資料N01(平成15年10月作成) 奈良県立馬見丘陵公園・馬見丘陵公園館・馬見古墳群 馬見丘陵と古墳の保存経緯・馬見丘陵公園内の主な古墳と周辺古墳 乙女山古墳 ナガレ山古墳 カタビ古墳群 佐味田石塚古墳辞(1号墳。2号墳) 別所下古墳 ` 倉塚古墳・一本松古墳 佐味田坊塚古墳 佐味田狐塚古墳 文代山古墳 巣山古墳 池上古墳・池上2号墳 讃岐神社古墳,讃岐神社 新木由古墳 三吉石塚古墳 佐味田宝塚古墳 牧野古墳 佐味田貝吹山古墳・員吹2号墳 陣ノ山古墳・小墓高塚古墳 教行寺 河合町遺跡分布図(南西部) 次 ( 1 〉 ( 2 〉 ( 3 〉 ( 6 〉 ( 1 5 〉 ( 1 7 〉 ( 1 8 〉 ( 1 9 ) ( 2 1 〉 ( 2 2 〉 ( 2 3 〉 ( 2 4 ) ( 2 7 ) ( 2 8 〉 ( 2 9 〉 ( 3 1 〉 ( 3 1 〉 ( 3 6 〉 〈4 0 〉 ( 4 2 〉 ( 4 3 ) 〈4 5 〉
参考資料 「河合町教育委員会・奈良県立橿原考古学研究所・河合町史」 奈良県立 馬見丘陵公園 ナラケンリッ ウマミキュウリョウヨウエン 馬見丘陵 公 園 館 ウマミキュウリョウ ヨウエンカン 場 所:北葛城郡河合町・広陵町 場 所:北葛城郡河合町大字佐味田2202番地 ■比 0745-56--3851 河合町と広陵町にまたがる馬見丘陵には、国内でも有数の大型古墳が残る地域です。 この馬見古墳群の中央群(地上古墳から巣山古墳の地域)にかけ、奈良県百年記念事業の 一環として1984(昭和59)年より広域公園が建設されています。公園中央エリアには、4世 紀後半から7世紀前半の古墳が集中しており、なかでも我が国第2位の最大帆立貝形(式) 古墳をはじめ、別所下古墳・復元整備されたナガレ山古墳などが保存されています。これら の豊かな史跡を包み込み自然を生かしながら、憩いの空間として活用する目的で造られたの が馬見丘陵公園です。 公園総面積は65.3ヘクタール、国内には四季折々の花が咲きほこっています。 馬見丘陵公園中央エリアにある建物で、公園館 には、馬見丘陵公園の自然と古墳のガイダンス 展示をおこなっている。 古墳のさまざまな形の模型や乙女山古墳の造り出 しから出上した家形埴輪などがある。 また、巣由古墳をモデルにした模型、古墳の造り 方を、古墳時代の工法をアニメで、現代工法を 実写映像で紹介している。 1・馬見古墳群 馬見古墳群は大和の三大古墳群の一つにあげられている、奈良盆地西部の高田川と葛下川 の間、河合町から大和高田市にかけて横たわる南北7km。東西3kmの範囲に平地との比 高差30mのなだらかな洪積台地の丘陵が「馬見丘陵」である。 この馬見丘陵の東側斜面を中心に大型の古墳が多く分布しており、一般的に「馬見古墳群」 と称されている。 この古墳群は大きく三つのグループに分けられている。 ☆一つは、丘陵の南端の築由古墳や新山古墳を中心とするグループ。 【築山古墳】(大和高田市)を中核とする一群。 〔こきやま ☆二つめは、丘陵中央部の新木山古墳や巣山古墳などを中心とするグループで、古墳の規模 や数において際だった存在である。 【巣山古墳】(広陵町)を中核とする一群。 (ナガレ山古墳は巣山古墳を中核とする中央に位置する) ☆三つめは、丘陵北東部盆地内の河川が大和川に合流する地域にある、ブ!1合大塚山古墳を中 心とするグループである。【デll合大塚山古墳】(河合町)を中核とする一群 1-
