〜タイピングとボキャブラリー強化のための試み〜トップに戻る
第 四 部
1
《はて、これも夢のつづきだろうか?》ラスコーリニコフはまたふとそんな気がした。用心深く、怪しむような目で、彼はこの不意の客をじろじろ見まわした。
「スヴィドリガイロフ? 何をばかばかしい! そんなはずあるものか!」と彼は、とうとう、信じられぬ様子で声に出して言った。
客はこのはげしい言葉にすこしもおどろいた様子はなかった。
「二つの理由があってあなたをお訪ねしました。一つは、個人的にあなたとお近づきになりたいと思いましてな。もうまえまえから実に興味ある、しかもあなたに有利なお噂をいろいろとうかがっておりましたので。も一つは、あなたの妹さんのアヴドーチヤ・ロマーノヴナの身に直接関係のある一つの計画をもっているのですが、そのことでわたしにお力添えくださることを、おそらくおことわりになることはあるまい、とこう空だのみしましてな。わたし一人だけで、お口ききがなかったら、妹さんはおそらくわたしを庭へも通してくださらんだろう。それもある誤解がもとなんですがね。だが、あなたのお力添えがあれば、その反対に……とこう読んだわけですよ……」
「わるい読みですね」とラスコーリニコフはさえぎった。
「うかがいますが、あの方たちは昨日お着きになったばかりですね?」
ラスコーリニコフは答えなかった。
「昨日でしょう、知ってますよ。わたしもまだ着いて三日目なんですよ。ところで、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはあの件についてあなたに申しあげておきたいことがあるんですよ。弁解は余計なことだと思いますが、まあひとつ、わたしの言い分も聞いてくださいな。あの場合、あの問題を通してですね、正直にいって、いったいわたしにそれほどの罪があるのだろうか、つまり偏見をぬきにして、正当に判断してですな?」
ラスコーリニコフはやはり無言で相手の顔をじっと見つめていた。
「自分の家でかよわい娘を追いまわし、《いまわしい申し出によってその娘を辱しめた》ということ、──それですかな(どうもこっちが先まわりしますな!)、でも、わたしだって人間ですよ、et nihil humanum(注 「人間的なことは何によらず私に無縁でない」ローマのテレンチウスの言葉)……要するに、わたしだって心をうばわれることもあるし、愛することもできます(これはむろん、命令されてそうなるものじゃありませんがね)、そこをひとつ考えてもらいたいのですよ、そしたらすべてがごく自然に説明がつきます。そこで問題は、わたしが人非人か、それとも犠牲者か? ということにしぼられるわけです。それなら、どうして犠牲者なのか? だってわたしは、相手にアメリカかスイスへいっしょに逃げようとすすめたとき、おそらく、本当に心底から尊敬の気持をもっていただろうし、さらに二人の幸福を築くことを考えていたにちがいないんですよ!……理性なんてものは情熱の奴隷ですからな。わたしのほうがかえって被害者かもしれませんよ、失礼ですがね!……」
「そんなことはどうでもいいことですよ」とラスコーリニコフははきすてるように言った。「ただ無性にあなたがいやなんです。あなたが正しかろうが、正しくなかろうが、とにかくあなたとは近づきになりたくないのです。顔も見たくありません、帰ってください!……」
スヴィドリガイロフはとつぜん大声で笑いだした。
「しかしあなたも……なかなかのしろものですな!」と彼は大口をあいて笑いながら、言葉をつづけた。「うまくごまかしてやろうと思ったのだが、どうしてどうして、あなたはするリとかわして本筋に立っておられる!」
「そんなことを言いながら、あなたはまだごまかそうとしている」
「それがどうしました? それがどうしました?」とスヴィドリガイロフは腹の底から笑いながら、くりかえした。「これがいわゆる bonne guerre(注 フェア・プレー)というやつじゃありませんか、もっとも罪のないかけひきですよ!……でもやはり、あなたはわたしの出鼻をくじいてしまった。とにかく、もう一度はっきりと言いますが、庭先の一件さえなかったら、ちっともいやな思いをせずにすんだんですよ。マルファ・ペトローヴナが……」
「そのマルファ・ペトローヴナだって、あなたが殺したそうじゃありませんか?」とラスコーリニコフは乱暴にさえぎった。
「じゃあなたはそれもお聞きでしたか? もっとも、聞かないはずがないでしょうがね……さて、このご質問については、まったく、あなたになんと答えたものか、困りましたな。とは言っても、この件については、わたしの良心にはいささかもやましいところはありませんがね。だから、わたしがそのそういったことを危ぶんでいたなどとは、思わないでいただきたい。あれは当然起るべくして、まさしくそのとおりに起ったというだけのことでしてな。検死の結果、ぶどう酒をほぼ一びんたいらげ、腹いっぱい食べた直後に水浴したために起った脳溢血、と証明されましたよ。ほかの理由は発見したくも、ないものはどうにもなりませんからな……でも、わたしも一時は考えました、特にここへ来る途中の汽車の中で、じっと坐りながら考えましたよ。わたしはこの……不幸を助長しなかったろうか、精神的な面で苛々させるとか、あるいは何かそうしたことで、不幸を早めはしなかったろうか? しかし、そうしたこともぜったいなかったはずだ、という結論に達したんですよ」
ラスコーリニコフは笑いだした。
「好きですねえ、そんなことを気にするなんて!」
「あなたは何をお笑いです? いいですか、わたしが鞭でなぐったのはあとにも先にもたった二度です、痕ものこらなかったほどです……わたしを恥知らずなんて思わないでもらいたいですな。そりゃわたしだって、それがいまわしいことで、どうだこうだぐらいは、よく知ってますよ。だがそれと同時に、マルファ・ペトローヴナがそうしたわたしの、いわば狂憤をですな、おそらく喜んでいたらしいことも、ちゃんと知ってるんですよ。あなたの妹さんについての一件は、もうすっかり使い古されてしまって、マルファ・ペトローヴナはしかたなしに三日も家にこもっていましたよ。町へもってゆくざんその種もないし、例の手紙の披露もさすがにあきたと見えましてな(手紙の朗読についてはお聞きになりましたでしょう?)。そこへとつぜん、この二つの鞭がまるで天の恵みみたいにおちたわけです! あれは早速、馬車の支度をいいつけました!……いまさらいうまでもありませんが、女には外見はどんなに怒っているようでも、辱しめられたことが内心はうれしくてたまらないという、そんな場合があるものですよ。それは誰にもあります。人間はだいたい辱しめられることを、ひどく好きがる傾向さえありましてな、あなたはそれにお気づきになったことがありますか? ところが女にはそれが特に強いんですな。それだけを望んでいる、といってもいいほどです」
一時ラスコーリニコフは席をけって出て行き、この会見を打ち切りにしてしまおうかと思いかけた。が、ある好奇心と、加えて打算のようなものが、一瞬彼をひきとめた。
「あなたは喧嘩が好きですか?」と彼は何気なく聞いた。
「いいえ、それほど」とスヴィドリガイロフは落ち着いて答えた。「マルファ・ペトローヴナとはほとんど喧嘩したことがないくらいですよ。わたしたちはほんとに睦じく暮しておりましたし、あれはいつもわたしに満足していましたからな。わたしが鞭をつかいましたのはわたしたちの七年間の生活で、たった二度です(もう一度ありますが、しかしそれは別な意味もありますので、かぞえないことにして)。一度は──結婚後二月ほどのときでした。村に来てすぐの頃です。それとこの間です。あなたは、わたしがひどい人非人で、反動派で、農奴制支持者だと、思っておられたでしょうな? ヘッへ……ついでだが、おぼえていますかな、ロジオン・ロマーヌイチ、もう何年になりますか、まだ言論が自由だった頃、名前は忘れたが、ある貴族が汽車の中で、一人のドイツ女を鞭でなぐったというので、新聞やら雑誌やらでさんざんたたかれたことがありましたねえ、おぼえてますか? あの頃はさらに、ちょうどあれと同じ年だったと思いますが、《雑誌「世紀」の醜悪な行為》が起りましたな(そら、《エジプトの夜》(プーシキン)の公開朗読ですよ。おぼえてるでしょう? 黒き瞳! おお、いずこに去れるや、わが青春のかがやける日々よ!)。それはさて、わたしの意見はこうです。ドイツ女を鞭でなぐった旦那には、あんまり同情しませんな、だってどう見てもそれは……同情に値しませんよ! とはいうものの、この際どうしても言っておきたいのは、どんな進歩的な人々でも、おそらく、完全に自制できるとはいいきれないような、そうした生意気な《ドイツ女》がままいるものだ、ということですよ。この観点からこの事件を見た者は、当時一人もいませんでした。しかしこの観点こそ、ほんとうの人間味のある立場ですよ、そうですとも!」
こう言うと、スヴィドリガイロフは不意にまた大声で笑った。この男がかたい決意をもった腹のすわった人間であることを、ラスコーリニコフははっきりと見てとった。
「あなたは、きっと、もう何日か誰とも話していませんね?」と彼は聞いた。
「まあそうです。それがどうかしましたか、どうやら、わたしがよくしゃべるんでおどろいたらしいですな?」
「いいえ、ぼくがおどろいたのは、あなたがあまりに人間ができすぎているからです」
「あなたの質問の無礼さに、腹を立てなかったからかな? そうでしょう? でも……いったい何を怒るんです? 聞かれたから、答えたまでですよ」と彼はびっくりするほど素朴な表情でつけ加えた。「わたしはもともと何ごとにもおよそ興味というものを持たない人間でしてな、嘘じゃありません」と彼は何か考えこんだ様子でつづけた。「特にこの頃は、まったく何もしていません……もっともあなたに、嘘いえ、おれにとり入ろうとしてるじゃないか、と思われてもしかたがありませんがね。あなたの妹さんに用があるなんて、自分で言ったほどですからな。だが、正直のところ、退屈しきってるんですよ。わけても、この三日ほどはですな。だからあなたに会ったことさえ、嬉しかったほどで……怒らないでください、ロジオン・ロマーヌイチ、でもあなただって、どういうわけかおそろしくへんな様子に見えますよ。なんとおっしゃろうと、あなたには何かがあります。それもいま、といってもいまこの瞬間というのじゃなく、まあこの頃という意味ですがね……おや、どうしました、やめます、そんないやな顔をしないでください! わたしはあなたが思ってるほどの、熊じゃありませんよ」
ラスコーリニコフは暗い目で相手を見た。
「それどころか、おそらく、ぜんぜん熊じゃないでしょう」と彼は言った。「ぼくにはむしろ、あなたは上流社会の出か、あるいは少なくとも折りがあればりっぱな人間にもなれるひとだと思われます」
「なにしろわたしは、誰の意見にもべつに興味をもちませんのでな」とスヴィドリガイロフはそっけなく、高慢と思える態度をさえちょっぴり見せて、答えた。「だからって、俗物になってわるいことはないでしょう。それにこの服装はわが国の気候には実に好都合ですし、それに……それに、まあ、生れつきこういうのが好きなんですよ」彼はまたにやりと笑って、こうつけ加えた。
「でも、あなたはここに知人が多いって、聞いてますよ。いわゆる《まあつてのある》ほうじゃありませんか。こんなとき、何か目的がないとしたら、いったいどうしてぼくのとこへなんか来たんです?」
「わたしに知人があると言われましたが、たしかにそのとおりです」とスヴィドリガイロフは肝心なところにはふれないで、急いで言った。「もう会いましたよ。なにしろ一昨日からぶらぶらしてるんでね。わたしも気がついたし、先方だって気がついてるはずですよ。そりゃむろん、わたしも身なりは悪くないし、貧しいほうじゃありません。農奴制改革だってわたしたちをよけて通りましたもんな。森としょっちゅう氾濫する草地がやられたくらいで、収入はかわりませんよ。でも……そういうところへは行きませんよ。まえからもうあきあきしてましたからねえ。三日歩きまわって、誰にも言葉をかけませんよ……それにこの町をごらんなさいよ! まったく、わがロシアにどうしてこんなものができたんでしょうねえ! 役人と学生どもの町ですよ! まったく、八年ほどまえ、ぶらぶら遊びまわっていたころは、ずいぶんいろんなことを見おとしていたものですよ……いまはただひとつ解剖学だけがたよりです、ほんとです!」
「解剖学といいますと?」
「だが、いろんなクラブとか、デュッソー(注 当時の有名なレストランの経営者)のレストランとか、あなた方のたまり場とか、あるいはまあ、その進歩とかいうものも、──なあに、こんなものはわたしらがいなくてもなくなりはしないでしょうがね」と彼はまた質問を無視して、つづけた。「それにいくらなんでも、カルタのペテン師にもねえ?」
「じゃあなたは、カルタのペテン師をやったことがあるんですか?」
「もちろん、ありますとも! 八年まえには、わたしたちの仲間がありましてねえ、最高にりっぱな仲間でしたよ。よく暇をつぶしたものです。いずれも態度の堂々たる連中ばかりでしてねえ、詩人もいれば、資本家もいましたよ。もっとも、だいたいわがロシアの社会では、もっとも態度のりっぱなのは、とくかもにされる連中なんですよ、──あなたはそれに気がつきましたか? わたしがこんななのはその後ずっと田舎にこもっていたからですよ。ところでその頃わたしも監獄にぶちこまれかけたことがあるんですよ、借金をためましてな。相手はネージン(注 ウクライナの町)のギリシャ人でしたよ。そこへひょっこりマルファ・ペトローヴナが現われましてね、三万ルーブリにまけさせて、わたしを身請けしてくれたってわけですよ(借金は全部で、七万ルーブリあったんですよ)。わたしたちは正式に結婚しました、そして妻はわたしを宝物みたいにして、すぐに自分の村へ連れかえりました。妻はわたしより五つ年上だったんですよ。ひどくわたしを愛しましてな、七年間というものわたしは村から出ませんでした。いいですか、妻は死ぬまで三万ルーブリのわたしの借用書を、他人の名義にして、がっちりにぎっていたんですよ、だからわたしがちょっとでも反逆しようとすれば、──すぐにわなにおとしこむしくみです! また実際にしたでしょうよ。まったく女の胸には、さまざまな要素がごっちゃに住みついていますからなあ」
「じゃ、もし証書がなかったら、あなたは逃げましたか?」
「なんとも言えませんな。そんな証書はちっとも気になりませんでしたよ。わたしはべつにどこへ行きたいという気持もなかったし、外国へは、わたしが退屈してるのを見て、マルファ・ペトローヴナのほうから二度ほど誘ってくれましたよ! でもつまりませんよ! 外国へはまえにも何度か行きましたが、いつも胸がむかむかしましてねえ。むかむかというと何ですが、その、夜明けとか、ナポリ湾とか、海とか、そういうものをながめていると、なんだか悲しくなってくるんですよ! 実際に何につけ悲しい気持になるということは、いちばんいやなことですよ! いやいや、なんといっても自分の国がいちばんですよ! 自分の国にいれば少なくとも何かにつけ他人を悪者にして、自分はいい子になれますからなあ。それがいまなら北極探検にでも行きたいくらいですよ、なにしろ j'ai le mauvais(酔うとみっともなくなるんでねえ)、だから飲むのはいやなんですが、酒をとったらあとに何にものこらんのですよ。もうやってみたんです。ところで、話によると、ベルグ(注 当時の興行師)が日曜にユスポフ公園で大きな気球をとばすんで、いくらとか払えば誰でも乗せてくれるそうですが、ほんとですか?」
「じゃなんです、あなたは乗りたいんですか?」
「わたしが? いや……ただちょっと……」とほんとうに考えこんだ様子で、スヴィドリガイロフは呟いた。
《この男はなにを言っているのだ、まじめなのだろうか?》とラスコーリニコフは考えた。
「いや、証書はちっとも気になりませんでした」とスヴィドリガイロフは考えこんだ様子で言った。「村から出なかったのは、自分が出たくなかったからですよ。それにもう一年になりますが、マルファ・ペトローヴナはわたしの命名日にその証書をかえしてくれて、おまけにそれにかなりの金までそえてくれましてな。あれは金持でしたからねえ。《そらね、わたしこんなにあなたを信用してるんですよ、アルカージイ・イワーノヴィチ》──ほんとにこう言ったんですよ。あれがこう言ったなんて、あなたには信じられんでしょうな? ところが、わたしは村で相当の旦那になって、あたりに知られるようになったんですよ。本もとりよせました。マルファ・ペトローヴナははじめは喜んですすめてくれましたが、そのうちにわたしが勉強するのを恐がるようになりましてねえ」
「あなたはマルファ・ペトローヴナをひどくなつかしがっているようですね?」
「わたしですか? あるいはね。大いにそうかもしれません。ついでですが、あなたは亡霊を信じますか?」
「亡霊といいますと?」
「あたりまえの亡霊ですよ、ごく普通の!」
「じゃ、あなたは信じるんですか?」
「え、まあね、でも信じないといってもいいんですよ、pour vous plaire(おいやでしたら)……といって、そうともいいきれないのですが……」
「じゃ、現われるんですか?」
スヴィドリガイロフは何か妙な目で彼を見た。
「マルファ・ペトローヴナが訪ねてくるんですよ」と彼は口をゆがめて異様なうす笑いをもらしながら、言った。
「訪ねてくるって、どういうことです?」
「ええ、もう三度きましたよ。最初に見たのは葬式の当日、そう埋葬がおわって一時間ほどしたときでした。二度目は一昨日、旅の途中で、マーラヤ・ヴィシェーラ駅で明け方。三度目は、二時間ほどまえ、わたしが泊っている宿の部屋でです。わたしが一人きりでいたとき」
「夢じゃないんですか?」
「いや。三度とも現です。来て、一分ほど話して、戸口から出て行く。そう、いつも戸口から出て行くんですよ。足音さえ聞えるほどです」
「なぜだかぼくはそんな気がしていたんですよ、あなたにはきっと何かそうしたことがあるにちがいないって!」と不意にラスコーリニコフは言った。そして同時に自分が言ったことに、びっくりした。彼はひどく興奮していた。
「へーえ? あなたはそう思いましたか?」とスヴィドリガイロフはびっくりして聞き返した。「ほんとですか? だからわたしがさっき言ったでしょう、わたしたちは何か共通したところがあるって、ねえ?」
「あなたはそんなこと一度も言いませんでしたよ」とラスコーリニコフはむっとして、つっかかるように答えた。
「言わなかった?」
「そうですよ!」
「言ったような気がしたが。さっき、わたしがこの部屋に入って、あなたが目をつぶって横になっているが、実は寝た振りをしているのを見たとき、──《これこそあの男だ!》ととっさに自分に言い聞かせたんですよ」
「なんですそれは、あの男とはなんのことです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「なんのこと? それがまったく、なんのことか自分でもわからないんですよ……」と率直に、自分でもまごついた様子で、スヴィドリガイロフは口ごもった。
一分ほど沈黙がつづいた。二人は目をいっぱいに見はってにらみ合っていた。
「何をばかばかしい!」とラスコーリニコフは腹立たしげに叫んだ。「それで、奥さんは現われて、何を言うんです?」
「妻ですか? それがあなた、くだらないことばかりなんですよ、そしてわれながらあきれたものですが、それがしゃくにさわりましてねえ。最初のときには(葬式のお勤め、冥福を祈る祈祷、さらにまた短いお祈り、それから会食とつづきまして、わたしはひどく疲れましてね、──やっと書斎に一人きりになれて、葉巻を吸いつけ、ぼんやり考えこんでいたときですよ)、すっと戸口から入ってきて、《ねえ、アルカージイ・イワーノヴィチ、あなた今日は忙しさにとりまぎれて、食堂の時計を巻くのをお忘れになりましたわね》と言うんですよ。この時計は、実際、七年間わたしが自分で週に一度ずつ巻いておりましてねえ、忘れたりすると、いつも妻に注意されたものでした。その翌日わたしはもうこちらへ発ってきたわけですが、明け方駅の食堂へ入って、──何しろ一晩中まんじりともしないで、身体はくたくたに疲れておりましたし、目はしぶくてはっきりしないものですからね、──コーヒーをたのみました。ふと見ると──どこからどう現われたのか、すぐよこにマルファ・ペトローヴナがトランプを手にして坐っておりましてね、《ねえ、アルカージイ・イワーノヴィチ、あなたの道中を占ってあげましょうか?》と言うんです。妻は占いが得意だったんですよ。まったく、どうして占わせなかったろうと、残念でなりません! ぎょっとして、逃げ出したんですよ、もっとも、ちょうど発車のベルもなりましたが。また今日は店屋ものの昼食がひどいやつで、胃が重苦しくてしようがないから、ぼんやり坐って、煙草をふかしていると、不意にまたマルファ・ペトローヴナが入ってきたんですよ。すっかりおめかしをして、長いしっぽのついた新しいみどり色の絹の衣装を着て、《こんにちは、アルカージイ・イワーノヴィチ! この服どうお、あなたの好みにあいまして? アニーシカじゃとてもこんなふうには縫えなくてよ》(アニーシカというのはね、わたしたちの村のお針ッ娘で、農奴の出ですが、モスクワで勉強したとってもいい娘なんですよ)。そう言いながら、わたしのまえでまわって見せるんですよ。わたしは衣装を見まわしてから、じっと注意深く妻の顔を見ました。《ねえ、マルファ・ペトローヴナ、おまえももの好きだねえ、こんなつまらんことでわたしのところに来て、わたしをわずらわせるなんて》と言ってやりました。すると、《あら、そんな、じゃ、もうちょっとでもお邪魔しちゃいけませんの!》そこでわたしはからかってやりました。《わたしはね、マルファ・ペトローヴナ、結婚しようと思うんだよ》するとあれは《それはあなたの気持しだいでしょうけどね、アルカージイ・イワーノヴィチ、でも妻の葬式もろくにすませないうちに、もう新しい妻をもらいに出かけるなんて、あんまり聞えがよくありませんよ。それに申し分のないひとを選んだのならともかく、そうでなかったら、わたしは知ってますけど、あの娘も、あなたも、世間のもの笑いになるだけですよ》そう言うと、プイと出て行ってしまいました。しっぽのさらさらという音が聞えるようでしたよ。まったく、ばかな話じゃありませんか、ねえ?」
「まあ、おそらく、それもあなたの作り話でしょうね!」とラスコーリニコフは応じた。
「わたしはめったに嘘は言いません」とスヴィドリガイロフは相手の言葉の無礼さにはぜんぜん気づかない様子で、考えこみながら言った。
「じゃまえには、それまでは、一度も亡霊を見たことがありませんでしたか?」
「い……いや、見ました、たった一度だけ、六年まえです。うちにフィリカという下男がいました。それが死んで、野辺送りをすませた直後、わたしがうっかりして、《フィリカ、パイプをもってこい》とどなったんですよ。すると入って来て、パイプのおいてある飾り棚のほうへまっすぐ歩いて行くじゃありませんか。わたしは坐ったまま、考えました。《これはやつが仕返しに来たんだな》というのは、死ぬちょっとまえに、わたしはやつと猛烈な口喧嘩をしたんですよ。そこでわたしはどなりつけました。《よくもそんな肘のぬけたぼろを着ておれの部屋へ来れたな、──出てけ、役立たず!》すると、くるりと向き直って、すたすたと出て行き、それっきり現われませんでした。マルファ・ペトローヴナには黙っていましたがね、やつの供養をしたやろうと思いましたが、てれくさくなってやめましたよ」
「医者にみてもらうんですね」
「それは、言われるまでもなく知ってますよ、正常じゃないくらいはね。でも、正直のところ、どこが悪いのかわからないのですよ。でも、まあ、あなたよりは五倍も健康だと思いますね。わたしがあなたに聞いたのは、亡霊が現われるのを信じるかどうか、ということじゃありませんよ。亡霊が存在することを信じるか、ということです」
「いや、ぜったいに信じませんね!」とラスコーリニコフは敵意をさえ見せて叫んだ。
「でも、世間ではどうですかな?」とスヴィドリガイロフはややうなだれて、よこのほうを見ながら、ひとりごとのように呟いた。「世間の人は言います、《おまえは病気だ、だからおまえの目に見えるものは、実在しないまぼろしにすぎないのさ》これじゃ厳密な論理がないじゃありませんか。亡霊が病人にだけ現われるということは、わたしも認めます。しかしこれは、亡霊が現われ得るのは病人にだけだ、ということを証明するだけで、亡霊そのものが存在しないということの証明にはなりません」
「もちろん、存在しませんよ!」とラスコーリニコフはじりじりしながら言いはった。
「存在しない? あなたはそう思いますか?」スヴィドリガイロフはゆっくり彼に目を上げて、つづけた。
「じゃ、こういう考えに立ったらどうでしょう(まあひとつ、知恵を貸してくださいな)。《亡霊は──いわば他の世界の小さな断片、他の世界の要素である。健康な人には、むろん、それが見える理由がない。なぜなら健康な人は完全な地上の人間である。従って、充実のために、さらに秩序のために、この地上の生活だけをしなければならない。ところが、ちょっとでも病気になると、つまりオルガニズムの中でノーマルな地上の秩序がちょっとでも破壊されると、ただちに他の世界の可能性があらわれはじめる、そして病気が重くなるにつれて、他の世界との接触が大きくなり、このようにして、人間が完全に死ぬと、そのまますぐに他の世界へ移る》わたしはこのことをもうまえまえから考えていましてな。もし来世の生活を信じていれば、この考察も信じられるわけです」
「ぼくは来世の生活なんて信じませんね」とラスコーリニコフは言った。
スヴィドリガイロフは坐ったままじっと考えこんでいた。
「来世には蜘蛛かそんなものしかいないとしたら、どうだろう」と彼はとつぜん言った。
《この男は気ちがいだ》とラスコーリニコフは思った。
「われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜどうしても大きなものでなければならないのか? そこでいきなり、そうしたものの代りに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいなすすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、ときどきそんなようなものが目先にちらつくんですよ」
「それじゃほんとに、ほんとにあなたの頭には、それよりは救いになる、もうすこし正当なものは、ぜんぜん浮ばないのですか?」とラスコーリニコフは痛ましい思いで叫んだ。
「もっと正当な? だが、どうしてわかります、これこそ正当なものかもしれませんよ。それに、わたしはなんとしても強引にそうしたいのですよ!」とスヴィドリガイロフはあいまいに笑いながら、答えた。
この乱暴な答えを聞くと、ラスコーリニコフは不意にぞうッとした。スヴィドリガイロフは顔を上げて、じっと彼を見ると、いきなりけたたましく笑った。
「いやはや、どうでしょう」と彼は大声で言った。「三十分ほどまえにはまだ会ったこともなく、敵同士と思っていたし、それにわたしたちの間にはまだ解決のつかない問題があるんですよ。それなのにその肝心の問題をそっちのけにして、ばかみたいな文学講義にふけるとはねえ! だから、言ったでしょう。わたしたちは同じ畑の苺だって、どうです?」
「恐れいりますが」とラスコーリニコフは苛々しながら言った。「早く用件をおっしゃっていただけませんか、どうしてぼくごとき者をお訪ねくださったのか、それを聞かせてくださいませんか……それに……それに……ぼくは急いでいるんです、時間がありません、出かけなきゃなりませんので……」
「ごもっともです、ごもっともです。あなたの妹さんの、アヴドーチヤ・ロマーノヴナは、ルージン氏と、ピョートル・ペトローヴィチですね、結婚なさるのですか?」
「なんとか妹についてのいっさいの問題をさけて、あれの名前を出さないようには願えないものでしょうか。あなたが実際にスヴィドリガイロフなら、どうしてぼくのまえで妹の名前を口にしたりできるのか、ぼくは理解に苦しむほどです」
「だってわたしはあの方のことでお話があってここへ伺ったのですよ、名前を出さないわけにはいかなじゃありませんか!」
「いいでしょう。どうぞ、ただしなるたけ簡単に願います」
「わたしの妻方の親戚にあたるあのルージン氏については、あなたはもうきっとご自分の意見を組み立てられたことと思います。もし三十分でもお会いになるか、あるいはどんな噂にせよ、まちがいのない確かな話をお聞きになるかされたらですね。あれはアヴドーチヤ・ロマーノヴナにふさわしい男じゃありません。わたしの考えでは、この問題ではアヴドーチヤ・ロマーノヴナはまったく寛大な気持で、打算をぬきにして、その家族のために、自分を犠牲にしていられると思います。あなたについて聞いたかぎりから、わたしの勝手な推測ですが、あなたとしては、この縁談が利害をそこなわれずに破談になれば、これにこしたことはないと思っておられるはずです。いま、親しくあなたを知って、わたしはむしろそれを確信しました」
