過去痴夢 02'11

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11/1(金)

◆むう、もう11月ではないですか。しかしそれにしても忙しい一ヶ月でした。まあなんとなくですけど生活のペースもつかめてきましたので、これからまた適当に更新していこうかなと思います。目標は1週間に1回以上、せいぜいこんなところになりそうです。

あんまり更新しないと事実上死んでるのと変わらないんだよね、とか書いてないうちに考えていました。で、たまに更新すると「なんだ、生きてたのか」となるわけ。まあ大体そういうもんですよね、人と人との関係って。いつの間にか会わなくなっていて、気がついたらすっかり疎遠に、という感じ。別に何か理由があったわけではなくて、ほんと何となくが多い。いや、そんなのどうでもいいですね(といってごまかす。この話題について語りだすと長くなりすぎるので)。ま、これからも適当に生きていきますのでよろしくお願いします。

◆読めば読むほどプルーストにはまってきました。今日は久々の更新でもありますのでリハビリという言い訳でこの本から気に入った一文をご紹介。以下、引用を青字にします。「彼女」というのは語り手の一家に仕える召使い頭フランソワーズのこと、知的ではないが凛として気丈なおばあさんです。

しかし、彼女のまなざしの光をまえにするとき、あの鼻や唇の微妙な線をまえにするとき、また教養のある多くの人々には欠けているがもしそなわっていたら卓絶した品位やすぐれた精神の高貴なあらわれを意味するあの数々の特徴をまえにするとき、人間のあらゆる概念とは別系統のものであることを知らされる敏感で善良な犬のまなざしをまえにしたときのように、われわれはとまどいを感じて、つぎのように考えるかもしれないのだ、すなわち、このような別社会の目立たない同胞、農民のあいだには、精神は素朴であるが、上流社会のすぐれた人たちとおなじ人間がいるのではないか、というよりもむしろ、ある不当な宿命によって素朴な精神の人たちのあいだに生きることを強いられ、光明をうばわれながら、しかも教養を受けた多くの人たちよりもいっそう自然に、いっそう本質的に、すぐれた天性につながっている、いわば分散し、迷い、理性をうばわれた聖家族の一員、もっとも高い知能をもちながら幼児の域にとどまっている一族、そんな人間がいるのではないか、しかも──彼らの目の、何に集中するという目あてをもたないその光、だがまさしく見おとすわけには行かないその光のなかに、ありありとあらわれているように──彼らが才能をもつためには、ただ知ることだけが欠けていたのではあるまいか、と。

◆初めて読まれる方は面食らうかもしれませんね、実際私がそうでしたし。「大は小を兼ねる」じゃないですけど、世にいくらでも転がってるこまぎれの文章を書く人は、はっきり言ってそういうのしか書けないからそうなるのであって、こうしたねばっこい長い文章を書こうと思ってもおいそれと書けるものではありません。

で、この小説ですが、上のような文章でほとんど全てが成り立ってます。これだけしつこい記述を続ければいつか同じような「前に見たぞこれ」、という表現が出てきそうなものなんですが、それが出てこないところが恐ろしい。まあちょっと尋常じゃないですね。アフォリズムにも富んでいて、読んでいて本当に楽しい。それはともかく、小説って本当に色んな型があるんだなあ、と今さらのように感心してる次第です。
11/5(火)

◆今日は信じられないくらいの早さでいつの間にか1日が終わっていました。あ、1日といっても学校で過ごすべき時間ですが。特に居眠りをしたとかではないし、どちらかというと結構身を入れて講義を受けていたから余計に不思議。体調がいいせいかもしれませんね。先週木曜日から風邪っぽくなった事もありまして、連休のあいだたっぷり睡眠とりましたから。

◆ここに書くのもどうかと思うのですが、今日になって初めて受けるという講義に出席して参りました。教養のだし、あんまり気乗りがしない方面の科目なものでつい(性質上、講義が入ってないとすぐ帰っちゃいますので、後の講義のために入れた方がいいんです)。で、教室で席についてぼへーっとしていると、署名運動に協力してほしいと若者に声をかけられました。

