〜タイピングとボキャブラリー強化のための試み〜トップに戻る
第 六 部
1
ラスコーリニコフにとって奇妙な時期が訪れた。不意に目の前に霧が下りてきて、彼を出口のない重苦しい孤独の中にとじこめてしまったようであった。あとになって、もうかなりの時がたってから、彼はこの時期を思い返してみて、その頃は意識がときどきうすれたようになり、途中にいくつかの切れ目はあったが、その状態がずっと最後の破局までつづいていたことがわかった。当時多くの点で、例えばいくつかのできごとの日と時間とかで、思いちがいをしていたことが、彼にははっきりとわかった。少なくとも、あとになって思い出し、その思い出したものを自分にはっきり説明しようとつとめてみて、他人から聞かされたことをもとにしながら、自分のことをいろいろと知ったのである。例えば、彼はあるできごとを別なできごとと混同していたし、その別なできごとを、実在しない想像の中だけのできごとの結果だと考えていた。ときどき彼は病的な苦しい不安におそわれ、その不安がどうにもならぬ恐怖にまで変貌することがあった。しかし彼は、それまでの恐怖とは一変して、完全な無感動にとらわれた数分、数時間、いやもしかしたら数日間といってもいいかもしれないが、そうした時期があったこともおぼえていた。それは死を目前にした人に見られることのあるあの病的な冷静な心境に似ていた。だいたいこの最後の数日間というものは、彼は自分でも自分のおかれている状態をはっきりと完全に理解することを避けようとつとめていたようだ。ただちに解明を迫られていたいくつかの重大な事実が、特に彼の上に重苦しくのしかかっていた。そうした心労から逃れて自由になれたら、彼はどんなに嬉しかったろう。もっとも、それを忘れることは、彼の立場では完全な避けられぬ破滅を招くおそれはあったが。
特に彼をおびやかしたのはスヴィドリガイロフであった。スヴィドリガイロフのことしか頭になかった、とさえ言えるかもしれぬ。ソーニャの部屋で、カテリーナ・イワーノヴナが死んだとき、彼にとってはあまりに恐ろしい、しかもあれほどはっきりと言われたスヴィドリガイロフの言葉を聞いて以来、いつもの彼の思考の流れが乱れてしまったかのようだ。しかし、この新しい事実によって極度の不安に突きおとされたにもかかわらず、ラスコーリニコフはどういうものかその解明を急ごうとしなかった。ときどき、どこか遠いさびしい町はずれのみすぼらしい安食堂で、一人ぼんやり考えこんでいる自分に、はっと気づき、どうしてこんなところへ来たのかさっぱり思い出せないようなとき、彼の頭には不意にスヴィドリガイロフのことが浮ぶのだった。そしてそんなとき、できるだけ早くあの男と話し合って、できることなら、すっかり決着をつけてしまわなければならないと、不安におびえながらも、はっきりと自覚するのだった。一時、町はずれの関門の外へ迷い出たときなど、彼はここがスヴィドリガイロフと会う場所に指定されたところで、いま相手が来るのを待っているのだ、と想像したほどだった。またあるときは、どこかの茂みの中で夜明けまえにふと目をさまし、地面の上にじかにねていた自分に気づき、どうしてこんなところへ迷いこんだのかさっぱりわからないこともあった。しかも、カテリーナ・イワーノヴナが死んでからのこの二、三日で、彼はもう二度ほどスヴィドリガイロフに会っていた。それはいつもソーニャの部屋で、彼はなんということなく漠然と立ち寄り、ほんの一、二分しかいなかった。彼らはちょっと言葉を交わすだけで、決して重大な点にはふれようとしなかった。ときが来るまで黙っていようという暗黙の了解が、いつとなく二人の間にできあがっているようなふうだった。カテリーナ・イワーノヴナの遺体はまだ寝棺におさめたままになっていた。スヴィドリガイロフは埋葬の手配をして、いそがしく奔走していた。ソーニャもひじょうにいそがしかった。最後に会ったとき、スヴィドリガイロフは、カテリーナ・イワーノヴナの遺児たちはどうにかかたをつけた、しかもうまいぐあいにいったと、ラスコーリニコフに説明した。少しばかり手づるがあるので、当ってみたところ、都合よく三人ともすぐに相当の孤児院に入れるように世話してやろうという人々が見つかったし、金のある孤児のほうが貧しい孤児よりもはるかに有利だから、子供たちにつけてやった金も大いにものをいった、ということだった。彼はソーニャのことも何やらほのめかすように言って、なんとか二、三日中にラスコーリニコフを訪ねることを約束し、《よく相談したいと思いましてな、どうしてもお耳に入れておきたい大切な用がありますので……》と言った。この会話は階段のそばの入り口のところで交わされた。スヴィドリガイロフはじっとラスコーリニコフの目を見つめていたが、ちょっと間をおいてから、急に声をひそめて尋ねた。
「どうなさいました、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで魂がぬけたみたいじゃありませんか? まったく! 聞いたり見たりはしているが、まるでおわかりにならん様子だ。元気を出しなさい。ええ、すこし話をしようじゃありませんか、ただ残念ながら、自他ともに多忙すぎましてね……ええ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼はとつぜんつけ加えた。「人間には空気が必要ですよ、空気が、空気が……何よりもね!」
彼は、階段をのぼってきた司祭と補佐を通すために、不意にわきへよった。彼らは追善の祈祷をあげに来たのだった。スヴィドリガイロフの指図で祈祷は日に二度ずつきちんと行われていた。スヴィドリガイロフは何かの用事ででかけて行った。ラスコーリニコフはちょっと思案していたが、司祭のあとからソーニャの部屋へ入った。
彼は戸口に立ちどまった。しめやかに、おごそかに、もの悲しげに、供養の祈祷がはじまった。死というものを意識し、死の存在を感じると、彼は小さな子供のころから何か重苦しい神秘的な恐怖をおぼえたものだった。それに、彼はもう長いこと祈祷を聞いていなかった。しかもいまの場合は、何か普通とちがう、あまりにも恐ろしい、不安なものがあった。彼は子供たちのほうを見た。子供たちはいっしょに寝棺のそばにひざまずき、ポーレチカは泣いていた。そのうしろに、ひっそりと、泣くのをさえ気がねするように、ソーニャが祈っていた。《そういえばこの数日、彼女は決しておれを見ようとしないし、一言もおれに言葉をかけてくれなかった》──こんな考えがふとラスコーリニコフの頭に浮んだ。陽光が明るく部屋を照らしていた。香のけむりがまわりながらゆるやかにのぼっていた。司祭が《主よ、安らぎをあたえたまえ》と唱えていた。ラスコーリニコフは祈祷の間中立ちつくしていた。司祭は祝福をあたえて、別れの挨拶を交わしながら、なんとなく妙な顔をしてあたりを見まわした。祈祷がおわると、ラスコーリニコフはソーニャのそばへ行った。ソーニャは不意に彼の両手をにぎると、彼の肩に顔を埋めた。この短い動作がかえってラスコーリニコフを迷わせた。不思議な気さえした。どうしてだろう? 彼に対してすこしの嫌悪も、すこしの憎しみも抱いていないのだろうか、彼女の手にはすこしのふるえも感じられない! これはもう限りない自己卑下というものだった。少なくとも彼はそう解釈した。ソーニャは何も言わなかった。ラスコーリニコフは彼女の手をぐっとにぎりしめると、そのまま出て行った。彼はたまらなく苦しかった。いまこのままどこかへ行ってしまって、たとい一生でも、完全な一人きりになれるものなら、彼はどれほど幸福だったろう。というのは、彼はこの頃は、いつもほとんど一人だったが、どうしても、一人きりだと感ずることができなかったのである。ときどき彼は郊外へ行ったり、広い街道へ出たり、一度などはどこかの森へ入りこんだことさえあったが、あたりがさびしくなればなるほど、誰かが近くにいるような不安がますます強く感じられるのだった。その不安は恐ろしいというのではなかったが、妙に腹立たしい気持になって、さっさと町へもどり、人ごみの中へまぎれこみ、安食堂か居酒屋に入ったり、盛り場やセンナヤ広場をうろついたりするのだった。こちらのほうが気が楽で、かえって孤独のような気さえした。ある居酒屋で、日暮れまえに、歌をうたっていた。彼は小一時間もじっと坐って、歌を聞いていた。そしてひじょうに楽しかったことをおぼえている。しかしおわりごろになると、彼は急にまた不安になりだした。不意に良心の呵責に苦しめられはじめたらしい。《ぼんやり坐って、歌なんて聞いているが、そんなことをしていていいのか!》──彼はふとこう思ったようだ。しかし、彼はすぐに、それだけが彼を不安にしているのではない、とさとった。早急に解決しなければならない何かがあったが、そのことの意味を考えることも、言葉であらわすこともできなかった。すべてが糸玉のようなものに巻きこまれてしまうのだった。《いやいや、こんなことをしているよりは、なんでもかまわん、たたかったほうがましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフと……早くまた誰かが挑戦してくればいい、攻撃をかけてくればいい……そうだ! そうだ!》──彼はこう思った。彼は居酒屋を出ると、ほとんど駆け出さないばかりに歩きだした。ドゥーニャと母のことを思うと、彼はどういうわけかたまらない恐怖におそわれた。その夜、明け方近く、彼はクレストーフスキー島の茂みの中で、熱病にかかったようにがくがくふるえながら、目をさました。家へもどったのは、もう白々と夜が明けかけたころだった。何時間か眠ると熱病はおさまったが、目をさましたのはおそく、午後の二時頃だった。
彼はその日がカテリーナ・イワーノヴナの葬式のある日だったことを思い出し、参列しなかったことを喜んだ。ナスターシヤが食べものを運んで来た。彼はほとんどむさぼるようにして、ひどくうまそうに食べ、そして飲んだ。頭がすっきりして、気持もこの三日ほどのうちでいちばん落ち着いていた。彼は先ほど極度の恐怖におそわれたことを、ちらと思い出し、自分でもあきれたほどだ。ドアが開いて、ラズミーヒンが入って来た。
「あ! 食べてるな、うん、病気じゃないらしい!」と言うと、ラズミーヒンは椅子を引きよせて、テーブルをはさんでラスコーリニコフと向い合いに坐った。
彼はひどくいらいらしている様子で、それをかくそうともしなかった。彼はいかにもいまいましそうな話しぶりだったが、別にせきこみもしないし、声を張り上げるでもなかった。どうやら何か特別の、異常とさえいえるような意図を胸に秘めているらしかった。
「おい聞けよ」と彼はぴしりと言った。「ぼくはもうきみなんかどうなろうとかまわん、今度という今度は、きみのやることがまったく理解できないことが、はっきりとわかったからだ。ぼくが問い訊しに来たなどとは、思わないでもらいたい。誰が、胸くそわるい! こっちからごめんだよ! きみのほうからいま、秘密をすっかり打ち明けるといっても、ぼくは聞きもしないで、ペッと唾をはいて、出て行くだろうね。ぼくが来たのは、まず第一に、きみが狂人だというのはほんとうかどうか、この目ではっきりとたしかめるためだ。きみについては、知ってると思うが、狂人か、あるいはその傾向がひじょうに強いらしい、と信じこんでいる向きがある(まあ、そこらの連中だが)。はっきり言うが、ぼく自身もその意見の支持に大きく傾いている。というのは第一に、きみの愚劣な、しかもある意味ではみにくい行動(どうしても説明のつかぬ行動)、第二にお母さんと妹さんに対する先日のきみの態度から判断してだ。あの人たちに対してあんな態度がとれるのは、狂人でなければ、ごろつきか、根性がくさったやつだけだ。だから、きみは狂人ということになる……」
「母たちに会ったのは、もう大分まえ?」
「今日だよ、きみはあれ以来会っていないんだな? どこをうろうろしてるんだ、え、ぼくは三度も寄ったんだぜ。お母さんが昨日から病気がひどくなって、きみのところへ行きたいと言いだし、アヴドーチヤ・ロマーノヴナがとめたが、どうしてもきかないんだ。《あの子が病気だったら、頭がみだれていたら、母のわたしでなくて、誰が世話をしてやるの?》と言うんだよ。お母さんを一人放り出すわけにもいかんので、三人でいっしょにここへ来たんだ。戸口につくまでずっとお母さんをなだめながらさ。入ってみると、きみがいない。ほら、ここにお母さんは坐ってさ、十分ほどじっと待っていた。ぼくたちは黙ってそのそばに立っていた。やがて立ち上がって、こう言うじゃないか、《外へ出て行ったとすれば、病気じゃないのだろう、わたしのことなんか忘れてしまったんだよ。母親が戸口に立って、施しものでも受けるみたいに、やさしい言葉をねだるなんて、みっともないし、恥ずかしい話だよ》、そして家へ帰って、寝ついてしまったんだ。いまは熱がかなり高くて、《自分の女に会う時間はあるんだねえ》なんて嘆いているんだぜ。自分の女というのは、ソーフィヤ・セミョーノヴナのことだよ、きみの許嫁か、愛人か、ぼくは知らんがね。そこでぼくは、早速ソーフィヤ・セミョーノヴナのところへ出かけたんだ、何もかもはっきりさせようと思ってさ、──行って見ると、寝棺がおいてあって、子供たちが泣いてるじゃないか。ソーフィヤ・セミョーノヴナは子供たちの喪服の寸法をはかっている。きみはいない。ぼくは一わたり見てから、失礼をわびて、もどり、そのとおりアヴドーチヤ・ロマーノヴナに報告した。つまり、そんなことはばからしい憶測で、自分の女なんていやしない、とすれば、どうしても狂気としか考えられないじゃないか。ところがどうだ、きみはいまけろりとして、子牛の煮たのをむしゃむしゃやっている、まるで三日も食べなかったみたいにさ。そりゃまあ、狂人だって食うだろうさ、しかしだ、たとえきみはぼくと一言も口をきかないとしてもだ、やはりきみは……狂人じゃないよ! それはぼくは誓って言う。ぜったいに狂人じゃない。だから、きみたちのことはもう知らんよ、何か秘密があるんだ、ぼくに言えないかくしごとがあるんだろうからな。ぼくはきみたちの秘密に頭を悩まそうとは思わんよ。なに、きみを罵倒しに寄っただけさ」と、彼は立ち上がりながら、言葉をむすんだ。「そうでもせんと気がおさまらんのでな。ぼくはいまから何をしたらいい火くらいは、ちゃんと知ってるさ!」
「いったい何をしようというんだい?」
「ぼくが何をしようと、きみになんの関係があるんだ?」
「酒をすごさないようにしろよ!」
「どうして……どうしてそんなことがわかった?」
「そりゃ、わかるさ!」
ラズミーヒンはちょっとの間黙っていた。
「きみはいつもひじょうに思慮の深い男だった、そして決して、一度も頭がへんになったことなどなかった」と彼は不意に熱をこめて言った。「そのとおりだ、ぼくは痛飲するよ! もう会うまい!」
そう言って、彼は出て行きかけた。
「ぼくはきみのことを、一昨日だったと思うが、妹に話したよ、ラズミーヒン」
「ぼくのことを? だって……いったいどこで一昨日妹さんに会えたんだ?」と、不意にラズミーヒンは足をとめ、いくらか蒼ざめさえした。胸の中で心臓がしだいに緊張の度を加えて鼓動をはじめたのが、察しられた。
「ここへ来たんだよ、一人で、ここへ坐って、ぼくと話し合ったんだ」
「妹さんが!」
「そうだよ、妹が」
「きみはいったい何を話したんだ……つまり、そのぼくのことだが?」
「きみはひじょうに善良で、正直で、しごとの好きな男だと、あれに言ったよ。きみがあれを愛していることは、言わなかった。そんなことは言わなくとも、あれが知っている」
「あの人が知っているって?」
「きまってるじゃないか! ぼくがどこへ行こうと、どんなことになろうと、──きみはいつまでもあの二人の守り神であってくれ。ぼくは、いわば、あの二人をきみに渡すよ、ラズミーヒン。こんなことを言うのは、きみがどんなに妹を愛しているか、よく知ってるし、きみの心の清らかさを信じているからだよ。妹がきみを愛するにちがいないことも、知ってるよ。もしかしたら、もう愛してるかもしれない。だから、どっちがいいと思うか、自分で決めるんだな──飲んだくれる必要があるかどうか」
「ロージカ……きみは……おい……ええッ、くそ? で、きみはどこへ行こうというんだい? でも、それはいっさい秘密だというのなら、まあいいさ! だがぼくは……秘密をさぐり出すよ……きっと何かばかばかしいことだ、おそろしくつまらないことなんだ、きみの一人芝居だよ、きっとそうだよ。しかしきみは、実にすばらしい男だ! 実にすばらしい男だ!……」
「ぼくはいま言いそえようと思って、きみに邪魔されたんだが、きみはさっきそんな秘密なんか知りたくもないと言ったね。あれは実に賢明だよ。時期が来るまで放っておいてくれ、心配しないでくれ。すべては時が来ればわかるよ、必要な時が来ればね。昨日ある男がぼくに言ったよ、人間には空気が必要だ、空気が、空気が、ってね! ぼくはいまその男のところへ行って、この言葉の裏の意味をさぐってみるつもりだ」
ラズミーヒンは突っ立ったまま興奮した様子で、じっと考えこんでいた。何やらしきりに思いめぐらしていた。
《こいつは政治的な秘密結社の同士だな! きっとそうだ! そしてやつは何か大事を決行しようとしているのだ、──それにちがいない! それ以外は考えられぬ、そして……ドゥーニャもそれを知っているのだ……》ふっと彼はこう思いついた。
「じゃ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナはよくここへ来るんだね」と彼は言葉に節をつけるようにして言った。「ところで、きみはその男と会おうとしている、空気がもっと必要だ、空気が、とか言った男と……してみると、あの手紙も……やはり、その筋からきたものだな」と、彼はひとり言のように断定した。
「手紙とは?」
「あのひとは一通の手紙を受け取ったんだ、今日、それを見るとはっとした様子だった。ひどく。とにかく普通のおどろきようじゃなかった。ぼくがきみのことを口に出したら、黙っててくれと頼むんだ。そして……そして、もう間もなく別れることになるかもしれないなんて言って、何やらぼくに熱心にお礼を言って、それから自分の部屋へ入って、鍵を下ろしてとじこもってしまったんだ」
「あれが手紙を受け取ったって?」とラスコーリニコフは考えこんだ様子で聞きかえした。
「そう、手紙をね。きみは知らなかったのかい? フム」
二人はしばらく黙っていた。
「じゃこれで、ロジオン。ぼくはね、きみ……たしかに一時飲んだくれたことがあったよ……でもまあ、別れよう、うん、一時ね……まあいい、さようなら! ぼくももう行かなくちゃ。酒は飲まんよ。もう飲まんでもいい……こいつめ!」
彼は急いだ、が、もう廊下へ出て、うしろ手にドアをしめてしまってから、急にまた開けて、どこか横のほうを見ながら、言った。
「ついでだが! あの殺人事件をおぼえてるかい、ほら、ポルフィーリイのあつかってる、老婆殺しさ? 言っておくけど、犯人が見つかったよ。自白して、証拠をすっかり申し立てたんだ。そいつは例の職人の一人だったんだよ、ペンキ屋さ、ほら、おぼえているかい、ぼくがあのときしきりに弁護してたろう? おどろくじゃないか、あの庭番とさ、二人の証人がのぼって行ったとき、階段のところで喧嘩をしたり、きゃッきゃ笑ったりしてたのは、目をごまかすためだったというんだよ。あんな犬ころにしては、頭も腹もありすぎるじゃないか! 信じられないけど、自分で逐一説明し、すっかり自白したんだからしょうがない! まんまと一杯くったよ! なに、ぼくに言わせりゃ、こいつは要するに嘘とごまかしの天才、法の目をかすめる天才なんだよ!──だから、別におどろくことはないわけだ! そういうやつだっているだろうさ! で、そいつが堪えられなくなって、自白したというんだが、それだけによけいぼくはやつの言葉を信じるね。そのほうがずっと真実性があるよ……それにしてもぼくは、ぼくは、まんまとひっかけられたわけさ! あんなやつのために真剣に頭を悩ましたりしてさ!」
「頼むからおしえてくれ、きみはどこからそれを知った、そしてどうしてそんなに関心をもってるんだ?」とラスコーリニコフは明らかに動揺の色をうかべながら聞いた。
「おい、よせよ! どうして関心をもってるって! とぼけるなよ!……ポルフィーリイから聞いたさ、ほかの連中にも聞いたがね。しかし、ほとんどは彼からだ」
「ポルフィーリイから?」
「ポルフィーリイからさ」
「それで何を……何をあの男が?」と、ラスコーリニコフはぎょっとして尋ねた。
「彼はそれをみごとに説明してくれたよ。彼一流の心理的方法でね」
「彼が説明したって? 自分から進んできみに説明したのか?」
「そうだよ、自分から。じゃ、これで! あとでまたすこし話すが、いまは用があるんだ。まえには……一時、ぼくもちょっと……思ったことがあった……まあそんなことはいいや。あとで!……もう酒なんか飲まんでもいいさ。飲まなくたって、きみにはしたたか酔わされたよ。たしかにぼくは酔ってるよ、ロージカ! いまは酒も飲まんのにふらふらだ、じゃ、失敬。また来るよ、じきに」
彼は出て行った。
《あいつは、あいつは政治的秘密結社に属している、これは確かだ、まちがいない!》ゆっくり階段を下りながら、ラズミーヒンは腹の中できっぱりと断定した。《そして、妹まで引きこんだ。これはアヴドーチヤ・ロマーノヴナの気性を考えると、大いにあり得ることだ、大いに。二人は何度か会っていた……そういえば、彼女もほのめかしたことがあった。彼女のいろんな言葉……ちょっとした言葉のはし……ほのめかすような態度から考えて、たしかにそうにちがいない! そうでないとしたら、この訳のわからんもつれをどう説明したらいいんだ? フム! だのにおれは、考えるにことかいて……おお、おれはなんてことを考えかけていたのだ。そうだ、あれは気の迷いだった、あいつにすまないことをした! あのときあいつがうす暗いランプの下にいたので、おれの頭までぼうッとうす暗くなってしまったんだ。チエッ! おれはなんというけがらわしい、乱暴な、卑劣な考えをもったのだ! ミコライ、よく自白してくれた……これでまえのこともほとんど説明がつく! あのときのあいつの病気も、いろんな奇妙な行動も、それにそのまえの、大学にいたころのあいつさえ、わかるような気がする。いつも実に暗い、気むずかしい男だったが……でもさっきのあの手紙は、いったい何を意味するのだろう? あれもやはりこれに関係したものかもしれん。誰から来たものか? あやしいぞ……フム。いや、おれはすっかりさぐり出すぞ》
彼はドゥーニャのことをいろいろと思い出しながら、あれこれ思い合せていると、胸がじーんとしてきた。彼ははじかれたようにとび上がると、いきなり駆け出した。
ラスコーリニコフは、ラズミーヒンが出て行くとすぐに、立ち上がって、くるりと窓のほうを向き、自分の部屋の狭さを忘れたように、あちらの隅からこちらの隅と歩き出したが……すぐにまたソファに腰を下ろした。彼はまた身体中に、新しい力がみなぎったような気がした。また闘いだ、──出口が見つかったのだ!《そうだ、これは出口が見つかったということだ! このままではたまらない、なにしろしっかり栓をして、息もつまりそうな中にとじこもっていたので、胸が苦しくて、気が遠くなりかけていたんだ。ポルフィーリイのところでのミコライとの一件以来、おれは出口のない狭い穴の中で息がつまりそうになっていた。ミコライがすんだと思うと、その同じ日にソーニャとの一幕だ。筋書きも結末も、まえに考えていたものとは、まったく別なものにしてしまった……つまり、瞬間的に、急激に、疲れが出たんだ! 一時に! しかもあのときおれは、こんなひどい苦しみを心に抱いて一人で生きては行けない、というソーニャの言葉に、同意したんだ、自分から同意したんだ、心からそう思ったんだ! ところで、スヴィドリガイロフは? あの男は謎だ……あいつはおれを不安にする、それは事実だ、しかしその不安はあれとは違うようだ。スヴィドリガイロフとも、おそらく、これから闘わねばならんだろう。ひょっとしたら、スヴィドリガイロフも完全な出口かもしれん。だが、ポルフィーリイは問題が別だ》
《そこでポルフィーリイだが、自分から進んでラズミーヒンに説明した、心理的に説明した! また例のいまいましい心理的方法をもち出しはじめたな! あのポルフィーリイが? あのとき、ミコライがでてくるまでに、おれとあいつの間にあのような対決があったのだから、ミコライが犯人だなどと、あいつがちらッとでも信じたとは、とても考えられない。あの対決には、一つのこと以外には、正しい解釈を見出すことはできない!(この数日の間に何度か、ラスコーリニコフの頭に、このポルフィーリイとの対決の場面がこまかい断片となってちらちら浮んだ。しかし彼には、それを完全な形で思い出すことはできなかったようだ)。あのとき二人の間では、ミコライなどではもうポルフィーリイの確信の底にあるものをぐらつかせることのできないような、そうした言葉が語られ、そうした動作やしぐさが演じられ、意味深い視線が交わされ、いくつかの言葉は意味ありげな声で語られ、もうぎりぎりのところまで来てしまっていたのだ。(ミコライがでてきたときだって、ポルフィーリイは最初の一言、一つのしぐさからもうそらで知っていたのだ)。》
《しかし、なんということだ! ラズミーヒンまでが疑いだしたとは! 廊下のランプの下の場面、あれがひっかかりになったわけだ。そこで彼はポルフィーリイのところへとんで行った……だが、いったいなんのためにあいつはラズミーヒンを欺そうとしたのか? どういう目的があって、ラズミーヒンの目をミコライにそらさせるのか? きっと、何か考えだしたのだ。これには裏がある、だが、どんな? もっとも、あの朝からかなりの時が過ぎた──あまりに、あまりに経ちすぎたほどだ。ところがあれっきり、ポルフィーリイの噂はぴしゃッと聞かなかった。これはどうしたことだ。むろん、よくない……》
ラスコーリニコフは帽子をつかむと、考えこんだ様子で、部屋を出た。ずっとこの何日かを通じて、今日はじめて、彼は少なくとも自分の意識が健康であることを感じていた。
《スヴィドリガイロフとの決着をつけるんだ》と彼は考えた。《何が何でも、できるだけ早く。あいつも、おれが行くのを待ってるにちがいない》
そう思うと、とたんに、彼の疲れた心からはげしい憎悪がこみ上げてきて、スヴィドリガイロフとポルフィーリイの二人のうちどちらかを、殺してやりたいような気持になった。少なくとも彼は、いまでなければいずれ、これを決行できそうな気がした。
《どうなることか、いずれはわかるさ》と彼はひそかに呟いた。
しかし、彼が入り口のドアを開けたとたんに、思いがけなく、当のポルフィーリイとばったり出会った。向うはこちらへ入って来るところだった。ラスコーリニコフは一瞬唖然とした。しかし不思議なことに、彼はポルフィーリイをそれほどびっくりもしなかったし、ほとんど恐れもしなかった。彼はぎくっとしただけで、とっさに、素早く心構えをした。
《これで結末がつくかもしれん! しかし、どうして泥棒猫みたいに、こっそり忍びよって来たのだろう、ぜんぜん気がつかなかった! まさか立ち聞きしていたわけでもあるまい?》
「意外でしたろうな、ロジオン・ロマーヌイチ」と、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは笑いながら大声で言った。
「まえまえから一度寄ろうと思っていたものだから、ちょっと通りかかって、五分くらいお邪魔してもよかろう、とこう思いましてね。どこかへお出かけですか? どうぞどうぞ。ただその、よろしかったら、煙草を一本だけ吸わせてくださいな」
「さあおかけなさい、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、どうぞどうぞ」とラスコーリニコフは客に椅子をすすめたが、それがいかにも満足そうな親しげな態度で、もし自分を外からながめることができたら、きっと、われながらおどろいたにちがいない。勇気の最後ののこりかすを掻き出したのである! 人はよく強盗に会ったときなど、死の恐怖の三十分をこんなふうに堪えるものだ、そしていよいよ短刀を喉に突きつけられても、もう恐ろしさなど通りこしてしまうのである。彼はポルフィーリイのまっすぐまえに腰を下ろして、まばたきもしないで、じっと相手を見すえていた。ポルフィーリイは目をそばめて、煙草を吸いはじめた。
《さあ、言え、言え》ラスコーリニコフの心臓から、こういう言葉が、たえずとび出そうとしているようだった。《さあ、どうした、どうしたんだ、どうして言わないのだ?》
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「まったくこの煙草というやつはこまったものですよ!」とうとうポルフィーリイ・ペトローヴィチは、煙草を吸いおわると、ほうッと一つ息を吐いて、こう言いだした。「毒ですよ、まちがいのない毒とわかっていながら、やめることができない! 咳がでる、喉がむずむずしだした、さあ喘息だ。わたしはね、臆病なものですから、早速B先生のところへ診てもらいに行きましたよ、──先生はどんな病人でも最低(ミニマム)三十分は診てくださるんでね。こつこつ打診したり、聴診器をあてたりしてましたがね、──とにかく、煙草がよろしくない、肺臓が膨張している、というんです。でも、どうしてやめられます? 代りに何をやれというんです? 何しろ酒をやらんのでね、こいつがそもそもいけないんですよ、へ、へ、へ、飲めないってことは、不幸ですよ! まったく、あっち立てればこっちが立たず、ロジオン・ロマーヌイチ、すべては相対的なものですよ!」
《いったい何を言ってるんだ、また例のおきまりのてをつかいやがるのかな!》と彼はむかむかしながら考えた。不意に、この間の対決の場面がすっかり彼の記憶によみがえった、そしてあのときの感情が波のように彼の心におしよせてきた。
「実はね、一昨日の夕方一度ここへ寄ったんですよ。ご存じないようですな?」と、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは部屋の中を見まわしながら、つづけた。「この部屋へ入りました。やはり、今日みたいに、まえを通ったものですから、──ひとつ、訪問してやろうと思いましてな。寄ってみると、ドアが開いたままになっている。ひとわたり見まわして、しばらく待ってみて、女中にも来たことを言わないで、──帰りました。いつも鍵は閉めないんですか?」
ラスコーリニコフの顔はますます暗くなった。ポルフィーリイは相手の胸の中を見ぬいたらしい。
「釈明に来たんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、釈明にね! どうしてもあなたに釈明せにゃならんと思いましてな」彼はにやッと笑いながらこう言うと、軽く掌でラスコーリニコフの膝頭をたたきさえした。
しかし、それと同時に、彼の顔は急にまじめな心配そうな顔つきに変り、しかもラスコーリニコフのおどろいたことに、憂いにつつまれたようにさえ見えた。彼はまだポルフィーリイのこんな顔を見たこともなかったし、考えたこともなかった。
「このまえはわたしたちの間に妙な場面が展開しましたな、ロジオン・ロマーヌイチ。たしか、はじめてお会いしたときも、やはり妙な場面があったような気がしますが、でもあのときは……まあ、いまになってみれば、どっちもどっちですね! まあね、わたしはあなたにひじょうにすまないことをしたかもしれません。わたしはそれを感じていますよ。まったくひどい別れ方をしたものですよ、ねえ、あなたは神経がさわいで、膝頭がふるえていたし、わたしも神経がさわいで、膝頭がふるえていました。しかもあのときは、どうしたものかわたしたちの間が妙にこじれてしまって、紳士的とは言えませんでしたよ、ねえ。とはいえ、わたしたちはやはり紳士にちがいありませんよ。つまり、いかなる場合においても、まず紳士です。これは心得ておくべきです。おぼえておいででしょうな、あのときどこまで行ったか……まったくもう、ぶざまといっていいほどでしたよ」
《なんだってこんなことを言うんだろう? おれを誰と思ってるんだ?》と、ラスコーリニコフは頭をちょっと上げて、ポルフィーリイの顔に目を見はりながら、唖然として自問した。
「そこでわたしは考えたんですよ、もうお互いにつつみかくしなく行動したほうがいいだろう、とね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはわずかに顔をそむけ、目を伏せて、もうこれ以上あつかましい凝視で自分の以前の犠牲者を当惑させたくないらしく、これまでの自分のやり方や詭計を恥じるような様子で、言葉をつづけた。「そうですとも、あんな疑惑やあんな場面がそう長くつづくものじゃありませんよ。あのときはミコライがけりをつけてくれたからいいようなものの、でなかったら、わたしたちの間がどこまで行ったか、想像もつきませんよ。あのいまいましい町人めは、あのとき、あの部屋の仕切りのかげに坐っていたんですよ、──どうです、こんなことが考えられますか? そんなことは、もちろん、あなたはもうご存じだ。もっとも、やつがあのあとであなたのところへ行ったことは、わたしも知ってますがね。しかし、あなたがあのとき予想したようなこと、それはなかったんですよ。つまりわたしは誰も呼びにやらなかったし、あのときはまだなんの指図もしていなかった。どうして指図しなかった、とお聞きですか? なんと説明したらいいのか。まあ、ああしたことでわたし自身がいささか面食らっていたらしい、とでも言っておきましょうか。庭番たちを呼びにやったのやっとでしたよ。(庭番たちは来しなに見かけたでしょう)。あのときある考えがちらとわたしの頭をかすめたんです。一つの考えが、素早く、稲妻のようにね。ご存じでしょうが、あのときわたしはもうそれを確信していたんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ。よし、ひとつは一時逃すようなことがあっても、その代りもうひとつは尻っぽをおさえてやる、──おれがねらいをつけた肝心なほうだけは、ぜったいに逃さんぞ、とこう思いましたよ。ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはもともとひじょうに怒りっぽい。あなたの性格や心情の他のあらゆる主な特徴──これはもうある程度わかったつもりで、自惚れているんだがね──に比べると、すこしひどすぎるようにさえ思える。そりゃむろん、あのときでさえわたしは、人間がちょっと立ち上がったと思うと、いきなりべらべら秘密をすっかりしゃべってしまうなんてことが、そうざらにあるものではないくらいは、判断できましたよ。そういうことはあるにしても、人間が忍耐の限界をこえたというような特別の場合で、どっちにしても珍しいことです。それはわたしも判断できました。そこで考えましたよ、ほんのちょっとした証拠でもいいからつかまえたいものだ! どんなに些細なものでもいい、たった一つでいい、だがその代りしっかり手でつかまえられるもの、心理だけじゃなく、物的証拠でさえあれば、とね。というのは、もしある人間が罪を犯しているならば、いずれにしても、その人間から何かしら動かぬ証拠が、かならず現われるものだと考えたからですよ。まったく意表外な結果をあてにしてもかまいません。あのときはわたしはあなたの性格に望みをかけたんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、何よりも性格にね! あのときはもうすっかりあなたに望みをかけていましたよ」
「でもあなたは……いったいどうして今度はそんなことばかり言うんです」とラスコーリニコフは、とうとう、質問の意味をよく考えもせずに呟いた。
《この男はなんのことを言ってるのだろう》と彼は腹の中でまよった。《まさか本気でおれを無実と考えているとは思われないが?》
「どうしてこんなことを言うって? 釈明に来たからですよ、つまり、それを神聖な義務と考えましてね。あなたに何もかもすっかり打ち明けて、あのときの、いわば心の迷いのいきさつをですね、ありのままに説明したいのですよ。あなたにはずいぶん苦しい思いをさせましたからねえ、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしだって悪人じゃありませんよ。痛めつけられてはいるが、誇りが高く、人に従うをいさぎよしとしない、しかも癇のつよい、特にこの癇のつよい人間にとって、こんな屈辱を心にになって行くことがどんなに苦しいかくらいは、わたしだってわかりますよ。わたしは何はともあれ、あなたをもっとも高潔な人間、寛容の芽ばえをさえもっている人間と考えています、といって、あなたの世界観や人生観に全面的に同意するというわけではありませんがね。まずこうことわっておくのは、つつみかくしなく率直に言うのが義務だと思うからです。とにかく、嘘だけは言いたくありませんからな。あなたを知ると、妙にあなたに惹かれるものを感じたんです。わたしがこんなことを言うと、あなたはきっとお笑いでしょうな? その権利が、あなたにはおありですよ。最初の一瞥からあなたがわたしを好いていないことは、知ってますよ。だって、ほんとうのところ、好きになる理由がひとつもないですものな。まあ、どうお考えになろうと、かまいませんが、いまのわたしとしては、なんとしてもできてしまった印象をぬぐい去り、わたしだって人の心をもち、善悪をわきまえた人間だってことを、証明したい気持でいっぱいなんですよ。ほんとうです。」