「あなたとしては、それはあまりに素朴すぎますね。失礼ですが、図々しすぎる、と言おうとしたんですよ」とラスコーリニコフは言った。
「つまりあなたは、わたしが自分の利益のために奔走していると言いたいのですね。その心配はご無用です、ロジオン・ロマーヌイチ、もしわたしが自分の利益のために奔走しているのなら、こうずばりと言いだしはしませんよ。わたしだってそれほどばかじゃありませんからな。このことについてひとつ心理上の不思議な変化を打ち明けましょう。さっきわたしは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに対する自分の愛を弁護して、自分のほうが犠牲者だと言いましたね。ところがはっきり言いますが、わたしはいまぜんぜん愛というものを感じていないのですよ、ぜんぜん、自分でも不思議なほどです、だって実際に何かを感じたことがあったんですからねえ……」
「無為と淫蕩のためにね」とラスコーリニコフはさえぎった。
「たしかに、わたしは無為で淫蕩な男です。しかし、そんなわたしでもまあ心をうごかさざるを得なかったのは、妹さんがあまりにもすぐれたところをお持ちだからですよ。でもそんなことはみなくだらんことです。いまは自分でもそれがわかります」
「まえからおわかりでしたか?」
「すこしまえから気づきはじめていましたが、はっきりと確かめたのは一昨日、ペテルブルグに着くと同時といっていいでしょう。しかし、モスクワにいた頃はまだ、ルージン氏とはりあって、なんとしてもアヴドーチヤ・ロマーノヴナの愛をかちとろうと思っていたんですよ」
「途中で口出ししてすみませんが、お願いですから、なんとか話をはしょって、すぐに来訪の目的に移ってもらうわけにはいきませんか。ぼく急いでおりますので、出かける用事があって……」
「結構ですとも。こちらへまいりまして、今度ある……航海に出ようと思いたちましたので、そのまえにいろいろしておかなければならないことを処理したいと思ったわけです。子供たちは伯母のもとにあずけました。子供たちにはそれぞれ財産がありますし、わたしなんかいないほうがいいくらいのものです。ろくな父親でもありませんしな! わたしが持ってきたのは、一年まえマルファ・ペトローヴナにもらったものだけです。わたしにはそれで十分ですよ。すみません、すぐ用件に移りますから。旅に出るまえに、これは多分実現するだろうと思いますが、わたしはルージン氏とも話をつけたいのです。あの男がどうにもがまんができないというのじゃありませんが、しかしあの男のことで、わたしとマルファ・ペトローヴナのあの争いがもち上がったのですよ。妻がこの縁談の口ききをしていることがわかったものでね。わたしはいまあなたのお世話で、できたらあなたにもいてもらって、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに会って、何よりもまず、ルージン氏からはこれっぽっちの利益も期待できないばかりか、かえって損失をこうむることは確実だということを、直接ご説明したいのです。それから、先日の不快なごたごたの失礼をわびたうえで、妹さんに一万ルーブリを差し上げる許しをこい、それによってルージン氏との破談による損害を軽くしてあげられたらと願っているわけです。この破談には、その可能な条件さえあらわれたら、妹さんだって決して反対ではないはずです」
「あなたはまさしく、まさしく気ちがいです!」とラスコーリニコフは怒るというよりは、いっそあきれて、思わず叫んだ。「よくもそんなことが言えたものだ!」
「あなたにそうどなられることは、ちゃんと承知していました。でも、第一に、わたしは金持じゃありませんが、この一万ルーブリは遊んでいる金です。つまりわたしにはまったく、まったく不要のものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナが受け取ってくれなかったら、わたしは、おそらく、もっともっとばかなつかい方をするでしょう。これがひとつです。第二に、わたしの良心にはこれっぽっちもやましいところはありません。わたしはいっさいの打算をぬきにして提供するのです。信じなさろうがなさるまいが、いずれはあなたにも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにもわかっていただけるでしょう。要するに、わたしは尊敬するあなたの妹さんに実際にかなりのご迷惑をおかけしたし、いやな思いをさせたためなのです。つまり、心底から後悔していますので、心をこめて望んでいるわけです。──何も罪のつぐないとか、不快の代償とかじゃなく、ただ妹さんのために何か利益になることをしてあげたいだけです。底を言えば、悪いことをするばかりが能じゃないことを、事実によって証明したいだけですよ。もしわたしの申し出にたとえ百万分の一でも打算があったら、わたしは一万ルーブリ程度を申し出はしませんよ。つい五週間まえにはもっと多額の金を提供すると申しあげたんですからねえ。そのうえ、わたしは、たぶん、もうじきある娘さんと結婚することになるはずですよ。ですからこの一事によってもアヴドーチヤ・ロマーノヴナにある野心があるなんて疑いは消えてしまうはずです。結論として申しあげますが、ルージン氏と結婚することによって、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはこれと同額の金をお受けになるわけです。ただし筋のちがう金ですがね──まあ、怒っちゃいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、落ち着いて冷静に判断してください」
そういうスヴィドリガイロフはきわめて冷静で落ち着きはらっていた。
「おやめください」とラスコーリニコフは言った。「とにかく、これは許しがたい不遜な言葉です」
「とんでもない。そんなことをおっしゃったら世の中で人間が人間に対して行い得るのは悪だけだということになります。それどころか、つまらない世間の体裁のために、これっぽっちの善を行う権利ももてないことになりますよ。ばかげたことです。じゃ例えばですね、わたしが死んで、遺言によって妹さんにそれだけの金をのこしたとしたら、それでも妹さんは受け取ることを拒むでしょうか?」
「大いに考えられますね」
「まあそんなことはありますまい。しかし、いやならいやで、別にかまいませんがね。だが、一万ぽっちでも──いざという場合には、ありがたいものですよ。まあとにかく、いま言ったことをアヴドーチヤ・ロマーノヴナにお伝えください」
「おことわりします」
「とおっしゃられると、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがやむを得ずなんとか会う機会をもとめる、したがって、おさわがせするということになりますね」
「じゃぼくが伝えれば、あなたは直接会う機会をもとめないわけですね?」
「それは、正直のところ、なんとも言えませんね。一度だけどうしてもお目にかかりたいと思うんですが」
「期待しないほうがいいでしょう」
「残念です。しかし、あなたはわたしという人間を知らないようですな。いまに、おそらく、もっとうちとけるようになるでしょうよ」
「ほう、もっとうちとけるようになる、とお思いですか?」
「思っちゃいけませんか?」スヴィドリガイロフはにやりと笑って、こう言うと、立ち上がって、帽子を手にもった。「わたしはあなたをわずらわすことをそれほど望んでいたというわけでもありませんし、ここへ来るときだって、それほど当てにしていたわけじゃありませんよ、もっとも、今朝ほどお見かけしたときは、あなたの顔にぎくっとしましたがね……」
「今朝ほどといいますと、いったいどこでぼくを見かけたんです?」とラスコーリニコフは不安そうに聞いた。
「偶然ですよ……それからは、あなたにはわたしに似た何かがある、どうもそんな気がしましてねえ……まあご心配なく、わたしは退屈な男じゃありませんよ。インチキカルタの仲間たちとも結構仲よくやりましたし、遠い親戚で高官のスヴィルベイ公爵にもあきられなかったし、プリルコーワヤ夫人のアルバムにラファエルのマドンナを讃える詩を書きこむ小才もありましたし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも七年間こもりきりの生活をしてきましたし、昔センナヤ広場のヴャゼムスキー公爵の邸宅(注 木賃宿の意味)に泊ったこともありますし、おまけに、もしかしたら、ベルグといっしょに気球にも乗りかねない男ですよ」
「まあ、わかりました。ところでうかがいますが、旅行には間もなくお発ちですか?」
「旅行といいますと?」
「ほら、その《航海》とやらですよ……自分でおっしゃったじゃありませんか」
「航海? ああ、そうですか!……たしかに、航海のことを話しましたね……でも、あれは広い意味があるんですよ……お知らせしましょうかな、あなたのお聞きになっていることの意味を?」と彼は言いたして、とつぜん大きな声で短く笑った。「わたしは、ひょっとしたら、航海の代りに結婚するかもしれませんよ。花嫁を世話してくれるひとがいるんですよ」
「ここでですか?」
「そうです」
「そんなひまがありましたか?」
「それはともかく、アヴドーチヤ・ロマーノヴナとなんとしても一度お会いしたいですな。まじめなお願いですよ。じゃ、また……あッ、そうそう! だいじなことを忘れてましたよ! ロジオン・ロマーヌイチ、マルファ・ペトローヴナの遺言書に三千ルーブリおくるように書いてあったと、妹さんに伝えてください。これはぜったいに本当ですよ。マルファ・ペトローヴナは死ぬ一週間まえに、わたしの見ているまえで、それを作成したんですから。二、三週間したらアヴドーチヤ・ロマーノヴナはその金を受け取ることになるはずです」
「それは本当ですか?」
「本当ですよ。伝えてください。じゃ、よろしく。宿はここのすぐ近くです」
出しなに、スヴィドリガイロフは戸口でラズミーヒンと出会った。
2
もう八時になろうとしていた。二人はルージンの先をこそうと、バカレーエフのアパートへ急いだ。
「おい、あれはいったい誰だね?」と通りへ出るとすぐ、ラズミーヒンは聞いた。
「スヴィドリガイロフだよ。家庭教師として住みこんでいた妹に、恥をかかせた例の地主だよ。あいつがしつこくくどいたために、妹はあいつの女房のマルファ・ペトローヴナに追い出されて、あいつの家を出たんだよ。そのマルファ・ペトローヴナがあとでドゥーニャにあやまったんだが、このあいだぽっくり亡くなったのさ。いまその話をしてたんだよ。どういうわけか知らんが、おれはあの男がひどく恐いんだ。やつは女房の葬式をすますとすぐに出てきた。ひどく変った男で何ごとか決意しているらしい……何か知っているふうだ……やつからドゥーニャを守ってやらにゃ……これをぼくはきみに言いたかったんだよ、わかるかい?」
「守ってやる? じゃ何だ、そいつはアヴドーチヤ・ロマーノヴナに危険を加えるかもしれんのか? よし、ありがとう、ロージャ、ぼくによくそれを言ってくれた……いいとも、守ってやろうよ!……そいつはどこに住んでるんだ?」
「知らんな」
「どうして聞かなかったんだ? くそ、惜しいことをしたな! まあいいさ、さぐり出すよ!」
「きみはやつを見たかい?」としばらくしてラスコーリニコフが聞いた。
「うん、見たよ。しっかり目に入れたよ」
「正確に見たのか? はっきり見たのか?」とラスコーリニコフはしつこく聞いた。
「うん、はっきりおぼえてるよ。千人の中からだって見わけられるよ。ぼくは顔のおぼえがいいんだ」
またしばらく沈黙がつづいた。
「フム……それなんだ……」とラスコーリニコフは呟いた。「でもねえ……ぼくはふとそんな気がしたんだ……しょっちゅうそんな気がするんだが……これはひょっとしたら幻覚かもしれないな」
「おい、何のことだ? きみの言うことがどうもよくわからんよ」
「そら、きみらはいつも言うじゃないか」とラスコーリニコフは口をゆがめてうす笑いをもらしながら、つづけた。「ぼくを気ちがいだって。もしかしたら、ぼくはほんとに気ちがいで、まぼろしを見ただけかもしれん、いまふっとそんな気がしたんだよ!」
「おい、きみは何を言ってんだ?」
「だって、誰がわかる! ぼくはほんとに気ちがいかもしれんよ。そしてこの数日のあいだにあったことは、みんな、ただそんなふうに思われただけかもしれない……」
「おい、ロージャ! また神経をみだされたな!……いったいあの男は何を言ったんだ、何しにきたんだ?」
ラスコーリニコフは答えなかった。ラズミーヒンは一分ほど考えていた。
「まあ、ぼくの報告を聞いてくれ」と彼は語りだした。「ぼくはきみの部屋へ寄ったが、きみは眠っていた。それで食事をして、ポルフィーリイのところへ出かけた。ザミョートフがまだいた。ぼくは早速あの話をきりだそうと思ったが、さっぱり埒があかん。どうも思うように言えないんだ。やつらは何のことやらまるでわからんという顔つきをしていたが、べつにあわてる様子もなくけろりとしている。そこでぼくはポルフィーリイを窓のそばへ連れてって、話しだしたが、どういうのかまた尻きれとんぼになってしまうんだ。やつはそっぽを向いてるし、こっちもそっぽを向いてるというぐあいだ。とうとう業を煮やして、拳骨をやつの鼻先へつきだし、親類として、頭をたたきわるぞと言ってやった。やつはじろりとおれを見ただけで、ものも言わん。おれはペッと唾をはいて、とびだしたよ。それでおしまいさ。ばかばかしいったらないよ。ザミョートフのやつとは口もきかなかった。ただね、ぼくはぶちこわしをやってしまったと、くさったが、階段を下りしなに、一つの考えがうかんだんだよ、まさにひらめきってやつさ。なんだってぼくらは気をもんでいるんだ? きみに危険なことが何かあるというのなら、そりゃむろん、じっとしてはおれんさ。ところが何もないじゃないか! きみはあの事件になんのかかわりもないんだから、あんなやつら屁でもない。あとで嘲笑ってやるさ。おれだったらこれ幸いとやつらを振りまわしてやるよ。あとでいい恥かくぜ! ざまあみろ。あとではぶんなぐってもいいが、いまは笑っていようよ!」
「むろん、そうさ!」とラスコーリニコフは答えた。
《だが明日になったら、きみはなんと言うだろう?》と彼は腹の中で考えた。不思議なことに、《わかったら、ラズミーヒンはどう思うだろう?》という考えが、いままで一度も彼の頭にうかばなかった。そう思うと、ラスコーリニコフはじっと相手の顔を見つめた。ポルフィーリイを訪ねたといういまのラズミーヒンの報告には、彼はほんのちょっとしか関心をもたなかった。あのとき以来ひくと見ればよせ、事情の変化があまりにもめまぐるしかったためだ!……
廊下で二人はルージンに出会った。彼はちょうど八時に来て、部屋をさがしていたのである。三人いっしょに入ったが、どちらからも見向きもしなければ、会釈もしなかった。若い二人はかまわず先へ通ったが、ピョートル・ペトローヴィチは礼儀として、間をおいて、わざわざゆっくり控室で外套をぬいだ。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはすぐにしきいのところに出て彼を迎えた。ドゥーニャは兄と挨拶をしていた。
ピョートル・ペトローヴィチは部屋へ通ると、ひどくもったいぶった様子だが、かなり愛想よく婦人たちと挨拶を交わした。しかし、いくらかどぎまぎして、まだ気持がしずまらない様子だった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナもうろたえ気味で、あわてて一同をサモワールがたぎっている円テーブルのまわりにかけさせた。ドゥーニャとルージンはテーブルの両端に向いあいに席をしめた。ラズミーヒンとラスコーリニコフはプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナと向きあうことになったが、──ラズミーヒンはルージンに近く、ラスコーリニコフは妹のそばに坐った。
短い沈黙が訪れた。ピョートル・ペトローヴィチはゆっくり香水の匂う麻のハンカチをとりだして、はなをかんだ。その態度はおだやかではあるが、しかしいささか人格を傷つけられ、その釈明を求めることをかたく決意している様子がうかがわれた。彼はもう控室にいるときに、このまま外套をぬがずに立ち去り、それによって二人の婦人をきびしく、十分に胸にこたえるようにこらしめて、ひと思いにすべてを思い知らせてやろうかとも思ってみた。しかしさすがにそれはできなかった。しかもこの男はものごとをわからぬままにしておくことが嫌いで、この際、はっきりさせなければならなかった。これほど露骨に彼の指図が破られるとすれば、何かあるにちがいない、とすれば、まずそれを知るのが得策だ。こらしめるのはいつでもできるし、しかも彼の意のままなのである。
「道中はべつにお変りもなかったことと思いますが?」と彼は型どおりにプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに尋ねた。
「おかげさまで、ピョートル・ペトローヴィチ」
「それは何よりでした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナもお疲れになりませんでしたか?」
「わたしは若いし、丈夫ですから、疲れませんけど、母はかなりこたえたようでした」とドゥーネチカは答えた。
「こまりますよ、わが国の道路はなにしろ長いですからなあ。いわゆる《母なるロシア》は広大ですよ……わたしはなんとか時間をくりあわせてと思ったのですが、昨日はどうしてもお出迎えすることができませんで失礼しました。しかし、べつにこれといった面倒もなくすんだことと思いますが?」
「まあ、とんでもない、ピョートル・ペトローヴィチ、わたしたちすっかりおろおろしてしまったんですよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいかにも意味ありげな口調で、急いで言った。「そしてもし神さまがこのドミートリイ・プロコーフィチを、昨日わたしたちにおつかわしくださらなかったら、それこそわたしたちはどうなっていたことやら。こちらがそのドミートリイ・プロコーフィチ・ラズミーヒンですわ」と彼女は言いそえて、彼をルージンに紹介した。
「ああ、もうお目にかかりました……昨日」とルージンは気色わるそうに横目でじろりとラズミーヒンを見て、呟いた。そして顔をしかめて、黙りこんだ。だいたいピョートル・ペトローヴィチは、見たところ人まえではひどく愛想がよく、また愛想のいいのをことさらに売りものにしているくせに、ちょっとおもしろくないことがあると、たちまち策を失ってしまって、座をにぎやかにする気さくな紳士というよりは、まるで粉袋みたいな存在になりかわってしまう、そういう種類の人間に属していた。みんなはまた黙ってしまった。ラスコーリニコフはかたくなに黙りこくっていた。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはいよいよというときまで沈黙を破りたくなかった。ラズミーヒンは何も話すことがなかった。そこでプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがまたしてもおろおろしだした。
「マルファ・ペトローヴナが亡くなりましたのよ、お聞きになりまして」と彼女はとっておきの話の種をもちだした。
「もちろん、聞きました。真っ先に知らされましたよ、それどころか今日こちらへ伺ったのもひとつは、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフが、妻の埋葬をすませるとすぐに急いでペテルブルグに向ったことを、あなた方にお知らせしたかったからですよ。これはわたしが受けた確実な情報ですから、まずまちがいはありますまい」
「ペテルブルグへ? ここへ?」とドゥーネチカは不安そうに聞きかえし、母と顔を見あわせた。
「そのとおりです、そして出発を急いだことを、だいたいのいままでの事情と思いあわせますと、何か目的があることはたしかです」
「ああ! ほんとにあの男はここまで、ドゥーネチカを困らせるつもりかしら?」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
「わたしは、あなたも、アヴドーチヤ・ロマーノヴナも、何も特別に心配なさることはないと思いますね。もっともあなた方のほうから、あの男とすこしでも関係を持とうとなされば別ですが。わたしとしても、気をつけていまあの男の止宿先をさがしておるわけです……」
「ああ、ピョートル・ペトローヴィチ、まさかとお笑いでしょうが、いまあなたはわたしを死ぬほどおびえさせたんですよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはつづけた。「わたしがあの男を見ましたのは二度きりですが、おそろしい、おそろしい男だと思いました! マルファ・ペトローヴナが亡くなったのも、きっとあの男のせいですよ、そうですとも!」
「そうとばかりも言いきれません。わたしは正確な情報をもっています。あの男がいわば侮辱という精神的影響をあたえることによって、事態の進行を早めたかもしれないということについては、別に異をたてません。が、あの男の行状と大ざっぱな精神的特徴に関しましては、たしかにあなたのおっしゃるとおりだと思います。いま彼が裕福かどうか、マルファ・ペトローヴナが何をどれだけ彼にのこしたかということは、わかりませんが、これについてはもうじきわたしに通知があるはずです。しかしもうこのペテルブルグに来ていることですし、たとえわずかでも金はもっているでしょうから、すぐに昔と同じことをやりはじめることはたしかです。彼は放蕩のかぎりを尽し、悪事に身をもちくずした連中の中でももっともたちの悪い男です。わたしは十分な根拠があって申しあげるのですが、マルファ・ペトローヴナは不幸にもあの男を熱愛して、八年まえに借金の肩代りをしてあの男を救ってやりましたが、それだけじゃないのです。もうひとつ別なことでもあの男に尽しているのです。と申しますのは、もうまちがいなくシベリア送りになるような、残忍で、しかもいわば怪奇な殺人という付録までついたある刑事事件が、ひとえにマルファ・ペトローヴナの尽力と犠牲のおかげで、ほんの初期のうちにもみ消されてしまったのです。まあ、あれはこういう男なんですよ、ご参考までに申しあげますが」
「まあ、おそろしい!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。ラスコーリニコフはじっと耳をかたむけていた。
「その正確な情報をもっているとおっしゃいましたが、それはほんとうですの?」とドゥーニャは相手の胸にじかに問いかけるように、きびしい調子で尋ねた。
「わたしは、亡くなったマルファ・ペトローヴナからこっそり聞かされていたことを、言っただけです。法律的に見ると、この事件が実にあいまいなものであることは、たしかです。ここにレスリッヒとかいう女が住んでいました。いまでもおそらくいると思いますが、外国人で、小金を貸したり、そのほかにもいろんなことをやっていた女です。そのレスリッヒという女とスヴィドリガイロフ氏は、まえまえからあるきわめて親密で、しかも不可思議な関係にあったわけです。その女のところに遠い親戚で、たしか姪だと思いましたが、唖でつんぼの十五歳くらいの、いやまだ十四だったかもしれません、一人の少女が住んでいたんですが、その少女をレスリッヒがひどくにくみまして、ごく些細なことでも叱りつけ、そのうえ残酷にうちすえたりまでしたそうです。ある日その少女が屋根裏で首つり死体となって発見されました。自殺ということに判定されて、型どおりの手続きがすんで、この事件は一応のかたがついたわけです。ところがあとになって、少女が……スヴィドリガイロフにむごたらしい凌辱を受けていた、と密告する者があらわれたのです。もっとも、密告したのがやはりドイツ女で、誰も信用しない札つきのあばずれでしたから、どうもあやしいものでしたがね。で、結局は、マルファ・ペトローヴナの尽力と金のおかげで、実際には密告はなかったということにして、ただの噂にしてしまったわけです。しかし、そうはいっても、この噂はなかなか深い意味がありました。アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、むろんあなたは、六年ほどまえ、まだ農奴制の時代のことですが、あの男の屋敷でフィリップという下男が責め殺された事件を、お聞きになりましたでしょうな」
「わたしが聞いたのは、まるでちがいますわ、そのフィリップとかいう下男が自分で首をくくったとか」
「たしかにそのとおりです、しかしその男を自殺させたのは、いや自殺に追いやったといったほうがいいでしょう、それはスヴィドリガイロフ氏のたえまない虐待と処罰のシステムなのです」
「そんなことは知りませんわ」とドゥーニャはそっけなく答えた。「わたしが聞いたのはなんだかとても奇妙な話だけですの。なんでもそのフィリップという下男はヒポコンデリーじみたところがあって、独学の哲学者とでもいうのですか、人々の噂では《本の毒にあたった》んだそうですわ。そして自殺したのもスヴィドリガイロフさんになぐられたためよりは、嘲笑われたためだとか。それにわたしがいました頃は、あの方はとても召使いたちに当りがよくて、召使いたちにも好かれていたほどですわ。もっともフィリップが死んだことでは、たしかにみんなあの方を責めていましたけれど」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どうやらあなたは、急にあの男の弁護にまわられたようですな」とルージンは口もとをゆがめてどっちともとれるうす笑いをうかべながら、言った。「たしかに、彼は女をまよわすつぼを心得た男ですよ。そのみじめな例があんな奇怪な死に方をしたマルファ・ペトローヴナです。わたしはただ、もう確実に目のまえにせまっている新しい彼の企てを考えて、わたしなりの忠告を申しあげて、あなたとあなたのお母さんのお役に立ちたいと思ったまでです。わたし個人の考えとしては、あの男はまた借金をつくって留置場にぶちこまれることはまちがいないと、確信しています。マルファ・ペトローヴナは子供たちのことを考えていましたから、あの男にいくらかでも財産を譲渡するつもりは毛頭もっておりませんでしたし、よしんば何かのこしたにしても、どうせさしあたって必要なものだけで、まああまり値打ちのない、ほんの一時しのぎのものでしょうから、あの男の生活態度では一年ともたないでしょうな」
「ピョートル・ペトローヴィチ、お願いですから」とドゥーニャは言った。「スヴィドリガイロフ氏の話はやめてください。聞いていると気がふさぐばかりです」
「彼はさっきぼくのところへ来ましたよ」とラスコーリニコフははじめて沈黙をやぶって、だしぬけに言った。
四方からおどろきの叫びが起り、みんなの顔がラスコーリニコフを見た。ピョートル・ペトローヴィチさえどきっとした。
「一時間半ほどまえ、ぼくが眠っていると、入ってきて、ぼくを起して、自己紹介をしましたよ」とラスコーリニコフはつづけた。「いやになれなれしく、ほがらかで、あなたとはきっとうまがあいますよなんて、いかにも自信ありげでしたよ。特に、おまえとはひどく会いたがってね、ドゥーニャ、ぼくに仲立ちしてくれと頼むんだ。おまえにひとつ提案があるそうだ。その内容は、ぼくにおしえてくれたよ。それから、確実な知らせとしてぼくに語ったんだが、マルファ・ペトローヴナがね、ドゥーニャ、死ぬ一週間まえに遺言状を作成して、おまえに三千ルーブリのこしてくれたそうで、その金はもうじきおまえの手にわたるそうだよ」
「まあ、よかったわねえ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは思わず歓声をあげて、十字を切った。「あのひとのためにお祈りをしなさい、ドゥーニャ、お祈りをしなさい!」
「それはたしかに本当です」とルージンはうっかり口をすべらせてしまった。
「それから、ねえ、それからどうしたの?」とドゥーネチカはせきたてた。
「それから、自分はあまり金持じゃない、財産はすっかりいま伯母のところにあずけてある子供たちのものになるだろう、なんて言ってたよ。また、どこかぼくの家の近所に宿をとってるそうだが、どこだったか? 知らないな、聞きもしなかった……」
「で、いったいどんなことなの、どんなことをドゥーネチカに提案したいというの?」とおびえきったプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナが尋ねた。「あの男はおまえに言ったんだろう?」
「ええ、言いました」
「それで、どんなことなの?」
「あとで言います」ラスコーリニコフは口をつぐんで、自分の茶へ手をのばした。
ピョートル・ペトローヴィチは時計をだして、ちらと見た。
「用事ででかけなければなりませんので。そうすればお邪魔にもならないでしょうし」と彼はいくぶん皮肉な調子でつけ加えると、席を立ちかけた。