長くなりそうなのでその内容に触れるのはやめますが、彼が自分の言葉で、こちらが時折はさむ質問にもきっちり説明してくれたので、運動そのものへの信頼や関心が生じたわけではなかったものの彼自身に好感を持ったため、快く署名しました。こういう運動をしている人って、変な宗教にかぶれてるのと同じ系統の連中だろうと考えている面があったので、なかなか興味深く話を聞かせてもらったし、自分の偏見にも正直気づかされました。

まあ彼がなかなか話の分かりそうな人間だったので、こっちも日頃の疑問をぶつけてみようという気になったわけなんですけどね。失礼とは思うけれど……と前置きをしてほんとぶしつけにあれこれ聞いてみました。「こういう(署名という形の)運動になんらかの目に見える形の効果はあるんですか?」とか「署名ひとつをとってみても、あなた達のグループの中にも色んな考えの人がいるわけで、中には──例えば丁度あなたがやってるこの運動には賛同しかねるって人もいるのでは? そういう人も署名を集めているんですか?」とか。

抗議集会を開いくなんて行為は私からするとエネルギーの無駄に見えて仕方なかったんですけど、そう考える自分にはそういう運動の効果や過去の成果などについて知識がなかったわけで、いわば一方的な決めつけでものを見ていたわけです。そういうことが彼とのやりとりでよく分かりました。だからといって興味がわいてきたとかそういうことではないんですが。

んー、なんちゅうのかな、前々から気をつけていることですけど「よく知りもしないでえらそうなことを言っちゃいかん」ってことですね。改めてそう思いました。しかしそう気付かせてくれただけでなく、そっち方面の知らない世界に関する話が聞けたのは実に有意義でした。うん、人の話を聞くのは楽しいですね。

我々はともすると人との関わりを持とうとしない傾向があり、まるで話をすると損をするとでも言わんばかりに人を避け、目をそらします。そのような気持ちが分からないわけではありません。人と関わることはある種の面倒がつきまとうし、時には軽い扱いや侮りを受けるかもしれない。相手にそのような意図がなかったにせよ、結果的にちょっとした勇気をくじかれ気まずい思いをすることは珍しくないし、それを思うと何とはなしに行動への恐れが生じて壁となってしまう。

しかし自分がそうであるように世間は鬼ばかりじゃありません。大抵はまともな人間で、話せば分かる。あとはこちらの出方次第でしょう。基本的な礼儀をもって接すれば、そう悪くはならないんじゃないかなと思ってます。何か話がまとまりませんけど、近頃そんなことをよく考えてます。
11/9(土)

◆筋肉痛がようやく治ろうとしています。今週は予期せぬ運動ウィークでした。秋のレクリエーションでソフトボール大会だったんですよ。授業もあったので「欠席ということでお願いします」と予め言ってあったのに前日になって電話があり、「メンツが足りないかもしれないから明日は来てね」と軽く召集されてしまったのでした。メンツが足りんから来いって……麻雀じゃないんだから。

1日目は1試合だけだったからまだよかったんですが、2日目は残った8チームによるトーナメントなので1回勝つと自動的に3試合確定という段取りで、しかもうちのチーム中途半端に強いから1回目勝って2回目負け、3位を争って決定戦まで行っちゃいましたよ。ひー、もう若くないのに……。

試合が終わったあと、ほぼ全員ダウンでした。まだ動き足りないのかサッカーボール蹴って走り回ってる人も若干名いましたが……。トーナメントはきついですね、しかし総当たりでやるわけにもいかないしなあ。適当に負けるくらいのがちょうどいいと思いました、まる。

◆長くなったり書きづらかったりするので、今週あったことを適当に。「人はその望む姿を(いずれ)手に入れるのだ」なあ、と今さらのように気がついた。学内の診療所へ初めて行く、実は7月あたりからある症状に悩まされていたのです。が、あっさり診断が下りました。簡単に治るみたいです。あー、こんなだったらもっと早くかかるんだったなあ。病院嫌いが裏目に出た感じ。東京ラーメンというラーメン屋さんが最近閉まってる、おじさん元気かなあ、少し心配。

