうもいかんのだよ!」
「いったいどうしていかんのだ?」
「それがさ、なんとなくそうはいかんのだよ、ただなんとなくね! あそこには、きみ、人の心をひきよせるものがあるぜ」
「じゃ、どうしてきみは彼女を誘惑したんだ?」
「なにぼくはぜんぜん誘惑なんかしないよ、かえってぼくのほうが、誘惑されたのかもしれん、もともとばかだからな。あの女はそばに誰かが坐って、溜息をついてさえいれば、きみだろうがぼくだろうが、そんなことはどうでもいいのさ。そこは、きみ……なんといったらいいのかな、その、──そう、きみは数学が得意だったな、いまでもやってるだろう、知ってるよ……まあ、積分学でもおしえてやるんだな、ほんとだよ、冗談じゃない、ぼくはまじめに言ってるんだ、あの女にはなんだっていいんだよ。じいっときみを見つめて、溜息をついて、そうやって一年でも坐っている女なんだよ。ぼくもいつか、二日間ぶっとおしでプロシャの上院の話をしてやったことがあったよ、何を話したらいいのかわからなくてさ、──あの女はただ溜息をついて、熱っぽい顔をしていただけさ! 恋の話だけは禁物だぜ、──恥ずかしがって、目をまわしてしまう、──まあ、そばをはなれられませんて素振りをちょいちょい見せるんだな、──それでたくさんだよ。居心地のいいことはぜったいだぜ、まるで家にいるみたいさ、──まあ読んだり、坐ったり、ねそべったり、書いたりしてるんだな……接吻してもかまわないぜ、ただし慎重にな……」
「でも、なんのためにぼくがあの女と?」
「ええ、どうもうまく説明ができん! ねえ、きみたち二人はまったくお似合いだと思うんだ! ぼくはまえにもきみのことを考えたんだが……きみもいずれはそういうことになるんだよ! それなら、早かろうがおそかろうが──同じことじゃないか? あそこには、きみ、その……ずばり羽根ぶとん主義ってやつが根をはってるぜ、──うん! しかも羽根ぶとんだけじゃない! あそこには人をひきよせるものがたくさんあるよ、いわば世の終りだよ、錨だよ、しずかな波止場だよ、地球のへそだよ、おとぎばなしの世界だよ、プリン、あぶらっこい大きなピローグ、夜のサモワール、しずかな溜息、あたたかい女ものの胴着、ぽかぽかの温床、そういったもののエッセンスだよ、──まあ、そこに入ればきみはまるで死んだような状態にありながら、同時にりっぱに生きている、いわば両方のいいところを同時に味わえるというわけだ! さて、きみ、ちょっとエンジンがかかりすぎちゃったよ、もうそろそろ寝るとしようや! ぼくはね、夜なかにときどき起きだして、やつの様子を見ることにする。まあおそらく心配はないと思うがね。きみはべつに気にせんでいいよ、なんだったら、一回ぐらいのぞいてやるさ。でもちょっとでも、まあうわごととか、熱とか、へんなところが見えたら、すぐにぼくを起してくれ。まあ、ないとは思うが……」
2
ラズミーヒンは翌朝七時すぎに不安な重苦しい気分で目をさました。いろいろな新しい思いがけない疑惑がその朝不意に彼をおそった。いつかこんな気分で目をさますことがあろうとは、彼はこれまでに考えたこともなかった。彼は昨日のことを細大もらさず思いかえしてみて、自分の身に何か異常なできごとが起り、そしていままでぜんぜん知らなかった、従来のものとは似ても似つかぬある感銘を受けたことをさとった。それと同時に彼は自分の頭の中に燃えあがった空想が、とうてい実現されぬものであることを、はっきり自覚していた、──あまりのばからしさに、彼は恥ずかしくさえなって、あわてて、《忌わしい昨日》がのこしてくれたほかのもっと現実的な心配ごとや疑惑へ、頭をきりかえた。
思い出してもぞっとするのは、彼が昨日《卑劣でいやらしい》行為をしたということだった。というのは、酔っていたというだけではなく、一人の娘のまえで、その娘の弱味につけこんで、おろかなそそっかしい嫉妬心から、娘の許婚者を、二人の間の関係や約束を知らないばかりか、その男の人柄をさえろくに知りもしないで、口ぎたなくののしったことである。それに彼には、その男をそれほどあわてて、しかも軽率に非難するどんな権利があったろう? そして誰が彼を裁判官に招いたのだ! いったいアヴドーチヤ・ロマーノヴナのような娘が、金のために適わしくない男に身を委ねるなんて、果してそんなことができるものだろうか? してみると、あの男にはいいところがあるわけだ。ではあんな宿を選んだのは? でも、実際のところ、あれがどんな宿かということが、どうしてあの男に知り得たろう? それに住居を準備中だというではないか……チエッ、なんという卑劣なことをしたものだ! 酔っていたことが、何の言いわけになる? ますます彼を下劣にする、おろかな言いのがれにすぎぬ! 酒は──ほんとうのことを言わせるというが、ほんとうのことがすっかり口にでてしまったのだ、《つまり、彼の嫉妬深い雑な心のきたならしい泥がすっかり吐き出されてしまったのだ!》それに、こんな空想がいくらかでも彼ラズミーヒンに許されるものだろうか? あのような娘とくらべた場合、彼は何者だろう、──飲んだくれの乱暴者のくせに、昨日あんなにいばりくさって?《いったいこれほどあつかましい滑稽な対照があり得るだろうか?》こう思うと、ラズミーヒンは真っ赤になった、すると不意に、まるでわざとのように、その瞬間、昨日階段のところで、アヴドーチヤ・ロマーノヴナといっしょのところを見たら主婦が嫉妬するだろうと言ったことが、まざまざと思い出された……これはもう堪えられなかった。彼はいきなり拳骨をふりあげて力まかせに台所のペチカをなぐりつけて、自分の手を傷つけ、煉瓦を一枚たたきわった。
《むろん》一分ほどすると、彼は自分を卑下するやりきれない気持になりながら、自分に言いきかせるように言った。《むろん、もういまとなってはこれらの卑劣な行為は塗りつぶすことも、消すこともできない……だから、それはもう考えてもしようのないことだ、それよりは黙って二人のまえへ出て……自分の義務を果すことだ……やはり何も言わずに、そして……そして許しも請わず、何も言わずに……そしてもう、むろん、何もかもだめになってしまったんだ!》
そう言いながらも、彼は服を着ながら、いつもより念入りに服のぐあいをしらべた。彼には着がえの服などなかったが、かりにあったにしても、おそらくそれは着なかったろう、──《これでいいんだ、意地にも着るものか》しかしそうはいっても、世をすねたようなきたならしい格好でいるわけにもいかない。彼には他人にいやな思いをさせる権利はないし、まして相手が彼を必要として、来てくれるようにたのんでいる場合はなおのことだ。彼は服に念入りにブラシをかけた。シャツだけはいつもまあまあだった。この点だけは彼は特にきれい好きだった。
彼はその朝ていねいに顔をあらった。──ナスターシヤのところに石けんがあったので、──髪や首筋をあらい、特に手には念を入れた。ごわごわのひげを剃ろうか剃るまいか、という問題になると(プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナのところには、ザルニーツィン氏が亡くなってからまだそのまま保存されている、すばらしい剃刀があった)、この問題はむきになって断固としてはねつけた。《このままでいい! 剃ったのは下心が……なんて思われたらどうする……そうとも、きっとそう思うにちがいない! 死んでも剃るものか!》
《そして……そして要は、おれがこんな雑なけがらわしい男で、態度が野卑だということだ。それに……仮におれが、せめて、いくらかでも礼儀をわきまえた人間だと、自分で承知しているにしてもだ……そんなことが、なんの自慢になろう? 誰だって礼儀をわきまえた人間であるはずだし、おまけにもっと清潔で、それに……なんといってもおれにはいろいろとつまらんことがありすぎた(おれはおぼえている)、……まあ破廉恥とはいえないまでも、しかしやはり!……それになんということを考えていたのだ! フン……これを全部アヴドーチヤ・ロマーノヴナと並べてみたらどうだろう! まったく、いやになる! かまうもんか! なに、わざときたない、あぶらでとろとろの、やぼったい男になってやろう、勝手にしろだ! もっともっときたなくなってやるぞ!……》
こんなモノローグをしているところへ、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナの客間で一夜をすごしたゾシーモフが入ってきた。
彼は家へ帰ろうとして、出がけに、急いで病人の様子をのぞきにきたのである。ラズミーヒンは、病人はぐっすりねていると伝えた。ゾシーモフは病人が目をさますまで起さないようにと言って、十時頃寄ることを約束した。
「それも彼がここにいるならだぜ」と彼はつけたした。「まったくしようがないな! 自分の病人が思うようにならんなんて、勝手にしろと言いたくなるよ! きみどう思う、やつがあちらへ行くかい、それともあちらがここへくる?」
「あちらがくるだろうな」と質問の目的をさとって、ラズミーヒンは答えた。「そして、むろん、内輪の話をはじめるだろうさ。ぼくは席をはずすよ。きみは、医者として、ぼくよりも権利があることはたしかだよ」
「ぼくだって神父じゃないさ。来て、すぐかえるよ。ほかにも用事がたくさんあるからな」
「ひとつ心配なことがあるんだよ」とラズミーヒンはしぶい顔をしてさえぎった。「昨日ぼくは、酔ったまぎれに、途々やつにいろんなばかなことをしゃべってしまったんだよ……いろんなことをさ……つい、やつが……発狂しやしないかと、きみがおそれているってことまで……」
「きみはそれを昨日婦人たちにもしゃべったろう」
「たしかに、ばかだったよ! 殴られたってしかたがない! ところで正直のところ、きみにはそう思う何かたしかな根拠があったのかい?」
「よせよ、冗談だって言ってるじゃないか。たしかな根拠にはおそれ入ったね。きみこそぼくをここへ連れてきたとき、偏執狂らしいと、いろいろ説明してたじゃないか……それに、昨日ぼくらは火をかきたてるようなことをしてしまった。きみが悪いんだよ、あんな話をするから……ペンキ職人のことさ。彼が自分でそれを考えて、気がへんになりかけているらしいところへ、あんな話をするやつがあるものか。あのとき署内で起ったことと、なんとかいうばかどもがそれを怪しいとにらんで……彼を侮辱したことを、ぼくが詳しく知ってたらよかったんだ! そしたら……うん……昨日あんな話はさせなかったはずだ。だいたい偏執狂ってやつは、一滴の水を大洋ほどに考えたり、ありもしないことをまざまざと見たリするんだよ……ぼくのおぼえているかぎりでは、昨日ザミョートフのあの話をきいて、問題の半分はわかったね。そうだよ! ぼくはこんな例を知っている、四十くらいのヒポコンデリー患者が、毎日食卓で八歳の少年に笑われるのががまんができなくて、その子供を斬り殺してしまったんだ! 彼の場合は、ぼろぼろの服、鉄面皮な警察署長、起りかけていた病気、そしてそんな嫌疑! しかも狂的なヒポコンデリー患者で、人一倍虚栄心がつよいときている! おそらく、ここに、病気のいっさいの根源があるんだよ! まったく、いまいましい!……しかし、あのザミョートフってやつはほんとにうぶな坊やだよ。ただ、フム……昨日あれをすっかりしゃべったのはまずかった。口が軽すぎるよ!」
「でも、いったい誰にしゃべったんだ? ぼくときみにじゃないか?」
「ポルフィーリイもいたよ」
「それがどうしたというんだい、ポルフィーリイに聞かれてわるいのか?」
「ところで、きみはあのひとたちに、つまりお母さんと妹さんにだ、かなりの影響力をもってるらしいね? 今日はもっと気をつけて彼と口をきくことだな……」
「わかってるよ!」とラズミーヒンはしぶしぶ答えた。
「それにしてもなぜ彼はあのルージンとやらにあんな態度をとるんだろう? 金はあるし、妹さんもいやではなさそうだし……それにあの母娘は一文なしじゃないのかい? え?」
「どうしてきみは、つまらんことをせんさくするんだ?」とラズミーヒンはじりじりしながら叫んだ。「金があるかないか、なぜおれが知ってるんだ? 自分で聞いてみろよ、わかるかもしれんぜ……」
「チエッ、どうしてそうきみはときどきばかになるんだろうな! 昨日の酔いがまだのこってるんだじゃないのか……じゃ、帰るよ。きみのプラスコーヴィヤ・パーヴロヴナに宿のお礼を言っといてくれ。ドアをしめきってさ、ドアごしのぼくのボンジュールに返事もしなかったぜ。そのくせ七時には起きだして、台所から廊下を通ってサモワールを運ばせていたよ……ぼくなんかには顔を見せるのもけがらわしいってわけさ……」
ちょうど九時にラズミーヒンはバカレーエフのアパートを訪ねた。二人の婦人はもうかなりまえから待ちきれぬ思いで彼を待っていた。二人は七時、いやもっとまえに起きていたのだった。彼は闇夜のようなくらい顔で部屋に入ると、ぎこちなくお辞儀をしたが、すぐにそれにむかっ腹を立てた──むろん、自分にである。彼は一人決めをしていたのだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいきなり彼のまえへかけよると、両手をとって、いまにもその手に接吻せんばかりにした。彼はこわごわちらとアヴドーチヤ・ロマーノヴナへ目をやった。ところがその強気な顔にそのとき感謝と親愛の表情と、まったく思いがけないあふれるばかりの尊敬の気持があらわれていたので(あざけりのまなざしと、ついでてしまったつつみきれぬ軽蔑の代りに!)、彼は実のところ、ののしられたほうがむしろ気が楽だったろうと思われて、かえってすっかりどぎまぎしてしまった。しかしいいぐあいに、用意していた話題があったので、彼は急いでそれをきりだした。
《まだ眠っている》が、《経過はひじょうにいい》と聞くと、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは《どうしても、あらかじめ話しあっておかなければならないことがあるから》、そのほうがかえって都合がよかった、と言った。それから茶の話になって、いっしょに飲むことを誘われた。彼女たちもまだ飲まないで、ラズミーヒンを待っていたのだった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナが呼鈴を鳴らすと、ぼろ服のむさくるしい男があらわれた、そして茶が注文され、しばらくしてやっと茶道具が運ばれてきたが、それがなんともきたならしいうえに、うすみっともなくて、婦人たちは思わず顔をあからめてしまったほどである。ラズミーヒンはこっぴどくアパートを罵倒しようとしたが、ルージンのことを思いだして、あわてて口をおさえ、すっかりしどろもどろになった。だから、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがやがてとめどなく質問の雨を降らせはじめたときは、わたりに舟とよろこんだ。
問われるままに、たえず言葉をはさまれたり、聞きかえされたりしながら、彼は四十五分もしゃべりつづけて、ロジオン・ロマーノヴィチの最近数年の生活から知っているかぎりの、主だった必要な事実をすっかり伝えて、彼の病気の詳細な説明で話をむすんだ。しかし彼は伏せておいたほうがいいことは、たくさんとばし、特に警察署の一幕とそれに付随したできごとは黙っていた。二人は彼の話をむさぼるように聞いていた。そして彼がもうすっかり語りおえて、もうこのくらいで聞き手も満足してくれたろうと思ったとき、二人にしてみれば、話はまだこれからのような思いがしたのだった。
「ねえ、話してちょうだい。あなたどうお考えになりまして……あ、ごめんなさい、まだお名前もおききしませんで?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは気ぜわしく言った。
「ドミートリイ・プロコーフィチです」
「それでですね、ドミートリイ・プロコーフィチ、わたしどうしても知りたいのですけど……だいたい……あの子はいまものをどんなふうに見ているのでしょう、と申しましても、わたしのいう意味がおわかりかしら、どう申しあげたらよいのやら、そうね、それよりはっきりこうおききしたほうが、あの子は何が好きで何がきらいなんでしょう? いつもあんなに苛々してるんでしょうか? あの子はどんな希望をもっているのでしょう、それに、いわば空想(ゆめ)みたいなものがあるとしたら、それはどんなものかしら? いまあの子の心を特にうごかしているのは何でしょう? 一口に申しますと、わたしが知りたいのは……」
「まあ、お母さんたら、そんなに一時におききしてもどうして答えられまして!」とドゥーニャは注意した。
「ああ、なさけない、あんなあの子に会おうとは、わたしはぜんぜん、ゆめにも思いませんでしたわ、ドミートリイ・プロコーフィチ」
「それはもう当然のことですよ」とドミートリイ・プロコーフィチは答えた。「ぼくには母はおりませんが、でも、伯父が毎年訪ねてきまして、そのたびにといっていいほどぼくを見ちがえるんですよ。顔を見てもわからないんです。利口な人なんですがねえ。だから、三年もわかれていれば、それはずいぶんかわりますよ。それになんといったらいいでしょうか? ロジオンとはこの一年半ほどのつきあいですが、彼はぶっすらして、陰気で、横柄で、傲慢な男です、それに近頃は(もしかしたら、ずっとまえからかもしれませんが)疑り深くなって、ふさぎこむようになりました。おっとりして、人はいいんですがねえ。感情を外にだすのがきらいで、気持を言葉にだすよりは、いっそ非情でおしとおすというようなところもあり、また、ときにはぜんぜんふさぎの虫ではなく、ただ冷やかで、石みたいに無感動になることもあるといったふうで、まったく、二つの正反対の性格が交互にまじりあっているようです。どうかするとひどく無口になってしまうことがあります! 忙しくてしようがないのに、みんな邪魔ばかりしている、という様子をしながら、そのくせ自分はねそべって、何もしない。皮肉やではないが、それもウイットがたりないせいではなく、そんなくだらんことにつぶす時間がない、といった態度です。人の話はしまいまで聞かない。何に限らずみんなが興味をもつことには、決して興味をもたない。おそろしく高く自分を評価しているが、それも一応の理由はあるようです。さあ、この程度でいいでしょうか?……ぼくは思うんですが、あなた方がいらしたことは彼にとってはきっと救いになりますよ」
「ああ、そうあってほしいですよ!」ラズミーヒンのロージャ評にげんなりしてしまったプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、思わずこう叫んだ。
ラズミーヒンはやっと、かなり思いきった視線をアヴドーチヤ・ロマーノヴナに向けた。彼は話のあいだときどき彼女に目をやったが、ちらとはしらせるだけで、すぐにそらしていた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはテーブルについて、熱心に聞いているかと思うと、また立ちあがって、例のくせで、腕をくみ、唇をかたくむすんで、室内を隅から隅へ歩きまわりはじめる、そしてときおり足もとめずに、考えこんだままポツリと質問をする、というふうだった。彼女にも人の話をしまいまで聞かないくせがあった。彼女はうすっぺらな生地でつくった黒っぽい服を着て、首に白いすきとおるスカーフを巻いていた。ラズミーヒンはいろんな点から、二人の婦人の身のまわりが極端に貧しいことを、すぐに見てとった。もしアヴドーチヤ・ロマーノヴナが女王のような身なりをしていたら、おそらく彼はぜんぜん彼女を恐れなかったろう。それがいま、彼女の身なりがいかにも粗末で、彼はそれをすっかり見てしまったせいか、急に彼の心に恐怖がわいて、自分の言葉の一つ一つ、動作の一つ一つが不安になってきた。これは人間にとって気づまりなことはもちろんであり、しかもそれでなくても自分が信頼できない場合、なおのことである。
「あなたは兄の性格についていろいろとたくさんおもしろいことを言ってくれました、しかも……公平に。ありがたいことです。わたしはあなたが兄を尊敬していると思っておりましたのよ」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは微笑をうかべながら言った。「兄の身のまわりに女のひとがいなければならないというのも、ほんとうかもしれませんわね」と彼女は思案顔につけたした。
「ぼくはそんなことは言わなかったが、しかしあるいは、それもあなたのおっしゃるとおりかもしれません。ただ……」
「何ですの?」
「彼は誰も愛しませんからねえ。おそらく、永久に愛するなんてことはないでしょう」とラズミーヒンはずばりと言った。
「といいますと、愛する能力がないということでしょうか?」
「ねえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたはどきッとするほど兄さんにそっくりですね、何から何まで!」と彼は自分でも思いがけなく、うっかり口をすべらしてしまったが、すぐにいま彼女の兄について言ったことを思いだして、えびのように真っ赤になり、すっかりうろたえてしまった。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはその様子を見て、思わずふきだした。
「ロージャのことは、あなた方二人ともまちがっているかもしれませんよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは二人の調子にいくらかまきこまれて、皮肉っぽく口をはさんだ。
「わたしはいまのことを言うんじゃないがね、ドゥーネチカ。ピョートル・ペトローヴィチがこの手紙に書いていること……それとわたしとおまえが想像していたこと、──それはまちがっているかもしれないけど、でも、ドミートリイ・プロコーフィチ、あれがどんなに空想ばかりしている子で、それになんといいますか、その、気まぐれな子だったか、あなたにはとても想像もつきませんよ。あの子の性分は、あの子がまだ十五の少年の頃でさえ、わたしはよくつかめなかったのですよ。きっと、あの子はいまでも、誰一人思いもよらないようなことを、突然しでかすでしょうよ。あの子にはそういうところがあるんです……そうそう、古いことでなくとも、一年半ばかりまえ、ご存じかしら、あの、なんという名前でしたかしら、──ほら、家主のザルニーツィナさんの娘さんですよ、その娘と突然結婚するなんて言いだしまして、わたしはもうすっかりびっくりしてしまって、心配で心配で、いまにも死にそうな目にあわされたんですよ」
「あのことについて、何か詳しいことを知ってらして?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが尋ねた。
「あなたはきっと」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは熱心につづけた。「あのときあの子を思いとどまらせたのは、わたしの涙、わたしの哀願、わたしの病気、おそらく死んでしまうかもしれないほどのわたしの悲しみ、わたしたちの貧しさだと、お思いでしょう? ちがいます、あの子はどんな障害でも平気で踏みこえて行ったはずです。でも、あの子は、ほんとにあの子は、わたしたちを愛していないのでしょうか?」
「彼はあのことについては一度も何もぼくに語りませんでした」とラズミーヒンは用心深く答えた。「だがぼくは母親のザルニーツィナさんの口から、すこしばかり聞いていることがあります。もっともこのザルニーツィナさんにしても、もともと口数の多いほうではありませんが、でもぼくが聞いたのは、なんだか、すこし妙な気がしたんですが……」
「まあどういうことですの、あなたがお聞きになったのは?」と二人の婦人が同時に尋ねた。
「といって、別にそう特別変ったことではありませんが。ぼくが聞いたのは、この結婚はもうすっかりきまっていて、ただ花嫁が死んだためにおじゃんになったんだが、この結婚には母親のザルニーツィナさんもひどく反対だったということだけですよ……それに、噂では、花嫁はあまりきれいでなかったとか、つまり、むしろみにくいほうだったとか……それに病身で、そのうえ……偏屈で……しかしいいところもすこしはあったようです。きっとあったにちがいありません、でなきゃまったく理解できませんよ……持参金もぜんぜんなかったそうですし、もっとも彼はそんなものを当てにする男ではありませんが……だいたいこういう問題は、はたからはなかなかわからないものですよ」
「そのひとはきっとりっぱな娘さんだったろうと、わたしは思いますわ」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは言葉少なに言った。