ポルフィーリイ・ペトローヴィチはぐっと構えてしばらく言葉を休めた。ラスコーリニコフは新しい驚愕に似た感情がよせてくるのを感じた。ポルフィーリイが彼を犯人と見ていないという考えが、不意に彼をおびやかしはじめた。
「あのときどうして急にあんなふうになったか、一々順序を追って話す必要は、まあないでしょう」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはつづけた。「そんなことは、むしろ余計なことだと思いますね。それに、とてもできそうにもありませんし。だって、どうしたらあんなことが詳しく説明できるんです? まず噂が流れました。それがどんな噂で、誰から、いつ出たか……そしてどんな経路で事件があなたにまで及んだか、──なんてことも、余計なことだと思います。わたし個人の場合は、ある偶然からはじまったのです。それはまったく文字どおりの偶然で、まあ大いに起り得るかもしれませんし、めったに起り得ないかもしれません。どんな偶然かって? フム、まあこれも話すほどのこともない、と思いますね。そうしたすべてのことが、噂も偶然もですね、そのときわたしの頭の中で一つの考えに融け合ったわけです。率直に白状しますが、だってどうせ白状するからには、すっかり白状しなきゃね、──あのときあなたに攻撃をかけたのは、わたしが真っ先だったんですよ。まあ、老婆の質草のおぼえ書きとか、その他いろいろありましたが、──あんなものはみなナンセンスですよ。あんなものは何百となく数え立てられます。あのときこれも偶然ですが、警察署での一幕を詳細に知ることができました。それもちらと小耳にはさんだなんていうんじゃなく、あるしっかりした人の口から聞いたのですが、その人は自分でも気付かずに、あの一幕をびっくりするほど詳しくおぼえていたんですよ。そうしたことがみな一つまた一つと、次々と重なっていったわけですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、どうです、どうしたってある考えに傾かざるを得ないじゃありませんか? 兎を百匹あつめても、決して馬にはなりません、嫌疑を百あつめたところで、証拠にはならんものです。たしかイギリスの諺にこんなのがありましたがね、でもそれは単なる分別というものですよ。頭がかっとなって、熱中しているときは、とてもそんなのんびりしたことは言っておられません、判事だって人間ですからな。そこでわたしはあなたの論文を思い出したんですよ、あの雑誌にのった、ほら、はじめてあなたが尋ねた来られたときかなり突っこんで話しあいましたね、あれですよ。あのときわたしはからかうようなことを言いましたが、あれはあなたを誘いこんで口を割らせるためだったのです。くりかえして言いますが、あなたはひどく苛々して、病的でしたね、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたが大胆で、自尊心が強く、冗談がきらいで、しかも……感じていた、もう多くのことを感知していた、そういうことはすっかりわたしはもうまえまえから知っていました。そうしたさまざまな感じがわたしにもおぼえがあるので、あなたの論文もなつかしい気持で読みました。ああした思想は、眠られぬ夜など、胸がはげしく高鳴り、圧しひしがれた熱狂に焼き立てられながら、熱くなった頭の中から生れるものです。で、青年のこの圧しひしがれた尊大な熱狂というやつは危険です! わたしはあのときはからかいましたが、いまははっきり言いましょう、ああした若々しい熱のこもった最初の試作というものが、わたしは大好きなんです。なんと言いますか、その、恋人みたいに好きなんですよ。けむり、霧、霧の中からひびいてくる弦の音色とでも言いましょうか。あなたの論文は不合理で空想的ですが、そこにはなんとも言えないひたむきな誠意がひらめいています。毅然たる青年の誇りがあります。必死の勇気があります。あれは暗い論文です、だがそれもいいでしょう。わたしはあなたの論文を読むと、それを別にしておきました。そして……しまうとすぐに、ふとこう思ったものです、《さて、この男はこのままではすまんぞ!》とね。さあ、どうでしょう、え、こうした前置きがあったあとで、その後に来るものに熱中せずにすむでしょうか? おや、とんでもない! まさか、わたしがいま何か言ってるというんですか? 何か肯定してますか? わたしはそのときちょっと気になっただけですよ。何かあるのかな? と考えたわけです。何もない、つまりまったく何もない、おそらく、ぜったいに何もありゃすまい。それにこんなふうに夢中になることは、予審判事のわたしとしては、まったく不体裁なはなしですよ。なにしろわたしはミコライという容疑者をにぎっていて、もうちゃんとした物証があがっているんですから、──あなたがなんと言おうと、事実は事実です! ここでも例の心理的方法を使っています。調べないわけにはいきません、なにしろやつの死活の問題ですからねえ。なんのためにいまこんなことをあなたに説明していると思います? つまり、あなたに頭でも心でもよくわかってもらって、あのときのわたしの意地わるい行動を許してもらうためですよ。意地わるい行動じゃないんですがね、ほんとですよ、へ、へ! どうです、あなたは、あのときわたしが家宅捜索に来なかった、と思いますか? 来ましたよ、来ましたとも、へ、へ、あなたがこのベッドに病気で寝ていたときにね、ちゃんと来ましたよ。正式じゃなく、名乗りもしませんでしたがね、ちゃんと来たんですよ。あなたの部屋はちりひとつまで調べられたんですよ、しかも真新しい足跡を辿ってね、しかし──umsonst(むだ骨でしたよ)! そこで考えましたね、いまにこの男はやって来る、きっと自分のほうからやって来る、しかもじきに。犯人なら、きっとやって来る、とね。他の者なら来ないが、この男は来る。それから、おぼえてるでしょう、ラズミーヒン君がいろんなことをあなたに言いだしましたね? あれはあなたを動揺させるために、わざと仕組んだんですよ。彼の口からあなたに言わせるために、わざと噂を流したんです。都合のいいことに、ラズミーヒン君はかっとなると黙っていられないたちでね。ザミョートフ君がまずあなたの憤怒とあけっぴろげな大胆さに目をぱちくりさせたわけです。だって、居酒屋でだしぬけに《おれが殺したんだ!》なんて言い出すとは、びっくりするのが当りまえです。あまりに大胆すぎる、あまりに不敵すぎる、そこでわたしは考えましたね、もしこの男が犯人とすれば、おそるべき相手だ! そのときはそう思ったんです。それから待ちました! ありたけの力をはりつめてあなたの来るのを待ちました……ザミョートフはあなたにまんまとしてやられたんです……だって、困ったことに、このいまいましい心理ってやつはどっちともとれるんですよ! でまあ、わたしは待ったわけです。するとどうでしょう、天の助けか──あなたが来たじゃありませんか! わたしは胸がどきッとしましたよ。ええ! さて、あのときあなたはなぜ来なければならなかったのか? そしてあの笑い声、あなたが入って来たときのあの笑い声です、おぼえてるでしょう、あれでわたしはとっさにガラス越しに見るように、すべてをさとったのです、でも、あれほど張りつめた気持であなたを待っていなかったら、あなたのあの笑い声の中に何も気付かなかったでしょう。その気でいるとこういうことになるものです。それにあのときはラズミーヒン君もいました、──あ! 石、石ですよ、おぼえてますか、その下に盗品をかくしたという石を? え、どこかそこらの野菜畑の中にその石が見えるような気がしましたよ、──あなたは野菜畑って言いましたね、ザミョートフに、それからわたしのところでも、もう一度言いましたね? それからあなたのあの論文の分析をはじめて、あなたが意見をのべはじめたとき、──あなたの一言一言が二重に聞えましたよ、まるで別な意味が裏にかくされているような気がしてね! というわけで、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしは最後の柱まで来てしまったのさ、そして額をぶっつけて、はじめて気がついたというわけです。そこで自分に言い聞かせましたね、おれは何をしているのだ! その気になれば、これはみなごく些細な点まで反対の意味の説明がつくじゃないか、しかもそのほうがずっと自然だ。苦しみましたね!《いやいや、なんとか毛筋ほどの証拠でもにぎれたらなあ!……》とも考えましたよ。だから、あの呼鈴の件を聞いたときは、思わずはッとして、びくッとふるえたほどでした。《しめた、これこそ証拠だ! これだ!》と思いましたね。そしてもう考察している余裕なんてありませんでしたね。ただただ望みました。その瞬間のあなたを自分の目で見るためなら、それだけのために、わたしは千ルーブリくらい喜んで投げ出しましたね、むろん自分の金ですよ。そのときあなたは、あの町人に《人殺し》と面罵されてから、百歩ほど並んで歩き、その百歩ほどの間に、その町人に一言も詰問できなかった、というんですからねえ!……まあ、背筋がぞくッとしたことでしょうな? その呼鈴の音、病気で、なかば熱に浮かされながら? こう考えてくると、ロジオン・ロマーヌイチ、あのときわたしがからかったくらいのことで、別におどろくにはあたらなかったじゃありませんか? そしてなぜあなたはああいうときにわざわざ自分から来たんです? まるで何者かにひっぱられたみたいに、そうじゃありませんか、まったく。で、あのときミコライがわたしたちを分けてくれなかったら、それこそ……あのときのミコライをおぼえていますか? よくおぼえているでしょうな? たしかに、あれは雷鳴でしたよ! まったく、黒雲の中からとつぜん鳴りわたって、稲妻がひらめきました! さて、わたしがやつをどう迎えたでしょう? ご存じのように、稲妻なんてこれっぽっちも信じませんでしたね! どこに! あれから、あなたが帰ってのち、やつはいろんなポイントに対して実に手ぎわよく答弁をはじめたので、わたしもおどろきましたがね、しかしぜんぜん相手にしませんでしたよ! いわゆる鉄の意志ってやつでね。よせよ、この寸足らずめ! こんなミコライに何ができるか」
「ラズミーヒンがいましがたぼくに言いましたよ、いまではあなたもミコライを犯人と認めて、それをラズミーヒンに断言したとか……」
ラスコーリニコフは息がつまって、しまいまで言えなかった。彼は相手の腹の底まで読みとって、自分で自分を突っ放したように、言い知れぬ興奮につつまれて聞いていた。彼は信じるのが恐かった。だから信じなかった、まだどっちともとれる言葉の中に、彼はどちらにしろもっと正確な、もっとはっきりした意味をつかもうとして、はげしく苦悶していた。
「ラズミーヒン君ですか!」と、ずっと黙りこくっていたラスコーリニコフの質問に喜んだように、ポルフィーリイ・ペトローヴィチは叫んだ。「へ! へ! へ! まあ、ラズミーヒン君にはさっさと脇のほうへ退いてもらわにゃね。差し向いがよろしい、他人は遠慮してくれってわけさ。ラズミーヒン君は人種がちがいますよ、それに第三者ですし、真っ蒼な顔をしてわたしのところへかけこんで来ましてね……まあ、どうでもいいですよ、あの男をここへもち出す必要はありませんな! しかしミコライについては、これがどんなテーマか、どんな形で、つまりどんなふうに、わたしが彼を解釈しているか、知っていたほうが都合がいいんじゃないですか? まず第一に、彼はまだ未成年の小僧ですよ、そして臆病者というのじゃありませんが、まあ芸術家とでもいうのでしょうか、何かそうしたところがありますね。ほんとですよ。あの男をそんなふうに言ったからって、笑っちゃいけませんよ。初心(うぶ)で、何にでも染まりやすい。真心はありますが、気まぐれです。唄もうたうし、踊りもおどります、話もひどくうまいそうで、話をはじめるとまわりが人垣になります。学校へも通ってるし、指を見せられても倒れるほど笑いころげるし、わからなくなるまで酔っぱらいます。それも酒が道楽で飲むのじゃなく、ときどき飲まされると、やらかすんで、まあ若い者の無茶ですな。彼はあのときちゃんと盗んでおきながら、自分でそれがわからないんです。《地面におちてたものをひろったのが、なんで盗みだ?》というわけです。ところで、ご存じですか、彼は分離派信徒(ラスコーリニック)なのですよ、といってはっきり分離派とも言えませんで、ただある宗派に属しているというだけのことですがね。彼の一族にはベグーン派(注 無僧宗派)の者がいましてね、彼もつい細菌まで二年間ほど村である長老のもとにあずけられ、信徒の生活をしていたんですよ。こうしたことをわたしはミコライとザライスク出の同郷人たちの口から聞き出したんです。まったく、おどろきましたよ! ただもう荒野に庵をむすんで隠遁することを考えてるんですからねえ。狂信的なところがあって、毎夜神に祈り、古い《真理》の書に読みふけっています。ペテルブルグが彼に強烈な刺激をあたえたんですな、特に女性が、それに酒もです。染まりやすい男だから、長老も何もかも忘れてしまった。なんでも、ある画家が彼を好きになって、ちょいちょい訪ねて来るようになった、そこであの事件が起った! さあ、すっかり怯気づいてしまって、──首を吊ろうとした! 逃げ出そうとした! わが国の裁判について民間に流布されている通念というものは、まったくどうしようもありませんよ!《裁かれる》という言葉だけで、もうふるえ上がってしまう者もいるんですからな。誰の罪でしょう! まあいまに新しい裁判が何かの答えを出してくれますよ。ぜひ、そうあってほしいものです! さて、監獄に入ってみて、ありがたい長老を思い出したと見えて、聖書もまた出て来たわけです。ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、彼らのある者にとっては、《苦難を受ける》ということがどういう意味をもっているか、知ってますか? それは誰のためというのではなく、ただ一途に《苦難を受けなければならぬ》というのです。その苦しみがお上からのものであれば、──なおのことです。現代の例ですが、あるおとなしい囚人がまる一年獄中につながれていました。その囚人は毎夜ペチカの上に坐って聖書ばかり読んでいましたが、とにかく普通の読み方じゃなく、夢中になって読みふけっていたんですが、それがどうでしょう、とつぜん、なんの理由もなく、煉瓦をひとつつかむと、別に何もひどいことをしない看守長に、いきなり投げつけたのです。まあ、投げつけたといっても、けがなどしないように、わざと一メートルほど脇のほうをねらったのです! さあ、武器をもって上司をおそった囚人がどんなことになるかは、わかりきったことです。そして、《苦難を受けた》というわけです。ですから、わたしはいま、ミコライが《苦難を受ける》か、あるいは何かそうしたことを望んでいるのではないか、という気がするんですよ。これはわたしは確実に知っています、実際の証拠さえあります。わたしが知っているということを、彼が気付かないだけです。どうでしょう、このような民衆の中から夢想的な連中の出ることを、あなたは認めませんか? どうして、あとを絶ちませんよ。いまになってまた長老の力がはたらきかけてきたわけです、特に首をくくりそこねてからは、しみじみと思い出したんですね。まあ、いまにわたしのところへ来て、すっかり告白してくれるでしょうよ。どうです、堪えられると思いますか? まあ待ちなさい、もうすこしがんばるでしょう! でもわたしは、いまかいまかと待ってるんですよ、彼が自供をくつがえしに来るのをね。わたしはこのミコライってやつが好きになりましてね、綿密に観察しているんですよ。あなたはどう見ましたかな! へ! へ! いくつかのポイントに対しては実に周到な答弁をしましたよ、どうやら必要な知識をあたえられたものと見えて、巧みに用意していました。ところが他のポイントになると、まるでへまばかり言って、なんにもわかっちゃいない、しかもわかっていないことが、自分でも気がつかない。いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃありませんよ! これは病的な頭脳が生みだした暗い事件です、現代の事件です、人心がにごり、血が《清める》などという言葉が引用され、生活の信条は安逸にあると説かれているような現代の生みだしたできごとです。この事件には書物の上の空想があります、理論に刺激された苛立つ心があります。そこには第一歩を踏み出そうとする決意が見えます、しかしそれは一風変った決意です、──山から転落するか、鐘楼からとび下りるようなつもりで決意したが、犯罪に赴くときは足が地についていなかったようです。入ったあとドアをしめるのを忘れたが、とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って。殺したが、金をとる勇気がなかった、しかもやっと盗んだものは、石の下に埋めた。ドアのかげにかくれて、外からドアを叩かれたり、呼鈴を鳴らされたりしたとき、苦痛に堪えたが、それだけでは足りなかった、──そして、もう空き家になった部屋へ、なかば熱に浮かされながら、呼鈴の音を思い出しにやって来る、そして背筋の冷たさをもう一度経験したい気持になったわけだ……まあ、それは病気のせいだとしよう、だがそれだけではない。殺人を犯していながら、自分を潔白な人間だと考えて、人々を軽蔑し、蒼白い天使面をして歩きまわっている、──いやいや、とてもミコライなんかのできることじゃありませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコライじゃない!」
この最後の言葉は、それまでがいかにも否定するような調子だっただけに、あまりにも意外だった。ラスコーリニコフはぐさりとえぐられたように、身体中がふるえだした。
「じゃ……誰が……殺したんです?」彼は堪えきれず、あえぎながら、ふるえる声で尋ねた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはこの質問がまったく思いがけなかったらしく、びっくりしてしまって、思わずぐらッと椅子の背に倒れかかった。
「誰が殺したって?……」と、自分の耳が信じられないように、彼は聞き返した。「そりゃあなたが殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたが殺したんですよ……」彼はほとんど囁くように、確信にみちた声でこうつけ加えた。
ラスコーリニコフはソファからとび上がって、二、三秒突っ立っていたが、一言も言わずにまた腰を下ろした。小刻みな痙攣が不意に彼の顔をはしった。
「唇がまた、あのときみたいに、ひくひくふるえてますね」とポルフィーリイ・ペトローヴィチはかえってあわれむような口調で呟いた。「ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしの言葉をまちがって解釈したらしいですな」彼はちょっと間をおいてから、こうつけ加えた。「それでそんなにびっくりしたんです。わたしがここへ来たのは、もうすっかり言ってしまって、事件をはっきりさせるためですよ」
「あれはぼくが殺したんじゃない」とラスコーリニコフは、悪いことをしているところをおさえられて、びっくりした子供のように囁いた。
「いや、あれはあなたですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたですよ、他の誰でもありません」とポルフィーリイはきびしく、確信をもって囁いた。
二人とも口をつぐんだ、そして沈黙はおかしいほど長く、十分ほどつづいた。ラスコーリニコフは卓に肘をついて、黙って指で髪をかきむしっていた。ポルフィーリイ・ペトローヴィチはきちんと腰を下ろして、待っていた。不意にラスコーリニコフが憎悪の目でじろりとポルフィーリイを見た。
「また例のてをだしましたね、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ! いつもいつも同じてばかりつかって。よくもまああきないものですね、まったく!」
「え、よしなさいよ、いまのわたしにてなんてなんの必要があります! ここに証人でもいるというなら、別でしょうがね。わたしたちは二人だけで声をひそめて話してるんじゃありませんか。おわかりでしょうが、兎でも追うように、あなたを追いつめて、捕えるために、わたしはここへ来たんじゃありませんよ。自白なさろうとなさるまいと、──いまのわたしにはどうでもいいことです。あなたに聞くまでもなく、自分ではそう確信しているんですから」
「それなら、どうしてここへ来たんです?」とラスコーリニコフはじりじりしながら尋ねた。「このまえも聞いたことですが、ぼくを犯人と認めているなら、どうしてぼくを投獄しないのです?」
「さあ、その問題ですよ! 順を追ってお答えしましょう。第一に、あわててあなたを逮捕することはわたしにとって不利です」
「不利ですって! 確信しているなら、あなたは当然……」
「いや、そうもいかん、わたしの確信がなんになります? だってこんなことは、いまのところ、わたしの空想にすぎないんですよ。それにどうしてあなたをあそこへ入れて安心をあたえる必要があります? それはあなたがよく知ってますよ、自分で頼むくらいだから、例えばですよ、あの町人をあなたに対決させて、証言をとろうとしたところで、あなたはこう言うでしょうよ、《きみは酔ってるんじゃないのか? きみといっしょにいるところを誰が見た? ぼくはきみを酔っぱらいと思っただけさ、それに事実きみは酔っていた》──その場合、それに対してわたしはあなたになんと言います、ましてあなたの言葉のほうがあの男よりは正当らしく聞えますからねえ。なぜって、あの男の証言は心理面だけですが──それにあの顔つきです、かえって不利な印象をあたえますよ──あなたのほうがまさに急所を突いてるからですよ。なにしろあいつの大酒飲みは、あまりにも有名です。それにわたし自身、もう何度も率直にあなたに白状したように、この心理面の証言というやつは二つの尻っぽをもっているもので、二本目のほうがずっと大きく、しかもはるかにほんとうらしく見えるものです。おまけにいまのところ、わたしにはあなたに対抗する手段がひとつもないんですよ。とはいえ、やはりあなたを逮捕することになるでしょうな、それであらかじめすっかりあなたにことわっておくために、こうしてわざわざ出かけて来たわけですよ(まったくほめられたやり口じゃありませんがね)。しかも、こんなことをしたらわたしの不利だなんて、言わんでいいことを正直に言うんですからねえ(これもほめられたことじゃありませんな)。さて、第二ですが、わたしがここへ来たのは……」
「それで、第二は?」(ラスコーリニコフはまだ肩で息をしていた)
「つまり、さっきも説明しましたように、あなたに釈明することを自分の義務と考えたからです。あなたに悪人と思われたくないんですよ、まして、信じようが信じまいが、とにかくあなたには心から好意をもっているんですから、なおさらですよ。それで、第三になるわけですが、自首しなさいと、腹をわって率直にすすめるために、来たわけです。このほうがあなたにどれだけ有利かわかりませんし、それにわたしにもずっと有利です、──肩の重荷がおりますからねえ。さあ、どうです、わたしの態度は率直でしょう?」
ラスコーリニコフは一分ほど考えていた。
「ねえ、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、心理だけではと自分で言っていながら、結局は数学に入ってしまいましたね。だが、あなた自身がいままちがっているとしたら、どうします?」
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはまちがっておりません。毛筋ほどの証拠はもっています。これはあのとき見つけたんですよ、天の恵みです!」
「それは何です?」
「それは言えませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もういずれにしてもこれ以上延ばす権利は、わたしにはありません。逮捕します。よく考えてください。いまとなってはもうわたしにはどっちでも同じことです、だから、わたしがこうしているのは、あなたを思えばこそです。ほんとです、楽になりますよ、ロジオン・ロマーヌイチ!」
ラスコーリニコフは毒々しいうす笑いをもらした。
「たしかに、これはもう笑って片づけられるものじゃありませんね、恥知らずというものですよ。まあ、ぼくが犯人だとしてもですよ(そんなことはぼくは決して言いませんがね)、ぼくをそこへ入れて安静をあたえてやるなんて、わざわざ言ってくれているあなたのところへ、なぜぼくが自首して出なきゃいけないのです?」
「おやおや、ロジオン・ロマーヌイチ、そう言葉をそのまま信じちゃいけませんよ。もしかしたら、それほど安静をあたえられないかもしれませんしねえ! これはただの理論ですよ、それもわたしのね、わたしがあなたに対してどんなオーソリティがあります? わたしはね、もしかしたら、いまでさえあなたに何かかくしているかもしれませんよ。わたしだって、こういきなり何もかもあなたにしゃべってしまうわけはありませんしね、へ! へ! 次に、どんな利益があるか? ということですがね。自首することによってどんな減刑の恩恵があるかくらいは、ご存じでしょうが? だから、いつ、どんなときに出頭したらいいのか? これだけはよく考えるんですな! いまは、他の男が罪をかぶって、事件をもつれさせてしまったときじゃありませんか? でもわたしはね、誓って言いますが、《あちら》では、あなたの自首がまったく意外だったように、うまく仕組んでやりますよ。この心理劇は完全に抹殺してしまいましょう。あなたの対するあらゆる嫌疑もなかったことにしましょう。そうすればあなたの犯罪は一種の迷夢みたいなものになります、だって、正直に言って、あれは迷夢ですよ。わたしは正直な男ですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、約束したことは守ります」
ラスコーリニコフは悲しそうに黙りこんで、頭を垂れた。彼は長いこと考えていたが、やがて、またうす笑いをもらした、しかしそれはもう短い悲しそうな笑いだった。
「なに、いりませんよ!」と、彼はもうぜんぜんポルフィーリイにかくそうとしないように、言った。「必要ありません! ぼくにはそんな減刑なんかまっぴらです!」
「それです、わたしはそれを恐れたんですよ!」と、熱くなって、思わず口をすべらしたように、ポルフィーリイは叫んだ。「せっかくの減刑をことわるのではないか、わたしはそれを恐れたんです」
ラスコーリニコフはあわれみを誘うようなさびしく沈んだ目で彼を見た。
「ええ、命を粗末にしちゃいけません!」とポルフィーリイはつづけた。「まだまだ先は長いですよ。減刑の必要がないなんて、何を言うんです! 気短かな人ですねえ、あなたも?」
「先に何があるんです?」
「生活ですよ! あなたはどういう予言者です、どれだけ見通しです? 求めるんです、そして見出すのです。神もあなたにそれを期待していたのかもしれません。それにあれだって永久というわけじゃないし、つまり鎖ですがね……」
「減刑がある……」ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「どうしました、ブルジョア的恥辱が恐かったんですか、え? そりゃ、おそらく、恐かったでしょうよ、自分ではそれに気付かなくてもね、──若いからですよ! でも、自首を恐れたり、恥ずかしがったりするのは、どう見てもあなたの柄じゃなさそうですがねえ!」
「ええッ、けたくそわるい!」と、口をきくのもいやだという様子で、ラスコーリニコフは気色わるそうに侮辱をこめて言った。
彼はどこかへ出て行こうとでもするように、また立ち上がりかけたが、ありありと絶望の色をうかべて、また腰を下ろした。
「その態度が、けたくそわるいというものですよ! あなたは自分を信じられなくなってしまったから、わたしが下手な嬉しがらせを言ったみたいに、考えるんです。あなたはこれまでどれだけ生活して来ました? どれだけものごとを理解しています? 一つの理論を考え出したが、それが崩れ去り、ごく月並な結果になったので、恥ずかしくなった! 卑劣な結果に終ったこと、それは確かだが、でもやはりあなたは望みのない卑怯者ではない。決してそんな卑怯者じゃない! 少なくともいつまでもぐずぐず逆らっていないで、ひと思いに最後の柱まで突進した。わたしがあなたをどう見てると思います? わたしはあなたがこういう人間だと思っているのです。信仰か神が見出されさえすれば、たとい腸をえぐりとられようと、毅然として立ち、笑って迫害者どもを見ているような人間です。だから、見出すことです、そして生きていきなさい。あなたは、まず第一に、もうとっくに空気を変える必要があったのです。なあに、苦しみもいいことです。苦しみなさい。ミコライも、苦しみを望むのは、正しいことかもしれません。信じられないのは、わかります、だが、小ざかしく利口ぶってはいけません。ごちゃごちゃ考えないで、いきなり生活に身を委ねることです。心配はいりません、──まっすぐ岸へはこばれ、ちゃんと立たせられます。どんな岸ですって? それはどうしてわたしにわかります? わたしは、あなたにまだまだ多くの生活があることを、信じているだけです。あなたがいまわたしの言葉をそらおぼえのお説教と思っていることも、わかります。でも、いつかは思い出し、役に立つこともあるでしょう。そう思えばこそ、こうしてしゃべっているのです。あなたは老婆を殺しただけだから、まだよかった。もし別な理論でも考えだしていたら、下手すると、まだまだ千万倍も醜悪なことをしでかしていたかもしれません! これでも、神に感謝しなきゃいけないのかもしれませんよ。どうしてわかります、ひょっとしたら、神はそのためにあなたを守ってくださるのかもしれん。大きな心をもって、できるだけ恐れないようにすることです。偉大な実行を目前にして怯気づいたのですか? いやいや、ここまで来て尻込みしては恥ですよ。あのような一歩を踏み出したからには、勇気を出しなさい。そこにあるのはもう正義ですよ。さあ、正義の要求することを、実行するのです。あなたが信じていないのは、わかっています。が、大丈夫です、生活が導いてくれます。いまに自分でも好きになりますよ。いまのあなたには空気だけが必要なのです、空気です、空気ですよ!」
ラスコーリニコフはぎくっとした。
「いったい、あなたは何者です」と彼は叫んだ。「あなたはどういう予言者です? 高いところから、えらそうに落ち着きはらって、利口ぶった予言をするじゃありませんか?」
「わたしが何者かって? もう終ってしまった人間、それだけのことですよ。おそらく、感じもするし、同情もするでしょう、いくらか知識もあるでしょう、だが、もう完全に終ってしまった人間です。だがあなたは──別です。あなたには神が生活を用意してくれました(もっとも、あなたの場合も、けむりのように流れ去ってしまって、もう何も来ないかもしれない。それは誰にもわかりませんがね)。あなたが別な種類の人間の中へ移って行ったところで、それが何でしょう? あなたのような心をもっている人間が、安逸を惜しむわけもないでしょう? おそらく、かなり長い間誰にも会わないことになるでしょうが、そんなことが何です? 問題は時間にあるのではなく、あなた自身の中にあるのです。太陽になりなさい、そしたらみんながあなたを仰ぎ見るでしょう。太陽はまず第一に太陽であらねばなりません。あなたはまた笑いましたね、何がおかしいんです、わたしがこんなシラー調になったからですか? 賭けをしてもいいですよ、あなたはきっと、わたしがいまお世辞をつかっているとお思いでしょう、へ! へ! へ! あなたは、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしの言葉なんか、まあね、信じなくていいんですよ、これからだって、決して信じることはありませんよ、──これがわたしの習癖なんだから、まあいいでしょう。一言だけつけ加えておきますが、わたしがどれほど程度の低い人間で、同時にどれほど正直な人間か、あなたは判断できるはずですよ!」
「あなたはぼくをいつ逮捕するつもりです?」
「そうね、あと一日二日はまだ散歩させてあげましょう。まあ、よく考えるんですな、神に祈りなさい。そのほうが有利ですよ、嘘は言いません。ずっと有利ですよ」
「だが、ぼくが逃げたらどうします?」何か異様なうす笑いをうかべながら、ラスコーリニコフは言った。
「いや、逃げませんよ。百姓なら逃げるでしょう、流行の分離派信徒なら逃げるでしょう、──他人の思想の下僕ですからな。ドゥイルカ海軍少尉じゃないが、指の先をちょっと見せただけで、もう死ぬまでどんなことでも信じさせることができるような連中ですよ。だがあなたはもうあなたの理論を信じないはずです、──そのあなたがいったいなんのために逃げるんです? それに、逃げて何を求めようというのです? 逃亡生活はいやな苦しいものです、しかもあなたに何よりも必要なものは生活です、はっきり定まった境遇です、適わしい空気です。どうです、逃げた先にあなたの空気があるでしょうか? 逃げても、自分でもどって来ますよ。われわれを離れては、あなたはどうすることもできない人です、あなたを牢獄につなげば、──まあ一月か、二月、三月もすれば、とつぜんわたしの言葉を思い出して、進んで自白するようになります、それも、おそらく、自分でも思いがけなく突発的にです。一時間まえまで、自白しようとは自分でもわからないでしょう。わたしは確信さえもっています、あなたはきっと《苦しみを受けようという気になる》にちがいありません。いまはわたしの言葉を信じませんが、やがてそれに注意をとめるようになります。なぜなら、ロジオン・ロマーヌイチ、苦悩というものは偉大なものだからです。わたしがでくでく肥ってるからって、皮肉な目で見ないでください、それとこれは別ですよ、ちゃんと知ってるんですよ。そんなことを笑っちゃいけませんよ。苦悩には思想があります。ミコライは正しいのです。いいえ、あなたは逃げませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」
ラスコーリニコフは立ち上がって、帽子をつかんだ。ポルフィーリイ・ペトローヴィチも立ち上がった。
「散歩にお出かけですか? いい夕暮れになるでしょう、雷雨が来なきゃいいが。もっとも、来たほうがいいかもしれん、すがすがしくなる……」
彼も帽子を手にとった。
「ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、一人合点はしないでくださいよ」とラスコーリニコフはきびしいしつこさで言った。「ぼくが今日あなたに告白したなどと。あなたが奇妙な人間だから、おもしろくて聞いていただけですよ。ぼくは何も告白はしなかった……これをおぼえていてください」
「いや、それはもうわかってますよ、おぼえておきましょう、──おや、ふるえているじゃありませんか。心配はいりませんよ、あなたの心のままですから。すこし散歩してらっしゃい、ただあまり散歩がすぎると毒ですがね。さて、万一ということがありますので、もう一つだけお願いがあるのですが」と彼は声をおとして、つけ加えた。「これはごくデリケートな言いにくいことですが、しかし大切なので。もし、万一ですよ(もっとも、こんなことはわたしは信じていませんし、あなたがそんなことができるとは、ぜんぜん思っていませんが)もし何かのはずみで──その、万が一ですね──この四十時間から五十時間のあいだに、ひょっと別な、つまりファンタスチックな方法で結末をつけようなどという考えが浮ぶようなことがあったら、──つまり、自分に手を下そう、なんてですね(こんなばからしいことを考えて、まあ、お許しください)、そのときは──ほんの簡単でいいですから、要領のいい手記をのこしていただきたいのですが。そう、二行、二行だけで結構です、そして石のこともお忘れなく。そのほうがずっとりっぱですから。じゃ、さようなら……いい試案としあわせな首途(かどで)を祈ります!」
ポルフィーリイは妙に背をかがめて、ラスコーリニコフの目をさけるようにしながら、出て行った。ラスコーリニコフは窓辺に近よって、追い立てられるような苛立たしい思いで、胸の中の時間をはかりながら客が通りへ出て遠ざかって行くのを待った。それから自分も急いで部屋を出て行った。
3
彼はスヴィドリガイロフのところへ急いでいた。この男から何を期待できるのか──彼は自分でもわからなかった。しかしこの男には彼を支配する何ものかがひそんでいた。彼は一度それを意識してからは、もう平静でいることができなかった。そしていまそれを解決するときが来たのである。
途々一つの疑問が特に彼を苦しめた。スヴィドリガイロフはポルフィーリイを訪ねたろうか?