あ、こうして列挙するスタイルは初めてなんですけど、なんか書いてて楽しいです。これいいかも。でもこんなの見せられてもなあ、とご覧の方は思われるかもしれませんね。んー、あちらが立てばこちらが立たず、か。
11/11(月)

◆昨日は友人B君の結婚式がありまして、それの2次会および3次会に出席して参りました。いや、なんというんでしょう、ネタの宝庫とでもいいましょうか、ものすごーく色んな事を目にし、感じ、考えさせられた1日でした。その日めぼしい話題だけをそれぞれ取り上げていっても真剣にやれば優に1週間分になる感じ。

放っておくとそのほとんどを忘れてしまうでしょうから、おぼえている内に書き出してしまいましょう。自分にしか通じないような言葉の切れ端でも残しておけば復元可能だったりしますし。そういうメモって大事ですよね、なんか歳とるごとにそう思います。繁華街を歩いていてやにわにメモ取ることもあるものなあ(それはどうかと……)。

友人の結婚式というもの。女の容姿、女と容姿。我々も加齢してるんだなあということ。幸福とは何か?──衣食住の最低ラインより上に並ぶもの、それに関連しての問題提起「金があってパートナーがいないのは幸・不幸?」「金があって子供がいないのは?」など。社会的に表に出ない側(この表現が不適切であればご指摘下さい)の性──現在では女性──の(超)高学歴について。

かつてつきあっていた2人の友人のこと、そして2人のそれから、その連想で出てきた空腹の兄弟とおまんじゅうの話、さらにその関連で見えてきた男と女の適齢期の違いとその裏返しの確率密度分布にも似た様相のこと。Mさんが何といって具体的な指摘は出来ないけれど、これまでとは比較にならないほど綺麗になっていたこと、十全性がもたらす美。H君の奥さんが妊娠したこと。

……とまあいま思いつくのはこんなところでしょうか。んー、書き出すとまとめられるのかこれ? というのもいくつかありますが、まあネタに困った時用ということで挙げておくのは悪くない手でしょう。ふう、今日は輪読5時間ぶっ通しで疲れたのでそろそろ寝ます。
11/15(金)

◆今日は週末金曜日〜! オー賃腹ショー!(変換1回目) ドイツ語やったら何て言うんやったっけ、ま、ええわ、とにかく腹ショー(なんかこれヤだ)なのです。今週あったことをまとめると……うーん、毎度の事ながら大変でした、まる という感じですな、うはは、んもう消え去りたいくらいです。

しかしなんちゅうか人間って図々しいと言いますか、しんどいとか何とか言いながら(本人も気づかなかったり、コントロールできないうちに)適当に手抜いたりして、ほとんど全てのことに耐えられるよう出来てるんですね。「もうええわ、知らんッ!」こう言い放ってとりあえず寝てみたりとか。全然解決しないんだけど。

でもそうしてしまったことが体力の回復につながり、気力を取り戻す結果になったり、あるいは頭がまえより冴えていたりするなど、まるっきり悪い訳でもなかったりするものです(そうした投げやりな態度の報いとして降りかかるであろう災難や不幸に耐える力を実はその睡眠から得ていたりするのは面白いと思う)。なんていうのかな、どんな選択も大なり小なりいいとこがあるっていうか、本当に救いようのない事って(そんなには)ないっていうか、いいも悪いも要は考え方ひとつだったりするような気がします。

◆ああそうだ、前から思っていたんですけど、どなたか一度私と会っていただけませんか? できれば少々お話など……って書くとすごく変だなあ、でもまあそういう意味以上でも以下でもないのでこうとしか書けません。存在は知ってるけど顔を見たことがない人っていうのが実は前からものすごく不思議で、言葉だけのやりとりという関係も自分でやっているにもかかわらず、とっても奇妙に感じていたのです。

で、実際に顔をつきあわせてみたらどんな感じがするのだろうというのが気になって仕方ありません。そんなわけでどなたか、会ってやってもいいぞという寛大な方、私に興味があるという奇特な方、可能な限りそちら様の都合に沿いますのでご連絡下さい。それと、これまで使わせてもらっていたフリーメールが最近調子悪いので、下記のアドレスも連絡つくものへ変更してます。

