過去痴夢 02'11トップ 日記リスト 掲示板 私と過去 リンク
12/3(火)
◆むはー、この忙しいのに猛烈に書きたくなってきたぜぇ〜〜。こうなりゃ睡眠時間削ってでもぉ〜! ってこれじゃあ変なおっさんやなあ、まあええや、みなさまお変わりありませんでしょうか、改めましてこんにちは。なんか書きたいことがたくさん出てきて、すでにいくつか忘れて行ってる感じがするんですが、これは書いておかねばというのがありましたので、それをまず載せます。またかと思われるかもしれませんが、今読んでる小説からの抜粋です。実に気に入りましたので。
以下の引用を読んで、みなさまはどんな感想を持たれるのでしょうか。私は胸のすくような思い(「そうだ、よくぞ言ってくれた!」というような)を抱き、物事を見通す作者の炯眼と何より「言葉にして書き尽くす」能力に酔いました。ここにはいくつかの警句、それも一般に無難と考えられているもののもつ脆弱さへの鋭い指摘がこめられています(と私は読みました)。本当の力とは? 価値ある経験とは? 多くの重要なものが見出せます。
(状況説明)若き日、語り手はエルスチールという名の偉大な画家の知遇を得ます。しかしある偶然から語り手は天才にして哲学者ともいうべきこの人物が、かつて社交界を模倣してサロンを開くも上流階級からはまるで相手にされない単なるブルジョア一家へ親しく出入りする滑稽な存在であったことを知ります。語り手は失望を味わいその視線を画家へ向ける、ところが心情と理知にすぐれた画家はいったんは不満を表情にあらわすも、若き友にこう語りかけるのです。
「どんな賢人でも」と彼がいった、「その若いころのある時期に、あとで思いだしても不愉快な、できることならそんな思出を記憶から消しさってしまいたいと思う言葉を口にしたり、あるいはそんな生活を送ったりしなかった人は、一人もいませんね。だが、それは絶対に後悔すべきものではないのです、なぜなら、賢人になったといっても、そうおいそれとはなれなかったので、まず自分があらゆる笑うべきもの、いとうべきものに化肉するという筋道をふんでからでなくては、そんな最後の化肉はとげられなかったからです。名望家の息子や孫で、中学時代から、家庭教師が精神の高貴や品性のエレガンスを教えこんでいる青年たちがいることを私は知っています。彼らは、おそらく、生活をふりかえって、そこから切りすてなくてはならないものは何もないでしょう、彼らは自分が発言したことをなんでも公表し、それに太鼓判をおすことができるでしょう、しかし、そのじつは、彼らは精神の貧しい人たちです、つまり理屈屋の無力な子孫であり、その賢明さは消極的で不毛です。賢明さは請売で身につくものではない、誰も代わってやってくれない旅、誰もたすけてくれない道のりを歩いたのちに、自分自身で発見しなくてはならないものなのです、なぜなら賢明さとは物の見かたなんですからね。あなたが賛美する生活、高貴だとお考えになる態度は、家庭の父親とか家庭教師とかによって準備されたものではなくて、まずはじめは、生活をめぐる支配的な悪とか凡俗とかの影響を受けて、まるでちがったとんでもない出発点からふみだしたものであったのです。そういいうものが闘争と勝利とをあらわしているわけです。駆けだしのころのわれわれの姿は、いまではとても確認しうるものではないが、いずれにしても不愉快なものであった、ということが私にはよくわかります。けれども、その不愉快な姿は否定されるべきではありません、なぜなら、それは万人に共通の生活の諸要素から、たとえば画家ならば、アトリエの生活や美術界の党派の生活から、その生活を凌駕する何物かを自分たちがひきだした、というあかしなのですから。」 ちくま文庫「失われた時を求めて3」p.294~より
12/8(日)
◆この忙しいのに忘年会の幹事をいいつかったりして忙しさに拍車がかかっております。長いから途中で読点を入れればいいのに、つんのめったまま駆け出したかの如くダダダと文字を並べ、つい点を打たないで済ませてしまう所にも余裕のなさが表れてしまってるみたいでみっともないですね、ほんとどうもすいません。
それにしてもどうして私が幹事なんでしょう? どーしよーもなく暇そうに見えたのでしょうか……? まっこともって迷惑千万。いや、それはそれで楽しいんですけどね、色んな人に連絡したりあれこれ都合をつけたりするのが面白いから。しかしそんな生活がたった一週間続いただけで風邪につけ込まれてしまったようで、週末は我が身の軟弱さを嘆じて過ごしたのでした、あーあ。