「申しわけないけど、わたしもあのときその娘さんが死んだと聞いてほっとしたんですよ。あの子が娘さんをか、娘さんがあの子をか、どちらがどちらをだめにしてしまうかは、わからないにしてもねえ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言葉をむすんだ。それから用心深く、遠慮しいしい、明らかにそれがいやでたまらないらしいドゥーニャの顔をたえずぬすみ見ながら、またロージャとルージンの間の昨日のできごとを根ほり葉ほりききだしはじめた。その事件が何よりも彼女を不安がらせ、ふるえがくるほどおびえさせていることは、明らかだった。ラズミーヒンはまたあらためてはじめからすっかりものがたったが、今度は自分の意見もつけくわえた。彼はラスコーリニコフが計画的にピョートル・ペトローヴィチを侮辱したことを、真っ向から非難して、もう病気を理由に彼を弁護するようなことはほとんどしなかった。
「彼は病気になるまえからこのことを考えていたんですよ」と彼はつけ加えた。
「わたしもそう思いますよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはしょんぼりとうちしおれて言った。しかしラズミーヒンが今度はひどく注意深く、尊敬さえしているような様子でピョートル・ペトローヴィチのことを話したのには、びっくりしてしまった。これにはアヴドーチヤ・ロマーノヴナもおどろいた。
「じゃあなたは、ピョートル・ペトローヴィチをいったいどうお考えですの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはがまんができなくなって、もどかしそうに尋ねた。
「お嬢さんの未来の良人たる人について、ぼくに異論のあろうはずがありませんよ」とラズミーヒンはきっぱりと、力をこめて答えた。「しかも単に俗っぽいお世辞でこんなことを言っているのではありません、つまり……つまり……その何です、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが自分からすすんで、このひとを選ばれたという、その一つの理由だけでも。ぼくが昨日あんなに悪口を言ったのは、ぼくが見苦しく酔っぱらっていましたし、それに……ぼうッとなっていたからです。そうです、ぼうッとなっていました。頭がばかになっていました。気がへんになっていました。すっかり……今日になってみると、恥ずかしくてなりません!……」
彼は赤くなって、口をつぐんだ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは胸がかっと熱くなったが、沈黙をやぶらなかった。彼女はルージンの話になったときから一言も口をきかなかった。
一方、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、娘の同意が得られずに、思いまどっている様子だった。とうとう、娘の顔色をちらちらうかがいながら、ためらいがちに、いまひどく気にかかっていることがひとつある、と言いだした。
「ねえ、ドミートリイ・プロコーフィチ……」と彼女はきりだした。「わたしはね、ドゥーネチカ、このドミートリイ・プロコーフィチとはすっかり打ち明けて話しあいますよ、いいわね?」
「もちろんですとも、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナははげますように言った。
「実はこうなんですよ」と彼女は、自分の苦しみを伝えることを許されて、まるで肩の重荷がおりたように、急いで言った。「今朝早々と、ピョートル・ペトローヴィチから手紙をもらいました。着いたことを昨日知らせてやったその返事なのです。実は、約束によりますと、昨日あのひとはわたしたちを駅に出迎えてくださることになっていたのです。それが駅には、この宿の所番地を書いた紙をもたせて、わたしたちを案内するようにと、見知らぬ使いの者をよこして、自分は今朝ここを訪ねるからという言伝てでした。ところが今朝も見えないで、その代りにこの手紙がきたわけです……まあわたしの下手な説明よりも、とにかくこの手紙を読んでみてください。ひとつ、とっても気になることがあるんです……それがどんなことかはすぐにおわかりになるでしょう。そして……あなたの忌憚のない意見を聞かせてくださいな、ドミートリイ・プロコーフィチ! あなたは誰よりもロージャの気性をご存じですし、誰よりもよく相談にのってくださるはずですもの。おことわりしておきますが、ドゥーネチカははじめから、もうすっかり決めてしまっているのですが、わたしは、わたしはどうしてよいか、まだわかりません。それで……さっきからあなたをお待ちしていたのですよ」
ラズミーヒンは昨日の日付の手紙を開いて、次のような文面を読んだ。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、今日は思いがけぬ支障のために、あなた方を駅に出迎えることができず、代りによく気のきく男を出迎えにさしむけました。どうかご了承ください。さて明朝ものっぴきならぬ元老院の用件があり、それにあなたとご子息、アヴドーチヤ・ロマーノヴナとご令兄の親子兄妹水入らずの対面を邪魔しないほうがいいと思いますので、お訪ねしないことにします。従いましてあなた方を宿にお訪ねして、ごあいさつ申しあげるのは、明日の午後八時にしたいと思います。つきましては私の切なる心からの願いをひとつ、あえてつけ加えさせていただきますが、私たちの面会の席にはぜったいにロジオン・ロマーノヴィチには来ていただきたくありません。といいますのは、昨日同君の病床を見舞いました際、私は同君のためにいまだかつてないほどの無礼きわまる取り扱いをうけたからです。それに、ある事柄につきましてぜひともあなたと膝をまじえて詳しく話しあい、あなたご自身の説明を聞きたいからです。なおあらかじめおことわりしておきますが、私の希望に反して、ロジオン・ロマーノヴィチが来ておられるような場合は、私はただちに退出せざるを得ないでしょうし、それはあなた方の自業自得というものですから、もう私は関知しません。こんなことを申しあげるのは、私が見舞った際はひどい重病のように思われたロジオン・ロマーノヴィチが、二時間後には突然全快したという事情を見ましても、外出のついでにあなた方の宿に立ち寄るのではないか、と懸念されるからです。それは私がこの目でたしかめたところです。昨日馬車にひかれて死んだある酔漢の家で、醜業を職としているその家の娘に、同君が葬儀費用の名目で二十五ルーブリをわたしたのを見て、それはあなたがどんなに苦心しておつくりになった金かを知っている私は、すっかりおどろいてしまった次第です。最後に、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに心からの敬意を表するとともに、あなたに深く信服していることを重ねて申しあげます。
あなたの忠実な下僕
P・ルージン
「いったいどうしたらいいものでしょう、ドミートリイ・プロコーフィチ?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいまにも泣きそうになりながら言った。「どうしてわたしが、ロージャに来るななんて言えましょう? あの子は昨日ピョートル・ペトローヴィチをことわってしまえって、あんなにきつく言うし、こちらはこちらで、あの子を来させるなだなんて! でも、こんなことがわかったら、あの子は意地でも来ますよ、そしたら……どうなるでしょう?」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナがきめたとおりに、なさったらいいでしょう」と落ち着きはらって、すぐにラズミーヒンは答えた。
「それが、びっくりするじゃありませんか! この娘ときたら……とんでもないことを言いだして、そのわけもおしえないんですよ! この娘はね、ロージャにもわざと今日の八時にここへ来させて、ぜひ二人を会わせるようにしたほうがいいなんて、いや、いいとかわるいとかじゃなくて、どういうわけだか知らないけど、どうしてもそうしなければならないなんて、言うんですよ……でもわたしはね、どうしてもこの手紙をあの子に見せる気になれないから、あなたにお頼みして、何かうまい方法であの子を来させないようにできないものかと……だってあの子はあんなに怒りっぽいでしょう……それから、わたしにはさっぱりわけがわからないんだけど、酔っぱらいだとか、その娘とか、その娘にあの子がなけなしの金をやったとか……だってあの金は……」
「やっとの思いで手に入れたお金ですものね、お母さん」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが言いそえた。
「彼は昨日は常態じゃなかったんですよ」とラズミーヒンは考えこみながら言った。「昨日彼が居酒屋でしでかしたことを、あなたが聞いたらびっくりしてしまいますよ。頭はいい男なんだが……うん! 誰かが死んだとか、その娘がどうしたとか、昨日いっしょにかえる途中、たしかに言ってましたよ。でもぼくはなんのことやらさっぱりわからなかった……しかも、昨日はぼく自身が……」
「それよりも、お母さん、兄さんのところへ行きましょうよ。そしたらきっと、どうしたらよいかすぐにわかると思うわ。それにもう時間よ、──まあ! もう十時すぎだわ!」彼女は細いヴェニス鎖で頸から下げていた七宝細工のみごとな金時計をちらと見て、思わず叫んだ。それはほかの装身具とはひどくそぐわなかった。《花婿のプレゼントだな》ラズミーヒンはふと思った。
「あッ、ほんと!……もう行かなくちゃ、ドゥーネチカ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急にそわそわしだした。「昨日のことで怒って、いつまでも行かないなんて思われたら。それこそ、どうしましょう」
こんなことを言いながら、彼女はせかせかと外套をはおり、帽子をかぶった。ドゥーネチカも身支度をととのえた。彼女の手袋は古いばかりか、破れてさえいるのに、ラズミーヒンは気づいた。しかしこの明らかな服装の貧しさがかえって二人の婦人に一種独特の気品をあたえていた。それは貧しい服装に恥じらいを感じない人々にいつも見られる気品である。ラズミーヒンは恭敬の目でドゥーネチカをながめて、彼女を案内して行くことに誇りを感じた。《あの女王だって》と彼はひそかに考えた。《獄舎の中で自分の靴下のほころびをつくろったという、あの女王だって、そのときのほうが、はなやかな儀式やおでかけのときよりも、ほんとうの女王らしく見えたはずだ》
「ああ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。「息子と、かわいい、かわいいロージャと会うのが怖いなんて、そんなことゆめにも思ったことがなかった。それがいまは、なんだか怖くて!……わたしは怖いんですよ、ドミートリイ・プロコーフィチ!」彼女はこわごわ彼を見て、こうつけ加えた。
「怖がることないわよ、お母さん」とドゥーニャは母に接吻しながら言った。「それより兄さんを信じなさいよ。わたしは信じてるわ」
「おや、何をいうの! わたしだって信じてるんだよ。でも一晩中ねむられなかったんだよ!」と哀れな母は叫んだ。
彼らは通りへでた。
「ねえ、ドゥーネチカ、明け方近くになってとろとろとしたと思ったら、思いがけなく亡くなったマルファ・ペトローヴナの夢を見たんだよ……まっ白いきものをきて……わたしのそばへ来ると、手をとって、頭を振るんだよ、きびしい顔をして、まるでわたしを詰るみたいに……きっと何かわるい前じらせだわ! ああ、どうしよう、ドミートリイ・プロコーフィチ、あなたはまだ知らないでしょうけど、マルファ・ペトローヴナは亡くなったんですよ!」
「いいえ、知りませんね。そのマルファ・ペトローヴナって誰です?」
「突然でしてねえ! それがあなた……」
「あとになさいよ、お母さん」とドゥーニャがさえぎった。「だってこの方はまだマルファ・ペトローヴナが誰か知らないじゃありませんか」
「おや、知らないんですか? わたしはまた、あなたはもう何もかもご存じだと思ったものですから。ごめんなさいね、ドミートリイ・プロコーフィチ、わたしはこの二、三日ほんとに頭がどうかしてるんですよ。ほんとに、わたしはあなたをわたしたちの救いの神みたいに思っているものですから、それであなたはもう何もかもご存じだと、頭から思いこんでいたんですよ。身内の者みたいな気がしましてねえ……こんなことを言って、怒らないでくださいね。おや、まあ、どうなさいましたその右の手は! けがですの?」
「え、ちょっと」とラズミーヒンは幸福につつまれてぼんやり呟いた。
「わたしはときどきうれしくなりすぎて、つい口がすべってしまうものですから、いつもドゥーニャに注意されるんですよ……でも、まあ、あの子はなんて汚ない部屋に住んでるんでしょう! それにしても、もう目がさめたかしら? で、あの主婦さんはあんなものを部屋と思っているのかしら? ねえ、あの子は気持を外へだすのがきらいだって、たしかそうおっしゃいましたわね、それでわたし、わるいくせをだして……あの子にいやな思いをさせはしないかと……おしえていただけません、ドミートリイ・プロコーフィチ? あの子をどんなふうにあつかったらいいんでしょう? わたしはどうしてよいやらさっぱりわからず、おろおろしてるんですよ」
「彼が眉をひそめるのを見たら、あんまりいろんなことを聞かないでください。特に病気のことはあまり聞かないほうがいいです。いやがりますから」
「ああ、ドミートリイ・プロコーフィチ、母であることはなんて辛いんでしょう! おや、あの階段ですわね……おそろしい階段!」
「お母さん、まあ、顔色までなくして、心配しなくてもいいわよ」とドゥーニャは母をやさしくいたわりながら言った。「兄さんはお母さんに会うんだもの、喜ばなくちゃいけないはずなのに、お母さんにこんな苦しい思いをさせて」彼女は目をうるませて、こうつけ加えた。
「ちょっとここで待っててください、起きたかどうか見てきますから」
婦人たちは、かけのぼって行ったラズミーヒンのあとから、そろそろ階段をのぼって行った。そして四階の主婦の部屋のドアのまえまで来ると、ドアが細目にあいていて、いそがしくうごく二つの黒い目がうす暗い中からこちらをうかがっているのに気づいた。こちらの目とあうと、とたんにドアがバタンとしめられた。そしてその音の大きさに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびっくりして、思わず悲鳴が口まで出かかった。
3
「元気ですよ、元気ですよ!」と入ってくる一同をむかえて、ゾシーモフが明るく叫んだ。彼はもう十分もまえからここへ来ていて、昨日と同じソファの端に腰をおろしていたのである。ラスコーリニコフは反対側の隅に腰をおろしていた。もうすっかり服装をととのえて、おまけにていねいに顔を洗い、髪までとかしていた。こんなことはもう何カ月もないことだった。部屋はいちどにいっぱいになった。それでもナスターシヤは客たちのあとからするりともぐりこんで、話にきき耳をたてはじめた。
たしかに、ラスコーリニコフはもうほとんど普段とかわらなかった。特に昨日とくらべるともうすっかりよくなっていた。ただひどく顔色がわるく、ぼんやりしていて、気むずかしげで、怪我人か、あるいは何かはげしい肉体的苦痛をこらえている人のように見えた。眉根はぎゅっとよせられ、唇はかたく結ばれて、目は充血してギラギラ光っていた。彼はほとんどしゃべらなかった。しゃべるにしてもしぶしぶで、無理にやっと口をひらくか、あるいは義務だからしかたがないという様子で、ときおり動作になんとなく落ち着かない不安の色がうかがわれた。
これで腕にほうたいを巻いているか、あるいは指にコハク織りのサックでもはめていたら、指がはげしく痛むか、あるいは腕に怪我をしたか、いずれにしてもそうしたたぐいの病人に見えたにちがいない。
しかし、この蒼白い陰気な顔も、母と妹が入ってきたとき、一瞬さっと光がさしたように見えたが、それも顔の表情に、それまでの重苦しい放心のかわりに、かえってますます濃くなったような苦悩のかげを加えただけだった。光はじきにうすれたが、苦悩はそのままのこった。そしてかけだし医師の若い情熱のすべてをかたむけて、自分の患者を観察し研究していたゾシーモフは、肉親が来たことで彼の表情に喜びのかわりに、もはやさけられぬ一、二時間の拷問をたえようという重苦しいかくされた決意を見てとって、ぞっとした。彼はそれから、つづいて起った会話の一言一言が、患者のどことも知れぬ傷口にふれて、それを痛く刺激するらしい様子を見た。しかしそれと同時に、患者が今日は自分をおさえて、ちょっとした言葉でまるで気ちがいのようにいきり立った昨日の偏執狂とはうって変り、自分の感情をかくすことができるのを見て、いささかおどろきもした。
「ええ、もうすっかり元気になったのが、自分でもわかるよ」とやさしく母と妹に接吻しながら、ラスコーリニコフは言った。そのためにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいっぺんに晴れやかな顔になった。「これはもう昨日流に言ってるんじゃないぜ」と彼はラズミーヒンのほうを向いて、親しげに手をにぎりながら、つけ加えた。
「ぼくも今日は彼を見てびっくりしたほどですよ」とゾシーモフはみんなが来たことにひどく喜んだ様子で言いだした。十分も坐っていて、そろそろ話の種がつきかけていたところだったからである。「このままゆけば、三、四日もしたら、すっかり元どおりになりますよ。つまり一カ月まえの調子にですよ、いや二カ月かな……それとも、あるいは三カ月まえか? たしかに、この病気はかなりまえからはじまって、徐々に進行してきたものですよ……そうでしょう? さあ白状したまえ、おそらく、きみ自身にも責任があったんじゃないですか?」彼はいまでもまだ患者の神経を刺激することをおそれているらしく、用心深い微笑をうかべながらこうつけ加えた。
「大いにそうかもしれんな」とラスコーリニコフは冷やかに答えた。
「ぼくはだから言うんだよ」とゾシーモフは力を得て、言葉をつづけた。「きみが完全に健康を回復するには、これからは、要は、きみ自身の心がけひとつだと。いまは、やっときみと話ができるようになったから、きみによく言っておきたいんだが、きみの病気の発生に作用した最初の原因、いわば根だな、それを除去しなければいけないよ。そうすれば治るよ。さもないと、もっとわるくさえなるかもしれんよ。その最初の原因てやつは、ぼくにはわからんが、きみにはわかってるはずだ。きみは聡明な人間だから、むろん、自分を観察してきたことと思う。ぼくの見るところでは、きみの神経のみだれがはじまったのは、きみが大学を退校したときとある程度符合しているような気がする。きみは何もせずにはおれぬ男だ、だから労働としっかり定めた目的、これが大いにきみには助けになると思うんだよ」
「うん、そうだ、まったくお説のとおりだよ……早く大学にもどることにしよう、そうすればすべてがうまくいくだろうよ……すらすらとね……」
ゾシーモフがこういう聡明な忠告をはじめたのは、ひとつには婦人たちに対する効果をねらってのことだった、だから話をおわって、相手の顔を見て、その顔に露骨な嘲笑がうかんでいるのに気づいたときは、いささかまごついた。しかし、それも一瞬のことだった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがすぐにゾシーモフに礼を言いはじめた。特に昨夜おそく宿を訪ねてくれたことに対して、ていねいに礼をのべた。
「なんですって、彼は夜更けに訪ねたんですか?」とぎくっとしたらしい様子で、ラスコーリニコフは尋ねた。「じゃ、母さんたちも寝なかったんですね、旅のあとだというのに?」
「まあ、ロージャ、なあにそれもね、ほんの二時までだったんだよ。わたしもドゥーニャも家にいたって、二時まえになんてねたことがないんだよ」
「ぼくだって、なんとお礼を言ってよいかわからないよ」とラスコーリニコフは急に眉をしかめ、うなだれて言った。「金の問題をはなれて、──ごめんね、こんなことを言って(彼はゾシーモフのほうを向いた)、──ぼくはどうしてあなたにこれほどまでに気をつかってもらえるのか、まったくわからないんですよ。要するにわからない……だから……わからないから、それがぼくにはかえって苦しいんです。ぼくははっきり言います」
「まあ、そう気にしないでください」とゾシーモフは無理に笑った。「あなたがぼくの最初の患者だからですよ。だいたい開業したてのわれわれ医師仲間は、自分の最初の患者をまるで自分の子供みたいに愛するものなんですよ、中にはすっかり惚れこんでしまうやつもいますよ。それにぼくはあまり患者にめぐまれませんので」
「彼のことはもういうまでもないですよ」とラスコーリニコフはラズミーヒンを指さしながら、つけ加えた。「彼も、屈辱と面倒以外、ぼくから何も受けていないんだ」
「おい、いいかげんにしろよ! 今日はまたえらく感傷的になってるじゃないか、え?」
彼にもしもっと深く見る目があったら、そこには感傷的な気分などみじんもなく、かえってその正反対の何ものかがあったことを見ぬいたはずである。だが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれに気づいた。彼女はじっと不安そうに兄の様子を見まもっていた。
「お母さん、あなたのことでは、ぼくは何をいう勇気もありません」と彼は朝から何度も口の中でくりかえした宿題を暗誦するように、言葉をつづけた。「今日になってはじめてぼくは、お母さんが昨日ぼくのかえりを待つ間、どんなにかお苦しみになったにちがいないということが、すこしわかりかけてきたのです」そう言うと彼は、不意に、何も言わず、にこにこ笑いながら、妹へ手をさしのべた。そしてその微笑には、こんどこそ作りものでないほんとうの感情のひらめきがあった。ドゥーニャはすぐにその手をとって、喜びと感謝の気持でいっぱいになりながら、熱くにぎりしめた。これが昨日の不和からはじめて彼が妹に対した態度だった。この兄と妹の決定的な無言の和解を見て、母の顔は喜びと幸福にかがやいた。
「まったく、これだからぼくはこいつが好きなんだよ!」なんでも大げさに言うくせのあるラズミーヒンは、椅子の上ではげしく身体をひねって、小声で言った。「やつにはこういう芸当があるんだよ……」
《ほんとにこの子のやることったら、どうしてこううまくゆくんだろう》と母は胸の中で考えた。《ほんとに美しい清らかな心をもった子だわ、昨日からの妹との心のわだかまりをあんなに素直に、しかもやさしい思いやりで解いてしまったんだもの──こんなときに、手をさしのべて、やさしく見つめただけで……それにしてもなんてきれいな目でしょう、顔ぜんたいの美しいことったら!……ドゥーネチカより美しいくらいだわ……しかし、まあまあ、なんという服を着ているんだろう、おそろしいみたいだわ! アファナーシイ・イワーノヴィチの店の小僧のワーシャだって、もっとましな服を着てるわ!……ああどんなに、いますぐこの子にとびついて、抱きしめて、そして……泣いてみたいかしれやしないのに、──こわい、こわくてそれができない……なんだかこの子が、ああ!……こんなにやさしく言葉をかけてくれるのに、やっぱりこわい! いったい、何がこわいのかしら?……》
「ああ、ロージャ、おまえは嘘だと思うかもしれないけど」と彼女はあわてて息子の言葉に答えながら、急いで言った。「わたしとドゥーニャは昨日は……ほんとに不幸だったんだよ! いまはもう、何もかもすぎ去って、わたしたちはみんなまたしあわせになったから、こんな話もできるんだけどね。まあ考えてもごらんよ、おまえを早く抱きしめたいと思って、それこそ汽車からまっすぐここへかけつけてみれば、あの女のひとが、──あ、そこにいるじゃないの! こんにちは、ナスターシヤ!……このひとがいきなりわたしたちに言うじゃないの、おまえが熱病にかかってねていたが、ついいましがた医者の目をかすめて、夢遊病者みたいに街へ逃げ出し、みんなさがしにかけ出していったなんて。おまえにはほんとにできないだろうけど、わたしたちがどれほど心配したか! わたしはすぐにポタンチコフ中尉さんの悲惨な死を思い出したんだよ。ほら、わたしたちの知り合いで、おまえのお父さんの親しいお友だちで、──おぼえている、ロージャ、──あのひとも熱病にかかって、やっぱり逃げ出して、庭で井戸におちて、あくる日になってやっとひきあげられたんだよ。わたしたちは、むろんのこと、もっともっと大げさに考えてねえ。もうすんでのことにピョートル・ペトローヴィチを訪ねようとしたんだよ、せめてあのひとの助けでも借りようと思ってねえ……だってわたしたちは二人きりだったんだもの、頼るひとが誰もなかったんだもの」と彼女は哀れっぽい声で訴えるように言ったが、不意にはっと口をつぐんだ。《みんながもう元どおりにすっかり幸福になった》が、それでもやはりピョートル・ペトローヴィチのことを口にするのは、まだかなり危険なことを思い出したからである。
「そうでしょうとも……そりゃ、たしかに、腹がたったでしょう……」とそれに答えて、ラスコーリニコフは呟いたが、それがあまりに散漫な、まるで気のぬけたような態度だったので、ドゥーネチカはびっくりして、目を見はった。
「はてな、あと何を言おうとしたんだっけ」と彼は無理に思い出そうとつとめながら、言った。「そうそう。お母さん、それからドゥーネチカ、おまえも、ぼくのほうから行きたくないから、あんた方の来るのを待っていたなんて、そんなふうに思わないでくださいね」