彼が判断し得たかぎりでは、しかも誓ってもいいとさえ思ったのは──いや、行っていない、ということだった。彼は何度も何度も考えてみた、さっきのポルフィーリイの態度をすっかり思い返して、いろいろと思い合せてみた。いや、行っていない、たしかに行っていない!
だが、まだ行っていないとすれば、彼はこれからポルフィーリイのところへ行くだろうか、行かないだろうか?
いまのところ、彼は行かないだろうという気がしていた。なぜか? その理由も、彼は説明ができなかったろう、しかし仮にできたにしても、いまの彼はそれにわざわざ頭を痛めるようなことはしなかったにちがいない。そうしたすべてのことに苦しめられてはいたが、同時に彼はなんとなくそんなことにかまっていられない気持だった。奇妙な話で、おそらく誰も信じないかもしれないが、彼はどういうものかいま目のまえに迫った自分の運命に、気のない散漫な注意しかはらわなかった。彼を苦しめていたのは、それとは別な、はるかに重大な、どえらいもの──彼自身のことで、他の誰のことでもないが、何か別なもの、何か重大なものだった。それに、彼の理性が今朝は最近の数日に比べてよくはたらいていたとはいえ、彼は限りのない精神の疲労を感じていた。
それに、ああいうことが起ってしまったいまとなって、こんな新しいわずかばかりの障害を克服するために、苦労する必要があったろうか? 例えば、スヴィドリガイロフにポルフィーリイを訪ねさせないために、わざわざ策を弄する必要があったろうか? たかがスヴィドリガイロフくらいのために、調べたり、探り出したりして、時間をつぶす必要があったろうか?
いやいや、そんなことには、彼はもうあきあきしてしまっていた!
とはいえ、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。あの男から何か新しい指示か、出口かを期待していたのではないか? 一本の藁にでもすがれるものだ! 運命か、本能のようなものが、二人をひきよせるのか? もしかしたら、それはただの疲労だったかもしれぬ、絶望だったかもしれぬ。あるいは、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、他の誰かだったが、スヴィドリガイロフがたまたまそこにいただけかもしれぬ。ではソーニャか? だが、どうしていまソーニャのところへ行かなければならないのだ? また涙を請いにか? それに、彼にはソーニャが恐かった。ソーニャ自身が彼にはゆるがぬ判決であり、変えることのできない決定であった。そこには──彼女の道か、彼の道しかなかった。特にいまは、彼はソーニャに会える状態ではなかった。いや、それよりもスヴィドリガイロフに当ってみたほうがましではないか? あの男は何者だろう? たしかにあの男はどういう理由かで彼にはもうまえまえから必要な人間だったらしいことを、彼はひそかに認めないわけにはいかなかった。
だが、それにしても、彼らの間にはどんな通じあうものがあり得るのだ? 悪行でさえ彼らのは同質とは言い得ない。この男はそのうえひどい嫌われ者で、極端に身持ちがわるいし、ずるい嘘つきなことはたしかで、したたかの悪人かもしれない。とかくの噂のある男だ。もっとも、彼はカテリーナ・イワーノヴナの子供たちの世話はしてやった。しかし、それがなんのためで、どういう下心があるのか、誰が知ろう? この男にはいつもなんらかの意図と計画があった。
この数日の間ラスコーリニコフの頭にはたえずもう一つの考えがちらついて、彼をおそろしく不安にしていた。そして彼はその考えを追い払おうと空しい努力をつづけていた。それほどその考えは彼にとって重苦しいものだった! 彼はときどき、スヴィドリガイロフはたえず彼のまわりをうろついていたし、いまでもうろついている、スヴィドリガイロフは彼の秘密を嗅ぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに対して何かたくらんでいる、ということを考えた。で、いまもたくらんでいるとしたら? たくらんでいると思って、まずまちがいはない。そこで、もしいま、彼の秘密をにぎり、それによって彼を支配する力を手中におさめ、それをドゥーニャに対する武器に使用しようなどという考えを起されたら?
この考えはときどき、夢の中でさえ、彼を苦しめた。しかしそれがはっきり意識の上にあらわれたのは、スヴィドリガイロフのところへ行こうとしている、この今がはじめてだった。これを考えただけで、彼は暗い狂おしいまでの怒りにひきこまれた。第一に、そうなればもうすべてが変ってしまう、彼自身の立場さえ変ってくる。とすれば、いますぐドゥーネチカに秘密を打ち明けねばならぬ。もしかしたら、ドゥーネチカに不用意な一歩を踏み出させないために、自首するようなことになるかもしれない。手紙と言ったな? 今朝ドゥーニャがある手紙を受け取った! あれに手紙を出すような者がペテルブルグにいるだろうか?(まさかルージンが?)もっとも、ラズミーヒンが守っていてはくれるが、あの男は何も知らない。ラズミーヒンにも打ち明けるべきだろうか? ラスコーリニコフはこう思うと、嫌な気がした。
いずれにしても、できるだけ早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ、彼は腹の中でこう結論を下した。ありがたいことに、彼との対決ではこまごましたことは必要ではなかった。それよりも問題の本質だ。だが、もし、スヴィドリガイロフが卑劣なことしかできない男で、ドゥーニャに対して何かたくらんでいるとしたら、──そのときは……
ラスコーリニコフはこの頃ずっと、特にこの一月というものは、疲労しきっていたので、もうこのような問題はたった一つの方法以外では解決ができなくなっていた──《そのときは、やつを殺してやる》──彼は冷たい絶望をおぼえながらこう思った。重苦しい気持が彼の心を圧しつぶした。彼は通りの真ん中に立ちどまって、あたりを見まわした。どの通りを歩いて来たのだろう、ここはどこだろう? 彼はN通りに立っていた。そこはいま通って来たセンナヤ広場から三、四十歩のところだった。左手の建物の二階は全部居酒屋になっていた。窓はすっかり開け放されていた。窓にちらちら動く人影から判断すると、居酒屋は満員らしかった。広間には歌声が流れ、クラリネットやヴァイオリンが鳴り、トルコ太鼓の音が聞えていた。女の甲高い声も聞えた。彼は、なぜN通りへなど来たのだろうと、自分でも不思議な気がして、引き返そうとしたとたんに、居酒屋の端のほうの窓際に、窓に寄りかかるようにしてパイプをくわえながら、茶を飲んでいるスヴィドリガイロフを見た。彼ははっとして、思わず鳥肌立つような恐怖をおぼえた。スヴィドリガイロフは黙ってじいッとこちらをうかがっていたのである。そしてすぐにまた、ラスコーリニコフはもう一度はっとした。スヴィドリガイロフは気付かれないうちにそっと逃げようとしたらしく、そろそろと席を立つような気配を見せたのだ。ラスコーリニコフはとっさに、こちらも気がつかないような振りをして、ぼんやり脇のほうを見ながら、目の隅でじっと相手の観察をつづけた。胸があやしく騒いだ。そうだったのか、スヴィドリガイロフは明らかに見られたくないのだ。彼はパイプを口からはなして、いまにも姿をかくそうとした、が、腰を上げて、椅子を動かしたところで、不意に、ラスコーリニコフがじっとこちらを観察していることに気付いたらしい。彼らの間には、ラスコーリニコフが部屋でうとうとしていたときの最初の対面に似たような妙な場面がもち上がった。ずるそうなうす笑いがスヴィドリガイロフの顔にあらわれて、それがしだいに広がりはじめた。どちらも、互いに相手に気付いて、観察しあっていたことを、承知していた。とうとう、スヴィドリガイロフは大声を立てて笑いだした。
「さあ、さあ! よろしかったら、入ってらっしゃい。逃げませんよ!」と彼は窓から叫んだ。
ラスコーリニコフは居酒屋へ上がって行った。
彼はひどく小さい奥の部屋にいた。窓が一つしかなく、仕切りの向うは大広間で、そちらには小さなテーブルが二十ほど置いてあり、歌うたいたちがやけっぱちにどなり立てる合唱を聞きながら、商人や、役人や、その他あらゆる種類の人々が茶を飲んでいた。どこからか球を撞く音が聞えていた。スヴィドリガイロフのまえのテーブルには、栓をぬいたシャンパンのびんが一本と、半分ほど飲みさしのコップがのっていた。部屋の中には彼のほかに、小さな手風琴をもった少年と、しまのスカートの裾をからげて、リボンのついたチロル帽をかぶった、十七、八の頬の赤い健康そうな歌うたいの娘がいた。娘は他の部屋の合唱に負けないで、手風琴の伴奏で、かなりかすれたコントラルトで、召使いの歌のようなものをうたっていた……
「もういい!」と、ラスコーリニコフが入って来ると、スヴィドリガイロフは娘に歌をやめさせた。
娘はすぐに歌をやめて、恭しく施しを待つ姿勢をとった。彼女はリズミカルな召使いの歌もなんとなくとりすました恭しい顔つきでうたっていたのだった。
「おい、フィリップ、コップを持って来い!」とスヴィドリガイロフがどなった。
「ぼくは飲みませんよ」とラスコーリニコフは言った。
「お好きなように、これはあなたのためじゃありませんよ。一杯いけ、カーチャ! 今日はもうこれでいい。帰れ!」
彼は娘のコップにシャンパンをなみなみと注いでやると、黄色い一ルーブリ紙幣を一枚とりだした。カーチャは女のぶどう酒の飲み方で、つまりコップを唇からはなさずに、二十口ばかりで休まずに飲みほすと、黄色い紙幣を受け取り、いかにももったいぶってさし出したスヴィドリガイロフの手に接吻して、部屋を出て行った。そのあとに手風琴をもった少年がつづいた。二人は通りから呼びこまれたのだった。スヴィドリガイロフはペテルブルグに来てまだ一週間にもならないのに、もう彼のまわりには家長制度のようなものができていた。居酒屋の給仕フィリップももうすっかり《馴染み》で、彼にぺこぺこしていた。広間へつづくドアも鍵がかけられるようになった。スヴィドリガイロフはこの部屋に旦那然とおさまり、何日も居つづけにしていたらしい。居酒屋は不潔できたならしく、二流とまでもいかなかった。
「ぼくはあなたを訪ねる途中だったんですよ、会いたいと思って」とラスコーリニコフは言いだした。「だが、いったいどうしてセンナヤからN通りへ曲ったんだろう! この通りへは一度も来たことがないんですよ。いつもセンナヤから右へ折れるんです。それにあなたのところへ行くにはこんなところは通らないし。ふっと曲ったら、あなたがいた! 実に不思議だ!」
「どうして率直に言わないんです、これは奇跡だ! と」
「これは単なる偶然かもしれないからですよ」
「まったく、この人たちってどうしてこういう性分なのかねえ!」スヴィドリガイロフは声を立てて笑った。「心の中では奇跡を信じていても、口に出しては言わない! 自分でちゃんと、単なる奇跡《かもしれない》って言ってるじゃありませんか。自分の個人的な意見ということになると、この国の連中はそろいもそろってどれほど臆病か、あなたには想像もつきませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたのことじゃないですよ。あなたは独自の意見を持っているし、それを持つことを恐れなかった。だからわたしは興味を持ったんですよ」
「それだけですか?」
「だって、それだけでも十分じゃありませんか」
スヴィドリガイロフは興奮しているらしかった、が、それもほんのわずかだった。酒もコップに半分くらいしか飲んでいなかった。
「たしか、あなたがぼくのところへ来たのは、ぼくがあなたの言うその独自の意見とやらを持つ能力のあることを、知るまえだったと思いますが」とラスコーリニコフは意見をはさんだ。
「いや、あれは別ですよ。誰にでも自分の行動というものがありますからな。ところで、奇跡ついでですが、あなたはこの二、三日眠ってばかりいたらしいですな。この居酒屋はわたしがあなたにおしえたんですよ、だからあなたがまっすぐここへ来たことは、奇跡でもなんでもなかったんです。ここへ来る道すじも、この店のある場所も、丹念に説明しましたし、何時に来ればここにわたしがいるかまで、ちゃんとおしえたんですよ。おぼえてますか?」
「忘れてました」と、ラスコーリニコフはびっくりして答えた。
「そうでしょうな。わたしは二度あなたに言ったんですよ。アドレスがあなたの頭の中に機械的にきざみこまれたんです。あなたはこちらへ機械的に曲った、とはいえ、自分でも知らずに、ちゃんとおしえられたとおりの道をたどって来たわけです。あのときあなたにしゃべりながら、まさかわかってもらえるとは思わなかった。どうもあなたはあまりにも尻っぽを出しすぎますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。それからもう一つ、ペテルブルグには歩きながらひとり言を言う人間が、実に多いですな、ほんとですよ。これは半気ちがいどもの町ですよ。もしわが国に科学というものがあったら、医者も、法律学者も、哲学者も、それぞれの専門分野で、ペテルブルグを材料にして実に貴重な研究ができたでしょうなあ。人間の魂に対する陰鬱な、きびしい、そして不思議な影響というものが、ペテルブルグほど見られるところは、まず、めったにないでしょうな。気候の影響だけでもたいへんなものですよ! しかも、ここは全ロシアの行政の中心だから、この町の性格は当然国中に反映するわけです。でもいまは、そんなことじゃなく、わたしが言いたいのは、もう何度かそれとなくあなたを観察してきたということです。あなたは家を出るときは、──まだ頭をまっすぐに保っています。が、二十歩ほど行くと、もううなだれて、両手を背に組んでいる。目はあいているが、前方も、両側も、もう何も目に入らない。そのうちに、唇をもぞもぞ動かして、ひとり言を言いはじめる。そしてときどき片手を振りまわして、演説口調でやらかす。しまいに道の真ん中に立ちどまって、長いこと突っ立っている。これはまったく感心しませんな。わたし以外の誰かに見とがめられるおそれがあるし、そうなるとひどく不利ですよ。わたしには、実際の話が、どうでもいいことですがね、別にあなたを治してやれるわけじゃないから。でも、もちろん、わたしの言うことがおわかりでしょうな」
「でもあなたは、ぼくが尾行されてることを知っているでしょう?」と、ためすような目で相手を凝視しながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、ぜんぜん知りませんよ」とおどろいたようにスヴィドリガイロフは答えた。
「へえ、じゃぼくにかまわんでくださいよ」と、ラスコーリニコフは眉をしかめて、呟くように言った。
「いいですよ、かまわんことにしましょう」
「それより、こっちがお聞きしたいのですが、あなたはよくここへ飲みに来られるし、ぼくにここを訪ねて来るように、わざわざ二度も言ったのなら、ですよ、いまぼくが通りから窓を見たとき、なぜあなたはかくれて、逃げようとしたんです? ぼくははっきり見ましたよ」
「へ! へ! じゃなぜあなたは、この間わたしがあなたの部屋に入りかけたら、ソファの上にねたまま目をつぶって、ぜんぜん眠ってもいないのに、眠ったふりをしたのかね? わたしははっきり見ましたよ」
「ぼくには理由があった……かもしれませんよ……あなたはそれを知ってるはずだ」
「わたしにだって、わたしなりの理由があったかもしれませんよ、あなたがわからないだけで……」
ラスコーリニコフは右肘をテーブルにつき、右手の指で顎を支えながら、じっとスヴィドリガイロフを見すえた。彼はこれまでもいつもおどろかされてきた相手の顔を、つくづくながめた。それは仮面を思わせるような、なんとも奇妙な顔だった。真っ白なところへ赤味がさし、唇は真っ赤で、明るい亜麻色のあごひげが生え、まだかなり豊かな髪も白っぽい亜麻色だった。目は妙に青すぎて、視線は妙に重苦しく、動かなすぎた。この美しい、年齢のわりにつるッとしすぎた顔には、人におそろしくいやな感じをあたえる何かがあった。着ている服はしゃれた軽い夏もので、特にシャツはしゃれていた。指には宝石をちりばめた大きな指輪が光っていた。
「ぼくはこのうえ、あなたまで相手にして、面倒な思いをしなきゃならんのですかねえ」ラスコーリニコフは発作的な焦燥にかられて、いきなり胸の内をぶちまけた。「たとえあなたが、敵にまわったら、もっとも危険な人物かもしれない、としてもですね、ぼくはもうこれ以上自分を苦しめたくはない。あなたが、おそらく、考えているらしいほど、ぼくが自分を大事にしていない証拠を、いま見せてあげましょう。ことわっておきますが、ぼくがここへ来たのは、もしあなたがいまだに妹に対してもとのままの野心をもち、そのために最近発見したものの何かを種に脅迫しようと考えているなら、ぼくはあなたに獄に投じられるまえに、あなたを殺す、とはっきりあなたに宣言するためです。ぼくの言葉はたしかですよ。ぼくが約束を守れる人間であることは、あなたも知っているとおりです。次に、ぼくに何か言いたいことがあるなら──というのは、この間からあなたがぼくに何か言いたそうにしているのが、わかるからですよ──早く言ってください。時間が惜しいし、それに、おそらく、もうしばらくしたら手おくれになってしまいますよ」
「でも、どこへそんなに急いでいるんです?」と、好奇の目で相手を見まわしながら、スヴィドリガイロフは尋ねた。
「誰にでも自分の行動というものがありますよ」とラスコーリニコフは暗い声で、じりじりしながら言った。
「あなたはいま自分から率直を呼びかけておきながら、第一の質問に対してもう返答を拒否している」とスヴィドリガイロフは笑いながら注意をうながした。「あなたはいつも、わたしが何か目的をもっていると思っている、だからわたしが怪しく見えるのですよ。なに、あなたのような立場におかれれば、無理もないでしょうがね。なるほど、わたしはなんとかあなたと親密になりたいと思ってますよ、だからといって、苦労してまであなたの誤解をとく気にはなれませんなあ。骨折り損というものですよ、それにあなたと何か特別のことを話しあうなんて、そんなつもりは毛頭ありませんしな」
「じゃなぜあのときあんなにぼくが必要だったのです? しきりにぼくのまわりをうろうろしたじゃありませんか?」
「なに、ただ観察のための興味ある対象としてですよ。幻想的といいますか、あんな奇妙な立場をもつあなたがすっかり気に入りましてな、──そのためですよ! 加えて、あなたは、わたしがひどく関心をもった女性のお兄さんで、もう一つ言えば、その女性からかつてあなたの噂をさかんに聞かされましてね、あなたが彼女に大きな影響力をもっている、とこう断定したからですよ。まだ足りませんかな? へ、へ、へ! もっとも、実を言うと、あなたの質問がわたしにはあまりにも複雑で、返答に窮しているんですよ。現に、言ってみればですよ、いまこうしてわたしのところへ来たのも、用件もあるでしょうが、それより何か新しいことを探り出すためでしょう? そうじゃありませんか? 図星でしょう?」とスヴィドリガイロフはずるそうなうす笑いをうかべながら念をおした。「それがどうでしょう、実はわたしもこちらへ来る途中、汽車の中で、あなたも何か新しいことを言ってくれるだろうから、そしたらその中の何かを借用できるかも知れない、とこう期待したわけですよ! まったくわたしたちは物持ちですなあ!」
「何を借用するんです?」
「さあ、なんと言ったらいいですかな? そんなことがわたしにわかりますか? このとおり、こんな居酒屋にのべつしけこんでいるんですからな。でもこれがわたしには楽しみなんですよ、いや、楽しみといっちゃなんですが、とにかく、どこかに腰を落ち着けるとこがなきゃあね。まあ、あの哀れなカーチャでも──ごらんになったでしょう?……まあ、わたしがですね、口のおごったクラブの食通ででもあるなら、なんですが、ほら、こんなものが口に合うんですからねえ!(彼は部屋の隅の小さなテーブルを指さした。その上にはブリキの皿にひどいビフテキとじゃがいもの食いのこしがのっていた)。ところで、食事はすませましたか? わたしは軽くやりましたので、もうたくさんなのですが。酒だって、さっぱりやらないんですよ。シャンパンのほかはぜんぜん、そのシャンパンだって一晩に一本がせいぜいですが、これでもう頭が痛いというざまですよ。これは元気づけに持って来させたんですよ、これからあるところへ出かけようと思いましてね、だからごらんのとおり、いつになくにこにこしてるわけですよ。さっき小学生みたいにかくれたのは、出がけに邪魔されては、と思ったからですが、どうやら(彼は時計を出して見た)いま四時半だから、一時間くらいはお相手できそうです。まったく、何かしごとがあるといいんですがねえ、地主だとか、一家の主人だとか、槍騎兵、写真家、雑誌記者、なんでもいいですよ……それがぜんぜん、なんの専門もない! ときには退屈になることだってありますよ。ほんとに、あなたが何か耳新しいことを聞かせてくれるものと、思っていたんですよ」
「いったいあなたは何者なんです、なんのためにペテルブルグへ来たんです?」
「わたしが何者かって? ご存じでしょう、貴族で、騎兵連隊に二年勤めまして、それからこんなふうにペテルブルグでのらくらしていて、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎で暮しました。これがわたしの履歴ですよ!」
「あなたは賭博者(ばくちうち)でしょう?」
「いいえ、ちがいますね。いかさま師ですよ──賭博者じゃありませんな」
「じゃ、あなたはいかさま師だったんですか?」
「そのとおり、いかさま師でしたよ」
「じゃなんですか、殴られたことがあるでしょう?」
「ありましたよ、それで?」
「そう、じゃ決闘を申し込むこともできたわけだ……とにかく、生活に活気がでますよ」
「反対はしませんよ、なにしろ哲学が苦手なんでね。白状しますと、ここへ来たのは、どっちかといえば、むしろ女のためなんですよ」
「マルファ・ペトローヴナの葬式もそこそこにですか?」
「まあね」と、スヴィドリガイロフは相手を呑んだようにずばりと言って、にやっと笑った。「それがどうしました? わたしが女のことをこんなふうに言うのを、あなたは何か悪い意味にとっているらしいですな?」
「つまり、ぼくが淫蕩を悪と見るかどうか、ということですか?」
「淫蕩を! へえ、いきなり飛躍しましたね! とにかく、順序としてまず女一般についてお答えしましょう。どういうんですか、妙におしゃべりがしたいんですよ。さて、なんのためにわたしは自分を抑揚しなきゃならんのでしょう? わたしが女好きとしたらですよ、いったいどうして女をすてなきゃならんのでしょう? 少なくともしごとですからね、これも」
「じゃ、あなたはここで淫蕩だけを期待してるんですね!」
「それがどうしたというんです。そりゃ淫蕩も期待してますよ! あんた方には淫蕩がよほど興味の的らしいですな。わたしはまわりくどいことは嫌いです。この淫蕩というものには少なくとも、むしろ自然に基礎をおいた、空想に毒されない、いつも変らない何ものかがありますよ。血の中でいつも燃えている炭火みたいなもので、これがたえず焼き立てる、そしていつまでも、年をとっても、消すのはなかなかの骨らしいですな。どうです、これも一種のしごとじゃありませんかな?」
「何をそんなに嬉しがるんです? これは病気ですよ、しかも危険な」
「おや、また飛躍しましたね? これが病気だってことは、わたしも認めますよ、度を越えればなんでもそうですからな、──ところがこいつときたら、どうしても度を越えることになるんでねえ、──だがこいつは、第一に、人によってちがうんですよ。それから第二に、たとえ卑劣な男でも、何ごとにも度というもの、つまり計算ですな、これを守らにゃいかんのはもちろんですよ、といって、いったいどうしたらいいんです? こいつがなかったら、ピストル自殺でもするほかはないじゃありませんか。礼儀正しい人間は退屈する義務がある、賛成ですな、ところが、やっぱり……」
「で、あなたはピストル自殺ができるでしょうか?」
「またはじめた!」とスヴィドリガイロフは嫌な顔をして、話をそらした。「頼むから、そういうことは言わないでください」と彼は急いでつけ加えた。その口調はがらりと変って、いままでの言葉のはしばしにうかがわれたえらぶった様子はすっかり消えていた。顔つきまで変ったかに見えた。「白状しますが、わたしには実にけしからん弱味がありましてな。でもこればかりはどうしようもない。実は、死が恐くて、死の話をされるのが嫌なんですよ。わたしは多少迷信に弱いところがあるんですな!」
「ああ! マルファ・ペトローヴナの亡霊ですか! どうです、まだ出ますか?」
「またそんな、よしてください。ペテルブルグではまだ出ません。あんなもの糞くらえだ!」と彼は妙に苛々した様子で叫んだ。「いや、それよりあの話を……でも、まあ……フム! ええ、時間がなくて、あまりお相手できないのが、残念ですな! お話しておきたいことがあるんですが」
「何です、女とでも会うんですか?」
「そう、女です、まったく思いがけないことで……いや、そんなことはどうでもいい」
「じゃ、そうしたことのいまわしさがもうあなたには作用しないのですか? もう踏みとどまる力を失ったのですか?」
「あなたは力にも自信をお持ちですな? へ、へ、へ! おどろきましたよ、ロジオン・ロマーヌイチ、こんなこととは、あらかじめ承知はしていましたがね! あなたは淫蕩と美学についてわたしに講釈をなさる! あなたは──シラーですよ。あなたは──理想主義者ですよ! そりゃむろん、そういうことはそうあって当然ですし、そうなかったら、かえっておかしいでしょう、が、でも、やはり現実となるとどうも妙な気がしますねえ……ああ、時間がないのが、ほんとに残念ですよ、あなたはまったくおもしろい人だ! ついでですが、あなたはシラーが好きですか? わたしはひどく好きなんですよ」
「へえ、あなたはよくもまあ臆面もなく、えらそうな口をききますね!」とラスコーリニコフはいささか気色わるそうに言った。
「これはひどい、決して、そんなことはありませんよ!」とスヴィドリガイロフは笑いながら答えた。「しかし、口論はしませんよ、えらそうな口で結構。でも罪がなきゃ、えらそうな口をきいても、別にかまわないじゃありませんか。なにしろ、七年もマルファ・ペトローヴナの田舎にひっこもっていて、いまあなたのような聡明な方に出会ったものだから──、聡明で、しかも最高に興味ある、ね、──しゃべるのが無性にうれしいんですよ。おまけに、酒をコップ半分ほど飲んで、もうちょっぴり頭にきてるんですよ。それより、わたしをひどく元気づけたある事情があるんですが、それは……言わんことにしましょう。あなたはどこへ行きます?」と不意に、スヴィドリガイロフはびっくりして尋ねた。
ラスコーリニコフは席を立ちかけた。彼は胸が重苦しく、息がつまりそうになって、ここへ来たのが妙に気詰りになった。彼は、スヴィドリガイロフがこの世でもっとも愚かなつまらない悪党であると、確信したのである。
「まあ、まあ! おかけください、もうしばらくいいじゃありませんか」とスヴィドリガイロフは頼むようにしてひきとめた。「まあ、お茶でもいかがです、勝手に注文してください。さあ、おかけになって、つまらんおしゃべりはよしますよ、ぐち話はね。何か別なことを話しましょう。そう、なんでしたら、ある女が、あなたの言葉を借りれば、わたしを《救ってくれた》話をしましょうか? これはあなたの第一の質問に対する返答にもなるはずです。だってその女というのが──あなたの妹さんですから。話しましょうか? まあ、時間をつぶしましょうや」
「話してください、でも、まさか……」
「おお、その心配はいりませんよ! なにしろアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、わたしのようなこんないやらしい愚かな男にさえ、深い尊敬の気持しか抱かせないようなお方ですからな」
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「多分、ご存じと思いますが(そうそう、これは自分であなたに話したっけ)」とスヴィドリガイロフは話しはじめた。「わたしはここで莫大な借金をこさえて、ぜんぜん払うあてもなく、監獄にぶちこまれたことがあります。いまここでそのいきさつをくだくだと言う必要もありませんが、そのときマルファ・ペトローヴナが借金の肩代りをしてくれたわけです。まったく、女というものはどうかするとすっかり目がくらんで、途方もないばかなことに血道を上げるものです。あれは正直で、頭も決して悪くない女でした(もっとも、教育はぜんぜんありませんでしたが)。まあ、どうでしょう、この極度に嫉妬深い誠実な女が、さんざん逆上してみたり、詰ってみたりした挙句にですよ、見栄をすててわたしとある種の契約を結ぶ決心をしたのですよ、そしてそれをわたしたちの結婚生活の間中ちゃんと実行しました。というのも、あれはわたしよりかなり年上でしたし、おまけに、口臭がひどかったというひけめがあったせいですがね。わたしは心の中に多分にみにくい欲望を持っていたし、わたしなりの潔癖さがあったので、あれに完全に操を立てとおすことはできないと、はっきり宣言しました。そう言われると、あれは気ちがいみたいに怒りましたが、しかしこのわたしの乱暴な率直さが、ある意味ではあれの気に入ったようでした。《まえもってこうことわるところを見ると、嘘を言うのが嫌なんだわ》というわけです、──まあ、嫉妬深い女にはこれが一番ですよ。長いこと泣いたりほえたりした挙句、わたしたちの間にはこんな口約ができ上がりました。第一に、わたしは決してマルファ・ペトローヴナを捨てず、永久に彼女の良人であること、第二は、彼女の許可なしにどこへも遠出しないこと、第三、決してきまった愛人は持たないこと、第四、その代りマルファ・ペトローヴナはわたしがときどき小間使いにいたずらするのは大目に見るが、その場合は必ずあれの内諾を得ること、第五、どんなことがあっても同階級の女を愛してはならないこと、第六、そういうことはあっては困るが、何か大きな深刻な情熱にとらわれたような場合は、必ずマルファ・ペトローヴナに打ち明けること、というのでした。もっとも、この最後の項目については、マルファ・ペトローヴナはいつも安心しきっていたようですがね。あれは利口な女でしたから、わたしを、深刻に愛するなどということのできない浮気な放蕩者としか、思われなかったのでしょう。しかし利口な女と嫉妬深い女というものは──二人のちがう女で、ここに災厄の種があるんですよ。しかし、ある種の人々を公平に判断するためには、つまらぬ先入観や、普通わたしたちをとりまいている人々や事物に対する日常の習慣的な見方というものを、まず捨てることが必要です。他の誰よりも、あなたの判断に、わたしは期待する権利があります。というのは、あなたはもうマルファ・ペトローヴナについて滑稽なことやばからしいことを、いろいろと聞いているにちがいないからです。たしかに、あれには実に滑稽な癖がいくつもありました。しかし、かくさずに言いますが、わたしがもとであれに何度となく悲しい思いをさせたことを、わたしは心から悔んでいるんです。まあ、よしましょう、やさしい妻に対するやさしい良人のげにもふさわしい oraison funebre(弔辞)は、このくらいでたくさんです。喧嘩をしたようなときは、わたしはたいてい沈黙を守って、いきり立たないようにつとめました、そしてこの紳士的な態度がいつもほぼ目的を達しました。それがあれに影響して、むしろそれを好いてくれたようでした。ときには、わたしを自慢にしたことさえありましたよ。しかし、あなたの妹さんには、やはり堪えられなかったんですね。それにしてもどうして、あんな美しい方を家庭教師に迎えるなんて、思いきったことをしたのだろう! わたしの考えでは、マルファ・ペトローヴナははげしい感じやすい女だから、自分がいきなりあなたの妹さんに惚れこんでしまったんだろうと思いますね、──文字どおり惚れこんだんですよ。うん、あの妹さんではねえ! わたしは、一目見て、これはまずいことになる、とはっきりさとりましたよ。そして、嘘だと思うかもしれませんが、──あの方を見ない決心をしたんですよ。ところがどうでしょう、あなたには信じられないかもしれませんが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナのほうから第一歩を踏み出したのです。これもまさかと思うでしょうが、マルファ・ペトローヴナは妹さんにすっかり夢中になってしまって、わたしがひとつも妹さんの噂をしない、あれがいくら妹さんのことをほめても返事をしないと言って、わたしを怒り出す始末です。あれの気持が、わたしにはさっぱりわかりません! マルファ・ペトローヴナは、もうむろん、わたしのことはすっかりアヴドーチヤ・ロマーノヴナに話していました。あれには、わたしたちの家庭の秘密をそれこそ誰にでも打ち明けて、たえずわたしのことをこぼすという、あわれな癖がありましてな。どうしてこの新しい美しい友を見逃すはずがありましょう? どうやら、二人の間には、わたし以外の話題はなかったようです、で、わたしのせいにされている、あらゆる暗い人聞きをはばかるような話が、アヴドーチヤ・ロマーノヴナの耳に入ったことは、もう疑いがありません……賭けをしてもいいですよ、あなたもきっとこうした類の話を何かお聞きになったでしょう?」
「聞きました。あなたがある女の子を死に追いやるようなことまでしたとかって、ルージンが非難していましたよ。ほんとうですか?」
「どうか、そういう下司なことは言わんでほしいですな」とスヴィドリガイロフは嫌な顔をして、不満そうに言った。「そうした阿呆くさい話をどうしても聞きたいとおっしゃるなら、いずれ改めてお話ししましょう、だがいまは……」
「また、村のあなたの下男の噂も聞きましたよ、これもあなたが何かの原因になっていたとか」
「どうか、もうやめてください!」とスヴィドリガイロフはまた露骨に苛々しながらさえぎった。
「それは死んでからあなたのパイプに煙草をつめに来たとかいう、その下男じゃありませんか……いつか自分でぼくにおしえた?」とラスコーリニコフはますます苛立ってきた。
スヴィドリガイロフは注意深くじっとラスコーリニコフを見た、すると相手の目の中に、毒々しいうす笑いが、稲妻のように、ちらと浮んだような気がした。しかしスヴィドリガイロフは自分を抑えて、至極ていねいに答えた。