こういうのは一般にオフ会へのご案内みたいに言えばいいんでしょうけど、なにせこのHPがマイナーな上、このところ不定期更新ですし、なにより提案しておいて参加者0とかだったら多分泣くのでそのようには出来かねました。弱気やなあ、でもそれで正解や思います。あ、それから「○○まで来るなら会うの可」というのでも一応考えます。

そういうお前はどういう人間だ、との問いに答えるため一応……当方中肉中背、非男前、経歴にキズ多し(うわ、いいとこないなあ)でございます。どうかご協力お願いします。
11/19(火)

◆今週の木曜から我が校では学園祭が始まります。つまり月曜まで休み、ハラショー! で、せっかくだから展覧会にでも行こっかにゃ〜♪ などと企んでおります。七条でやってる……って言うのは変か、まあいいや、とにかくその辺で「大レンブラント展」をいまやってるもんですから。そういえば展覧会っていいのは秋が多いから(今年は特にいい催しが多かった)、時期的にいってもこれが今年(今学年)最後かなー、という気がします。

そうか、終わりの始まりか。んー、なんかそう思うとしみじみと来るものがあります。いつまでも学生でいられるような幻想に目が眩んでいたんだけれど、友人たちが立て続けに結婚していったり、妹が子供産んだり、親も歳とったり、なんやかんやでそうひたってもいられないっていうか、状況が許さないムードをただよわせているっていうか、なんかそんな感じ、あんまりたわけたことも言ってられなくなってきてます。なんかつまんないなー、いや、正直ちょっとさびしいです。

◆先日ある授業で先生が、「Mayrというその世界の大御所はもうとっくに死んだものだと思っていたけど、90歳を超えてなお本も書くほどで、頭もはっきりしているらしくて驚いた」と言っておられました。人が生きる時間、その中で優れた仕事ができるの一般にせいぜい20年かそこら、人によっては長くなるかもしれないけど、それでも高々1世紀にもなりません。それを長いと見るか短いと見るか、眺めるやり方で感じ方も変わってくるのは確かなんだけど、学問の世界全体の流れからするとほんの一こまなのかもしれません。

でも普通に生きてる人間の感覚からすると、研究に携わってきた70年ほどの時間というのはやっぱりとてつもなく長いわけで、そこからとりだされるからには何かしら常人には見えてこないものが含まれているんではなかろうか、あるといいなあ、などと期待してしまうのです。それにしても齢90を超えて、残そうとするもの、伝えようとするものがあるっていうのは何か単純に感動するものがあります。そして、シューマンの「子供の情景」を弾くホロヴィッツの録音を何故か連想してしまうのでした。

彼ホロヴィッツはこれまでにも何度か書いたことと思いますが20世紀最高と言われるピアニスト、50年以上にわたるキャリアにおいて最高の名誉と賞賛を浴び続けた桁外れの大スターだったと言われています。件の録音はその彼が83歳の時のもの。で、「子供の情景」とは子供の姿を描いたものではなく、大人になった後に子供の時分を思い出す回想の曲なのです。

ロシアを出てまずヨーロッパ、次いでアメリカに華々しくデビューしまさしく世界を席巻したホロヴィッツは祖国に戻ることはなくアメリカに定住、市民権も得てしまいます。そしてこの録音前年といいますから80歳を過ぎてようやく里帰りが実現、アメリカとソ連の間のあの難しさが影響していたのかもしれません。

どんな思いで彼はこれを弾いていたのだろう、そう思います。背景の物語へ空想を拡げていったとき、音楽はその音色を超えて胸に迫り、魂を揺すぶります。これを弾いて思い出す彼自身の情景、それはソ連の空の下にあったろう、それを彼はどう受け止め、感じていたのだろう。痛いような切なさを覚えます。

しかし演奏はきびきびとして時に甘やか、有名な《トロイメライ》──トロイメライとは夢想のこと──の調べはこれ以上ないくらいに優しい、ピアノに子守歌を歌わせながら彼は眠る子供へ微笑みかけるよう。どうしてそんなに優しくなれるのだろう、そう思います。慈しみの心は歳と同じぶんだけ重ねられるものかしらん、なんて、そんなことをふと考えたのでした。
11/22(金)