「お待ちください、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャは言った。「今夜はゆっくりなさるおつもりでおいでくだすったのでしょう。それにお手紙でも、何か母と話しあって得心したいことがおありなさるとか」
「たしかにそのとおりです、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」ピョートル・ペトローヴィチはまた椅子に腰をもどしたが、帽子はやはり手にもったままで、意味ありげに言った。「わたしはたしかにあなたとも、尊敬するあなたのお母さんとも、じっくり話しあいたいと思っていました。しかもひじょうに大切なことをです。しかしあなたのお兄さんもわたしのいるところでは、スヴィドリガイロフ氏のある提案を話すことがおできにならないように、わたしも……他人のいるところでは……あるきわめて重要ないくつかの問題について……話しあうことを望まないし、またできません。しかもわたしの主要な、もっとも切なる願いが実行されませんでした……」
ルージンはにがにがしい顔をつくって、思い入れよろしく口をつぐんだ。
「兄がわたしたちの話しあいに同席しないように、というあなたのお願いは、わたしが主張したために実行されなかったのです、ほかに理由はありませんわ」とドゥーニャは言った。「あなたのお手紙に、兄に侮辱されたと書いてありました。こういうことはぜひともよく話しあって、あなた方お二人に仲直りをしてもらいたい、と思いますの。そしてもしロージャがほんとうにあなたを侮辱したのならば、兄はあなたに許しを請うべきですし、きっと請うはずですわ」
ピョートル・ペトローヴィチはとたんにぐっと大きく構えた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どんなに善意に解釈しても、忘れることのできない侮辱というものがあります。何ごとにも踏みこえることが危険な一線があります、それを踏みこえたら、もうもどることはできないのですよ」
「わたしは何もそんなことをいってはおりませんわ、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャはすこしじりじりしながらさえぎった。「わたしようく考えていただきたいの、わたしたちの未来はひとえに、こんなことがすっかりはっきりして、うまくおさまるかどうか、ということにかかっているのじゃありません? わたしははじめに、はっきりおことわりしますけど、それ以外には考えられませんわ。だからもし、あなたがすこしでもわたしを大切に思ってくださるなら、おいやかもしれませんが、こんなことは今日でおしまいにしていただきたいの。重ねて申しますけど、兄が悪いのなら、兄に謝罪してもらいますわ」
「おどろきましたよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたが問題をそんなふうに設定なさるとは」ルージンはしだいに神経がたかぶってきた。「わたしはあなたの人格を重んじ、いわば尊敬しておりますよ。だからといって、あなたのご家族の誰かを嫌いだということとは、すこしも矛盾しないと思いますがねえ。あなたのお手をいただく幸福は望んでおりますが、だからといって、同意の得られぬ義務をひきうけることはできませんな……」
「まあ、そんな短気はおっしゃらないで、ね、ピョートル・ペトローヴィチ」とドゥーニャはやさしい気持をこめてさえぎった。「わたしがいつも考えていたような、そしてそうあってほしいと思っているような、あのものわかりのいい、気品のある人になっていただきたいの。わたしはあなたに神聖な約束をあたえました。わたしはあなたの許嫁ですわ。だからこの話はわたしにおまかせになっていただきたいの。信じていただきたいの、わたしはできるかぎり公平に判断いたしますわ。わたしが裁判官の役をひきうけるなんて、あなたにも意外でしょうけど、兄にだってずいぶん思いがけないことですわ。あなたのお手紙を拝見してから、今日のこの席にどうしても来てくれるようにと兄にたのんだとき、わたしは自分の考えを一言も兄におしえませんでしたわ。おわかりになってくださいね、もしあなた方が仲直りをしてくださらなかったら、わたしはあなた方のうちのどちらかを選ばなければなりませんのよ。あなたか、兄か。兄も、あなたも、問題をそういうふうにしてしまったんですもの。わたしは選択をあやまりたくありませんし、あやまることは許されませんわ。あなたにつけば兄と縁をきらねばなりませんし、兄につけばあなたと別れなければなりません。わたしがいま確実に知りたいし、そして知ることができるのは、わたしにとってこのひとは兄だろうかということ、それからあなたについては、あなたにとってわたしが大切な人間だろうか、あなたがわたしの人格を重んじてくださるだろうか、つまりあなたがわたしにとって良人たるべき人だろうか? ということですわ」
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」とルージンはむずかしい顔になって、言った。「あなたのお言葉はわたしにとってあまりにも意味深長ですな。もっと言えば、わたしがあなたに対する関係において占めさせていただいている立場を考えるとき、それはむしろ侮辱ですね。わたしと……傲慢無礼な青年を一枚の板の上におきならべるという、この奇怪きわまる侮辱については、いまさら何も言うことはありませんが、あなたはいまのお言葉によって、わたしにあたえた約束を破棄する可能を認められたわけですな。あなたは《わたしか、兄か?》と言われる。つまりその言葉によって、わたしがあなたにとってたいした意味のない存在であることを、わたしにさとらせようとしていなさるわけだ……わたしたちの間に存在する関係と……義務を考えるとき、わたしはそのようなことは許すことができません」
「何をおっしゃいます!」とドゥーニャはきっとなった。「わたしはあなたとの関係を、これまでの生活でわたしに大切だったもの、これまでのわたしの生活のすべてだったものと、並べておきましたのよ。それなのにいきなり、あなたにあまり重きをおかないなんて、お怒りになったりして!」
ラスコーリニコフは黙って、針をふくんだうす笑いをもらした。ラズミーヒンの全身にふるえがはしった。しかし、ピョートル・ペトローヴィチはこの抗議をうけつけなかった。それどころか、彼は一言一言がひっかかり、ますます神経をかきたてられて、いよいよ話に身が入ってきたようだ。
「将来の生活の伴侶たる良人に対する愛は、兄に対する愛にまさらなければなりません」と彼はいましめさとすように言った。「とにかく、わたしは同列におかれることはごめんです……さっきわたしは、あなたの兄さんのおられるところでは、来訪の用件をぜんぜん話したくないし、話すことはできない、と言い張りましたが、それはともかくとして、わたしはいま尊敬するあなたのお母さんに、一つのきわめて重要な、しかもわたしにとって屈辱的な問題のしかるべき釈明をおねがいするつもりです。あなたの息子さんは」と彼はプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナのほうを向いた。「昨日、ラススードキン氏のおられるまえで(いや……ちがいましたかな? どうも失礼しました、お名前を忘れたりして、──と彼は愛想よくラズミーヒンに一礼した)、わたしの考えをゆがめてわたしに侮辱を加えたのです。それはあの当時コーヒーの席でくつろいだ話のついでにあなたに申しあげたことですが、つまり、もう生活の苦労を知っている貧しい娘と結婚したほうが、何不自由なく育った娘と結婚するよりは、道徳という点から見てもいいことだし、従って夫婦生活をいとなむうえにおいてもずっと有利だと思う、と申しあげたあのことなのです。あなたの息子さんはわざと言葉の意味をあきれるほどに誇張して、わたしが何か陰険な下心でももっているように非難しましたが、わたしが思うのには、あなたのお書きになった手紙にその原因があるような気がするのですが、そこでプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、もしあなたがこの疑念をくつがえして、わたしをすっかり安心させてくだされば、わたしとしてはこんな嬉しいことはありません。おおしえいただけないでしょうか。ロジオン・ロマーヌイチへのお手紙の中で、あなたはどういう用語をおつかいになってわたしの言葉をお伝えになりましたか?」
「おぼえておりませんよ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはうろたえた。「自分で納得したとおりに、伝えましたよ。ロージャがあなたにどう言ったか、知りませんが……すこしは誇張したかもわかりませんね」
「あなたの暗示がなかったら誇張はできないはずですね」
「ピョートル・ペトローヴィチ」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはきっと居ずまいを正した。「わたしとドゥーニャがあなたの言葉をひどくわるいほうにとらなかった証拠は、わたしたちがここに来ていることです」
「そうよ、お母さん!」とドゥーニャははげますように言った。
「つまり、これもわたしがわるいということですな!」とルージンはむっとした。
「そうよ、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたは何もかもロジオンがわるいようにおっしゃいますけど、あなただって昨日の手紙に、ロジオンのことでまちがったことをお書きになったじゃありませんか」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは、元気づいて、つけ加えた。
「何かまちがいを書きましたか、さあおぼえがありませんな」
「あなたはこう書いていますよ」とルージンのほうを見向きもしないで、ラスコーリニコフがたたきつけるように言った。「ぼくが昨日お金を轢死した官吏の未亡人にではなく、その娘にやった、とね。ところが実際は、ぼくは未亡人にやったのですよ。何しろその娘というのは昨日まで一度も会ったことがないんだから。あなたがあんなことを書いたのは、ぼくと家族を喧嘩させるためです。だから、けがらわしい表現で、知りもしない娘の行状をわざわざつけ加えたりしたんだ。あんなものはみな中傷です、実に卑劣です」
「失礼ですが、あなた」と憎悪に身をふるわせながら、ルージンはやり返した。「わたしがあの手紙にあなたの人柄や行為についてまで書いたのは、わたしがあなたをどう見たか、どんな印象をうけたかを、ぜひ知らせてほしいというあなたの妹さんとお母さんのご依頼を果したまでです。わたしの手紙であなたが指摘された点については、一行でもまちがいがあったら見つけてもらいましょう、つまり、あなたが金を浪費しなかったか、たしかに気の毒な家庭にはちがいないが、あの家庭にけがれた人間はいなかったか、ということですがね?」
「ぼくにいわせれば、あなたなんか、もっている価値を全部あわせても、あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しませんね」
「なるほど、ではあなたはあの娘を、あなたのお母さんや妹さんの仲間に入れるつもりがあるというわけですな?」
「お望みなら言いましょう、それはもうしましたよ。今日母や妹と同席させました」
「ロージャ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ドゥーネチカは顔を赤らめた。ラズミーヒンは眉根をよせた。ルージンは毒々しく傲慢ににやりと笑った。
「おわかりになりましたでしょうな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」と彼は言った。「これじゃ意見があうわけがありませんよ! これでこの問題ははっきりかたがついたものとして、もう二度とむしかえしたくありませんな。じゃわたしは、家庭のつどいのこれからの楽しみと秘密の話を邪魔しないために、このへんで引きさがることにしましょう」彼は腰をあげて、帽子を手にもった。「ところで、去るにあたって、一言申しあげておきますが、今後このような集まりと、示談とでもいいますか、そういうものはごめんこうむりたいものですな。それから、尊敬するプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、あなたには特にお願いしたいですな、こんなことのぜったいにないように。ましてあの手紙は、ほかの誰にでもなく、あなたにあてたものですからな」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはいささかむっとした。
「おやまあ、あなたはもうすっかりわたしたちを召使いあつかいだわね、ピョートル・ペトローヴィチ。ドゥーニャはどうしてあなたの希望が果されなかったか、その理由をあなたに説明したんですよ。この娘はりっぱな意向をもっていました。それにあなたがわたしのよこした手紙の書きぷりは、まるで命令です。いったいわたしたちは、あなたのどんな希望でも命令と思わなければなりませんの? わたしならその反対に、いまのあなたこそわたしたちに特にやさしい心づかいで、思いやりをかけてくださるのが本当だと言いたいですよ。だってわたしたちは何もかもすてて、あなたをたよりにして、こちらへ来たんですもの。だからそれでなくてももうあなたの支配下に入っているみたいなものですよ」
「いちがいにそうとも言えませんな、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ、特にいまはね、なにしろマルファ・ペトローヴナに三千ルーブリのこされたことを知らされたことでもありますし、それもタイミングが実によかったらしいですな、わたしに対する話しぶりががらりと変ったところを見ますとね」と彼は毒々しくつけ加えた。
「そういう言葉を聞かされますと、あなたがわたしたちの無力を期待していたということが、たしかに考えられますわね」とドゥーニャは苛々しながら言った。
「しかしいまは少なくともそれを当てにはできませんな。それにわたしはアルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフの秘密の申し出の伝達を邪魔したくありませんよ。あなたのお兄さんがその全権を委任されているようですし、どうやらそれはあなたにとって重要な、しかも実に楽しいらしい意味をもっているようですからね」
「まあ、なんてことを!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ラズミーヒンはじっと坐っていられなかった。
「おい妹、おまえはこれほどまで言われて恥ずかしくないのか?」とラスコーリニコフは尋ねた。
「恥ずかしいわ、ロージャ」とドゥーニャは言った。「ピョートル・ペトローヴィチ、おかえりください!」彼女は怒りに蒼ざめて、ルージンをきっと見た。
ピョートル・ペトローヴィチはこのような結末はぜんぜん予期しなかったらしい。彼は自分と、自分の権力と、自分の犠牲者たちの無力をあまりにも当てにしすぎていたのである。いまでもまだ信じられなかった。顔がさっと蒼ざめ、唇がひくひくふるえだした。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、もしわたしがいま、このような門出の言葉をうけてこのドアを出ていったら、いいですか、わたしはもう二度ともどりませんぞ。よくよく考えることですな! わたしの言葉はかたいですぞ」
「なんという無礼な!」と叫ぶと、ドゥーニャはさっと席を立った。「わたしだって、あなたになんかもどってきてもらいたくありません!」
「なんですと? なあるほどそうですか!」ルージンは最後の一瞬までこのような幕切れはゆめにも思っていなかっただけに、完全に度を失って、思わず叫んだ。「なるほど、そういうわけですか! でもご存じでしょうな、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、わたしは抗議することもできるんですよ」
「あなたはどんな権利があって娘にそんな口がきけますの!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナがかっとなって割りこんだ。「どんな抗議ができますか? え、それはどんな権利ですの? 無礼な、あなたのような男に、うちのドゥーニャをやれますか? 出て行ってもらいます、二度と来ないでください! こんなまちがった道にふみこんだのは、わたしたちが悪かったのです、誰よりもわたしが……」
「しかし、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ」ルージンは憤然とした。「あなたは約束でわたしをしばっておきながら、いまになってそれを破棄するなんて……しかも、結局……結局は、そのためにわたしは、いわば、金をつかわされたんだ……」
この最後の苦情がピョートル・ペトローヴィチの性格にあまりにもぴったりしていたので、怒りとそれをおさえる努力のために真っ蒼になっていたラスコーリニコフは、不意にこらえきれなくなって、──大声で笑いだした。だが、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは逆上してしまった。
「金をつかわされたって? それはいったいどんな金なの? まさかわたしたちのトランクのことじゃないでしょうね? あれは車掌さんがただにしてくれたはずですよ。わたしたちがあなたをしばったって、なんてことを言うんです! 頭はたしかですの、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたがわたしたちの手足をしばったんじゃありませんか、わたしたちがあなたをしばったなんてとんでもない!」
「もういいわよ、お母さん、どうか、おやめになって!」とアヴドーチヤ・ロマーノヴナは母にたのんだ。「ピョートル・ペトローヴィチ、どうぞお帰りください!」
「帰りましょう、だがそのまえに一言だけ言わせてもらいます!」と彼はもうほとんど自分をおさえる力を失って、かみつくように言った。「あなたのお母さんはすっかり忘れていなさるようだが、わたしがあなたをもらう決意をしたのは、あなたの名誉を傷つけるあの噂が町中にたてられたそのあとですよ。あなたのために世評を無視して、あなたの名誉を回復してやったのだから、もちろん、わたしは至極当然の権利として、報酬を期待していいはずだし、あなたの感謝を要求することだってできるはずですがねえ……いまやっと目があきましたよ! 世間の声を無視したことは、まったく軽率な行為だったかもしれないということが、よくわかりましたよ……」
「こいつ、頭がどうかしているのか!」とラズミーヒンは椅子をけって、いまにもなぐり倒そうと身がまえながら、叫んだ。
「あなたは品性下劣な悪い人です!」とドゥーニャが言った。
「何も言うな! うごくな!」とラスコーリニコフはラズミーヒンをおさえながら叫んだ。そして、いまにも額をつきあわせるほどに、ルージンのまえへつめよった。
「出て行ってください!」と彼は声を殺してゆっくり言った。「これ以上一言も口をきかないでもらいたい、さもないと……」
ピョートル・ペトローヴィチは数秒のあいだ憎悪にゆがんだ蒼白な顔で彼をにらんでいた。それからくるりと背を向けて、出て行った。もちろん、いまこの男がラスコーリニコフにいだいたほどのうらみと憎悪で心を煮えたぎらせて、誰かと別れた経験をもつ者は、めったにいまい。彼に、彼一人に、ルージンはすべての罪をきせた。おどろいたことに、もう階段を下りながら、彼はまだ、これですっかりだめになってしまったわけではあるまい、女たちだけなら、まだまだ《十分に》もとへもどせると考えていたのである。
3
最大の誤算は、彼は最後の瞬間までこのような幕切れをぜんぜん予期しなかったことである。彼は二人の貧しい頼りのない女が彼の支配下からぬけだすことができるなどとは、そういうことがあり得るということすら予想しないで、最後までいばりかえっていたのだった。その確信を大いに助長したのは虚栄心と、自惚れとよぶのがもっともいいほどにこうじた自己過信だった。ピョートル・ペトローヴィチは、貧から身を起しただけに、病的なまでに自惚れのくせがつき、自分の頭脳と才能を高く評価していて、ときには、一人きりのときなど、自分の顔を鏡にうつして見惚れていることさえあった。しかし彼がこの世の中でもっとも愛し、そして大切にしていたものは、苦労をし、あらゆる手段をつかってたくわえた財産だった。それが彼に自分よりも上のすべての人々と肩を並べさせてくれたのである。
さっき苦々しい気持で、悪い噂を無視して娶る決意をしたのだと、ドゥーニャに言ったとき、ピョートル・ペトローヴィチは本気でそう思っていたし、このような《憎むべき忘恩》に対して深いいきどおりをさえ感じたのだった。しかしあの当時でも、彼はドゥーニャをかばってはいたが、同時に、当のマルファ・ペトローヴナがみんなのまえで、くつがえしたことではあるし、ドゥーニャを熱心に弁護した町中の人々が、もうとっくに忘れてしまったことであるから、そのかげ口がばかばかしいものであることは、完全に確信していたのである。それに彼は自分でも、そんなことはすっかりあの当時でも知っていたということを、いまさら否定もできないはずである。それにもかかわらず、彼はやはりドゥーニャを自分の位置まで上げるという自分の決意を高く評価し、それを自分の功績と考えていた。いまそれをドゥーニャに言ったとき、彼は胸の中でひそかに甘やかしてきた考えを述べたのだった。彼はその考えをもう何度となくとろけるような目でながめてきたし、どうして他の人々がこの彼の功績を喜びの目でながめることができないのか、のみこめなかった。ラスコーリニコフを訪ねたときも、彼は恩人が自分の善行の果実を味わい、このうえなく甘いお世辞を聞くような気持で入って行ったのだった。だからいま、階段を下りながら、彼が極度に侮辱され、好意を無視されたと考えたのは無理もなかった。
ドゥーニャは彼にとってどこまでも必要な女性だった。彼女を思いきることは考えられなかった。もうまえまえから、もう何年もまえから、彼はとろけるような思いで結婚を夢に描き、せっせと金をためて、その日のくるのを待っていたのだった。彼は心の奥深くで、品行がよくて貧しい(ぜったいに貧しくなくてはいけなかった)、ひじょうに若く、ひじょうに美しい、上品で教養のある、ひどくおびえやすい娘、そして世の中の苦労という苦労をなめつくして、彼にぜったいの恩を感じ、生涯彼を救いの神と考えて、感謝し、服従し、彼を、彼一人だけをおそれるような娘、そういう娘をわくわくしながら思い描いていたのだった。彼はしごとのひまに一人でしずかに憩いながら、頭の中で、この魅惑的な浮わついたテーマについて、どれほどのシーン、どれほどの甘いエピソードを創りあげたことだろう! そしてこの何年もの空想(ゆめ)がもうほとんど実ろうとしていた。彼はアヴドーチヤ・ロマーノヴナの美しさと教養にうたれた。彼女の頼りない境遇が彼を有頂天にした。そこには彼が空想していたよりも、以上のものさえあった。気位の高い、個性の強い、心の美しい、教育も知識も彼よりも上の(彼はそれを感じていた)娘があらわれたのだ。そしてこれほどの娘が生涯奴隷のように彼の恩に感謝し、喜んで彼のいけにえとなる、そして彼はぜったいの支配者として君臨するのだ!……おあつらえむきに、そのすこしまえから、機を見ながら長いことあれやこれや考えた末に、彼はついに、思いきって職場を変えて、もっと広い活動の場に踏み出し、そして同時にもうまえまえからしびれる思いで夢に見ていた上流社会にも移って行こうと、決意していた……要するに、彼はペテルブルグに乗りだしてみようと決意したのだった。彼は女をつかえば《実に、実に》多くのものを勝ち得られることを知っていた。チャーミングな、心の美しい、しかも教養の高い女の魅力は、おどろくほど彼の前途を飾り、彼の周囲をにぎわし、彼の栄誉を創りあげるはずだった……それがいま、すっかりだめになってしまった! このいましがたの思いがけぬみにくい決裂は、落雷のように彼を打った。それは一種の不作法な悪ふざけだった。愚にもつかぬことだった! 彼はちょっと力んでみただけだ。十分に意見をのべるひまもなかった。ただちょっとふざけて、いい気になっただけなのに、こんな重大な結果になってしまった! それに、実のところ彼はもう自分なりにドゥーニャを愛していて、空想の中でもう彼女を思うままにしていたのだった。──それが不意に!……こんなことってあるものか! 明日こそ、明日こそこれをすっかりたて直し、手当てを加え、修正しなければ、そして要は──あの鼻もちならぬ青二才を抹殺して、病根をたつことだ。彼は不快な気持で、これも気になるらしく、ラズミーヒンのことを思い出していた……しかし、そのほうの不安はすぐに消えた、《もちろん、あいつも並べて成敗だ!》しかし彼が実際に本気でおそれていたのは、──ほかでもないスヴィドリガイロフだった……要するに、いろいろな苦労が彼のまえに立ちふさがっていた……………………………
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「いいえ、わたしが、わたしがいちばんわるいのよ!」とドゥーネチカは母を抱いて接吻しながら言った。「わたしがあの男のお金にまよったのよ、でも誓って言いますけど、兄さん、わたしあのひとがあんななさけない人間だとは、思いもよらなかったわ。もしもっとまえに見ぬいていたら、わたし何にも目をくれなかったはずよ! わたしを責めないでね、兄さん!」
「神さまのおかげだよ! 神さまのおかげだよ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは呟いたが、まだ何かぼんやりしていて、起ったことの意味がよくのみこめていないふうだった。
みな喜んでいた。五分後には笑い声さえ聞かれた。ドゥーネチカだけはときどき蒼ざめて、いましがたのできごとを思い出しながら、眉根をよせた。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナには、自分も喜ばしい気持になるだろうなどとは、想像もできなかった。つい今朝ほどはまだ、ルージンときれることを恐ろしい不幸のように思っていたのだった。それにひきかえ、ラズミーヒンは有頂天になっていた。彼はまだその喜びを露骨に出す勇気はなかったが、まるでおこりにつかれたようにがたがたふるえていた。心にのしかかっていた五ポンドの分銅がとれたような気持だった。いまこそ彼には一生を彼女たちにささげて、彼女たちに仕える権利があるのだ……それにこれからはいろいろなことがあるにちがいない! しかし、彼はうれしさよりこわさが先に立って、走りすぎる考えを追いはらい、自分の想像をおそれた。ラスコーリニコフだけはやはり同じ場所に坐ったまま憂鬱そうな顔をして、放心したようなふうにさえ見えた。彼はルージンを遠ざけることを誰よりも主張しながら、いまのできごとに誰よりも関心をもっていないようだった。ドゥーニャは、彼がまだ自分にひどく腹を立てているのではあるまいかと思った。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはびくびくしながら彼の顔色をうかがっていた。
「スヴィドリガイロフさんはいったいどんなことを言ったの?」とドゥーニャは兄のそばへ行った。
「あッ、そう、それを聞くんだったわね!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
ラスコーリニコフは顔をあげた。
「彼はどうしてもおまえに一万ルーブリやりたいというんだよ、そしてぼくをオブザーバーにしてぜひ一度おまえに会いたいそうだ」
「会うって! そんなことさせるもんですか!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。「この娘にお金を申し出るなんて、よくもそんな図々しいことが!」
つづいてラスコーリニコフはスヴィドリガイロフとの話をかなりそっけなく伝えた、しかし脇道にそれたくなかったし、どうしても必要なこと以外はどんなことも話すのが嫌だったので、マルファ・ペトローヴナの亡霊のところはぬいた。
「それで兄さんは何と答えたの?」とドゥーニャは尋ねた。
「はじめは、おまえにぜったいに伝えないって言ってやったよ。そしたら彼は、どんなことをしてでも、自分で会う機会を見つけ出すと言うんだ。彼は断言していたよ、おまえに対する情熱はたわけた一時の迷いで、いまではもう何も感じていないって……彼はおまえをルージンにやりたくないんだよ……ぜんたいとして話の調子がおかしかったよ」
「ね、兄さん自身はあの男をどう思いました? どんなふうに見えました?」