「そう、その下男ですよ。どうやら、あなたもこうしたことにひどく興味をお持ちらしいですな、いいでしょう、そういう機械があり次第、あらゆる点にわたってあなたの好奇心を満足させてさしあげましょう。いやになりますよ! どうも、ほんとうにわたしは、誰やらの目には小説的な人間に見えるらしいですな。どうです、こうなると死んだマルファ・ペトローヴナにはどれほど感謝していいやらわかりませんな、なにしろあなたの妹さんにわたしのことをこれほど神秘的な興味ある人間として吹き込んでくれたんですからねえ。人の胸の中は判断できませんが、とにかくこれはわたしにとって有利でした。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは本能的にわたしを嫌っていましたし、わたしはわたしでいつも暗いいやな顔をしていましたが──それでもやはり、ついには、妹さんはわたしをあわれに思うようになりました。亡んでいく人間に対するあわれみです。娘の心にあわれみの気持が生れると、それが娘にとってもっとも危険なことは言うまでもありません。そうなるときっと《救って》やりたい、目をさまさせたい、もう一度立ち上がらせたい、もっと高尚な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に更生させたい、という気持になります、──まあ、こうした空想にふけるものですよ。わたしはとっさに、小鳥さん自分から網にとびこんでくるな、と見てとったから、こっちもその心構えをしたわけです。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、顔をしかめたようですね? 大丈夫ですよ、ご存じのように、大したこともなくすんだわけですから。(チエッ、やけに酒がすすむぞ!)実はね、わたしはいつも、はじめから、運命があなたの妹さんを二世紀か三世紀頃のどこかの領主か、王侯か、あるいは小アジアあたりの総督の娘に生れさせてくれなかったのを、残念に思っていたんですよ。あの方は、疑いもなく、どんな苦難にも堪え得た女性たちの一人になれたでしょうし、真っ赤に焼けたコテを胸に押しつけられても、にっこり笑っていられたにちがいありません。あの方は自分から進んでそうした苦難におもむかれたはずです、そして四世紀頃に生きていたら、エジプトの砂漠へ世を逃れて、木の根と陶酔と幻を食べて三十年、そこで暮したにちがいありません。あの方は早く誰かのためにどんな苦しみかを受けたいと、それだけを渇望しているのです、その苦しみをあたえなかったら、窓から飛び下りるかもしれません。わたしはラズミーヒン君とやらについて少し聞きました。思慮深い青年だそうですね(名は体をあらわす、ですか(注 ラズームというのは理知の意)、きっと神学生でしょう)、まあ妹さんを守らせたらいいでしょう。要するに、わたしは妹さんの気持が理解できたようだし、それを光栄と心得ています。だがあの頃は、つまりお知り合いになった当初ですがね、ご承知でしょうが、どうも軽はずみといいますか、考えが浅くなりがちで、観察をまちがったり、ありもしないものが見えたりするものです。チエッ、どうしてあの方はあんなに美しいんだ? わたしの罪じゃない! 要するに、あれはもうどうにも抑えのきかぬ欲情の爆発からはじまったんです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはおそろしいほど、聞いたことも見たこともないほど、清純な娘さんです。(いいですか、わたしはあなたの妹さんについてこのことをありのままの事実としてあなたに伝えるのですが、ほんとにあれほどの広い知識を持ちながらねえ、おかしいほどですよ、そしてこれがあのひとの妨げになるでしょうな)。その頃たまたま家にパラーシャという娘がいたんですよ。他の村から連れて来られたばかりの小間使いで、わたしははじめて見たわけですが、黒い瞳のとっても可愛らしい娘なんですが、頭のほうは嘘みたいに弱いんですよ。泣いて、邸中に聞えるような悲鳴を上げたものだから、いい恥をかかされましたよ。ある日、昼飯の後でしたが、わたしが庭の並木道に一人でいるところを見つけて、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが目をうるませながら、かわいそうなパラーシャにかまわないでくれと、わたしに要求したんです。二人きりで言葉を交わしたのは、これがおそらく最初だったでしょう。わたしは、もちろん、あの方の希望をかなえてやることを光栄と考えて、つとめて恐れ入ったような、穴があったら入りたいような素振りを見せましたよ。まあ、要するに、うまく芝居をしたわけですな。それから交渉がはじまりました。ひそかな話し合い、いましめ、さとし、嘆願、哀願、涙さえ流して、──信じられますか、涙さえ流したんですよ! まったくねえ、娘さんによっては、伝道に対する情熱がこうまではげしくなるものですよ! わたしは、もちろん、すべてを運命のせいにして、光明を渇望するようなふりをしました。そしてついに、婦人の心を屈服させる偉大な、しかもぜったいに外れのない手段を発動させました。この手段はぜったいに誰をも欺いたことがなく、一人の例外もなく、全女性に決定的な作用をするものです。この手段とは、誰でも知っている──例のお世辞というやつですよ。この世の中には正直ほど難かしいものはないし、お世辞ほどやさしいものはありません。もしも正直の中に百分の一でも嘘らしい音符がまじっていたら、たちまち不協和音が生れて、そのあとに来るのは──スキャンダルです。またその反対にお世辞はたとい最後の一音符まで嘘でかたまっていても、耳にこころよく、聞いていて悪い気持がしないものです。たといごつごつした満足でも、やはり満足にちがいはありませんよ。そしてどんな無茶なお世辞でも、必ず少なくとも半分はほんとうらしく思えるものです。しかもこれがどんな文化人でも、社会のどんな階層でもそうなんですよ。お世辞にかかっては尼さんだって誘惑されますよ。だから、普通の人々ならもう言うまでもありません。思い出すと、笑わずにはいられないんですが、あるとき、良人以外の男を男と思わず、子供たちの養育と慈善行為に身を捧げている貴婦人を誘惑したことがありましたよ。実に愉快でしたね。しかもなんのことはない、ころりですからねえ! 貴婦人はたしかに慈善家でしたよ、少なくとも自分で思っている程度にはね。わたしの戦術は簡単です、たえず婦人の貞節に粉砕されて、ただただそのまえにひれ伏していただけなんです。わたしは恥ずかしげもなくお世辞を並べました。そしてたまに握手を恵まれたりすると、ちらとまなざしをあたえられただけでも、すぐに、これは力ずくで婦人から奪ったのだ、婦人はさからった、あんなにさからったのだから、わたしがこんないけない男でなければ、きっと何も受けられなかったにちがいない、婦人は心が清らかなために、こちらのずるい計略が見破られないで、自分でも知らずに、心にもなくこんなことをしてしまったのだ、てなぐあいに自分を責めるわけです。結局、わたしは目的を達しました。ところがわが愛すべき貴婦人は、自分は貞節ですこしもけがれていない、あらゆる義務はちゃんと行なっている、ただまったく思いがけなく身をあたえてしまっただけだと、固く信じこんでいたわけです。だからわたしが最後に、わたしのいつわらぬ確信によれば、婦人もわたしと同じように快楽を求めていたのですね、と言ってやったときの、婦人の怒りようったらなかったですね。かわいそうなマルファ・ペトローヴナもお世辞にはおそろしく弱い女でした。だからわたしがその気にさえなれば、あれの生きている間にあれの全財産をわたしの名義に書きかえさせるくらい、わけなくできたんですよ。(しかし、まあずいぶん飲んで、よくしゃべりますなあ)。ところで、こんなことをいって、怒られると困りますが、この効果がアヴドーチヤ・ロマーノヴナにもあらわれはじめたんです。ところがわたしがばかで、気が急いたために、すっかりぶちこわしてしまったんですよ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはそれまでも何度か、(一度などは特に)わたしの目の表情をひどく嫌いました。こんなことが信じられますか? 要するに、わたしの目にはある種の炎がますますはげしく、不用意に燃え立ってきたわけで、これが妹さんを怯えさせるようになり、しまいには、それが嫌悪にかわってしまったわけです。こまごまという必要はありませんが、とにかくわたしたちは別れました。そこでわたしはまたばかなことをしたんですよ。あのひとのおしえやらさとしやらを思いきり乱暴に愚弄したわけです。パラーシャがまた登場しました。しかも彼女一人だけじゃありません、──要するに、またソドムがはじまったわけです。まったく、一度でいいからあなたに見せてあげたいくらいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、ときどき妹さんの目がどんなに美しくきらきら光るか! わたしはいますこし酔ってますよ、もうコップ一杯の酒を乾しましたからな、でもそんなことはなんでもありません、わたしはほんとのことを言ってるんです。その目をわたしは夢に見たんですよ、嘘じゃありませんよ。衣ずれの音を聞くと、もうがまんができませんでした。ほんとに、わたしは倒れるのではないかと思いました。わたしがこんなに狂うほど好きになれるとは、まさか思いもよりませんでした。要するに、なんとか和解したかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、どうでしょう、わたしが何をしたと思います? かっとなると人間はどこまでばかになれるものでしょう! かっとなったときは、決して何もしてはいけませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがほんとうは貧しい娘で(あッ、ごめんなさい、わたしは何も……でも、どうせ同じことじゃありませんか、ねえ、言おうとする意味が同じなんですから?)要するに、自分で働いて暮しているし、それに母とあなたの生活までみている(あッ、いけない、またいやな顔をなさいましたね……)ことを計算に入れて、わたしは有金を提供する決意をしたわけです(その頃でも、三万ルーブリくらいはなんとかすることができたので)、ただしこのペテルブルグへでもいいから、いっしょに逃げてくれという条件で。そこでわたしは永遠の愛、幸福等々を誓ったことは、言うまでもありません。信じられないでしょうが、わたしはもうすっかり愛に目がくらんでいたのです。マルファ・ペトローヴナを斬り殺すか、毒殺するかして、わたしと結婚して、と言ってくれたら、わたしは即座にそれを実行したでしょう! だが、すべてはあなたももうご存じのように、破局におわりました。そしてマルファ・ペトローヴナがあの卑劣きわまる小役人のルージンを持ち出して、結婚話をまとめかけたのを知ったとき、わたしの狂憤がどれほどであったかは、あなたにもわかってもらえると思います、──こんな結婚なら、わたしが提案したことと、本質的には同じことじゃありませんか、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? そうでしょう? どうやら、ひどく熱心に聞いてくれるようになりましたね……おもしろい青年だ……」
スヴィドリガイロフはじれったそうに拳骨でどしんとテーブルを叩いた。顔が真っ赤になった。いつのまにかちびりちびり飲みほしてしまった一杯か一杯半のシャンパンが、悪くきいてきたのを、ラスコーリニコフははっきり見てとった、──そしてこの機会を利用することに決めた。彼にはスヴィドリガイロフがなんとしても臭く思えてならなかった。
「なるほど、それを聞いてぼくは確信を深めましたね、あなたがこちらへ来たのは、妹のことが頭にあったからでしょう」と彼はもっとスヴィドリガイロフを苛々させてやろうという気持をかくさずに、ずばりと言ってのけた。
「えい、もうよしましょうよ」と、急に気がついたように、スヴィドリガイロフはあわてて言った。「もうあなたに話したじゃありませんか……それに、妹さんはわたしにがまんができないらしいし」
「そう、それはたしかですね、ほんとにがまんができないらしい、でもいまはそんなことは問題じゃありませんよ」
「じゃあなたもそう思いますか、がまんができないって?(スヴィドリガイロフは目をそばめて、あざけるようににやりと笑った)。あなたのおっしゃるように、たしかに妹さんはわたしを愛していません、しかしですよ、夫婦の間、あるいは恋人同士の間にあったことは、決して保証なさらんほうがいいでしょうな。そこには必ず、当人たちだけしか知らない、世界中の誰にも知られずにのこされている、秘密の片隅があるものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナがわたしを嫌悪の目で見ていたと、あなたは保証できますか?」
「あなたの話の中にでてきたいくつかの言葉、ちょっとした口のはしから、ぼくは、あなたがいまでもドゥーニャに対してあなたらしい目論見と、せっぱつまった計画を持っていることを認めますね。もちろん卑劣な計画にきまってます」
「なんですと! わたしがそんな言葉をもらしましたか?」と、不意にスヴィドリガイロフは、彼の計画の上につけられた形容詞には少しの注意もはらわずに、まるで子供みたいにびっくりした。
「そう、いまでももらしてますよ。でも、例えば何を、そんなに恐れているんです? どうしていま急におどろいたのです?」
「わたしが恐れている、おどろいた? あなたを恐れている? むしろあなたがわたしを恐れにゃならんでしょうな、cher ami(親愛なる友よ)おや、なんてばかなことを……どうも、酔いましたよ、自分でもわかります。また口をすべらせるところでしたよ。酒はやめた! おおい、水だ!」
彼はびんをつかんで、乱暴に窓の外へほうり投げた。フィリップが水を持ってきた。
「いまのはみなばかなたわごとですよ」とスヴィドリガイロフはタオルを濡らして、それを頭にのせながら、言った。「わたしは一言であなたをしゅんとさせて、あなたの疑惑をすっかりはらすことができますよ。例えばですね、わたしが結婚することを、ご存じですか?」
「それはもうまえにも言いましたよ」
「言いましたか? 忘れてました。でも、あのときはまだはっきりそうとは言わなかったはずです。だってまだ相手がいなかったし、ただそう思っていただけですもの。ところが、いまはもうちゃんと相手がいますし、話もきまったんです。いまもしのっぴきならぬ用件さえなければ、早速、無理にもお連れするんですが──あなたのご意見をうかがいたいと思いましてね。あッ、いけない! あと十分しかない。そら、時計をごらんなさい。でも、これは話しましょう、わたしの結婚ですがね、傑作なんですよ、一風変ってましてね、──おや、どこへ? また帰るつもりですか?」
「いや、もうこうなったら帰りません」
「帰らない、ぜったいに? さあどうですかな? あなたをお連れしますよ、それはほんとです、相手の娘を見せます、でもいまじゃありません、いまはもうじきあなたもお出かけでしょう。あなたは右、わたしは左です。あのレスリッヒ夫人をご存じですか? ほら、わたしがいま間借りしているあのレスリッヒ夫人ですよ、え? わかりますか? いやいや、あなたは何を考えてるんです、ほら、少女が、冬のさ中に、川へ身を投げたとかいう噂のある、あの夫人ですよ、──え、わかります? わかりますか? そう、その夫人が今度のことはすっかり世話してくれたんですよ。おまえさんもこれじゃ淋しいだろう、まあ気晴らしをなさいな、ってね。わたしはたしかに暗い、淋しい人間ですよ。どうです、にぎやかな男に見えますか? いや、陰気な人間ですよ。別に悪いことはしませんが、隅っこにもそっと坐っています。どうかすると三日も口をきかないことがあるんです。あのレスリッヒという女はしたたかな悪党ですよ。はっきり言いますが、こんなことを考えているんです。つまりわたしが飽きて、妻を捨てたらですね、妻をひきとって、よそへまわす、つまりわれわれの階級か、その少し上の誰かを見つけて押しつけようというわけです。あの女の言うのには、父親は老衰しきった退職官吏で、安楽椅子に坐ったきり、もう三年も足を動かしたことがないそうだし、母親は、なかなかもののわかった婦人で、いいお母さんだそうですよ。息子が一人どっかの県に勤めているが、仕送りはしてくれない。娘は嫁に行ったきり、訪ねて来ない。それでいて、自分の子供だけで足りないで、小さな甥を二人もひきとっている。末娘は女学校を中途でやめさせて、家へ連れもどした。この末娘が一カ月すると満十六になる、つまり一月すれば嫁にやれるというわけで、それをわたしの嫁にというんですよ。わたしたちは先方へ行ってみました。いや、実に滑稽でしたよ。わたしはこう自分を紹介しました、──地主で、妻に死なれ、由緒ある家柄で、これこれの親戚があり、財産がある、とね。わたしが五十歳で、先方が十六だからって、それがどうしたというんです? 誰がそんなことを気にします? どうです、ぐらッとなるじゃありませんか、え? うまい話でしょうが、は! は! 親父さんとおふくろさんを相手に、わたしが熱を入れて話しこんだところは、実際あなたに見せたかったですよ! そのときのわたしは、まあただでは見られませんな。娘が出てきて、ちょいと腰を屈めて会釈しましたが、あなた、どうでしょう、まだ裾の短い服を着て、まだかたい蕾ですよ。頬をそめて、朝やけみたいに、ぽっと顔を赤らめるじゃありませんか(むろん、もう聞かされていたわけですよ)。女の顔について、あなたはどんなご意見をお持ちか知りませんが、わたしに言わせれば、この十六歳という年ごろ、まだ子供っぽい目、おどおどした物腰、はじらいの涙、──これは美以上だと思いますな。しかもそれに加うるにですよ、その娘は絵に描いたように美しいんですよ。アストラカンのようにこまかく巻いて幾重にも垂れている明るい髪、ふっくらとやわらかい真っ赤な小さな唇、かわいらしい足、──素敵ですなあ!……こうして知り合いになると、わたしは家庭の都合で急ぐからと言ったんですよ、するとその翌日には、つまり一昨日ですな、もう婚約がきまって、祝福されたんですよ。それからは、わたしが行くと、すぐに彼女を膝の上に抱きあげて、はなそうとしない……だから、彼女は朝やけのようにぽっと頬をそめる、わたしはのべつ接吻をくりかえす。お母さんは、むろん、この方はおまえの良人となる人なんだよ、だからさからったりしちゃいけませんよ、とおしえこむ、要するに、天国ですよ! まあ、いまのこの婚約の状態のほうが、ほんとの話、良人になってからよりもいいかもしれませんて。ここにはいわゆる la nature et la verite!(自然さと誠実さ)というものがありますよ! は! は! わたしは彼女と二度ほど話しましたが、──どうしてなかなか利口な娘ですよ。ときどきそっとわたしを見るんですが、──まさに燃える瞳ってやつですよ。ねえ、顔はラファエロのマドンナに似ているんですよ。シスチナのマドンナは幻想的な顔、痴愚を装う悲しめる予言者みたいな顔をしてるでしょう、それに気がつきませんでしたか? まあ、そんな顔なんですよ。祝福を受けると、そのあくる日早速千五百ルーブリの支度金を持って行きました。金剛石の装飾品を一つ、真珠を一つ、それに銀の化粧箱──こんな大きさで、中にいろんなものが入っていて、これにはさすがのマドンナの顔も、嬉しさに真っ赤になりましたよ。昨日わたしは彼女を膝の上にのせたんですが、きっと、あまりにも無遠慮すぎたんでしょうな、──真っ赤になって、涙をぽとぽとこぼしましたよ、そしてとりみだすまいとして抑えているんだが、身体がかっかとほてっているんですよ。そのうち、みんなが席をはずして、しばらくの間二人きりになったんですが、いきなりわたしの首にとびついて(彼女がこんなことをしたのは、はじめてなんですよ)、小さな手でわたしを抱きしめ、接吻をしながら、素直で貞淑ないい妻になります、きっとあなたを幸福にします、生涯を、生活のすべてをあなたに捧げ、何もかもすっかり犠牲にします、そしてあなたからはただ一つ尊敬だけをよせていただけばそれで十分です、なんて誓うんです、そしてもうこれ以上《何も、何もいりません、どんな贈りものもなさらないでください》なんて言うじゃありませんか。どうです、こんな十六歳の天使のような娘と二人きりでいるとき、処女のはじらいに頬をそめ、目を感激の涙にうるませながら、こんな告白を聞かされてごらんなさいよ、──これが誘惑でなくて何でしょう。ぐらッとなるじゃありませんか! 男冥利に尽きるじゃありませんか、え? まあ、安くはないでしょう? え……どうです……まあ、わたしの許嫁のところへお連れしますよ……ただし、いまはまずいですがね!」
「つまり、その年齢と成長のおそるべき差があなたの情欲をそそるわけですね! しかし、あなたはほんとにそんな結婚をするつもりですか?」
「どうして? しますよ。誰だって自分のことは自分で考えますよ、そして誰よりも自分をうまく欺せる者が、誰よりも楽しく暮せるってわけですよ。は! は! どうしてあなたはそう善行とやらに驀進するんです? 大目に見てくださいよ、わたしは罪深い人間なんだから。へ! へ! へ!」
「でもあなたは、カテリーナ・イワーノヴナの子供たちを世話したじゃありませんか。しかし……しかし、あなたにはそれなりの理由があったんだ──なるほど、そうだったのか」
「子供はだいたい好きですよ、ひどく好きなんですよ」とスヴィドリガイロフは声を立てて笑いだした。「このことでは、実におもしろいエピソードが一つあるんですよ、それがいまだにつづいてるんですがね、なんならお話しましょうか。到着したその日に、わたしは早速方々の魔窟をうろつきました。なにしろ、七年ご無沙汰したわけですからな。あなたも多分お気づきでしょうが、むかし仲間の友人や知人たちとは、そうあわてて会おうという気にはならんのですよ。まあ、できるだけ長く、会わずにすまそうと思いましてね。実は、マルファ・ペトローヴナの村で、このさまざまな秘密の場所の思い出が、死ぬほどわたしを苦しめたんですよ。なにしろこの場所は、馴染みになれば、いろんな穴が見つかるんでねえ。こたえられませんよ! 誰も彼も酔っぱらっている。教育ある青年たちが退屈のあまり実りそうもない夢や妄想に情熱をもやして、片輪な理論におぼれていく。どこからともなくユダヤ人どもが集まって来て、金をさらってしまう。あとの連中は女と酒におぼれている。というわけで、到着するとすぐに、この町はわたしの顔になつかしい匂いを吹きかけてくれたんですよ。わたしはある舞踏会と称するものへ迷いこみました、──恐ろしく不潔な店です(なにしろわたしは魔窟はきたないほど好きでしてな)。もちろん、カンカン踊りをやってましたよ、とてもほかでは見られないし、われわれの時代にはなかったやつです。うん、ここにも進歩があるわけだ。ふと見ると、かわいらしい衣装をつけた十三ばかりの少女が、達者な男と向きあって、踊っている。壁際の椅子に母親がちょこんと坐っている。それが、どんなカンカンか、あなたにはとても想像もつかんでしょうな! 少女はどぎまぎして、顔を赤らめていましたが、しまいに恥ずかしがって、泣き出してしまいました。男は少女を抱き上げて、くるくるまわしながら、そのまえでいろいろな格好をして見せるんです、まわりがどっと笑い立てます、──こんなとき、たとえそれがカンカンファンのような連中でも、わあわあ笑ったり騒いだりしている人々を見るのが、わたしは好きなんですよ。《うまい。そこだ! 子供はおことわりだ!》なんてどなっています。わたしはまっぴらですね、しかし目にかどを立てることもありませんよ、論理的にせよ、非論理的にせよ、みんな楽しんでるわけですからな! わたしはすぐに一計を案じて、母親のそばに坐りこみ、わたしもよそから来た者だが、という話から、ここにいるのはどいつもこいつも教養のない連中ばかりで、真の才能というものの見分けがつかないから、相応の尊敬をはらうこともできないのだ、などと言って、金があることを匂わし、馬車で送ることを申し出たわけです。家まで送って、知り合いになりました。(田舎から出て来たばかりで、小さな部屋に間借りしてるんです)。わたしと知り合いになれたことを、母親も娘も光栄と以外には考えられません、というようなことを言いました。聞いてみると、まったくの無一文で、どこかの役所に何かの運動をするために出て来たとのことで、わたしは骨を折ってあげることと、金銭の援助をすることを申し出ました。母娘はほんとうにダンスを教えてくれるのかと思って、あんなこととは知らずに舞踏会へ行ったそうです。そこで娘さんのフランス語とダンスの教育を援助しましょうと申し出ると、母娘は光栄の至りですと、喜んで受けてくれましたよ。いまでも、交際しています……何なら、お連れしましょうか、──ただし、いまはだめですよ」
「やめてください、そんな卑劣な、下等な話は聞きたくありません、あなたはなんというだらけきった、下司な、好色な人間なんだろう!」
「シラーですな、わが愛すべきシラー、まさにシラーですよ! Ou va-t-elle la vertu se nicher?(美徳の巣くわぬところいずこにかある?)実はね、わざとこんな話をするんですよ、あなたの叫び声が聞きたくてね。いい気持ですよ!」
「そりゃそうでしょうよ。こんなときの自分が、ぼく自身にも滑稽でないと思いますか?」とラスコーリニコフは意地悪くつぶやいた。
スヴィドリガイロフは大口をあいて笑った。やがて彼は、フィリップを呼んで、勘定をすますと、席を立ちかけた。
「やれやれ、酔いましたな、assez cause!(おしゃべりはもうたくさんだ!)」と彼は言った、「いや、実に愉快でした!」
「そりゃ、愉快でないはずがないでしょうよ」とラスコーリニコフも腰を上げながら、とげとげしく言った。「歴戦の色事師がですよ、何か怪しげな下心を持って、こんな情事の話をすることが、楽しくないはずがありませんよ、おまけにこんな事情の下に、ぼくのような男にするんですからな……燃えるわけですよ」
「ほう、もしそうなら」とスヴィドリガイロフはいくらかおどろいた様子で、ラスコーリニコフをじろじろ見まわしながら、答えた。「もしそうなら、あなたもかなりの冷笑家(シニック)だ。少なくとも素質は大いにある。多くのものを認識できる、多く……それに実行もできる。でも、まあよしましょう。あまり話ができなかったのが、実に残念ですな、でもあなたはわたしから逃げられませんよ……まあ、しばらく待つんですな……」
スヴィドリガイロフは居酒屋から出て行った。ラスコーリニコフはそのあとにつづいた。スヴィドリガイロフは、しかし、それほど酔ってはいなかった。一時ちょっと頭にきただけで、酔いはしだいにさめていった。彼は何かひどく気になることがあるらしかった、何かきわめて重大なことらしく、気難かしい顔をしていた。何かの期待が彼の胸を騒がせ、不安にしているらしかった。ラスコーリニコフに対しても、おわり頃どういうわけか急に態度が変って、彼は急速に乱暴なさげすむような態度になった。ラスコーリニコフもそれに気付いて、やはり不安になった。彼にはスヴィドリガイロフがいよいよ疑わしく思われてきて、あとをつけてみることに決めた。
歩道に出た。
「あなたは右、わたしは左ですよ、それとも、反対かな、いずれにしても── adieu, mon plaisir.(さらば、わが喜びよ)ではまたお会いしましょう!」
そして彼は右へ折れてセンナヤ広場のほうへ歩きだした。
5
ラスコーリニコフは彼のあとについて行った。
「どうしたんです!」と、振り向きながら、スヴィドリガイロフは叫んだ。「わたしは言ったはずですよ……」
「どうもしませんよ、ぼくはもうあなたからはなれないということですよ」
「なんですと?」
二人とも立ちどまって、互いに相手の腹をさぐるように、一分ほどじっと目と目を見交わした。
「あなたがいま酔い半分でまくしたてた話から」とラスコーリニコフは鋭くはねのけるように言った。「あなたがぼくの妹に対する卑劣きわまる計画を捨てていないどころか、かえってまえよりも強くそれに没頭していることを、ぼくははっきりと見てとったのです。ぼくは今朝妹がある手紙を受け取ったことを知ってます。さっきあなたはなんとなく腰が落ち着かない様子だった……よしんば、あなたが途中どこかで妻を掘り出すことができたとしても、そんなことはなんの意味もありません。ぼくはこの目でたしかめたいんです……」
ラスコーリニコフは、自分がいま何を望んでいるのか、自分の目で何をたしかめようというのか、自分でもほとんどわからなかった。
「そうかね! お望みなら、すぐに警察を呼びますよ?」
「呼びなさい!」
彼らはまた向きあったまま一分ほど立っていた。とうとう、スヴィドリガイロフの顔が変った。ラスコーリニコフがおどしにのらないことを見てとると、彼は急ににこやかな、いかにも親しそうな顔つきになった。
「まったくおかしな人だ! わたしはね、わざとあなたの事件を話に出さなかったんですよ。そりゃむろん、好奇心でうずうずしてましたがね。なにしろファンタスチックな事件ですからな。次までのばしておこうと思ったんですよ、でも、たしかに、あなたは死んだ人間まで怒らせることのできる人だ……じゃ、行きましょう、ただことわっておくけど、わたしはこれからちょっと家へ寄って、金をとり、それから部屋の鍵をしめて、馬車を雇って、島のほうへ行くんですよ、夜おそくまで。だから、ついて来ようたって無理ですよ!」
「ぼくもさしあたり家へ行きましょう、といってあなたの家じゃありませんよ、ソーフィヤ・セミョーノヴナのところです、葬式に行かなかった詫びを言いに」
「お好きなように、でもソーフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あのひとは子供たちをある婦人のもとへ連れていきましたよ。ある名門の老婦人ですがね、わたしの昔からの知り合いで、いくつかの孤児院の管理をしている婦人ですよ。わたしはカテリーナ・イワーノヴナの三人の遺児の養育料として金をわたし、そのうえさらに孤児院に金を寄付して、この老婦人を籠絡したんですよ。最後に、ソーフィヤ・セミョーノヴナの話を、何もかも包みかくさず話しましてね、おどろくほどの効果でしたよ。それでソーフィヤ・セミョーノヴナに今日、婦人が別荘から出て来てしばらく滞在しているNホテルに、直接訪ねて来るように、ということになったわけですよ」
「かまいません、とにかく寄ってみます」
「勝手になさい、ただわたしはあなたたちとはちがいますからね、どうってことありませんよ! そら、もう家ですよ。どうです、わたしはこう思っているんですがね、つまり、あなたがわたしを疑いの目で見るのは、わたしがあまりにデリケートで、いまだにいろんな質問であなたをわずらわさないからだとね……この意味がわかりますか? あなたにはこれが異常なことに思われたんです。賭けをしてもいいですよ、そうでしょう! だから、これからはよくよく気をつけることですな!」
「そして戸口で盗み聞きなさるんですな!」
「おや、そのことを言ってるんですか!」とスヴィドリガイロフは笑いだした。「そうでしょうとも、あんなことがあったあとで、あなたが黙ってこれを見逃すようだったら、こっちがかえっておどろいたでしょうよ。は! は! そりゃわたしも、うすうすはわかりましたよ、だってあのときあなたが……あそこで……ソーフィヤ・セミョーノヴナをからかって、ぺらぺらしゃべってましたからねえ、でも、あれはいったいどういうことでしょう? わたしはすっかり時代におくれてしまったらしく、もうさっぱり理解ができないんですよ。どうか、説明していただけませんか! 最新の思想で啓蒙してくださいな」
「何もあなたは聞き取れやしなかったんだ、あなたは嘘を言ってるんだ!」
「いや、わたしはそのことを言ってるんじゃありませんよ、そのことじゃありませんよ(もっとも、少しは聞えましたがね)、いや、わたしが言うのは、あなたがしょっちゅう溜息ばかりついてることですよ! あなたの中のシラーはのべつおろおろしている。だから今頃になって、ドアのかげで盗み聞きするな、なんて言うんだ。そんなことなら、出るところへ出て、これこれこういうわけでこんな事件を起しました、理論にちょっとしたまちがいができたためです、と自白するんだね。もしも、ドアの外で盗み聞きをしてはいかん、しかし自分の満足のためなら、婆さんなんて手当りしだいのえもので叩っ殺してもいいんだ、という信念があるなら、早くアメリカへでも逃げなさい! さっさと逃げることだ! まだ大丈夫かもしれん。わたしは本気で言ってるんだよ。金がないのかね? それならわたしが旅費をあげよう」
「そんなことはぜんぜん考えちゃいない」とラスコーリニコフは気色わるそうにさえぎった。
「わかりますよ(しかし、無理なさらんがいい。いやなら、あまりしゃべらんことだ)。わかりますよ、あなたがいまどんな問題に悩んでいるか。道徳の問題、かな? 市民と人間の問題でしょう? でも、そんなものはわきへ押しやりなさい。いまのあなたにそんなものが何になります? へ、へ! まだやはり市民であり、人間だからかな? それなら、こんなに出しゃばることはなかったわけだ。関係もないことに手を出すことはありませんからな。まあ、ピストル自殺をするんですな。それとも、おいやかな?」
「あなたはわざとぼくを怒らせようとしてるんでしょう、ただぼくを追っ払うために……」
「あなたもおかしな人だ。そらもう来ましたよ、どうぞ階段をのぼってください。あれがソーフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入り口ですよ、ごらんなさい、誰もいませんから! 嘘だと思いますか? カペルナウモフに聞いてごらん、外出のときはいつも鍵をあずけるんですから。おや、ちょうどいい、マダム・ド・カペルナウモフですよ、え? なんですって?(この女は耳がすこし遠いんですよ)。出て行った? どこへ? ほらね、聞いたでしょう? 留守ですよ、多分、夜遅くまでもどらんでしょうな、じゃ、わたしの部屋に行きましょうか。わたしの部屋にも来たかったんでしょう? さあ、来ました。マダム・レスリッヒは留守です。年中せかせか歩きまわってるんですよ、でも気はいいんです、ほんとですよ……もしかしたら、あなたの役に立つかもしれませんよ、あなたがもう少し冷静になればですがね。さてと、いいですか、わたしはデスクから五分利の債券を一枚とります。(ほら、まだこんなにありますよ!)これは今日両替屋で現金にかえるんですよ。ごらんになりましたね? これ以上時間をつぶしてはいられません。そこでデスクの鍵をかけ、部屋の戸をしめて、さあ、また階段に出ました。さあ、よろしかったら、馬車を雇いましょう。わたしは島へ行くんですよ。どうです、馬車にゆられてみては? わたしはこの馬車でエラーギン島へ行くんですよ、え? ことわるって? 根負けしましたか? すこしどうです、別にかまいませんよ。雨が落ちてきそうですが、平気ですよ、幌を下ろしますから……」
スヴィドリガイロフはもう馬車に乗っていた。ラスコーリニコフは、自分の疑惑が少なくともいまだけはまちがっていた、と判断した。一言も答えずに、彼はくるりと向き直って、いま来た道をセンナヤ広場のほうへもどりはじめた。途中一度でも振り返ったら、彼は、スヴィドリガイロフが百歩も行かないうちに、御者に金を払って、馬車を下りたのを見ることができたはずだ。しかし彼はもう何も見ることができなかった、そしてもう角を曲ってしまった。深い嫌悪が彼をスヴィドリガイロフから引き放してしまったのである。《あんながさつな悪党から、あんな好色で卑劣な道楽者から、しばらくでも何かを期待する気になれたとは、なんということだ!》と、彼は思わず叫んだ。ラスコーリニコフはこの判断をあまりにも軽率に急ぎすぎたことは、たしかだ。スヴィドリガイロフの様子には、秘密とは言えないまでも、少なくともどことなく変ったところがあったはずである。そうしたいろいろなことの中で、妹に関してだけは、ラスコーリニコフはやはり、スヴィドリガイロフが手をひくまいという確信をすてなかった。しかしそうしたいろいろのことをああでもないこうでもないと考えるのが、どうにも辛くて、堪えられなくなった!