◆今日は朝から気合いを入れて「大レンブラント展」に行って来ました。正しい休日の使い方と言っちゃあ大げさですけど、せっかく見に行く訳なんだから平日の開館早々に行くのがいいと思うのですよ。なので開館の9時半に合わせようとすれば逆算で6時半くらいに起きるのが適当かと昨日から準備したわけ。実際はワクワクしてしまってあまりよく眠れなかっという……遠足前の小学生とおんなじだあ。

予定通り早めに到着し、店に入って腹ごしらえ。展覧会へは可能であればいつも開館直後に行くのですが、開館前に並んだことは実際にありません。なのでそれを体験してみるのもよかろうとちょいと早めに切り上げ5分前に着いてみれば、あっさり入れてもらえました。あれ〜、おかしいなあ? っていうかもうみなさん入場してらっしゃるし。一体いつ開けたんだ? うーむ、体験しそこなったじゃないか。

で、いざ鑑賞となったのですが、「あー、古い絵だわ、これ」というのが第一印象。いやー、色んな機会を通じてもう結構絵は見てきてるつもりなんですけど、画家の名と作風とがなかなか頭の中でワンセットで入っていないんですよ。だから見るまでどんな人なのか、あまりよく分かっていなかったんです。ポスターやパンフレットだけではつかみきれませんからね。作風を見ればだいたいどの辺の時代なのかは見当つくようになってきてるんですけど(ホントか?)

肝心の所がつながってないのがなんとも情けない。その意味ではまだまだだなあ。名前と作風が頭の中で一致しているのって挙げられるくらいに少なくて、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ティツィアーノ、ミレー、ピカソ、モネ、スーチン、ダリ、キリコ、ミロ、ボナール、カンディンスキー、ルノワール、ルソー、ゴッホ、ユトリロ、ピサロ……ジエム……あ! シャガール……マティス、モディリアニ……んー、頑張ってもこんなもん、それにしても我ながら偏ってます。やー、しかしもーこれ以上はどこをどうしぼろうとも出っこありません。

あ、話が逸れちゃいましたね、すいません。肝心のレンブラントさんなんですが、基本的に肖像画オンリーの人だったみたいで、展示もそういうのがほとんどでした。それ以外はほとんど描いてないんじゃないか、と思わせるくらい。後で調べてみたらそうでもなかったみたいで、今回はたまたまそういうのに偏ったのかもしれません。まあでも肖像画が多いのは確かなようです。

それでですね、肖像画ってのはその性質上どうしても動きが乏しくなりますし、どれも同じような構図ですから飽きが来ちゃいまして、正直言ってあまり楽しめる感じではありませんでした。いや、それは正確な感想じゃないな、何て言うのかな、ガーンと来るものが見出せなかったというのが一番の印象でしょうか。

こういうのは相性ですからどうしようもないですね、相手が大画家だからこっちの感性が悪いとかいうのでもないし、まして画家の方に非があるわけでもない。インスピレーションってのはそういうもんです。「目をつぶされるサムソン」は確かに力のある大作でしたし、あれだけでも見に行って良かったとは思ってます。

ここからは個人的な感想と意見なのですが、彼の作品は現代に生きる私にとってあまりにも写実的であったことが今ひとつ楽しめなかった本当の原因なのではなかろうか、と考えています。彼の作品はそれは見事でまさしく肖像、生きてそこに写し取られたかのようです。しかしそこに画家(主に塗り手として)の技量の卓越を見ることは出来ても、そこから先がないのです(あるのかもしれないけれど、見つけるのが困難なのです)。

私の好きな絵画──多くは印象派から20世紀前半にかけて──に写実はありません。初めはそういうものが価値をもつと認められていることに驚いたものですが、まず絵と向き合った時に得られる第一印象があったあと、まだ終わらないのです。画家が対象から何を抽出したのか、またその過程で何を捨て、加えているのか、総体として何を提出し、訴えているのか。例えばこんな風に考えてしまう。画面の見方が変わってくるんです、幾層もの重ね合わせの結果というか(「基底の結合」という概念がある方にはあるいはそのように言った方が伝わりやすいかも)。