「まあ、何を言うんだね、ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナも、びっくりして叫んだ。
《まあ兄さんたら、義務で、わたしたちに返事しているのかしら?》とドゥーネチカは考えた。《仲直りをするのも、許しをこうのも、まるでおつとめをしているか、宿題の暗誦でもしてるみたいだわ》
「起きるとすぐに、行こうと思ったのですが、服でぐずぐずしてしまったものですから。昨日この……ナスターシヤに……血を洗ってくれるように言うのを忘れてしまって……いまやっと服を着おわったところなのです」
「血ですって! なんの血なの?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。
「いやなに……なんでもないんです。実は昨日すこしもうろうとして、ふらふら歩いていたら、馬車にひかれた男にぶつかったんです……官吏ですが……それで血が……」
「もうろうとして? でもきみはすっかりおぼえてるじゃないか」とラズミーヒンが口を入れた。
「それはたしかだ」と何か特に注意深く、ラスコーリニコフはそれに答えた。「ほんの些細なことまで、すっかりおぼえている、ところが、どうしてあんなことをしたか、どうしてそこへ行ったか、どうしてあんなことを言ったのか? ということになると、自分でもよくわからないんだ」
「それはもう自明な現象ですよ」とゾシーモフが口を入れた。「あることの実行はときとして手なれたもので、巧妙すぎるほどだが、行為の支配、つまり行為の基礎がみだれていて、さまざまな病的な印象に左右される。まあ夢のような状態ですな」
《ふん、やつはおれをほとんど気ちがいあつかいにしているが、そのほうがかえって好都合かもしれんぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「でもそれは、健康な人だって、やはりあるかもしれませんわ」と不安そうにゾシーモフを見ながら、ドゥーネチカが言った。
「お説のとおりかもしれません」とゾシーモフは答えた。「その意味では、たしかにわたしたちはみな、しかもひじょうにしばしば、ほとんど狂人のようなものです。ただわずかのちがいは、《病人》のほうがわれわれよりもいくぶん錯乱の度がひどいということだけです、だからここに境界線をひかなければならないわけです。調和のとれた人間なんて、ほとんどいないというのは、たしかです。何万人に、いやもしかしたら何十万人に一人、いるかいないかですが、それだってやはり完全というわけにはいかんでしょう……」
好きなテーマで調子づいたゾシーモフがうっかり口をすべらした《狂人》という言葉に、一同は眉をひそめた。ラスコーリニコフはそんなことは気にもとめないふうで、蒼白い唇に奇妙なうす笑いをうかべたまま、じっと黙想にしずんでいた。彼は何かを考えつづけていた。
「で、その馬車にひかれた男がどうしたんだい? ぼくが話をそらしてしまったが!」とラズミーヒンがあわてて大声で言った。
「なに?」とラスコーリニコフは目がさめたように問い返した。「ああ……なに、その男を家へ運びこむのを手伝ったとき、血がついたのさ……そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申しわけないことをしてしまったんです。たしかに頭がどうかしていました。ぼくは昨日、お母さんが送ってくだすったお金をすっかり、やってしまったんです……その男の妻に……葬式の費用にって。夫に死なれて、肺病で、あんまりかわいそうなんです……子供が三人、食べるものもなく……家の中はからっぽで……もう一人娘がいますが……きっと、あんな様子を見たら、お母さんだってお金をやったでしょう……でもぼくには、あんなことをする権利はぜんぜんなかったんです、だって、はっきり言いますが、あのお金はお母さんがどんな苦しい思いをしておつくりになった金か、ぼくはちゃんと知ってるんですもの。人を助けるには、まずその権利を作らなきゃいけないんです、さもないとフランスの諺にいうCrevz,chiens,si vous n'e^tes pas contents! (腹がへったら犬でも殺せ)てことになりますよ」彼はにやりと笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがいますわ」とドゥーニャはきっぱりと答えた。
「え! じゃおまえも……そうなのか!……」と彼はほとんど憎悪にちかい目で彼女をにらみ、あざけりのうす笑いをうかべながら、呟いた。「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ……まあ、りっぱだよ、おまえはそのほうがよかろうさ……だが、いずれはある一線に行きつく、それを踏みこえなければ……不幸になるだろうし、踏みこえれば……もっと不幸になるかもしれん……でもまあ、こんなことはくだらんよ!」彼は自分が心にもなく熱中したことに腹をたて、苛々しながらつけ加えた。「ぼくはただ、お母さん、あなたに、許してください、と言いたかったのです」と彼はポキポキした口調で、ぶっきらぼうに言葉を結んだ。
「いいのよ、ロージャ、わたしはね、おまえのすることは何でも、みなりっぱなことだと信じているんだよ!」と母はすっかり喜んで言った。
「信じないほうがいいですよ」と彼はうす笑いに口をゆがめて、答えた。沈黙がきた。こうした会話ぜんたいにも、沈黙にも、和解にも、許しにも、不自然な何ものかがあった、そして誰もがそれを感じていた。
《たしかにみんなおれを恐れているようだな》母と妹を上目づかいでちらちら見ながら、ラスコーリニコフは自分で自分のことを考えていた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはたしかに、沈黙が長びくにつれて、ますますおじけづいてきた。
《はなれていたときは、あんなに二人を愛していたはずだったのに》という考えがちらと彼の頭をかすめた。
「ねえ、ロージャ、マルファ・ペトローヴナが亡くなったんだよ!」と不意にプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「マルファ・ペトローヴナって、どこの?」
「まあ、おどろいた、ほら、マルファ・ペトローヴナだよ、スヴィドリガイロフさんの奥さんの! わたしがもうあんなに何度も手紙でおまえに知らせたじゃないの」
「あああ、そうか、おぼえてますよ……あのひとが死んだって? ええ、ほんと?」彼は目がさめたように、不意にぎくっとした。「ほんとに死んだんですか? いったいどうして?」
「それがね、ほんとに急だったんだよ!」と彼が関心をしめしたのに元気づいて、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急いで言った。
「わたしがおまえに手紙を送った、ちょうどあの時分、それもちょうどあの同じ日のことだったんだよ! それもねえ、あのおそろしい主人が、その原因だったらしいんだよ。なんでも、ひどくぶったそうだからねえ!」
「へえ、あの夫婦はそんなだったの?」と彼は妹のほうを向きながら、聞いた。
「いいえ、むしろその反対よ。あのひとは奥さんにはいつもひどくがまん強く、やさしすぎるほどでしたわ。たいていの場合、奥さんの気性に対して寛大すぎるほどで、七年間もしんぼうしてきたものだから……何かのはずみに不意にかんにん袋の緒がきれたのね」
「なるほど、七年間もがまんしてきたとすると、べつにそれほど恐ろしい男じゃないじゃないか? ドゥーネチカ、おまえはその男をかばってるようだね?」
「いえ、いいえ、おそろしいひとですわ! あれよりおそろしいものなんて、わたし想像もできないわ」とドゥーニャは身ぶるいしないばかりに答えると、眉をひそめて、考えこんでしまった。
「それが起ったのは朝のうちだったんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、急きこんで、つづけた。「そのあとですぐに奥さんは馬の支度をいいつけたそうだよ、食事がすんだら、すぐに町へ出かけるために。そんなときはいつも町へ出かけるのがくせだったからねえ。なんでも、食事はとてもおいしそうにあがったそうだよ……」
「そんなになぐられて?」
「……なに、いつものことだから……慣れていたんだよ、そして食事がすむと、出かけるのがおくれないように、すぐに浴室へ行ったんですって……あのひとはどういうものか水浴療法というものをやっていてねえ、家の中に冷たい泉があって、毎日きまった時間に水浴をしていたんだよ。ところがその日は、水に入ったとたんに、倒れてしまった!」
「そりゃきまってますよ!」とゾシーモフが言った。
「へえ、そんなにひどくなぐったのか?」
「そんなことどうでもいいじゃありませんの」とドゥーニャが応じた。
「フン! しかしお母さん、あんたももの好きだなあ、こんなつまらんことを言い出すなんて」と不意にラスコーリニコフはむしゃくしゃしながら、言った。うっかり口をすべらせてしまったらしい。
「まあ、何を言うんだね、おまえ、わたしは何を言いだしたらよいやら、わからなかったんだよ」といううらみがプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの口から思わずとびだした。
「だがどうしたんです、みんな腫れものにさわるみたいだね、ぼくが恐いのですか?」と彼はねじけたうす笑いをうかべながら言った。
「そのとおりよ」とまっすぐにきびしい目で兄をみつめながら、ドゥーニャは言った。「お母さんは、階段をのぼるとき、おそろしさのあまり十字をきったほどなのよ」
彼の顔は痙攣したように歪んだ。
「まあ、なんてことを言うの、ドゥーニャ! どうか、怒らないでおくれね、ロージャ……どうしておまえは、ドゥーニャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおろおろしながら言いだした。「それはね、ほんと、ここへ来る途中汽車の中でずうっと、空想ばかりしてきたんだよ、おまえと会うときの様子やら、お互いにいろんなことをすっかり話し合う様子など……そしてうれしくてうれしくて、外の景色もまるで目に入らなかったんだよ! それなのにわたしったら! わたしはいまでもうれしいんだよ……おまえはほんとにいらないことを、ドゥーニャ! わたしはおまえを見ているだけで、しあわせなんだよ、ロージャ……」
「もういいよ、お母さん」と彼は母の顔を見もしないで、その手だけにぎりながら、ばつわるそうに言った。「話はゆっくりしましょうよ!」
そう言うと、彼は急にどぎまぎして、真っ蒼になった。またしてもさっきの恐ろしい触感が死のような冷たさで彼の心を通りぬけたのだ。またしても彼はおそろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語りあうことができないことを。この苦しい想念の衝撃があまりにも強烈だったので、彼は一瞬、ほとんど意識を失いかけて、ふらふらと立ちあがると、誰にも目を向けずに、部屋を出て行こうとした。
「どうしたんだ、きみ?」とラズミーヒンが彼の手をつかんで、叫んだ。
彼はまた腰をおろして、黙ってあたりを見まわしはじめた。みなけげんそうに彼を見まもった。
「どうしてみんなそうぼんやりふさぎこんでいるんです!」と彼は不意に、自分でも思いがけなく、叫んだ。「何かしゃべりなさいよ! まったく、なにをぼんやり坐ってるんです! さあ、しゃべってください! 話をしましょうや……せっかく集まって、黙りこくっているなんて……さあ、何か!」
「やれやれ、ほっとした! わたしはまた、昨日のようなことがはじまるんじゃないかと思いましたよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが十字をきって、言った。
「どうしたの、ロージャ?」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナが不審そうに尋ねた。
「なあに、なんでもないよ、ちょっとしたことを思い出しただけさ」彼はそう答えると、不意に笑いだした。
「まあ、ちょっとしたことなら、結構だが! ぼくはまたぶりかえしたのかと、はっとしましたよ……」とゾシーモフはソファから腰をあげながら、呟くように言った。「しかし、ぼくはもう失礼する時間です。もう一度寄るかもしれません……じゃまたそのとき……」
彼は会釈をして、出て行った。
「なんてごりっぱな方でしょう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが言った。
「うん、りっぱな男だよ、すぐれた、教養ある、聡明な……」とラスコーリニコフはだしぬけに、思いがけぬ早口で、これまでになく珍しく張りのある声で、しゃべりだした。「病気になるまえ、どこで会ったか、もうおぼえていないが……どこかで会ったんでしょう……それから、これもいい男ですよ!」と彼はラズミーヒンに顎をしゃくった。「こいつが気に入ったかい、ドゥーニャ?」と彼は不意に彼女に聞くと、どういうわけか、大声で笑いだした。
「とっても」とドゥーニャは答えた。
「フッ、きみはまったく……いやなことを言うやつだ!」ラズミーヒンはすっかりうろたえて、真っ赤になってこう言うと、椅子から立ちあがった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは軽く微笑んだが、ラスコーリニコフは声をはりあげて笑いころげた。
「おい、どこへ行く?」
「ぼくも……用があるんだ」
「用なんかあるはずないよ、のこりたまえ! ゾシーモフがかえったから、きみはのこらにゃいかん。そわそわするなよ……ところで、何時かな? 十二時になった? ずいぶんかわいらしい時計だね、ドゥーニャ! どうしたんだい、みんな黙りこんじまって? ぼくだけじゃないか、しゃべってるのは!……」
「これはマルファ・ペトローヴナのプレゼントですわ」とドゥーニャが答えた。
「とっても高価なものなんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をそろえた。
「ほほう! それにしても大きいね、女持ちでないみたいだ」
「わたしはこういうの好きよ」とドゥーニャは言った。
《そうか、花婿のプレゼントじゃなかったのか》とラズミーヒンは考えて、どういうわけかうれしくなった。
「ぼくはまた、ルージンのプレゼントかと思ったよ」とラスコーリニコフは言った。
「いいえ、あのひとはまだ何ひとつドゥーネチカに贈りものなんかしませんよ」
「へえ! おぼえてる、お母さん、ぼく一度すっかり好きになっちゃって、結婚しようとしたこと」とだしぬけに彼は母を見つめながら言った。母は思いがけぬ話題の転換と、それを言いだしたときの彼の口調にあっけにとられて、ぽかんとしてしまった。
「ああ、そう、そうだっけねえ!」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはドゥーニャとラズミーヒンに目配せした。
「フム! そう! ところで、どう話したらいいかなあ? だって、もうあまりよくおぼえていないんだよ。病気がちの弱い娘だった」と彼はまた急に沈みがちになって、目を伏せたまま言葉をつづけた。「まったく病身で、乞食にものをやるのが好きで、いつも修道院をあこがれていたっけ、そして一度それをぼくに話してくれたとき、泣きだしてしまって。そう、そう……おぼえています……よくおぼえています。ひどくみにくい娘でした……顔は。ほんとに、どうしてあの頃ぼくはあの娘にひかれたのか、自分でもわからない、きっと、いつも病身だったからでしょう……もしあの娘がさらにびっこかせむしだったら、ぼくはおそらく、もっともっと強く愛したでしょう……(彼はさびしく微笑した)そうです……まあ春の夢みたいなものでした……」
「いいえ、それは春の夢ばかりじゃありませんわ」とドゥーネチカは生き生きと顔をかがやかせて言った。
彼はじいっと目に力をこめて妹を見つめたが、その言葉が聞きわけられなかったか、あるいは聞きとれても言葉の意味がわからなかったらしい。それから、深いもの思いに沈んだまま、立ちあがり、母のそばへ行って、接吻をすると、またもとへもどって、腰をおろした。
「おまえはいまでもその娘を愛しているんだよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは感動して言った。
「その娘を? いまでも? ああ……あの娘のことですか! いいえ。そんなことはみないまではもうあの世のことのようです……もうずっと昔のことです。それにまわりのすべてのことまで、なんだかこの世のことではないみたいで……」
彼は注意深くみなの顔を見た。
「ここにいるあなた方だって……まるで千里も遠くから見ているような気がするんです……チエッ、なんだってこんな話をしてるんだ? なんのためにうるさく聞くんだ?」彼は腹立たしげにこうつけたすと、それきり黙りこんで、爪をかみながら、またもの思いに沈んだ。
「これはまた思いきって汚ない部屋だねえ、ロージャ、まるで墓穴みたいだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは重苦しい沈黙を破って、だしぬけに言った。「おまえがこんな気鬱症にかかったのも、半分はきっとこの部屋のせいだよ」
「部屋?……」と彼はぼんやり答えた。「うん、部屋もかなり影響してますね……ぼくはそれも考えました……しかし、あなたは知らんでしょうが、お母さん、あなたはいまおそろしいことを言ったんですよ」と彼は不意に、異様なうす笑いをうかべて、つけ加えた。
もうちょっとしたら、この集まりも、三年の別離の後のこの親子のめぐりあいも、およそ語りあうことなどぜったいにできないような空気の中でつづけられている、この肉親なればこその会話の調子も、──ついに、彼にはどうしても堪えられぬものになったであろう。ところが、どうなるにしろ、ぜったいに今日中に解決しなければならぬ、ひとつののっぴきならぬ問題があった。それは彼がさっき目をさましたときから、そう決めていたのだった。いま彼はまるで出口が見つかったように、喜んでその問題にとびついた。
「ところで、ドゥーニャ」と彼は改まって、そっけなくきりだした。「ぼくは、むろん、昨日のことはおまえに申しわけないと思っている。だがぼくとしては、どうしてもここでもう一度、根本的な考えは変えないことを、おまえにはっきりと言っておきたい。ぼくか、ルージンかだ。ぼくは卑劣な人間でもかまわんが、おまえはいかん。どちらか一人だ。もしおまえがルージンに嫁ぐなら、ぼくは即座におまえを妹と思うことをやめる」
「ロージャ、ロージャ! それじゃまるきり昨日と同じことじゃないの」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは涙声で叫んだ。「いったいどうしておまえはそういつもいつも、自分を卑劣な人間だなんて言うの、わたしはそんなことがまんできない! 昨日だってそうです……」
「兄さん」と、ドゥーニャはきっとして、やはりそっけなく答えた。「この問題では、兄さんのほうにまちがいがあります。わたしは昨夜一晩考えて、そのまちがいを見つけました。結局、兄さんは、わたしが誰かに対して、誰かのために、自分を犠牲にするように考えているらしいけど、それがまちがいなのです。ぜんぜんそんなことはありません。わたしはただ自分のために結婚するのです。自分が苦しいからです。そしてそれが、身内のためにいい結果になったら、うれしいのはあたりまえです、でもわたしの決心で、それが主な動機ではありません……」
《嘘だ!》と彼は憎さげに爪をかみながら、腹の中で思った。《傲慢なやつだ! 恩を施したいんだと、はっきり言うのがいやなのだ! ああ、下司な根性だ! やつらの愛なんて、にくしみみたいなものだ……ああ、おれは……こいつら全部が憎くてならん!》
「やっぱり、わたしはピョートル・ペトローヴィチに嫁ぎます」とドゥーネチカはつづけた。「だって、二つの不幸があれば、軽いほうをえらびますもの。わたしは、そのひとがわたしに期待していることはどんなことでも、心をこめて行うつもりですわ、だから、あのひとを欺くことにはなりません……兄さん、どうしていまお笑いになったの?」
彼女もかっとなった。そして目に憤怒の火花がもえた。
「どんなことでも行うって?」と彼は毒々しく笑いながら言った。
「ある限度までよ。ピョートル・ペトローヴィチの求婚の仕方と形式を見て、あのひとが何を望んでいるか、わたしはすぐにわかったわ。あのひとは、むろん、自分を高く評価しすぎているかもしれないわ、でもその代り、きっとわたしの人格もかなり認めてくれると思うのよ……また笑って、どうしてなの?」
「じゃどうしておまえはまた赤くなったんだい? おまえは嘘をついてるんだよ。わざと嘘をついているんだ、女の強情さで、おれのまえで我を通したいという、ただそれだけの理由で……おまえにルージンが尊敬できるはずがないよ。おれは彼に会って、話したんだ。つまり、おまえは金のために身を売ろうというのだ、つまり、どう見たっていやしい行為をしているんだよ。でも、おまえがまだせめて赤くなれるのを見て、おれはうれしいよ!」
「ちがうわ、嘘じゃない!……」とドゥーネチカはすっかり冷静さを失って、叫んだ。「あのひとがわたしの人格を認めて、尊敬してくれる、という確信がなかったら、わたしは結婚しないわ。あのひとを尊敬できるということが、確実に信じられなかったら、わたしは結婚しないわ。さいわいに、わたしはそれを確認できます、今日にもよ。このような結婚は、兄さんの言うような、いやしい行為じゃないわ! そして、もし兄さんが正しくて、わたしがほんとうにいやしい行為を決意したとしたら、──わたしにそんなことを言うなんて、兄さんもずいぶんひどいじゃありません? どうして兄さんは、おそらく自分にもないような勇気を、わたしに要求するの? それは横暴だわ、暴力だわ! もしわたしが誰かを亡ぼすとしたら、それは自分一人をだけよ……わたしはまだ誰も破滅させたことがないわ!……どうしてそんな目でわたしを見るの? どうしたの、真っ蒼になって? ロージャ、どうしたの? ロージャ、兄さん!」
「まあ! 気絶させちゃって!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「いえ、いえ……なんでもありませんよ……つまらんことです!……ちょっとめまいがしただけです。気絶なんてとんでもない……よくよく気絶の好きな人たちだ!……ウン! そう……何を言おうとしたんだっけ? そうそう、どうしておまえは、彼を尊敬することができ、そして彼が……人格を認めてくれることを、今日にも確認できるんだい、たしかそう言ったね? おまえは、今日、と言ったようだったね? それともぼくの聞きちがいかな?」
「お母さん、ピョートル・ペトローヴィチの手紙を兄さんに見せてあげて」とドゥーネチカは言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはふるえる手で手紙をわたした。彼は大きな好奇心をもってそれを受けとった。が、それをひろげるまえに、彼は不意にどうしたのか、びっくりしたようにドゥーネチカを見た。
「おかしい」彼は突然新しい考えにゆさぶられたように、ゆっくり呟いた。「いったいなんのためにおれはこんなにやきもきしてるんだ? この騒ぎはなんのためだ? うん、誰でも好きなやつと結婚すればいいじゃないか!」
彼は自分に言いきかせるようだったが、かなりはっきり声にだして言って、しばらくの間、当惑したように妹の顔を見つめていた。
彼は、とうとう、まだ異様なおどろきの表情をのこしたまま、手紙をひらいた。そしてゆっくり入念に読みはじめて、二度読み直した。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはひどく不安だった。ほかのみんなも何か特別なことが起りそうな気がしていた。
「おどろいたねえ」と彼はしばらく考えてから、母に手紙をわたしながら、特に誰にともなく言った。「だって彼は弁護士で、忙しくやっているんだろう、話だってまあまあだ……くせはあるけど、ところが書かせるとまるででたらめじゃないか」
一座はちょっとざわめいた。これはまったく予想しなかったことだからである。
「でも彼らはみなこういう書き方をするよ」とラズミーヒンはどぎまぎしながら言った。
「じゃ、きみは読んだのか?」
「うん」
「わたしたちが見せたんだよ、ロージャ、わたしたちは……さっき相談したんだよ」とおろおろしたプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが口をだした。
「これは裁判所独特の文体だよ」とラズミーヒンがさえぎった。「裁判所の書類はいまでもこんなふうな書き方だよ」