◆参 考 奈良盆地には、盆地東部の柳本、大和古墳群「桜井〜天理」・盆地北部の佐紀盾列古墳群「奈 良市」と並ぶ大和の三大古墳群の一つに馬見古墳群がある。 2.馬見丘陵と古墳の保存経緯 馬見丘陵はかつては雑木林や竹藪の間に日畑が存在するのどかな山村風景であり、広陵町 ばくやこふん にある牧野古墳などは、かっては、子供の遊び場であったといわれている。 1960年代、丘陵近くの300ヘクタールが日本住宅公団によリニユータウンとして開発がさ れることとなり、奈良盆地中もつとも変貌の激しい地域となり、開発地域内の古墳について 破壊のおそれがあり、地元の保存会が中心となり古墳については緑地公園として数多く保存 することとなったが開発はすさまじい勢いで進んだ。 なかでも、丘陵中央部のナガレ山古墳(前方後円墳全長105m)が1975(昭和50)年には 土取により4分の1が(前方部の半分近く)削り取られ、墳丘は赤土が剥き出しになり無残 な姿であったが、奈良県立橿原考古学研究所。河合町郷土を学ぶ会・広陵町古文会等の会員 の保存運動により、国。県は急速にこのナガレ出古墳を史跡として保存することとなり、 1976(昭和51)年12月27日国の史跡に指定された。 3・馬見丘陵公国内の主な古墳と周辺古墳 丘陵公園内ならびに付近には次のような古墳がある。 @乙女山古墳 (5世紀前半の築造・帆立員形(式)古墳・目指定史跡) Aカタビ古墳群 (4基からなる古墳群,5世紀中期〜 6世紀後半・7世紀前半の築造) B別所下古墳 (4世紀後半の築造・前方部をもつ帆立貝形(式)古墳。または、円墳) Cナガレ山古墳 (5世紀初頭の築造・前方後円墳・国指定史跡・前方部に未盗掘の埋葬施 設があり、5世紀前半以降に追葬) D佐味田狐塚古墳 (6世紀代の築造・帆立貝形(式)古墳) E佐味田石塚1号墳(7世紀前半の築造・堅穴式小石室) F佐味田石塚2号墳(6世紀末頃の築造・竪穴式小石室) B巣山古墳 (4世紀末の築造。前方後円墳。目指定特別史跡) B倉塚古墳・一本松古墳 (両古墳とも5世紀前半の築造・前方後円墳) @池上古寧ん (5世紀前半の築造・帆立貝形(式)古墳) @牧野古墳 (6世紀後半の築造・大型の円墳・国指定史跡) A佐味田宝塚古墳 (4世紀後半の築造・前方後円墳・国指定史跡) @新木山古墳 (5世紀前半の築造・前方後円墳・陵墓参考地) M三吉石塚古墳 (5世紀後半〜 6世紀の築造・帆立貝形(式)古墳。県指定史跡) -2‐
乙女山古墳 オトメヤマコフン 場所:北葛城郡河合町大学佐味田字乙女。赤坂・下池 北葛城郡広陵町大字寺戸宇乙女 1956(昭和31)年11月7日・国指定史跡 ◆古墳の位置・概要 馬見古墳群の中央群を構成している。河合町佐味日の東端に位置し、馬見丘陵の端にあり、 東斜面を利用して造られ前方部を南束に向けた造られた古墳である。(戦前開墾されていた。)、 前方後円墳の形式に入るが、前方部が極端に短い典型的な帆立貝形(式)古墳で、宮崎県西都原 おさ“まづか 古墳群の男狭穂塚古墳に次ぐ我が国第2位の最大の古墳とて著名である。 巨大な後円部に比べ前方部がちこんと張り出している、名前の出来もこの辺りかもしない。 後円部は3段に築成されており、葺石があり、埴輪が密に巡らされている。 墳丘の周囲に、馬蹄形の周濠が良好な状態で残つており、水田の溜め池として利用されてい たが、現在は周濠は雀、竹等か茂つている状態である。 【後円部は3段に築成されており、葺石があり、埴輪が密に巡らされていた。】 ☆古墳の名称と伝承 乙女山古墳の北側は現在宇名て赤坂と呼ばれている。1408(応永15)年にこの辺りで箸尾 為妙と筒井順党の戦いがあり、その際に流された血で一面が赤く染まったことから赤坂とい う地名になったと伝えられている。また、この合戦の際箸尾氏の少女が犠牲になり、小出に 葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったとも伝えられている。 ◆古墳の形・築造時期 5世紀前半の築造。前方部が極端に短い典型的な帆立貝形(式)古墳。 墳丘は、北西から南束に延びる尾根を切断して、整形してあり、南側は盛土により外提が築 かれている。前方部を南東に向けてる典型的な帆立貝形(式)古墳。 参考 「帆立貝形(式)古墳とは古墳の平面の形が帆立貝に似ている。大和における帆立貝形(式) 古墳が20基余りあるが、このうち馬見古墳群に6基が集中しており、乙女山古墳のほか別所 下古墳・佐味田狐塚古墳・池上古墳・三吉2号古墳・三吉石塚古墳等がある。 帆立貝形(式)古墳は5世紀前半に現れ、同中頃に一端消えたが、同世紀後半に再び現れ、 そり後は造られなくなっている。」 ◆墳丘の規模 「1986。1987(昭和61・62)年に橿原考古学研究所にる墳丘周辺部調査」 全 長 130m・後円部直径約104m、同高さ約14.7m 前方部長さ約 30m、同幅約52m、同高さ約3.5m ☆後円部の直径と前方部の長さの比は1対0.3で前方部がかなり短く低い。 前方部というより、方形の一種の祭壇との見方も考えられる。 東南を向いた後円部に対し西側には長さ約1l m.幅約23111の造り出しが付設されている。 後円部は3段に築成されており、葺石(凝灰岩)カミあり、埴輪が巡らされている。前方部の 1段目のテラスに対応している。 ☆後円部の規模のみを取り上げると、川合大塚山古墳の後円部(108m)の規模とほぼ等し い。 墳丘の周りには馬時形の周壕がめぐらされている。 周壕の幅は前方部全面で約14.lm。同側面で約30m・ 後円部側では約6〜 10mとかなり狭くなっている。
◆埋葬施設 埋葬施設については、戦前の開墾等により明らかではないが、石室材料が露出していない ことから、粘土榔であると思われる。 ◆出土遺物 1986年(昭和61)。1987(昭和62)年の墳丘の範囲確認が行われ造り出しや外提が確認され た。出土遺物は、造り出し部分で円筒埴輪列や家形埴輪・精円形埴輸出土・後円部一段目を 巡る円筒埴輪列の一つから土師器小型丸底壷や土製品を納められたものがあった。その他墳 頂で多くの石製模造品(勾玉。刀子・臼玉・紡錘車・鎌など)をはじめ、砥石・銅鏃などが 採取されている。 出土埴輪のうちの一つの埴輪の中に土師器の小型丸底壷が7個納められ田状態で検出され、 壺には土製円盤の蓋があった。(円筒埴輪内に上器を入れた例としては、斑鳩町・瓦塚1号墳、 で土師器の壷、天理市・渋谷向山亡墳で須恵器の壷の一種から、出土している) 家形埴輪の一つは復元の結果、切り妻造りで平入り(玄関が正面にある)構造の埴輪 で、現在公園館に常設展示してある。 造り出し部で、家形埴輪や籠目土器・高努が出上しており、造り出しでの祭祀が行われ た遺物と考えられる。造り出しの機能と、どんな祭耐が行われたのか重要な遺物である。 ◆被葬者について 被葬者は不明である 乙女山古墳墳丘測量図(1:2.500)拠文献56
埴輪列中の家形埴輪 乙女山古墳出上品・ 家形埴輪 高さ54.6cm 壷形埴輪 高さ45.Ocm キヌガサ形埴輪 高さ34.8cm -5-