「正直なところ、さっぱりわからんのだよ。一万ルーブリをやると言うかと思うと、あまり金がないなんて言ってみたり。どこかへ旅行に出かけるつもりだなんて言っておいて、十分もすると、自分の言ったことを忘れているんだ。そうかと思うととつぜん、結婚しようと思う、ある娘を世話されているんだ、なんて言いだしたり……彼に何か目的があることは、たしかだ。しかもどうみても──よくない目的だ。しかしおまえに対して何かよくないたくらみを持っているとすれば、まさかあんなばかな出方をしようとは思われないし、おかしいよ……ぼくは、むろん、おまえのために、そんな金はきっぱりことわったよ。どことなくひどく奇妙な感じだった。それに……狂人と思われるようなふしさえあった。しかしぼくだってまちがいはある。一種の錯覚にすぎないかもしれん。どうも、マルファ・ペトローヴナの死がかなりこたえたらしい……」
「主よ、あの方の霊に安らぎをあたえたまえ!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは言った。「いつまでも、いつまでもあの方のためにお祈りしましょう! だってドゥーニャ、その三千ルーブリがなかったら、わたしたちはいまどんな気持だったろうねえ! ほんとに、まるで天からの下さりものみたいだよ! まあお聞きよ、ロージャ、わたしたちは今朝たった三ルーブリしか手もとにのこってなかったんだよ。そしてドゥーネチカと早く時計をどこかにあずけて、向うから気がつくまでは、あの男に金のことは言い出さないようにしようって、話しあっていたところだったんだよ」
ドゥーニャはどうやらスヴィドリガイロフの申し出があまりにも大きなショックだったらしい。彼女は立ったまま考えこんでいた。
「あの男は何か恐ろしいことをたくらんでいるんだわ!」と彼女はいまにもふるえあがりそうに、ほとんど囁くような声でひとりごとを言った。
ラスコーリニコフはこの極度の恐怖を見てとった。
「ぼくはもう何度か彼に会うことになりそうだよ」と彼はドゥーニャに言った。
「監視しようじゃないか! ぼくはやつをつけまわすよ!」とラズミーヒンは力強く言った。「目をはなすものか! ロージャがぼくに許したんだ。彼は自分でさっきぼくに《妹を守ってくれ》と言ったんですよ。あなたもそれを許してくださいますか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ?」
ドゥーニャはにっこり笑って、彼に手をさしだしたが、顔の不安は消えなかった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはときどきおずおずと娘の顔に目をやった。しかし、三千ルーブリは明らかに彼女をほっとさせたらしかった。
十五分後にはみんなひどくにぎやかに話しあっていた。ラスコーリニコフでさえ話はしなかったが、しばらくは熱心に聞いていた。熱弁をふるっているのはラズミーヒンだった。
「いったいどうして、どうして帰る必要があるんです!」と彼はうれしさのあまり酔ったようになってしゃべりつづけた。「それに田舎で何をしようというのです? 要するに、ここにみんないっしょに暮すことですよ、そのほうがおたがいに役に立てて、いいんです、どれほどいいかわかりませんよ、──ぼくの言うことがわかりますね! そして、ときどきでいいですから……ぼくも仲間に入れてください。ぼくはもうすてきなプランを考えているんです。ほんとですとも。お聞きください、いまからそれを、──そのプランをすっかり説明しましょう? それは今朝、まだ何も起らないうちにですよ、ぼくの頭にひらめいたんです……そのプランというのはこうなんです。ぼくに伯父が一人います(いずれご紹介しますが、実によくできたいいお爺ちゃんですよ)。その伯父に千ルーブリの貯金があるんですが、恩給暮しで、要らないんです。もう二年ごし伯父は、六パーセントの利息をはらってくれればいいから、その千ルーブリを借りてくれって、うるさくぼくに言うんですよ。ぼくはわかってますが、要するに伯父はぼくを援助したいんですよ。去年は要らなかったけど、今年は伯父の出てくるのを待って、借りる決心をしました。そこであなたにも三千ルーブリのうちから千ルーブリだけ出資してもらいたいのです。それだけあればまずスタートは大丈夫です。こうして共同経営をやるわけですが、それじゃ何をやろうというのか?」
そこでラズミーヒンは自分のプランの説明に移り、ほとんどの本屋や出版業者が本のことをさっぱり知らないから、一般に出版は割りがあわないと言われているが、しかしいいものを出せばおおむね採算がとれるし、利益がでる、ときにはかなりもうかることがあるということを、口をすっぱくして述べたてた。もう二年手伝ってきたし、ヨーロッパの三カ国語にかなり通じていたので、出版をやることはラズミーヒンの空想(ゆめ)だった。六日ほどまえに、彼はラスコーリニコフにドイツ語は《さっぱりだ》と言ったが、あれは翻訳料の半分と手付けの三ルーブリをとらせるために嘘をついたので、ラスコーリニコフもそれが嘘であることは知っていた。
「もっとも肝要な手段の一つである自分たちの資本ができたのに、どうして、いったいどうしてせっかくのこの機会を逃がす必要があるのです?」とラズミーヒンは熱くなった。「そりゃむろん、苦労は多いでしょうが、いっしょに苦しもうじゃありませんか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、あなたと、ぼくとロジオンと……いまひじょうに当っている出版物もあるんですよ! このしごとのいちばんだいじな基礎は、何を訳したらいいかということをよく知ることです。翻訳と、発行と、勉強を、みんなでいっしょにやろうじゃありませんか。さしあたってぼくが役に立てます。経験がありますから。もう二年近く出版社をわたり歩きましたから、楽屋裏はすっかり知ってます。みんないいかげんなものですよ、ほんとです! まったく、ごちそうを目のまえに見ながら、食わないっててはありませんよ! それにぼくは、翻訳出版の案を提供するだけで一冊につき百ルーブリはもらえるという作品を二、三点知ってるんですよ。そっと胸にしまってあるんです。そのうちの一点などは五百ルーブリ出すからおしえてくれといわれても、ことわりますね。あなたはどう思います? 誰かにこんな話をしたら、あんなばかがなんて、相手にされないかもしれませんね! でも、特に印刷所とか、紙とか、販売とか、そうしたしごとの奔走については、ぼくにまかしてください! 裏の裏まで知ってますから! はじめはささやかにやって、そのうちに大きくしましょう。少なくとも食うだけは大丈夫ですよ。どうまちがっても出した金ぐらいはもどります」
ドゥーニャの目がかがやいた。
「あなたのおっしゃることが、わたしすっかり気に入りましたわ、ドミートリイ・プロコーフィチ」と彼女は言った。
「わたしは、むろん、そういうことは何もわかりませんけど」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは応じた。「でも、きっといいことでしょうね、もっとも先のことは神さまだけしかご存じありませんけど。新しいことだと何か不安な気がしてねえ。しばらくでも、わたしたちがこちらにとどまらなくちゃいけないのは、そりゃむろんでしょうけど……」
彼女はロージャを見た。
「どう思います、兄さん?」とドゥーニャは言った。
「彼の考えはひじょうにいい、と思うな」と彼は答えた。「会社のことは、もちろん、いまから考えるのは早いが、五、六冊はたしかに必ず当るやつを出せるよ。ぼく自身も確実に当る作品を一つ知っている。で、彼は実務の能力があるかということだが、この点についてはまちがいはない。彼はしごとを理解している……しかし、きみたちはこれからよく相談するがいい……」
「ウラー!」とラズミーヒンはおどりあがった。「そこでさっそくだが、このアパートにひとつ住居があるんですよ、同じ持ち主の。それはひとつだけ離れていて、これらの部屋とはつづいていません。しかも家具つきで、家賃も手頃で、小さな部屋が三間あります。先ずそれを借りなさい。時計は明日曲げて、金にしてあげましょう。それで万事オーケーです。要は、三人がいっしょに暮せるということですよ、ロージャとあなたと……おい、いったいどこへ行くんだ、ロージャ?」
「おや、ロージャ、もう帰るの?」プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはぎょっとした様子をさえみせた。
「こんないい機会に!」とラズミーヒンは叫んだ。
ドゥーニャは信じられぬようなおどろきの目で兄を見つめた。彼の手は帽子をにぎっていた。彼は出て行こうとしていた。
「なんだい、みんなまるでぼくを葬るか、あるいは二度と会えないみたいに」と彼はなんとなく落ち着かない様子で妙なことを言った。
彼はにやりと笑ったようだったが、それがどうやら笑いにならなかったらしい。
「もっとも、これが最後かもしれんがね」と彼は何気なく言いそえた。
彼は心の中でふとそう思いかけたのだが、どういうわけかひとりでに口に出てしまったのだった。
「まあ、何を言うの!」と母は叫んだ。
「どこへ行くの、ロージャ?」となんとなく妙な胸さわぎがして、ドゥーニャは尋ねた。
「うん、ちょっと、どうしても行かにゃならん用事があるんだよ」と、彼は何か言おうとしかけて、思いまどったように、あいまいに答えた。しかしその蒼白い顔にはかたい決意のようなものがあった。
「ぼくが言おうと思ったのは……ここへ来る途中……母さん、あなたと……ドゥーニャ、おまえに、言おうと考えてきたのは、ぼくたちはしばらく別れて暮したほうがいいということなんです。ぼくはいま気分がすぐれないんです。気持が落ち着かないんです……ぼくはあとで来ます。自分から来ます。いずれ……来られるようになったら。あなた方のことは忘れません、愛しています……ぼくをそっとしておいてください! ぼくを一人きりにしてください! ぼくはこう決心していたんです。もうまえからです……かたく決心したんです……ぼくの身にどんなことが起ろうと、たとえだめになってしまおうと、ぼくは一人でいたいんです。ぼくをすっかり忘れてください。そのほうがいいんです……ぼくのことはさがさないでください。用のあるときは、自分で来るか……あなた方を呼びます。あるいは、すっかりもとどおりになるかもしれない……だがいまは、ぼくを愛しているなら、かまわないでください……でないとぼくはあなた方を憎みます、ぼくにはそれがわかるんです……さようなら!」
「ああ、どうしよう!」とプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは叫んだ。
母も妹もあまりのことに呆然としてしまった。ラズミーヒンにしても同様だった。
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔どおりにしようよ!」と哀れな母は悲痛な声で哀願した。
彼はゆっくりドアのほうへ向き直って、ゆっくり部屋から出て行こうとした。ドゥーニャが追いすがった。
「兄さん! お母さんになんてことをなさるの!」と彼女は怒りにもえる目で兄をにらみながら、声を殺して言った。
彼は苦しそうに妹を見た。
「なんでもないよ、来るよ、ときどき来るよ!」彼は何を言おうとしているのか、自分でもよく意識していないように、低声(こごえ)でこう呟くと、部屋を出て行った。
「情知らず、意地わるのエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「彼は頭がどうかしてるんですよ。人でなしじゃない! 気ちがいです! それがわかりませんか? わからなければ、あなたが情知らずです!……」とラズミーヒンはかたく彼女の手をにぎりしめ、耳元に熱く囁いた。
「すぐもどります!」と彼は呆然としているプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナに叫んで、部屋をとびだした。
ラスコーリニコフは廊下の外れで彼を待っていた。
「きみがとびだしてくるのは、知っていたんだよ」と彼は言った。「母と妹のところへもどって、いっしょにいてやってくれ……明日も……いつまでも。ぼくは……来る、かもしれん……できたら。じゃ、これで!」
そう言うと、握手ももとめないで、彼ははなれて行った。
「でも、どこへ行くんだ? 何を言うんだ? いったいどうしたというんだ? こんなことをしてもいいのか!……」ラズミーヒンはすっかりうろたえて口走った。
ラスコーリニコフはもう一度立ちどまった。
「これが最後だ。ぜったいに何も聞くな。きみに答える何もない……ぼくのところへ来るな。ぼくのほうからここへ来るかもしれん……ぼくを見捨てろ、だがあの二人は……見捨てないでくれ。ぼくの言うことがわかるかい?」
廊下は暗かった。彼らはランプのそばに立っていた。一分ほど黙って顔を見あっていた。ラズミーヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ぎらぎら燃えたひたむきなラスコーリニコフの視線が、刻一刻鋭さをまし、彼の心と意識につきささってくるようだった。不意にラズミーヒンはぎくっとした。何か異様なものが彼らのあいだを通りぬけたようだ……ある考えが、暗示のように、すべりぬけた。おそろしい、醜悪なあるもの、そして二人はとっさにそれをさとった……ラズミーヒンは死人のように真っ蒼になった。
「やっとわかったか?……」不意にラスコーリニコフは病的に顔をひきゆがめて言った。
「もどって、二人のところへ行ってくれ」と彼はだしぬけに言いそえると、くるりと振り向いて、すたすたと出て行った……
その晩プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナの部屋で起ったことを、いまここに書きたてることはよそう。とにかくラズミーヒンはもどると、二人をなぐさめ、ロージャは病気だから休息が必要だと、口をすっぱくして説明し、ロージャはきっと来る、毎日来る、神経がひどくみだれているから、刺激してはいけないなどと、くどくどと言いきかせ、きっと目をはなさず注意していて、いいりっぱな医者を見つけて、立ち会い診察をさせる等々と誓った……
要するに、その晩からラズミーヒンは二人の婦人の息子とも兄ともなったのである。
4
ラスコーリニコフはその足でソーニャが住んでいる運河ぞいのアパートに向った。アパートは三階建てで、古いみどり色の建物だった。彼は庭番を見つけて、仕立屋のカペルナウモフの住居を聞くと、大ざっぱな見当をおしえてくれた。彼は内庭の隅にせまく、暗い階段へ通じる入口を見つけて、どうにか二階までのぼると、庭に面して建物を巻いている廊下にでた。カペルナウモフの住居の入口はどこだろうと、なんだか狐につままれたような気持で、真っ暗い中をしばらくうろうろしていると、不意に、三歩ばかりのところで、誰かのドアが開いた。彼は思わずそのドアをつかんだ。
「どなた、そこにいるの?」とびっくりしたような女の声が聞えた。
「ぼくですよ……あなたのところへ来たんです」と答えて、ラスコーリニコフはおそろしくせまい控えの間へ入った。そこには、つぶれた椅子の上のゆがんだ銅の燭台に、ろうそくがともっていた。
「あなたでしたの! まあ!」とソーニャは声を殺して叫ぶと、その場に釘づけになった。
「あなたの部屋へはどう行くんです? こちらですか?」
ラスコーリニコフは、彼女を見ないようにして、急いで部屋へ通った。
一分ほどするとソーニャはろうそくを持って入って来て、それを置くと、彼の思いがけぬ訪問にびっくりしてしまったらしく、言いようのない興奮につつまれて、どうしていいかわからない様子で彼のまえに立った。不意に蒼白い顔に赤みがさし、目には涙さえあふれでた……彼女はいやな気もした、恥ずかしくもあった、しかし同時にうれしい気持もあった……ラスコーリニコフは急いで顔をそむけると、机のまえの椅子に坐った。彼はちらと素早い目で室内の様子を見てとった。
それはだだッ広いが、おそろしく天井の低い部屋で、カペルナウモフが貸しているたった一つの部屋だった。左手の壁に住居に通じるドアがしまっていた。反対側の右手の壁に、もうひとつドアがあったが、それはいつもしめきってあった。そちらはもう隣の住居で、部屋番号も別だった。ソーニャの部屋はなんとなく物置きみたいで、まるでひっつぶしたような四角形で、それがいかにも部屋をみにくくしていた。運河に面した壁は、窓が三つあって、部屋を斜めにたち切っていた、そのためにひとつの角がおそろしくとがって深くえぐれこみ、あわいあかりでは奥のほうがよく見えないほどだった。その反対側の角は逆にぶざまなほど鈍かった。このだだッ広い部屋に家具らしいものはほとんどなかった。右隅にベッドがひとつおいてあり、そのそばに、ドアに近く椅子が一脚あった。ベッドのある壁際の隣の住居に通じるドアのそばに、青っぽいクロースをかけた粗末な薄板のテーブルがあって、そのそばに二脚の籐椅子が置いてあった。それから、反対側の壁際のとがった角のそばに、小さな安物のタンスがひとつ、がらんとした中に忘れられたようにおいてあった。これが室内にある全部だった。すれた黄色っぽいぼろぼろの壁紙が四隅は黒くなっていた。きっと冬はじめじめして、石炭のガスがこもるにちがいなかった。貧しさが一目でわかった。ベッドのそばにさえカーテンがなかった。
ソーニャはこんなにじろじろと無遠慮に室内を見まわしている客を、黙って見まもっていたが、しまいに、自分の運命を決する裁判官のまえに立たされているような気がして、おそろしさのあまりぶるぶるふるえだした。
「おそく伺って……十一時になりましたか?」と彼はやはり彼女へ目をあげようとはしないで、尋ねた。
「はい」とソーニャは呟くように言った。
「あ、そう、なりましたわ!」と彼女は不意に、まるでその一言にすべての解決の道があるように、急いで言いたした。「いましがた家主の時計が打ったばかりですわ……わたしははっきり聞きました……そうですわ」
「これはぼくの最後の訪問です」とラスコーリニコフは今日はじめてここを訪ねたばかりなのに、暗い声で言った。「おそらく、もう二度と会うことはないでしょう……」
「あなたは……どこか遠いところへ?」
「わかりません……すべては明日……」
「それじゃ、明日カテリーナ・イワーノヴナのところへはいらしていただけないのですか?」ソーニャの声がふるえた。
「わかりません。すべては明日の朝です……そのことではありません、ぼくは一言あなたに言いのこしたいことがあってきたのです……」
彼はもの思いにしずんだ目を彼女にあげた、そしてはじめて、自分が坐っているのに、彼女はまだまえに立っているのに気がついた。
「どうして立っているんです? おかけなさい」と彼は急に、しずかなやさしい声にかわって、言った。
彼女は腰をおろした。彼はやさしく、まるであわれむように、しばらく彼女を見つめていた。
「ひどく痩せてますねえ! この手はどうでしょう! まるで透きとおるようだ。指は、死んだ人の指みたいだ」
彼はソーニャの手をとった。ソーニャは弱々しく笑った。
「わたしはいつもこんなでしたわ」と彼女は言った。
「家にいたころも?」
「ええ」
「まあ、そりゃ、そうだろうさ!」と彼はとぎれとぎれに言った、そしてその表情と声の調子がまた急にかわった。彼はもう一度あたりを見まわした。
「これはあなたがカペルナウモフから借りているんですか?」
「はい……」
「家主は、このドアの向うですか?」
「はい……あちらにもこれと同じような部屋があります」
「みんな一部屋に住んでいるんですか?」
「そうですわ」
「ぼくならこの部屋に住んだら、夜が怖いでしょうね」と彼は暗い声で言った。
「みんなとてもいい人たちですし、とてもやさしくしてくれますわ」と、ソーニャはまだ自分をとりもどせないで、考えをうまくまとめられない様子で、答えた。「家具も、何もかも……すっかり家主さんのですの。二人ともとてもいい人ですし、子供たちもしょっちゅうあそびに来ますわ……」
「それはどもりの子供たちでしょう?」
「そうですわ……主人はどもりで、それにびっこです。おかみさんも……どもりというほどでもないのですが、なんだがしまいまではっきりものが言えないみたいで。おかみさんはいい方ですわ、とっても。主人はもと屋敷奉公の農奴でしたの。子供は七人います……いちばん上の男の子一人だけがどもりで、あとは弱いだけです……べつにどもりじゃありませんわ……あなたはどこからそんなことをお聞きになりまして?」と彼女はいくらかおどろいた様子でつけ加えた。
「あのころあなたのお父さんがすっかり話してくれたんですよ。あなたのこともすっかり話してくれました……あなたが六時に出て行って、八時すぎにもどってきたことも、カテリーナ・イワーノヴナがあなたのベッドのそばにひざまずいたことも」
ソーニャは赤くなった。
「わたしあのひとを今日見たような気がしましたの」と彼女はあやふやな調子で言った。
「誰を?」
「父ですの。わたしが通りを歩いていると、すぐまえの、角のところで、九時すぎでしたわ、まえを歩いて行くの、父そっくりのひとが。わたしもうカテリーナ・イワーノヴナのところへ知らせに寄ろうかと思いましたわ……」
「あなたは散歩していたんですか?」
「そうです」ソーニャはまた赤くなって、目を伏せると、とぎれとぎれに囁くように言った。
「カテリーナ・イワーノヴナはあなたをぶちそうになったことがよくあったそうですね、家にいたころ?」
「まあ、そんなこと、あなたはなんてことを、どうしてあなたはそんなことを、ちがいますわ!」なぜかおどろきの色をさえうかべて、ソーニャは彼を見つめた。
「じゃあなたはあの女(ひと)を愛しているんですか?」
「あの女を? ええ、そんなこと、きまってるじゃありませんか!」ソーニャは不意に、苦しそうに両手で胸をおさえ、哀訴するように言葉を長くひいた。「ああ! あの女がどんなひとか……ちょっとでも知ってくだすったら、ほんとにまるで赤ちゃんみたいですのよ……それに頭がすっかりみだれてしまって……悲しみのあまり。むかしはほんとに利口なひとでしたわ……ほんとに気持がおおらかで……心のやさしいひとでしたわ! あなたは何も、何もご存じないのよ……ああ!」
ソーニャは絶望にとらわれたように、不安と苦悩に両手をもみしだきながら、こう言った。蒼白い頬にまた赤みがさし、目に苦悩の色がうかんだ。彼女は胸の数知れぬ痛みにふれられて、何かを言葉にあらわし、はっきり言って、弁護したくてたまらない様子であることは、すぐにわかった。もしこんな表現ができるなら、飽くことを知らぬ同情とでもいうものが、不意に彼女の顔中にみなぎった。
「ぶったなんて! でも、どうしてあなたはそんなことを! ひどいわ、ぶったなんて! たとえぶったとしても、それがどうしたというの! ね、それがどうしたというの? あなたは何も、何も知らないのよ……あれはそれは不幸なひとなのよ、ああ、なんて不幸なひとかしら! それに病気で……あのひとは正しさを求めているのよ……心の清らかなひとなのよ。どんなことにも正しさというものがあるはずだと、すっかり信じこんでいるから、だから要求するんだわ……どんなに苦しくとも、正しくないことはしないわ。世の人々がみんな正しいなんて、そんなことがあり得ないってことが、あのひとにはわからないのよ、だから苛々するんだわ……まるで赤ちゃん、赤ちゃんそっくりなのよ! あのひとは正しいひとよ、正しいひとですわ!」
「だが、あなたはどうなるんです?」
ソーニャはけげんそうに彼を見た。
「あのひとたちがみなあなたにのこされたじゃありませんか。もっとも、これまでだってあなたにおんぶしていたんでしょうがね、亡くなったお父さんがあなたに酒代をねだってたくらいですから。ところで、これからはどういうことになるんです?」
「わかりませんわ」とソーニャは悲しそうに言った。
「あのひとたちはあそこにとどまりますか?」
「わかりませんわ、でもあの部屋は間代がたまっていますもの。おかみさんが今日ことわりたいと言ったら、カテリーナ・イワーノヴナは、こんなところに一秒だっていたくないなんて言ったそうですけど」
「いったいどうしてあのひとはそんな強がりを言うんでしょう? あなたを当てにしてるんですか?」
「まあ、ちがいますわ、そんな言い方をしないでください!……わたしたちはいっしょに、力を合わせて暮していますのよ」ソーニャは不意にまた興奮して、苛々した様子をさえ見せはじめた。それはまるでカナリヤか何か小鳥が怒ったとそっくりだった。「だって、あのひとはいったいどうしたらいいのです? ねえ、どうしたらいいの、どうしたらいいの?」と彼女は興奮して、はげしく問いつめた。「それにあのひとは今日どんなに、どんなに泣いたことでしょう! 頭がすっかりみだれているんですわ、あなたはお気づきになりませんでした? 普通じゃないのよ、明日は何もかもきちんとしなくちゃ、料理もそろえて、それから……なんて子供みたいにそわそわしてるかと思えば、急に手をもみしだいて、血を吐いて、泣きながら、とつぜんやけくそみたいに壁に頭をうちつけはじめたり。しばらくするとまた気がしずまって。あのひとはあなただけがたよりなのよ。これからはあなたが助けてくださるなんて言って、それからまたこんなことも言うのよ、どこかでお金をすこし借りて、わたしも連れて故郷の町へかえり、そこで上流階級のお嬢さんたちの寄宿学校をひらき、わたしを舎監にする、そしてあたしたちのまったく新しいすばらしい生活がはじまるだなんて。そしてわたしを抱きしめ、接吻し、なぐさめてくれるの。そう信じているのよ! 空想をすっかり信じこんでいるの! でも、そうじゃないと言えて? 今日は一日中洗ったり、ふいたり、つくろったり、あの弱い力でたらいを部屋の中へもちこんだりして、息をきらして、いきなり寝床に倒れてしまったわ。でもまだ朝のうちわたしもいっしょに出かけて、ポーレチカとレーナに靴を買ってやろうと思いましたの、だってあの子たちの靴はもうすっかりぼろぼろでしょう、ところが計算してみたらお金が足りないの、ひどく足りないのよ。だってあのひとったらそれはそれはかわいらしい靴を選ぶんですもの、あのひとは好みがいいからなの、あなたはご存じないでしょうけど……そして店先で、番頭たちのいるまえで、お金が足りないって、いきなり泣きだしてしまって……ほんとにかわいそうで見ていられませんでしたわ」
「まあ、そうでしょうね、あなたたちの……暮しぶりを見れば」とラスコーリニコフは苦々しいうす笑いをうかべて、言った。
「じゃ、あなたはかわいそうだと思いませんの? かわいそうじゃありませんの?」とソーニャはまた叫ぶように言った。「だってあなたは、あなたは、まだ何も知らないのに、最後のお金をくれてやったじゃありませんか。ああ、もしあなたがすっかり知ってくだすったら! わたしはほんとに、何度あのひとをなかせたことでしょう! そう、つい先週も! ああ、いやなわたし! 父が死ぬ一週間まえに。わたしひどいことをしたのよ! それに何度、いったい何度わたしはあんなことをしたかしら! ああ、いまだってそうよ、思い出すと一日中苦しかったわ!」
ソーニャはそう言いながらも、思い出の苦しさに、両手をもみしだきさえした。
「あなたがひどい女だというのかね?」
「そうよ、わたしよ、わたしよ! あのとき家へかえったら」と彼女は泣きながら、語りつづけた。「父がわたしに言ったの、《ソーニャ、これを読んでくれんか、わしはなんだか頭が痛むんだよ、ね、読んでくれ……ほらこの本だよ》って。なんでしたか、アンドレイ・セミョーヌイチから借りた本でしたわ。レベジャートニコフさんといって、同じアパートに住んでいる人で、いつも父におもしろい本を貸してくれましたの。それをわたしったら、《だめよ、すぐ出かけるんだから》なんてことわったのよ。わたし読みたくなかったの。家へよったのは、カテリーナ・イワーノヴナに襟を見せたいためだったんだもの。古着屋のリザヴェータが襟と袖当を安くもってきてくれたの。とっても素敵で、新品そっくりで、きれいな模様までついてるの。カテリーナ・イワーノヴナはすっかり気に入ってしまって、それをつけて、鏡をのぞきこんでいましたわ、そしてもうますます気に入って、《ねえ、ソーニャ、これをちょうだいな、おねがいよ》なんて言ったわ。おねがいよなんて頼むのは、よっぽどほしかったんだわ。だって、そんなものを着てどうするつもりかしら? ただ、昔の幸福だった時代を思い出すだけだわ! 鏡の自分をながめて、うっとりしているだけなの、だってもう何年も、衣装なんて一枚もないし、装身具だってひとつもないんだもの! それにあのひとは一度だって、何ひとつ、誰にもくれなんて言ったことがないのよ。気位が高くて、いっそ自分が最後のものをくれてやるようなひとなの、それがこんなことを頼むなんて──よくよくのことだったんだわ! ところがわたしもくれるのが惜しくなって、《カテリーナ・イワーノヴナ、こんなものをもらってどうするのよ?》そうよ、《どうするのよ?》なんて言ってしまったの。こんなことはあのひとに言っちゃいけなかったんだわ! あのひとはじっとわたしを見つめましたわ。わたしにことわられたのが、どれほどつらく悲しいことだったか、ほんとにかわいそうで見ていられないくらいでしたわ……それも襟が惜しいのじゃなく、わたしにことわられたのがくやしいの。それはすぐにわかりましたわ。ああ、いまこうしたことがすっかりひっくりかえせたら、こうしたまえの言葉をすっかり言い直せたら、としみじみ思いますわ……ああ、わたしったら……何を言ってるのかしら!……こんなこと、あなたにはどうでもいいことですものね!」