忙殺という言葉がありますけど、あれは"忘"殺につながるんでしょうか? わずか一週間前くらいには書きたいことが山ほどあるような気がして、それが頭からこぼれんばかりだったような気がします。ああ困った、こんなにネタ・意欲ともあふれているというのに……時間さえあれば、とまあこんな記憶だけがのこって、ほんとどうしようもない。
「こうしたら忘れる」というような人間の性質があるのやもしれません。一々おぼえていたらやってられないっていう状況があるじゃないですか、時に。で、「忙しいと忘れる」っていうのがあるんじゃないのかなー、って思うんですよ。これって何かにつけ結構うまくできてる話だと考えていたりします。
何と言っても私が思うのはお葬式。あれは忙しいですよ、特に嘆き悲しみたい近しい人ほど忙しくなるように出来てる。あれは考えようによってはよくできてます。やらなければいけない用事がそれこそ「忙殺」されるほどに降りかかってくるせいで、いったんは悲しみの感情やらこみ上げる思いをよそへやっていないと仕事にならない。
これに限らず人生の節目と言われるような時期は必ずと言っていいほどとかく忙しい。余計なことを抱えていられるほどの余裕がなくなるから、いったんそれまで抱えていた細々とした事を忘れざるを得ないんですよね。しかし頭を一度クリアにするってことは、ひょっとするとその後の切り替えにとって都合がいいのかもしれません。案外我々はそうやって、それぞれの段階で上手に忘れていってるのかもしれませんね。
12/11(水)
◆今日の午後7時、物化のメンバー全員へ急な召集の知らせが届いた。みながそろった頃、最後に現れた先生は2日前の月曜、彼女が自殺を遂げたことを伝えた。何ということだろう。誰も口を利けなかった、もちろん私も。ああ、頭が乱れる。
おそらくこのメンバーのうち、私が最も彼女の異常を感じていたのではないだろうか。しかし私は結局何の行動も起こさなかった。私たちはみんなで彼女を殺したのだ、少なくとも私はそう思う。この事を忘れず胸に刻んでおこう。いや、忘れようにも忘れられないだろうが。鬱は人を殺すのだ、そのことを突きつけられたような気がする。
それにしてもこれはいったい何なのだろうと思う。私に何をせよと、あるいは何を感じろというのか。ひどく苦しい。苦しい。彼女は私に横死を刻みつけるために生を受けたわけでもあるまいに。こんな事を考えたくもないのに考えてしまう自分が厭わしいし呪わしい。
そして私は誓った。どんなに落ちようとも俺は生きるぞ、と。死ぬもんか、と思った。なあ、死んだら笑われへんし泣かれへんし、腹もへらへんしうまいもんも食われへんやんか、なんで死んだんや? アホやなあ、ほんまアホや。なあ、でもごめんな、最後まで手助けでけへんかったわ。俺も苦しむわ、いつまでもこうして抱えてな。
いつか墓参りしようと思う。
12/17(火)
◆本当に忘れてしまい事はどんなに忙しくても頭から離れてはくれないのだなあと感じる今日この頃、正直かなり疲れてます。しかしそれを口実に更新をほったらかし続けると、今度はそのさぼり続けるという行為さえも自分にとって重荷に感じられてくるので、それならいっそさっさと書いてアップした方がましかなんて……ああしんど、ほんまこんな事ばっかり考えてたらしんどくもなりますね。でも、考えることをやめるなんて私にはとんでもないことなわけで……と、まあそんな具合です。
「現実は時に空想を超える、『そんな非現実的な!』こう言われることよりもはるかに突拍子もないことが現実に起きていることを我々は知らなければならない」このような意味の言葉を述べたのは誰だったか……ああ、彼か。それにしても大変なことが起こりました。頭が乱れています。何か心救われる出来事が起きないものだろうかと気がつけば考えていたりして、ハッとさせられます。このただでさえ苦しい状況の時にどうして。身勝手な人です。
しかし私はまだ笑うことができます。腹も減るし、空気の冷たさに思わず体をちぢこめもします。そうする自分を感じて「俺は生きてるんやなあ!」と嬉しくなるし、空を見上げて息を吸い込めば圧しつぶされそうになる気持ちを笑って受け流す余裕も生まれます。
彼女は去りました。私と一緒に研究室に入った人です。そして私は殺人者になりました──私たちの無関心が彼女を追いやったのだろうから。全ては日頃の行いで、後悔は先に立たずです。三流詩人の歌うようなことが現実に起きてしまった。私はこれを抱えて生きてゆこうと思います、いつまでも。
12/22(日)
◆換気をしようと窓を開けっぱなしにしても大して寒く感じない。おかしいなあ、もう12月も半ば過ぎたというのに。しかし真昼だというのにあたりは静かで空気は乾燥しているから、その辺で暮れなんだなあと感じたりしております。良いですね、冬はやはりいい季節です。