「裁判所の? うん、たしかに裁判所で書きそうな手紙だ、事務的で……まあそれほど文法的にでたらめだともいえないが……しかしひじょうに文学的ともいいかねる。まあ事務的だな!」
「ピョートル・ペトローヴィチは満足に教育を受けていないことを、かくしてはおりません、自分で自分の道をきりひらいたことを、かえって誇りにしているくらいですわ」と兄の新しい調子にいくらかむっとして、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは言った。
「まあいいさ、誇りにしているなら、それだけのものがあるのだろう、──ぼくは何も言うまい。ドゥーニャ、おまえは、ぼくがこの手紙を読んでこんなつまらないけちをつけただけなので、侮辱を感じたらしいね、そして、怒らせておいておまえをやっつけるために、ぼくがわざとこんなつまらないことを言いだしたんだと、思っているだろう。とんでもない、文章の中に一個所、この場合ぜったいに読みすごせない意見が、ぼくの頭にピンときたのだ。というのは《自業自得》という表現だ。ひじょうに意味ありげに、しかもはっきりと書かれている。しかもそればかりか、ぼくが来たら即座に退出する、という脅迫がある。この退出するという脅迫は──いうことを聞かなければ、おまえたち二人をすてるぞ、という脅迫と同じじゃないか、しかもわざわざペテルブルグまで呼び出しておきながらだ。ドゥーニャ、おまえどう思う、例えば彼か(彼はラズミーヒンを指さした)、ゾシーモフか、あるいはわれわれの誰かがこんなことを書いたら、それこそ腹を立てるだろう、それがルージンなら、こんなことを書かれても、腹を立てられないのか?」
「ううん」とドゥーネチカは元気づきながら、答えた。「この手紙の表現はあまりにナイーヴで、あのひとは、きっと、ただ書くのが上手じゃないだけなんだってことが、よくわかったわ……兄さんの考察は実にみごとよ。思いがけぬほどよ……」
「それが裁判所式の表現だろうさ、裁判所式に書けばこれ以外の書きようがないんだろう、それでおそらく文章が、実際に思っているよりも荒っぽくなるんだろうよ。それはいいとして、おまえをすこし失望させることになりそうだが、この手紙にはもうひとつひっかかる表現がある。ぼくに対する、それもかなりえげつない中傷だ。ぼくは昨日途方にくれている肺病の寡婦にお金をやったが、《葬儀費用の名目で》ではなく、実際に葬儀の費用にやったんだ、また娘──《醜業を職としている》と彼が書いているその娘にではなく、寡婦の手に直接わたしたんだ。その娘だってぼくは昨日はじめて会ったんだよ。こうした文面を見ると、ぼくをけなして、おまえたちと口論させようという、あまりにも性急すぎる意図がすぐにわかるよ。これもまた裁判所式の書き方さ、つまりあまりにも露骨すぎる目的暴露と、実にナイーヴな性急さだよ。彼は人間は利口だろう、だが利口に行動するためには──利口だけでは足りないんだよ。この手紙がよく彼の人間をあらわしている。そしてぼくには……彼が大いにおまえの人格を認めているとは、思われない。ただおまえの参考にと思ってこんなことを言うんだが、それも心からおまえの幸福をねがっていればこそだよ……」
ドゥーネチカは答えなかった。彼女の決意はもうさっきすでになされていて、夜のくるのを待っていただけだった。
「それじゃいったい、おまえはどう決めるつもりだね、ロージャ?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、彼の突然の耳なれぬ事務的な口調に、先ほどよりもますます不安になって尋ねた。
「何のことです、《決める》って?」
「だってほら、ピョートル・ペトローヴィチが書いてるじゃないの、夜おまえがわたしたちのところにいないようにって、来たら……すぐかえってしまうって。それでおまえどうするつもり……来るかい?」
「それはもう、いうまでもなく、ぼくが決めることじゃありませんよ。まず、お母さん、あなたです、ピョートル・ペトローヴィチのこのような要求があなたに侮辱を感じさせなければですよ。次に──ドゥーニャです、これもやはり侮辱と思わなければですがね。ぼくはあなた方のいいようにします」と彼はそっけなくつけ加えた。
「ドゥーネチカはもう決めているんだよ、わたしはそれにすっかり同意なんだよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急いで口を入れた。
「わたしはね、兄さん、その対面の席にぜひいてもらうように、兄さんに頼むことに決めたのよ」とドゥーニャは言った。「来てくれる?」
「行くよ」
「あなたにも八時に来てくださるようお願いしますわ」と彼女はラズミーヒンに言った。「お母さん、わたしこの方もおよびしますわ」
「いいですとも、ドゥーネチカ。そう、おまえたちがしっかりきめたのなら」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言いそえた。「そのとおりにするがいいよ。わたしだってそのほうが気楽だよ。見せかけを言ったり、嘘をついたりするのはきらいだよ。それよりすっかりほんとのことをぶちまけちゃったほうが、どのくらいいいかしれやしない……こうなったらピョートル・ペトローヴィチが怒ろうが怒るまいが、かまやしないよ!」
4
そのときしずかにドアが開いて、おずおずとあたりを見まわしながら、一人の娘が部屋へ入ってきた。一同はおどろきと好奇の目でそちらを見た。ラスコーリニコフははじめそれが誰かわからなかった。それはソーフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワだった。昨日彼ははじめて彼女を見たのだが、あんなときだったし、あんな環境だったし、それにあんな衣装を着ていたので、彼の記憶にやきつけられたのはぜんぜん別な顔だった。いまそこに立っているのはつましい、むしろみすぼらしいほどの服装の娘で、まだひじょうに若くて、ほとんど少女といっていいくらいで、物腰もひかえ目で品があり、明るいが、すこしおびえたような顔をしていた。着ているのはなんの飾りもないごく質素なふだん着で、頭には古い流行おくれの帽子をかぶっていた。昨日と同じといえば、パラソルをもっていることだけだった。思いがけなく部屋いっぱいの人たちを見て、彼女は当惑したというよりは、すっかりおろおろしてしまって、小さな子供のようにおじけづき、引き返しそうな素振りさえ見せた。
「ああ……あなたでしたか?……」とラスコーリニコフはすっかりびっくりしてしまって、こう言うと、とたんに自分もそわそわしだした。
彼はすぐに、母と妹がもうルージンの手紙によって《醜業を職とする》ある娘のことをいくらか知っていることを、思いうかべた。たったいま彼がルージンの中傷を非難し、その娘を見たのは昨日がはじめてだと言ったばかりなのに、突然その娘が部屋へ入ってきたのである。彼はまた、《醜業を職とする》という言い方に対してなんとも抗議していなかったことを思いだした。こうしたことがぼんやりちらと彼の頭をかすめた。しかし、よく注意して見ると、彼は不意に、この辱しめられた存在があまりにも苛酷なまでにしいたげられていることに気づいて、急にかわいそうになった。そして娘がおびえて逃げだしそうな素振りを見せたとき、──彼は自分の内部で何かがひっくりかえったような気がした。
「あなたがいらっしゃるとはまったく思いがけませんでした」と彼は目で彼女をひきとめながら、急いで言った。「どうぞおかけください。きっと、カテリーナ・イワーノヴナの使いでいらしたのでしょう。どうぞ、こちら、じゃなく、そこへおかけください……」
ラズミーヒンはラスコーリニコフの三つしかない椅子の一つにかけて、ドアのすぐそばにいたが、ソーニャが入って来ると同時に、彼女を通すために立ちあがっていた。はじめラスコーリニコフはゾシーモフがかけていたソファの端に彼女を通そうとしたが、そのソファはベッド代りにもしているので、あまりにも内輪すぎる場所だと気がついて、あわててラズミーヒンがかけていた椅子をしめした。
「きみはこっちへかけてくれたまえ」と彼はラズミーヒンに言って、ゾシーモフのあとへかけさせた。
ソーニャはおびえきって、いまにもふるえだしそうな様子で腰をおろすと、おずおずと二人の婦人に目をやった。どうしてこのような婦人たちといっしょに坐るなどということができたのか、彼女は自分でもわからないらしかった。それに思いあたると、彼女はすっかりおびえてしまって、急にまた立ちあがり、おろおろしながらラスコーリニコフに言った。
「わたし……わたし……ちょっとお伺いしただけですの、おさわがせしまして、申しわけありません」と彼女はしどろもどろに言いだした。「わたし、カテリーナ・イワーノヴナの使いで、ほかに誰もいなかったものですから……カテリーナ・イワーノヴナがあなたさまに明日のお葬式にぜひおいでねがいたいとのことでございました。朝の……礼拝式に……ミトロファニイ教会でございますから、それから家で……一口召し上がっていただけたら……光栄に存じますと……おねがいするよう言われてまいりました」
ソーニャは口ごもって、黙りこんだ。
「ぜひお伺いするようにします……ぜひ」とラスコーリニコフも立ちあがって、やはり口ごもりながら答えたが、しまいまで言いきらなかった……「どうぞ、おかけください」と彼は不意に言った。「あなたと話したいことがあるんです。どうぞ、──お急ぎでしょうから、──すみませんが、二分だけぼくにください……」
そう言って彼はソーニャのほうへ椅子をおしやった。ソーニャはまた腰を下ろした。そしてまたおずおずと、困ったように、ちらと二人の婦人を見て、すぐに目を伏せた。
ラスコーリニコフの蒼白い顔がさっと赤くなった。身体中が急にひきつったようになり、目がぎらぎらともえだした。
「お母さん」と彼はしっかりと、おしかぶせるように言った。「この方がソーフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワです、昨日ぼくの目のまえで馬車にひかれた気の毒なマルメラードフ氏の娘さんです。事故のことはもうあなた方に話しましたね……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはソーニャをじっと見て、わずかに目をそばめた。彼女はロージャの執拗ないどみかかるような視線に射られて、すっかりどぎまぎしていたが、それでも相手を見くだすこの満足をすてることは、どうしてもできなかった。ドゥーネチカは真剣に、注意深く哀れな娘の顔に視線をあてて、不審そうに彼女を観察していた。ソーニャは、自分が紹介されたのを聞いて、またちょっと目をあげたが、まえよりもいっそうどぎまぎしてしまった。
「あなたにお聞きしたかったのですが」とラスコーリニコフは急いで彼女に言った。「今日はお宅はどんな様子でした。もうすっかり片づきましたか? わずらわしいことはありませんでしたか?……例えば、警察がくるとか」
「いいえ、もうすっかりすみました……だって死因は、明らかすぎるほどですし。うるさいことはありませんでした。ただ住んでいる人たちがさわぎ立てて」
「なぜです?」
「死体をいつまでもおいとくって……なにしろこの暑さでしょ、においが……それで今日、晩の礼拝式の頃までに、墓地へ運んで、明日まで、小礼拝堂に安置しておくことにしましたの。カテリーナ・イワーノヴナははじめいやがりましたが、いまでは自分でも、おいとけないことが、わかったものですから……」
「じゃ今日ですか?」
「母は明日の教会のお葬式においでくださるようにと申しております、それから家においでいただいて、形ばかりの法事をしたいからと」
「法事をするんですか?」
「ええ、ほんの形ばかりですけど。母は、昨日あなたさまにお助けいただいて、くれぐれもお礼を申しあげるようにとのことでした……あなたさまのお助けがなかったら、それこそお葬式も出せなかったでしょう」
そう言うと、彼女の唇と下顎が急にふるえだした、が、彼女はいそいで目をおとして、じっとおしこらえた。
話のあいだラスコーリニコフはじっと彼女を観察していた。それは痩せた、ほんとに痩せた蒼白い小さな顔で、輪郭がかなり不正確で、小さな鼻も顎もとがっていて、ぜんたいにとがった感じだった。美人とはとても言えなかったが、その代り青い目が明るく澄んでいて、それが生き生きとかがやくと、顔の表情がびっくりするほど素直で無邪気になり、思わず見とれてしまうほどだった。その顔ばかりでなく、姿ぜんたいに、そのほかもうひとつの特徴があった。それは十八歳というのに、としよりもはるかに若く、まだ少女のように見えることだった。まったく子供子供していて、それがどうかすると彼女の動作の中にあらわれて、むしろ滑稽なくらいだった。
「でもカテリーナ・イワーノヴナはあんなわずかばかりの金でいろいろまかなったうえに、ごちそうまで用意するなんて、そんなことができるんですか?……」ラスコーリニコフは無理に話をきらすまいとしながら、尋ねた。
「寝棺は質素なものにしますし……それに何もかもつましくしますものですから、そんなにかからないのです……わたしさっきカテリーナ・イワーノヴナとすっかり計算しましたら、法事をするお金がのこります……カテリーナ・イワーノヴナはどうしてもそうしたいと申しております。いけないとは言えませんもの……母にはそれが慰めなのです……あなたもご存じと思いますが、母はああいう気性ですから……」
「わかりますよ、わかりますよ……そりゃそうでしょう……どうしてあなたはそんなにぼくの部屋を見まわすんです? 母も言うんですよ、墓穴に似てるなんて」
「あなたは昨日わたしたちにすっかりくださいましたのね!」それには答えないで、ソーネチカは不意にしっかりした早口でこう呟くと、すぐにまた深々とうなだれた。唇と顎がまたふるえだした。彼女はもう先ほどからラスコーリニコフの貧しい暮しぶりに強くうたれていたが、いまこの言葉が突然ひとりでに出てしまったのである。沈黙がつづいた。ドゥーネチカの目がなぜか晴れやかになり、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはやさしい笑みをさえうかべてソーニャを見つめた。
「ロージャ」と彼女は腰をあげながら言った。「わたしたちは、むろん、いっしょに食事をするでしょうね。ドゥーネチカ、まいりましょう……ロージャ、おまえはちょっと散歩をしてから、横になってすこし休んだほうがいいよ、それから、なるべく早目においでね……なんだかおまえを疲れさせたようで、心配だから……」
「はい、はい、行きますとも」と彼は立ちあがりながら、あわてて答えた……「でも、ぼく用事が……」
「じゃいったいきみたちは別々に食事をするというのかい?」とおどろいてラスコーリニコフを見ながら、ラズミーヒンが叫んだ。「きみは何を言うんだ?」
「うん、うん、行くよ、むろん行くさ、きまってるじゃないか……で、きみちょっとのこってくれ。母さん、もうこいつがいなくてもいいでしょうね? それとも、ぼくがこいつを掠奪することになるかな?」
「おやまあ、いいんだよ、とんでもないよ! それじゃ、ドミートリイ・プロコーフィチ、食事に来てくれますわね、おねがいしますよ?」
「どうぞ、いらしてくださいね」とドゥーニャも頼んだ。
ラズミーヒンはすっかり晴れやかな顔になって、おじぎをした。ちょっとの間、一同はどうしたわけか妙に気づまりになった。
「さようなら、ロージャ、いや、またあとで、だったわね。わたし《さようなら》って言葉きらいなんだよ。さようなら、ナスターシヤ……あら、また《さようなら》を言っちゃったよ!……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはソーネチカにも会釈しようと思ったが、なんとなくしそびれて、急いで部屋を出て行った。
しかしアヴドーチヤ・ロマーノヴナは自分の番を待っていたように、母のあとについてソーニャのそばを通るとき、腰を深くかがめてていねいに会釈をした。ソーネチカはどぎまぎして、そそくさとおびえたように会釈をかえしたが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにしめされたいんぎんな態度がかえって気づまりで心苦しく感じられたらしく、彼女の顔には苦痛といえるような表情さえあらわれた。
「ドゥーニャ、さようなら!」とラスコーリニコフはもう控室へ出てから叫んだ。「おい手をくれよ!」
「あら、もう握手したじゃないの、忘れたの?」とドゥーニャはやさしく、きまりわるげに彼のほうを向きながら、答えた。
「いいじゃないか、もう一度くれよ!」
そして彼はかたく妹の指をにぎりしめた。ドゥーネチカはにこっと彼に笑顔を見せると、不意に顔を赤らめて、いそいで手をふりほどき、母のあとからでて行った。彼女もどういうわけか身体中に幸福がみなぎっていた。
「さあ、これでよしと、素敵ですねえ!」と彼は部屋へもどると、晴ればれした顔でソーニャを見つめて、言った。「主よ、死者には安らぎを、生者にはさらに生をあたえたまえ! そうじゃありませんか! そうじゃありませんか! そうですね?」
ソーニャはおどろきの色さえうかべて、急に晴れやかになった彼の顔を見つめた。彼はしばらくの間黙って、しげしげと彼女の顔を見まもっていた。亡くなった彼女の父が語った彼女についての話が、そのとき不意に彼の記憶によみがえったのである……
「やれやれ、ドゥーネチカ!」と通りへ出るとすぐに、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言った。「でてきて、ほんとによかったような気がするよ。なんだか気が楽になったみたいで。まったくねえ、わたしは昨日汽車の中で、こんなことまで喜ぼうとは、ゆめにも思わなかったよ!」
「何度も言うようですけど、お母さん、兄さんはまだひどくわるいのよ。お母さんにはそれがわからないの? もしかしたら、わたしたちのことで苦しんで、身体をこわしたのかもしれないわ。あたたかい気持で見てあげて、たいていのことは許してあげることだわ」
「だっておまえ、あたたかい気持で見てあげなかったじゃないの!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすぐにかっとなって、真剣にやりかえした。「ねえ、ドゥーニャ、わたしはおまえたち二人を見ていたんだけど、ほんとにそっくりだよ、顔だけじゃなく、気持まで。二人ともふさぎの虫で、気むずかしくて、怒りっぽくて、自尊心がつよくて、そのくせ心がおおらかで……あの子がエゴイストだなんて、そんなはずがないじゃないの。ねえドゥーネチカ? そうだろう?……でも、今夜どんなことになるかと思うと、ほんとに胸のつぶれる思いだよ!」
「心配しなくてもいいわよ、お母さん、なるようにしかならないんだから」
「ドゥーネチカ! だっておまえ、わたしたちがどんな立場におかれているか、考えてごらんよ! ピョートル・ペトローヴィチにことわられたら、どうなると思うの?」と哀れなプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わずうっかり口をすべらしてしまった。
「それだったら、あのひとの人間はゼロよ!」とドゥーネチカはきっぱりと、さげすむように答えた。
「わたしたちはいまでてきて、ほんとによかったよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、あわてて話をもどした。「あの子はどこかへ急ぎの用事があるらしかったからねえ。すこし歩いて、冷たい風にあたればいいんだよ……あの部屋はまるで蒸し風呂みたいだよ……だけどここは、どこへ行ったらおいしい空気が吸えるんだろう? 通りだって、まるで引き窓のない部屋の中みたいだよ。やれやれ、なんて町だろう!……おや、そっちへおより、おしつぶされるよ、何か運んでくる! おや、ピアノだよ、まあまあ……あっちこっちへぶっつけて……あの娘のこともわたしは心配でならないんだよ……」
「どの娘、お母さん?」
「ほらあの、ソーフィヤ・セミョーノヴナとかいう、いましがた見えた……」
「何が心配なの?」
「わたしは予感がするんだよ、ドゥーニャ。まあ、おまえはどう思うかしらないけど、あの娘が入ってくるとすぐに、わたしはぴんときたんだよ、ここにこそ本当の原因があるって……」
「そんなものぜんぜんありゃしないわ!」とドゥーニャはむっとして大きな声をだした。「ほんとに、お母さんのその予感とやらもこまりものだわ! 兄さんは昨日会ったばかりで、いまも、入ってきたとき、気がつかなかったじゃないの」
「まあ、いまにわかるよ!……あの娘を見たときわたしは胸さわぎがしたんだよ、まあ見てなさい、いまにわかるから! わたしはすっかりびっくりしてしまったんだよ、わたしを見つめるあの娘の目の、真剣なことったら、わたしは椅子にじっと坐っていられないほどだったよ、ほら、ロージャが紹介をはじめたときさ? わたしはへんな気がしたよ、だってピョートル・ペトローヴィチがあんなことを書いてきたろう、その娘をロージャがわたしに紹介するんだものねえ、それにおまえにまで! つまり、あの子にはだいじなひとなんだよ!」
「あのひとは何を書くかわかりゃしないわ! わたしたちのことだってずいぶんなことをしゃべったり、書いたりしたじゃないの、忘れたの? わたしは信じているわ、あの娘さんは……心の美しいひとで、あんなことはみんな──でたらめだわ!」
「そうならいいがねえ!」
「ピョートル・ペトローヴィチなんて、しようのないかげ口やよ」とドゥーネチカは不意にたたきつけるように言った。
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはあわてて口をつぐんだ。話がとぎれた。
「ちょっと、きみに頼みがあるんだが……」とラスコーリニコフはラズミーヒンを窓際へつれて行きながら、言った。
「じゃわたし、あなたにいらしていただけるって、カテリーナ・イワーノヴナにつたえますわ……」とソーニャは帰ろうとして、小腰をかがめながら、急いで言った。
「ちょっと待って、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、ぼくたちには何も秘密なんてありませんから、そこにいていただいてかまいません……もう二言ばかり話したいことがありますから……ほかでもないが」と彼は言いおわらないうちに、まるで話をたちきってしまったように、突然ラズミーヒンに言った。「きみはあの男を知ってるだろう……ほら、なんといったかな!……ポルフィーリイ・ペトローヴィチよ?」
「知ってるさ! 親類だよ。それで?」と彼は急に好奇心がわいて、うながした。
「で、彼はいまあの問題を……そら、例の殺人事件さ……昨日きみが言ったろう……あれを担当してるって?」
「そうだよ……それで?」ラズミーヒンは急に目をみはった。
「彼は質入れをしていた連中をしらべたそうだが、ぼくもあずけてあるんだよ。なに、つまらんものだが、それでもぼくがここへ出てくるとき妹が記念にくれた指輪と、父の銀時計なんだ。せいぜい五、六ルーブリの品だが、ぼくにはだいじなものだよ、かたみだからな。で、ぼくはどうしたらいいんだ? 品物はなくしたくない、特に時計は。ぼくはさっき、ドゥーネチカの時計の話がでたとき、母がぼくのを見たいなんて言いだしゃしないかと、ひやひやしたよ。父の死後そっくりのこっているのは、これだけなんだ。これがなくなったら、母は病気になってしまうよ! 女だからな! そこで、いったいどうしたらいいんだい! 署にとどけ出にゃならんことは、知ってるよ。だが、ポルフィーリイに直接言ったほうがいいんじゃないか、え? きみはどう思う? なんとか早くかたをつけたいんだよ。きっと、食事まえに母が聞くぜ!」
「署なんかぜったいだめさ、どうしてもポルフィーリイに頼むんだ!」とラズミーヒンはどういうわけかいつになく興奮して叫んだ。「いや、実に愉快だ! ぐずぐずしてることはない、すぐ行こう、すぐそこだよ、きっといるよ!」
「そうだな……行ってみようか……」
「きみと知り合いになれたら、彼はもうそれこそ、とびあがって喜ぶぞ! ぼくは彼にきみのことをずいぶんいろいろ話したんだよ、機会あるごとにさ……昨日も話したよ。さあ行こう!……じゃきみはあの老婆を知ってたのか? そうかい!……これでまんまとすっかりひっくりかえったぞ!……あッそうそう……ソーフィヤ・イワーノヴナ……」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナだよ」とラスコーリニコフは訂正した。「ソーフィヤ・セミョーノヴナ、これはぼくの友人、ラズミーヒン君です、いい男です……」
「もしあなた方がこれからお出かけになるんでしたら……」とソーニャはラズミーヒンのほうをぜんぜん見ないで、そのためにいっそうどぎまぎして、言いかけた。
「じゃ、いっしょに出ましょう!」とラスコーリニコフはきめた。「ぼくは今日にもお宅へよります、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、失礼ですが、どちらにお住まいかだけ、おしえてくださいませんか?」