「あの古着屋のリザヴェータをあなたは知っていたんですか?」
「ええ……じゃあなたも知ってましたの?」とソーニャはいくらかおどろいた様子で聞きかえした。
「カテリーナ・イワーノヴナは肺をやられています、かなりひどく。もう長いことはないでしょう」とラスコーリニコフはしばらくして、問われたことには答えないで、言った。
「まあ、ちがいます、ちがいます、ちがいますわ!」
そう言ってソーニャは、ちがうことを哀願するように、無意識に彼の両手にすがりついた。
「でも、死んだほうがいいじゃありませんか」
「いいえ、よくありません、よくありません、ちっともよくありませんわ!」と彼女はおびえきって、無意識にくりかえした。
「じゃ、子供たちは? そうなったら、あなたが引き取らなかったら、いったいどこへやるつもりです?」
「ああ、そんなことわかりませんわ!」とソーニャはほとんど絶望的に叫んで、頭をかかえた。この考えはもう何度となく彼女の頭にうかんだもので、彼がいままた改めてそれをつつきだしたにすぎないことは、明らかだった。
「ところで、もしあなたが、まだカテリーナ・イワーノヴナが生きているあいだに、病気になって、病院に収容されたとしたら、いったいどうなるでしょう?」と彼は残酷に問いつめた。
「ああ、何を言うんです、なんてことを言うんです! そんなことってあるものですか!」
そう言ったが、ソーニャの顔はおそろしい恐怖にゆがんだ。
「どうしてあり得ないのです?」とラスコーリニコフはこわばったうす笑いをうかべながら、つづけた。「あなたには保険がかかっているわけじゃないでしょう? だから、そうなったら、あのひとたちはどうなるでしょう? 一家そろって街へめぐみを乞いにでかける、カテリーナ・イワーノヴナはごほんごほん咳をしながら、袖を乞い、どこかで今日みたいに壁に頭をうちつける、子供たちは泣く……そのうち道ばたに倒れて、交番にはこばれ、病院に送られて、死ぬ、子供たちはあとにのこされて……」
「おお、やめて!……神さまがそんなことを許しませんわ!」という叫びが、とうとう、しめつけられたソーニャの胸からほとばしった。彼女は祈るような目で彼を見ながら、彼にすべての運命がかかっているように、組みあわせた手に無言の哀願をこめて、じっと聞いていたのだった。
ラスコーリニコフは立ちあがって、部屋の中を歩きまわりはじめた。一分ばかりがすぎた。ソーニャは両手と頭を力なく垂れ、寒々とした気持で、しょんぼり立っていた。
「お金を貯えることはできませんか? 万一の場合にそなえて?」ととつぜん彼女のまえに立ちどまって、彼は尋ねた。
「だめですわ」とソーニャは蚊の鳴くような声で言った。
「むろん、だめでしょうね! でも、やってみたことはありますか?」と彼はほとんどあざけるようにつけ加えた。
「やってみましたわ」
「そして挫折したというわけか! まあ、それがあたりまえでしょうな! 聞くまでもないですよ!」
そしてまた彼は部屋の中を歩きまわりはじめた。また一分ほどすぎた。
「毎日収入があるわけじゃないんでしょう?」
ソーニャはまえよりもいっそうどぎまぎして、またさっと赤くなった。
「ええ」と彼女は身を切られるような思いで、やっと囁くように言った。
「ポーレチカも、きっと、同じような運命になるでしょう」と彼はだしぬけに言った。
「ちがいます! ちがいます! そんなことがあってたまるもんですか、ちがいますとも!」とソーニャは、まるでナイフでぐさりとえぐられたように、悲鳴に近い声で、必死に叫んだ。「神さまが、神さまが、そんなおそろしいことを許しません!……」
「ほかの人には許してますよ」
「いいえ、ちがいます! あの娘は神さまが守ってくださいます、神さまが!……」と彼女はわれを忘れて、くりかえした。
「だが、神なんてぜんぜん存在しないかもしれないよ」かえってひとの不幸を喜ぶような意地わるさで、ラスコーリニコフはこう答えると、にやりと笑って、彼女を見た。
ソーニャの顔はさっと変り、ひくひくと痙攣がはしった。彼女は言葉につくせぬ叱責をこめてじっと彼を見つめた、そして何か言おうとしたが、言葉にならず、不意に両手で顔をおおって、なんとも言えぬ悲痛な声でわっと泣き伏した。
「あなたは、カテリーナ・イワーノヴナの頭がみだれている、といったが、あなた自身も頭がみだれていますよ」と彼はしばらくの沈黙ののちに言った。
五分ほどすぎた。彼はやはり無言のまま、彼女のほうを見ようともせずに、部屋の中を行き来していた。とうとう、彼女のまえへ近よった。目がぎらぎら光っていた。彼は両手で彼女の肩をつかんで、泣きぬれた顔をじいっと見た。彼の目は乾いて、充血して、鋭く光り、唇がはげしくふるえた……不意に彼は、いきなり身を屈めると、床にひれ伏して、彼女の足に接吻した。ソーニャはぎょっとして、あわてて後退った。彼が気がふれたかと思ったのだ。たしかに、彼は完全な気ちがいに見えた。
「何をなさいます、何をなさるんです? わたしなんかのまえに!」と彼女は蒼白になって、呟いた、そして急に心臓が痛いほどぎゅっとしめつけられた。
彼はすぐに立ちあがった。
「ぼくはきみに頭を下げたんじゃない、人類のすべての苦悩に頭を下げたんだ」彼は妙に荒っぽくこう言うと、ついと窓のほうへ行った。
「ねえきみ」と彼はしばらくするとソーニャのほうを向いて、つけ加えた。「ぼくはさっきある無礼者に言ってやったよ、やつなんかきみの小指にも値しないって……それからまた、今日はもったいなくも妹を、きみと並んでかけさせてやったって」
「まあ、あなたはそんなことをそのひとたちにおっしゃいましたの! しかも妹さんのまえで?」とソーニャはびっくりして叫んだ。「わたしと並んでかけさせたって! もったいないって! なんてことを、わたしは……恥ずべき女ですわ、ひじょうに、ひじょうに罪深い女ですわ! ああ、あなたはなんてことを言ってくれたんでしょう!」
「ぼくがきみのことでそう言ったのは、恥とか罪のためではない、きみの深い大きな苦悩のためだ。きみはひじょうに罪深い女だというが、たしかにそのとおりだ」彼は自分の言葉に酔ったようにこうつけ加えた。「きみが罪深い女だという最大の理由は、いわれもなく自分を殺し、自分を売りわたしたことだ。これが恐ろしいことでなかったらどうかしてるよ! きみは自分でこれほど憎んでいる泥沼の中に生きながら、同時に自分でも、そんなことをしても誰の助けにもならないし、誰をどこからも救いだしはしないことを知っている。ちょっと目を開ければわからないはずがない。これが恐ろしいことでなくて何だろう! さあ、ぼくは、きみに聞きたいんだ」と彼は激昂のあまりほとんどわれを忘れかけて叫んだ。「きみの内部には、こんなけがらわしさやいやらしさが、まるで正反対の数々の神聖な感情と、いったいどうしていっしょに宿っていられるのだ? いきなりまっさかさまに河へとびこんで、ひと思いにきりをつけてしまうほうが、どれほど正しいか、千倍も正しいよ、よっぽど利口だよ、そう思わないか!」
「じゃ、あのひとたちはどうなります?」とソーニャは苦悩にみちた目でじっと彼を見つめて、しかし彼の言葉にはすこしのおどろいた様子もなく、弱々しい声で尋ねた。
彼はその目の中にすべてを読みとった。つまり、実際に彼女自身にすでにこの考えがあったのだ。おそらく、何度となく真剣に、どうしたらひと思いにかたがつけられるかと、絶望にしずみながら思いめぐらしたにちがいない。そしてそれがあまりにも真剣なために、いま彼の言葉を聞いてもすこしもおどろかないほどになっていたのであろう。彼女は彼の言葉の残酷さにさえ気づかなかった(彼の非難の意味も、彼女の汚辱を見る彼の特別な視線の意味も、むろん、彼女は気づかなかった。そしてそれが彼にははっきりわかった)。しかし彼は、このいやしい汚辱の境遇を恥じる思いが、もうまえまえから、どれほどのおそろしい苦痛となって彼女をさいなみつづけてきたかを、はっきりとさとった。いったい何が、彼は考えた、いったい何が、ひと思いに死のうとする彼女の決意を、これまでおさえてくることができたのだろう? そしていまはじめて彼は、父を失った哀れな小さな子供たちと、肺を病み、頭を壁にうちつけたりする、みじめな半狂人のカテリーナ・イワーノヴナが、彼女にとってどれほどの意味をもっているかを、はっきりとさとったのである。
しかしそれと同時に、あんな気性をもち、多少とも教育を受けているソーニャが、ぜったいにこのままでいられるわけがないことも、彼にはわかっていた。河に身を投じることができなかったとすれば、いったいどうしてこんなに長いあいだ気ちがいにもならずに、こんな境遇にとどまっていることができたのか? これはやはり彼にとって疑問だった。もちろん彼は、ソーニャの境遇が、たったひとつの例外というにははるかに遠いのはくやしいが、とにかく社会の偶然な現象であることは知っていた。しかしこの偶然そのものが、このある程度の教育とそれまでの生活のすべてが、このいまわしい道へ一歩ふみだしたところで、たちまち彼女を死へ追いやることができたはずではなかったか。彼女を支えていたのは、いったい何だろう? まさか淫蕩ではあるまい。この汚辱は、明らかに、機械的に彼女に触れただけだ。ほんものの淫蕩はまだ一しずくも彼女の心にしみこんでいない。彼にはそれがわかった。現に彼女は彼のまえに立っているではないか……
《彼女には三つの道がある》と彼は考えた。《運河に身を投げるか、精神病院に入るか、あるいは……あるいは、ついに、理性をにぶらせ、心を石にする淫蕩な生活におちこむかだ》最後の想定は彼にとってもっともいまわしかった。しかし、彼はもともと懐疑的だし、若いし、理論的だった。だから残酷でもあったわけで、最後の出口、つまり淫蕩な生活がもっとも確率が高いことを、信じないわけにはいかなかった。
《だが、いったいこれが本当だろうか》と彼は腹の中で叫んだ。《まだ魂の清らかさを保っているこの女が、そうと知りながら、ついには、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へひきこまれて行くのだろうか? この転落がもうはじまっているのではなかろうか、だからこそ罪がそれほどいまわしいものに感じられず、それで今日まで堪えて来られたのではなかろうか? いや、いや、そんなはずはない!》と彼は、さっきのソーニャのように、叫んだ。《今日まで彼女を河にとびこませなかったのは、罪の意識だ、あの人たちだ、……じゃ、今日まで気が狂わずにいられたのは……だが、気が狂わなかったと、誰が言った? 果していまノーマルな理性をもっているだろうか? 彼女のような、あんなものの言い方ができるものだろうか? ノーマルな理性をもっていたら、彼女のようなあんな考え方ができるだろうか? 破滅の上に坐って、もうひきこまれかけている悪臭にみちた穴の真上に坐って、その危険を知らされても、あきらめたように手を振り、耳をふさぐなんて、そんなことが果してできるだろうか? 彼女はどうしたというのだ、奇跡でも待っているのか? きっとそうだ。果してこうしたことがみな発狂の徴候でないと言えようか?》
彼はこの考えにしつこくこだわっていた。むしろこの出口が、ほかのどんな出口よりも彼には気に入った。彼はますます目に力をこめてソーニャを凝視しはじめた。
「それじゃ、ソーニャ、きみは真剣に神にお祈りをする?」と彼は聞いた。
ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待った。
「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」彼女は不意にきらっと光った目をちらと彼に投げて、早口に力強くこう囁くと、彼の手をはげしくにぎりしめた。
《やっぱり、そうだった!》と彼は思った。
「だが、それで神はきみに何をしてくれた?」と彼はさらに問いつめた。
ソーニャは返事につまったように、長いこと黙っていた。彼女のかよわい胸ははげしい動揺のためにぶるぶるふるえていた。
「言わないで! 何も聞かないで! あなたにはそんな資格がありません!」と、怒りにもえる目できびしく彼を見すえながら、彼女はとつぜん叫んだ。
《そうだろうとも! そうだろうとも!》と彼は腹の中でしつこくくりかえした。
「何でもすっかりしてくださいますわ!」と彼女はまた目を伏せて、早口に囁いた。
《これが出口なんだ! これが出口の告白なんだ!》彼はむさぼるような好奇の目で彼女を見まわしながら、こう結論を下した。
新しい、奇妙な、痛々しいような気持で、彼はこの蒼白い、痩せた、ととのわないとがった顔や、あのようなはげしい火花をちらし、きびしい力強い感情をむきだしてぎらぎら光ることもあるやさしい空色の目や、まだ怒りといきどおりにふるえている小さな身体を見つめていた。そしてこうしたことすべてがいよいよ不思議な、ほとんどあり得ないことに思われてくるのだった。
《ばかな女だ! 狂信者だ!》と彼は腹の中でくりかえした。
タンスの上に本が一冊のっていた。彼はそのそばを行き来するごとに、それに目をやっていたが、今度は手にとって見た。それはロシア語訳の新約聖書だった。古いよごれた皮表紙の本だった。
「これはどこで?」と彼は部屋の向う隅から彼女に声をかけた。彼女はやはりもとのまま、机から三歩ばかりのところに立っていた。
「持ってきてくれましたの」彼女は気がすすまぬらしく、そちらを見もせずに答えた。
「誰が?」
「リザヴェータですわ、わたしが頼んだので」
《リザヴェータ! 不思議だ!》と彼は考えた。ソーニャのまわりのすべてのものが、どうしたわけか、しだいにますます不思議な奇妙なものに思われてきた。彼は聖書をろうそくのそばへ持って行って、ページをめくりはじめた。
「ラザロのところはどのへんかね!」と彼は不意に聞いた。
ソーニャはかたくなに床へ目をおとしたまま、黙りこくっていた。彼女は机にすこし横向きかげんに立っていた。
「ラザロの復活はどこかね? さがしてくれ、ソーニャ」
ソーニャは横目でちらと彼を見た。
「そんなところじゃないわ……第四の福音書よ……」と彼女はその場を動こうともせずに、けわしく小声で言った。
「さがして、読んでくれ」と言って、彼は椅子に腰を下ろし、机に肘をついて、片手で頭を支え、暗い目を横のほうの一点にすえて、聞く姿勢をとった。
《三週間もしたら第七天国へ、どうぞだ! おれも、おそらく、行くだろうよ、それより悪いことがなければな!》と彼は腹の中で呟いた。
ソーニャはラスコーリニコフの奇妙なねがいを不審な思いで聞いて、ためらいながら机のそばへ近よった。それでも、聖書は手にとった。
「ほんとにあなたは読んだことがありませんの?」彼女は机の向うから上目でちらと彼を見て、こう尋ねた。彼女の声はますますけわしくなった。
「ずっとまえに……学校にいた頃、読んでくれ!」
「教会で聞いたこともないの?」
「ぼくは……行ったことがないよ。きみはときどき行くの?」
「う、ううん」とソーニャは囁いた。
ラスコーリニコフは苦笑した。
「わかるよ……それじゃ、明日お父さんの葬式にも行かないわけだな?」
「行きますわ。先週も行って……供養しましたわ」
「誰の?」
「リザヴェータの。あのひとは斧で殺されたのよ」
彼の神経はしだいにますます苛立ってきた。頭がくらくらしはじめた。
「きみはリザヴェータと仲がよかったのかい?」
「ええ……あのひとはまちがったことのきらいなひとでしたわ……ここへは……たまにしか……だって来れなかったんですもの。わたしたちはいっしょに読んだり……お話したりしたわ。あのひとは神さまにお会いになるでしょう」
この聖書の文句のような言葉が彼の耳には異様に感じられた。そしてまた、彼女とリザヴェータの奇妙なつきあい、そして二人とも──ばかな狂信者だという、新しい事実を知った。
《こんなことをしていると、こっちまでばかな狂信者になりかねないぞ! 伝染病みたいだ!》と彼は考えた。「読んでくれ!」と彼はとつぜんじれったそうに、しつこく叫んだ。
ソーニャはまだためらっていた。胸がどきどきした。どういうわけか、彼に読んでやる勇気がなかった。彼はほとんど苦痛の表情で《不幸な狂女》を見つめていた。
「どうしてあなたに? だってあなたは信じていないじゃありませんか?……」と彼女はしずかに、なぜかあえぎながら、囁いた。
「読んでくれ! ぼくは読んでもらいたいんだ!」と彼は言いはった。「リザヴェータには読んでやったろう」
ソーニャは聖書をひらいて、そのページをさがした。手がふるえて、声がもたなかった。彼女は二度読みかけたが、二度ともはじめの一節を読み終えることができなかった。
《さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、ベタニヤの人であった……》と、彼女はとうとうやっとの思いで読みだしたが、急に、第三節のところで声がうわずり、張りすぎた弦のようにプツンときれてしまった。息がきれて、胸がしめつけられたのだ。
ソーニャがなぜ彼に読んでやることをためらうのか、ラスコーリニコフにはうすうすわかっていた、そしてそれがはっきりわかってくるにつれて、彼はますます苛立ち、乱暴に読ませようとした。いま彼女には自分のすべてをさらけ出すことがどれほど辛かったか、彼はわかりすぎるほどわかっていた。こうした感情が実際に彼女のほんとうの、しかもおそらく、もうまえまえからの秘密となっていたらしいことを、彼はさとった。もしかしたらまだ少女の頃から、不幸な父の家で、悲しみのあまり気のふれた義母や飢えた子供たちにかこまれ、みにくいわめき声や叱責ばかり聞かされていた頃から、彼女の胸の中にあったのかもしれぬ。しかし同時に彼はいま、しかも確実に、彼女は読みかけて、何ものかをひどくおそれ、心を痛めてはいるが、その半面、どんなに心が痛もうが、どんな不安におびやかされようが、なんとしても読みたい、しかも彼に読んでやりたい、彼に聞かせたい、しかもどうしてもいま──《あとでどんなことになろうと!》……というせつないまでの気持があることを、はっきりとさとった。彼はそれを彼女の目の中に読んだ。彼女の狂喜ともいえる興奮からさとった……彼女は自分をはげまし、朗読のはじめに彼女の声をとぎらせたのどのふるえをおさえて、ヨハネによる福音書の第十一章の朗読をつづけた。こうして彼女は十九節まで読んだ。
《大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえてくださることを、わたしはいまでも存じています」》
そこで彼女はまた朗読をとめた。ふるえて、また声がとぎれそうな気がして、恥ずかしくなったのである……
《イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」マルタはイエスに言った》
(そして、苦しそうに息をつぎながら、ソーニャはまるで自分がみんなのまえで懺悔しているように、一語一語はっきりと力をこめて読んだ)
《「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であることを信じております」》
彼女はそこで読むのをとめて、急いで彼に目を上げようとしたが、そのまえに自分をおさえて、先を読みはじめた。ラスコーリニコフはじっと坐って、机に肘をつき、わきのほうへ目をやったまま、身動きもせずに聞いていた。三十二節まで読んだ。
《マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」イエスは、彼女が泣き、また、彼女といっしょにきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく動揺し、また心を騒がせ、そして言われた、「彼をどこに置いたのか」彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらんください」イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」》
ラスコーリニコフは彼女のほうを向いて、感動の目で彼女を見た。そうか、やはりそうだったのだ! 彼女はもうほんとうのおこりにかかったようにがくがくふるえていた。彼はそれを待っていたのだった。彼女はいまだ例のない偉大な奇跡の話に近づいた、そして偉大な勝利の感情が彼女をとらえた。彼女の声は金属音のように冴えわたった。勝利と喜びがその声にこもり、その声を強いものにした。目の前が暗くなって、行がかさなりあったが、彼女はそらでおぼえていた。《あの盲人の目をあけたこの人でも……》という最後の節で、彼女はちょっと声をおとして、信じない盲目のユダヤ人たちの疑惑と、非難と、誹謗を、はげしい熱をこめてつたえた。彼らはもうじき、一分後には、雷にうたれたようにひれ伏し、号泣し、信じるようになるのだ……
《彼も、彼も──信じない亡者だ、──彼ももうすぐこの先を聞いたら、信じるようになる、そうだ、それにきまっている! もうじき、もうじきだ》こう思うと、彼女は喜びがもどかしくてがくがくふるえた。
《イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。イエスは言われた、「石をとりのけなさい」死んだラザロの姉妹マルタが言った。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」》
彼女は四日という言葉に力をこめて読んだ。
《イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」人々は石をとりのけた。すると、イエスは目を天に向けて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞きくださったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを信じさせるためであります」こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると死人は》
(彼女は自分がその目で見たように、感激に身をふるわし、ぞくぞくしながら、勝ちほこったように声をはりあげて読んだ)
《手足を布でまかれ、顔を顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」
マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた》
彼女はその先は読まなかった、読むことができなかった。彼女は聖書をとじて、急いで立ちあがった。
「ラザロの復活はこれでおわりです」ととぎれとぎれにそっけなく囁くと、彼女は顔をそむけて、彼を見るのが恥ずかしいように、目をあげる勇気もなく、じっと身をかたくした。熱病のようなふるえはまだつづいていた。ひんまがった燭台の燃えのこりのろうそくはもうさっきから消えそうになっていて、不思議な因縁でこの貧しい部屋におちあい、永遠の書を読んでいる殺人者と娼婦を、ぼんやり照らしだしていた。五分ほどすぎた。あるいはもっと経ったかもしれぬ。
「ぼくは用事があって来たんですよ」ラスコーリニコフはとつぜん顔をしかめて、大きな声でこう言うと、立ちあがって、ソーニャのほうへ近よった。ソーニャは黙って彼に目をあげた。彼の目はひどくけわしく、なにか異様な決意が顔にあらわれていた。
「ぼくは今日肉親をすてました」と彼は言った、「母と妹です。ぼくはもう彼らのところへ行きません。いっさいの縁をたちきってしまったのです」
「なぜですの?」とソーニャはあっけにとられてぼんやり尋ねた。先ほどの彼の母と妹との対面は、彼女自身はっきりはわからなかったが、彼女の胸に異常な感銘をのこしたのだった。縁をきったという知らせを、彼女は恐怖に近い気持で聞いた。
「いまのぼくにのこされたのはきみ一人だけだ」と彼はつけ加えた。「いっしょに行こう……そのためにぼくはここへきたのだ。ぼくらは二人とも呪われた人間だ、いっしょに行こうよ!」
彼の目はぎらぎら光った。《半狂人みたいだ!》と、今度はソーニャがふと思った。
「どこへ行くの?」彼女はぎょっとしてこう聞くと、思わず後退った。
「それがどうしてぼくにわかる? ぼくが知ってるのは、道が同じだということだけだよ、それだけは確実に知っている、──それだけさ。目的も同じなんだ!」
ソーニャは彼を見つめていたが、何のことやらさっぱりわからなかった。彼がおそろしく、限りなく不幸だということだけが、わかった。
「きみがあの人たちに話しても、誰も何もわかるまい」と彼はつづけた。「だが、ぼくはわかった。きみはぼくに必要な人間なんだ。だからぼくはここへ来たんだ」
「わからないわ……」とソーニャは囁くように言った。
「そのうちにわかるよ。きみがしたのだって、同じことじゃないか? きみだって踏みこえた……踏みこえることができたんだ。きみは自分に手を下した、自分の……生命を亡ぼした(これは同じことだ!)。きみは魂と理性で生きて行かれたはずだ、それをセンナヤ広場で果ててしまうのさ……だがきみにはそれを堪える力がない、だから一人きりになったら、発狂してしまうだろう。ぼくだって同じなんだ。きみはもうすでに気ちがいじみている。だから、ぼくたちはいっしょに行かなければならないんだよ、同じ道を! さあ、行こうじゃないか!」
「どうしてなの? どうしてあなたはそんなことを言うの!」ソーニャは彼の言葉にあやしく胸を騒がせながら、呟くように言った。
「どうして? このままではいられないからさ、──それが理由だよ! もういいかげん、真剣に率直に考えなきゃいかんよ。いつまでも子供みたいに泣いたり、神さまが許さないなんてわめいたりしていたって、はじまらんさ。ええ、ほんとに明日きみが病院に収容されたら、どうなる? あの女は頭がどうかしてるし、肺病だ、じきに死ぬだろうが、子供たちは? ポーレチカが身を亡ぼさないといえるかね? いったいきみは、母親に袖乞いに出されて、そこらここらにうろうろしている子供たちを、見たことがないのかい? ぼくはよく知ってるよ、そういう母親たちがどこにどんな状態で住んでいるか。そういう境遇では子供たちが子供でいることはできないんだよ。わずか七歳で春を売るのも、泥棒をするのもいるよ。だが、子供たちは──キリストの姿じゃないか。《天国はこのような者の国である》と教えてるじゃないか。彼は子供たちを敬い愛せよと命じた。子供たちは未来の人類なんだよ……」
「それじゃいったい、どうしろというの?」とソーニャはヒステリックに泣き、手をもみしだきながら、叫んだ。
「どうしろ? 砕くべきものは、ひと思いに砕いてしまう、それだけのことだよ。そして苦悩をわが身にになうんだ! なに? わからない? いずれわかるよ……自由と力、特に大切なのは力だ! すべてのおののける者どもとすべての蟻塚の上に立つのだ!……これが目的だ! おぼえておきたまえ! これがきみにおくるぼくの門出の言葉だよ! もしかしたら、きみと話すのもこれが最後かもしれん。もし明日ぼくが来なかったら、いっさいのことがひとりでにきみの耳に入るだろう、そしたらいまのこの言葉を思い出してくれ。いずれ、何年か後に、生活をかさねるにつれて、この言葉の意味がわかるようになるだろう。もし明日来たら、誰がリザヴェータを殺したか、おしえるよ。さようなら!」
ソーニャはおどろきのあまり呆然となった。
「じゃ、あなたは知ってるの、誰が殺したか?」と彼女はおそろしさにそそけだって、けわしい目で彼を見つめながら、尋ねた。
「知ってるから言うんだよ……きみにだけ、きみ一人だけに! ぼくはきみを選んだ。ぼくはきみに許しを請いに来るのじゃない、ただ言いに来るだけだ。ぼくはそれを言う相手として、もうまえまえからきみを選んでいたのだ。きみのお父さんからきみのことを聞いたころから、まだリザヴェータが生きていたころから、ぼくはもうそれを考えていたんだよ。さようなら。握手はいらんよ。じゃ明日!」
彼は出て行った。彼女は気ちがいだと思って彼に目をみはっていた。しかし彼女自身も気ちがいじみていて、自分でもそれを感じていた。あたまがくらくらした。
《ああ! リザヴェータを殺した人を、どうしてあの人が知っているんだろう? あの言葉はどういう意味かしら? おそろしいことだわ!》しかし、そう思いながらも、あの考えは彼女の頭にうかばなかった。けっして! ゆめにも!……《おお、あのひとはきっとひどく不幸なひとなんだわ!……お母さんと妹さんを捨てたなんて。どうしてかしら? 何があったのかしら? そしてあのひとは何をしようとしているのかしら? どうしてあんなことを言ったのかしら? あのひとはわたしの足に接吻して、言った……(そう、はっきりと言ったわ)、わたしがいなければもう生きていかれないって……ああ、どうしよう!》
ソーニャは一晩中熱にうかされ、うなされつづけた。彼女はときどきはね起きて、泣いたり、手をもみしだいたりするかと思うと、また熱病のような眠りにおち、ポーレチカや、カテリーナ・イワーノヴナや、リザヴェータや、福音書の朗読や、彼の夢を見る……彼の蒼白い顔、熱っぽい目……彼が彼女の足に接吻して、泣いている……おお、神さま!