彼はいつもの癖で、一人きりになると、二十歩ほど歩くと深い瞑想にしずんだ。橋まで来ると、手すりにもたれて、水面に目をおとした。いつの間に来たのか、彼の背後にアヴドーチヤ・ロマーノヴナが立っていた。
彼は橋のたもとで彼女に会ったのだが、見向きもしないで、通りすぎたのだった。ドゥーネチカはまだ一度も街でこんな兄を見かけたことがなかったので、すっかり驚いてしまった。彼女は立ちどまったが、声をかけていいのかどうか、わからなかった。不意に彼女はセンナヤ広場のほうから急ぎ足に近づいてくるスヴィドリガイロフの姿に気付いた。
しかし彼は、そっと注意深く近づいてくる様子だった。彼は橋へのぼらないで、ラスコーリニコフに見つからないようにひどく苦心しながら、横の歩道に立ちどまった。彼はドゥーニャにはもうさっきから気付いていて、しきりに合図をしはじめた。彼女にはその合図が、兄には声をかけないでそっとしておき、こちらへいらっしゃい、という意味らしく思われた。
ドゥーニャはそのとおりにした。彼女はそっと兄のうしろを通って、スヴィドリガイロフのほうへ近づいて行った。
「さあ、早く行きましょう」とスヴィドリガイロフは彼女に囁いた。「わたしたちが会ったことを、ロジオン・ロマーヌイチに知られたくないのですよ。おことわりしておきますが、わたしたちはすぐそこの居酒屋にさっきまでいっしょにいたんですよ。わたしをさがしに来て、偶然に出会ったわけです。逃げるのに苦労しましたよ。彼はどういうわけかわたしがあなたにやった手紙のことを知っていて、何かわたしを疑っているんです。むろん、あなたが言ったんじゃないでしょうね? だが、あなたでないとすると、いったい誰でしょう?」
「さあ、わたしたちもう角を曲りましたわ」とドゥーニャがさえぎった。「もう兄からは見えませんわ。おことわりしますけど、これから先には参りません。ここでお話しください。みな通りで立ってできる話ですもの」
「第一に、これはぜったいに通りでできる話ではありません。第二に、あなたはソーフィヤ・セミョーノヴナの話も聞くべきです。第三に、わたしはあなたに少しばかり証拠をお見せするつもりです……そうそう、それから最後に、もしあなたがわたしの部屋に来ることを承諾なさらなければ、わたしはいっさいの説明を拒否して、ただちに失礼します。その際は、あなたの最愛の兄さんの実に興味ある秘密が、完全にわたしの手の中ににぎられていることを、どうぞお忘れなく」
ドゥーニャは思案顔に立ちどまって、刺すような目でスヴィドリガイロフをにらんでいた。
「何が恐いんです!」とスヴィドリガイロフはしずかに言った。「都会は村とちがいますよ。村でだって、むしろ被害者はわたしのほうでしたよ、だがここでは……」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナには話してありますの?」
「いいえ、一言も言いませんでしたよ、それにいま家にいるかどうかさえ、はっきりはわかりません。でも、多分いると思いますがね。今日はお母さんの葬式でしたから、こんな日にお客に行くはずもないでしょう。ある時期が来るまでは、このことは誰にも言いたくないんです、あなたに知らせたのさえ、いくらか後悔してるんですよ。この際、ちょっとした不注意でも、密告したと同じことになりますからな。わたしはすぐそこの、ほら、あの家に住んでいるんですよ。もう来ました。あれがわたしたちの家の庭番ですよ。わたしをよく知っています、そらお辞儀したでしょう。あの男は、わたしが女のひとといっしょに来たのを見たわけです、むろん、もうあなたの顔はおぼえましたよ。あなたがひどく恐がって、わたしを疑っているとすれば、これがあなたにとって有利な条件になるわけですよ。ごめんなさい、こんな品のないことを言ったりして。わたしはここに間借りしてるんです。ソーフィヤ・セミョーノヴナは壁一つへだてたとなりに住んでます、やはり間借りです。この階は借家人でいっぱいですよ。子供みたいに、何を恐れることがあります? それとも、わたしという人間はそれほど恐ろしい男ですかな?」
スヴィドリガイロフは顔をゆがめて、さも鷹揚そうに笑った。だが彼はもう笑っているどころではなかった。心臓がどきどきして、息が胸につまりそうだった。彼はますますはげしくなってくる興奮をかくすために、わざと大きな声でしゃべった。しかしドゥーニャはこの異常な興奮に気付かなかった。あなたは子供みたいに恐れている、わたしがそんなに恐い男か、と言われて、彼女はかっとなってしまったのである。
「あなたが……恥知らずな人だということは知ってますけど、すこしも恐れてはいませんわ。どうぞお先に」と彼女は言った。落ち着いているように見えたが、顔はひどく蒼かった。
スヴィドリガイロフはソーニャの部屋のまえに立ちどまった。
「ちょっとおうかがいしますが、いらっしゃるでしょうか? いらっしゃらない。まずかったですね! でも、じきにもどるはずですよ。出たとすれば、きっとある婦人のところでしょうから、みなし子になった弟妹たちのことで。母が死んだんですよ。わたしはここにもひっかかって、ちょっと世話をしたんですよ。もしソーフィヤ・セミョーノヴナが十分してもどらなかったら、あなたさえよければ、今日のうちにお宅へ伺わせましょう。さて、これがわたしの住まいです。この二部屋です。ドアの向うは主婦のレスリッヒ夫人の部屋です。ちょっとこちらを見てください、わたしの大事な証拠をお見せしましょう。わたしの寝室から、そらそのドアは、貸しに出ている二つのがらんとした空室に通じています。これがその空室です……これをちょっと注意してみてもらいたいんですが……」
スヴィドリガイロフは家具つきのかなり広い部屋を二間借りていた。ドゥーネチカは疑惑の目であたりを見まわしたが、部屋の装飾にも、間取りにも、別に変ったところは見えなかった。もっとも、ちょっと気になったといえば、スヴィドリガイロフの部屋の両隣がほとんど空室みたいになっていたことだった。彼の部屋の入り口は直接廊下からはつづいていないで、ほとんど空室のような主婦の部屋を二つ通らなければならなかった。スヴィドリガイロフは寝室から、鍵のかかっているドアを開けて、やはりがらんとした、貸しに出されている部屋をドゥーニャに見せた。ドゥーネチカは、なんのためにその部屋を見せられるのかわからずに、しきいの上に立ちどまった、するとスヴィドリガイロフは急いで説明した。
「さあ、こちらの、この二つ目の大きな部屋をごらんください。このドアに注意してください、鍵がかかってるでしょう。ドアのそばに椅子が一つおいてあります、この二つの部屋で椅子はこれ一つだけです。これはわたしが自分の部屋から持ってきたんですよ、聞きやすいようにね。このドアのすぐかげにソーフィヤ・セミョーノヴナのテーブルがあって、彼女がそのテーブルに坐って、ロジオン・ロマーヌイチとお話をしたんです。で、わたしはここで、この椅子に腰かけて、盗み聞きをしたわけですよ、二晩つづけて、二度とも二時間くらいずつ、──ですから、むろん、うすうすは知ることができたというわけです、おわかりですね?」
「あなたが盗み聞きをしたのですか?」
「そうです、しましたよ。じゃ、わたしの部屋へ行きましょう、ここでは坐ることもできませんから」
彼はアヴドーチヤ・ロマーノヴナを客間につかっている一つ目の部屋へ案内して、椅子をすすめた。自分はテーブルの向う端に座をしめた。そこは彼女から少なくとも二メートルくらいは離れていたが、おそらく彼の目の中に、かつてドゥーニャをあれほど怯えさせたあの同じ炎が、もうめらめらと燃えていたにちがいない。彼女はぎくっとして、もう一度疑惑の目をあたりへ向けた。それは彼女の意にそむいた態度だった。なぜなら、明らかに、彼女は不信を相手に見せたくなかったからだ。だが、スヴィドリガイロフの部屋の一軒家のような状態が、とうとう彼女を不安にした。彼女は、せめて主婦だけでも家にいるのかと聞きたかったが、口に出さなかった……自分のプライドのために、それに、自分の身の不安よりも、比較にならぬほど大きなもう一つの苦しみが、彼女の心の中にあった。彼女は胸がはりさけそうな思いだった。
「この手紙はお返しします」と、手紙をテーブルの上において、彼女は口を開いた。「あなたがお書きになっているようなことが、あっていいものでしょうか? あなたはある犯罪のことを、兄が犯したらしくほのめかしています。あんなにはっきりほのめかしているのですから、いまさら言いわけはできないでしょう。実は、あなたのお手紙をもらうまえにも、このばかばかしい話を聞きましたが、わたしはそんなことは一言も信じておりません。実にいまわしい、滑稽な嫌疑ですわ。わたしはどうして、どんなところからそんな嫌疑が生れたのか、そのいきさつを知っております。あなたに証拠なんてあろうはずがありません。あなたは証拠を見せると約束なさいました。さあ見せてください! でも、おことわりしておきますけど、わたしはあなたの言うことなど信じてませんよ! 信じませんとも……」
ドゥーネチカはこれを早口で、急きこみながら言い終わると、とたんに顔がさっと赤くなった。
「もし信じていないなら危ない思いをして一人でここへいらっしゃるなんて、おかしいじゃありませんか? なんのためにいらしたんです? ただの好奇心ですか?」
「わたしを苦しめないで、さあ話してください、話してください!」
「あなたが勇気のある娘さんだということは、申すまでもありませんな。正直のところ、わたしは、あなたがラズミーヒン君に送って来てもらうものだと、思っていましたよ。ところが、あなたのそばにも、まわりにも、いなかった。わたしは注意して見たんですよ。相当思いきっている、つまり、ロジオン・ロマーヌイチをそっとしておきたかったわけだ。しかし、あなたはどこまで神々しいお方だ……あなたのお兄さんについては、わたしが何を言うことがあるでしょう? いまご自分でごらんになりましたね。どんなでした?」
「それだけが、あなたの理由じゃありませんでしょう?」
「いや、それじゃありません、彼自身の言葉ですよ。となりのソーフィヤ・セミョーノヴナのもとへ、二晩つづけて訪ねて来ました。二人がどこに坐ったかは、いまおしえましたね。彼はすっかり彼女に懺悔したのです。彼は人殺しです。彼は官吏の後家で、自分も品物をあずけていた金貸しの婆さんを、殺したのです。そのうえ、犯行の途中で偶然にもどって来た、婆さんの妹で、古着屋をやっていたリザヴェータという女をも、殺しました。二人とも、用意して行った斧で、殴り殺したのです。盗むために、殺したのです、そして盗みました。金と品物をすこし……彼は自分でその模様をすっかり丹念にソーフィヤ・セミョーノヴナに話したのです。だから彼女だけがその秘密を知ってるわけです、しかし彼女は言葉でも行為でも殺人には参加していません。それどころか、いまのあなたのように、おそろしさにちぢみ上がったのです。でも、ご安心なさい、彼女は彼を裏切るようなことはしません」
「そんなことあり得ないわ!」とドゥーネチカは死人のように蒼ざめた唇で呟いた。彼女は苦しそうにあえいでいた。「あり得ないわ、だって、これっぽっちの理由も、なんの動機も、ありませんもの……そんなこと嘘だわ! 嘘だわ!」
「ものを盗んだ、これが理由のすべてですよ。彼は金と品物をとった。もっとも、彼自身の告白によると、金も、品物も、つかわないで、どこかの石の下に埋めて、いまもそのままになっているそうだが。でもそれは、彼がつかう勇気がなかったからだ」
「兄さんに強盗ができるなんて、そんなことあるもんですか? そんなこと考えることもできない人ですわ!」と叫んで、ドゥーニャはいきなり立ち上がった。「あなただって知ってるじゃありませんか、ごらんになったでしょう? あの兄さんに泥棒なんかできて?」
彼女はスヴィドリガイロフにすがりつくようにして言った。もう恐ろしいことなど、すっかり忘れていた。
「ここには、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、幾千、幾百万という要素がからみあってるんですよ。泥棒は盗みをしますが、その代りもう内心では、自分が卑劣な男だということを知っています。現にわたしは、ある名門の男が郵便馬車を襲った事件を聞いたことがあります。この男がほんとうに、そんな大それたことをしようと考えたなんて、誰が思いましょう! もしはたから聞かされたとしたら、わたしだって、いまのあなたのように、もちろん信じなかったでしょう。でもわたしは、それを自分の耳でたしかめたのです。彼はソーフィヤ・セミョーノヴナに理由もすっかり説明しました。彼女もはじめは自分の耳を信じませんでしたが、とうとう、目でたしかめたのです、自分の目で。だって彼は自分ではっきり話したんですよ」
「いったいどんな……理由って!」
「話せば長くなりますがね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいかな、一つの理論のようなものがあるんですよ。例えば、大きな目的が善を目指していれば、一つくらいの悪行は許される、というような理屈ですよ、一つの悪と百の善行です! りっぱな才能と自尊心のある青年にとって、例えば、三千ルーブリかそこらの金があれば、将来の生活の見通しがすっかり別なものになり、輝かしい出世街道を歩めるのに、その三千ルーブリがどうにもならないとわかったら、それこそ、どれほどくやしいかわかりませんよ。そこへ更に、飢え、せまい部屋、ぼろぼろの服、自分の社会的地位、同時に妹や母の状態のみじめさの明瞭な自覚、などからくる苛立ちを加えてごらんなさい。何よりも大きいのは虚栄心です、自負心と虚栄心です、しかし、それがいい方向をもつものかもしれませんしね、わかりませんよ……わたしは彼を責めてるんじゃありませんよ、そんなふうにとられると、困りますよ。わたしの領分じゃないんですから。そこにはもう一つ独特の理論があったんですよ、──まあありきたりの理論ですがね、──それによると、人間は、いいですか、材料と特殊な人々に分けられるというんですよ。つまり、特殊な人々とは、高い地位にあるから、法律の適用を受けないばかりか、かえって、他の人々、つまり材料、ごみですな、そういう連中のために法律をつくってやる人々だ、というのです。なに、ありふれた理論ですよ。Une thorie une autre.(変りばえのしない理論ですよ)ナポレオンにすっかり傾倒していたようです。つまり特に彼を惹きつけたのは、多くの天才たちはちっぽけな悪には見向きもしないで、平気で踏み越えて行ったという事実ですよ。彼は、自分を天才だと思った、らしい、──少なくともある時期は、そう信じていた。彼は、理論を書くことはできたが、ためらわずに踏みこえることは、できない、つまり天才ではない、という考えのためにひどく苦しんだ。いまでも苦しんでいる。まあ、これは自負心の強い青年にしてみれば、堪えられない屈辱ですよ、特に現代は……」
「じゃ、良心の呵責は? すると、あなたは兄に道徳心がぜんぜんないとおっしゃるんですか? いったい兄がそんな人でしょうか?」
「いや、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、現代は何もかもすっかり濁ってしまいましたよ、と言って、しかし、これまでだって、特に秩序が正しかったことは一度もありませんがね。ロシア人は大体茫漠としてるんですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、彼らの土地みたいに、茫漠としてるんです、そして幻想的なもの、茫漠としたものに惹かれる瞬間が、きわめて強いんです。おぼえてますか、ほら、毎晩のように、夕食後庭のテラスに腰かけて、二人でこれと同じようなことを、これと同じようなテーマで、ずいぶん話し合ったじゃありませんか。もしかしたら、ちょうどあんなことを話し合っていた頃、彼はここでねそべって、自分の理論を考えていたのかもしれませんね。わが国の教養階級には特に神聖な伝統というものが、たしかにありませんね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。誰かが本を読んでどうにかでっち上げるか……あるいは年代記から何かひっぱり出すくらいのものですよ。しかしそんなのはたいていは学者で、ご存じのように、それぞれ気のきかない連中だから、社交界の人間にしてみれば、かえって失礼にさえ思えるというわけです。ところで、わたしの考えは大体ご存じでしょうけど、わたしは決して人を責めません。わたし自身が白い手の高等遊民で、それから出ようとしないのですから。そう、このことはもう何度も話し合いましたね。幸いにも、わたしの意見に興味をもっていただいたことさえ、ありましたっけ……ひどく顔色がわるいですね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ!」
「わたしの兄さんのその理論を知ってますわ。雑誌で読みましたわ、すべてが許されるという人々についての兄さんの論文を……ラズミーヒンさんが貸してくれたんです……」
「ラズミーヒン君が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌で? そんな論文があるんですか? 知らなかった。そりゃ、きっと、おもしろいでしょうね! おや、どこへいらっしゃいます、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ?」
「ソーフィヤ・セミョーノヴナにお会いしたいんです」とドゥーネチカは弱々しい声で言った。「どこから行けますの、あのひとの部屋へは? もしかしたら、もどってるかもしれませんわ。どうしてもいまお会いしたいんです。そしてあのひとに……」
アヴドーチヤ・ロマーノヴナはしまいまで言うことができなかった。息が文字どおり切れたのである。
「ソーフィヤ・セミョーノヴナは夜おそくまでもどらんでしょう。わたしはそう思いますね。じきにもどるはずだったのですが、そうでないとすれば、ずっとおそくなるはずです……」
「あッ、じゃあんたは嘘を言ったのね! わかったわ……あんたは嘘を言ったんだ……あんたの言うことなんかみんな嘘だ!……あんたなんか信じないわ! 信じないわ! 信じないわ!」とドゥーネチカはすっかりとりみだして、ほんとに気が狂ったように叫び立てた。
彼女はほとんど失神したようになって、あわててスヴィドリガイロフが押しやった椅子の上に、倒れた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どうなさいました、しっかりなさい! さあ、水です。一口お飲みなさい……」
彼はドゥーネチカに水をふりかけた。ドゥーネチカははっとして、われに返った。
「利きすぎたようだ!」とスヴィドリガイロフは眉をひそめて、ひとり言を言った。「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、ご安心なさい! 彼には友人たちがいますよ。わたしたちが救いますよ、助けますよ。なんでしたら、わたしが外国へ連れて行きましょうか? わたしは金があります。三日のうちに切符を手に入れましょう。人殺しをしたといっても、これからたくさんいいことをすれば、罪は償われますよ。心配はいりません。まだ偉大な人間になることだってできます。おや、どうなさいました? ご気分はいかがです?」
「悪い人です! まだなぶり足らないんですか。わたしを帰してください……」
「どこへ行くんです? え、どこへ?」
「兄のところへ行きます。兄はどこにいます? ご存じでしょう? どうしてこのドアは鍵がかかってますの? わたしたちこのドアからこの部屋へ入ったのに、いまは鍵がかかってる。いったい、いつの間に鍵をかけましたの?」
「わたしたちがここで話したことが、家中に聞えても困りますからな。わたしはぜんぜんからかってなどいませんよ。もったいぶった話があきあきしただけですよ。ねえ、あなたはそんなに興奮してどこへ行こうというのです? 兄さんを裏切りたいとでもいうのですか? あなたは彼を気ちがいみたいに怒らせてしまって、彼は自分で自分を売りわたすようなことになるでしょう。いいですか、彼にはもう尾行がついているんですよ、見張られているんですよ。そんなことをしたら、彼を逮捕してくれというようなものです。まあお待ちなさい。わたしはいま彼に会って、お話をしたばかりです。まだ救うことはできます。お待ちなさい、おかけなさい、いっしょに考えようじゃありませんか。あなたをここへ呼んだのは、二人だけで話し合って、よくよく考えてみようと思ったからですよ。さあ、おかけなさい、ね!」
「どんな方法であなたは兄を救うことができますの? ほんとに救うことができますの?」
ドゥーニャは腰を下ろした。スヴィドリガイロフはそのそばに坐った。
「それはみな、あなたの覚悟次第です。あなたさえ、あなたさえその気に」と彼は目をぎらぎらさせて、興奮のあまり言葉を最後まで言いきらずに、どもりながら、ほとんど囁くように言った。
ドゥーニャはぎょッとして身をひいた。彼も身体中をわなわなとふるわせていた。
「あなたが……一言いってくだされば、彼は救われるのです!……わたしが……わたしが救います。わたしには金と手づるがあります。わたしはすぐに彼を発たせます、わたしもパスポートをもらいます、二枚。一枚は彼、もう一枚はわたしです。わたしには友人があります。そういうことに詳しい連中です……いかがです? よろしかったら、あなたのパスポートももらいましょう……あなたのお母さんのも……ラズミーヒンなんてあなたに何になります? わたしはあなたをこんなに愛しているんです……限りなく愛しているんです。どうか服の裾に接吻させてください。お願いです! お願いです! 衣ずれの音を聞くと、たまらないのです。これをしろ、と一言いってください、すぐに実行します! わたしは何でもします。出来ないことだってします。あなたの信じるものを、わたしも信じます。わたしは何でも、何でもします! そんな目で、そんな目で、見ないでください! おわかりですか、あなたはわたしの生命を刻んでいるのです……」
彼は狂気じみたことさえ口走りはじめた。不意に頭をがんと叩きのめされたように、とつぜん態度がおかしくなった。ドゥーニャは夢中で立ち上がって、ドアのほうへかけ出した。
「開けてください! 開けてください!」と彼女はドアを両手でたたきながら、大声で救いを求めた。「開けてくださいったら! 誰もいませんの?」
スヴィドリガイロフは立ち上がって、われに返った。まだひくひくふるえている唇に、毒々しいなぶるようなうす笑いがゆっくりひろがりはじめた。
「そっちには、誰も、いませんよ」と彼はしずかに、一語一語間をおきながら言った。「主婦は外出しましたよ、叫んでもむだですな。いたずらに自分を興奮させるだけですよ」
「鍵はどこです? すぐ開けてください、いますぐ、卑怯よ!」
「鍵が紛失して、見つからないんですよ」
「あ? じゃ力ずくでわたしを!」と叫ぶと、ドゥーニャは死人のように蒼ざめて、さっと部屋の隅へとびのき、急いで手にふれた小さなテーブルのかげにかくれた。彼女は声を立てなかった。食い入るような目で相手をにらみつけながら、その一挙一動に鋭く注意していた。スヴィドリガイロフもその場を動こうとしないで、反対側の隅に立ったまま彼女とにらみあっていた。彼は自分を抑えているふうでさえあった。少なくとも表面はそう見えた。しかし顔はやはり蒼かった。なぶるようなうす笑いがまだ消えなかった。
「あなたはいま《力ずくで》と言いましたね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。もし力ずくであなたを奪うつもりなら、その手筈がもうできていることは、あなたもおわかりでしょう。ソーフィヤ・セミョーノヴナは不在だし、カペルナウモフの住居まではひじょうに遠く、間に五つも鍵のかかった部屋がある。最後に、わたしはどう見てもあなたの二倍は強そうだし、加えて、わたしは何も恐れることがない。だって、あなたはあとで訴えることもできんでしょうからな。まさか、いざとなったら、兄さんを裏切る気にはなれんでしょう? それに、誰もあなたを信じませんよ。え、だって何か訳がなくて、娘さんが一人で男一人の部屋を訪れるはずがないじゃありませんか? だから、たとえ兄さんを犠牲にしても、この場合なんの証明にもなりません。暴行ってやつは判定がひどく難かしいんですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」
「卑怯だわ!」とドゥーニャは怒りに蒼ざめて、かすれた声で呟いた。
「なんとでもご自由に、でもことわっておきますが、わたしはまだ仮定として言っただけですよ。わたしの個人的な信念を言いますと、まったくあなたのおっしゃるとおり、暴力は──卑劣な行為です。わたしが申し上げたのは、ただ、たとえあなたが……たとえあなたが、わたしの提案どおりに、ご自分の意志で兄さんを救おうとなさった場合でも、あなたの良心に何もしこりがのこらないようにと、ただそのためです。あなたはただ周囲の事情に、もしどうしてもそうおっしゃりたいなら、力といってもかまいませんがね、屈服したというだけのことです。そこのところをよく考えてください、あなたの兄さんとお母さんの運命はあなたの手の中にあるんですよ。わたしはあなたの奴隷になりましょう……死ぬまで……わたしはここで待ちましょう……」
スヴィドリガイロフはドゥーニャから八歩ほどのところにあるソファに腰を下ろした。ドゥーニャには、彼が不屈の決意をしていることが、もう疑う余地がなかった。それに、ドゥーニャは彼がどういう男か知っていた……
不意に彼女はポケットから拳銃をとりだし、撃鉄を上げて、拳銃をもった手をテーブルの上にのせた。スヴィドリガイロフはとび上がった。
「ははあ! そうでしたか!」と、彼はぎょッとしたが、毒々しいうす笑いをうかべたまま、叫んだ。「なるほど、これで筋のはこびがすっかり変りますな! あなたは自分のほうからわたしにしごとをひどくしやすくしてくれますよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ! でも、どこでその拳銃を手に入れました? ラズミーヒン君ですかな? おや! これはわたしの拳銃だ! なつかしい昔馴染みですよ!……そういえばあの頃ずいぶんさがしたものですよ!……なるほど、あの頃田舎で光栄にもあなたにお教えした射撃のレッスンが、むだではなかったわけだ」
「あなたの拳銃じゃないわ、あなたに殺されたマルファ・ペトローヴナのです、人でなし! あのひとの家にはあんたのものなんか何一つなかったわ。あんたのような人は何をするかわからない、と心配になったから、これをかくしておいたのよ。一歩でも動いてごらんなさい、ほんとに、殺してやる!」
ドゥーニャは夢中だった、彼女は拳銃を構えた。
「ところで、兄さんはどうします? 好奇心からお聞きしますがね」とスヴィドリガイロフはその場に突っ立ったまま、尋ねた。
「密告したきゃ、するがいい! 動くな! 一歩も! 射ちますよ! あんたは奥さんを毒殺した、わたしは知ってる、あんたこそ人殺しだ!」
「じゃあなたは、そう思いこんでいるんですか、わたしがマルファ・ペトローヴナを毒殺したなどと?」
「あんただわ! 自分でわたしにほのめかしたじゃないの、毒殺の話なんかして……それを買いに出かけたことも、わたし知ってるのよ……すっかり用意ができていた……あれはぜったいあんただわ……人でなし!」
「仮にそれが真実だとしても、それはきみのためじゃないか……どうしたってきみが原因なんだよ」
「嘘よ! あんたなんか憎んでいたわ、いつも、いつも……」
「へえ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ! どうやら、忘れたらしいですな、説教に熱がこもりすぎて、うっとりと、妙な気持になったことを……わたしはあなたの目を見てわかりましたよ。ほら、おぼえてますか、あの宵、月が出て、それに鶯が鳴いていたっけ?」
「嘘よ!(狂おしい憤怒がドゥーニャの目に光りはじめた)。嘘だわ、嘘つき!」
「嘘? まあ、嘘かもしれん。嘘にしておきましょう。女にこういうことを言っちゃいかんのだ。(彼はうす笑いをもらした)。きみが射つのは、知ってるよ。きみは小さな可愛らしい野獣だよ。さあ、射ちたまえ!」
ドゥーニャは拳銃を上げた、そして死人のように真っ蒼な顔をして、血の気のない下唇をひくひくふるわせ、火のようにぎらぎら燃える大きな黒い目で相手をにらみながら、狙いを定めて、相手がちょっとでも動くのを待っていた。彼はこれほど美しい彼女を見たことがなかった。彼女が拳銃を上げた瞬間、彼女の目にきらッと燃えた火に、彼は焼かれたような気がして、胸がきゅうッと痛くなった。彼は一歩出た、とたんに拳銃が火をふいた。弾丸は彼の髪をかすめて、うしろの壁にあたった。彼は立ちどまって、しずかににやりと笑った。
「蜂に刺されたよ! まっすぐに頭をねらいましたな……おや、これは? 血だ!」
彼は細いひとすじの流れとなって右のこめかみに垂れている血をふこうとして、ハンカチをとり出した。弾丸はわずかに頭の皮膚をかすったらしい。ドゥーニャは拳銃をだらりと下げて、恐怖というよりは、不思議そうな、呆気にとられたような表情で、ぼんやりスヴィドリガイロフを見つめていた。彼女は自分でも、何をしたのか、どうなったのか、わかっていない様子だった!