彼はとりみだしたというのではないが、気がせいたらしく、彼女の視線をさけるようにした。ソーニャは自分のアドレスをわたすと、とたんに顔を赤らめた。三人はそろって部屋をでた。
「おい、鍵はかけないのかい?」とラズミーヒンは二人のあとから階段を下りながら、尋ねた。
「かけたことなんかないよ!……とはいっても、この二年ずっと鍵を買おうと思いつづけているんだがね」と彼は何気なくつけ加えた。
「鍵をかけるものが何もない人間なんて、幸福ですね?」と彼は笑いながら、ソーニャに言った。
通りへ出る門のところで立ちどまった。
「あなたは右ですね、ソーフィヤ・セミョーノヴナ? して、あなたはどうしてぼくの住居がわかりました?」と彼は何かぜんぜん別なことを言いたいらしく、彼女に尋ねた。彼はさっきから彼女のおだやかな明るい目をのぞきこみたくてたまらなかったが、どういうものかそれがうまくできなかった……
「だって、あなたが昨日ポーレチカにおしえてくれたでしょう」
「ポーリャ? ああそうでしたっけ……ポーレチカねえ! あの……ちっちゃな……あれはあなたの妹さんですね? じゃぼくはあの子にアドレスをおしえたのかな?」
「まあ、お忘れになったの?」
「いいえ……思いだしました……」
「わたしはあなたのこともうまえに亡くなった父から聞いておりました……ただそのころはまだお名前を存じませんでした、父も知らなかったのです……それで今日まいりましたのは……昨日お名前がわかったものですから……ラスコーリニコフさんのお住居はどちらでしょうかって、聞きまして……でも、あなたも間借りなすっておいでとは、思いませんでした……では失礼いたします……わたしカテリーナ・イワーノヴナのところへまいりますから……」
彼女はやっと別れることができたのが、うれしくてならなかった。彼女は早く二人の目からかくれるために、目を伏せて、急ぎあしに歩いた。なんとか早く二十歩ほど先の曲り角まで行きついて、右へ折れ、ようやく一人になって、そこで急いで歩きながら、誰にも何にも目を向けずに、いま言われたひとつひとつの言葉、ひとつひとつの事情を、考えたり、思いだしたり、思いあわせてみたりしたかった。これまでに一度も、彼女はこのようなものを感じたことがなかった。大きな新しい世界がいつのまにかぼんやりと彼女の心へ入ってきたのである。彼女はふと、ラスコーリニコフが彼女の住居を訪ねると言ったことを思いだした。《朝のうちに来るかもしれない。もうじき来るのじゃないかしら!》
「今日だけはいらしてくださらないように、どうか今日でないように!」彼女は誰かに哀願するように、おびえた子供のように、胸の凍る思いで呟いた。「ああ! わたしんとこへ……あの部屋へ……見られてしまう……おお、どうしよう!」
それでむろん、彼女はそのとき、しつこく彼女の様子をうかがいながらあとをつけてくる一人の見知らぬ男がいることに、気づくはずがなかった。その男は彼女が門を出たときからつけてきたのである。ラズミーヒンとラスコーリニコフと彼女の三人が、歩道に立ちどまって別れしなの言葉をかわしていたちょうどそのとき、通りかかったこの男は、《ラスコーリニコフさんのお住居はどちらでしょうかって、聞きまして》というソーニャの言葉をふと小耳にはさんで、ぎくッとした様子だった。彼はすばやいが注意深い目で、三人を、特にソーニャと向きあっていたラスコーリニコフを観察した。それから建物を見て、それを頭に入れた。それは一瞬の間の、歩きながらのことだった。それからその男はそんな素振りを見せないようにつとめながら、行きすぎると、歩度をゆるめて、近づくのを待っているふうだった。彼はソーニャを待っていた。彼は三人が別れて、ソーニャがこちらのほうへもどるらしいのを見てとったのだった。
《さて、どこへもどって行くかな? どこかで見た顔だが》彼はソーニャの顔を思いだそうとしながら、考えた……《つきとめてやろう?》
曲り角まで来ると、彼は通りの向う側へうつって、振り向くと、同じ通りを何も気づかずにこちらへやってくるソーニャの姿が見えた。曲り角まで来ると、いいぐあいに彼女も同じ通りへ折れた。彼は反対側の歩道から彼女を観察しながら、あとをつけはじめた。五十歩ほど行くと、またソーニャのほうの側へうつって、距離をつめ、五歩ばかりの間隔をたもって、あとをついて行った。
それは五十がらみの男で、背丈は中背よりやや高く、でっぷりふとって、広い背がいかっているために、いくぶん猫背に見えた。しゃれた服をゆったり着こなしていて、堂々たる紳士という風采である。手にはみごとなステッキをにぎっていて、歩道を一歩あるくごとにコトコト鳴らし、その手は真新しい手袋につつまれていた。頬骨のはった大きな顔はかなり感じがよく、顔色はつやつやして、ペテルブルグの人間らしくなかった。頭髪はまだひじょうに濃く、きれいな薄亜麻色で、ほんのわずか白いものがまじっていた。スコップのようにはば広く垂れた濃い顎髭は、頭髪よりもひときわ明るかった。空色のひとみは冷たく、鋭く、そして深く、唇は真っ赤だった。どうみてもこれはすこしも老いを感じさせない男で、年齢よりもはるかに若く見えた。
ソーニャが運河ぞいの通りにでたとき、歩道には彼ら二人きりになった。彼は彼女を観察しながら、彼女がぼんやりもの思いにしずんでいるのに気がついた。ソーニャは自分の住居のある建物まで来ると、門の中へ折れた。彼はそのあとにつづきながら、いくらかおどろいた様子だった。庭へ入ると、彼女は右へ折れて、いちばんすみの入り口のほうへ歩いて行った。そこが彼女の部屋へ通じる階段ののぼり口だった。《おや!》と見知らぬ紳士は呟いて、彼女のあとから階段をのぼりはじめた。そこではじめてソーニャはその男に気がついた。彼女は三階までくると、廊下へ出て、ドアにチョークで《カペルナウモフ洋裁店》と書いてある九号室の呼鈴を鳴らした。《おや!》と見知らぬ男は、不思議な符合におどろきながら、もう一度くりかえすと、となりの八号室の呼鈴を鳴らした。二つのドアは六歩ほどしかはなれていなかった。
「あなたはカペルナウモフのところにお住まいかね!」と彼はソーニャを見て、笑いながら言った。「わたしは昨日ここでチョッキを直してもらいましたよ。わたしはとなりのマダム・レスリッヒ、ゲルトルーダ・カルローヴナのところに間借りしてるんですよ。いや、おどろきましたなあ!」
ソーニャは注意深くその男を見つめた。
「となり同士ですな」と彼はどういうものか特別たのしそうにつづけた。「わたしはペテルブルグへ来てまだ三日目ですよ。じゃ、また」
ソーニャは返事しなかった。ドアが開いて、彼女は自分の部屋へはしりこんだ。なぜか恥ずかしかったし、それにすっかりおじけていたようだ……
ラズミーヒンはポルフィーリイを訪れる途々、いつになく興奮していた。
「きみ、実にすてきだよ」と彼は何度かくりかえした。「ぼくはうれしいよ! うれしいんだよ!」
《いったい何がうれしいんだ?》とラスコーリニコフは腹の中で考えた。
「きみもあの婆さんのところへ質草をもってってたなんて、ぼくはまったく知らなかったよ。それで……それで……もうまえまえからか? つまりきみが婆さんのところへ行ったのはもう大分まえかい?」
《まったく、なんて無邪気な馬鹿だ!》
「いつって?」ラスコーリニコフは思いだそうとして、ちょっと足をとめた。「そう、たしかあの事件の三日ほどまえだったよ。でも、ぼくはいま請け出しに行くんじゃないぜ」と彼はなぜかあわてて、品物のことがいかにも気がかりらしく、言った。「だってぼくはまたもとのもくあみ、一ルーブリ銀貨一枚しかないんだよ……昨日のいまいましい夢遊病のおかげでさ!……」
夢遊病という言葉を彼は特に意味ありげに言った。
「うん、そうだ、そうだ、そうだ」とラズミーヒンはあわてて、何がそうなのかわからずに相槌を打った。「なるほど、それでわかったよきみがあのとき……ショックを受けたわけが……知ってるかい、きみはうわごとにまで指輪とか鎖とか、しきりに言ってたんだぜ!……うん、そうだったのか、なるほどねえ……それでわかったよ、やっとすっかりわかったよ」
《そうか! やっぱりやつらの頭にはあれがひっかかっていたんだな! 現にこの男なんかおれのためならはりつけもいとわないくせに、それでもやはり、おれが指輪のうわごとを言ったわけが、わかったと、こんなに喜んでるじゃないか! してみるとたしかに、やつらはみなそう思いこんでいたんだ!……》
「だが、いまいるだろうか?」と彼は声にだして言った。
「いるよ、きっといるよ」とラズミーヒンはあわてて答えた。「きみ、会えばわかるけど、いい男だぜ! すこしごついが、といって人間はねれているんだぜ、ごついというのは別な意味でだよ。利口な男だよ、頭のいいことは無類だが、ただものの考え方に独特のくせがある……疑り深いんだな、懐疑論者で、毒舌家で……人を欺すのが好きで、いや欺すというんじゃない、からかうのが好きなんだよ……なあに、古くさい実証的方法さ……だがしごとはよくできるよ、たいした腕だ……去年ある事件を、やはり証拠が何もない殺しだがね、みごとに解決したよ! とにかく、ひどく、ひどく、きみに会いたがってるよ!」
「でも、ひどく会いたがってるというのは、どうしてだろうね?」
「といって、別にその……実は、最近、きみがあんな病気をしたろう、それでぼくはしぜんきみのことをいろいろと話題にしたわけだ……それで、彼も聞いたわけさ……そして、きみが法科の学生で、いろんな事情で卒業ができないでいることを知ると、《実に気の毒なことだ!》なんて言ってたぜ。そこでぼくはこう思うんだよ……つまりこうしたことがみないっしょになったからさ、あれだけってことはないよ。昨日ザミョートフが……ねえ、ロージャ、ぼくは昨日きみを家へ送って行く途中、酔いにまかせて何やらくだらんことをごちゃごちゃしゃべったろう……それでぼくは、きみがそれを大げさに考えてやしないかと……」
「それってなんだい? ぼくが気ちがいと思われてるってことか? なに、それが本当かもしれんさ」
彼は無理に笑った。
「そうだよ……そうだよ……チエッ、何言ってんだ、そんなことじゃないよ!……つまり、ぼくがしゃべったことは、あのとき言ったほかのこともひっくるめてだ、ぜんぶでたらめだよ、酔ってたんだ」
「何を言いわけしてるんだ! そんなことはもう聞きあきたよ!」とラスコーリニコフは大げさにいらいらして叫んだ。しかし、それはいくぶん見せかけもあった。
「知ってるよ、知ってるよ、わかってるよ。信じてくれよ、よくわかってるんだよ。口にするのさえ恥ずかしい……」
「恥ずかしいなら、言うなよ!」
二人は黙りこんだ。ラズミーヒンは有頂天などという状態をこえていた。そしてラスコーリニコフは苦々しい気持でそれを感じていた。ラズミーヒンがいまポルフィーリイについて言ったことも、彼を不安にした。
《こいつにも哀れっぽいことを言わにゃならんな》と彼は蒼ざめて、胸をどきどきさせながら考えた。《しかも、なるたけ自然に。いちばん自然なのは何も言わないことだ。つとめて何も言うまい! いや待てよ、つとめてということはまた不自然になる……まあいいや、どういうことになるか……成り行きを見るとしよう……いまにわかることだ……ところで、おれが行くということは、いいことか、わるいことか? とんで火に入る夏の虫ってやつかな。胸がどきどきする。これがどうもおもしろくない!……》
「あの灰色の建物だよ」とラズミーヒンが言った。
《もっとも重要なのは、おれが昨日あの婆ぁの部屋へ行って……血のことを聞いたのを、ポルフィーリイが知ってるかどうかということだ。まっさきにこれを知ることだ。部屋へ入ったら、とっさに、顔色でこれを読むのだ。さもないと……どんなことがあっても、これはさぐるぞ!》
「おい、きみ」ととつぜん彼はずるそうなうす笑いをうかべながら、ラズミーヒンを見た。「きみは今日は朝から何かこうむやみに興奮してるようだな? そうじゃないか?」
「興奮て何さ? おれは別にちっとも興奮なんかしてないぜ」ラズミーヒンはぎくっとした。
「嘘いうなよ、きみ、まったく、すぐにわかったぜ。さっき椅子に坐っていたときだって、はしっこにちょこんとかけて、きみのあんな格好見たことないぜ、それにたえずがくがくふるえてさ。わけもなくいきなり立ちあがったり。いま怒っていたかと思うと、急にどういうわけかとろけそうな顔になったり。おまけに赤くなったりしてさ。特に食事によばれたときなんぞ、びっくりするほど真っ赤だったぜ」
「そんなことあるもんか、嘘だよ!……それはなんの話だい?」
「まったく、まるで小学生みたいにそわそわしてたぜ! へえ、おい、また赤くなったじゃないか!」
「しかし、きみはなんていやなやつだ!」
「おい、何をむきになってんだい? ロメオ! よし、今日これをどっかですっぱぬいてやろう、は、は、は! そうだ、母を笑わしてやろう……それから誰かも……」
「おい、おい、おいったら、これはまじめなことなんだぜ、これはきみ……そんなことをしたらどうなると思う、いいかげんにしろよ!」ラズミーヒンは背筋がぞくぞくして、すっかりしどろもどろになってしまった。「きみはあのひとたちに何を話すんだ? ぼくは、きみ……チエッ、この豚ちくしょう!」
「まさに春のバラか! またよくきみに似合うぜ、きみに見せてやりたいよ、寸づまりのロメオってとこだ! 今日はまたやけにこすりたてたじゃないか、爪はみがいたかい、え? きみがねえ、おどろいたよ! それに、へえ、ポマードを塗ってるじゃないか! どれ、頭をまげてみろよ!」
「豚ちくしょう! ! !」
ラスコーリニコフはあまりにも笑ったので、おさえがきかなくなったと見えて、そのまま笑いながらポルフィーリイの住居へ入った。それがラスコーリニコフのねらいだった。二人が笑いながら玄関を入り、控室でもまだ笑っているのを、中にいる者に聞かせたかったのである。
「ここで一言でも言ってみろ、頭を……たたきわるぞ!」とラズミーヒンはラスコーリニコフの肩をつかんで、怒りにふるえながら、声をおし殺してすごんだ。
5
すごまれたほうはもう部屋に入りかけていた。彼はなんとかしてふきだすまいと、精いっぱいこらえている様子で、部屋へ入った。そのあとから、それとはまるで逆にいまにもかみつきそうな顔つきのラズミーヒンが、しゃくやくのように真っ赤になって、ひょろ長い身体をぎくしゃくさせて、きまりわるそうに入ってきた。その顔つきも格好も実際にふきだしたくなるほどで、ラスコーリニコフの笑いも無理はないと思われた。ラスコーリニコフはまだ紹介されなかったが、部屋の中ほどに突っ立って、いぶかしそうな目でこちらを見ている主人に、会釈をして、手をさしのべ握手をすると、まだふきだしたくなるのをやっとこらえているという顔で、せめて二言三言、自己紹介をするために口を開こうとした。ところが、やっとまじめな顔になって、何やら言いだしかけたとたんに──不意に、偶然らしく、ちらとまたラズミーヒンへ目をやった、すると、今度こそはもうがまんができなかった。おさえつけられていた笑いが、それまでのがまんが強かっただけに、もうどうにもならぬ勢いで爆発した。この《腹の底からの》笑いにかっとなったラズミーヒンの異常な激怒は、その場の雰囲気にまったくいつわりのない愉快さと、何よりも自然らしさをそえた。ラズミーヒンは、まるでおあつらえむきに、さらにことの運びを助けたのだった。
「チエッ、こいつめ!」とわめいて、片手をふりまわすと、その手がまたからの茶わんがのっている小さな円テーブルに当ったからたまらない。テーブルごとすっかりけしとんで、ものすごい音をたてた。
「いったいどうして椅子をこわすんです、みなさん、国庫の損失になるじゃありませんか!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはおもしろがって、ゴーゴリの《検察官》の中の台詞を叫んだ。
その場の情景はこんなぐあいであった。ラスコーリニコフは主人と握手していることを忘れて、不躾に笑いすぎたが、程度を知って、なるべく早くしかも自然にその場をつくろう機会をねらっていた。ラズミーヒンはテーブルを倒し、茶わんをこわしたので、すっかりうろたえてしまって、うらめしそうに茶わんのかけらをにらんで、ペッと唾をはくと、くるりと窓のほうを向いて、みなに背を向けて突っ立ったまま、おそろしいしかめ面で窓の外をにらんでいたが、何も見てはいなかった。ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑っていたが、笑いたい気持とはべつに、いかにもわけをききたそうな様子だった。隅の椅子にはザミョートフが坐っていたが、客が入ってくると同時に腰をあげ、そのまま口をゆるめて笑顔をつくりながら待っていたが、しかし不審そうな、信じられないというような顔でその場の成り行きをながめていた。特にラスコーリニコフを見る目には狼狽のような色さえあった。思いがけぬザミョートフがそこにいたことは、ラスコーリニコフに不快なおどろきをあたえた。
《これも考えに入れにゃいかんぞ!》と彼は考えた。
「どうぞ、お許しください」と無理にどぎまぎして、彼は言った。「ラスコーリニコフです……」
「どういたしまして、ひじょうに愉快です、それにあなた方がこんなふうに入ってらしたことは、実に愉快です……どうでしょう、あれはあいさつもしたくないのかな?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはラズミーヒンに顎をしゃくった。
「ほんとに、どうしてあんなにぼくを怒ってるのか、わからないんですよ。ぼくはここへ来る途中、彼にロメオに似ていると言っただけなんです、そして……それを証明してやったんですが、ただそれだけだったと思うんですがねえ」
「豚ちくしょう!」とラズミーヒンは、振り向きもせずに、うめいた。
「つまり、一言でこれほど怒るところを見ると、ひじょうに深刻な理由があったわけですな」とポルフィーリイは大声で笑った。
「なに、こいつ! 予審判事ぶりやがって!……チエッ、どいつもこいつも勝手にしやがれ!」とラズミーヒンはたたきつけるように言うと、急に自分も笑いだし、晴れやかな顔になって、何ごともなかったようにポルフィーリイ・ペトローヴィチのそばへ歩みよった。
「これでおしまい! みんな阿呆だよ。用件にうつろう。この友人、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、第一にきみのことをいろいろ聞いて、知り合いになることを望んだ、第二に、きみにちょっとした用件がある。おや! ザミョートフじゃないか! どうしてここにいるんだい? きみたちは知り合いかい? へえ、いつから?」
《これはまたどういうことだ!》とラスコーリニコフは不安そうに考えた。
ザミョートフはちょっとまごついたらしいが、うろたえるほどでもなかった。
「昨日きみのところで知り合ったんだよ」と彼はいやになれなれしく言った。
「つまり、うまいこと酒代を出さずにすんだってわけか。おい、ポルフィーリイ、先週こいつはなんとかきみを紹介してくれって、うるさくぼくに頼みこんでいたんだぜ。ところがきみたちは、ぼくをそっちのけにして、まんまと嗅ぎあったってわけだ……ところで、煙草はどこだい?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはさっぱりしたシャツの上にガウンというくつろいだ姿で、はき古したスリッパをつっかけていた。年齢は三十五・六で、背丈は中背よりやや低く、でっぷりふとったうえに腹までつきだしており、きれいに剃った顔には口髭も頬髭もなく、大きなまるい頭には髪が短く刈りあげられて、そのせいかうなじのあたりが特にまるくもりあがっていた。いくらかしし鼻気味で、ふっくりとまるい顔はどす黒く、不健康な色をしていたが、かなり元気そうで、人を小ばかにしたようなところもあった。まるで誰かに目配せでもしているように、たえずぱちぱちしている白っぽい睫毛のかげから、妙にうるんだ光をはなっている目の表情が邪魔しなかったら、お人よしにさえ見えたかもしれぬ。この目の光が、女性的なところさえある身体ぜんたいとなんとなくそぐわない感じで、ちょっと見たときに受ける感じよりも、はるかにきびしいものをその姿にあたえていた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、客がちょっとした《用件》があると聞くと、すぐにソファにかけるようにすすめて、自分も他のはしに坐って、じっと客の顔に目をすえて、もどかしそうに相手のきりだすのを待った。その態度は真剣そのもので、きびしすぎるほどの緊張が感じられ、はじめから相手の気持をかたくして、どぎまぎさせてしまうようなものだった。殊に初対面で、しかもきりだそうとする用件が自分でもこれほどの異常なまでにものものしい注意を向けられるには程遠いものだと思っている場合は、なおさらである。しかしラスコーリニコフは簡単だが要領のいい言葉で、明確に用件を説明した。そしてわれながら満足なほど落ち着いていて、かなりよくポルフィーリイを観察することすらできた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチもその間中一度も相手から目をはなさなかった。ラズミーヒンはテーブルをはさんで、二人のほうを向いて坐り、たえず二人を交互に見くらべながら、熱心にじりじりしながら用件の説明を聞いていたが、その態度はすこし度をこえていた。
《ばかめ!》とラスコーリニコフは腹の中でののしった。
「あなたは警察に届けを出すべきでしょうな」とポルフィーリイはいかにもそっけない事務的な態度で言った。「これこれの事件、つまりこの殺人事件を知って、ですな、あなたとしては、これこれの品はあなたのものであるから、それを買いもどしたい希望を、事件担当の予審判事に申し出た云々というようなことですな……あるいはまた……だがこれは警察で適当に書いてくれますよ」
「それなんですよ、ぼくは、いまのところ」ラスコーリニコフはできるだけ困惑したように見せかけようとつとめた。「ぜんぜん金がないものですから……こんなこまかいものも請け出せないしまつで……それで、いまはただ、その品がぼくのであることを、届けるだけにして、金のくめんがついたら……」
「それはどちらでもかまいません」と財政状態の説明を冷やかに受け流しながら、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは答えた。「もっとも、なんでしたら、わたしに直接書類を出していただいても結構です。これこれの事件を知り、これこれが自分の品であることを申告するとともに、つきましては……というような意味のですね……」
「それは普通の紙でいいんですか?」とラスコーリニコフはまた問題の金銭的な面を気にしながら、あわててさえぎった。
「なに、どんな紙でも結構ですよ!」そう言うとポルフィーリイ・ペトローヴィチは、どういうつもりかいかにも愚弄するように彼を見つめて、片目をほそめ、目配せしたようだった。しかし、それはラスコーリニコフにそう思われただけかもしれぬ。なぜなら、それはほんの一瞬のことだったからだ。しかし少なくともそう感じさせるものは何かあった。ラスコーリニコフは、何のためかは知らないが彼が目配せしたことを、はっきりと断言することができたはずである。
《知ってるな!》という考えが稲妻のように彼の頭にひらめいた。
「こんなつまらんことでわずらわして、申しわけありません」とややあわて気味に、彼はつづけた。「品物はせいぜい五ルーブリくらいのものですが、ぼくにそれをくれた人々のかたみですので、ぼくには特にだいじな品なのです。実をいいますと、それを知ったとき、ぼくはすっかりおどろいてしまって……」
「それでだよ、ぼくが昨日ゾシーモフに、ポルフィーリイが質入れした連中を喚問してるって話をしたとき、きみはぎくっとしたものな!」といかにも意味ありげに、ラズミーヒンは口を入れた。
これはもうがまんがならなかった。ラスコーリニコフは腹にすえかねて、怒りにもえた黒い目でじろりと彼をにらんだ。
「おい、きみはぼくをからかうつもりらしいな?」と彼はたくみにいまいましそうな態度をつくりながら、ラズミーヒンにつっかかった。「きみの目には、ぼくがこんなつまらん品に執着しすぎると映ったかもしれん、そうでないとは言わん、がしかしだ、そのためにぼくをエゴイストとも欲張りとも見なすことは許さん。ぼくの目から見れば、この二つの無価値な品が決してくだらんものではないのだ。さっきもきみに言ったが、この銀時計は、三文の値打ちもないが、父の死後のこされたたった一つの品なんだ。ぼくは笑われてもかまわんが、母がでてきた」彼は不意にポルフィーリイのほうを向いた。「そしてもし母が」彼はことさらに声をふるわせようと苦心しながら、また急いでラズミーヒンのほうへ向き直った。「この時計がなくなったことを知ったら、それこそ、どれほど落胆するか! 女だもの!」
「おい、ぜんぜんちがうよ! 決してそんな意味で言ったんじゃないよ! まるきり逆だよ!」とラズミーヒンはくやしそうに叫んだ。
《これでよかったかな? 自然らしく見えたろうか? すこしオーバーじゃなかったかな?》ラスコーリニコフは内心ひやひやした。《なんだって、女だもの、なんてつまらんことを言ったんだろう?》