◆そういえば学校もいつの間にか冬休みに突入してまして、「あ、休んでいいんだ」と忘れていたような次第です。後期が始まってからえーっと、2ヶ月半ですか、たったそれだけしか済んでないんですもんねえ、そりゃ短くも感じますわ。それでもカリキュラム的にはこれで終了って科目もたくさんあるわけで、大学教育も結構ええ加減やのうと思ったりしています。
冬休みかあ、いつもなら絶対こころ躍る状態なんですけど、これからのことを考えたらどよーんと気が重くなります。っていうか〜、なんにも進んでないし〜、みないな(アホ)。どっ、どーするんでしょーか!? うひぇ〜、大変だあ。
私的にはとりあえず頑張ってるオーラを出しつつ日々3時間睡眠で何とかやりくりし、それでダメならとりあえず「私は寝てないんだッ!」と逆ギレしようかいな、と思ちょります。流行語として定着しませんでしたね、アレ。んー、結構好きだったのに……残念。それはいいとして、ほんまどないしまひょ、と思てます。
◆先日忘年会があり、その後助教授先生宅へ押し掛けての2次会となりました。いや〜、かなりきっつい話聞きましたわ。ほんまにどないなっとんねんって感じ。ごく一部の人たちの陰口っちゅうか、知られざる素顔っちゅうか、やっぱ京大理学部って変人濃度激高やなっちゅうか……。
「あなたがそんな人だと思わなかったわ! 最低!」パチンッ! と出会うなりビンタ食らわすかも……というよりもあんまりの異常さに、今度会ったらいきなり吹き出しそうで怖いんですけどー! みんな溜まってるんだなあと色々感じました。特定の何人か──これは私から見ても(それぞれがそれぞれの形で)ちょっとおかしな人々なんですけど──に対する非難ごうごう。だからそういうのは直接言いなさいって。
私はそんなところでやり玉に挙げられている変な人たちと接しても、素直に面白いと感じてしまうのであまり怒りの方に感情が傾かなかったりします。それに後でその人のいないところで言うよりむしろ本人の反応を見たいという欲求から、直接話を向けてみたりする方なので。まあでもそういう酒の席かつ本人のいない所で怨嗟を爆発させる人というのもこれまた見ていて楽しいわけで、ま、何かと実り多い(?)集まりでございました。いやま、なんちゅうか、人間って面白いッスわ。
12/25(水)
◆いつものようにPCを立ち上げて、メールチェックしたり、友達から借りたCDをもとにMP3を作ったりなどしてみる。じゃ、まあ今日はこんなところかな、と思ったんですけどなーんか今日は日記に書かなきゃならん事があったんだよなあ、とひっかかるものがあって終了できない。何でしたっけ、はて? で、思いだしたのが小説からの引用。いい文章があったんです。
私たち人間は、だれも個人としての個人生活をいとなむだけでなく、意識するとしないとにかかわらず、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な普遍的な基礎を、絶対的なもの、自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、善良なハンス・カストルプがそうだったように、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのためにそこなわれるように感じることは、大いにありうることであろう。個々の人間にとっては、さまざまな個人的な目標、目的、希望、将来が眼前にあって、そこから飛躍や活動の原動力を汲みとることもできよう。しかし、まわりの超個人的なもの、つまり、時代そのものが、外見はいかに眼まぐるしく動いていても、内部にあらゆる希望と将来とを欠いていて、希望も将来もないとほうにくれた内情をひそかに現わし、私たちが意識的にか無意識的にか、とにかくどういう形かで時代にむけている質問──私たちのすべての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。そして、そういう麻痺作用は、個人の心情と倫理的部分からただちに肉体と有機体の部分にもおよぶであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から腑におちるだけの答えをあたえられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にまれな、そして、英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは、頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。ハンス・カストルプは、そのどちらも持ちあわせていなかった。その意味で彼は、きわめてりっぱな意味からではあったが、やはり平凡であったというべきであろう。 岩波文庫「魔の山」p.61~より(ハンス・カストルプはこの物語の主人公)