「どうなさいました、射ち損じですよ! もう一度射ちなさい、待ってますよ」とスヴィドリガイロフはまだうす笑いをうかべたまま言った、しかし妙に暗い笑いだった。「これじゃ、あなたが撃鉄を上げるまえに、とびかかってつかまえられますよ!」
ドゥーニャはぎくっとして、急いで撃鉄を上げると、また拳銃を上げた。
「わたしをとめて!」と彼女は絶望的に言った。「きっと、また射ちます……わたしは……殺してしまう!……」
「そうでしょうとも……三歩です、殺さなきゃどうかしてますよ。でも、殺せないなら……それなら……」
彼の目がぎらぎら光った、そして更に二歩すすんだ。
ドゥーネチカは引き金をひいた。不発だった!
「装填がよくなかったんですね。なんでもありませんよ! もう一つ雷管があるでしょう。やり直しなさい、待ってあげますよ」
彼はドゥーニャの二歩ほどまえに立って、奇怪な決意を顔にうかべて、熱っぽい欲情に光る重苦しい目でじっと彼女を見つめながら、待っていた。彼は彼女を手放すくらいなら、むしろ死のうとしていることを、ドゥーニャはさとった。《でも……でも、もう今度こそ殺せるだろう、わずか二歩だ!……》
不意に、彼女は拳銃を投げ出した。
「捨てた!」スヴィドリガイロフはびっくりしたように言うと、ほうッと深い息を吐いた。何かが急に彼の心からとれてしまったようなぐあいだった、そしてそれは、おそらく、死の恐怖の重苦しさだけではなかったろう。彼はいまのような瞬間でも、そんなものはほとんど感じていなかったのだ。それは彼が自分でも完全には定義できないような、もっともっとみじめな暗い感情からの解放だった。
彼はドゥーニャのそばへ寄って、しずかに片手を彼女の胴へまわした。彼女はさからわなかったが、身体中を木の葉のようにわなわなとふるわせて、祈るような目で彼を見ていた。彼は何か言おうとしていたが、唇がゆがんだだけで、言葉にならなかった。
「わたしを帰して!」とドゥーニャは、拝むようにして、言った。
スヴィドリガイロフはぎくっとした。この敬語をぬいた口調には、どことなく、先ほど怒っていたときとはちがうひびきがあった。
「じゃ、愛してくれないんだね?」と彼はしずかに尋ねた。
ドゥーニャは否定するように頭を振った。
「そして……これからも?……どうしても?」と彼は絶望にしずみながら囁いた。
「どうしても!」とドゥーニャは低声で言った。
スヴィドリガイロフは心の中でおそろしい無言のたたかいの一瞬がすぎた。なんとも言えぬ目で彼はドゥーニャを見た。不意に彼は手をぬいて、顔をそむけると、急いで窓のほうへはなれて、窓のまえに立った。
更に一分の沈黙がすぎた。
「これが鍵です!(彼は外套の左のポケットから鍵をとり出すと、ドゥーニャのほうを見もしないで、振り向きもしないで、それをうしろのテーブルの上においた)。これで開けて、早く帰ってください!……」
彼はかたくなに窓のほうを向いていた。
ドゥーニャは鍵をとろうとしてテーブルのそばへ寄った。
「早く! 早く!」と、スヴィドリガイロフはやはりその場を動かず、振り向きもしないで、くりかえした。しかしこの《早く》には、明らかに、あるおそろしいひびきがあった。
ドゥーニャはそれをさとって、鍵をつかむと、ドアにかけより、大急ぎで開けて、部屋をとび出した。一分後には、彼女は気ちがいのように、夢中で河岸へ走り出て、N橋のほうへ走って行った。
スヴィドリガイロフは更に三分ほど窓辺に立っていた。やがて、ゆっくり向き直ると、あたりを見まわし、しずかに掌で顔をぬぐった。異様なうす笑いがその顔をゆがめた。みじめな、悲しい、弱々しい笑い、絶望の笑いだった。もう乾いた血が、彼の掌を汚した。彼はむらむらしながらしばらくその血をにらんでいたが、やがてタオルを水にぬらして、こめかみをきれいに拭いた。ドゥーニャが投げて、ドアのそばにころがっていた拳銃が、不意に彼の目についた。彼はそれを拾い上げて、点検した。それは古い型の小さな懐中用の三連発拳銃だった。中にはまだ弾が二発と、雷管が一つのこっていた。一度は射てるわけだ。彼はちょっと考えて、拳銃をポケットに入れると、帽子をつかんで、部屋を出た。
6
その晩は十時頃まで、彼は居酒屋や魔窟を飲み歩いた。どこかでカーチャを見つけ出した。彼女はまたどこかの《いやらしい女泣かせ》が、
カーチャにキッスをはじめた
という別な召使いの唄をうたった。
スヴィドリガイロフはカーチャにも、手風琴ひきにも、唄うたいたちにも、給仕にも、どこかの二人連れの書記にも、酒を振舞った。彼がこの書記たちに特に親しみを感じたのは、二人とも鼻が曲っていたからだった。一人は鼻柱が右に、もう一人は左に曲っていた。これにはスヴィドリガイロフもおどろいた。彼らは、しまいに、彼をある遊園地へ連れて行った。彼は二人の入園料も払ってやった。この公園にはひょろひょろの三年の樅が一本と、小さな茂みが三つあった。そのほか、《ステーション》と称する建物があったが、実際には居酒屋で、茶も飲めるし、それに緑色の小さなテーブルと椅子がいくつか置いてあった。お粗末な歌手たちの合唱団と、鼻の赤い、ピエロのような、酔ったミュンヘン生れのドイツ人が、柄になく、どういうわけかひどく浮かない顔をして、客を笑わせていた。二人の書記がその場にいあわせた他の書記連中と言い合いをして、殴り合いになりそうになった。スヴィドリガイロフが仲裁役に選ばれた。彼はもう十五分も中に立って双方の言い分を聞こうとしていたが、彼らがあんまりわあわあ騒ぎ立てるので、何一つ聞き分けることができなかった。どうやらこういうことらしかった、つまり彼らの一人が何かを盗んで、しかもすぐに都合よくそこらにいたユダヤ人にまんまと売りつけた、そして売っておきながら、その金を仲間に分けようとしない、というのである。結局、売った品物というのが《ステーション》のスプーン一本だということがわかった。《ステーション》でもそれに気付いて、事はますます面倒になってきた。スヴィドリガイロフはスプーンの代金を払って、席を立ち、公園を出た。十時頃だった。彼は自分ではその間中一滴の酒も飲まなかった。ステーションでは茶を一杯注文しただけだが、それだってむしろおつきあいのためだった。しかし、むしむしする暗い晩だった。十時近くなると四方からすごい黒雲が押し寄せてきて、雷が鳴り、滝のような夕立になった。雨は粒になっておちてくるのではなく、大きな流れとなって地面をなぐりつけた。稲妻はたえまなくひらめき、明るくなるたびに五つまで数えることができた。彼はずぶぬれになって家へもどると、ドアに鍵を下ろして、デスクのひきだしを開け、ありたけの金をとり出し、二、三の書類を破りすてた。それから、金をポケットに押しこみ、着替えをしようとしたが、窓を見て、雷鳴と雨の音に耳をすますと、あきらめたように手を振って、帽子をつかんで部屋を出た。ドアには鍵をかけなかった。彼はまっすぐにソーニャのところへ行った。ソーニャは部屋にいた。
彼女は一人ではなかった。カペルナウモフの小さな子供たちが四人、彼女のまわりをとりまいていた。ソーフィヤ・セミョーノヴナは子供たちに茶を飲ませていた。彼女は黙って、ていねいにスヴィドリガイロフを迎えて、びっくりしたように彼の濡れた服を見まわしたが、別に何も言わなかった。子供たちはすっかりおびえきって、あっという間に逃げちってしまった。
スヴィドリガイロフはテーブルのまえに腰を下ろして、そばに坐るようにソーニャに言った。彼女はおずおずと聞く姿勢をとった。
「わたしはね、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、もしかしたら、アメリカへ行くかもしれない」とスヴィドリガイロフは言った。「それで、会うのは、おそらく、これが最後だろうから、少しばかりやりかけたことを片付けておこうと思って伺ったのです。して、今日あの婦人にお会いになりましたか? 婦人があなたにどんなことを言ったかは、承知していますから、おっしゃらなくても結構です(ソーニャはもじもじしかけて、顔を赤らめた)。あの人たちにはああいう癖があるんですよ。あなたの妹さんや弟さんのことですが、まちがいなく収容されますし、わたしから上げる金は、一人一人の分を別々に領収証をとって、ちゃんと確かなところにあずけておきました。しかし、万一ということがありますから、この領収証はあなたにお渡ししておきます。さあ、どうぞ! さて、これはこれですんだわけです。ところで、ここに五分利債券が三枚あります、全部で三千ルーブリです。これはあなたの分としておきましょう。この先たとえどんなことをお耳になさっても、決して誰にも言っちゃいけませんよ。この金はきっとあなたに必要になります、だって、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、いままでのような、こんな生活は──いまわしいものです。それにもうあなたには、そんな必要は少しもないわけですから」
「わたし、あなたにこんなにまでご恩になりまして、それに子供たちも、亡くなった母も」とソーニャは急いで言った。「いままでろくにお礼も申しませんでしたが、それは……決して……」
「え、もういいですよ、そんなことは」
「でもこのお金は、アルカージイ・イワーノヴィチ、わたし、ほんとにありがたいと思いますけど、でもわたし、いまはほんとにいらないんです。わたし一人ならなんとか食べていけますもの、どうか恩知らずなんて思わないでくださいね。あなたはそんなに情け深いお方ですもの、どうかこのお金は……」
「あなたにあげるんです、あなたにあげるんですよ、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、だから、どうぞ、改まったことは言わないで、それにわたしには時間もありませんので。あなたには入り用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチには道は二つしかないんですよ、額に弾丸を射ちこむか、ウラジーミルカ(注 シベリアへ流される囚人の通る街道)行きか。(ソーニャは呆気にとられて彼を見つめていたが、すぐにわなわなとふるえだした)。ご安心なさい、わたしはすっかり知ってるんです、彼自身の口から聞きました。でもわたしはおしゃべりじゃありません、誰にも言いませんよ。あのときあなたは彼に自首をすすめましたが、あれはいいことでした。そのほうが彼にとってどれだけ有利かわかりません。さて、ウラジーミルカへ行くことになって、──彼があちらへ行ったら、あなたはあとを追うでしょうね? そうでしょうね? そうでしょうね? そうなれば、早速金が入り用になるわけですよ。彼のために入り用になるんです、わかりますか? あなたにあげることは、彼にやると同じことです。それにあなたは、アマリヤ・イワーノヴナにも借金を払う約束をなさったじゃありませんか。わたしは聞いていましたよ。どうしてあなたは、ソーフィヤ・セミョーノヴナ、そんなに軽率にあんな約束や義務をかたっぱしから引き受けてしまうんでしょうねえ? あのドイツ女に借金をのこしたのはカテリーナ・イワーノヴナですよ、あなたではないじゃありませんか、あんなドイツ女なんてほっておけばいいんですよ。そんなことじゃこの世の中は暮していけませんよ。話はもどりますが、もし誰かに、明日か明後日あたり、わたしのことを何か聞かれるかもしれませんが(あなたはきっと聞かれますよ)、わたしが今日ここへ来たことは、言わないでください、それから金は決して見せたり、わたしにもらったなんて、誰にも言っちゃいけませんよ。では、これでお別れしましょう。(彼は椅子から立ち上がった)。ロジオン・ロマーヌイチによろしくお伝えください。それから、ついでに言っておきますが、金は入り用になるまでラズミーヒン君にでもあずけておいたらいいでしょう。ご存じですか、ラズミーヒン君を? むろん、ご存じでしょうね。無難な青年ですよ。彼のところへ持って行くんですね、明日にでも、いや……そうしたほうがいいときが来たら。それまではなるべく身体からはなれたところにかくしておきなさい」
ソーニャはぱっと椅子から立ち上がって、おびえたように彼に目を見はっていた。彼女は何か言いたくて、何か聞きたくてたまらなかったが、とっさに言葉がでなかった。それに何から言いだしてよいか、わからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、こんな雨の中を、お出かけになりますの?」
「なあに、アメリカまで行こうというんですよ、雨なんかおそれていられますか、へ! へ! さようなら、かわいいソーフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてください、いつまでも生きてください、あなたは他人のためになる人です。それから……ラズミーヒン君に伝えてください。わたしがよろしく言っていたと。こんなふうに伝えてください、アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフがよろしく、って、きっとですよ」
ソーニャをおどろきと、おびえと、あるおぼろげな重苦しい疑惑の中にのこして、彼は出て行った。
この同じ夜、十一時をすぎた頃、彼はもう一つのまったく風変りな思いがけない訪問をしたことが、あとでわかった。雨はまだやまなかった。彼は十一時二十分に、全身ずぶぬれになって、ワシーリエフスキー島のマールイ通り三丁目にある、許嫁の両親のささやかな住居の門をくぐった。力まかせに戸を叩いたので、はじめは大騒ぎになりかけた。しかしアルカージイ・イワーノヴィチは、ちゃんとしようと思えば、実にものやわらかな態度になれる人だったので、多分どこかですっかり飲みすぎてしまって、もう正体なく酔いつぶれているのだろうという、ものわかりのいい両親の最初の推測は(もっとも、これは実にうがった見方ではあったが)──たちまち消えてしまった。ものわかりのいい心のやさしい母は、衰弱しきった父親を肘掛椅子にかけさせたまま、アルカージイ・イワーノヴィチのまえへ押して来て、例によって、すぐに何かと遠まわしな質問をはじめた。(この女は決していきなり用件をきり出したことがなく、いつもまずにこにこ笑って、もみ手をして、それから、何かどうしてもちゃんとたしかめておきたいことがあれば、例えば、アルカージイ・イワーノヴィチは結婚式はいつが都合がいいか、聞いておきたいと思えば、まずパリや、あちらの宮廷生活のことなどを、いかにも珍しそうに、むしろしつこいほどに、いろいろと聞きはじめる、それからやっと、順を追って、話をワシーリエフスキー島三丁目までもってくる、というぐあいだった)。他のときならこうしたことは、むろん、相手を大いに感心させるだろうが、いまのアルカージイ・イワーノヴィチはいつになく妙に苛々していて、許嫁がもう寝てしまったことを、はじめにことわられていたにもかかわらず、どうしても許嫁に会いたい、とわからないことを言いだした。もちろん、許嫁は出てきた。アルカージイ・イワーノヴィチはいきなり彼女に、あるひじょうに重大な用件のためにしばらくペテルブルグを離れなければならない、それでいろいろな債券がまじっているが、ここに一万五千ルーブリ持って来たから、贈りものとして受け取ってもらいたい、このつまらんものは、もうまえから結婚まえに贈ろうと思っていたのだから、と言った。贈りものと、あわただしい出発、それにこんな雨の中を夜更けにどうしても来なければならなかった必要の間の特別な論理的な結びつきは、この説明では少しも明らかにされなかったが、しかし、事は実にすらすらとはこんだ。必要なああとか、おおとかの感嘆の言葉や、いろいろな質問やおどろきさえ、どういうわけか急に不思議なほど程よくひかえ目になり、その代りにもっとも熱烈な感謝が示されて、それがもっとも思慮の深い母親の涙で裏打ちされた。アルカージイ・イワーノヴィチは立ち上がると、にこにこ笑って、許嫁に接吻すると、そのかわいらしい頬を軽くたたいて、すぐにもどるから、と約束したが、彼女の目の中に子供っぽい好奇心とならんで、あるひじょうに真剣な無言の問いがあるのに気がつくと、ちょっと考えて、もう一度接吻した、そして、贈りものがすぐに世の母親の中でももっとも思慮深い母親に鍵をかけてしまわれてしまうだろうと思うと、心底から腹が立ってきた。一同を異常な興奮の中にのこして、彼は外へ出た。しかし心のやさしい母親はすぐに、半ばささやくような早口で、いくつかのもっとも重大な疑惑を解決した、つまり、アルカージイ・イワーノヴィチは大きな人物で、りっぱなしごとも手づるもあり、金持だから、──何を考えているかわからない、思い立ったら、出かけるし、思い立ったら、金をくれる、そういう方だから、何もおどろくことはない、というのである。たしかに、ずぶぬれになってきたのは、おかしいが、例えば、イギリス人のほうが、もっと風変りだ、それに大体が格調の高い人間というものは、世間の噂を気にしないし、もったいぶらないものだ。もしかしたら、あの人は誰もおそれないということを見せるために、わざとあんなふうにして歩いているのかもしれない。何よりも、このことは誰にも一言も話さないことだ、だって、この先どんなことが起るかわかりゃしない。とにかく金は早くかくして鍵をかけてしまうことだ。ほんとに、フェドーシャがずっと台所にいてくれたので、何よりだった。特に、あのずるいレスリッヒには、決して、決して、決して何も言わないように、等々である。坐りこんで、二時近くまでひそひそ話しこんでいた。もっとも、許嫁はずっと早く寝に行ったが、おどろいたような、いくらか悲しそうな様子だった。
その頃スヴィドリガイロフは、ペテルブルグ区の側へ向ってN橋を渡っていた。ちょうど零時だった。雨はやんだが、風が騒いでいた。彼はがくがくふるえはじめていた、そしてちょっとの間ある特殊な好奇心をうかべ、危ぶみの色さえ見せて、小ネワ河の真っ黒い水面をながめた。だがすぐに、河の上に立っているのが、たまらなく寒いような気がした。彼はくるりと向きを変えて、N通りのほうへ歩きだした。彼はどこまでもつづくN通りをもうかなり長く、ほとんど三十分近くも、暗がりで板敷きの歩道を何度か踏み外しながら、歩いていた、そしてたえず好奇の目で通りの右側に何かをさがしていた。この通りの外れに近いどこかで、この間馬車が通ったとき、彼は木造だがかなり大きな宿屋を一軒見たような気がした。そしておぼえているかぎりでは、宿屋の屋号はたしかアドリアノポールとかいったはずだった。彼の見当はまちがっていなかった。その宿屋はこんなさびしい郊外ではひときわ目立つ建物だったので、暗やみの中でも目につかないはずはなかった。それは細長い木造の黒ずんだ建物で、もうこんな時刻なのに、まだ灯がついていて、人の動いているらしい気配が見えた。彼は入って行った。そして廊下で出会ったぼろ服の男に、部屋があるかと聞いた。ぼろ服の男は、じろりとスヴィドリガイロフを見て、ぎくっとして、すぐに彼を遠くはなれた、廊下の突きあたりの階段の下になっている、むしむしする狭苦しい角部屋に案内した。満員で、ほかの部屋はなかった。ぼろ服の男はうさん臭そうな目で見ていた。
「茶はあるかね?」とスヴィドリガイロフは尋ねた。
「そりゃできますよ」
「ほかに何がある?」
「子牛の肉、ウォトカ、ザクースカですな」
「じゃ、子牛の肉と茶を持って来てくれ」
「ほかには何もいらんのかね?」とぼろ服の男はなんとなく奥歯にもののはさまったような言い方をした。
「何もいらんよ、いらんよ!」
ぼろ服の男はがっかりして出て行った。
《きっと、おもしろい場所にちがいない》とスヴィドリガイロフは考えた。《どうしてこんな所を知らなかったろう。おれもどうやら、どこかそこらのカフェ・シャンタンからのもどり客で、途中で何かやらかしてきたらしく、見えるらしい。それにしても、ここにはどんな連中が泊ってるんだろう?》
彼はろうそくをつけて、丹念に部屋を見まわした。それはスヴィドリガイロフでも頭がつかえそうな、物置きみたいな小さな部屋で、窓は一つしかなかった。ひどく汚ないベッドと、粗末な塗りのテーブルと、それに椅子一つがほとんど部屋中を占めていた。壁は板壁に壁紙をはったものらしかったが、壁紙はほこりだらけのうえにぼろぼろに破れているので、黄色い地色はまだどうやら見当はついたが、模様はもうぜんぜん見分けがつかなかった。壁と天井の一部は、屋根裏部屋によくあるように、斜めに切られていて、その上が階段になっていた。スヴィドリガイロフはろうそくをおくと、ベッドに腰を下ろして、もの思いにしずんだ。だが、隣室から聞えてくる、ときどきほとんど叫ぶような声にまで高まる、異様なたえまないひそひそ話が、とうとう、彼の注意をひいた。このひそひそ話は、彼が部屋に入ったときからとぎれずにつづいていた。彼は耳をすました。誰かが誰かをののしったり、いまにも泣きだしそうな声が責めたりしているのだが、一人の声しか聞えなかった。スヴィドリガイロフは立ち上がって、ろうそくの炎を手でさえぎった。するとたちまち暗くなった壁に細い隙間がちらと光った。彼はそこへ行って、隙間からのぞきはじめた。こちらよりいくらか広い室内に、二人の客がいた。上着をきていない、髪の毛のやけにちぢれた、火をふきそうな真っ赤な顔をしたほうが、演説をぶちそうな格好で立ちはだかり、身体のバランスをとるために両足で踏んばって、片手で胸をたたきながら、切々たる調子で相手の男を責めていた。相手の男が貧しくて、官位ももっていないのを、彼が泥沼からひき上げてやったのだから、その気になれば、いつだって追っ払うことができるのだ、神の目は逃れることができない、というようなことだった。責められているほうは椅子に腰かけて、くしゃみをしたくてたまらないのだが、どうしてもうまく出ない、というような顔をしていた。彼はときおり羊の目のような、どろんとにごった目で相手の顔を見上げたが、どうやら、何を言われているのか、ぜんぜんわかっていないらしかった、それどころか、ほとんど何も聞いてさえいなかったらしい。テーブルの上にはろうそくがいまにも燃えつきようとしていて、ほとんど空のウォトカのびんや、酒杯や、パンや、コップや、胡瓜や、もうとっくに飲んでしまった茶の容器などがのっていた。その様子を注意深く見まわしてから、スヴィドリガイロフはおもしろくもなさそうに隙間をはなれて、まだベッドに腰を下ろした。
ぼろ服の男は、茶と子牛の肉をもってもどって来たが、どうにもがまんができなくなって、もう一度《あと何か注文はないのかね?》と聞いた、そして、またいらないという返事を聞くと、もう知らんぞという顔でもどって行った。スヴィドリガイロフはあたたまるために、とびつくようにして茶を一杯飲んだ、しかしぜんぜん食欲がなくて、肉はひときれも食べられなかった。どうやら、熱がでてきたらしい。彼は外套と上着をぬぐと、毛布にくるまって、ベッドに横になった。彼はいまいましかった。《こんなときでもやはり健康のほうがいいのか》──こう思って、彼は苦笑した。部屋の中は息苦しかった、ろうそくがぼんやり燃えていた、庭で風が騒いでいた、どこか隅のほうでねずみががりがりかじる音がしていた、そういえば部屋中がねずみと何か皮の臭いがするようだった。彼は横たわったまま、熱にうかされていたらしい。さまざまな想念が次々と入れかわった。彼はどんな想念にでもいいから、すがりつきたくてたまらないらしかった。《この窓の外は、きっと、公園になっているにちがいない》と彼は考えた。《木がざわざわしている。暗い嵐の夜更け、木のざわめきを聞くとぞっとする、実にいやな感じだ!》すると、さっきペトロフスキー公園のそばを通りしなに、いやな気持でそれを考えたことが思い出された。すぐに、それにたぐられて、彼はN橋と小ネワ河を思い出し、さっき橋の上に立っていたときのように、また寒くなったような気がした。《おれは生れてから一度も、水というものを好いたことがなかった、風景画の水でさえ嫌いだ》彼はふとこんなことを考えて、不意にまたある奇妙な考えに苦笑した。《まったく、もういまとなってはこんな美とか好き嫌いなどどうでもいいはずなのに、かえって選り好みがひどくなったようだ。野獣は、こんな場合……必ず場所を選ぶというが……さっきペトロフスキー公園へ曲りゃよかったんだ! おそらく、暗くて、寒いような気がしたんだろうさ、へ! へ! 快さみたいなものが、ほしくなったんだ!……それはそうと、どうしておれはろうそくを消さないんだろう?(彼はろうそくを吹き消した)。となりも寝たらしいな》さっきの隙間のあかりが見えないので、彼はこう思った。《そうだよ、マルファ・ペトローヴナ、いまこそお出ましにもってこいじゃないか、暗いし、場所はうってつけだし、頃合いはよし。こんなときに来ないなんて……》
彼はどういうわけか不意に、さっき、ドゥーネチカに対する計画を実行する一時間まえに、彼女の保護をラズミーヒンにまかせるようにラスコーリニコフにすすめたことを、思い出した。《たしかに、おれは、ラスコーリニコフに読まれたとおり、むしろ自分の傷をひっかくために、あのとき、あんなことを言ったのかもしれん。しかし、あのラスコーリニコフってやつも、悪党だ! あんなに重荷を背負って。乳臭さがとれたら、いまに大した悪党になるかもしれん! だが、いまは生きることに執着しすぎている! この点ではあいつらは──意気地なしだ! でも、あんなやつはどうでもいい、好きなようにするさ、おれの知ったことか!》
彼はどうしても眠れなかった。しだいにさっきのドゥーネチカの姿が彼のまえにうかんできた、すると不意に、ふるえが彼の全身を走った。《いけない、こんなものはもう捨ててしまわなきゃ》彼ははっとして、こう思った。《何かほかのことを考えるんだ。不思議な気もするし、おかしいとも思うんだが、おれはこれまで誰も憎くてたまらないと思ったことはなかったし、特に復讐してやろうなんて考えたこともなかった、たしかにこれは悪い徴候なんだ、悪い徴候だ! 口論も好かなかったし、かっとしたこともなかった、──これも悪い徴候だ! それにしても、さっきは彼女にずいぶん約束を並べたもんだ、ばからしい! もしかしたら、彼女はおれをどうにか叩き直してくれたかもしれん……》彼はまた黙りこんで、歯をくいしばった。またしてもドゥーネチカの姿が彼のまえにうかんできた。さっき、一発射って、はっとして、拳銃をだらりと下げて、死んだようになって彼に目を見はっていた、あのときそのままの彼女だった。あのときは、こちらが言ってやらなければ、両手を突き出して防ごうとしなかったのだから、二度つかまえるチャンスはあったはずだ。あの瞬間彼女がかわいそうになって、胸がしめつけられたような気がしたことを、彼は思いだした……《え! くそ! またそんなことを、これはもう忘れるんだ、捨てるんだ!……》
彼はうとうとしかけた。熱のふるえはおさまりかけていた。不意に毛布の下で手と足の上を何かが走りぬけたような気がした。彼はびくっとした。《くそ、いまいましい、ねずみらしいぞ!》と彼は思った。《子牛の肉をテーブルの上にうっちゃっておいたからだ……》彼はどうしても毛布をはねて、起きて寒い思いをする気にはなれなかった、ところがまた不意に何か気持の悪いものが足の上をすりぬけた。彼は毛布をはねのけて、ろうそくをつけた。ぞくぞくするような寒さにふるえながら、彼は屈みこんでベッドの上をしらべたが、──何もいなかった。彼は毛布をふるった、すると不意にシーツの上にねずみが一匹とびだした。彼はつかまえようとしてとびかかった。ところがねずみはベッドの上から逃げようとしないで、あちらこちらへちょろちょろとジグザグに逃げまわり、彼の指の下をすりぬけて、腕の上を走りぬけ、不意に枕の下へもぐりこんだ。彼は枕をはねのけた、と同時に何かが懐ろの中へとびこんで、ちょろちょろと背中のほうへまわり、シャツの下にはいこんだのを感じた。彼はぞくぞくッとふるえて、目をさました。部屋の中は暗かった。彼はさっき寝たときのように、毛布にくるまってベッドの上に横になっていた。窓の下で風が唸っていた。《なんていやな気持だ!》と彼はむかむかしながら考えた。
彼は起き上がると、窓に背を向けて、ベッドのはしに坐った。《もうこうなったら眠らぬほうがましだ》と彼は腹をきめた。しかし、窓のあたりから寒いじめじめした空気が流れてきた。彼は坐ったまま毛布をひきよせて、すっぽりかぶった。ろうそくはつけなかった。彼は何も考えなかった、それに考えたくもなかった。しかし幻覚が次々とあらわれ、はじめも終りもない、何のつながりもない想念の断片が、ちらちらと浮んでは消えた。半分夢を見ているような気持だった。寒さか、闇か、しめっぽい空気か、窓の下に唸り、木々をゆすっている風か、彼の内部にある執拗な幻想に対する傾きとあこがれを呼びさますものがあった、──しかし彼のまえにはたえず花があらわれるようになった。やがて、すばらしい風景が彼の空想に描き出された。明るい、あたたかい、あついくらいの日で、ちょうど三位一体祭の日だった。村の華麗な英国風の別荘、家のまわりを取り巻いている花壇には花が一面に咲き匂っている。つたがからみ、バラの花壇をめぐらした玄関。ぜいたくなじゅうたんを敷き、陶器の鉢に植えた珍しい花を両側に置きならべた階段。窓辺の水盤にいけてある、鮮やかなみどり色のみずみずしい長い茎を傾けさせるほどに、白い優美な花をつけて、強い香りを放っている水仙の花束が、特に彼の目をひいた。彼はそのそばをはなれたくないような思いだったが、階段をのぼって、天井の高い大きな広間に入った。するとそこもまた、窓も、テラスに出るドアのあたりも、テラスにも、一面の花だった。床には刈り取ったばかりのみずみずしい香りの強い草がまいてあった。窓は開け放されて、さわやかな、涼しいそよ風が部屋へ吹き通い、窓の下で小鳥がさえずっていた。ところが、広間の中央には、白繻子の掛布でおおわれた卓の上に、一つの棺がおいてあった。その棺には白い絹布がかけられて、その絹布には白い縁飾りがこまかく縫いつけられていた。棺のまわりには花冠が一面に飾られ、その中に花に埋まるようにして一人の少女が、白い薄絹の衣装を着て、大理石で刻んだような両手をしっかり胸に組んで、横たわっていた。しかし、少女のとかれた明るいブロンドの髪は、濡れていた、そしてバラの花冠が頭を飾っていた。もうかたく冷えてしまったきびしい横顔も、大理石で刻み上げられたようであったが、蒼白い唇に凍りついたうすい笑いは、何か子供らしくない、限りない悲しみと深いうらみにみたされていた。スヴィドリガイロフはこの少女を知っていた。この棺のそばには聖像もなければ、ろうそくもともっていないし、祈祷の声も聞えなかった。この少女は自殺者だった、──川に身を投げて死んだのだった。少女はわずか十四だったが、心はもう傷つききっていた、そしておさない子供の意識をおびえさせ、おののかせた屈辱にさいなまれつくしたその心が、天使のような清らかな魂におぼえのない恥ずかしい罪を着せられ、雪どけのじめじめした寒い闇の中で、誰にも聞かれぬ、はげしい呪いにみちた絶望の最後の叫びを、真っ暗い夜に投げつけながら、自分の身を亡ぼしたのだった。その夜も風が唸っていた……
スヴィドリガイロフははっと目がさめて、ベッドから起き上がると、窓のそばへ行った。彼は手さぐりでかんぬきをさがして、窓をあけた。風が怒り狂ったようにせまい部屋に吹きこみ、彼は顔やシャツ一枚の胸に冷たい氷をはりつけられたような気がした、窓の下は、たしかに公園のようなものになっているにちがいなかった、そして、これもおそらく遊園地らしく、昼間は歌手たちが歌をうたったり、小さなテーブルに茶がはこばれたりしていたにちがいない。いまは木々や茂みからしぶきが窓に吹きつけていた、そして墓穴の中のように真っ暗で、何かあるらしい真っ黒い点々がかすかに見分けられるだけだった。スヴィドリガイロフは身を屈めて、窓台に両肘をついたまま、もう五分ほど、じっとこの黒い靄の中をにらみつづけていた。夜更けの闇の中に砲声がひびきわたった、つづけてまた一発聞えた。
《あ、警報だ! 水かさが増したんだな》と彼は考えた。《明け方には水がでて、低いところは通りも、地下室も、穴蔵も水びたしになるぞ。さぞねずみどもが流されるこったろう。雨と風の中で人間どもがびしょぬれになって、ののしりちらしながら、がらくたを二階に運び上げるさ……ところで、何時かな?》こう考えたとたんに、どこか近くで、せかせかと、まるであわてふためくように、柱時計が三時を打った。《へえ、一時間もすると明るくなるぞ! ぐずぐずしちゃおれん! すぐにここを出て、まっすぐペトロフスキー公園へ行こう。そしてどこでもいい、大きな茂みを見つけるんだ、雨をいっぱいにふくんだ、ちょっと肩をふれただけで、無数のしずくが頭におちてくるような……》彼は窓をしめて、窓のそばをはなれると、ろうそくをつけて、上着と外套を着て、帽子をかぶり、ろうそくを手にもって廊下へ出た。どこかの小さな部屋のがらくたやろうそくの燃えかすの間で眠っているぼろ服の男をさがし出して、勘定をすまし、宿を出るつもりだった。《うってつけの時刻だ、これ以上の時刻は選ぼうったって無理だ!》