「お母さんがでて来られたのですか?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはなんのためかこう聞いた。
「そうです」
「それはいつです?」
「昨日の夕方です」
ポルフィーリイは考えをまとめるように、しばらく黙っていた。
「あなたの品物はぜったいになくなるはずはなかったのです」と彼はしずかに、冷やかにつづけた。「だって、わたしはもう大分まえからあなたのおいでを待っていたのですよ」
そして彼は、何ごともなかったように、遠慮なくじゅうたんに煙草の灰をおとしているラズミーヒンのまえへ、まめまめしく灰皿をおしやった。ラスコーリニコフはぎくっとした、がポルフィーリイはまだラズミーヒンの煙草が気になるらしく、彼のほうは見もしなかったようだ。
「なんだって? 待っていた! じゃきみは、かれがあそこにあずけたのを、知ってたのか?」とラズミーヒンが叫んだ。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはまっすぐにラスコーリニコフの顔を見た。
「あなたの二つの品、指輪と時計は、一枚の紙につつんで彼女の部屋においてありました、そしてそのつつみ紙に鉛筆であなたの名前がはっきりと記してありました、彼女がそれをあなたからあずかった月と日もいっしょに……」
「ほう、あなたはよくそれをおぼえていましたねえ!……」ラスコーリニコフはことさらに相手の目をまともに見ようとつとめながら、ぎこちないうす笑いをもらしかけたが、こらえきれなくなって、急につけ加えた。「ぼくがいまこんなことを言ったのは、つまり、質をあずけていた連中はおそらくひじょうに多かったはずだ……だからその名前を全部おぼえるのは容易なことじゃない……ところがあなたは、それをすっかり実にあざやかに記憶している、それで……それで……」
《愚劣だ! 弱い! おれはなんだってこんなことをつけ加えたんだ?》
「ところが、いまはもうほとんどすべてのあずけ主がわかっているのです、出頭しなかったのはあなただけですよ」とポルフィーリイはそれかあらぬかかすかな愚弄のいろをうかべて、答えた。
「身体ぐあいがすっかりほんとじゃなかったものですから」
「それも聞いています。何かにひどく神経をみだされたってことも、聞きました。いまもどうやら顔色がよくないようですな?」
「顔色なんてぜんぜんわるくないですよ……とんでもない、完全に健康です!」とラスコーリニコフは突然口調を変えて、意地わるく乱暴にさえぎった。敵意が胸にもえたぎって、彼はそれをおさえつけることができなかった。
《かっとなると、口をすべらせるものだ!》という考えがまた彼の頭にひらめいた。《なんだってこいつらおれを苦しめるのだ!……》
「すっかりほんとじゃなかったって!」とラズミーヒンが言葉尻をとらえた。「でたらめ言うなよ! 昨日までほとんど意識不明でうわごとをばかり言っていたくせに……おい、どうだろう、ポルフィーリイ、自分がやっと立てるようになると、ぼくとゾシーモフが昨日ちょっとうしろを向いたすきに、服を着て、こっそりぬけだし、夜なか近くまでどっかでわるさしてきたんだぜ。しかもそれが、はっきり言うけど、完全な朦朧状態でだぜ、きみ、こんなことが考えられるかい! まったくおどろくべき例だよ!」
「完全な朦朧状態で、果してそんなことがありうるだろうか? どうだね!」ポルフィーリイはどことなく女性的なしぐさで頭を振った。
「ええい、ばからしい! 信じちゃいけませんよ! もっとも、こんなことを言うまでもなく、あなたは信じちゃいないでしょうがね!」あまりにいまいましさに、ラスコーリニコフは思わず叫んでしまった。しかしポルフィーリイ・ペトローヴィチはこの奇妙な言葉がよく聞きとれなかったようだ。
「じゃ、朦朧状態でなかったら、どうして出て行くなんてことができたんだ?」とラズミーヒンが急にいきり立った。「どうして出て行った? なんのために?……しかもこっそり、ありゃなぜだ? あのとききみに健全な理性があったのかい? いまは、もう危険がすっかり去ったから、きみにはっきり言うんだよ!」
「昨日はこいつらがうるさくて顔を見るのもいやだったんですよ」ラスコーリニコフは不意にいどみかかるようなあつかましいうす笑いをうかべながら、ポルフィーリイのほうに向き直った。「それでぼくはこいつらに見つからない部屋をさがそうと思って、逃げだしたんですよ、だからかなりの大金を持ってでたわけです。そこにいるザミョートフさんがその金は見たはずです。ところでどうです、ザミョートフさん、昨日のぼくは正気でしたか、それとも朦朧状態でしたか、この議論を解決してくれませんか?」
彼はそのとき、やにわにザミョートフをしめ殺したいような気がした。その目つきと黙りこくった態度が極度に気にくわなかったのである。
「ぼくの見たところでは、あなたの話しぶりはまったく理性的でしたよ、むしろ巧妙すぎるほどでした。ひどく苛々した様子でしたが」とザミョートフはそっけなく意見をのべた。
「今日ニコージム・フォミッチから聞いたのですが」とポルフィーリイ・ペトローヴィチが口を入れた。「昨夜かなりおそく、馬車にひかれたある官吏の住居で、あなたに会ったそうですね……」
「それですよ、その官吏のことにしたって!」とラズミーヒンが急いで言った。「おい、きみはその官吏の家で頭をどうかしたんじゃないのか? ありたけの金を葬式代に未亡人にやってしまうなんて! ええ、助けたかったらさ──十五ルーブリか二十ルーブリやってさ、せめてルーブリ銀貨三枚くらいはとっておいたらいいじゃないか、それをみすみす二十五ルーブリ全部やってしまうなんて!」
「ところが、ぼくがどこかに金のかくし場所を見つけて、きみがそれを知らないだけかもしれんぜ? そこでぼくは昨日にわかに気が大きくなった……そこのザミョートフさんが知ってるよ、ぼくが宝ものを見つけたのをさ!……すみませんね」と彼は唇をひくひくふるわせながらポルフィーリイのほうを向いた。「こんなつまらんやりとりで三十分もおさわがせして。もううんざりなさったでしょう、え?」
「どういたしまして、それどころか、まったくその逆ですよ! ぼくがあなたにどれほどの関心をもっているか、あなたにおしえてやりたいくらいです! 見ていても、聞いていても、実におもしろい……それに、実をいいますと、あなたがとうとうここにおいでくだすったのが、ぼくはうれしくてたまらないのですよ……」
「いいから、せめてお茶くらい出せよ! のどがからからだ!」とラズミーヒンがどなった。
「いい考えだ! みんないっしょにやろうじゃありませんか。ところでどうです……お茶のまえに、もちょっと実になるものをやっては?」
「さっさと行けよ!」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは茶をいいつけに出て行った。
いろいろな考えが、ラスコーリニコフの頭の中で、旋風のように渦巻いた。彼はおそろしいほど神経が苛立っていた。
《考えにゃいかんのは、やつがかくし立てもしないし、遠慮しようともしないことだ! おれをぜんぜん知らんとすれば、何が理由で、ニコージム・フォミッチとおれの話をしたのだろう? つまり、犬の群れのように、おれのあとをつけまわしていることを、もうかくそうとも思わないのだ! まるでおおっぴらにおれの顔に唾をはきかけてやがるのだ!》彼は憤怒のあまりぶるぶるふるえた。《くそ、なぐるなら堂々となぐれ、猫がねずみをなぶるような仕打ちは、やめてくれ。無礼じゃないか。ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、おれはまだ、そうまでされたら、おそらく黙っちゃいないぞ!……立ちあがって、いきなりきさまらの面に真相をぶちまけてやる、そしたら、おれがきさまらをどれほど軽蔑してるか、わかるだろう!……》彼は苦しそうにやっと息をついだ。《だが、これがおれの気のせいだけだとしたら、どうだろう? これがただの幻影で、すべてがおれのひとり合点で、慣れないためにむしゃくしゃして、自分の卑劣な役割にたえられなくなっているのだとしたら、どうだろう? もしかしたら、これはみなふくみのないものかもしれぬ? やつらの言葉はみなありふれたあたりまえの言葉だが、そのうらには何かある……これはみないつどこでも聞ける言葉だが、何かがある。なぜやつはいきなり「彼女の部屋に」と言ったのか? なぜザミョートフが、おれの話しぶりが巧妙だったなんて、つけたしたのか? なぜやつらはあんな調子でものを言うのか? そうだ……調子だ……ラズミーヒンはいっしょに坐っていながら、どうして何も感じないんだろう? あの無邪気なでくはいつだって何も感じやしないんだ! またぞくぞくしてきた!……さっきポルフィーリイがおれに目配せをしたようだったが、気のせいかな? たしかに、くだらん。何のために目配せするんだ? おれの神経を苛々させようとでもいうのか、それともおれをからかっているのか? あるいはすべてが幻影か、あるいは知っているかだ!……ザミョートフまでふてぶてしい……ザミョートフはふてぶてしい男だろうか? あいつは一晩で考えを変えた。おれが思ったとおりだ! あいつはここがはじめてだというのに、まるで自分の家みたいにしている。ポルフィーリイもやつを客あつかいしないで、背を向けている。嗅ぎあいやがったな! きっとおれのことで嗅ぎあったのだ! きっとおれたちが来るまで、おれのことを話していたにちがいない!……部屋のことを知ってるだろうか? こうなったらもう早いほうがいい!……おれが昨日部屋を借りるために逃げだしたと言ったとき、やつは聞き流して、何も言わなかったが……しかし部屋のことをもちだしたのはうまかった。あとで役に立つ!……朦朧状態で、か!……は、は、は! やつは昨日のことはすっかり知っている! そのくせ母が来たことは知らなかった!……あの婆ぁが日付まで鉛筆で書いたなんて!……嘘いうな、その手にはのらんぞ! だって、これはまだ事実じゃないぜ、幻影にすぎんのさ! もういい、早く事実を出せよ! 部屋の一件だって事実じゃない、熱のしたことだ。やつらに言うことは、知ってるよ……やつら部屋の一件を知ってるのだろうか? それをつかむまでは、帰らんぞ! なんのためにここへ来たんだ? ところでおれはいまじりじりしている、これはどうやら事実らしいぞ! チエッ、おれはなんて怒りっぽいんだ! だが、それもいいかもしれん、いかにも病気らしく見えて……やつはおれをさぐっている。しっぽを出させようというんだ。なんのためにおれは来たんだ?》
こうしたことがみな、稲妻のように、彼の頭をかすめたのだった。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにもどってきた。どうしたわけか彼は急にほがらかになった。
「ぼくはね、きみ、昨夜きみのとこで飲んでからどうも頭が……いや、身体中のねじがなんだかゆるんだみたいだぜ」と彼はがらりと調子を変えて、笑いながらラズミーヒンに話しかけた。
「どうだった、おもしろかったか? ぼくはいよいよこれからというとき中座しちゃったんでな! 誰が勝ったかね?」
「そりゃむろん、誰ってことないさ。永遠の問題にふみこんだんで、みな思うさま勝手な熱をふいたよ」
「ねえ、ロージャ、昨日どんな問題にふみこんだと思う。犯罪はあるか、ないか、という問題なんだよ。話がはずみすぎて、途方もないことになっちゃったのさ!」
「べつにおどろくことはないじゃないか? 普通の社会問題だよ」とラスコーリニコフは何気なく答えた。
「問題はそんなはっきりした形はとらなかったよ」とポルフィーリイは注意した。
「そんなはっきりした形はとらない、それはそうだ」ラズミーヒンは例によってあわてて、かっと熱くなりながら、すぐに同意した。
「ねえ、ロジオン、いまからぼくの言うことを聞いて、きみの意見を聞かせてくれ。ぼくは聞きたいんだ。ぼくは昨日みんなとわたりあって四苦八苦しながら、きみの来るのを待っていたんだ。ぼくはみんなに言ったんだよ、きみはきっと来るって……議論はまず社会主義者たちの見解からはじまったんだ。彼らの主張は簡単だ、犯罪は社会機構のアブノーマルに対する抗議だ──それ以上の何ものでもない、そしてそれ以外のいかなる理由も認めない、というのだ。いかなる理由も!……」
「それがまちがいだよ!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。彼は、目に見えて、活気づいて、ラズミーヒンを見ながらたえずにやにや笑っていた。それがますますラズミーヒンに火をつけた。
「なんにも認めないんだ!」ラズミーヒンはかっとなってさえぎった。「嘘じゃない!……きみに彼らの本を見せてもいいよ。彼らに言わせれば、いっさいが《環境にむしばまれた》ためなのだ、──それ以外は何も認めない! 彼らの大好きな文句だよ! この論でいくと当然、社会がノーマルに組織されたら、たちまちいっさいの犯罪もなくなる、ということになる。抗議の理由がなくなるし、すべての人々が一瞬にして正しい人間になってしまうからだ。自然というものが勘定に入れられていない。自然がおしのけられている、自然が無視されているんだ! 彼らに言わせれば、人類が歴史の生きた道を頂上までのぼりつめて、最後に、ひとりでにノーマルな社会に転化するのではなくて、その反対に、社会システムがある数学的頭脳からわりだされて、たちまち全人類を組織し、あらゆる生きた過程をまたず、いっさいの歴史の生きた道をふまずに、あっという間に公正で無垢な社会になるというのだ! だから彼らは本能的に歴史というものがきらいなのさ。《歴史の内容は醜悪と愚劣のみだ》なんてうそぶいてさ──なんでも愚劣の一語でかたづけている! だから生活の生きたプロセスもきらいなんだよ。生きた魂なんていらないんだ! 生きた魂は生活を要求する、生きた魂はメカニズムに従わない、生きた魂は懐疑的だ、生きた魂は反動的だ! ところが彼らの人間は、死人くさいにおいもするが、ゴムでつくれる、──その代り生命(いのち)がない、意志がない、奴隷だ、反逆しない! そして結局は、フーリエの言う共同宿舎の煉瓦積みや、廊下や部屋の間取りをきめるのに、こきつかわれるってわけだ! 共同宿舎はどうにかできた、ところが共同宿舎のための自然というものはまだできあがっていない、生活はほしいが、生活のプロセスがまだ完成していない、墓に入るにはまだ早い、というわけだ! 論理だけでは自然を走りぬけるわけにはいかんよ! 論理は三つの場合しか予想しないが、それは無数にあるのだ! その無数の場合をいっさいカットして、すべてを安楽(カムフオート)に関する一つの問題にしぼってしまうのだ! もっとも安易な問題の解決だよ! こんないいことはなかろうさ、何も考えなくてもいいんだ! 魅力は──考えなくてもいいということだよ! いっさいの人生の秘密が全紙二枚のパンフレットにおさまるんだ!」
「そら鎖がきれた、太鼓が鳴り出したぞ! 両手をおさえつけにゃどうにもならんて」ポルフィーリイはにやにや笑った。「察してくださいよ」と彼はラスコーリニコフのほうを向いた。「昨夜もまったくこのとおりだったんですよ。一部屋で、六つの声が入りみだれて、しかも酒が入っていたんですからねえ、──想像できるでしょう? いや、きみ、それはちがうよ、《環境》というものは犯罪に大きな意味をもっている。これはいくらでも証明してやるよ」
「ぼくだっていくらでも知ってるさ。それじゃ聞くがね、四十男が十歳の少女を凌辱する、──これも環境のなせるわざかい?」
「ちがうというのかい、それも厳密な意味では、おそらく環境のせいだろうな」とポルフィーリイはびっくりするほどもったいぶって認めた。「少女に対する犯罪はひじょうに多くの場合、むしろ《環境》で説明されるものだよ」
ラズミーヒンは興奮してわれを忘れかけた。
「なに、なんならいますぐ論証してやるぞ」と彼は叫びたてた。「きみの睫毛の白いのは、イワン大帝(注 クレムリン内の大鐘)が高さ十五メートルだからだ、ただそれだけのためだってわけを、明白確実に、なんなら自由主義的なあやをつけて、論証してやろうか? してやるぞ! さあ、賭けるか!」
「よかろう! さあ、彼の論証を聞こうじゃありませんか!」
「まったく、いいかげんにしっぽを出さんか、たぬきめ!」とラズミーヒンはわめいて、いきなり立ちあがり、片手をふりまわした。「きみなんか相手にしてもはじまらんよ! これはみな、わざとやってるんだよ、きみはまだこいつを知るまいがね、ロジオン! 昨日だってやつらの肩をもったのは、ただみんなを愚弄するためさ。そして昨日こいつがいったい何を言ったと思う、まったくおどろきだよ! ところがみんなやんやの喝采なんだ!……こいつはまあ二週間くらいはそのつもりでいるんだよ。去年だってどんな風の吹きまわしか、とつぜん修道院に入るなんて言いだしてさ、そのつもりでいたのはまあ二カ月だったよ! この間も結婚する、式の用意はもう全部できたなんて、まじめな顔で言いやがるんだ。服まで新調した。ぼくらもそろそろお祝いを考えだした。ところが花嫁なんていやしない、なんにもなかったのさ。みんなゆめなんだよ!」
「またでたらめを言う! 服をつくったのはそのまえだよ。新しい服ができたんで、みんなをからかってやろうと思ったのさ」
「ほんとにあなたはそんなたぬきですか?」とラスコーリニコフは何気なく尋ねた。
「じゃあなたは、そうじゃない、と思っていましたか? よし、それじゃあなたにもいっぱいくわしてやろう、は、は、は! これは冗談だが、本当のことをすっかり言ってしまいましょう。犯罪とか、環境とか、少女とか、こうした問題に関連して、いまふっとあなたのある論文を思い出したんですよ、──といっても、あれはいつもぼくの頭の中にあったんですがね。《犯罪について》でしたかな……題は忘れて、思い出せませんが。二月まえに《月刊言論》で拝見しました」
「ぼくの論文?《月刊言論》で?」とラスコーリニコフはおどろいて聞きかえした。「たしか半年まえ、大学をやめるとき、ある本について論文を書いて、《週刊言論》にもって行ったおぼえはありますが、《月刊言論》は知らないですねえ」
「ところが《月刊》にのったんですよ」
「そういえばたしか《週刊》が廃刊になったので、あのときは活字にならなかった……」
「そのとおりです。ところが、《週刊》が廃刊になって、《月刊》に合併されたので、それであなたの論文も、二月まえに、《月刊》に掲載されたってわけでしょう。じゃ、あなたはご存じなかったのですか?」
ラスコーリニコフはほんとうに何も知らなかった。
「おやおや、じゃあなたは原稿料を請求してかまいませんよ! しかし、変った人ですねえ! あなたに直接関係のあるこんなことまで知らないほど、孤独生活に徹しきるなんて。まるで嘘みたいですよ」
「ブラヴォー、ロージャ! ぼくも知らなかったぜ!」とラズミーヒンが叫んだ。「今日さっそく図書館へかけつけて、その号を借りよう! 二月まえだって? 日付は? まあいい、さがすよ! こういう男だよ! 言いもしないんだ!」
「だが、ぼくの論文だとどうしてわかりました? サインはイニシアルだけのはずですが」
「それが偶然なんですよ、それも二、三日まえ、編集者から聞いたんです、知り合いの……おもしろくて熟読しましたよ」
「たしか、犯罪遂行の全過程における犯罪者の心理状態を考察したものだと思いましたが」
「そのとおりです、そして犯罪遂行の行為はかならず病気を伴うものだ、と主張しています。きわめて、きわめて独創的です、が……ぼくが特に興味をもったのは、論文のその部分ではありません、論文の最後に何気なく書かれているある思想です、それも、残念なことに、ぼんやり、暗示してあるだけですが……思いだしましたか、要するに、この世の中にはいっさいの無法行為や犯罪を行うことができる……いやできるというのじゃなく、完全な権利をもっているある種の人々が存在し、法律もその人々のために書かれたものではない、とかいうような暗示でしたが」
ラスコーリニコフは自分の思想の無理にたくらまれた歪曲に苦笑いをもらした。
「なに? なんだって? 犯罪に対する権利? じゃ、《環境にむしばまれた》ためじゃないじゃないか?」とラズミーヒンはいささかあっけにとられたような顔つきで、聞きかえした。
「いや、いや、そうとも言えないさ」とポルフィーリイは答えた。「問題は、彼の論文によるとすべての人間はまあ《凡人》と《非凡人》に分けられる、ということにしぼられているんだ。凡人は、つまり平凡な人間であるから、服従の生活をしなければならんし、法律をふみこえる権利がない。ところが非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利をもっている。たしかこういう思想でしたね。ぼくの読みちがいでなければ?」
「なんだいそれぁ? そんなこと、あり得ないじゃないか!」とラズミーヒンはけげんそうに呟いた。
ラスコーリニコフはまた失笑した。彼は相手が何をたくらみ、どこへ誘導しようとしているのか、すぐにさとった。彼は自分の論文をおぼえていたのである。彼は挑戦を受ける決意をした。
「ぼくの書いた意味は、それとはすこしちがいますね」と彼は構えないで、ひかえ目に語りはじめた。「しかし、実をいうと、あなたはほとんど正確にあれを述べてくれました。お望みなら、完全に正確にといってもいいほどです……(完全に正確だと同意することが、彼には痛快らしかった)ちがうところといえば、あなたが言われるように、非凡な人々はかならず常にあらゆる無法行為をしなければならないし、する義務があるなどとは、ぼくは決して主張していないということだけです。そんな論文でしたら、おそらく検閲は通らなかったろうと思います。ぼくはただ、《非凡》な人間はある障害を……それも自分の思想の実行が(ときには、それがおそらく、全人類の救いとなることもありましょう)それを要求する場合だけ、ふみこえる権利がある……といっても公式の権利というわけではなく、つまりそれを自分の良心に許す権利がある、と簡単に暗示しただけです。あなたはぼくの論文があいまいだと言われますが、ぼくにできるだけの説明はいつでもしてあげます。あなたもそれをお望みのようだと推察しますが、おそらくぼくのまちがいではないでしょう。では説明しましょう。ぼくはこう思うんです、もしケプラーやニュートンの発見が、いろんな事情がつみかさなったために、その発見をさまたげたり、あるいは障害としてそのまえに立ちふさがったりした一人、あるいは十人、あるいは百人、あるいはそれ以上の人々の生命を犠牲にする以外、人類のまえに明らかにされるいかなる方法もなかったとしたら、ニュートンはその権利……自分の発見を全人類に知らせるために、その十人ないし百人を排除する……権利をもっていたろうし、そうするのが義務でさえあったでしょう。だからといって、ニュートンが誰であろうと手当りしだいに殺したり、毎日市場でかっぱらいをしたりする権利をもっていた、ということにはなりません。さらにぼくはあの論文で、論旨をこんなふうに発展させたことをおぼえています……つまり、例えば、法律の制定者や人類の組織者であっても、つまり古代の偉人からリキュルゴス、ソロン、マホメット、ナポレオン等々にいたるまで、新しい法律を定めて、そのこと自体によって、社会が神聖なものとあがめ、父祖代々伝えられてきた古い法律を破棄し、しかも血が彼らのしごとを助けることができると見れば(往々にして古い法律のためにまったく罪のない血が、勇敢に流されたものですが)、むろん流血をも辞さなかった、という一事をもってしても、一人のこらず犯罪者だった。これらの人類の恩人や組織者の大部分が特におそるべき虐殺者だったということは、むしろおどろくべきことです。要するに、ぼくの結論は、偉人はもとより、ほんのわずかでも人並みを出ている人々はみな、つまりほんのちょっぴりでも何か新しいことを言う能力のある者はみな、そうした生れつきによって、程度の差はあるにせよ、ぜったいに犯罪者たることをまぬがれないのだ。ということです。そうでなければ人並みを出ることはむずかしいでしょうし、人並みの中にとどまることは、むろん、賛成できない、これもまた彼らのもって生れた天分のせいですが、ぼくに言わせれば、賛成しないのが義務にすらなっているのです。要するに、ここまでのところは、おわかりでしょうが、特に目新しい思想はひとつもありません。これはもう何度となく書かれ、そして読まれてきたことです。人々を凡人と非凡人に分けるといったことについては、それがいささか暴論であるというあなたの意見はみとめますが、しかしぼくはべつに正確な数字を主張しているわけではありません。ぼくはただ自分の根本思想を信じているだけです。それはつまり、人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供を生むことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉を発言する天分か才能をもっている人々です。それをさらに細分すれば、むろんきりがありませんが、二つの層の特徴はかなりはっきりしています。第一の層、つまり生殖材料は、一般的に言うと、保守的で、行儀がよく、言われるままに生活し、服従するのが好きな人々です。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務なのです。だってそれが彼らの使命ですし、服従することがすこしも恥ずかしいことじゃないのです。第二の層は、みな法律をおかしています、その能力から判断して、破壊者か、もしくはその傾向をもつ人々です。これらの人々の犯罪は、むろん、相対的であり、千差万別です。彼らの大多数は、実にさまざまな形において、よりよきもののために現在あるものの破壊を要求しています。そして自分の思想のために、たとえ血を見、死骸をふみこえても進まねばならぬとなると、ぼくに言わせれば、ひそかに、良心の声にしたがって、血をふみこえる許可を自分にあたえるでしょう、──もっとも、思想とその規模によるでしょうが、──ここを注意してもらいたいのです。ぼくはただこの意味であの論文の中で犯罪の権利ということを言ったわけです。(この議論が法律問題からはじまったことを、忘れないでください)しかし、それほど心配することはありません。いつの時代も民衆は、彼らにこのような権利があるとは、ほとんど認めません、そして彼らを処罰したり、絞首刑にしたりします(もっとも程度の差はありますが)、そしてそれによって、まったく公正に、自分の保守的な使命を果しているわけです。もっとも時代がかわればその同じ民衆が、処罰された彼らを支配者の地位にまつりあげて、ぺこぺこするわけですがね(これにも程度の差はありますが)。第一の層は常に──現在の支配者であり、第二の層は──未来の支配者です。第一の層は世界を維持し、それを数的に大きくします。第二の層は世界を動かし、それを目的にみちびきます。そして両者ともにまったく同じ生存権をもっています。要するに、ぼくに言わせれば、すべての人が平等な権利をもっているのです、そしてvive la guerre e^ternelle.(永遠の戦争万歳です)──むろん、新しいエルサレムが生れるまでですがね!」