ナガレ山古墳 ナガレヤマコフン 場所・北葛城郡河合町大字佐味田字別所下・ナガレ 1976(昭和51)年12月27日・国指定史跡 ◆古墳の位置・概要 切り通し 乙女山古墳の南西には、自然地形を最大限に利用し築かれた大型の前方後円墳が ある。 ナガレ山古墳は、古から丘陵頂部に優美な姿を横たえる古墳であった。 1971(昭和46)年に奈良県の遺跡分布調査によつて、初めて100m級の前方部を南に向けた 前方後円墳であることが確認された。後円部は既に盗掘されいた。 1975(昭和50)年、上砂採取により墳丘の一部が崩壊され、翌年に国の史跡指定にされた。 「古墳の現在に至る経緯と復元の様子の項で説明、」 その後、この一帯が馬見丘陵公園の古墳群として取り込まれこととなり、1988(昭和63)年 から復元整備のための発掘調査が行われ、調査の結果、墳丘は、丘陵の自然の岩盤(地山) を整形とて造られていた。後円部は3段、前方部は2段の築成であるが、前方部の前面に満 状の掘り込みが施され、一見すると3段に見える、見せかけの築成となっている。 墳丘はlo5 mで葺石が敷かれ、大和では中規模の古墳であることが明らかになつた。 また、前方部から未盗掘の埋葬施設がしている。後で追葬されたものと考えられる。 ☆丘陵の登り道を示す埴輪列 この古墳の特徴として興味深いものは、東くびれ部(後円部と前方部が接する箇所)から 出土した円筒埴輪列が墳丘の主軸に向かつて二列に平行した埴輪列区画され、2.5m間隔を保 って直線に据え付けられていた。埴輪夢Uに挟まれた部分は通路に当たり、墳丘への登り道と 考えられる。また、墳丘裾くびれ部には円形の土壇状遺構があり、滑石模造品を用いた祭祀 を行つた場所がある。 1,2段目のテラスの埴輪も、くびれ部の並行して延長上で途切れており、これも登り道で あることを裏付けている。このような前方後円墳で墳頂部にいたる通路を設けている例とし ては、富山県小矢部市の谷内16号古墳がある。 古墳の名称「ナガレ」という名は1971年(昭和46)年の分布調査時に、西斜面の小学名 「ナガレ」に因んでつけられた名称である。地元では「お太子山」と呼んでいたということ である。現在は、ナガレ出の名称が定着している。 ◆古墳の形・築造時期 5世紀初頭の築造・前方後円墳 墳丘の形は、尾根を最大限に利用して築造されている。基本的には前方部を南に向けた2段 築成の前方後円墳。 ◆墳丘の規模 全 長 105m「公開資料」 旧地形を溝状に区画した地形が認められるなど、これらの部分を含めると、 【全 長約120m以上。南北約140m・東西約80mがナガレ出古墳の範囲と理解される。】 後円部直経64m・同高さ8.5m(公開資料) 前方部幅 70m・同高さ6.2m(公開資料) 「高さ約6.8m」 ‐6-
◆古墳の築成方法 ナガレ山古墳の墳丘の形は、尾根頂部の自然の形を最大限に利用して築造されている。 基本的には、前方部を南に向けた2段築成の前方後円墳で、後田部北側に低い段を設け、ま た、前方部南側は尾根を大きく、見せかけの3段に造られている。後円部は山地を削って築 造、前方部は盛り上で後で築造し、後円部より中軸が東によっている。 古墳には、葺石が葺かれている。 (東側がなだらかで西側斜面は急である。) ◆埋葬施設 ☆ 後円部の埋葬施設は盗掘により失われていたが、盗掘の際に捨てられた上から良質の粘 上が出上し、粘土郁であったと思われる。 ☆ 前方部に未盗掘の埋葬施設があり、箱型木棺を粘土で覆った粘土榔であった。 棺内には副葬品はなく、被覆粘土内に多くの鉄製品が埋納されていた。 ☆ 前方部埋葬施設は出土土師器等から5世紀前半以降に追葬され、、墳丘築造期より若干遅 れると思われる。 ★前方部埋葬施設 粘土郁は前方部墳頂の主軸よりやや東側に設けられていた。 墓墳の規模 南北に長い長方形で、南北5.30m。東西2.80m 墓墳の中に基底部 長さ4.75m・幅1.40mの粘土榔が構築されていた。 木棺の種類 組合わせ箱形木棺 木棺材は既に腐朽し残つていなかったが、枯に塗布された赤色顔料により木棺の構造 や崩壊状況が復元できた。 