何かこちらにものを考えさせる。明らかに「そのもの」とは違うと分かっているものにどうしてこう好ましい感情が喚起されるのか、この感覚は何か? またそれは画家の意図したもの、(もしあるとすれば)計算の範疇であろうか? このとびとびに配置された色たちはどのように見れば(脳内で色を混ぜろと)? 次から次へと思いが浮かんできます。また、対象の姿がほとんど意味をなさず、肉体の目をもって見る世界から幻影、夢想の世界を描いた作品もあれば、そんな次元さえも離れたところにさえ成立する作品もある。もはや現実との合致に評価を求めることすら意味をなしません。

まず第一印象で「おおッ、素晴らしい!」となっても、(そしてここが重要なんだけど)ならなくても、「で、なんで?」となる。ここが面白い。とにかく対峙したとき頭に「?」が浮かぶんです。ここから対話が生まれる。この楽しみになじんでしまうと「そのもの」が前面に出てくるような直球系は、底が浅いと言っては語弊があるけれども、何か味気ないような気がしてしまうんではなかろうか、そんな気がするんです。

写実から抽象への変遷は西洋絵画にのみ見られるものではない。そして、基本的に「まず写実ありき」なのは日本画にも共通していると思います。だからある時期にこのような移り変わりが生じるのは人々の要求というか、ごく自然な流れみたいなものなのかもしれませんね、進化の必然というか(北斎や広重を写実的と思う人はいないでしょう。しかしあれはあれでごく「自然」だし、豊かで、何より楽しいじゃありませんか)。

このようなことを言うからといって、写実が芸術において価値をわずかでも減じているなどとはつゆほども思っていません。それどころか現代こそ写実がその重要性を再び取り戻すべき時ではないだろうかとさえ感じています。ものの本質を見据えることなく、あるいは軽率にもその真の価値を見落として、まがいものの抽象、デフォルメの登場がこのところ後を絶ちません。

どのように「ものがある」のか、ものの「中心的主体」がどこにあるのか、透徹した視線でこれをとらえることができない限り、真に個性的な表現、新たな創造など出来るはずもないでしょう。その目を養うために、写実的なとりくみはよい訓練ではないでしょうか。基本が見失われつつある今こそこれが求められる、そう信じます(見失われようとしているのではなく、困難であるが故に最初から脇道へそれているだけのような気もしますが)。

何が言いたいのかよく分からない文章を長々と書いてしまいましたが、「大レンブラント展」自体はそれほど感じ入るところは個人的になかったんだけど、お陰で色々考えるきっかけになってよかったし、面白いと感じるとはどういうことか、この感覚も一筋縄ではいかないな、と改めて人間の性質に思い至ったというか、ま、そんな感じで行って悪くはなかったな、という感じです。ひょっとするとこの展覧会の実現に、写実の復権を望む声なき声、あるいは見えざる手が寄与したのかも……なーんちゃって。
11/26(火)

◆今日は機嫌がいいから何か書きたくなるような感じだけど、ネタにしたいことがらは多く、そのくせ本気でしっかり書こうとまでは意欲がわかない、とまあそんな気分なのでまたなんやかんやとタイトルのようなものの羅列にいたします……と思ったけど、やっぱちょいと書きます。羅列もするかもしれないけど。

◆確かな話ではないのかもしれないんだけど、「愛情の代償行為として、甘いものを摂取するという行動がある」ということを聞いたことがあります。それを聞いたときには、「はーん、そんなもんかね。まあ一見ありそうな気もするが」とあまり関心ももちませんでした。がしかし、ふとそれを思い出して人を眺めてみると、なるほどそうなのかもね、と思ったりします。

この前ここには書かなかったけど、「衣食住が足りているとして、その後に来るもの(人が自然な要求として訴えるもの)って何だろう?」ってなことについて少し考えてみたことがありました。今でもまだその答えとなるものがすっかり数え上げられたような気はしていないんだけど、少なくともその中に「愛情」または「愛情の対象」があるだろうとは思い至りました。