「じゃあなたはやっぱり新しいエルサレムを信じておいでですか?」
「信じています」とラスコーリニコフはきっぱりと答えた。そのときも、いまの長い話のあいだもずうっと、彼はじゅうたんの上の一点をえらんで、じいっとそこに目をおとしたままだった。
「ほう、じゃ神を信じているんですか? ごめんなさい、こんなことをお聞きして」
「信じています」ポルフィーリイに目を上げて、ラスコーリニコフはこうくりかえした。
「じゃ、ラザロの復活も?」
「し、信じます。どうしてこんなことを聞くんです?」
「そのまま信じますか?」
「そのままに」
「そうでしたか……ちょっと意外でした。ごめんなさい。さて、──先ほどの問題にもどりましょう、──彼らはいつも処刑されるとは限らないじゃありませんか。中には反対に……」
「生きて栄華をきわめますか? そうです、ある者は生きているあいだに目的を達します、その場合は……」
「自分で自分を罰しますか?」
「必要なら、しかもそれが大部分じゃないですか。総じて、あなたの指摘はするどいですな」
「ありがとう。ところでひとつお聞きしたいのですが、その非凡人と凡人をいったい何で見分けるんです? 生れたときから何かしるしでもついているんですか? ぼくの言う意味は、もっと正確さが必要じゃないかということですよ、例えば外見上の特徴というようなものがですね。お許しください、ぼくは穏健な実務家なものですから、当然こういうことが心配になるのですが、例えば特別の服を着るとか、あるいは何かレッテルみたいなものをはるとかしたらどういうものでしょう?……だって、紛糾が起って、ある層のある者が自分は他の層に属しているんだなんて思いこんで、あなたのすばらしい表現によるとですな、《いっさいの障害を排除》しだしたりしたら、それこそ……」
「いや、それがまた実に多いんですよ! あなたのこの指摘は先ほどよりもまた一段と冴えています……」
「ありがとう……」
「いいえ。ところで考えてもらいたいのは、まちがいが起り得るのは、第一の層、つまり《凡人》(これはあまり適切な名称ではないかもしれませんが)の側からだけだということです。服従に対する傾向は生れつきもっていますが、それでも自然のいたずらによって、これは牛にさえ見られますがね、彼らのかなり多くが自分を進歩的な人間、つまり《破壊者》と思いこんで、《新しい言葉》をはきたがるんですよ、しかもそれがまったく真剣なんです。そのくせ実際は、たいていの場合新しい人々を認めないばかりか、かえって時代おくれの卑屈な思想の持ち主として軽蔑します。でも、ぼくに言わせれば、たいした危険はありっこないから、あなたも別に心配はいりませんよ、ほんとです。だって彼らは、ぜったいに遠くへは行きませんもの。のぼせたら、自分の位置を思い知らせるために、ときどき鞭でなぐってやるのは、むろん結構ですが、それ以上はいけません。しかも刑吏もいらないくらいです。彼らは自分で自分を鞭打つでしょう、なにしろきわめて品行方正ですからね。互いになぐりあう者もいるでしょうし、自分の手で自分をなぐる者もいるでしょう……公にさまざまな形で改悛のしるしを自分に加えるわけです、──美しい教訓となるわけです、要するに、あなたは何も心配することはないというわけです……そういう法則があるんですよ」
「まあ、少なくともその方面ではあなたの説明でいくらか安心しました。ところがもうひとつ心配があるんですよ。どうでしょう、他人を斬り殺す権利をもっている人々、つまり《非凡人》ですね、そういう人々はたくさんいるでしょうか? ぼくは、むろん、ぺこぺこする用意はありますが、でもそんな人間にそうやたらあちこちにいられたら、いい気持はしませんよ、ねえ?」
「ああ、それも心配はいりませんよ」とラスコーリニコフは同じ調子でつづけた。「だいたい新しい思想をもった人間はもちろん、何か新しいことを発言する能力をほんのちょっぴりでももっている人間でさえ、ごくまれにしか生れませんよ、不思議なほど少ないんです。ただ一つわかっていることは、この二つの層およびその更にこまかい分類に属するすべての人々の生れる順序というものが、ある自然の法則によってきわめて正確に定められているものらしい、ということです。その法則は、もちろん、まだ発見されていませんが、しかしそれが存在すること、そしていずれは発見されるにちがいないことを、ぼくは信じています。おびただしい数の人々、つまり材料はですね、ある努力をへて、今日もなお神秘的なあるプロセスを通って、さまざまな種族のある配合という手段によって、ついに、たとえ千人に一人でも、いくらかでも自主的な人間を、全力をふりしぼってこの世に生み出すという、ただそれだけのために生きているのです。もっと広い自主性をもつ人間は、一万人に一人くらいかもしれません(これはわかりやすくするために、大まかな数字ですが)、さらに広大な自主性をもつものは、十万人に一人でしょう。天才的な人々は百万人に一人でしょうし、偉大な天才、人類の完全な組織者などは、何世代にもわたる何十億という人々の中からやっと一人でるかでないかでしょう。要するに、こうしたプロセスが行われる蒸留器の中を、ぼくはのぞいたわけじゃありませんが、ある一定の法則はかならずあるはずです。ここには偶然はあり得ません」
「なんだいきみたちは、ふざけてるのか?」ついにたまりかねて、ラズミーヒンはどなった。「だましっこをしてるのかい? せっかく会って、からかいあってるなんて! ロージャ、きみはまじめなのか?」
ラスコーリニコフは黙って蒼白い、うれいにしずんだような顔を彼に上げたが、なんとも答えなかった。そして、このしずかな悲しそうな顔と対照して、ポルフィーリイの露骨でしつこく、じりじりした不作法なとげのある態度が、ラズミーヒンには奇妙なものに感じられた。
「まあ、きみ、ほんとうにそれがまじめなら……むろんきみの言うとおり、これは別に新しい思想じゃない。ぼくらがもう何度となく読んだり聞いたりしたものの類似にすぎんよ。だが、この中で実際に独創的なもの、──しかも実際にきみだけのものは、──おそろしいことだが、それはなんといっても良心の声にしたがって血を許していることだ、しかも、失礼だが、そこには狂信的な態度さえ感じられる……つまり、ここにきみの論文の根本思想があるわけだ。この良心の声にしたがって血を許すということは、それは……それは、ぼくの考えでは、流血の公式許可、法律による許可よりもおそろしいと思うよ……」
「まったくそのとおりだ、なおおそろしい」とポルフィーリイが応じた。
「いや、きみはきっと何かに魅せられたんだよ! そこにまちがいがあるんだ。ぼくは読んでみる……きみは夢中で書いたんだ! きみがそんなことを考えるはずがない……読んでみるよ」
「論文にこんなことはぜんぜんないよ、暗示があるだけさ」とラスコーリニコフは言った。
「そうです、そうです」ポルフィーリイはじっと坐っていられない様子だった。「あなたが犯罪をどんなふうに見ておられるか、もうおおむねわかりました。ところで……こんなにしつこくして、ほんとに申しわけありませんが(もうさんざんいやな思いをさせて、自分でも恥ずかしいと思います!)──実は、二つの層がこんがらかった場合については先ほどの説明ですっかり安心いたしましたが、実際上のいろんなケースを考えると、どうも不安でたまらなくなるんですよ! 例えば、ある男なり青年なりが、自分はリキュルゴスかマホメットだなんて思いこんで……むろん、未来のですがね、──いきなりあらゆる障害を排除するなんていいだしたら、どうでしょう……いまから遠征におもむくが、遠征には資金が必要だ、というわけで……遠征の資金の獲得をはじめる……どうでしょう?」
ザミョートフが不意に隅っこでプッとふきだした。ラスコーリニコフはそちらに目をやろうともしなかった。
「ぼくも同意せざるを得ません」と彼はしずかに答えた。「そのようなケースは実際にあるはずです。愚か者や虚栄心の強い者は特にそのわなにはまりやすい。特に青年が危険です」
「そうでしょう、それをどうします?」
「まあ、そのままにしておくんですね」とラスコーリニコフはにやりと笑った。「それはぼくの罪じゃありませんよ。現在も未来も、いつだってそうですよ。彼はいま(彼はラズミーヒンへ顎をしゃくった)、ぼくが血を許すと言いました。それがどうしたというんです? 社会は流刑や、監獄や、予審判事や、苦役などで十分すぎるほど保証されているじゃありませんか、──いったい何を心配するんです? せいぜい強盗でもさがしなさいよ!……」
「じゃ、さがしだしたら?」
「当然の罰が待ってるでしょう」
「あなたはひどく論理的ですな。なるほど、だがその男の良心は?」
「それがあなたに何の権利があります?」
「別に、ただその、人道の面から」
「良心がある者は、あやまちを自覚したら、苦悩するでしょう。これがその男にくだされる罰ですよ、──苦役以外のですね」
「じゃ、実際に天才的な人々は」とむずかしい顔をして、ラズミーヒンが尋ねた。「つまり人を殺す権利をあたえられている連中だな、彼らは他人の血を流しても、ぜんぜん苦しんではならないというのかい?」
「ならない、どうしてそんな言葉をつかうんだ? そこには許可もなければ禁止もないよ。犠牲をあわれに思ったら、苦悩したらいい……苦悩と苦痛は広い自覚と深い心にはつきものだよ。真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じとるはずだと思うよ」と彼は急にもの思いにしずんで、口調まで会話らしくなく、こうつけ加えた。
彼は目を上げると、ぼんやり一同を見まわし、にこッと笑って、帽子を手にとった。彼はさっきここに入ってきたときにくらべると、あまりにも落ち着きすぎていた、そして自分でもそれを感じていた。一同は立ちあがった。
「じゃ、ののしられても、叱られても、しかたがありませんが、ぼくはどうにもがまんができないのです」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはまた言いだした。「もう一つだけ質問させてください(ほんとうにご迷惑だとは思いますが!)、一つだけつまらない考えを述べさせてもらいたいのです、心おぼえしておくため、ただそれだけのことですが……」
「結構です、聞かせてください」ラスコーリニコフは蒼白い顔を緊張させて、待ち受けるように彼らのまえに立っていた。
「実は……どう言ったらよくわかっていただけるか、まったく自信がないのですが……この考えがまたあまりにもふざけたもので……心理的なことなのですが……つまりこういうことなんです。あなたがあの論文をお書きになったとき、──まさかそんなはずはないと思いますがね、へ、へ! あなたは自分も、──つまりあなたの言う意味でですね、──ほんのちょっぴりでも、《非凡人》で、新しい言葉をしゃべる人間だとは、お考えにならなかったでしょうか……どうでしょうな、そこのところは?」
「大いにあり得ることです」とラスコーリニコフは軽蔑するように答えた。
ラズミーヒンは身をのりだした。
「とすれば、あなたもそれを決意なさるかもしれませんな、──例えば、生活上の何かの失敗や貧窮のためとか、あるいは全人類を益するためとかで、──障害とやらをふみこえることをですよ?……まあ、いわば殺して盗むというようなことを?」
そういうと彼は不意にまた、先ほどとまったく同じように、左目で目配せして、音もなく笑いだした。
「ふみこえたとしても、むろん、あなたには言わんでしょうな」とラスコーリニコフは挑戦的な傲慢なせせら笑いをうかべながら答えた。
「そうじゃありませんよ、ぼくはただちょっときいてみただけですよ。実をいえば、あなたの論文をよく理解したかったものですから、ただ文学的な面だけで……」
《フン、なんて見えすいた図々しい手口だ!》とラスコーリニコフは気色わるそうに考えた。
「おことわりしておきますが」と彼はそっけなく答えた、「ぼくは自分をマホメットともナポレオンとも思っていませんし……そうしたたぐいの人々の誰でもありません、ですから、そうした本人でないぼくとしては、どんな行動をとるだろうかということについて、あなたを喜ばせるような説明をすることはできません」
「よしてくださいよ、いまのロシアに自分をナポレオンと思わないようなやつがいますかね?」とポルフィーリイは急におそろしくなれなれしい調子で言った。その声の抑揚にさえ、いままでになかった特に明瞭なあるひびきがあった。
「そこらの未来のナポレオンじゃないのかい、先週例のアリョーナ・イワーノヴナを斧でなぐり殺したのもさ?」ととつぜん隅のほうでザミョートフが言った。
ラスコーリニコフは無言のまま、うごかぬ目でじっとポルフィーリイを見すえていた。ラズミーヒンは暗い不機嫌な顔になった。彼はもう先ほどからある考えが頭からはなれないようになっていた。彼は腹立たしげにあたりを見まわした。重苦しい沈黙の一分がすぎた。ラスコーリニコフはくるりと向き直って出て行こうとした。
「もうおかえりですか!」とポルフィーリイは気味わるいほど愛想よく片手をさしのべながら、なでるような声で言った。「お知り合いになれて、ほんとに、こんな嬉しいことはありません。ご依頼の件については決してご心配なく。ぼくが言ったあんな調子で書いてください。そう、ぼくの事務所まで届けていただければいちばんいいのですが……なんとか二、三日中に……よかったら明日にでも。ぼくは十一時頃はかならずいます。すっかり手続きをしましょう……ちょっと話もしたいし……あなたなら、最近あそこを訪れた一人ですから、何か手がかりになるようなことをおしえていただけるのではないかと……」と彼はいかにも人のよさそうな様子でつけ加えた。
「あなたはぼくを正式に尋問するつもりですか、すっかり準備をととのえて?」とラスコーリニコフは鋭く尋ねた。
「なんのために? いまのところその必要はまったくありませんな。あなたは誤解しているようだ。ぼくは機会はにがしませんよ、で……質入れをしていた人々はもう全部会って、話を聞きました……証言をとった人もいます……だからあなたにも、最後の一人として……あッ、そうそう、ちょうどいい!」と彼は不意に何かよほど嬉しいことを思いだしたらしく、にこにこしながら叫んだ。「いいとき思いだしたよ、おれもどうかしてるな!……」彼はラズミーヒンのほうを向いた。「ほらあのミコライのことだよ、あのときはきみにさんざんつるしあげをくわされたが……なに、ぼくだってわかってるんだよ、わからんはずがないよ」彼はラスコーリニコフのほうに向き直った。「あの若者が白だくらいはね。だがどうにもしようがなく、ミチカを痛めるようなことになったわけだが……それなんですよ、あなたにお聞きしたかったのは。あのとき階段を通りながら……失礼ですが、あなたがあそこにいらしたのは、たしか七時すぎでしたね?」
「七時すぎです」とラスコーリニコフは答えたが、こんなことは言わなくてもよかったのだと思って、すぐにいやな気がした。
「それで、七時すぎに階段を通りながら、せめてあなただけでも、二階のドアの開けはなされた部屋に──おぼえていますね? 二人の職人を、その中の一人だけでも、見ませんでしたか? その部屋でペンキを塗っていたんですよ、気がつきませんでしたか? これが彼らにとってきわめて重大な証言になるのですよ!……」
「ペンキ職人? いいえ、見ませんでしたけど……」とラスコーリニコフは記憶をたぐるようなふりをしながら、ゆっくり答えたが、それと同時に全身の神経をはりつめ、息苦しさに胸の凍る思いで、いったいどこにわながあるのか早く見ぬかなければならぬ、何か見おとしてはいないかと、気が気ではなかった。「いいえ、見なかったですね、それにそんな開いた部屋も、なかったような気がしますが……そうそう、四階で(彼はもうわなを完全に見やぶって、勝ちほこった気持になっていた)、官吏の家族が引っ越しをしていたのを、おぼえていますが……アリョーナ・イワーノヴナの向いの部屋です……おぼえています……はっきりおぼえています……兵士たちがソファのようなものをはこび出して、ぼくは壁におしつけられましたよ……だがペンキ職人は──いや、ペンキ職人がいたような記憶は、ありませんねえ……それに開いた部屋も、どこにもなかったようですが、そう、たしかになかったですね……」
「おい、きみは何を言ってんだ!」とラズミーヒンはわれに返って、何か思いあたったらしく、だしぬけに叫んだ。「ペンキ屋がしごとをしていたのは事件のあった当日じゃないか。彼が行ったのはその三日まえだ! きみは何を聞いてるんだ?」
「いや! ごっちゃになってしまいました!」ポルフィーリイはぽんと額をたたいた。「いまいましい、この事件で頭がすっかりへんになってしまった!」彼は恐縮したようにラスコーリニコフを見た。「七時すぎにあの部屋で、誰か彼らを見たものがないか、これが実に重大なかぎになりますので、それが頭にあってついいまも、あなたに聞いたらわかりはしないかなんて錯覚をおこしてしまったんですよ……すっかりごっちゃになってしまいました!」
「もっと気をつけてくれなきゃこまるよ!」とラズミーヒンは不機嫌に言った。
そのときはもう控室に来ていた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはびっくりするほど愛想よく二人を玄関先まで送り出した。二人は暗い不機嫌な顔で通りへ出て、しばらくはものも言わなかった。ラスコーリニコフは深く息をついた……
6
「……信じない! 信じられないよ!」すっかり頭が混乱してしまったラズミーヒンは、なんとかしてラスコーリニコフの推論をくつがえそうとやきもきしながら、こうくりかえした。彼らはもうバカレーエフのアパートの近くまで来ていた。そこにはもう先ほどからプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナとドゥーニャが二人の来るのを待っていた。ラズミーヒンははじめてあのことをはっきり話しあったので、それだけでもうどぎまぎし、すっかり興奮してしまって、話に夢中になってたえず立ちどまった。
「信じなくてもいいさ!」とラスコーリニコフは冷たい、気のなさそうなうす笑いをうかべながら、答えた。「きみは例によって、何も気がつかなかったらしいが、ぼくは一言半句ものがさずその重さをはかっていたんだよ」
「きみは疑り深いんだよ、だからそんなことをするのさ……うん……そういえばたしかに、ポルフィーリイの調子はかなりへんだった。とくにあの卑劣なザミョートフのやつときたら!……きみの言うとおりだ、あいつには何かふくみがあった、──しかしなぜだ? なぜだろう?」
「一晩で考えを変えたのさ」
「いやちがうよ、ぜったいにちがう! もしやつらがこのばかげた考えをもっているなら、なんとかしてそれをかくそうとするはずだよ。ここ一番というときまで、切り札はふせておくもんだぜ……ところがさっきのやつらの態度は──図々しく、うかつだよ!」
「もしやつらが物証、つまりぜったいに動かせぬ物証をつかんでいるか、あるいはいくらかでも根拠のある嫌疑をもっていたら、たしかにこのゲームはかくそうとしたろうさ。もっと大きく勝つためにね(しかも、もうとっくに家宅捜索をしているはずだ!)。ところがやつらには事実がない、ひとつも、──すべてが幻影だ、どっちともとれるものばかりだ、ふわふわした観念だけだ──だからやつらは無礼な態度で相手の頭をかきみだそうとやっきなんだよ。あるいは、きめ手となる事実がないので、自分でもむしゃくしゃして、やつあたりしたのかもしれん。あるいはまた、何かふくみがあって……彼は頭がきれそうだ……もしかしたら、知っている振りをして、ぼくをおどかそうとしたのかもしれん……そこはきみ、彼なりの心理作戦でさ……しかし、こんなことは考えるのも気色がわるいよ。よそうや!」
「まったく無礼だよ、失礼だ! きみの気持はわかるよ! しかし……いまはもうはっきり言ってしまったから(とうとう、はっきり言ってしまって、ほんとによかった、ぼくは嬉しいよ!)──ぼくはきみに率直にうちあけるが、やつらがこの考えをもっていることは、ぼくはもう大分まえから気がついていたんだ。あの事件以来ずうっと、むろん、かすかな疑惑が、それこそかすかにうごめく程度だがね、しかしかすかにうごめく程度にせよ、いったいなぜなのだ? どうしてやつらがそんな思いきった考えがもてるのか? いったいどこに、どこにその根がひそんでいるのだ? それを聞いたときぼくは憤然としたね、きみに見せてやりたかったよ! ばかな。貧乏と憂鬱症にうちのめされた哀れな大学生が、妄想までおこすような大病にたおれる前日、しかも、おそらく、病気はもうはじまっていたろう(ここだよ!)この疑り深く、自尊心が強く、自分の真価を知り、六カ月も自分の穴ぐらにとじこもって誰にも会わなかった男がだ、ぼろシャツを着て、底のぬけた長靴をはいて、──つまらない警官どものまえに立って、やつらになぶりものにされながらじっとこらえている。そこへ思いがけぬ負債をつきつけられる、七等官チェバーロフに対する期限きれの手形だという、くさったようなペンキの臭い、三十七、八の暑さ、むんむんする空気、人ごみ、かてて加えてまえの晩訪ねた人が殺されたという話、それがみな──空き腹にぐんときたわけだ! 失神しないほうがおかしいよ! ところがここなんだよ、ここに嫌疑の根拠をおいているんだ! ばかばかしい! これは実にしゃくだよ、それはわかる、が、ぼくがきみだったら、ロージャ、やつらを面とむかって笑いとばしてやる、それよりもやつらのばか面に痰をはきかけてやるよ、こってりとね、そしてどいつもこいつも二十ばかりビンタをくらわしてやるさ。こいつが利口だよ、いつもみたいにせいぜい思い知らせてやることだ、それでおしまいさ! 気にするなよ! 元気をだせ! 恥ずかしいぞ!」
《しかし、こいつうまいことを言ったぞ》とラスコーリニコフは考えた。
「気にするな? だって明日はまた尋問だよ!」と彼は憂鬱そうに言った。「ぼくがあんなやつらを相手に釈明しなきゃならんのかい? 昨日居酒屋でザミョートフみたいな小僧ッ子と口をきいたことだって、ぼくはしゃくなんだよ……」
「ちくしょう! おれはポルフィーリイのとこへ行くよ! そして、親戚として、やつをぎゅうぎゅうとっちめ、すっかりどろをはかせてやる。ザミョートフのやつは……」
《やっと、気がついたな!》とラスコーリニコフは思った。
「待て!」と不意にラスコーリニコフの肩をつかんで、ラズミーヒンは叫んだ。「待て! きみ、それは嘘だ! ぼくはいろいろ考えてみたが、きみが言ったのは嘘だよ! それがどんなわななんだ? 職人のことを聞いたのはわなだと、きみは言ったな? 考えてみろよ、ほんとにきみがあれをやったとしたら、部屋にペンキを塗っていた……職人がいたのも見た、なんて、口をすべらすはずがないじゃないか。どころか、実際には見たって、見なかったというだろうさ! 誰が自分に不利な自白をするものかね?」
「もしぼくがあのしごとをやったとしたら、きっと職人も部屋も見たと言うだろうね」とラスコーリニコフは気のりしない様子で、露骨にいやな顔をしながら、返事をつづけた。
「じゃ、なぜ自分に不利なことを言うのかね?」