木棺は、組合わせ箱形木棺で、底板・側板2・蓋板・小日仕切板2の計8枚の板材で構成 され、全長約4m。幅は北fRll小田部で内法46 cm。南側小田部で内法38 cmを測り、北 側が広くなつている。底も北側が若干高く、水銀朱が北側に多量にあることから頭を北側 に向け埋葬されたと思われる。棺内に副葬品はなく、被覆粘土内に鉄製品が埋納されてい た。 ◆出土遺物 ◎埴 輪 「円筒埴輪の他に精円筒形埴輪・朝顔形埴輪・壷形埴輪・家形埴輪。蓋形埴輪 図形埴輪・盾形埴輪・靭形埴輪。鳥形埴輪等がある。」 ◎石製模造品「刀子・斧・鈍」 ◎ 碧玉裂玉類 「管玉」 ◎滑石製玉類「勾玉・管玉・自玉」 ◎鉄製品 「刀・all・槍・鋤」 ◎土師器 前方部粘土榔から「高杯・小型丸底壷・篭目上器」 ◎土製品 前方部粘土郁から「円盤状・玉状・管状・円錐状」 が出土している。前方部粘上部からの出上した土製品は、埋葬の際の祭祀に用いられたと 考えられる。 ◆ナガレ山古墳の大きな特徴(墳丘の登り道と古墳の正面観) 東側墳丘裾の前方部寄りに位置し、墳丘裾の埴輪列に直交して二列の埴輪列が設けられて おり、これに対応する2段目の埴輪列が途切れていることから、葬送の際に墳頂へ至る通路 てあったと考えられる。くびれ部では直径2m程度の円形の上壇状遺構があり、この周辺か ら滑石製模造品が意図的に割られた状態で出土している。 - 7 ‐
ナガレ山古墳は東側から見たときに大きく見えるように造られており、東側から見るのが ナガレ山古墳の正面観であるとも考えられる。 ◆被葬者について 被葬者については不明。 ◆ ナガレ山古墳の現在に至る経緯と復元の様子 1975年(昭和50)年10月から1976(昭和51)年7月にかけ土取により墳丘の1/4程 度が破壊されたが、地元住民を中心に広く保存運動が展開され1976(昭和51)ヤこ国の史跡指 定にされ、全面的な破壊を免れた。奈良県における遺跡保存運動の歴史にその名を残すこと となった。 その後、河合町が公有化を行い、奈良県立馬見丘陵周辺カミ整備されるに伴い、1987(昭和62) 年にナガレ山整備方針を決定。1988(昭和63)年より発掘調査に基づき、破壊された部分に 土をいれ、遺構を保護するため墳丘全体に盛上を施し、墳丘部の破壊された東側に葺石を葺 き墳丘裾と中段に埴輪列を復元して、古墳築造当初の姿に整備し、破損を免れた西側には遺 構保護のため盛土。張芝をおこない、古墳が崩壊して自然の山になった現在の姿で整備し、 1600年の歳月の流れを一目で対比できるように整備されている。 葺石を敷いた斜面東側に高さ78 c m・直径30 c mの埴輸のレプリカ675本が並べられて いる。このうち494本は強化プラスチック製・残り181本は河合町町民の手造りの素焼 きで、3年がかりりで約80人の参加によつて製作されている 【1988(昭和63)年から発掘調査、整備工事をすすめ1997(平成8)度に完成した。】 ナガレ山古墳の整備は、墳丘主軸により分割した左右非対称に整備されている。 これには、ナガレ山古墳がたどった歴史も大きく作用している。 基本的には破壊を免れた西側はできるかぎり手を加えないようにし、自然崩壊を防ぐため 30 c m厚さの盛り上を施し、 芝生を張つて墳丘の保護を 【整備されたナガレ山古墳の航空写真】 図つている。 一方、東側は破壊された 部分に上を入れて墳丘を整え、 テラスには埴輪を並べ、斜面 に石を草いて築造当初の様子 に復元されている。 これにより、古墳築造時 と1600年後の姿を同時に 観察することができるように なっている。 【整備されたナガレ山古墳の航空写真】
平面図 ナガレ山古墳墳丘測量図 -9-