右側のドア、ソーニャの部屋とゲルトルーダ・カルローヴナ・レスリッヒの住居を区切っているドアのかげは、レスリッヒ婦人の住居に属している細長い部屋になっていて、もういつからか空いたままで、貸間札が門の壁や、運河に面した窓ガラスに貼られていた。ソーニャはもうまえからその部屋には人がいないものと思いこんでいた。ところが、さっきからずうっと、そのあき室のドアのそばにスヴィドリガイロフが立っていて、息を殺して、盗み聞きをしていたのである。ラスコーリニコフが立ち去ると、彼はその場に立ったままちょっと思案していたが、やがて爪先立ちでその空き室につづいている自分の部屋にもどり、椅子をひとつもって、またそっともとの場所に引っ返し、ソーニャの部屋につづくドアのそばに音のしないようにおいた。話が彼には興味深く意味ありげに思われて、すっかり気に入ってしまった。──そこで彼は椅子をはこび、これからは、さしあたっては明日にも、また一時間も立たされる不愉快さをさけて、ぐあいよく聞けるような場所をつくり、あらゆる点において十分な満足を得ようとしたのである。
5
翌朝、ちょうど十一時に、ラスコーリニコフは警察署の捜査課に出頭して、ポルフィーリイ・ペトローヴィチに取り次ぎをたのんだが、あまり待たされたので、むしろ意外な気さえした。少なくとも十分はすぎたが、まだ彼は呼ばれなかった。彼の考えでは、待ちかまえていたようにいきなり連れこまれるはずだった。ところが、控室に突っ立っている彼のそばを、人々が忙しそうに行ったり来たりしているが、どうやら彼になど、何の用もなさそうだった。事務室らしい次の部屋には、何人かの書記が机に向って書きものをしていたが、ラスコーリニコフがどこの何者なのかなど、まるで知りもしないふうだった。彼は不安な疑いの目であたりを見まわしながら、そのへんのどこかに、彼を逃がさないように見張りを命じられたひそかな監視の目がかくされてはいないかと、さぐった。しかし、そのようなものはどこにもなかった。彼が見たものは、事務員たちのせかせかと気ぜわしそうな顔と、さらに何人かの人々の顔で、誰も彼になど見向きもしなかった。いまならどこへ行こうと、彼を見とがめるものはなさそうだ。もしも地下からわいてでたまぼろしのようなあの昨日の謎の男が、実際にすべてを目撃していて、すべてを知っているとしたら、──果していま彼ラスコーリニコフをこんなところにぼんやり突っ立たせて、のんびり待たせておくようなことをするだろうか、という疑問が彼の頭の中でますます強くかたまってきた。それに、彼が自発的にでてくるのを、十一時までも手をこまねいて待っているだろうか? そこで考えられるのは、あるいはあの男がぜんぜん密告しなかったか、あるいは……あるいは実はあの男も何も知らないで、自分がその目で何も見たわけではなかったか、(それはそうだ、どこからどうして見ることができたのだ?)いずれかだ。とすると、昨日彼ラスコーリニコフの身辺に起ったことはみな、またしても、彼のたかぶった病的な想像によって誇張された幻覚だったのか。この推測は、まだ昨日不安と絶望の絶頂にあったころから、もう彼の内部にかたまりはじめていた。いまこうしたことすべてを思いかえして、新しいたたかいに対する腹をきめると、彼は不意に、自分がふるえているのを感じた、──そしてあの胸くそのわるいポルフィーリイ・ペトローヴィチに対する恐怖でふるえているのだと思うと、彼は憤怒で胸が煮えたぎった。彼にとって何よりおそろしいのは、あの男ともう一度会うということだった。彼はポルフィーリイ・ペトローヴィチをこれ以上憎めないほど憎んでいた、そして憎悪のあまりうっかり自分を暴露してしまいはせぬかと、それを恐れたのだった。憤怒があまりにもはげしかったので、とっさにふるえがとまった。彼は冷たい傲慢な態度でのぞむ腹をきめて、できるだけものを言わず、相手をよく見て言葉のうらをさぐることにしよう、せめて今度だけはどうあっても、病的に苛立つわるい癖をおさえつけよう、と自分に誓った。ちょうどそのとき彼はポルフィーリイ・ペトローヴィチの部屋に呼ばれた。
行ってみると、事務室にはポルフィーリイ・ペトローヴィチが一人きりだった。彼の事務室は広くもせまくもなく、部屋の中には、大きな応接テーブル、そのまえに油布張りのソファ、事務卓、片隅に戸棚、それに椅子が数脚あるだけで──それがみな黄色いつや出しの木でつくった備えつけの用度品だった。うしろの壁、というよりは仕切りの隅にドアがあって、しまっていた。してみると、その向うには、まだいくつか部屋がつづいているにちがいなかった。ラスコーリニコフが入ると、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはすぐにそのドアをしめて、二人きりになった。彼はいかにも愉快そうに愛想よく客を迎えた、そしてラスコーリニコフがどうやら相手がうろたえているらしいと気がついたのは、しばらくしてからだった。彼は不意をつかれて面くらったか、あるいは一人でこっそり何かしているところを見つかったというふうな様子だった。
「ああ、これはこれは! あなたでしたか……わざわざこんなところへ……」とポルフィーリイは両手をさしのべて、言った。「さあ、おかけください、どうぞどうぞ! おや、あなたはおいやですかな、こんな親しげに……下手にでられるのが、──tout court(なるほど)そうでしたか? なれなれしすぎるなんて、どうか、気をわるくしないでください……さあ、どうぞ、こっちのソファのほうへ」
ラスコーリニコフは坐ったが、その間も彼から目をはなさなかった。
《わざわざこんなところへ》とか、なれなれしさをあやまるとか、tout court(なるほど)なんてフランス語をつかうとか、そのほか数えたらいろいろあるが、──こうしたことはみな特異な徴候だった。《それにしてもやつは、わざわざ両手をさしだしたくせに、うまいぐあいにひっこめて、ぜんぜんにぎらせなかったじゃないか》という疑惑がちらと彼の頭をかすめた。二人は互いに相手をさぐりあったが、視線があうとすぐに、二人とも稲妻のような早さで目をそらした。
「ぼくは書類をもってきたんです……時計の……これです。これでいいですか、それとももう一度書き直しましょうか?」
「何です? 書類ですか? ああ、どれ……ご心配なく、これで結構です」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、まるでどこかへ急いでいるみたいに、あわててこう言った。そしてそう言ってしまってから、書類を手にとって、目で読んだ。「たしかに、まちがいありません。何もつけ加えることはありません」彼は同じ早口でこう言いきると、それをテーブルの上においた。それから、しばらくして、彼はもうほかの話をしながら、またその書類をとりあげて、自分の事務卓へおき直した。
「あなたは、たしか、昨日ぼくに言いましたね、ぼくとあの……殺された老婆の関係について……正式に……尋ねたいとか……」とラスコーリニコフは改めて言いだした。
《チエッ、なんだっておれはたしかなんて言葉をはさんだのだ?》という考えが彼の頭をかすめた。《だが、このたしかをはさんだのを、なぜおれはこんなに気にするのだ?》というもうひとつの考えが、すぐにそのあとから稲妻のようにひらめいた。
そして不意に彼は、自分の猜疑心が、ポルフィーリイにちょっと会って、一言二言ことばをかわし、一、二度視線をまじえただけで、一瞬のうちに早くもおそるべき大きさに成長してしまったことを感じた……これはおそろしく危険だ。神経が苛立ち、興奮がつよまるばかりだ。《まずい!……まずい……また口をすべらせるぞ》
「ああ、そうでしたね! でもご心配なく! 急ぐことはありません、時間は十分にあります」とポルフィーリイはテーブルのそばを行き来しながら、呟くように言った。彼はなんとなくぶらぶら歩いているというふうで、そそくさと窓のほうへ行くかと思うと、事務卓のほうへ行ったり、また窓のほうへもどってみたり、ラスコーリニコフの疑るような目をさけているかと思えば、急に立ちどまって、まともに執拗に彼の目をのぞきこむのだった。しかもそうしている彼のころころふとった小さなまるい身体が、まるでマリがあちらこちらへころがっては、すぐにはね返ってくるようで、なんとも奇妙な感じだった。
「大丈夫ですよ、あわてることはありませんよ!……して、煙草はすいます? おもちですか? さあどうぞ、巻き煙草ですが……」彼は客に巻き煙草をすすめながら、話をつづけた。「実は、あなたをここへお通ししましたが、すぐその仕切りのかげが、ぼくの住居なんですよ……官舎ですがね、でもいまは当分の間、自宅から通いです。ちょっとした修理をしていたんでね。もうほとんどできあがりました……官舎ってやつは、ご存じでしょうが、いいものですよ、──そうじゃありません? え、どう思います?」
「そう、いいものですね」と、ラスコーリニコフは嘲笑うような目で相手を見ながら答えた。
「いいものです、いいものですよ……」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは急に何かぜんぜん別なことを考えだしたように、こうくりかえした。「そうです! いいものです!」しばらくすると、不意にひたとラスコーリニコフを凝視しながら、二歩ほどのところに立ちどまって、ほとんど叫ぶように言った。官舎はいいものだというこの再三のくりかえしは、その俗っぽさからみて、いま彼がラスコーリニコフに向けた真剣な、思いつめた、謎のようなまなざしとは、あまりにも矛盾していた。
しかしこれはラスコーリニコフの憎悪をますますあおりたてた。そして彼は相手を愚弄するかなりうかつな挑戦を、もうどうしてもこらえることができなかった。
「ところで、何ですか」彼はほとんど不敵といえる目で相手をにらみながら、しかも自分の不敵さによろこびを感じているような態度で、こう尋ねた。「およそ検事と名のつくものには、はじめは遠い些細なことか、重要でも、まるで無関係なことからはじめて、いわば、容疑者を元気づけ、というよりは油断させ、注意をそらしておいて、不意に、まったく思いがけぬところで、何かぜったいのきめ手となる危険な質問をいきなりあびせかけて、相手の度胆をぬくという、捜査の規則というか方法というか、そういうものがあるそうですね、そうですか? そのことは、あらゆる法規や判例にいまでもちゃんと述べてあるそうじゃありませんか?」
「それはまあ、そうですが……どうしたんです、あなたはどうやら、わたしが官舎の話をしたのを、その……え?」
そう言うと、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは目をそばめて、ぱちッと目配せした。何か愉快そうなずるい表情がちらと彼の顔にはしり、額のしわがのび、目が細くなって、間のびのした顔になったかと思うと、とつぜんけたたましく笑いだした。彼は全身をふるわせながら大きくゆすぶり、まっすぐにラスコーリニコフの目を見つめたまま、笑いつづけた。ラスコーリニコフもいくらか無理に、作り笑いをしようとした。ところがポルフィーリイが、ラスコーリニコフも笑っているのを見て、いよいよおさえがきかなくなり、顔を真っ赤にして腹をかかえて笑いだしたとき、ついにラスコーリニコフの嫌悪はいっさいの警戒心を踏みこえてしまった。彼は笑いをやめ、むずかしい顔をして、相手が何かふくむところありげに絶えまない笑いをつづけているあいだ中、その顔から目をはなさずに憎悪をこめてにらみつづけていた。しかし、うかつさは明らかに双方にあった。つまり、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは面とむかって相手を嘲笑し、相手がその嘲笑を憎悪の気持でうけとめているのを見ながら、それにほとんど気まずさを感じていない様子だった。これはラスコーリニコフにはひじょうに意味のあることだった。彼はさとった。きっと、さっきもポルフィーリイ・ペトローヴィチは気づまりなどぜんぜん感じはしなかったのだ。かえって、彼ラスコーリニコフのほうがわなにおちたのかもしれぬ。とすると、ここには明らかに彼の知らない何かがある、何かの目的がある。もしかしたら、もうすっかり手筈ができていて、もうすぐそれが正体をあらわし、頭上におそいかかってくるのではなかろうか……
彼はただちに用件にかかるつもりで、立ちあがると、帽子をつかんだ。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」と彼は決然とした態度で言ったが、その声にはかなりはげしい苛立ちがあった。「あなたは昨日ある尋問のためにぼくが来ることを、希望しておられましたね(彼は尋問という言葉に特に力を入れた)。それで、ぼくは来たわけです。さあ何なりと、聞いてください。なかったら帰らせていただきます。ゆっくりしていられません、用があるんです……ぼくは、あなたも……ご存じの……あの馬車にひかれて死んだ官吏の葬式に行かなければならないのです……」と彼はつけ加えたが、すぐにそんなよけいなことを言った自分に腹がたって、ますます神経を苛立ててしまった。「こんなことはもううんざりです、おわかりですか、もう何日になります……ひとつにはこのために病気にもなったんです……くどいことは言いません」病気のことなど言ったのは、ますますまずかったと感じて、彼はほとんど叫ぶように言った。「要するに、尋問するか、いますぐ帰すか、どっちかにしてください……尋問なさるなら、形式(かた)どおりにねがいます! それ以外はごめんです。だから今日のところはこれで失礼します、いまあなたとこうしていてもしようがないですよ」
「とんでもない! どうしてそんなことを! いったいあなたに何を尋問するんです」とっさに笑うのをやめて、調子も態度もがらりと変えて、ポルフィーリイ・ペトローヴィチはあわててのどをつまらせながら言った。「まあ、どうぞ、ご心配なく」彼はまたせかせかとあちらこちらへ歩きだしたかと思うと、とつぜんしつこくラスコーリニコフに椅子をすすめたりしながら、ちょこまかしだした。「時間はありますよ、時間はたっぷりあります。そんなことはみならちもないことですよ! わたしは、それどころか、あなたにやっと来てもらえたことが、うれしくてたまらないんですよ……わたしはあなたを客として迎えています。ロジオン・ロマーヌイチ、不躾に笑ったことは、どうかかんべんしてください。ロジオン・ロマーヌイチ? たしかこうでしたね、あなたの父称は?……わたしは神経質なものですから、あなたのピリッとわさびのきいた言葉にはすっかり笑わされてしまいましたよ。どうかすると、ほんと、ゴムまりみたいにはじきかえって、三十分も笑いつづけることがあるんですよ……笑いに弱いんですな、脳溢血の体質のくせにね、まあ、おかけくださいな、どうしたんです?……さあ、どうぞ、さもないと、気にしますよ、ほんとに怒ったんですか……」
ラスコーリニコフはまだ怒ったしかめ面をしたまま、黙って相手の言葉を聞きながら、じっと様子をうかがっていた。それでも、彼は坐った。しかし帽子は手からはなさなかった。
「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、ちょっと自分のことを言わせてもらいますが、まあ性格の説明としてですね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはせかせかと室内を歩きまわり、また客と目の合うのをさけるようにしながら、つづけた。「わたしは、ご存じのように、ひとり者で、社交界も知らないし、名もない人間です、しかももうできあがった人間、かたまった人間です、もうぬけがらになりかけています。で……それでですね……ね、ロジオン・ロマーヌイチ、お気づきと思いますが、われわれの周囲では、つまりわがロシアではですね、特にわがペテルブルグの社会では、もし二人の頭のいい人間が、それほど深い知り合いではないが、いわば、互いに尊敬しあっている、つまりいまのわたしとあなたみたいなですね、いっしょになると、まず三十分くらいはどうしても話のテーマを見つけることができないで、──互いにこちこちになって、坐ったまま気まずい思いをしている。誰にだって話のテーマはあるんですよ、例えば、婦人方とか……上流社会の人々なんかは、いつだって必ず話のテーマを持っています。C'est de rigueur(それがきまりみたいになってるんですよ)。ところが、わたしたちみたいな中流階級の人間は、みな恥ずかしがりやで、話下手で……つまりひっこみ思案なんですね。それはどこからくると思います? 社会的な関心がないとでもいうのでしょうか、それとも正直すぎて、互いに相手を欺すのがいやなんでしょうか、わたしにはわかりません。え? あなたはどう思います? まあ、帽子をおきなさいよ、まるでいますぐ帰りそうな格好をなさって、見ていても気が気じゃありませんよ……わたしがこんなに喜んでるのに……」
ラスコーリニコフは帽子をおいたが、あいかわらず黙りこくって、むずかしい顔をしたまま真剣にポルフィーリイの中身のない要領を得ないおしゃべりに耳をかたむけていた。《こいつ何を言っているのだ、本気で、こんなあほらしいおしゃべりでおれの注意をそらそうとでも思っているのか?》
「コーヒーは、こんな場所ですから、だせませんが、五分くらいいっしょにいてくれてもかまわんでしょう、気晴らしになりますよ」とポルフィーリイは休みなくしゃべりつづけた。「まったく、およそこうした職務というやつは……ところで、わたしがこうしてのべつ歩きまわっていることに、どうか気を悪くなさらんでください。すみません、あなたを怒らせるのがわたしはいちばん恐いんですよ、わたしにはただ運動が必要なだけで、別に他意はありません。坐ってばかりいますと、こうして五分ほど歩くのがうれしくてねえ……それに痔がわるいんで……なんとか体操でなおそうと思いましてね。噂にきくと、五等官や四等官、さらに三等官なんておえら方でさえ、好んで縄とびをやっているそうですよ。まったく、科学ですからな、現代は……ところで、ここの職務や、尋問や、その形式ということですがね、……そら、あなたはいま尋問のことをおっしゃったでしょう……これは実際、ロジオン・ロマーヌイチ、この尋問というやつはときによると、尋問されるほうよりも尋問するほうを迷わせることがあるものですよ……このことはいまあなたが、ずばりと皮肉を言ってのけましたが、まったくそのとおりです(ラスコーリニコフはそんなことはぜんぜん言わなかった)。迷ってしまいます! 実際、迷ってしまいますよ! それにいつも同じことばかり、のべつ同じことのくりかえし、まるで太鼓をたたいているようなものですよ! この頃は改革が行われているでしょう。われわれもせめて名称だけでも変えてもらいたいと思いますよ。へ! へ! へ! ところでわれわれ司法官の方法ですが、──あなたの鋭い表現をかりればですな、──これはまったくあなたのご意見に賛成です。まあどんな被告でも、もっともにぶい百姓だって、例えば、はじめは無関係な質問をやつぎ早にあびせておいて(あなたのみごとな表現をかりればですな)、そのうちにとつぜん脳天にがんとくらわせるくらいのことは、ちゃんと承知してますよ。がんと、斧の背でね、へ! へ! へ! 脳天にですよ、あなたのみごとな比喩によればね! へ! へ! あなたは本気でそんなことを考えたんですか、つまりわたしが住居の話であなたを……へ! へ! 皮肉な人ですよ、あなたも。まあ、そんなことはしませんよ! あ、そうそう、ついでにひとつ、どうも、しゃべったり考えたりしていると、よくまあ次々と言葉や考えがでてくるものですねえ、──あなたはさっき形式のことを言われましたな、ほら、尋問のですよ……形式とはいったい何でしょう! 形式なんて、たいていの場合、くだらんものですよ。ときには、友だちとして話しあうだけのほうが、ずっと有利なこともあります。形式は決して逃げて行きません、その点はどうかご心配なく。それに、うかがいますが、本当のところ形式とは何でしょう? 形式で予審判事の動きはしばられませんよ。予審判事のしごとは、いわば、自由な芸術ですからな、一種のね、いや似て非なるものかな!……へ! へ! へ!……」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはちょっと息をついだ。彼は疲れも知らずに、とめどなくしゃべった。意味もなくばかげたことを言っているかと思うと、不意に何か謎めいた言葉をもらし、すぐにまたばかげた話にまぎれこんでしまうというぐあいだった。彼はもうほとんど走るように部屋の中を歩きまわっていた。ふとった小さな足をますます早くちょこまかうごかし、うつむいたまま、右手を背にあて、左手をたえず振りまわしたり、さまざまなジェスチュアをしたりして、歩きまわった。そのジェスチュアがまたそのつど彼の言っていることとあきれるほどそぐわなかった。ラスコーリニコフは不意に、彼が部屋の中を走りまわりながら、二度ほどドアのそばにちょっと足をとめて、何かに耳をすますような様子をしたことに気づいた……《やつめ、何かを待っているのかな?》
「あれはたしかに、まったくあなたの言うとおりですよ」とポルフィーリイはまた、楽しそうに、異常なほど無邪気な目でラスコーリニコフを見ながら(そのためにこちらはぎょっとして、とっさに心を構えた)、急いで言った。「法律上の形式というやつを、あなたは実にしんらつに嘲笑されたが、まったくそのとおりですよ、へ、へ! どうもこの(もちろん、全部じゃありませんがね)われわれの深遠な心理的方法というやつは、まったく滑稽ですよ、それに、おそらく無益でしょうな、形式にあまりこだわれば。おや……また形式にもどってしまった。さて、わたしが担当を命じられたある事件の犯人として、誰でもいいですが、まあ仮に誰かを認めた、というよりは、むしろ疑いをかけたとします……たしかあなたは、法律をやっておられたはずでしたね、ロジオン・ロマーヌイチ?」
「ええ、勉強はしました……」
「じゃちょうどいい、あなたの将来の参考として、判例といったものをひとつ、──といって、図々しいやつだ、おれに教える気か、なんて思われちゃこまりますよ。現に、あなたはあんなりっぱな犯罪論を発表しておられるんですからねえ! とんでもない、わたしはただ、事実として、判例を申しあげるだけですよ。──さて、わたしが誰かを容疑者と認めるとします。そこでひとつうかがいますが、たとえわたしが証拠をにぎっていたとしてもですよ、時機のこないうちに当人をさわがせる必要があるでしょうか? そりゃ、相手によっては早く逮捕しなきゃならん場合もありますが、そうでない性質の容疑者もいますよ、ほんとです。そんなやつはしばらく街を泳がせておいても、別にどうってことはありませんからな、へ、へ! いやいや、どうやら、よくおわかりにならんようですな、じゃもっとはっきり申しあげましょう。例えばですよ、もしわたしがやつをあまり早く拘留すればですね、それによってやつは精神的な、いわば、支えをあたえることになるかもしれませんからねえ、へ、へ! おや、あなたは笑ってますね? (ラスコーリニコフは笑うなど思いもよらなかった。彼は坐ったまま、口をかたく結んで、充血した目をポルフィーリイ・ペトローヴィチの目からはなさずに、じっとにらみつけていた)。ところが、そうなんですよ、相手によっては特にね、人はさまざまですからねえ、何ごとも要は経験ですよ。あなたはさっき証拠と言われましたな。そのとおりです、仮にそれが証拠としてもですね、証拠なんてものは、あなた、たいていはあいまいなものですよ。予審判事なんて弱いものです。告白しますが、そりゃ審理は、いわば、数学的にはっきりさせたいですよ。二たす二は──四になるような、そういう証拠を手に入れたいと思いますよ! ずばり異論の余地のない証拠をね! で、やつを時機を待たずに拘留すればですね、──たとえわたしがそれがやつであることを確信していてもですよ、──おそらくわたしは、さらにやつの罪証をあばく手段を自分で自分からうばうことになるでしょう。なぜ? つまり、それによってわたしはやつに、いわば、ある一定の立場をあたえることになり、いわば心理的に安定させてしまうからです。そこでやつはわたしから逃れて、自分の殻の中にとじこもってしまいます。ついに、自分が被拘束者だとさとるわけです。また噂に聞いたのですが、セワストーポリでは、アリマの戦争の直後、敵がいまにも正面攻撃をかけてきて、一挙にセワストーポリ要塞をおとすのではないかと、識者たちはびくびくしていたそうです。ところが、敵は正攻法の包囲作戦をえらび、前線に平行壕を構築しているのを見て、彼らは大いに喜び、ほっとしたということです。正攻法の包囲作戦をやっていたのでは、少なく見ても二カ月は大丈夫というわけです! おや、また笑ってますね? また信じないんですね? そりゃむろん、あなたも正しいですよ。正しいですよ、正しいですとも! これはみな特殊の場合です、たしかにそのとおりですよ! いまあげた例はたしかに特殊の場合です! でも、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実に注視すべきではないでしょうか。つまり一般的な場合というものは、つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの考察の対象となり、判例として記録されるような、そうした場合のことですがね、ぜんぜん存在しませんね。というのはあらゆる事件は、まあどんな犯罪にしてもそうですが、それが現実に発生すると、たちまち完全に特殊な場合にかわってしまうからですよ。しかもときには特殊も特殊、まるで前例のないようなものにね。またこの種の例で、ときにはふきだしたくなるようなことが起ることもありますよ。まあ仮に、わたしがある男を勝手に泳がせておくとしましょう。拘束もしないし、邪魔もしません。が、その男にそれこそ四六時中、わたしがいっさいの秘密を知っていて、夜も昼もたえず尾行し、監視の目を光らせていると、知らせるか、あるいは少なくとも疑惑をもたせるようにしむけるわけです。つまり意識的にたえずわたしに狙われているという疑惑と恐怖の下においておくわけです、すると頭がくらくらになって、ほんとですよ、向うからひっかかってきたり、それこそ二たす二は四みたいな何かをやらかして、はっきりした物証をのこしてくれたりするものです。──おもしろいですよ。これは頭の雑な百姓にさえあるんですから、ましてわれわれの仲間、つまり現代感覚をもつ頭脳明晰な人間、しかもある方向に発達している人間には、なおさらのことですよ! だから、その人間がどの方向に発達しているかってことを見ぬくのが、実に重要な意味をもつわけです。それから神経ですよ、神経という曲者、あなたはこいつをすっかり忘れていたようですね! まったくこいつは現代病ってやつで、やせこけて、苛々してますよ!……それも胆汁のせいですが、これがまた彼らにはどれほどあるやらわかりゃしない! まったくこいつは、まあ何ですな、ときによると一種の鉱脈みたいなものですよ! だからわたしは、その男が縄もつけられないで勝手にぶらぶら街を歩きまわっていても、ちっとも心配はありませんよ! なに、しばらく遊ばせておきゃいいんですよ。そうでなくともわたしは、そいつがわたしの獲物で、どこへも逃げて行かないことを、ちゃんと知ってるんですよ! それにどこへ逃げますかな、へ、へ! 外国へでも逃げますか? 外国へ逃げるのはポーランド人ですよ、やつじゃありませんな。ましてわたしが監視してるし、手をうってあるんでね。じゃ、祖国の奥深くへでも逃げこみますか? ところがそこには百姓どもが住んでますよ、土の虫みたいなほんもののロシアの百姓がね。まあ教養ある現代人なら、わがロシアの百姓みたいな異国人といっしょに生活するくらいなら、いっそ監獄をえらぶでしょうな、へ、へ! でもこんなことはみなつまらんことですよ、外面的なことです。逃げるとは、どういうことでしょう! それは形の上のことです。実体はちがいます。逃げる先がないということだけで、逃げないんじゃありませんよ。その男は心理的にわたしから逃げないんですよ、へ、へ! どうです、おもしろい表現でしょう! その男は、たとえ逃げる先があっても、自然の法則によってわたしから逃げないんですよ。ろうそくの火によってくる蛾を見たことがありますか? まあ、あれですよ、蛾がろうそくの火のまわりをまわるみたいに、たえずわたしのまわりをぐるぐるまわっているんですよ。そのうちに自由が喜びでなくなる、考えこみはじめる、頭が混乱してくる、蜘蛛の巣にひっかかったみたいに、自分で自分をしばりあげ、自分を見つめるのが恐くなる!……そのうえ、二たす二は四みたいな何らかの物証を、自分からすすんでわたしに用意してくれるんですよ、──ただ幕間をちょっとだけ長くしてやりさえすればね……たえず、それこそ休みなく、わたしのまわりに円を描きながら、しだいに輪をせばめてきて、ついに──往生というわけです! いきなりわたしの口にとびこんでくる、そこでわたしは呑みこむ、これは実に愉快なものですよ、へ、へ、へ! 信じられませんかね?」