「なぜって、尋問のときのっけから何もかも知らん振りをするのは、ばかな百姓か、世間知らずの若僧だけだよ。わずかでも教養と経験のある人間なら、かならず、できるだけ、どうにも動かせぬ外部的な事実はすべて白状しようとするものだ。ただしそれらの事実に別な原因をさがしだし、独特の思いがけぬ特徴を巧みにはめこんで、すっかり別な意味をあたえ、別な光をあてて見せるってわけだ、ポルフィーリイは、ぼくがきっとそのてでほんとうらしく見せるために、見たなんて言って、そして説明に何かうまいことをはめこむにちがいないと、それをあてにしていたはずだよ……」
「そこで彼はすぐに、二日まえには職人があそこにいなかったはずだ、だからきみが行ったのは凶行の日の七時すぎにちがいないと、こうきめつけるってわけか。つまらんことでひっかけようとしたわけだ!」
「そうだよ、それを彼はあてにしたんだよ。ぼくがろくすっぽ考えもせずに、もっともらしい返事をしようとあわてて、二日まえに職人がいるはずがないのを忘れはしないかとね」
「でも、そんなこと忘れるはずがないじゃないか?」
「ところがそうじゃないんだ! こういうなんでもないことに、頭のまわる連中はいちばんひっかかりやすいんだよ。頭のいい人間ほど、自分がつまらないことでひっかかるとは、思わないわけだ。だからもっともずるがしこいやつをひっかけるには、もっともつまらないことがいいんだよ。ポルフィーリイはきみが考えるほどばかじゃないよ、どうしてどうして……」
「それなら卑劣漢だ!」
ラスコーリニコフは思わず笑いだしてしまった。だがそれと同時に、ついさっきまでは、明らかに目的があってやむを得ずに、いやいやながら話をつづけてきたのに、いま最後の説明をしたときの自分の生き生きとした乗り気な態度が、彼は自分でも不思議な気がした。
《おれもものによっては、調子づくこともあるんだな!》と彼は腹の中で思った。
しかしそれとほとんど同時に、思いがけぬ不安な考えにおびやかされたように、彼は急にそわそわしだした。不安はますます大きくなった。彼らはもうバカレーエフのアパートの入り口まできていた。
「先に行っててくれ」と不意にラスコーリニコフは言った。「すぐもどるよ」
「どこへ行くんだ? もうここまで来てしまったじゃないか!」
「いや、ちょっと行って来なきゃ、どうしても。用があるんだ……三十分でもどるよ……そう伝えてくれ」
「勝手にしろ、ぼくはついてくよ!」
「何を言うんだ、きみまでぼくを苦しめたいのか?」と彼は叫んだ。そしてそのあまりにも苦しそうな苛立ちと必死の思いをこめた目を見ると、ラズミーヒンの手は力なく垂れてしまった。しばらく彼は入り口の階段にたたずんで、自分の住居のある横町のほうへ足早に去って行くラスコーリニコフのうしろ姿を、暗い顔で見送っていた。やがて、歯をくいしばり、拳をにぎりしめて、今日こそポルフィーリイをレモンのようにしぼりあげてやることを胸に誓うと、二人がこんなにながく来ないのでもう心配でそわそわしているプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナを慰めてやるために、階段をのぼっていった。
ラスコーリニコフが自分の家まで来たとき、──こめかみは汗でぬれ、息づかいも苦しそうだった。彼は急いで階段をのぼると、鍵をかけてない自分の部屋に入り、すぐに内側から掛金をおろした。それから、ぎくっとして、気でもちがったように、あのとき盗品をかくした片隅の壁紙の穴のところへかけよると、いきなりその穴へ手をつっこんで、ややしばらく入念にすみずみまでさぐりまわし、壁紙のしわや折れ目までしらべた。何もないことをたしかめると、彼は立ちあがって、ほうッと深く息をついた。さっきバカレーエフのアパートのまえまで来たとき、彼はふと気になったのである。何かの品物、小さな鎖かカフスボタンのようなものか、あるいはそれらが包んであった紙、老婆の手でおぼえ書きがしてある紙のきれはしでも、あのときどうかしてこぼれおち、どこかの隙間にまぎれこんでいて、忘れたころに不意に思いがけぬ動かぬ証拠となって彼のまえに突きつけられはしまいか。
彼はもの思いにとらわれたようにぼんやりつっ立っていた、そして異様な、卑屈な、気のぬけたようなうす笑いが唇の上をさまよっていた。やがて、彼は帽子をつかんで、しずかに部屋をでた。頭の中はいろんな考えがもつれあっていた。考えこんだまま彼は門の下へ入っていった。
「おや、ほらあのひとですよ!」と甲高い声が叫んだ。彼は顔をあげた。
庭番が小舎の戸口に立って、まっすぐこちらを指さして、誰かあまり背丈の高くない男におしえていた。その男は見たところ町人風で、チョッキの上にガウンのようなものを着ていて、遠くから見るとまるで女のようだった。垢でぴかぴかの帽子をかぶった頭はがくんとまえに垂れていた。頭だけでなく身体ぜんたいがせむしみたいにまえにまがっていた。かさかさのしわだらけの顔は五十すぎに見えた。にごった小さな目は陰気で、けわしく、何か文句ありげだった。
「何だね?」とラスコーリニコフは庭番のほうへ近づいて、尋ねた。
町人は額ごしに横目を彼にあてて、じいっと注意深く、ゆっくり見まわした。それからゆっくり身体の向きを変えて、一言もものを言わずに、門から通りへ出て行った。
「どうしたというんだ?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ええ、あの男があなたの名前を言って、ここにこういう学生が住んでるか、誰のところに下宿してるか、って聞いたんですよ。そこへちょうどあなたが下りて来たので、わたしはおしえたんですよ、そしたらあの男は行ってしまった。ばかばかしい」
庭番もけげんな顔をしていたが、それほど気にもならないらしく、もう一度ちょっと小首をかしげると、くるりと向うをむいて、自分の小舎へもどって行った。
ラスコーリニコフは町人のあとを追ってかけだした、するとじきに通りの向う側に、べつに足を早めるでもなく、地面に目をおとして、何か考えごとでもしているように、のそりのそり歩いている男の姿を見つけた。彼はすぐに追いついたが、しばらくそのままうしろからついて行った。とうとう、彼とならんで、よこから顔をのぞいた。男はすぐに彼に気がついて、すばやい視線をかえしたが、またすぐに目を地面へおとした、そして二人はそのまま、肩をならべて、一言も口をきかずに、一分ほど歩いた。
「あなたはぼくのことを尋ねたそうですね……庭番に?」とラスコーリニコフはたまりかねて、言葉をかけた、が、どうしたわけかひどくひくい声だった。
町人は返事もしないし、見向きもしなかった。またしばらく沈黙がつづいた。
「あなたは何者です……訪ねてきて……黙りこくって……いったいどうしたというんです?」ラスコーリニコフの声はとぎれがちで、言葉がどういうものか口から出しぶった。
町人は今度は目をあげて、不気味な暗い目つきでラスコーリニコフをじろりと見た。
「人殺し!」と彼は不意に、ひくいがはっきりした声で言った……
ラスコーリニコフは男とならんで歩いていた。足の力が急にぬけて、背筋が冷たくなり、心臓が一瞬凍りついたようになった。それから急に、手綱をふりちぎったように、はげしくうちだした。そもままならんで、また黙りこくったまま、百歩ほど歩いた。
町人は彼を振り向きもしなかった。
「あなたは何を言うんです……なんてことを……誰が人殺しです?」ラスコーリニコフはほとんど聞きとれぬほどに呟いた。
「おまえが人殺しだ」と男はいっそうはっきりと言葉をくぎりながら、暗示をあたえるように言った。その声には憎々しい勝利のうす笑いがにじんでいるようであった。そしてまたラスコーリニコフの蒼白い顔と生気の失せた目をじろりと見た。二人はそのとき十字路に来ていた。町人は通りを左へ折れて、振り向きもせずに去って行った。ラスコーリニコフはその場に立ちつくして、いつまでもそのうしろ姿を見送っていた。男は五十歩ほど行くと、くるりと振り向いて、まだその場に身動きもせずに立ちつくしているラスコーリニコフのほうを見た。はっきり見わけることはできなかったが、ラスコーリニコフは、男がまたあの冷たい、憎悪にみちた勝利のうす笑いをうかべて、にやりと笑ったような気がした。
力のぬけたおぼつかない足どりで、膝をがくがくふるわせながら、全身凍えきったようになって、ラスコーリニコフは家へもどると、穴ぐらのような自分の部屋へのぼった。彼は帽子をぬいで、テーブルの上におくと、そのままそこに十分ほどじっと立っていた。それからぐったりとソファの上にくずれ、苦しそうに、弱々しくうめいて、長くなった。目はとじられた。そのまま三十分ほど横になっていた。
彼は何も考えなかった。ただ、とりとめもない想念とその断片や、心のどこかにある古い記憶のようなものが、順序もつながりもなく流れすぎるだけだった。まだ子供のころ見た人々の顔とか、どこかで一度会ったきりで、思い出したこともなかった人々の顔、V教会の鐘楼、ある飲食店の撞球台、玉をついているある士官、どこかの地下の煙草屋の中にむんむんとたちこめている葉巻のにおい、居酒屋、一面に汚水がこぼれて、卵のからがちらかっているまっ暗い階段、どこからともなく日曜の教会の鐘が聞えてくる……こうしたものが浮んでは消え、旋風のようにぐるぐるまわった。中にはこころよいものさえあって、それにすがりつこうとするのだが、すぐに消えてしまう。さっきからずうっと身体の中のほうで、何かにおしつけられるような感じがあったが、苦になるほどでもなかった。ときには、かえっていい気持だった。軽い悪寒が去らなかった、しかしこれもむしろこころよい感じだった。
彼はラズミーヒンのせかせかした足音と声を聞くと、目をつぶって、眠っている振りをした。ラズミーヒンはドアをあけて、そのままためらうようにしばらく戸口に立っていた。それからしずかに部屋の中へ入り、そっとソファへ近づいた。ナスターシヤの囁く声が聞えた。
「起さないで。ねかしておきなさいな、そしたら少しは食べられるようになるよ」
「それもそうだな」とラズミーヒンは答えた。
二人はそっと部屋を出て、ドアをしめた。さらに三十分ほどすぎた。ラスコーリニコフは目をあけて、両手を頭の下にあてて、また仰向けになった……
《あれは何者だ? 地中からひょっこり湧いたようなあの男は、いったい何者だろう? あの男はどこにいて、何を見たのだ? あいつはすっかり見ていたんだ、それはまちがいない。それにしてもあのときどこにかくれていたんだろう、そしてどこから見ていたんだろう? なぜいまごろになってひょっこりでてきたのだ? だが、どうして見ることができたのだろう、──そんなことができるだろうか?……フム……》ラスコーリニコフは寒気がして、がくがくふるえながら考えつづけた。《また、ミコライがドアのかげで見つけたというケースだが、これだってとても考えられぬことだ! 証拠? どんな小さなものでも見おとしたら、──証拠はたちまちピラミッドほどになってしまうのだ! 蠅が一匹とんでいたっけ、あの蠅が見ていた! そんなばかなことがあるだろうか?》
すると彼は急に衰弱を感じて、身体中の力がぬけてしまったような気がして、自分がいまいましくなった。
《おれはそれを知るべきだったのだ》と彼は苦々しいうす笑いをもらしながら考えた。《どうしておれは、自分を知り、自分を予感していたくせに、斧で頭をたたきわるなんて大それたことができたのだ。おれはまえもって知るべきだった……何をいう! おれはまえもってそれを知っていたじゃないか!……》彼は自棄になってうめくように呟いた。
ときどき彼はある考えのまえにじっと立ちどまった。
《いや、ああいう人間はできがちがうんだ。いっさいを許される支配者というやつは、ツーロンを焼きはらったり、パリで大虐殺をしたり、エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征で五十万人の人々を浪費したり、ヴィルナ(注 現在リトアニア共和国の主都)でしゃれをとばしてごまかしたり、やることがちがうんだ。それで、死ねば、銅像をたてられる、──つまり、すべてが許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ!》
思いがけぬふざけた考えがうかんで、彼は危なくふきだしそうになった。
《ナポレオン、ピラミッド、ワーテルロー──かたやベッドの下に赤いトランクをしまいこんだ小役人の後家、しなびたきたない金貸し婆ぁ、──いかにポルフィーリイ・ペトローヴィチでも、このとりあわせは料理しきれまい!……どこにやつらに、これが料理できてたまるかい!……美学がじゃまをするよ、〈ナポレオンが婆ぁのベッドの下にはいりこむだろうか!》なんてさ。ええッ、くだらない!……》
ときどき彼は熱にうかされているような気がした。彼はぞくぞくするような陶酔へおちていった。
《婆ぁなんてナンセンスさ!》と彼は燃えるような頭で、突発的に考えた。《老婆か、あれはまちがいだったかもしれないが、あんな婆ぁなんか問題じゃない! 老婆はどうせ病気だったんだ……おれはすこしも早くふみこえたかった……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義だけは殺した、がしかし、かんじんのふみこえることはできないで、こちら側にのこった……おれができたのは、殺すことだけだ。しかも、結局は、それさえできなかったわけだ……主義はどうなるのだ? どうしてさっきラズミーヒンのばかは社会主義者をののしったのだろう? 勤労を愛し、商売のうまい連中で、〈全体の幸福〉のためにはたらいているじゃないか……いやいや、おれには生活は一度あたえられるが、それきりでもう二度と来ないのだ。おれは〈全体の幸福〉が実現されるまで待ちたくない。おれだって生活がしたい、それができないなら、生きないほうがましだ。なんだというのだ? おれはただ〈全体の幸福〉のくるのを待ちながら、一ルーブリぽっちの金をポケットの中ににぎりしめて、飢えた母親のそばを素通りしたくなかっただけだ。〈全体の幸福を築くために煉瓦を一つはこぶ、それで心の安らぎを感じてる〉というのか。はッは! なんだってきみたちはおれをぬかしたんだ? おれだって一度しか生きられない、おれだってそれぁ……ええ、おれは気取ったしらみだよ、それだけのことさ》彼はとつぜん気がふれたように、けたけた笑って、こうつけ加えた。《そうだよ、おれはたしかにしらみだ》彼は自虐的な喜びを感じながらこの考えにしがみつき、それをいじくりまわし、もてあそび、なぐさみながら、ひとりごとをつづけた。《理由はかんたんだよ、第一に、現にいまおれは自分がしらみだということについてあれこれ考えているじゃないか。第二に、この計画は自分の欲望や煩悩のためではない、りっぱな美しい目的のためだなどと称して、ありがたい神を証人にひっぱりだし、まるまる一月もいやな思いをさせたことだ、──はッは! 第三に、実行にあたっては、重さと量と数を考えて、できるかぎりの公平をまもろうときめて、すべてのしらみの中からもっとも無益なやつをえらびだし、そいつを殺して、多くも少なくもなく、おれが第一歩をふみだすためにかっきり必要なだけとろうときめたことだ。〈のこりは、つまり、遺言状どおりに、修道院行きってわけだ──はッは!》……だから、だからおれはどこまでもしらみなんだ》と彼は歯ぎしりしながら、つけ加えた。《だっておれはもしかしたら、殺されたしらみよりも、もっともっといやなけがらわしいやつかもしれんのだ、しかも殺してしまったあとでそれを自分に言うだろうとは、まえから予感していたんだ! まったくこんな恐ろしさに比べ得るものが、果してほかにあるだろうか! おお、俗悪だ! ああ、卑劣だ!……おお、馬上にまたがり、剣を振りかざして、アラーの神の命令だ、〈おののく〉者どもわれに従え、と叫ぶ〈予言者〉の心境が、おれにはよくわかる! 大通りにばかでかい大砲をならべて、罪があろうがなかろうが無差別に射ち殺して、なんの釈明の必要があるとうそぶいた〈予言者〉が、正しかったのだ、それでいいのだ! われに服従せよ、おののく者ども、そして──何も望むな、それは──おまえらの知ったことではない!……おお、ぜったいに、ぜったいに婆ぁをゆるすものか!》
彼の髪は汗にぬれ、ふるえる唇はかさかさにかわき、動かぬ視線がひたと天井に向けられていた。
《母、妹、おれはどんなに愛していたか! それがいまどうして憎いのだろう? たしかに、おれはあの二人を嫌悪している、肉体的に嫌悪している、そばにいられると堪えられない……さっきおれは母のそばへよって、接吻した、おぼえている……母を抱きしめながら、あれを知られたらなんて考えると、おれは……いっそ言ってしまおうか? おれの気持ひとつだ……フム! あのひとはおれと同じような気性のはずだからな》彼はおそってきた幻覚とたたかってでもいるように、やっと考えをまとめながら、こうつけ加えた。《おお、おれはいまあの婆ぁが死ぬほど憎い! もしあいつが生きかえったら、きっともう一度殺してやるにちがいない! リザヴェータはかわいそうなことをした! なんだってあんなところへもどって来たのだ!……しかし、不思議だ、どうしておれは彼女のことをほとんど考えないのだろう、まるで殺さなかったみたいに?……リザヴェータ! ソーニャ! かわいそうな女たち、やさしい目をした、やさしい女たち……かれんな女たち!……あのひとたちはどうして泣かないのだろう? どうして苦しまないのだろう?……すべてをあたえて……やさしくしずかに見ている……ソーニャ、ソーニャ! 従順なソーニャ!……》
彼は意識を失った。彼は自分がどうして通りに立っているのか、ぜんぜんおぼえがないのが不思議な気がした。もう夕暮れもかなりおそかった。たそがれが濃くなり、満月がしだいに明るさをましていた。しかしどうしたわけか空気がいつになく息苦しかった。人々の群れが通りを歩いていた。職人たちやしごとをもっている人々は家路をいそいでいたし、そうでない人々はぶらぶらそぞろ歩きを楽しんでいた。石灰や、ほこりや、よどんだ水のにおいがした。ラスコーリニコフは思いあぐねたような暗い顔で歩いていた。彼は何かをするつもりで家を出たことは、ひじょうによくおぼえていた。その何かをしなければならない、急がなければならないとあせるのだが、それが何だったか──どうしても思い出せない。彼は不意に立ちどまった。通りの向う側の歩道に、一人の男が立って手招きしているのに気づいたのだ。彼は通りを横切って男のほうへ歩いて行った、すると男はくるりと向うをむいて、何ごともなかったように歩きだした。うなだれて、振り返りもしないし、呼んだような素振りも見せない。《ばからしい、あいつはほんとに呼んだのかな?》とラスコーリニコフは考えたが、それでもあとを追いはじめた。十歩も行かないうちに、彼はふとその男に気がついて──ぎょッとした。あのガウン、そしてあの猫背、それはさっきの町人だった。ラスコーリニコフは遠くはなれてついて行った。胸がどきどきした。横町へ折れた、──やはり振り向こうとしない。《おれがつけているのを、知ってるのだろうか?》とラスコーリニコフは考えた。町人はある大きな建物の門へ入った。ラスコーリニコフは急いで門のところまで行って、見た。男が振り返りはしないか、呼びはしないか? すると果して、門を通りぬけて、内庭へ出たところで、男は急に振り向いて、また彼を招くようなしぐさをした。ラスコーリニコフは一気に門を走りぬけたが、内庭にはもう町人の姿はなかった。とすると、男はすぐとっつきの階段をのぼったにちがいない。ラスコーリニコフは急いであとを追った。果して、二つ上の階段にまだ誰かの規則正しいゆっくりした足音が聞えていた。おかしい。階段は見おぼえがあるようだ! そら、あの一階の窓。ガラスごしに月の光がもの悲しく神秘的にさしこんでいる。もう二階だ。あッ! これはあの部屋だ、職人たちがペンキを塗っていた……彼はどうしてとっさに気がつかなかったのか? 前方を行く人の足音が消えた。《ははあ、立ちどまったか、あるいはどこかにかくれたな》そら、もう三階まで来た。先へ行こうか? それにしても上はなんというしずかさだ、恐ろしいほどだ……それでも、彼は歩きだした。彼は自分の足音におびえて、びくびくした。やれやれ、なんという暗さだ! 男は、きっと、そのへんの隅に息をひそめているにちがいない。あッ! 階段に向いたドアがあけっぱなしだ。彼はちょっと考えて、中へ入った。控室は真っ暗で、すっかり運びだされたみたいに、がらんとして、人気がない。彼はそっと、爪先立ちで客間へ入った。月の光が部屋の中に冷たくさしこんでいた。すっかりもとのままだ。椅子、鏡、黄色いソファ、額の絵。大きな、まるい、銅のように赤い月がじっと窓をのぞきこんでいた。《こうしずかなのは月のせいだな》ふとラスコーリニコフは思った。《月は、きっと、いま謎をかけているんだ》彼はじっと立って、待っていた。長いこと待っていた、そして月がしずかになるほど、胸の動悸がはげしくなり、痛いほどになった。あたりはしーんとしずまりかえるばかりだ。不意に一瞬、カサッと軸木をさいたような乾いた音がして、すぐにまた凍りついたようなしずけさにもどった。目をさました蠅が一匹いきなりとんで鏡にぶつかり、うらめしそうにジージー泣きだした。ちょうどその瞬間、彼は隅のほうの小さなタンスと窓の間の壁のところに、かかっているらしく見える女ものの外套に気がついた。《どうしてあんなところに外套が?》と彼は思った。《まえにはなかったはずだが……》彼はそっと近づいてみると、外套のかげに誰かがかくれているらしいのに、気がついた。彼はそろそろと手をのばし、外套をのけて、見た。するとそこに椅子があって、そのはしっこに老婆が一人ちょこんと坐っていた。すっかり身体をまえにかがめ、頭を垂れているので、どうしても顔を見わけることができなかったが、それはたしかにあの老婆だった。彼はつっ立ったまま老婆を見下ろしていた。《こわがってるな!》と彼は考えて、そっと輪から斧をぬきとり、老婆の脳天へうち下ろした。一度、二度。ところが不思議なことに、老婆はまるで木の人形のように、なぐられても身動きもしなかった。彼はぞっとして、かがみこんで、老婆の顔をのぞこうとした。すると老婆もますます顔をうつむけた。彼はそこで床に頭をすりつけるようにして、下から老婆の顔をのぞいた。のぞいたとたんに、はっと息が凍った。老婆は坐ったまま、笑っていたのだ、──彼に聞えないように、やっと声をおさえながら、しずかに音もなく笑っていた。そのとき不意に、寝室のドアがわずかに開いて、そちらでも笑いながらこそこそ囁きあっている気配が、聞えたような気がした。彼は憤怒のあまり気ちがいのようになって、力まかせに老婆の頭をなぐりはじめた、ところが斧を振り下ろすごとに、寝室の笑い声と囁きとがますます高くなり、老婆もいよいよ身をもみしだいて笑うばかりだ。彼は逃げ出そうとした。控室はもう人でいっぱいだった。階段に向いたドアはみな開けはなされ、踊り場も、階段も、下のほうも──すっかり人の山、鈴なりの頭だ、それがみなこちらを見つめている、──みな息を殺して、ものも言わずに、じっと待っている!……彼は心臓がしめつけられ、足がうごかない、根が生えてしまった……彼は大声でわめこうとした、とたんに──目がさめた。
彼は苦しそうに息をついだ、──ところが不思議だ、夢がまだつづいているような気がした。部屋のドアがあいていて、戸口にまったく見知らぬ男が立って、じっと彼を見つめていたのである。
ラスコーリニコフはまだすっかりあけきっていない目をあわててまたつぶった。彼は仰向けにねたまま、身じろぎもしなかった。《これも夢のつづきではなかろうか》と思って、彼は気づかれないように、またかすかにうす目をあけてちらと見た。見知らぬ男はやはり同じ場所に立ったまま、じっと彼を見つめていた。不意に男はそっとしきいをまたぐと、音のしないようにドアをしめて、テーブルのそばまで来た、そしてそこでまた一分ほどじっと立っていた、──そのあいだ一度も彼から目をはなさなかった。それからしずかに、音もなく、ソファのそばの椅子に腰をおろした。帽子をわきの床におき、両手でステッキにもたれて、そこへ顎をのせた。その様子では、男はいつまでも待つつもりらしかった。ひくひくふるえる睫毛ごしにうかがい得たかぎりでは、男はもうかなりの年齢で、がっしりした身体つきで、ほとんど真っ白といっていいほどの明るい色のあごひげをふさふさと生やしていた……
十分ほどすぎた。まだ明るかったが、もう日が暮れかけていた。部屋の中はひっそりとしずまりかえっていた。階段のほうからさえもの音ひとつ聞えてこなかった。大きな蠅が一匹、とびまわってはガラスにつきあたり、ジージー鳴きながらもがいているだけだった。とうとう、こうしているのが堪えきれなくなった。ラスコーリニコフはいきなり身を起して、ソファの上に坐った。
「さあ、言ってください、何用です?」
「あなたがねむっているんじゃなく、寝た振りをしているだけだということは、さっきからわかっていましたよ」と見知らぬ男はゆったりと笑って、妙な返事をした。「アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフです、よろしく」
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