ナガレ出古墳東側復元写真 (葺石の復元と、くびれ部付近の埴輪列) ナガレ山古墳東側テラスより、中央円筒埴輪列に 区画された墳丘へ登る道
出土遺物 ◆埴輪 墳丘を巡る円筒埴輪列の 中には、日縁部に凸帯を貼 り付けた直径がやや大型の 円筒埴輪、朝顔形の埴輪の 他、壷形埴輪のいくつかが 円筒埴輪の上に載せられて いた。 円筒埴輪は基本的には5 条凸帯6段の構成て、高さ 約80 c m、基底部の直径 約26 clnである。 スカシには円。方・三角・ 半円その他があり、その組 み合わせや数については多 様性に富んでいる。円形の スカシが穿たれたものがも つとも多く、画一 化はされ たものではない。 形象埴輪としては、家・盾・ きぬがさ ゆぎ かこい 蓋・靭・囲・精円筒・ 鳥などが確認されている。 ◆石製模造品 東側くびれ部の墳丘裾及び前方部東側墳丘裾、 西くびれ部に堆積した土から出上している。 東くびれ部から石製模造品は刀子形・斧形・ ヤリガンナ形があるる。 石の目に合致していない割れ方をしており、 くびれ部での祭祀の後で故意に割られた可能性 がある。 前方部東側丘陵からは紡錘車形が1点出土し ている。この紡錘車形模造品には孔があけられ ていなかった。
◆玉類 いずれも西くびれ部の堆積土中より出上した もので、後円部墳頂の埋葬施設に副葬されてい たものである。まがたま なつめ 玉の種類は勾玉・管玉・日玉・案玉がある。 管玉のうち2点は溶結凝灰岩製で、子L内に赤色 顔料が詰まっており、被葬者の身近な位置にあ つたものと考えられる。他の玉類はすべて滑石 製である。 ◆土師器 7 ゴこう 前方部粘土榔の墓墳埋土から高杯・小型丸底壷・ 籠目土器が出土している。小型丸底壷の一つは底 部に孔を穿つている ◆土製品 前方部粘土郁の墓墳埋土内に多数の土製品が混 じつていた。形状はさまざまで、円盤状・球状・ 管状・棒状円錐状等で円盤状と棒状が圧倒的に 多い。これらの上製品は加工食品のようなものを 模した可能性があり、土師器高杯や籠目土器に入 れられていたものと思われる。 東くびれ部で円盤状と管状のものを採集している。 ◆鉄製品 鉄製品は前方部粘土郁の被覆粘土内に埋められた ものと、後円部埋葬施設から盗掘のさい廃案された 土から出土したものがある。 前方部粘土leFに伴うものは、鋤先形・刀形・鎌形 で、いずれも実用品ではなく埋葬用の模造品と考え らオわる。 後田部埋葬施設とに伴うものと考えられるものは やじり 刀・剣・槍・鏃の実用品の他、刀形の模造品あり、 後円部の粘土榔でも同様の埋納の方法を採っていた と考えられる。 (玉 類) (土製品) (鉄製品) 12
◆前方部未盗掘墓壌 墓墳の規模は、南北に長い長方形で、南北5。30m・ 東西2.80m ◆粘土榔 北側は鮮やかな水銀朱が多量にあることから、頭部を北側に向け埋葬したと考えられる。 粘土榔の規模 基底部南北 長さ4.75m。 幅東西1.40mの粘土郁で構築されていた。 13‐
◆木棺推定復原図 木棺材は既に腐朽し残つていなかったが、棺に塗布された赤色顔料により、木相は組合わ せ箱形木棺で底板、側板2・蓋板、小日仕切り板2の合計8枚の板材で構成されていたと考 えられる。 木棺は全長約4m、幅は北小田部で内法46 cm、南側小日部で内法38 cmを測り、北側 が少し広くなつている。 -14‐