これまでも何度かやってきたこのような書き写しをするのは、個人的で衝動的な趣味、あるいは備忘録的なノート──忘れてしまうにはあまりに惜しいと感ずるので──というのがもちろん第一の理由なんですけど、書くことによって、書いて出力したものを再び読んでもう一度その内容を確認したい、何度も繰り返し自分の中を通してみたいと思うからでもあります。
もちろんこうしてみなさまにお見せするのですから、みなさまにも読んでいただきたい、私が面白いと思ったものをみなさんにも触れて何か感じてもらいたいと思うのもあります。たまたまこの段落は独立性が高いので、これだけで読めると思います。できれば何度か、それも音読したり一文一文の意味をよく吟味しながら、読んでもらえたらと思います。
これを読んだとき、「ああ、これだ!」と思って本当に嬉しくなりました。いい文章に出会ったときの驚きと喜びは置き換えることの効かないものがあります。しかもそれを特に求めているのではなく、普通に話の流れを追っているとき、ひょっこり何の前ぶれもなく現れるのですからたまらない。嬉しい不意打ちというやつですね。「本を読んでいて良かった」と思うシチュエーションはいくつかありますが、これはその中の最上のうちの1つです。
12/28(土)
◆んむ、今気がつきましたけど、ひょっとして最近カウンタ結構回ってません? ぶっ、ゴホッ、ゴホッ。すいませんねえ、ろくに更新もしてなくって。えー、今日は一日中こたつに入っていました。こたつの上にはPCがありまして、それで日がな一日CDをかけていたのです。実はですね、友達から「ショパンピアノ作品全集」なるものを拝借したのですよ。
これがすごい、なんとCD13枚組! え、それって……。ねえ、I君さあ、これを貸してくれるのはいいんだけど……私にどうしろと? というわけでしこしこ聞いておるわけなんでございまする。ピアノはアシュケナージ、彼をご存じない方へ簡単にご説明しますと……うーん、世界でも指折りのピアニスト。……なんですけどここしばらくは指揮や後進の指導に熱を入れちゃって、とんと演奏してくれなくなってる、とまあそんな感じの人です。
NHKのある番組で見たんですけど、教育者としての姿勢が格好よかったのと、私の大のお気に入りCDであるベートーベンの「皇帝」はたまたま彼がピアノを演奏していたこともあって、私は彼のことが好きなのです。だからその面ではラッキーでしたね。逆にアンラッキーなのは私のコンポ、CDもMDも再生出来るのに、MDの録音が出来なくなってること。こりゃ痛いですわ。
それにしても量が多い、さすが13枚、半端じゃありません。音楽ってのは最低でも1週間くらいはぶっ通しで聞かないと良し悪しを判断できないと思います(CD1枚だったら私なら普通1ヶ月はかけて聞き込もうとするかな)。その過程で初めよかったように思えたものが実は大したことなかったり、その逆に聞けば聞くほどじわじわと味わいが増してくるようなものもあったりするんですけど……んー、そうも言ってらんない。
そんな訳でPCにmp3の形で取り込もうとしてる最中なんです。4日くらいかけてやっとdisk8終わりかけ。むはぁ、長〜い。しかしいい音楽は色んな人が採りあげて録音を残していますから、私自身が既に持っているものも実に多く、新たに仕入れたいと思うものは意外に少ないんです。そうはいっても聞き比べができてとても楽しいというのはあります。ルービンシュタインの円熟プレイが記憶されている曲を聞き、説明書きの録音年を見て「んんー、アシュケナージもまだまだ若い演奏しとるのぉ」とほざいたりしてます。
◆そんな作業のかたわら本を読んでるんですが、よく居眠りしてる割に進んでます。なんちゅうか読みやすいッスわ。いやほんと、プルーストに比べたらどうってことありません。読書に熱中してふと気づいたら「うわっ、もうこんなに読んだのか!」なんて嬉しくなったりすることあるじゃないですか、ああいうのも読書の重要な楽しみだと思うんですけど、プルーストにはそれがない! 私が遅いってのももちろんあるですけど、1日20ページ進むことなんてほとんどないですからね。
というわけで今日はざっと50ページ程度の進み具合ですけど、かなり充実感をおぼえてます。か・い・か・ん。ひさしぶりやなあ、こういうの。これを単純に当てはめますと、トーマス・マンは読みやすさプルーストの2.5倍ってことですな。アホなこと言うてるわ、我ながら、はは。
|
|