ラスコーリニコフは答えなかった。彼はやはり張りつめた目でじっとポルフィーリイの顔をにらみつけたまま、蒼白な顔をして身じろぎもせずに坐っていた。
《みごとな講義だ!》と彼は寒気をおぼえながら、考えた。《これはもはや昨日のように、猫がねずみをなぶっているどころじゃない。それにやつは意味もなく自分の力をおれにひけらかして……ひそかに暗示しているとは思われぬ。それには頭がよすぎる。これにはほかの目的があるのだ、ではどんな? おい、くだらんぞ、きみ、おれをおどかして、ひっかけようとしても、そうはいかん! きみには証拠がないし、昨日の男だってこの世にいやしないんだ! きみはおれの頭を混乱させようとしているだけさ。まずおれを苛々させておいて、そこでとつぜんしっぽをおさえようというのだ。嘘ばかりついてさ、そうはいかんよ、しくじるにきまってるね! しかしなぜ、いったいなぜこれほどまでおれに暗示するのだろう?……おれの病的な神経に望みをかけているのか!……だめだよ、きみ、むだだよ、すこしぐらいの用意をしたところで、そうはいかんよ……どれひとつ、どんな用意をしたのか、見てやろう》
そこでラスコーリニコフはどうでるかわからぬおそろしい破局にそなえながら、全力をふりしぼって心をひきしめた。ときどき彼はいきなりポルフィーリイにとびかかって、ひと思いにしめ殺してやりたい衝動にかられた。彼はここへ来たときから、もうこの憎悪をおそれていたのだった。彼は唇がかさかさに乾いて、心臓がはげしく高鳴り、泡が唇に焼けつくのを感じた。それでも彼は沈黙を通して、時がくるまで一言も口をきかぬ決意をした。彼は自分の置かれた立場としてこれが最良の策であることをさとった。なぜなら、うっかりへまなことを言う心配がないばかりか、かえって、沈黙によって敵を苛立たせて、向うが口をすべらせてくれるかもしれないからだ。少なくとも彼はそれを当てにしていた。
「いや、あなたは信じないようだ、わかりますよ。わたしが悪意のない冗談ばかりならべていると思っていなさるらしい」ポルフィーリイはますます陽気になり、満足そうにたえずヒヒヒと笑いながら、ひとりでうなずいて、また室内を歩きまわりはじめた。「そりゃむろん、そう思うのが当然ですよ。なにしろわたしは見てくれがこんなふうに神にさずかったのでねえ、他人に滑稽な感じしか起させないんですよ。道化ですな。でも、ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、何度も言うようですが、老人は大目に見てやるものですよ。あなたはお若い、いわば第一の青春だ、だからすべての若い人たちの例にもれず、人間の叡智というものを何よりも高く評価しておられるはずだ。だから鋭い皮肉や抽象的な論拠に誘惑される。それは、例えばオーストリヤの三国同盟会議とまったく同じですね。もっともこれはわたしのとぼしい軍事知識による判断ですがね。紙の上では彼らはナポレオンを粉砕し、捕虜にしましたよ。そして作戦室では実に鋭い奇策を弄して、敵を苦況においこみました。ところが実際はどうでしょう、マック将軍は全軍をひきいてもろくも降伏してるじゃありませんか、へ、へ、へ! わかりますよ、わかりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしがこんな文官のくせに、戦争の歴史からばかり例をひくんで、あなたは嘲笑っていますね。でもしようがないんですよ、困ったもので、どういうものか軍事問題が好きなんですよ、こうした戦闘報告を読むのがたまらなく好きなんです……わたしはまったく道の選択をあやまりましたよ。軍人になっていたらと思いますよ、まったく。まさかナポレオンまではいかんでしょうが、少佐くらいにはなったかもしれませんな、へ、へ、へ! 冗談はさておいて、ロジオン・ロマーヌイチ、ここらでその、何ですか、つまり特殊な場合というものについて、くわしいありていをお話しましょう。現実と自然というものは、ですね、きわめて重要なものです、それはときによると底の底まで見通した計画をもいっぺんにくずしてしまうことがあります! まあまあ、年寄りの言うことを聞きなさいよ、まじめな話ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ(こう言うと、やっと三十五になったばかりのポルフィーリイ・ペトローヴィチが実際に急に年寄りじみて、声まで変り、どういうものか身体ぜんたいが前屈みにちぢこまって見えた)、おまけにわたしはあけっぴろげな男でねえ……わたしはあけっぴろげな男でしょう、ちがいますか? どう思います? わたしはまるきりあけっぴろげだと思うのですがねえ。こんないいことをただであなたに教えて、お礼も要求しないのですからな、へ、へ! まあ、というわけで、先をつづけましょう。鋭い頭脳というものは、すばらしいものだと思います。それは、いわば、自然の装飾、生活の慰めです。そしてそれはまったくみごとな手品を見せてくれることがあります。そこらのみじめな予審判事にはとてもそのトリックは見破られそうにありません。まして自分でつくりあげた幻想に酔っていてはですね、もっともこれはよくあることです。なにしろ予審判事だって人間ですからねえ! そこで自然というやつがあわれな予審判事を救い出してくれるんです、こいつが始末がわるいんですよ! ところがここまでは、自分の鋭い頭脳に酔って、《いっさいの障害を踏みこえようとしている》(あなたの実に奇知に富んだ巧みな表現をかりればですな)青年も考えません。そこでその青年が、嘘をつくとしましょう。つまりある男のことですがね、特殊な場合の例ですよ、むろん名前は秘しますよ。実に巧みな方法で、みごとに嘘をつきます。そしてもう勝利を手にし、自分の鋭い頭脳の成果を楽しむことができそうに思われます。ところがその寸前、ばったり、というわけです! しかももっとも気になる、もっとも恥ずべき場所で、失神してしまうのです。それは病気のせいとしましょう。まあ室内が息苦しいこともあるでしょう。それにしてもです! やはりあるヒントはあたえたことになります! 類いなくみごとに嘘はついたが、自然の本性というものを計算に入れる能力がなかったのです。まあこれが、奸知の限界ですね! またあるときは、自分の頭脳の気まぐれに酔って、自分を疑っている男をからかいだし、わざと、芝居をしているみたいに、蒼白になってみせる、ところがその蒼白になり方があまりにも自然すぎて、あまりにもほんものらしく、これもまたあるヒントをあたえる! 一度は欺しても、こちらだってそうそう馬鹿じゃないから、一晩かかってじっくり考える。まったく、一歩一歩がこういうことの連続です! それに世話はありませんよ、勝手に先まわりしては、呼ばれもしないところへ顔を出してみたり、かえって黙っていなければならないようなことを、ぺらぺらしゃべりだしたり、いろんな謎みたいなことを言ったりしてくれるんでね、へ、へ! そのうちに自分からやってきて、どうしていつまでもおれを逮捕しないんだ、なんて聞くようになりますよ。へ、へ、へ! しかもこれはもっとも頭脳の鋭い人間にあり得ることなんですよ、心理学者とか、文学者とか! 自然は鏡ですよ、鏡ですよ、もっともよく澄んだね! それに自分を映して、つくづく見惚れるんですな、それでいいんですよ! おや、どうしました、真っ蒼ですね、ロジオン・ロマーヌイチ、空気がにごりましたか、窓でもあけましょうかね?」
「いや、ご心配なく、どうぞ」と叫ぶように言うと、ラスコーリニコフはとつぜんけたたましく笑いだした。「どうぞ、ご心配なく!」
ポルフィーリイは彼のまえに立ちどまると、ちょっと間をおいて、自分も不意に、彼につづいて、大声で笑いだした。ラスコーリニコフは急にそのまったく発作的な哄笑をぴたっととめると、ソファから立ちあがった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ!」彼は足がふるえて立っているのがやっとだったが、大きな声ではっきりと言った。「ぼくはやっとはっきりわかりましたよ、あなたがあの老婆とその妹リザヴェータ殺害の件で、ぼくをはっきり黒とにらんでいることが。ぼくとしては、はっきり言いますが、そういうことはもうとうにうんざりしています。もし正当にぼくを追及する権利があると認めるなら、追及しなさい。逮捕するなら、逮捕しなさい。しかし面と向って嘲笑したり、苦しめたりすることは、許しません」
不意に彼の唇はふるえだし、目ははげしい憤りに燃えたって、それまでおさえていた声が甲高くうわずった。
「許しません!」不意にこう叫ぶと、彼はいきなり拳で力まかせにテーブルをたたいた。「聞いてるんですか、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ? 許しませんぞ!」
「いやどうも、おどろきましたね、どうしたんです、また急に!」と、すっかり度胆をぬかれたらしく、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。「ねえ! ロジオン・ロマーヌイチ! まあまあ! 落ち着いて! いったいどうしたんです?」
「許さん!」ともう一度ラスコーリニコフは叫ぼうとした。
「まあまあ、もうちょっと静かに! 人が聞きつけて、とんで来ますぞ! そしたら何と言います。すこしは考えなさい!」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは自分の顔をラスコーリニコフの顔にふれあうほどに近よせて、びくびくしながら囁いた。
「許さん、許さん!」とラスコーリニコフも急に声をひそめて、機械的にくりかえした。
ポルフィーリイはくるりと振りむいて、窓をあけに走って行った。
「空気を入れましょう、新鮮な空気を! そう、水をすこし飲むといいですよ、軽い発作ですからね!」
そう言って彼は、水を言いつけに戸口にかけ出そうとしたが、いいぐあいに、すぐそこの隅に水を入れたフラスコがおいてあった。
「さあ、お飲みなさい」と彼はフラスコをもって彼のほうへかけよりながら、囁くように言った。「きっと楽になりますよ……」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチのおどろきとこまかい思いやりがいかにも自然だったので、ラスコーリニコフは思わず口をつぐみ、はげしい好奇の目で相手を見まもりはじめた。しかし、水は飲もうとしなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ! さあそんなことをしていると、自分を気ちがいにしてしまいますよ、ほんとですよ、さあ! ね! お飲みなさい! お飲みなさいよ、ちょっぴりでもいいから!」
彼はこうして水のコップを無理にラスコーリニコフの手ににぎらせた。ラスコーリニコフは無意識にそれを口もとへもっていきかけたが、はっと気がついて、けがらわしそうにそれをテーブルの上においた。
「ねえ、うちでも発作を起しましたね! こんなことをしてると、また病気をぶりかえしますよ」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは親身の思いやりを示しながら、くどくどと言いだしたが、まだショックからぬけきらない様子だった。「やれやれ! どうしてこうあなたは自分の身を粗末にするんでしょう? そうそう、昨日ドミートリイ・プロコーフィチがうちへ来ましてね、──ええ、そうですとも、わたしがとげのあるいやな性分なことは、自分でも認めますよ。ところで、彼らがあれからどんな結論をだしたと思います!……まったく、おどろきましたよ! 昨日、あなたが帰ったあと、またやって来ましてね、いっしょにめしを食いながら、いやしゃべるしゃべる、わたしはあきれてぽかんとしてましたよ。こいつ、どうかしたんじゃないか……と思いましてね。あいつはあなたの使いで来たんですか? どうしました、おかけください、まあちょっとだけ、どうぞ!」
「いや、ぼくはやりません! でも彼があなたのところへ行ったことも、なぜ行ったかも、ぼくは知ってましたよ」とラスコーリニコフはたたきつけるように答えた。
「知っていたんですか?」
「知ってましたよ。で、それがどうかしましたか?」
「いやなに、わたしもね、ロジオン・ロマーヌイチ、そんなんじゃないもっと大きなあなたの行為を知ってますよ。何でも知っているんですよ! あなたが部屋を借りに出かけたこともね。もう日が暮れて大分たった頃でしたね、呼鈴を鳴らしてみたり、血のことを聞いたりして、職人や庭番をびっくりさせましたね、そうでしょう。そのときのあなたの心理状態も、わかるんですよ……でもやはり、こんなことをしていると、あなたは自分を気ちがいにするだけです、ほんとですよ! 頭がくらくらしてきます! はじめは運命から、次いで警察の連中からあたえられた侮辱のために、あなたの胸の中には憤りが、名を惜しむ憤りがはげしくたぎって、そのためにあなたはそこらじゅうを狂いまわって、いわば、早くみんなに口を割らせて、ひと思いにかたをつけてしまおうとします。だってこんなばかばかしいことや、疑いに目で見られることは、もううんざりだからです。どうです? 心理をうまく読みあてたでしょう?……ただあなたはこうして、わたしの家で、自分ばかりでなく、ラズミーヒンの頭までおかしくしたんですよ。ご存じのように、あの男はこうしたことに堪えるにはあまりにも善人すぎるんですよ。あなたには病気があり、あの男にはほとけ心があります。ところでこの病気ってやつがあの男にうるさくねばりつくんです……わたしは、あなたの気持が落ち着いたら、ゆっくり話すつもりですが……まあ、おかけなさいな、ええ、わるいことは言いません! どうぞ、ちょっとお休みなさい、まるで顔色がありませんよ。ま、ちょっとおかけなさい」
ラスコーリニコフは腰をおろした。ふるえは去った。そして身体中が熱っぽくほてってきた。彼は深いおどろきにつつまれて、びくびくしながら親身に世話をやくポルフィーリイ・ペトローヴィチの言葉に、じっと耳をすましていた。しかし彼は、信じたいと思う不思議な誘惑を心のどこかに感じていたが、その言葉を一言も信じはしなかった。貸間云々というポルフィーリイの思いがけぬ言葉は完全に彼の肝をつぶした。《どうしてあれを、さては、あそこへ行ったことを知ってるんだな?》という考えが不意にうかんだ。《それにしても、わざわざ自分から言い出すとは!》
「そうそう、わたしたちのあつかった判例の中に、ちょうど同じような事件がありましたよ、やはり心理的な、じめじめした事件ですがね」とポルフィーリイは早口につづけた。「これもある男が自分を殺人犯にしてしまったのですがね、そのやり方が念が入ってるんですよ。幻覚で見たことをすっかりならべたて、事実を述べ、殺人の状況を詳しく説明して、みんなを煙にまき、一人のこらず迷わされてしまったんですよ、ところがどうでしょう? その男は、まったく偶然に、殺人の原因の一部となっていたんです。ほんの一部にすぎないのですが、犯人たちに殺人の動機をあたえたことを知ると、その男はすっかりふさぎこんで、頭がおかしくなり、幻覚になやまされるようになり、完全に神経が犯されてしまって、自分で自分が殺人犯だと思いこんでしまったというわけです! 結局、最高裁判所が事件を解明して、あわれな男は無実を証明され、保護されることになりました。まったく、最高裁さまさまですよ! 実際、ありがたいものです! あなたも、こんなことをしていたらどうなります? もう神経を苛々させる傾向があらわれているんですから、毎夜呼鈴を鳴らしに出かけたり、血のことを聞くようになったりして、熱病にとりつかれるくらいがおちですよ! この心理現象はわたしが実地に研究したんだから、まちがいありません。このまま放っておくと、ややもすると窓や鐘楼からとびおりるようなことになるんですよ、ひきよせられるような気持になりましてね。呼鈴のことだって同じです……病気ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、病気ですよ! あなたは自分の病気を軽く見すぎますよ。経験ある医者に相談してみることですね。あなたの友人のあのふとったの、あんなのじゃだめですよ!……あなたは幻覚にとらわれています! あなたのしていることはみな幻覚のせいなんですよ!……」
急に、ラスコーリニコフのまわりのものがみな、ぐるぐるまわりだした。
《果して、果して、この男はいまも嘘をついているのだろうか?》という考えがちらと彼の頭をかすめた。《そんなことはあり得ない、あり得ない!》彼はあわててその考えをおしのけようとした。彼は、その考えが自分をどれほどの狂おしい憤怒につきおとすかもしれぬ、そうなったら発狂しかねない、と予感したのである。
「あれは幻覚じゃなかった、正気だった!」彼はポルフィーリイの腹を読もうと判断力のすべてを集中しながら、叫んだ。「正気だった、正気でやったんだ! 聞いてるんですか?」
「ええ、聞いてますとも、わかりますよ! あなたは昨日も、幻覚じゃないと言ってましたね、幻覚ではないことを、特にしつこく強調しました! あなたの言いそうなことは、すっかりわかりますよ! ほんとですよ!……でもね、いいですか、ロジオン・ロマーヌイチ、まあこれだけでも聞いてください。いいですか、あなたが実際に、ほんとうにですよ、この呪わしい事件の犯人か、あるいは何らかの関係があるとしたら、あれは幻覚にとらわれてやったのじゃない、完全に正気でやったことだなんて、自分でわざわざ強調するでしょうか? それもことさらに、うるさいほどしつこく強調する、──そんなことがあり得るでしょうか、まさか、とても考えられませんね! ぜんぜんその反対じゃないでしょうか、わたしはそう思いますね。もしあなたに何かうしろめたい気持があったとしたら、それこそ、あれはぜったいに幻覚にとらわれてやったことだ、と強調するのが当然でしょうね! そうでしょう? そうじゃありませんか?」
この問いには何かずるいものが感じられた。ラスコーリニコフはかがみこんだポルフィーリイからソファの背にくっつくほど身をのけぞらせて、黙っていると、疑いの目で相手を見まもっていた。
「あるいはまた、ラズミーヒン君のことにしても、つまり彼が昨日自分で勝手にあんなことを言いに来たのか、それともあなたにたのまれて来たのか、ということですね。これだって、あなたは勝手に来たんだと言いはって、たのんだことはかくすのが当然ですよ! ところがあなたはそれをかくそうとしない! かえって、たのんだのだと、強調している!」
ラスコーリニコフはぜんぜんそんなことを強調したおぼえはなかった。冷たいものが彼の背筋をはしった。
「あなたの言ってることは全部でたらめだ」彼は唇をゆがめて病的なうす笑いをもらしながら、ゆっくり弱々しく言った。「あなたはまた、ぼくの筋書きはすっかり見通しだ、ぼくの返答は聞かんでもわかっているということを、ぼくに見せたいのだ」彼は言葉を吟味しなければならぬことをもう忘れていることを、自分でも感じながら、こう言っていた。「ぼくの頭を混乱させようとしている……でなければ、ただぼくを愚弄しているのだ……」
彼はこう言いながら、執拗に相手をにらみつづけているうちに、不意にまた限りない憎悪が目にもえたった。
「あなたの言うのはみな嘘だ!」と彼は叫んだ。「犯人をごまかすのにもっともいいては、かくさんでもいいことはできるだけかくさぬことだ、くらいのことは、あなた自身十分に承知しているはずです。ぼくはあなたを信じません!」
「なんて移り気な人だ!」ポルフィーリイはひひひと笑った。「とても、あなたには合わせられませんな。あなたには何かこう偏執狂じみたところがありますよ。なるほど、わたしを信じないというんですね? ところがわたしに言わせれば、もう信じてますよ、四分の一程度ね。いいでしょう、すっかり信じるようにしてあげましょう。それというのも、ほんとうにあなたが好きですし、心からあなたの幸福をねがっているからなんですよ」
ラスコーリニコフの唇はひくひくふるえだした。
「そうです、ねがっているんですよ、だからはっきり言いますが」と彼は親しげに、ラスコーリニコフの肘のすこし上のあたりを軽くおさえて、つづけた。「はっきり言いますが、病気に気をつけてください。それにいまあなたのところへは、家族の人たちが来てるんですよ、少しは考えてあげなさいよ。やさしくして、安心させてあげなくちゃいけないのに、おびえさせてばかりいるんじゃ……」
「そんなことがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれを知ってるんです? どうしてそんなに気にするんです? なるほど、あなたはぼくをつけまわしているんですね、それをぼくに見せたいんでしょう?」
「何を言うんです! これはみなあなたじゃありませんか、あなたがわたしにおしえたんじゃありませんか! 興奮して、こちらから聞きもしないのに、わたしや他の連中にしゃべったことを、あなたは気がついていないんですね。ラズミーヒン君からも昨日いろんなおもしろいことを聞きました。いやいや、いまあなたに中断された話のつづきですが、あなたは猜疑心のために、せっかく鋭い頭脳をもっていながら、ものを見る健康な目まで失ってしまわれたのですよ。そら、例えば、また同じテーマにもどって、呼鈴のことにしてもそうです。こんな貴重な資料を、こんな事実を(まったくりっぱな事実ですよ!)、わたしはそっくりそのままあなたに打ち明けたじゃありませんか、予審判事のわたしがですよ! それなのに、あなたはそれを何とも思っていない! わたしがあなたを少しでも疑っていたら、わたしはこんな態度をとったでしょうか! わたしは、反対に、まずあなたの疑惑をなくするために、この事実をもう知っているなんておくびにも出さなかったはずです。そして、あなたの注意をぜんぜん反対のほうへそらしておいて、不意に斧の背で脳天をなぐりつけ(あなたの表現を借りればですね)、矢つぎ早に《いったいあなたは夜の十時すぎ、もうほとんど十一時になろうという頃、殺された老婆の部屋へ何しに行きましたか? どうして呼鈴を鳴らしました? なぜ血のことを聞きました? 何のために庭番たちを面くらわせ、警察署の副署長のところへ行けなどとそそのかしました?》と問いつめて、狼狽させたはずです。もしわたしがちょっぴりでもあなたに疑いをもっていたら、わたしはこういう態度をとったはずですよ。当然、形式にしたがって、あなたの調書をとり、家宅捜索をし、そのうえ、おそらく逮捕もしたでしょう……そうしなかったということは、つまり、あなたに嫌疑をかけていないということですよ! ところがあなたは健康な目を失っているので、くりかえして言いますが、何も見えないのです!」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチにもはっきりわかったほど、ラスコーリニコフは全身をびくっとふるわせた。
「あなたの言ってるのはみな嘘だ!」と彼は叫んだ。「あなたが何をねらっているのかは、知らんが、言ってるのはみな嘘だ……さっきあなたが言ったのはそういう意味じゃなかった、ぼくはまちがうはずはない……あなたは嘘を言ってる!」
「わたしが嘘を言ってる!」とポルフィーリイは言葉をうけた。むかっとしたらしいが、いかにも楽しそうな皮肉っぽい顔はくずさず、ラスコーリニコフにどう思われようと、少しも気にしていないらしく見えた。「わたしが嘘を言ってる?……じゃ、わたしがさっきどんな態度をとったというのです(わたしは、予審判事ですよ)、そのわたしがあなたに弁護の方法をすっかり暗示して、おしえてやったじゃありませんか、《病気、幻覚、憂鬱症に加えて、警察の連中によるはげしい侮辱》といったぐあいに、心理的な根拠まですっかり説明してやったじゃありませんか? え? へ、へ、へ! もっとも、この、──ついでだから言っておきますが、──心理的な弁護方法、言いのがれ、ごまかしというやつははなはだ根拠が薄弱で、どっちともとれるものなんですよ。《病気、幻覚、うわごと、見えたような気がした、おぼえていない》まあそれはそのとおりでしょう。ところがです、病気にかかり、熱にうかされると、どうしてほかのものじゃなく、こんな幻覚ばかり見えるんでしょう? ほかのものも見えてもよさそうじゃありませんか? そうでしょう? へ、へ、へ、へ!」
ラスコーリニコフは傲然とさげすむように相手を見た。
「要するにです」ラスコーリニコフは立ちあがりながら、ちょっとポルフィーリイをおしのけて、声を荒げてかたくなに言った。「要するに、ぼくが知りたいのは、あなたがぼくを完全に嫌疑外と認めるか、否か、ですよ。それを言っていただきたい、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、明確にきっぱりと言っていただきたい、さあ、さあ!」
「まったく手の焼ける人だ! 実際、あなたにはかないませんな」とポルフィーリイはまったく楽しそうな、ずるそうな、すこしもあわてていない様子で叫んだ。「まったく、なんのためにあなたは知りたがるんです、なんのためにそんなにいろんなことを知りたがるんです、まだ別にあなたをわずらわしてはいないじゃありませんか! まったく、あなたはだだッ子みたいですよ。手を出して、火をくれ、くれと、だだをこねてるようなものだ! それに、どうしてそんなに心配なんです? どうしてわざわざおしかけて、うるさくせがむんです。何か理由があるんですか? え? へ、へ、へ!」