カタビ古墳群 カタビコフングン 場所:北葛城郡河合町大学佐味田字カタビ・別所下・雨川 ◆古墳の位置・概要 別所下古墳の北側の尾根上に分布する4基からなる古墳群である。現在は墳丘の面影は見 られないが、全面を芝生で覆い古墳の丘として保存されている カタビ古墳群は、大型古墳が盛んに築造されている、5世紀代に小規模の1号墳。3号墳 が築造され、 1世紀以上たって古墳がほとんど築かれなった7世紀代に2号墳。4号墳が連 続して築かれている。、 古墳規模・墳形が階層を示すのであれば、1-3号墳は馬見古墳群の中央群の中で、巣山 1古 装を頂点とする階層の下層に位置づけられる。 一方2-4号墳は馬見古墳群内ではほ とんど古墳が築造されなくなった7世紀代に築かれている。墳丘の形態から見て明らかに、 2号墳から4号墳への表退の状況が窺え、馬見古墳群の終末の一様相を示唆している。 ☆ カタビ1号墳 ◆古墳の築造時期・古墳の形 5世紀中頃の築造・南北に長い方墳 尾根の先端に位置し、東西20.5m・南北22.5m。墳丘の周囲に幅2.Om〜 3.5mの周 壕を巡らしていた。 ◆埋葬施設。出土遺物 墳丘の上部は既に削平されており、埋葬施設は消失していたが、墳丘肩部に円筒埴輪が遺 存していた。出土遺物は円筒埴輪・家形墳輪・蓋形埴輪・鎌形滑石製模造品等が出土してい る。 ☆カタビ2号墳 ◆古墳の築造時期・古墳の形 7世紀初頭(出土遺物から)の築造・斜面を利用した円墳 1号墳と3号墳の間の丘陵斜面に位置する直径約む20mの円墳である。墳丘の背面で浅い 周溝を巡らしているが、前面については傾斜を利用して墳丘を構築している。 ◆埋葬施設・出土遺物 埋葬施設は墳丘盛土上面から、墓援を掘削し、本棺を置いたのち、棺側部及び棺木田部に 粘上を充填されていた。出土遺物は、粘土の上面から土師器・須恵器が出土している。 ☆カタビ3号墳 ◆古墳の築造時期・古墳の形 5世紀前半(出土遺物から)の築造・丘陵頂部に位置した円墳 直径約24mの円墳。丘陵の東から北にかけて、幅3m程度の周溝が遺存していた。 ◆埋葬施設・出土遺物 墳丘上部は削平されていたため、埋葬施設は既に失われていた。周溝内から朝顔形埴輪が 転落した状態で出土している。 …15‐
☆カタビ4号墳 ◆古墳の築造時期・古墳の形 7世紀前半(出土遺物から)の築造・カタビ3号の東側に位置する。 墳丘については、削平が著しく、当初から墳丘を築いていない可能性がある。 ◆埋葬施設・出上遺物 木棺2基が並列して置かれていたが、墳丘は削平が著しく、埋葬施設は不明。上師器・須 恵器が出上している。 1・3号墳と2・4号墳は全く 異なる時期の古墳である。 1号墳は(方墳・5世紀中頃) 2号墳は(円墳・7世紀初頭) 3号墳は(円墳・5世紀前半) 4号墳は(無墳丘・7世紀前半) 1号墳。3号墳は大型古墳が多く築造 された時期の小型古墳である。 2号墳・4号墳は古墳がほとんど築か れなくなつた7世紀代の築造である。 【カタビ古墳群】 16‐
佐味日石塚古墳群 サミタイシゾカコフン 場所:北葛城郡河合町大宇佐味田字別所下 ◆ 古墳の位置・概要 1984(昭和59)年に現在の馬見丘陵公園西側の県道工事に伴って、新しくその存在が確認 された3基からなる古墳群である。 現在は公国内の原位置付近に1号墳。2号墳とも移築復元されている。 カタビ古墳群とともに馬見丘陵での古墳築造の終焉を知る上で注目される。 ◆佐味田石塚1号墳 ☆古墳の築造時期・遺跡の概要 7世紀前半の築造・竪穴式の小石室で、床面に飛鳥時代の平五片が敷き請められていた。 墳丘は肖J平され消滅しており詳細不明。 2002(平成14)年6月までは、河合町中央公民館脇に移築復元されていたが、その後馬見 丘陵公園内に再移築された。 ◆佐味田石塚2号墳 ☆古墳の築造時期'遺跡の概要 6世紀末頃の築造・竪穴式の小石室であった。墳丘は削平され消滅しており詳細不明。 ◆佐味田石塚3号墳 墳丘等は削平され詳細不明。 【佐味田石塚1号墳】 1軍募,1佐味申稼‐1号墳右室 佐味由石塚21号墳石室 -17‐