これって別に今さらかしこまって言うような結論でもなんでもなくて、至極当たり前のことなんだけど、まあほとんど人間にとって不可避な問題ではあります。人を観察するのは面白い、甘いものがもたらす幸福感は確かに「代償」になり得るんでは? と私自身思いつつあります。他には──これは前から観察していて思っていたことですけど──自らの髪をやたらと触る(いじくる)というのも代償行為ではないかな、と考えています。あ、あとあれですね、自らの姿をやたらと気にする──これは自己愛という幼稚な形から脱却していない状況のあらわれであることの方が多そうですが──もありますね、ところ構わず手鏡をのぞき込んだりとか。

で、今日はですね、自分はどうなんだろ? と思ったわけなんですよ。偉そうに人のことばっか言ってるのもどうかと思いますし。ところがですね、私っていま誰からといって特に愛情を被る身分でもないし、愛情を注ぐ対象がいるわけでもない。ならばどこかでその代償行為が行われているのではないか、とふと思いついたわけなんです。

しかしああでもないこうでもないと考えてみても、どうも自分にはそれらしい行動はないような気がするんですよ。あ、別に照れがあってとぼけるわけではありませんよ、念のため。で、もしそれが正しい(つまり愛情のやりとりも代償行為もない)とするならば、一体自分はどういう状態なのか、と更に考えてみたんです。

すると「長い間のうちにそういうものがなくても平気なこころになってしまった」というのがひとつの結論として浮上してきました。そして更に、これが他の何よりも説得力のある解釈だと自分の中で認めざるを得ない気がするんです。ありていに言うと、反論の余地がないというんでしょうか、そういうムードなのです。

素直に認めるには気分のいい話ではありませんけど、どうもそうだったような気がします。「枯れてしまった」と完了形で言いたくはないが、「十分枯れてる」くらいにはなってるのかも……。人間って何にでもその程度に合わせて慣れてしまう生き物だから、知らないうちにそのように適合してしまった可能性はありますね。いつの間にかそっち方面の感覚が麻痺してどうにも機能しなくなってしまったという……。

なんちゅうか実にさびしーい気持ちになります。ナチュラルにそうなっていたってところが特に。愛情のやりとりってのは人間らしく生きるための基本的行為だと思うから、それを欠いていたということは、つまりは非常に貧しい生活をしていた訳で、芸術がどうの学問がどうの自然や環境、その他ありとあらゆる事をうんぬんする以前の話、ほとんど「お前が言うな!」という感じだったんじゃあなかろうか、とそこまで思ってしまいます。ぬー、貧相やのー。

もうちょっとなんちゅーか、あれですね、バランスってものを考えて生活しなければなりません。いやほんと、バランスは大事ですよ、ある程度なんにせよ均整がとれていないと滑稽ですからね。この発見は正直ショック大です。まあしかし何でもよくない所ってのは見つかってからじゃないと修正が効かないんだから、気持ちを切り替えて見つかってよかったくらいに思うべきなのかな。

私が前から勝手に思っていた、現代人の多くに見られる現象「衣食足りて情見失う」に自身がそっくりそのままはまっていたなんて……なんか情けないッス。顔洗って出直します。

◆憲法の先生に質問しに行った、とても感じのいい先生だった。いつ頃からか自らの内に飼っている鬱が表に出てきそうな気配をこのごろ感じる、悪い予感は気分を滅入らせる。「人を殺してみたくなった」と自供しているらしいあの犯人のことを電車の中で考えていたら、隣に普通の人間っぽいのにときおり奇妙な不機嫌そうなつぶやきを発する男が座る、思わず心の中で身構えた。極度に緊張した、お陰でいつもと違って居眠りもせずよく本が進んだよっ、このアホゥ! それにしても不気味な人間が増えたものだ、しかし彼らのことをよく知りたいという気も一方にある。そこいらにサンプルは転がっていて、それらから上手によりわけた糸はいずれも確かな原因へとつながっているのだ。
11/29(金)