彼はややしばらく細長いせまい廊下を歩きまわったが、誰も見つからないので、じりじりして大きな声でどなろうとした。そのとたんに、暗い隅のほうの古い戸棚とドアの間に、何か妙なものがごそごそしているのが目についた。どうやら生きもののようだ。屈みこんで、ろうそくの光をあてて見ると、一人の子供だった。五つになるかならないくらいの女の子が、おしめみたいにぐっしょり濡れたぼろぼろの服を着て、ぶるぶるふるえながら、泣いていた。少女はスヴィドリガイロフに別におびえた様子はなかったが、大きな黒い目ににぶいおどろきを浮べて彼を見つめながら、泣きつかれた子供が、もう泣きやんで、おさまってしまったのに、ときどき思い出しては、急にまたしゃくり上げるように、ときどきしゃくり上げていた。少女の顔は蒼白く、やつれていた。寒さですっかり凍えていた。《だが、どうしてこんなところへ来たんだろう? きっと、ここにかくれていたんだ、そして一晩中眠らなかったにちがいない》彼は少女にいろいろと尋ねはじめた。少女は急に元気がでて、子供言葉で何やらせかせかとしゃべりだした。聞いていると、《母ちゃん》がどうしたとか、《母ちゃんがぶった》とか、《こわちた》茶わんがどうとか、いうことだった。少女はとめどなくしゃべった。その話からどうやら次のようなことが察しられた。この少女は好かれない子で、この宿屋で料理女をしているらしい母親は、年中酒を飲んでいるような女で、この少女をしょっちゅう叱ったり、ぶったりしていた。少女は母の茶わんをこわしたので、すっかりおびえてしまって、まだ宵のうちから逃げ出した。そして長い間庭のどこかに、雨にうたれながらかくれていて、やっとここまで逃げこみ、戸棚のかげにかくれて、寒さと、暗さと、今度こそこっぴどく折檻されるにちがいないという恐ろしさから、泣きながらぶるぶるふるえて、一晩中この隅っこにちぢこまっていた。大体こういうことらしかった。彼は少女を抱き上げて自分の部屋へはこび、ベッドにかけさせて、服をぬがせはじめた。素足にはいた穴だらけの靴は、一晩中水たまりの中につけておいたみたいに、ぐしょぐしょに濡れていた。服をぬがせると、ベッドの上にねかせて、頭からすっぽり毛布でつつんでやった。少女はすぐに眠ってしまった。世話がすっかり終ると、彼はまた憂鬱そうに考えこんだ。
《まだこんなことにかかりあう気だ!》と彼は重苦しい自己嫌悪を感じながら、考えた。《なんてばかばかしい!》彼は今度こそどうしてもぼろ服の男をさがし出し、一刻も早くこの宿を出ようと思って、むしゃくしゃしながらろうそくを取り上げた。《ええ、いまいましい少女だ!》彼はもうドアを開けてから、呪わしそうにこう思ったが、気になって、もう一度少女の様子を見に引き返した。眠っているだろうか、どんなふうに眠っているだろう? 彼はそっと毛布をもちあげた。少女は気持よさそうにぐっすり眠っていた。毛布にあたためられて、もう赤味が蒼白い顔にさしていた。だが、妙なことに、その赤味が普通の子供の赤さにしては、色が鮮やかで濃すぎるような気がした。《これは熱病の赤さだ》とスヴィドリガイロフは考えた。それは──酒に酔ったような赤さだった、まるでコップ一杯の酒を飲まされたようだ。真っ赤な唇は燃えて、あえいでいるようだ、しかし、これはどうしたというのだ? 不意に、少女の長い黒い睫毛がひくひくッとふるえて、すこしもちあがり、その下からずるそうな、きらッと光る、何か子供らしくない目がのぞいて、パチッとウィンクしたような気がした。少女は眠ってはいないで、眠ったふりをしていたらしい。たしかに、そのとおりだった。唇に微笑がみなぎりはじめた。まだ堪えようとしているらしく、唇のはしがひくひくふるえている。だが、少女はもう堪えるのをすっかりやめてしまった。これはもう笑いだった。明らかな笑いだった。そのまるで子供らしくない顔には、何かずるいそそるようなものがきらきらしていた。それは淫蕩だ、娼婦の顔だ、フランスの淫売婦のあつかましい顔だった。もう少しもかくそうとしないで、二つの目はぱっちりと開いた。そしてその目は恥じらいを知らぬ燃えるようなまなざしで彼を見まわし、彼を誘い、彼に笑いかけている……その笑いには、その目には、少女の顔にあるそのいやらしさには、何かしら限りなくみにくい、痛ましいものがあった。《どういうのだ! わずか五つくらいの少女が!》スヴィドリガイロフは腹の底からぞうッとして、呟いた。《これは……これはいったいどうしたことだ?》だが、少女はもうその小さな顔をすっかり彼のほうへ向けて、両手をさしのべているではないか……《あ、このけがらわしいやつめ!》と、手を少女の上に振り上げながら、スヴィドリガイロフはぎょッとして叫んだ……そのとたんに、目がさめた。
彼は先ほどと同じベッドの上に、同じように毛布にくるまって横になっていた。ろうそくはともっていないが、窓はもうすっかり明るくなっていた。
《一晩中悪夢にうなされた!》彼は全身に綿のような疲れを感じながら、苦りきった顔で起き上がった。身体中の骨がずきずきした。外は一面に濃い霧で、何も見分けることができない。もう五時になろうとしている。寝すごした! 彼はベッドを下りて、まだしめっぽい上着と外套を着た。彼はポケットの拳銃を手さぐりでとり出し、雷管を直した。それから腰を下ろして、ポケットから手帳をとり出し、そのいちばん目につきやすい表紙裏に大きな字で数行書いた。それを読み返すと、彼はテーブルに肘杖をついて、もの思いにしずんだ。拳銃と手帳は肘のすぐそばに無造作においてあった。目をさました蠅が、やはりテーブルの上においてあった手をつけない子牛の肉にたかっていた。彼はややしばらくその蠅を見ていたが、とうとう、自由な右手でそのうちの一匹をつかまえにかかった。ややしばらく骨を折ってみたが、どうしてもつかまえることができなかった。とうとう、こんなたわいないことに夢中になっている自分に気がつくと、はっとして、びくっと身体をふるわせ、立ち上がって、しっかりした足どりで部屋を出て行った。一分後に彼は通りに出ていた。
ミルクのような濃い霧が町の上にたれこめていた。スヴィドリガイロフは泥がついてつるつるすべる板敷きの歩道を、小ネワ河のほうへ歩きだした。彼の目先には、一夜のうちに高くもり上がった小ネワ河の流れや、ペトロフスキー島や、濡れた小道、濡れた草、濡れた木々や茂み、そして最後に、あの茂みが、ちらちら浮んだ……ほかのことは何も考えまいとして、彼は腹立たしげに家々をながめはじめた。通りには一人の通行人も、一台の馬車も見えなかった。派手な黄色を塗った木造の家々が、鎧戸を下ろして、ものうげにきたならしく見えた。寒さとしめっぽさが彼の身体中にしみわたって、またぞくぞくと悪寒がしはじめた。ときどき小店や青物屋の看板が目につくと、彼はひとつひとつていねいに読んだ。もう板敷きの歩道がつきた。彼は大きな石造の家のまえへ来ていた。泥まみれの凍えきった小犬が、しっぽをまいて彼のまえを横切った。泥酔した男が一人、外套のままうつ伏せに歩道に倒れて、道をさえぎっていた。彼はそれをちらと見て、そのまま通りすぎた。高い望楼が左手のほうにちらと見えた。《あれだ》と彼は思った。《うん、あそこがいい。ペトロフスキーまで行くまでもない! 少なくともその筋の証人がいてくれるわけだ……》彼はこの新しい考えに思わず苦笑しそうになって、S通りへ曲った。すぐに望楼のある大きな家があった。閉った大きな門のまえに、灰色の兵隊外套を着て、アキレスのような鉄帽をかぶったあまり大きくない男が、片方の肩を門にもたれかけるようにして立っていた。彼はねむそうな目で、近づいてくるスヴィドリガイロフに気のない横目をなげた。その顔には、すべてのユダヤ人に例外なくにがく刻みつけられている、永遠に消えることのないねじけた悲しみが見られた。スヴィドリガイロフとアキレスの二人は、しばらくの間、黙って、互いに相手を見まわしていた。アキレスには、ついに、酔ってもいない男が、自分の三歩ばかりまえに突っ立って、ものも言わずしつこくじろじろ見ているのが、無礼に思われてきた。
「あ、ここになんの用があるんだね?」と彼はやはり身体も動かさず、姿勢も変えずに、言った。
「いや、別に、きみ、機嫌はどうだね!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここは来るところじゃない」
「わたしはね、きみ、外国へ行くんだよ」
「外国へ?」
「アメリカだよ」
「アメリカ?」
スヴィドリガイロフは拳銃を出して、撃鉄を上げた。アキレスは目をつり上げた。
「あ、何をする、そんなもの、ここじゃいかん!」
「どうしてここじゃいかんのかね?」
「つまり、ここはそんな場所じゃないからだ」
「いや、きみ、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もしきみが聞かれるようなことがあったら、アメリカへ行くと言ってた、とそう答えなさい」
彼は拳銃を自分の右のこめかみに当てた。
「あ、ここじゃいかん、ここは場所じゃない!」と、アキレスはますます大きく目を見ひらきながら、ふるえ上がった。
スヴィドリガイロフは引鉄を引いた。
7
その同じ日、といってももう夕暮れの六時すぎだったが、ラスコーリニコフは母と妹の住居の近くまで来ていた。それはラズミーヒンが世話をしてくれたバカレーエフのアパートにある例の住居だった。階段の入り口は直接通りに面していた。ラスコーリニコフは、入ろうか、入るまいか、と迷っているらしく、まだ足をしぶらせながら、近づいて行った。しかし彼はどんなことがあっても引き返しはしないはずだった。彼は固く決意していたのである。《それにどうせ同じことだ、二人はまだ何も知らないんだし》と彼は考えた。《おれを変人と思うことには、もう慣れているんだから……》彼はひどい服装をしていた。一晩中雨にうたれていたために、すっかり泥にまみれて、かぎ裂きやらほころびやらでぼろぼろになっていた。彼の顔は疲労と、悪天候と、肉体的な衰弱と、ほとんど一昼夜もつづいた自分自身とのたたかいのために、醜悪なまでに変っていた。昨夜一夜、彼はどことも知れぬ場所で、一人ですごした。しかし、とにかく、彼は決心したのである。
彼はドアを叩いた。開けてくれたのは母だった。ドゥーネチカはいなかった。ちょうど女中まで留守だった。プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは最初うれしいおどろきのあまりぽかんとしてしまったが、すぐ彼の手をとって、部屋の中へ連れて行った。
「やっと、来てくれたねえ!」とうれしさに口ごもりながら、彼女は言いだした。「わたしをおこらないでおくれね、ロージャ、せっかく来てくれたのに、ばかだねえ、泣いたりなんかして。泣いているんじゃないんだよ、笑っているんだよ。おまえは、わたしが泣いていると思うかえ? いいえ、わたしは喜んでいるんだよ。どうしてこんなばかな癖がついたものか、うれしいとすぐに涙がでてきてねえ。これはおまえのお父さんが亡くなったときからなんだよ、何かというとすぐ泣けてくるんだよ。さあ、お坐り、疲れたでしょう、そうでしょうとも。まあ、ひどい汚れ方だねえ」
「昨日雨の中にいたんだよ、母さん……」とラスコーリニコフは言い出しかけた。
「いや、いいんだよ、いいんだよ!」と彼をさえぎりながら、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは大きな声で言った。「おまえは、わたしが婆さんのいままでの癖で、いろんなことをうるさく尋ねはじめると思ったんでしょう。心配しなくていいんだよ。わたしはわかってるんだよ、すっかりわかってるんだよ、いまはもうこちら風のものの考え方をおぼえてねえ、たしかに、自分でも思うけど、こちらのほうが利口だよ。わたしはね、どうせおまえの考えていることなんかわかりっこないんだから、聞いたってしようがないと、きっぱりと心に決めたんだよ。おまえの頭には、わたしなんかの知らない事業や計画みたいなものがあるんだろうし、思想とかいうものが生れたりするんだろうからねえ。とてもわたしには、何を考えてるの? なんて、手をひっぱってやることはできやしないよ。わたしはね……おや、まあ! なんだってわたしはこうちょこちょこ話を変えるんだろう、頭がどうかしたみたいに……わたしはね、ロージャ、雑誌にのったあのおまえの論文を、いま三度目の読み返しをしてるんだよ。ドミートリイ・プロコーフィチが貸してくれたんでねえ。読んでみて、ほんとにびっくりしたよ。わたしはなんてばかだったんだろう、あの子はこんなことを考えていたのか、これで謎がとけた! あの子はあの頃新しい思想というものを考えて、頭を痛めていたにちがいない、それを知らずに、苦しめたり、困らせたりして、と思ってねえ。読んでもね、そりゃもう、わからないとこだらけなんだよ。でも、それがあたりまえ、どうせわかりっこないんだから」
「どれ、見せて、母さん」
ラスコーリニコフは雑誌を手にとって、ちらと自分の論文を見た。それがいまの彼の状態と心境にどんなに矛盾していても、彼は、はじめて自分の書いたものが活字になったのを見たときに作者が経験する、あの異様な甘苦いような気分を感じた。まして二十三歳の若さだった。それもちょっとの間だった。数行読むと、彼は眉をしかめた。おそろしい憂愁が彼の心をしめつけた。この数カ月の心の中のたたかいがすっかり一時に思い返された。彼はいやな顔をして、いまいましそうに、論文をテーブルの上にほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、わたしはどんなにばかでも、おまえが近い将来に、わが国の学会で一番とはいかないまでも、第一級の人々の中にかぞえられるような人になってくれることだけは、わかるような気がするんだよ。ほんと、あの人たちったら、おまえが発狂したなんて、よくもそんなことが言えたもんだよ。は、は、は! おまえは知らんだろうが、──あの人たちはそんなことを考えていたんだよ! まったく、あきれたうじ虫どもだねえ、あんなやつらに、天才ってどんなものか、わかってたまるものかね! それがおまえ、ドゥーネチカまでもう危なく本気にするところだったんだよ、──ほんとに、どういうんだろう! おまえの亡くなったお父さんも雑誌に二度投稿したことがあったっけ、──最初は詩で(ノートがちゃんとしまってあるから、そのうちに見せてあげるよ)、二度目はもうちゃんとした小説だった(わたしは無理にお父さんに頼んで、清書させてもらったっけ)、そして二人で、採用になるように神さまにお祈りしたんだけど、──だめだった! わたしはね、ロージャ、六、七日まえには、おまえの着ているものや、生活ぶりや、食べているものや、履いているものなどを見て、死ぬほどがっかりしたけど、いまはもう、そんな心配をしたわたしがやっぱりばかだったことが、わかったんだよ。だって、おまえがその気になれば、頭と才能でなんでもすぐに手に入るんだものねえ。おまえはきっと、ここ当分はそんなことは考えないで、もっともっと大切なしごとにうちこんでいるんだよ、ねえ……」
「ドゥーニャはいないの、母さん?」
「いないんだよ、ロージャ。このごろはでかけてばかりいて、さっぱりわたしをかまってくれないんだよ。でもありがたいことに、ドミートリイ・プロコーフィチがしょっちゅう寄ってくれて、いつもおまえの話を聞かせてくれるのでねえ。あのひとはおまえを好いて、尊敬している、ほんとにいい方だよ。でも、何もドゥーニャが、わたしをひどく粗末にするようになったなんて、そんなことを言ってるのじゃないんだよ。ぐちなんかこぼさないよ。あれはああいう気性だし、わたしはわたしで性分が別だから。あれには何かかくしごとがあるらしいんだよ、でもわたしは、おまえたちに何もかくしごとなんてありませんよ。そりゃむろん、ドゥーニャが頭がよすぎて、それに、わたしとおまえを愛していてくれることは、わたしはかたく信じてますがね……でも、わたしにはさっぱりわからないんだよ。こんなことをしていていったいどういうことになるんだろうねえ。ロージャ、いまはおまえがこうして寄ってくれて、わたしを喜ばせてくれたけど、あれはどっかでぶらぶらしている。もどって来たら、わたしは言ってやりますよ、おまえの留守に兄さんが来てくれたんだよ、おまえはいったいどこで遊んでいたんだえ? ってね。でもね、ロージャ、あんまりわたしを甘やかさないでいいんだよ、おまえの都合がよかったら──寄っておくれ、わるきゃ──しかたがない、こうして待っているから。わたしだってやっぱり、おまえが愛していてくれることを、知りたいものねえ、わたしはそれで十分なんだよ。こうしておまえの書いたものを読んだり、みんなからおまえの話を聞いたり、そのうちに──おまえが様子を見に寄ってくれる、こんないいことってある? 現にいまだって、わたしを慰めに寄ってくれたじゃないの、そうだろう……」
ここまで言うと、プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは急に泣き出した。
「わたしったらまた! こんなばかなんか見ないでおくれ! あ、ほんとにわたしったら、どうしたんだろう、ぼんやり坐りこんでいて」と、あわてて席を立ちながら、彼女は大きな声を出した。「コーヒーがあるのに、おまえにご馳走しようともしないで! これが婆さんの身勝手というものだねえ。いますぐいれるからね!」
「母さん、いいんですよ、ぼくはすぐ帰りますから。ぼくはそんなつもりで来たんじゃないんです。どうか、ぼくの言うことを聞いてください」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナはおずおずと彼のそばへ寄った。
「母さん、どんなことが起っても、ぼくのことでどんなことを聞いても、ぼくのことでどんなことをおしえられても、母さんは、いままでのようにぼくを愛してくださいますか?」彼は胸がいっぱいになって、言葉を考えて、その意味のもつ重さをはかる余裕もないらしく、いきなりこう尋ねた。
「ロージャ、ロージャ、どうしたというの? え、どうしてそんなことがわたしに聞けるの! それに、誰がおまえのことをとやかくわたしに言うの? いいよ、わたしは誰も信じやしない、誰が来ようと、すぐに追いかえしてやるから」
「ぼくは、いつも母さんを愛していたことを、母さんにはっきり知ってもらうために来たのです、そしていま、二人きりでよかったと思います。ドゥーネチカがいなかったことが、かえって嬉しいんです」と彼はやはり激情のほとばしりをおさえかねるようにつづけた。「ぼくは、たとえ母さんが不幸になるようなことがあっても、やはりあなたの息子はわが身以上にあなたを愛していることを、知っていていただきたいのです、それから母さんがこれまで、ぼくのことを冷酷な人間で、母さんを愛していない、と考えたことがあったとしたら、それはみなまちがいです、このことを母さんにはっきりと言いに来たんです。ぼくは母さんをいつまでも愛しつづけます……これで、もういいでしょう。ぼくは、こうして、ここからはじめなければならない、そう思ったんです……」
プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナは黙って彼を胸に抱きしめながら、声を殺して泣いていた。
「どうしたというの、ロージャ、わたしにはわからないけど」と、やがて彼女は言った。「わたしはずっと、わたしたちはおまえにうるさがられているのだとばかり思っていたけど、さっきから様子を見ていると、きっと、おまえに何か大きな悲しみがあって、そのために苦しんでいるのだねえ。わたしにはもうまえまえからそれがわかっていたんだよ、ロージャ。こんなことを言い出して、許しておくれね。いつもそれが気になって、夜も眠れないんだよ。昨夜はおまえの妹も一晩中うなされて、おまえのことばかり口走っていましたよ。少しは聞きとれたけど、何のことやらわけがわからなかった。今朝はずっと、まるで刑場にひかれるまえみたいに、そわそわと落ち着かなく、何かありそうな気がして、心待ちしていたんだけど、やはり甲斐があったねえ! ロージャ、ロージャ、いったいどこへ行くの? どこか、遠いところへでも行くのかえ?」
「ええ」
「わたしもそんな気がしてたんだよ! おまえさえよければ、わたしもいっしょに行っていいんだよ。ドゥーニャも、あれはおまえを愛してますよ、ほんとに心から愛してますよ。それから、よかったら、ソーフィヤ・セミョーノヴナもいっしょに連れて行きましょう。わたしはね、あのひとを喜んで娘代りにしたいとさえ思っているんだよ。わたしたちがいっしょに集まって暮せるように、ドミートリイ・プロコーフィチが骨を折ってくれますよ……おや……おまえはどこへ……もう出かけるの?」
「さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐ!」と、このまま永久に息子を失ってしまうかのように、彼女は叫んだ。
「こうしていられないのです、もう出かけなければ。どうしてもすまさなければならない用事があるのです……」
「じゃ、わたしはいっしょに行けないの?」
「いけません、どうか、ひざまずいて、ぼくのために祈ってください。母さんの祈りなら、とどくかもしれません」
「どれ、じゃ十字を切らしておくれ、祝福してあげますよ! そうそう、これでいいよ。おや、わたしたちは何をしているんだろう!」
そうだ、彼は嬉しかった、母と二人きりで、ほかに誰もいないのが、たまらなく嬉しかった。彼はこの恐ろしい何日かの後、心が一時に楽になったような気がした。彼は母のまえに突っ伏して、母の足に接吻した、そして二人は、抱き合って、泣いた。彼女ももうおどろかなかったし、うるさく尋ねなかった。息子の身に何かおそろしいことが起ろうとしていて、いまそのおそろしい瞬間が近づいたことが、彼女にはもうとっくにわかっていた。
「ロージャ、わたしのかわいい、かけがえのないロージャ」と、声をあげてすすり泣きながら、彼女は言った。「おまえはちっちゃいときも、ちょうどこんなだったよ。こんなふうにわたしのところへ来て、こんなふうに抱きついて、わたしに接吻してくれたっけ。まだお父さんが生きていて、貧しかった頃、おまえがいてくれるということだけで、わたしたちは慰められたものだった。そしてお父さんが亡くなってからは──何度わたしとおまえは、お父さんのお墓のまえで、こんなふうに抱き合って泣いたことか。わたしがもうかなりまえからすっかり涙っぽくなったのは、母親の心が不幸の来るのを見ぬいていたんだねえ。わたしはあの晩、おぼえてるかい、ほら、わたしたちがこちらへ着いたあの晩だよ、はじめておまえに会ったとき、おまえの目を一目見てすべてを察し、胸がどきッとしたんだよ。今日は、ドアを開けて、おまえを一目見たとき、いよいよ運命のときがきたんだな、と思いましたよ。ロージャ、ロージャ、おまえはいますぐ行くんじゃないだろうね?」
「ちがいます」
「また来てくれるね?」
「え……来ます」
「ロージャ、怒らないでおくれね、どうせこまごまと聞くなんて、わたしにはできやしないんだから。できないのは、わかってるけど、一言だけ聞かせておくれね、おまえはどこか遠くへ行くのかえ?」
「ひじょうに遠いところです」
「じゃそちらに何か、勤め口か、いい話でもあるというの?」
「わかりません……ただぼくのために祈ってください……」
ラスコーリニコフはドアのほうへ行きかけた。彼女は息子にすがりついて、必死のまなざしで息子の目を見た。顔は恐怖でゆがんだ。
「もういいですよ、お母さん」とラスコーリニコフは、来る気になったことを深く後悔しながら、言った。
「これっきりじゃないね? ほんとに、まだ、これっきりじゃないんだね? まだ来てくれるね、明日来てくれるね?」
「来ます、来ますよ、さようなら」
彼はついに振りきって出て行った。
さわやかな、あたたかい、晴れた宵だった。空は朝のうちから晴れわたっていた。ラスコーリニコフは自分の家のほうへ歩いていた。彼は急いでいた。太陽がおちるまでにすっかりかたをつけてしまいたかった。それまでは誰とも会いたくないと思った。階段をのぼりながら、彼は、ナスターシヤがサモワールのそばをはなれて、じっと彼を見つめて、そのままいつまでも見送っているのに気付いた。《はてな、誰か来てるのかな?》彼はふとこう思った。ポルフィーリイの顔をちらと思いうかべて、彼はいやな顔をした。だが、部屋のまえまで来て、ドアを開けて見ると、ドゥーネチカだった。彼女は一人ぽつんと坐って、深いもの思いにしずんでいた。もう大分まえから彼のかえりを待っていたらしい。彼はしきいの上に立ちどまった。彼女ははっとしてソファから腰をうかすと、きっとした様子で彼のまえに立った。じっと彼に注がれたその目には、恐怖といやされぬ深い悲しみがあらわれていた。その目を見ただけで、彼はとっさに、彼女がすべてを知っていることをさとった。
「どう、入ってもいい、それともこのまま出て行く?」と彼はためらいながら尋ねた。
「わたしは一日中ソーフィヤ・セミョーノヴナの部屋にいました。二人で兄さんの来るのを待っていたんです。わたしたちは、兄さんがきっと寄ると思っていました」
ラスコーリニコフは部屋に入ると、ぐったりと椅子に腰を下ろした。
「なんだかだるいんだよ、ドゥーニャ。疲れすぎているんだね。せめてここちょっとの間だけでも、気をしっかりもっていたいと思うんだが」
彼は疑るような目をちらと彼女に投げた。
「一晩中いったいどこにいたの?」
「よくおぼえていない。ねえ、ドゥーニャ、ぼくは完全に解決してしまおうと思って、ネワ河のほとりを何度も歩きまわった。それはおぼえている。ぼくはそこで解決してしまいたかった、が……思いきれなかった……」と、また疑るようにドゥーニャを見ながら、彼は低声で言った。
「よかった! わたしたち、わたしとソーフィヤ・セミョーノヴナは、どんなにそれを恐れたでしょう! つまり、兄さんは生命というものをまだ信じているんだわ。よかった、よかったわ!」
ラスコーリニコフは苦々しく笑った。
「ぼくは信じちゃいないよ。いま母さんといっしょに、抱き合って、泣いてきたんだ。ぼくは信じはしないが、母さんに、ぼくのために祈ってくれるように頼んだ。どんなふうになっているのかは、誰もわかりゃしない、ドゥーネチカ、こういうことになると、ぼくはぜんぜんわからないんだよ」
「母さんのところへ行ったの? じゃ、兄さんは、母さんに話したの?」と、ドゥーニャはぎょっとして叫んだ。「ほんとに、思いきって、話したの?」
「いや、話さなかった……言葉では。でも、母さんはいろいろとさとっていたよ。夜おまえがうなされているのを、聞いたんだよ。もう大体はわかっていると思うよ。寄ったのは、まずかったかもしれない。まったく、なんのために寄ったかさえ、ぼくにはわからないんだよ。ぼくは下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間、だって苦しみを受けようとしてるじゃありませんか! ほんとに、行くのね?」
「行くよ。いますぐ。ぼくはこの恥辱を逃れるために、川へ身を投げようとしたんだよ、ドゥーニャ、だが橋の上に立って水を見たときに、考えたんだ、いままで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、いま恥辱を恐れてどうする」と彼は先まわりをして、言った。「これが誇りというものだろうな、ドゥーニャ?」
「誇りだわ、ロージャ」
彼のどんよりした目に一瞬火花がきらめいたようだった。まだ誇りがあることが、嬉しくなったらしい。
「水を見て怯気づいただけさ、なんて思わないだろうね、ドゥーニャ?」と彼はみにくいうす笑いをうかべて、彼女の顔をのぞきこみながら、尋ねた。
「おお、ロージャ、よして!」とドゥーニャは悲しそうに叫んだ。
二分ほど沈黙がつづいた。彼は坐ったままうなだれて、じっと床を見つめていた。ドゥーネチカはテーブルの向う側に立って、痛ましそうに彼を見つめていた。不意に彼は立ち上がった。
「もうおそい、行かなくちゃ。ぼくはいま自分を渡しに行くんだよ。だが、なんのために自分を渡しに行くのか、ぼくにはわからない」
大粒の涙が彼女の頬をつたった。
「おまえは泣いてくれるんだね、ドゥーニャ、ぼくの手をにぎってくれる?」
「どうしてそんなことを言うの?」
彼女は彼をかたく抱きしめた。
「だって兄さんは、苦しみを受けに行くことで、もう罪の半分を償ってるじゃありませんか?」と、彼女ははげしく彼を抱きしめ、接吻をくりかえしながら、叫ぶように言った。
「罪? どんな罪だ?」と彼は不意に、発作的な狂憤にかられて叫んだ。「ぼくがあのけがらわしい、害毒を流すしらみを殺したことか。殺したら四十の罪を赦されるような、貧乏人の生血を吸っていた、誰の役にも立たぬあの金貸しの婆ぁを殺したことか。これを罪というのか? おれはそんなことは考えちゃいない、それを償おうなんて思っちゃいない。どうしてみんな寄ってたかって、《罪だ、罪だ!》とおれを小突くんだ。いまはじめて、おれは自分の小心の卑劣さがはっきりとわかった、いま、この無用の恥辱を受けに行こうと決意したいま! おれが決意したのは、自分の卑劣と無能のためだ、それに更にそのほうがとくだからだ、あの……ポルフィーリイのやつが……すすめたように!」
「兄さん、兄さん、なんてことを言うんです! だって、あんたは血を流したじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望的に叫んだ。
「誰でも流す血だよ」と彼はほとんど狂ったように言った。「世の中にいつでも流れているし、滝みたいに、流れてきた血だよ。シャンパンみたいに流し、そのためにカピトーリーの丘(注 古代ローマの七丘の一つ)で王冠を授けられ、後に人類の恩人と称されるような血だよ。もっとよく目をあけて見てごらん、わかるよ! ぼくは人々のために善行をしようとしたんだ。一つのこの愚劣の代りに、ぼくは数百、いや数百万の善行をするはずだったんだ。いや、愚劣とさえ言えないよ。ただの手ちがいさ。だって、この思想自体は、たとい失敗した場合でも、いま考えられるような愚劣なものでは、決してなかったんだ……(失敗すれば何でも愚劣に見えるものさ!)この愚劣な行為によって、ぼくはただ自分を独立の立場におきたかった、そして第一歩を踏み出し、手段を獲得する、そうすれば比べようもないほどの、はかり知れぬ利益によって、すべてが償われるはずだ……ところがぼくは、ぼくは、第一歩にも堪えられなかった、なぜなら、ぼくは──卑怯者だからだ! これがすべての原因なのだ! それでもやはりぼくは、おまえたちの目で見ようとは思わん。もし成功していたら、ぼくは人に仰ぎ見られただろうが、いまはまんまとわなに落ちたよ!」
「でも、それはちがうわ、ぜんぜんちがうわ! 兄さん、あんたはなんてことを言うの!」
「あ! 形がちがうというんだね! それほど美学的にいい形じゃないというんだね! それが、ぼくにはまったくわからんのだよ。どうして人々を爆弾で吹っとばしたり、正確な包囲で攻め亡ぼしたりするほうが、より尊敬すべき形なんだろう? 美しさを危ぶむというのは無力の第一の徴候だ! これをいまほどはっきりと意識したことは、これまでに、一度もなかった。だからいままでのいつよりも、いまが、ぼくは自分の罪が理解できんのだ! ぜったいに、一度も、ぼくはいまほど強く、そして確信にみちたことは、ない!……」
彼の蒼白くやつれた顔に赤味さえさした。しかし、この最後の言葉を叫んだとき、彼は何気なくちらとドゥーニャの目を見た、そしてその目の中に彼の身を思いわずらう限りない苦悩を見てとって、はっとわれにかえった。彼は、何はともあれこの二人のかわいそうな女を不幸にしたことを、感じた。やっぱり彼が原因なのだ……
「ドゥーニャ! ぼくがまちがっていたら、許しておくれ(まちがっていたら、許すことなんてできないだろうけど)、さようなら! 議論はよそう! もう時間だ、こうしてはいられない。ついて来ないでくれ、お願いだ、もう一カ所寄るところがあるんだよ……おまえは早くもどってお母さんのそばにいておくれ。頼むからそうしてくれ! これはおまえに対する最後の、もっとも大きなぼくの頼みだよ。ずっと離れないでそばについていてやってくれ。ぼくは母さんを堪えられそうもない不安の中にのこして来たんだ。母さんは死ぬか、さもなきゃ気が狂ってしまうよ。いっしょにいてやってくれ! ラズミーヒンがおまえたちの力になってくれるはずだ。ぼくは彼に頼んだんだ……ぼくのことは泣かないでくれ。ぼくはたとえ殺人犯でも、終生、男らしい誠実な人間になるように努めるよ。もしかしたら、おまえはいつかぼくの名前を聞くようなことがあるかもしれない。ぼくはおまえたちに恥をかかせるようなことはしないよ。見ていてくれ、ぼくはいまに証明するよ……じゃ当分、おわかれだ」彼の最後の言葉と約束を聞くと、ドゥーニャの目にまたいまにもくずれそうな妙な表情があらわれたのに気付いて、彼は急いでこう結んだ。「いったいどうしたんだね、そんなに泣いたりして? 泣かなくていいんだよ、泣かないでくれ、もう会えないというわけじゃないんだから!……あッ、そうそう! ちょっと待ってくれ、忘れていた!……」