「くりかえして言うが」とラスコーリニコフは激怒して叫んだ。「もうこれ以上がまんがならん……」
「何をです? わからないということを、ですか?」とポルフィーリイはさえぎった。
「からかうのはよしてくれ! ぼくはいやだ!……いやだと言ってるんだ!……がまんがならんし、いやだ!……聞いてるのか! 聞いてるのか!」彼はまた拳でテーブルをなぐりつけて、叫んだ。
「まあ、しずかになさい、しずかに! 聞えるじゃありませんか! わたしはまじめに注意するんですよ、自分をだいじにしなさい。いいかげんな気持で言ってるんじゃありませんよ!」とポルフィーリイはささやくように言ったが、今度は彼の顔に先ほどの女のように気のやさしいおびえた表情はもうなかった。それどころか、彼は眉をしかめ、一挙にすべての秘密とあいまいさをあばいてしまおうとでもするかのように、きびしく、ずばりと命令口調で言いきった。しかしそれも一瞬のことにすぎなかった。とまどいかけたラスコーリニコフは、不意にほんものの狂憤におちいった。しかし不思議なことに、もっとも強烈な激怒の発作にかられていたにもかかわらず、彼はまたしずかに話せという命令に従ったのである。
「ぼくはおとなしく苦しめられはしませんぞ」と彼は不意にさっきと同じおさえた口調でささやいたが、一瞬苦痛と憎悪のいりまじった気持で、命令に服従せざるを得ない自分を意識した、そしてそう思うとますますはげしい狂憤にかられてきた。「ぼくを逮捕しなさい、家宅捜索をしなさい、しかし形式にしたがってやってもらいたい、ぼくをなぶりものにすることは許しません! 笑うな……」
「まあ、形式のことはご心配なく」とポルフィーリイは先ほどのずるいうす笑いをうかべて、まるでラスコーリニコフをなぐさみものにして楽しんでいるように、言った。「わたしはね、今日はあなたを家へ招くようなつもりで招待したんですよ。ごらんのとおり、親しい友人としてね!」
「あなたの友情なんて望みませんね、まっぴらですよ! 聞いてるんですか? さあこのとおり、帽子をもって、出て行きますよ。さあどうです、逮捕するつもりなら、なんと言います?」
彼は帽子をもって、戸口のほうへ歩きだした。
「ところで、思いがけぬ贈りものは見たくありませんかな?」ポルフィーリイはまた彼の肘のすこし上のあたりをつかまえて、戸口のそばでひきとめながら、ひひひと笑った。彼は、目に見えて、ますます楽しそうにいたずらっぽくなった。そしてそれがラスコーリニコフに完全にわれを忘れさせた。
「思いがけぬ贈りもの? 何ですそれは?」と彼は急に立ちどまって、ぎょっとしてポルフィーリイを見返しながら、尋ねた。
「思いがけぬ贈りものですよ、そら、そこのドアのかげに坐ってますよ、へ、へ、へ! (彼は官舎へつづく仕切りのしまっているドアを指さした)。逃げないように、鍵までかけておいたんですよ」
「それは何です? どこに? どれ?……」ラスコーリニコフはドアのそばへ行って、あけようとしたが、鍵がかかっていた。
「しまってますよ、これが鍵です!」
そう言うとほんとに、彼はポケットから鍵をだして、ラスコーリニコフに見せた。
「嘘ばかりつきゃがって!」ラスコーリニコフはもうがまんができずに、わめきたてた。「嘘だ、罰あたりの道化め!」こう叫ぶと、彼はドアのほうへ後退りはしていたが、すこしも臆した様子は見せていないポルフィーリイに、いきなりおどりかかった。
「おれは何もかも、すっかりわかってるんだ!」と彼はポルフィーリイにつめよった。「きさまは嘘をついて、おれをじらし、おれにしっぽを出させるつもりなのだ……」
「でも、もうこれ以上しっぽも出せないでしょうよ、え、ロジオン・ロマーヌイチ。すっかり血迷いましたね。どなるのはやめなさい、人を呼びますよ!」
「嘘だ、何もでるもんか! 人を呼べよ! きさまはおれが病気なのを知りながら、おれをからかって、激昂させ、しっぽを出させるつもりなのだ、それがきさまのねらいだ! それより、実際の証拠を出せよ! おれはすっかりわかってるんだ! 証拠なんかあるものか、きさまにあるのはくだらない、なんの価値もない推量だけさ、ザミョートフから受け売りのな!……きさまはおれの性質を知っていて、おれをじらして逆上させ、そのうえでとつぜん司祭や陪審員をもち出して、おれに泡をふかせようとしたのさ……そいつらを待ってるのかい? あ? 何を待ってるんだね? どこにいるんだ? さっさと出せよ!」
「おやおや、とつぜん陪審員とはおどろきましたねえ! 何をねぼけているんです! これじゃあなたの言う形式もへったくれもありませんよ。あなたはことの順序をまるで知っちゃいない……形式は逃げていきません。いまにわかりますよ!……」とポルフィーリイは戸口のほうへ耳をすましながら、呟いた。
実際に、そのときドアの向う側で人の騒ぐような気配が聞えた。
「あ、来たな!」とラスコーリニコフは叫んだ。「きさまは呼びにやったな!……やつらを待っていたのか! 時をかせいで……さあ、陪審員でも、証人でも、なんでもいい、全部ここへならべろ……さあ! おれも覚悟はできてるぞ! びくともせんぞ!……」
ところが、そのとき妙なことが起った。それは普通の成り行きでは、まったく考えられないことで、ラスコーリニコフも、ポルフィーリイ・ペトローヴィチも、もちろん、このような結末は予期することもできなかった。
6
あとになって、そのときのことを回想すると、ラスコーリニコフは次のような形で場面が展開したように思われるのだった。
ドアの向うの騒ぎが急に大きくなって、ドアがすこし開いた。
「どうしたんだ?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは腹立たしげに叫んだ。「注意しておいたじゃないか……」
一瞬、返事はなかったが、ドアのかげには何人かの人々がいて、誰かを突きのけようとしているらしいことは、明らかだった。
「おい、どうしたんだ?」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは不安になってくりかえした。
「未決のニコライ(注 ロシア南部の発音ではミコライ)を連れてまいりました」と誰かの声が聞えた。
「いかん! 向うへ連れてけ! 待たしておけ!……なんだってこんなとこへ出て来たんだ! なんたるぶざまだ!」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはドアのほうへかけよりながら、叫んだ。
二秒ほどほんものの争いがつづいた。ほんとにあっという間のことだった。不意に誰かが誰かを力まかせに突きのけたようなもの音がして、つづいていきなり真っ蒼な顔をした男がポルフィーリイ・ペトローヴィチの事務室に入ってきた。
その男の様子は一見して実に異様だった。彼はまっすぐにまえのほうを見ていたが、誰の姿も目に入らないらしかった。その目にはかたい決意が光っていたが、それと同時に、まるで処刑の場にひき出されたように、死人のような蒼白さが顔をおおっていた。まったく血の気の失せた唇がわずかにひくひくふるえていた。
それはまだひどく若い男で、身なりは庶民風で、中背でやせぎす、頭は真ん中をまるくのこして剃りこみ、顔の輪郭は線が弱く妙にやつれた感じだった。不意に、彼に突きとばされた男が、後を追って真っ先に部屋へとびこんで来て、彼の肩をつかもうとした。それは看守だった。しかしニコライは腕をぐいとひいて、またそれをふりきった。
戸口にやじ馬が何人かむらがった。部屋に入りこもうとする者もいた。以上のことはほんの一瞬の間に起ったのである。
「向うへ行け、まだ早い! 呼ぶまで、しばらく待っとれ!……どうして呼びもせんのにこいつを連れてきたんだ?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチはかんかんになって、いささかまごつき気味に、半分口の中でぶつくさ言った。ところがニコライは不意にひざまずいた。
「なんだおまえは?」とポルフィーリイはびっくりして叫んだ。
「わるかった! おれの罪だ! おれが殺ったんだ!」不意にニコライはすこし息は苦しそうだが、かなり大きな声でこう言った。
みなあっけにとられてぼんやりしてしまったらしく、十秒ほど沈黙がつづいた。看守さえはっとして後へさがり、もうニコライのそばへ寄ろうとはしないで、無意識にドアに背をつけ、じっと立ちすくんだ。
「なんだと?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチは一瞬の自失からさめて、思わず叫んだ。
「おれが! 殺ったんだ……」ニコライはちょっと息をついで、こうくりかえした。
「なに……おまえが……どうしたと……誰をおまえは殺したんだ?」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチは、明らかに、狼狽した。
ニコライはまたちょっと息をついだ。
「アリョーナ・イワーノヴナと、妹のリザヴェータ・イワーノヴナです。おれが……殺りました……斧で。魔がさしたんです……」彼は不意にこうつけ加えると、また黙りこんだ。彼はずっとひざまずいたままだった。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはじっと思いをひそめるように、しばらく突っ立っていたが、急にまたせかせかと歩きだし、頼みもしない証人たちに両手を振りあげた。彼らはさっと逃げちり、ドアがしめられた。それから彼は、隅のほうに突っ立って茫然とニコライに目を見はっているラスコーリニコフに、ちらと目をやると、そちらへ行きかけたが、不意に立ちどまって、じっと彼を見つめ、すぐにその目をニコライに移し、それからまたラスコーリニコフを見つめ、またその目をニコライに移したと思うと、急に、まるで何かに憑かれたように、いきなりニコライのまえへかけよった。
「どうしてきさまは魔がさしたなんて、先走ったまねをするんだ?」と彼はほとんど憎悪をこめてニコライをどなりつけた。「魔がさしたか、ささんか、そんなことはまだ聞いとらん……さあ言え、きさまが殺したのか?」
「おれが殺りました……白状します……」とニコライは言った。
「ほう! で、何で殺った?」
「斧です。予備の道具です」
「ちょッ、あわてるな! 一人でか?」
ニコライは質問の意味がわからなかった。
「一人で殺ったのか?」
「一人です。ミーチカは罪がありません、あいつのぜんぜん知らないことです」
「あわてるなと言っとるじゃないか、ミーチカのことなど聞いとりゃせん! しようのないやつだ!……」
「じゃ、どうしてだ、おい、どんなふうにしてそのとき階段をかけ下りた? 庭番たちはおまえら二人を見たといってるじゃないか?」
「あれはごまかすために……あのとき……ミーチカと走ったんです」あらかじめ用意した返事を、急いで言おうとするように、ニコライは答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」とポルフィーリイは憎さげに叫んだ。「つくりごとを言ってやがる!」と彼はひとりごとのようにつぶやいた。そして不意にまだラスコーリニコフがいることに気がついた。
彼はニコライにすっかり気をとられて、ちょっとの間ラスコーリニコフのことを忘れていたらしかった。彼はいま不意にそれに気がついて、狼狽の色さえ見せた……
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ! 失礼しました」と彼はラスコーリニコフのほうへかけよった。「ほんとに申し訳ありません。どうぞ……こんなところにいていただいても何ですから……わたしは自分でも……どうです、まったく思いがけない贈りものでしょう!……どうぞどうぞ!……」
そう言いながら、彼はラスコーリニコフの手をとって、戸口のほうを示した。
「どうやら、あなたもこれは予期しなかったらしいですな?」とラスコーリニコフはもちろんまだ何もはっきりはわからなかったが、それでももうすっかり元気をとりもどして、言った。
「まあ、あなたも予期しなかったでしょう。おや、手がひどくふるえてますね! へ、へ?」
「なに、あなたもふるえてますよ、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ」
「わたしもふるえてますよ。あまり意外だったんでね!……」
彼らはもう戸口のところに立っていた。ポルフィーリイはラスコーリニコフが出て行くのを、じりじりしながら待っていた。
「ところで思いがけぬ贈りものってやつは、結局見せていただけないわけですな?」と不意にラスコーリニコフは言った。
「そう言う当人が、まだ歯の根があわんじゃありませんか、へ、へ! あなたも皮肉な人だ! じゃ、いずれまた」
「ぼくはこのままさようならだと思いますね!」
「それは神のみぞ知るです、神のみぞ知るですよ!」とポルフィーリイは妙にゆがんだうす笑いをもらしながら、呟いた。
事務室を通りながら、ラスコーリニコフはたくさんの目がじっと自分にそそがれているのに気づいた。彼は控室の群衆の中に、あの家の庭番二人を見分けることができた。それはあの夜、彼を警察へつき出せとそそのかしたあの二人だった。彼らは突っ立ったまま、何かを待っていた。彼は入り口の階段へ出るとすぐに、不意に背後にポルフィーリイ・ペトローヴィチの声を聞いた。振り返ると、息をきらして追いかけてくる彼の姿が見えた。
「一言だけ言っておきたかったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。ほかのことは神のみぞ知るとしてですね、やはり正式にちょっと尋ねることになると思いますので……もう一度会うことになりますね、そのことですよ」
そう言って、ポルフィーリイはにこにこ笑いながら彼のまえに立ちどまった。
「そうですよ」と彼はもう一度言いたした。
彼はもっと何か言いたいのだが、なぜか言い出せない、そんな様子だった。
「ところで、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、先ほどの失礼はお許しください……ちょっと興奮したもので」ラスコーリニコフはもうすっかり元気になり、きざなことを言ってみたい欲望をおさえかねて、こうきりだした。
「いや、なんでもありませんよ……」ポルフィーリイはむしろ嬉しそうにすぐに後をうけた。「わたしだってそうですよ……まったくいやな性分です、ざんきの至りです! じゃまたお会いしましょう。神の思召しがあれば、ぜひぜひお会いしましょうよ!……」
「そして徹底的に認識しあいますかな?」とラスコーリニコフが受けた。
「そう、徹底的に認識しあいましょう」とポルフィーリイ・ペトローヴィチは相槌を打つと、目をそばめて、びっくりするほど真剣な目で相手を見つめた。
「これから命名日のお祝いですか?」
「葬式ですよ」
「あ、そう、葬式でしたね! お身体をだいじにしてくださいよ、お身体を……」
「さあ、ぼくのほうからはあなたになんと言いましょうかな!」と言いながら、ラスコーリニコフは階段を下りかけて、不意にまたポルフィーリイのほうを振り返った。「そう、今後ますますの成功を祈るとでも言っておきましょう。しかしなんですね、あなたのしごとはまったく喜劇ですねえ!」
「どうして喜劇でしょう?」ポルフィーリイ・ペトローヴィチも踵を返しかけたが、すぐに耳をとがらせた。
「だってそうじゃありませんか、あの哀れなニコライをあなたは、あなた一流のやり方で、つまり心理的にですな、さんざんいじめつけ責めぬいたにちがいありませんよ。自白するまではね。夜も昼も、《おまえが殺したんだ、おまえが殺したんだ……》と、いろいろ証拠らしいものをならべたててね。ところが、いまになって自白されてみると、今度は《嘘だ、おまえは犯人じゃない! 犯人のはずがない! おまえはつくりごとを言っているのだ!》とまたぎゅうぎゅういわせはじめる、これで、喜劇でないと言えますか?」
「へ、へ、へ! じゃわたしがいまニコライに、《つくりごとを言っている》と言ったことに、気がついたんですね?」
「気がついておかしいですか?」
「へ、へ! 頭が鋭いですからな、炯眼というやつですな。なんでも気がつく! ほんとの軽妙な知恵ってやつですよ! そしてもっとも滑稽な弦をちょいとつまむ……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリだそうですな、この天分が最高に恵まれていたのは?」
「そう、ゴーゴリです」
「そうです、ゴーゴリですよ……じゃ、いずれまた」
「じゃまた……」
ラスコーリニコフはまっすぐ家へもどった。彼はすっかり頭がもつれ、混乱していたので、家へかえると、すぐにソファの上に身を投げて、息を休め、すこしでも考えをまとめようとつとめながら、そのまま十五分ほどじっとしていた。ニコライのことは考える気になれなかった。彼は敗北を感じていた。ニコライの自白の中には、説明のできないおどろくべき何ものか、いまの彼にはどうしても理解できない何ものかがあった。しかしニコライの自白はまちがいのない事実だった。この事実の結果は彼にはすぐにわかった。嘘がばれないはずがない、そうなればまた彼の追及がはじまるにちがいない。しかし少なくともそれまでは彼は自由だし、どうしても何か保身の策をしなければならぬ。どうせ危険はさけられぬからだ。
しかし、それはどの程度だろう? 事態ははっきりしだした。先ほどのポルフィーリイとの一幕を、ざっと、荒筋だけ思いかえしてみただけで、彼はおそろしさのあまり改めてぞっとしないではいられなかった。もちろん、彼はまだポルフィーリイの目的の全貌は知らなかったし、先ほどの彼の計算をすっかり見きわめることはできなかった。しかし作戦の一部は明らかにされた。そしてポルフィーリイの作戦におけるこの《詰め》が彼にとってどれほどおそろしいことであったかは、もちろん、誰よりも彼がいちばんよく理解できた。もうちょっとで、彼はもう完全に、実際に、本音をはいていたかもしれぬ。彼の性格の病的な弱点を知っていて、しかも一目で彼の人間を見ぬき、確実にとらえて、ポルフィーリイはあまり意気ごみすぎたきらいはあるが、しかしほぼ正確に行動した。ラスコーリニコフは先ほど自分の身をかなり危うくしたことは、たしかだが、それでもまだ証拠をにぎられるまでにはいかなかった。いずれもまだ相対的なものにすぎない。しかし、果してそうだろうか、まだわかっていないことがあるのではなかろうか? 何か見おとしてはいないか? 今日のポルフィーリイはいったいどのような結果に導いていこうとしたのだろう? 実際に彼には何か準備があったのか? とすれば、それは何か? ほんとに彼は何かを待っていたのだろうか、それともただそう思われただけか? ニコライによって思いがけぬ幕切れが来なかったら、今日はいったいどんな別れ方をしていたろう?
ポルフィーリイは手のうちをほとんどすべて見せてしまった。もちろん、冒険ではあったろうが、しかし見せた。そして実際にもっと何かにぎっていたら、それも見せてくれたにちがいない(ラスコーリニコフはそんな気がしてならなかった)。あの《思いがけぬ贈りもの》とは何だろう? ただからかっただけだろうか? それとも何か意味があったのか? あのほのめかしのかげには、何か証拠のようなもの、有力なきめ手のようなものがかくされていたのではあるまいか? 昨日の男か? あいつはどこへ消えてしまったのだろう? 今日はどこにいたろう? たしかに、ポルフィーリイが何か有力な手がかりをにぎっているとすれば、それはきっと、昨日のあの男が一枚かんでいるにちがいない……
彼はうなだれ、膝に肘をつき、両手で顔をおおったまま、じっとソファに坐っていた。神経質そうな小刻みなふるえがまだ彼の全身につづいていた。とうとう、彼は立ちあがると、帽子をつかみ、ちょっと考えてから、戸口のほうへ歩きだした。
彼はどういうわけか、少なくとも今日だけはまず危険がないと考えてよさそうだ、という予感がした。不意に彼は心の中にほとんど喜びといえるような感情をおぼえた。彼は早くカテリーナ・イワーノヴナのところへ行きたくなった。葬式には、むろん、もうおくれたが、法事には間に合うだろう。そしてそこで、もうじき、ソーニャに会える。
彼は立ちどまって、ちょっと考えた。病的な作り笑いが彼の唇をゆがめた。
「今日だ! 今日だ!」と彼はひそかにくりかえした。「そうだ、今日こそ! ぜったいに……」
彼がドアを開けようとすると、不意にドアがひとりでに開きはじめた。彼はぎょっとして、後退った。ドアはゆっくり音もなく開いて、不意に一人の男の姿があらわれた──地の底から湧きでたような昨日のあの男である。
男はしきいの上に立ちどまって、黙ってラスコーリニコフを見つめると、一歩部屋へ入った。男は格好も着ているものも、まったく昨日と同じだったが、顔と目にははげしい変化があらわれていた。彼はなんとなくしょんぼりした様子で、しばらく佇んでいたが、やがてほうッと深い溜息をついた。その様子は、掌を頬にあて、頭をよこにかしげさえしたら、それこそ女にまちがうほどだった。
「何用です?」とラスコーリニコフは蒼白になって尋ねた。
男はしばらく黙っていたが、とつぜん頭が床につくほど深く腰をかがめて、ラスコーリニコフにお辞儀をした。少なくとも右手の指は床にふれた。
「どうしたんです?」とラスコーリニコフは叫んだ。
「わるいことをしました」と男はしずかに言った。
「何が?」
「わるい考えをおこしまして」
二人はじっと顔を見合わせていた。
「腹が立ったんです。あなたがあそこに来たとき、おそらく酔っていたんでしょうが、庭番たちに警察へ行けとそそのかしたり、血のことを聞いたりしました。わたしはあなたを酔っぱらいでかたづけて、黙っているのが、しゃくになったんです。無性に腹が立って、夜もねむれませんでした。そこで、住所をおぼえていたので、昨日ここへ訪ねてきて、聞いたわけです……」
「誰が訪ねてきたんです?」ラスコーリニコフはとっさに記憶をたぐりはじめながら、こう聞きかえした。
「わたしですよ、あなたに無礼なことをしました」
「じゃあなたは、あの家に?」
「そうです、あの家に住んでいます。あのときはちょうど門のそばにいっしょにいたものですから、もうお忘れですか? 昔から、あそこにしごと場をもっておりまして。毛皮の職人で、家で注文のしごとをしています……なんとしてもむかっ腹が立ってならなかったんですよ……」
すると不意にラスコーリニコフの脳裏に、一昨日の門のところの場面がまざまざとよみがえった。庭番のほかに、さらに何人かの人々、女も何人かいたことを、彼は思いだした。かまわないから交番へつき出せ、とどなったひとつの声を、彼は思いだした。彼は言った者の顔を思いだせなかったし、いま会っても気がつかないだろうが、あのときその男のほうを向いて、何か言ったことまで、彼はおぼえていた……
なるほど、それで、昨日のあの恐怖はすっかり解決されたわけだ。いま考えてもいちばんぞっとするのは、こんなつまらないことのために、彼が実際に破滅に瀕したことだ、危うく自分を亡ぼそうとしたことだ。つまり、貸間をさがしに行ったことと、血のことを聞いたこと以外、この男は何も語ることができないわけだ。とすると、ポルフィーリイにも何もない、このうわごと以外、なんの物証もない、どちらともとれるあの心理を読む以外、なんの有力な手がかりもないわけだ。してみると、このうえなんの事実もあらわれないとすれば(しかも、そんなものはもうこれ以上あらわれるはずがない、はずがない、はずがない!)、あらわれないとすれば……おれをいったいどうすることができるというのだ? たとえ逮捕したにしても、何をきめ手にしておれの罪証を決定的に示すことができよう? しかも、こう見てくると、ポルフィーリイは今日はじめて、ついいましがた部屋の件を知ったばかりなのだ、それまでは知らなかったのだ。
「それをあなたは今日ポルフィーリイに話したのですね……ぼくが行ったことを?」彼は不意にこう思いあたって、どきどきしながら叫んだ。
「ポルフィーリイって、どこの?」
「予審判事ですよ」
「話しました。庭番は行かなかったが、わたしは行ったんです……」
「今日ですか?」
「あなたが来るちょっとまえでした。そして、すっかり聞いてました、あなたが責めたてられるのを、すっかり聞いていたんです」
「どこで? 何を? いつ?」
「ええ、あそこの仕切りのかげですよ、ずうっと坐っていたんです」
「なに? じゃ思いがけぬ贈りものというのはあなただったのか? へえ、どうしてそんなことが? おどろいたねえ!」
「わたしはね」と町人は話しだした。「すすめても庭番たちが、もうおそいし、それにすぐとどけなかったのを叱られるかもしれないなんて言って、行きたがらないし、いまいましくなって、夜はねむれないしで、調べだしたわけです。そして昨日かなりわかったんで、今日出頭しました。はじめ行ったときは──あのひとはいませんでした。一時間ほどして行ってみたが──会ってくれませんでした。三度目に──やっと通されたんです。わたしはあったとおりのことを、すっかりそのまま申しあげました。するとあのひとは部屋の中をひょこひょこ歩きだして、拳骨で自分の胸を叩きながら、どなるんです、《おい、ごろつきども、きさまらはおれをなんて目にあわせるんだ? そんなことを知っていたら、おれはやつをすぐさま引っ立てるんだった!》それからとび出して、誰かを呼び、隅のほうでこそこそ話しだしました。それからまたわたしんとこへ来て、いろいろ聞いたり、どなりつけたりしました。そしてこっぴどく叱られました。わたしはすっかり申しあげて、昨日のわたしの言葉にあなたが何も答えられなかったことや、あなたがわたしに気がつかなかったことなどを、話しました。するとあのひとはまたせかせかと歩きだして、のべつ自分の胸を叩いたり、どなったりしだしましたが、あなたが来たことを取り次がれると、──すぐに、仕切りのかげに入って、しばらく坐っとれ、何を聞いても、じっとしてるんだぞ、と言って、自分で椅子を運んでくれて、鍵をしめてしまいました。ひょっとしたら、また尋問するかもしれんからと言って。ところがニコライが連れて来られると、あなたが帰ったあと、わたしはすぐに引き出されました、そして、また呼び出して、聞くかもしれんて言われたんです……」
「で、ニコライはきみのいるところで尋問をされたかい?」
「あなたが帰されると、わたしもすぐ出されて、それから尋問がはじまったんです」
町人は言葉をきると、不意にまた指を床にふれて、深々とお辞儀をした。
「よこしまな気持をもって、中傷したりして、ほんとに申しわけありませんでした」
「神が許してくれるさ」とラスコーリニコフは答えた。
それを聞くと同時に、町人は、今度はもう床にふれるほどではなく、腰をかがめただけでぺこっとお辞儀をすると、ゆっくり踵をかえして、部屋を出て行った。
《すべてがどっちともとれる、これで何もかもあいまいになったぞ!》ラスコーリニコフはこうくりかえすと、いつになく元気よく部屋を出て行った。
《さあ、またたたかうぞ》と彼は階段を下りながら、意地わるいうす笑いをうかべて言った。憎悪は彼自身に対するものだった。彼は嫌悪と恥辱を感じながら、自分の《小心》を思いだしていた。
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