◆10月最後と11月の頭、別々の授業で「11月末までね」と言われていた課題がありました。で、その締め切りが今日だって事に気がついたのは、昨日の朝のことでした。提出まで1ヶ月もくれるなんて、なんてマイルドな先生なんだ〜♪ と放っておいたらいつものように生活に追われ、そんな遠い期日のことなど忘却のかなたへと消え去っていたのでした。あー、思い出して助かったー。

人間把握できる時間スパンってのがありますよね。1ヶ月ってのはもう永遠と同じくらい先のことなんだって、今度のことでよーく分かりました。もう最近それどころじゃなくて、せいぜい応対できる時間幅って1週間だなと思います。もうちょっとゆっくり時間が流れてくれればそうでもないんだけど……生きてるって感じするなあ、うんうん。

こういうのってレンタルビデオと同じで、1週間借りられても実質1日か2日と変わらないんですよね。どうせギリギリまで見ないし。で、「おわッ、これもう返さなあかんねんやったっけ!? はよ見な!」とあわてて時間を作る。ゆっくり見りゃいいのに、ねえ?(ここで深く頷いたあなた、魂が似通ってるようですね、フフフ。これからも仲良くして下さい)という訳で、レポートも「来週までね」というのがきっと適当なんでしょう。まあ長く猶予してもらえた方がやっぱり嬉しいのは確かなんですけど。

お陰で昨日は帰ってから大変でした。っていうか問題からして探さなきゃ見つからないしー。久々にあわてたぜ、フッ。まあそんな感じで日々楽しくエキサイティングに過ごしております。明日はまた友達の結婚式の2次会──要するに単なる飲み会──です。神戸は北野でやるんですって、んまー、どこなんざんしょ、それ。ま、楽しんで参ります。

◆今読んでる小説に、普段あまりお目にかからない語がところどころ出ていて、それが結構いい味出してたりします。そうは言ってもいわゆる演出として持ってきたというのとは違って、文章の流れ上の必然というか雰囲気を醸すのに欠かせないのではないかな、という感じなので、そこがまた心地いい。そういう語にはやはりそれなりの観念みたいなが宿っているわけで、それがこちらに伝わってくるのを感じる時、ある種の喜びがもたらされるものだったりします。

そのような語の中で、特にこれはいいなあと思って忘れられないのが「エレガント」。これはなかなか奥ゆきがあって、興味深い言葉です。「エレガント」、いいですねぇ、これ。今までそのようなものを胸の中に思い描いてはいたものの、その表出法を知らず、ただ大切にあたためてきたものですから、そこに洗練を加え簡潔に言い表したこの言葉に接したときには、「ああ、そうだ!」「その通り、よくぞ言ってくれた!」と爽快な開放感を味わったものです。

人のなり、様子の好ましさを表現する言葉はたくさんあるのでしょうけど、「エレガント」というのは中でも最上級の状態、ひとつの頂点とも言える形態を指すのではないでしょうか。いいですねぇ、この中に私が夢想し希求する到達点・境地の様子があまさずこめられているように感ぜられます。時間的・経済的にどのようで、精神面においてはこれこれで……と言いだすと切りがない「自分が(他者に、そして時に自らへ向けて)求めてやまない人物像」のような理想をこれほど簡潔に言い表すことも出来ないでしょう、──例えばこのように──「エレガントな人」、と。

今までは言葉を知らなかったから、「街で見かけた○○な人、あれは好ましく思えない(または、好ましく思えた)。なぜなら……」というような事を述べたことも少なからずありました。しかし今やそれは必要性を失いました(個別に取り上げて書くことは今後もあるかもしれませんが)、「エレガントであるかどうか?」ただこの基準にのみ照らし合わせれば事足りるようになったのですから。

素晴らしいなあ、ひとつの言葉にこれほど啓発されたことは今までありません。ある種のこだわりもあってカタカナを使うことに消極的な私ですけど、インスパイア(調べたところ、「啓発」とは意味が違うみたいです)されたと言うしかないなあ、といった感じです。まだこの「エレガント」という言葉については書きたいことがいくつかありますので、また機会があったら触れたいと思います。みなさんもエレガントに行き(生き)ましょうね。