彼はテーブルのそばへ行って、一冊の厚い埃をかぶった本を手にとり、それを開くと、ページの間にはさんであった小さな肖像をとり出した。象牙に水彩絵具で描いた肖像だった。それは彼のかつての許嫁で、熱病で死んだ下宿の娘、修道院に行きたがっていたあの風変りな娘の肖像だった。彼はしばらくの間その何か言いたげな弱々しい顔を見つめていたが、やがてその肖像に接吻して、ドゥーニャに渡した。
「ぼくはね、この女といろいろ話し合ったんだよ、あのことも、この女にだけは話したんだ」と彼は感慨深そうに言った。「彼女の心に、ぼくは、あとでこんなみにくい結果になったことを、いろいろと知らせたんだよ。心配はいらんよ」と彼はドゥーニャのほうを向いた。「彼女は同意しなかったよ、おまえみたいに。彼女がもういてくれなくて、よかったよ。要は、要は、いまからすべてが新しい道をたどるということだ。真っ二つに折れてしまうということなんだ」と、またやるせない気持にもどりながら、彼は不意に叫んだ。「何もかも、すっかり。ぼくにその覚悟ができているだろうか? ぼくは自分でそれを望んでいるだろうか? それは、ぼくの試練のために必要だという! 何のためだ、こんな無意味な試練が何のためなのだ? そんなもの何になるんだ、そんなものはいまよりも、二十年の徒刑が終って、苦痛とばかげた日常におしひしがれ、すっかり老衰しきってしまってから、自覚したほうがいいのではないのか。それなら何のために生きる必要があるのだ? なぜぼくはいまこんな生き方に同意してるのだ? おお、ぼくは今日、夜明けに、ネワ河の上に立っていたとき、ぼくが卑怯者だということが、はっきりわかったんだ!」
二人は、ついに、外へ出た。ドゥーニャは苦しかった、が、彼女は彼を愛していた! 彼女は歩きだしたが、五十歩ほど行くと、振り向いてもう一度彼のほうを見た。彼はまだ見えていた。そして、曲り角まで来ると、彼も振り返った。二人は最後に目と目を見交わした。しかし、彼女がこちらを見ているのを知ると、彼は苛々して、かえって怒ったように、片手を振って行けという合図をすると、いきなり角を曲ってしまった。
《おれは悪いやつだ、自分でもわかってるんだ》彼はすぐにドゥーニャに対して怒ったように手を振ったことを恥じながら、ひそかにこう思った。《しかし、いったいどうしてあの人たちはおれをこんなに愛してくれるんだろう、おれにはそんな価値はないのに! ああ、おれが一人ぼっちで、誰もおれを愛してくれず、おれも決して誰も愛さなかったら、どんなにいいだろう! こんなことがいっさいなかったら! だがおもしろいな、果してこの十五年か二十年の間に、おれの心がすっかり馴らされて、何かと言えば自分を強盗でございますと言いながら、人まえで神妙に泣いてみせたりするようになるのだろうか? そうだ、きっとそうなるんだ、たしかにそうだ! そのために、やつらはいまおれを流刑地へ送るのだ、それがやつらには必要なのだ……いまみんな通りをぞろぞろ行ったり来たりしているが、こいつらはどれもこれも生来腹の底は卑怯者で強盗なのだ、いや、もっと悪い──白痴だ! もしおれが流刑をまぬがれでもしたら、やつらは義憤を感じて気ちがいみたいに騒ぎ立てるだろう! まったく、いやなやつらだ!》
彼は深く考えこんだ。《いったいどういう経過をたどれば、おれがこいつらのまえに文句も言わずに屈服する、心から屈服するなんてことに、なることができるのだ! じゃ何だ、ちがうというのか、なぜ? もちろん、そうなるにきまっている。まさか二十年間のたえまない圧迫が目的を達しないはずがないじゃないか? 雨だれだって石をうがつんだ。それならなぜ、何のために、そんなことをしてまで生きなければならんのだ、すべてがまちがいなくそうなる、本に書いてあるとおりになる、それ以外にはなり得ない、と承知していながら、なぜおれはいま行くのだ!》
彼は昨日の夕方から、おそらくもう百度もこの疑問を自分にあたえていたにちがいない、しかし、それでもやはり彼は歩いて行った。
8
彼がソーニャの部屋へ入って行ったときは、もううす暗くなりかけていた。ソーニャは一日中おそろしい興奮につつまれて彼を待ちつづけていたのだった。彼女はドゥーニャといっしょに待っていた。ドゥーニャは、ソーニャが《それを知っている》というスヴィドリガイロフの言葉を思い出して、まだ朝のうちから訪ねて来た。二人の女の詳しい会話や、涙、それからどれほど親しい仲になったか、というようなことは述べまい。ドゥーニャはこの会見から少なくとも、兄は一人ではない、という一つの安心を得た。誰よりもまず、このソーニャのところへ、兄は懺悔に来た。人間が必要になったとき、兄は彼女の中に人間を求めた。彼女なら運命が兄を送るところへ、どこまでも追って行くことだろう。ドゥーニャは別に聞きはしなかったが、そうなるにちがいないことがわかっていた。ドゥーニャはある敬虔な気持をさえ感じてソーニャを見まもった。そして自分によせられたこのような敬虔な気持に、ソーニャははじめおろおろしたほどだった。ソーニャは危なく涙が出そうにさえなった。彼女は、反対に、ドゥーニャに目を上げるのさえもったいないと思っていたのだった。ラスコーリニコフのところではじめて会ったとき、実に思いやりのある態度で丁重に会釈してくれたドゥーニャの美しい姿が、それ以来いつまでもソーニャの心の中に、これまでの生涯に見たもっとも美しい神聖なものの一つとして刻みつけられたのだった。
ドゥーネチカは、とうとう、がまんができなくなって、兄の部屋へ行って待とうと思って、ソーニャと別れた。それでもやはり、兄があちらへ先に寄るような気がしてならなかった。一人きりになると、ソーニャはすぐに、ほんとうに彼が自殺してしまうのではあるまいかと考えて、恐ろしさのあまりいても立ってもいられない気持になってきた。それをドゥーニャも恐れていたのだった。二人はほとんど一日中、そんなことはあり得ないといういろんな理由をあげあって、互いに相手の疑心を消しあっていたのだった。だから、いっしょにいた間は、まだよかった。いま、別れてみると、とたんに二人ともこのことばかりが気になりだした。ソーニャは昨日スヴィドリガイロフが言った言葉を思い出した──ラスコーリニコフには二つの道しかない、あるいはウラジーミルカ行きか、あるいは……それに彼女はラスコーリニコフが虚栄心が強く、傲慢で、自尊心が強く、そして神を信じていないことを知っていた。《いったい、小心と死の恐怖だけで、あの人を生きさせることができるかしら?》彼女はとうとう絶望にしずんで、こんなことを考えてみた。そうこうするうちに、太陽はもうしずみかけていた。彼女はしょんぼりと窓辺に立って、じっと窓の外を見つめていた、──だが窓からは隣家の荒壁が見えるだけだった。とうとう、不幸な彼はもう死んでしまったのだと思いこんで、さびしくあきらめようとしたとき、──彼が部屋へ入って来た。
喜びの叫びが彼女の胸からほとばしった。だが、じっと彼の顔を見たとき、彼女は不意に蒼ざめた。
「うん、そうだよ!」とラスコーリニコフは、にこにこ笑いながら、言った。「きみの十字架をもらいに来たんだよ、ソーニャ。自分でぼくに十字路に行けと言ったくせに、いよいよそのときが来たら、恐くなったのかい?」
ソーニャは茫然と彼を見つめていた。この口調が彼女には異様に思われた。冷たい戦慄が彼女の全身を走りぬけた。がすぐに、この口調も言葉も──無理につくったものだ、とさとった。彼は話をするのにも、妙に隅のほうばかり見て、彼女の顔をまともに見るのをさけるようにしていた。
「ぼくはね、ソーニャ、こうするほうが、とくかも知れない、と考えたんだよ。それにはある事情があったんだが、──でも、話せば長くなるし、話してもしようがないよ。ぼくはね、ただたまらないのは、あのばかなけだものみたいなやつらが、ぼくを取りかこんで、まともにぼくの顔をじろじろのぞきこみ、いろんなばかばかしいことをぼくに聞く、それに一々ぼくが答えなきゃならん、ということだよ。それを考えると、むかむかするんだ。やつらにうしろ指をさされる……くそッ! いいかい、ぼくはポルフィーリイのところへは行かんよ、あいつにはもううんざりだ。それよりも、親愛なる火薬中尉のところへ行く。唖然とするだろうな、これも一つの演出効果というやつさ。だが、もっと冷静にならなきゃ。最近は苛立ちがひどすぎた。信じられるかい、妹が最後に一目見ようとして振り返ったと言うだけで、ぼくはいま危なく拳骨でおどしつけようとしたんだよ。豚だよ、なさけないねえ! まったく、おれはどこまで浅ましい気持になったんだ? よそう、で、十字架はどこにあるの?」
彼は自分で何を言っているのかわからない様子だった。彼は同じところに一分とじっとしていられず、一つのことに注意を集中することができなかった。考えが互いにとび越し合って、話は支離滅裂だった。手が小刻みにふるえていた。
ソーニャは黙って箱から糸杉と銅の二つの十字架をとり出し、自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやって、それから糸杉の十字架を彼の胸にかけてやった。
「これが、つまり、十字架を背負うということのシンボルか、へ! へ! まるでこれまでぼくが苦しみ足りなかったみたいだ! 糸杉の十字架、つまり民衆の十字架か。銅の──それがリザヴェータのか、きみが自分でかけるんだね、──どれ、見せてごらん? じゃあの女はこれをかけていたのか……あのとき? ぼくはこれと同じような二つの十字架を知ってるよ、銀のとちっちゃな聖像だった。あのとき老婆の胸の上に捨ててきたんだ。うん、そう言えば、あれをいま、そうだ、あれをいまつけりゃいいんだ……それはそうと、ばかなことばかりしゃべって、用件を忘れている。どうも気が散っていかん!……実はね、ソーニャ、──ぼくは、きみに知っておいてもらおうと思って、わざわざ寄ったんだよ……なに、それだけさ……それで寄っただけなんだ(フム、しかし、もっと話すことがあったような気がしたが)、だってきみは自分ですすめたじゃないか、自首しろって、だからいまからぼくが監獄に入り、きみの願いがかなえられるってわけだよ。いったいどうしてきみは泣いているんだ? きみまで? よしてくれ、もういいよ。ああ、こういうことがぼくにはたまらなく辛いんだ!」
しかし、ふびんに思う気持が彼の中に生れた。ソーニャを見ていると、彼は胸がつまった。《この女が、この女が、何を?》と彼はひそかに考えた。《おれがこの女の何なのだろう? この女はどうして泣いているのだ、どうしておれの世話をするのだ、母かドゥーニャみたいに? おれのいい乳母になるだろうよ!》
「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」とソーニャはおどおどしたふるえ声で頼んだ。
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ! 素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で……」
彼は、しかし、何か特別なことを言いたかった。
彼は何度か十字を切った。ソーニャはショールをとって、頭にかぶった。それはみどり色のうすい毛織物のショールで、いつかマルメラードフが《家中の兼用》と言っていた、そのショールらしい。ラスコーリニコフはちらとそれを考えたが、別に聞きもしなかった。実際に彼は、自分がおそろしくうかつで、見苦しいほどうろたえているのを、自分でも感じはじめていた。彼はそれを恐れていたのだった。ソーニャがいっしょに行こうとしているのに気付いて、彼ははっとした。
「どうしたんだ! どこへ? いけない、家にいなさい! ぼくは一人で行く」と彼は負け犬がかみつくような声で叫ぶと、怒ったような顔をしてドアのほうへ歩きだした。「ごそごそついて来たって、どうもならんよ!」と、彼は外へ出ながらつぶやいた。
ソーニャは部屋のまん中にとりのこされた。彼は別れの言葉もかけなかった。ソーニャのことは、もう忘れていた。ただ毒のある、反逆する疑惑だけが、彼の心の中にたぎっていた。
《だが、これでいいのだろうか、あのすべてのことがこんなことになっていいのだろうか?》彼は階段を下りながら、またしてもこんなことを考えた。《まだ踏みとどまって、もう一度すっかりやり直すわけにはいかないだろうか……そうなれば、行くことはないわけだ?》
しかし、彼はやはり歩いて行った。彼は不意に、こんな問いを自分に発することの無意味を、はっきりと感じた。彼は通りへ出ると、ソーニャに別れの言葉をかけなかったことと、彼女はみどり色のショールをかぶったまま、彼にどなられたために動くこともできずに、部屋のまん中にとりのこされていることを思い出して、一瞬立ちどまった。その瞬間、まるで彼に決定的な打撃をあたえようと待ち構えていたように、不意に一つの考えが、はっきりと彼の頭を照らした。
《いったい何のために、いったいなぜ、おれはいまあの女のところへ行ったのだ? 用があって、とおれはあの女に言った。じゃ、どんな用だ? 用などぜんぜんなかったのだ! いまから行くと、ことわりにか。それでどうだというのだ? そんな必要があるのか! おれは、あの女を、愛しているとでもいうのか? まさか、そんなばかな? だっていま犬ころみたいに、追っぱらったじゃないか。じゃ、ほんとにあの女から十字架をもらわねばならなかったのか? へえ、おれもずいぶん落ちたものだ! いやちがう、──おれにはあの女の涙が必要だったのだ、あの女のおどろきを見ることが、あの女の心が痛み、苦しむさまを見ることが、必要だったのだ! せめて何かにすがって、時をかせぐことが、人間を見ることが、必要だったのだ! そんなおれが、あんなに自分に望みをかけたり、自分を空想したりできたとは。おれは乞食だ、ゴミだ、おれは卑怯者だ、卑怯者だ!》
彼は運河ぞいの道を歩いていた、そしてもうあといくらもなかった。ところが、橋まで来ると、彼はちょっと立ちどまって、急に橋のほうへ曲った。彼は橋を見ると、センナヤ広場のほうへ歩きだした。
彼はむさぼるように左右を見まわして、目に力をこめて一つ一つのものを凝視したが、何にも注意を集中することができなかった。何もかもすべりぬけて行った。《一週間か、一カ月後に、おれは囚人馬車にのせられてこの橋の上をどこかへ護送されて行くことだろう。そのときおれはこの運河をどんな気持で見るだろう、──これをおぼえておくんだな?》こんな考えがちらと彼の頭にうかんだ。《そら、この看板、そのときおれはどんな気持でこの文字を読むだろう? ほら、〈商会〉と書いてある、よし、このAだ、このAという文字をおぼえておこう、そして一カ月後にこのAという文字を見るんだ。どんな気持で見るだろうなあ? 何か感じたり、考えたりするだろうか?……チエッ、こんなことは、おれがいま……気にしているようなことは、きっと実にくだらないことなんだ! そりゃむろん、こうしたことは、興味あることにはちがいないが……それなりに……(は、は、は! おれは何を考えてるんだ!)おれは子供にかえったのかな、自分で自分に大きなことを言ってりゃ世話ないよ。でも、どうして自分を恥ずかしがるんだ? へえ、ひどい人出だ! おや、このビヤ樽め──きっと、ドイツ人だな──おれに突きあたったぞ。何者に突きあたったか、まさか知るまい? 子供をつれた女が物乞いをしている。あの女はおれを自分より幸福だと思っているから、おもしろいよ。どれ、お笑い草にひとつ恵んでやろうか。おや、ポケットに五コペイカ銅貨がのこっているぞ、どこから? さあ、さあ……これをあげるよ、お母さん!》
「神さまのお加護がありますように!」と乞食女の涙声が聞えた。
彼はセンナヤ広場へ入った。彼は人ごみの中へ入るのがいやだった、いやでたまらなかった。しかし彼はいちばん群衆のむらがるところへ、わざわざ歩いていった。彼は一人きりになれるなら、どんなものでも投げ出したい気持だった。しかしこれからはもう一分も一人ではいられないことを、彼は自分でも感じていた。人ごみの中で一人の酔っぱらいが騒いでいた。しきりに踊ろうとするのだが、ひょろひょろよろけて、すぐに転んでしまう。群衆がまわりを取り巻いていた。ラスコーリニコフは人垣をわけてまえへ出ると、しばらく酔っぱらいを見ていたが、不意にけたたましい声で、短くとぎれとぎれに笑った。一分後に彼はもう酔っぱらいのことを忘れていた、そちらを見てはいたが、目に入りもしなかった。彼は、やがて、自分がどこにいるのかさえ忘れて、その場をはなれた。だが、広場の中央まで来たとき、不意に彼はそわそわしだした。一つの感じが一時に彼を支配し、彼の肉体と意識のすべてをとらえてしまったのだ。
彼は不意にソーニャの言葉を思い出したのである。
《十字路へ行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向って大声で、〈わたしは人殺しです!〉と言いなさい》彼はこの言葉を思い出すと、わなわなとふるえだした。彼はこの間からずっとつづいてきた、特にこの数時間ははげしかった出口のないさびしさと不安に、すっかりうちひしがれていたので、この新しい、そこなわれない充実した感じが出口になるそうな気がして、夢中でとびこんで行った。それは何かの発作のように不意に彼をおそって、心の中に一つの火花がポチッと燃えたかと思うと、たちまち一面の火となって、すべてをのみつくしてしまった。彼の内部にしこっていたものが一時に柔らいで、どっと涙があふれ出た。彼は立っていたそのままの姿勢で、いきなりばたッと地面に倒れた……
彼は広場の中央にひざまずき、地面に頭をすりつけ、愉悦と幸福感に満ちあふれて汚れた地面に接吻した。彼は立ち上がると、もう一度お辞儀をした。
「どうだい、酔っぱらいやがって!」と彼のそばで一人の若者が言った。
どっと笑いが起った。
「なに、こいつはエルサレムへ行くんだとよ、がきどもや祖国に別れの挨拶だ、そこらじゅうにお辞儀してさ、首都サンクト・ペテルブルグとその石に接吻してるんだよ」と一人のほろ酔いの町人がつけ加えた。
「まだ若い男だぜ!」と三人目の男が口を入れた。
「いいとこの息子だぜ!」と誰かが大きな声を出した。
「いまどきァ見分けがつかねえよ、貴族も平民もわかりゃしねえ」
こうした叫び声や話し声がラスコーリニコフをひきとめた、そして彼の口からとび出しかけていたにちがいない《わたしは人殺しです》という言葉が、そのまま舌の上に凍りついてしまった。彼は、しかし、平静にこれらの叫びを堪えた、そしてあたりを見もせずに、横町を越えてまっすぐに署のほうへ歩きだした。歩きながら、一つの幻がちらと彼のまえにうかんだ、しかし彼はそれにおどろかなかった。彼はもうそうなるのが当然であることを、予感していた。彼がセンナヤ広場で、左のほうを向いて二度目に頭を地面にすりつけたとき、彼は五十歩ほどはなれたところにソーニャの姿を見た。彼女は広場にある木造のバラックの一つのかげにかくれていた。すると、彼女は彼の痛ましい行進にずうっとついて来たわけだ! ラスコーリニコフはその瞬間、はっきりと、ソーニャがもう永遠に彼のそばを離れないで、たとい地の果てであろうと、運命が彼をみちびくところへ、どこまでもついて来てくれることを感じ、そしてさとった。彼は胸がじーんとした……だが、──彼はもう宿命の場所まで来ていた……
彼はかなり元気よく庭へ入って行った。三階までのぼらなければならなかった。《まだのぼる間がある》と彼は考えた。なんとなく彼は、宿命の瞬間まではまだ遠くて、まだたくさんの時間がのこっており、まだいろんなことを考え直してみることができるような気がした。
らせん状の階段には、またあのときのようにごみや殻などがちらばっていた、また部屋部屋の戸がいっぱいに開け放され、また方々の台所から炭酸ガスや異臭がもれていた。ラスコーリニコフはあれから一度も来なかった。足の力がなくなって、膝ががくがくした、それでも彼は歩いて行った。彼は一息入れて、姿勢を正し、人間らしく入って行くために、ちょっと立ちどまった。《でも、何のために? なぜ?》彼は自分の動作の意味を考えて、不意にこう思った。《どうせこの杯を飲みほさねばならんとしたら、そんなことどうでもいいじゃないか? なるべくみっともないほうが、かえっていいんだ》その瞬間彼の脳裏に火薬中尉イリヤ・ペトローヴィチの姿がちらとうかんだ。《いったいおれは、ほんとにあの男のところへ行くつもりなのか? 他の者ではいけないのか? ニコージム・フォミッチは? すぐに引き返して、直接署長の家へ行こうか? そうすれば少なくとも形式張らずにすむわけだ……いやいや、いけない! 火薬中尉だ、火薬中尉だ! どうせ飲むなら、ひと思いに飲もう……》
彼は血を凍らせて、わずかに意識を保ちながら、警察署のドアを開けた。今度は署内には人がごく少なく、庭番らしい男が一人と、町人風の男が一人いただけだった。守衛は仕切りのかげから顔も出さなかった。ラスコーリニコフは次の部屋へ入って行った。《ひょっとしたら、まだ言わなくてもいいかもしれない》と、彼はちらと考えた。そこには私服を着た書記らしい男が一人、机のまえで何やら書きものの用意をしていた。隅のほうにもう一人の書記が坐りこんでいた。ザミョートフはいなかった。ニコージム・フォミッチも、もちろんいなかった。
「誰もいませんか?」とラスコーリニコフは机のそばの書記のほうを向いて、尋ねた。
「どなたにご用です?」
「あ、あ、あ! 声も聞えず、姿も見えないが、ロシア人の匂いがする……というのがなんとかいう物語にありましたな……忘れたが! ようこそ、いらっしゃい!」と不意に聞きおぼえのある声が叫んだ。
ラスコーリニコフはぎくっとした。彼のまえに火薬中尉が立っていた。とつぜん隣の部屋から出てきたのだ。《これが運命というものだ》とラスコーリニコフは考えた、《どうして彼がここにいたろう?》
「ここへ? 何の用で?」とイリヤ・ペトローヴィチは大声で言った。(彼はどうやらたいへんな上機嫌で、おまけにちょっと興奮しているらしかった)。「用件なら、まだちょっと早すぎましたな。わたしはたまたま……でも、わたしで間に合うことなら。実はあなたに……ええと? ええと? 失礼ですが……」
「ラスコーリニコフです?」
「ああ、そう、ラスコーリニコフさんでしたっけ! わたしが忘れたなんて、思いもよらなかったでしょうな! でも、どうか、わたしをそんな人間だと思わないでくださいな……ロジオン・ロ……ロ……ロジオヌイチ、でしたかな?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そうでしたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、ロジオン・ロマーヌイチ! これはやっとおぼえたんですよ。何度も調べましてな、苦労しましたよ。実は、白状しますが、あのとき以来えらく気に病みましてな、あなたとあんなことをしてしまって……あとで聞かされて、わかったんですよ、あなたが青年文学者で、しかも学識が豊かで……いわば、その第一歩として……そうですとも! まったく、文学者や学者で最初に独創的な第一歩を踏み出さなかったなんて、およそいませんからな! わたしと家内は──そろって文学愛好家でしてな、家内ときたら気ちがいですわ!……文学と芸術にね! 人間は高尚でありたいですな、そうすれば才能と、知識と、理性と、天分で、他のものは何でも得られますよ! 帽子──そんなもの、例えてみたら、いったい何でしょう! 帽子なんてプリンみたいなものですよ、ツィンメルマンの店で買えます。ところが帽子の下に守られて、帽子でつつまれているもの、これは買うわけにはいきませんよ!──わたしは、実は、あなたのところへ釈明に行こうとまで思ったんですよ、気になりましてね、もしかしたら、あなたが……それはそうと、まだ聞かずにいましたが、ほんとに何かご用がおありですか? 家族の方が見えられたそうですね?」
「ええ、母と妹です」
「妹さんには幸いにも拝顔の栄に浴しましたよ、──教養のある美しい方ですなあ。白状しますが、あのときあなたに対してあんなに逆上したのが、実に悔まれましたよ。どうしてあんなことになったのか! あなたの卒倒されたことにからんで、あのときわたしはある疑惑をあなたに感じたわけですが、──それは後でもののみごとに解決されましたよ! 狂信と熱狂! あなたの憤慨はわかります。で、お家族がいらしたので、どこかへお移りになりますかな?」
「い、いいえ、ぼくはただ、……聞きたいと思って……ザミョートフ君がいると思ったもので……」
「ああ、そう! あなた方は友だちになられたんでしたな、聞きましたよ。でも、ザミョートフはここにいませんよ、──残念でしたな。そうなんです、われわれはアレクサンドル・グリゴーリエヴィチを失いました! 昨日からここに席がありません。転任ですよ……しかも、転任に当って、一同としたたか罵り合いまでやりましてな……実に見苦しかったですよ……軽薄な若僧、その域を出ませんな。ものになるかと思いましたがねえ。そうですな、あの連中、輝かしきわが青年諸君たちと、ちょっとつき合ってみるといいですよ! 何か試験を受けるとか言ってましたが、わが国ではちょっとしゃべって、駄ぼらをふきさえすれば、それで試験は終りですからな。まったく、あなたとか、ほら、あなたの友人の、ラズミーヒン君などは、できがちがいますよ! あなたの専門は学問ですから、失敗に迷わされるようなことはありません! あなたには生活の美しさなんてものは、いわば── nihil est(無)ですからな、なにしろ禁欲主義者、修道僧、隠者ですもの!……あなたには書物、耳にはさんだペン、学問上の研究──ここにあなたの精神は高く羽ばたいているわけですからな! わたしも少しは……リヴィングストンの手記(注 『ザンベジ紀行』)をお読みになりましたか?」
「いや」
「わたしは読みましたよ。しかし近頃は、ニヒリストがふえましたなあ。でも、それもわからんこともありませんな、なにしろ時代が時代です、そうじゃありません? しかし、あなたにこんなことを言って……あなたは、むろん、ニヒリストじゃないでしょうな! 遠慮なくおっしゃってください、率直に!」
「い、いいや……」
「いやいや、どうぞ率直に、遠慮しちゃいけませんよ、自分お一人のつもりで! もっとも、職務(スルージバ)になると別ですがね、それは別問題ですよ……わたしが友情(ドルージバ)と言いたかった、とお思いでしょう、残念ですな、外れましたよ! 友情じゃありません、市民として、人間としての感情、万人に対する博愛人道の感情ですよ。わたしは職務に際しては、公的な人間にもなれます、しかし市民として、人間としての感情を常にもつことを義務と心得、反省しているわけです……あなたはいまザミョートフと言いましたね。ザミョートフはね、いかがわしい場所に出入りして、一杯のシャンパンかドン産のぶどう酒を飲んで、フランス人並みの醜悪を演じようという男です、──ザミョートフとはそんな男です! だが、わたしは、いわば忠誠と高潔な感情に燃えていた、わけでしょうな。それに地位も名誉もあり、りっぱな職責もあります! 妻子もいます。市民として、人間としての義務も果しています。ところが、おうかがいしますが、あの男は何者です? 教養あるりっぱな人間としてのあなたに、おうかがいしたいですな。ところで話は別ですが、近頃はあの産婆ってやつが実にふえましたなあ」
ラスコーリニコフはけげんそうに眉をもたげた。どうやら食事がすんだばかりらしいイリヤ・ペトローヴィチの言葉は、たいていは空しい音となって彼のまえにこぼれおちていたのだった。しかし少しは彼もわかった。彼はけげんそうな顔をして相手を見ていた。そしてこれがどういうことに終るのか、見当がつかなかった。
「わたしが言うのは、あの断髪の娘どものことですよ」と話好きなイリヤ・ペトローヴィチはつづけた。「産婆というあだ名はわたしがつけたんだがね、われながら実にうがったあだ名だと思いますよ。へ! へ! 大学へもぐりこんで、解剖学かなんかを習ってるんですよ。どうです、わたしが病気になったら、あんな娘っこを呼べますかね? へ! へ!」
イリヤ・ペトローヴィチは自分のしゃれにすっかり満足して、声をはり上げて笑った。
「そりゃまあ、啓蒙に対する行きすぎの渇望としてもですよ、啓蒙されたんだから、もういいじゃありませんか。なんで悪用する必要があります? なんで高潔な人々を侮辱する必要があるんです、ろくでなしのザミョートフみたいに? おうかがいしますが、なぜザミョートフはわたしを侮辱したんです? それからもう一つ、自殺が実に多くなりましたな、──まったく、あなたには想像もできんほどですよ。みな最後の金をつかいはたして、この世におさらばというケースですわ。小娘や子供から、年寄りまで、──つい今朝も、こちらへ来て間もないなんとかいう紳士の自殺の報告がありましたよ。ニール・パーヴルイチ、おい、ニール・パーヴルイチ! なんと言ったかな、あの紳士は、先ほど報告のあった、ほら、ペテルブルグ区で拳銃自殺をした?」
「スヴィドリガイロフです」と誰かが隣の部屋から、かすれた声で気のないような返事をした。
ラスコーリニコフはぎくっとした。
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフが自殺した!」と彼は叫んだ。
「え! スヴィドリガイロフをご存じですか?」
「ええ……知ってます……最近こちらへ来たばかりです……」
「うん、そう、最近出て来たんです、妻を亡くして、女関係のだらしのない男で、とつぜん拳銃自殺をした。それも考えられないような、見苦しい死にざまだ……手帳に簡単に、完全な正気で死ぬんだから、死因については誰も疑わないでほしい、というようなことが書きのこしてありました。この男は金をもっていたそうですよ。あなたはいったいどうしてご存じなのです?」
「ぼくは……知り合いなんです……妹が家庭教師として住み込んでいたので……」
「え、こりゃどうも……そうですか。じゃ、あの男のことを何か聞かせてもらえますね。どうです、何かあやしいと思った点はありませんか?」
「昨日会いました……彼は……酒を飲んでました……ぜんぜん知りませんでした」
ラスコーリニコフは何かが上から落ちてきて、圧し付けられたような気がした。
「あなたはまた顔色が悪くなったようですね、ここはどうも空気が悪いから……」
「ええ、もう失礼します」とラスコーリニコフはつぶやいた。「すみませんでした、お邪魔して……」
「おや、とんでもない、どうぞごゆっくり! 実に愉快でした、喜んでまた……」
イリヤ・ペトローヴィチは手までさしのべた。
「ぼくはただ……ザミョートフ君に……」
「わかってます、わかってます、でも愉快でした」
「ぼくも……ひじょうに嬉しく……さようなら……」ラスコーリニコフはにやりと笑った。
彼は部屋を出た。よろよろしていた。頭がくらくらした。彼は、自分が立っているのかどうかさえ、感じがなかった。彼は右手で壁につかまりながら、階段を下りはじめた。帳簿を手にした庭番らしい男が下からのぼって来て、出会いがしらに彼に突き当ったような気がした。どこか下のほうで小犬がけたたましく吠え立て、どこかの女がめん棒を投げつけて、大声でしかりつけたのを、聞いたような気もした。彼は階段を下りきって、庭へ出た。すると庭の、出口からあまり遠くないところに、死人のような真っ蒼な顔をしたソーニャが、なんともいえないけわしい目でじいっと彼を見つめていた。彼はソーニャの前に立ちどまった。ソーニャの顔には何か痛々しい、苦悩に疲れ果てたような、絶望の表情がうかんだ。彼女はぱちッと両手をうちあわせた。みにくい、放心したようなうす笑いが彼の唇に押しだされた。彼はしばらく立っていたが、にやりと自嘲の笑いをのこすと、くるりと振り向いて、また警察署へのぼって行った。
イリヤ・ペトローヴィチは席について、何かの書類をひっかきまわしていた。そのまえに、いま階段の途中でラスコーリニコフに突き当ったばかりの百姓が立っていた。
「あ、ああ、あなたですか? 何か忘れものでも?……おや、どうなさいました?」
ラスコーリニコフは唇を蒼白にし、動かぬ目をじっとすえて、そろそろと彼のほうへ近づいていった。そして、机のすぐまえまで来ると、片手を机について、何か言おうとしたが、言えなかった。何かとりとめのない音が聞えただけだった。
「気分が悪いんですね、おい椅子だ! さあ、椅子にかけなさい、おかけなさい! 水を持って来い!」
ラスコーリニコフはくたくたと椅子にくずれたが、実に不愉快そうなおどろきをうかべているイリヤ・ペトローヴィチの顔から目をはなさなかった。二人は一分ほどにらみあって、相手の言葉を待っていた。水がはこばれて来た。
「あれはぼくが……」とラスコーリニコフは言いかけた。
「水をお飲みなさい」
ラスコーリニコフは片手で水を押しのけて、しずかに、間をおいて、しかし聞きとれる声で言った。
「あれはぼくがあのとき官吏未亡人の老婆と妹のリザヴェータを斧で殺して、盗んだのです」
イリヤ・ペトローヴィチはあッと口を開けた。四方から人々がかけ集まってきた。
ラスコーリニコフは自供をくりかえした…………………………………………………………
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