この文は平成20年に発刊された
九州工業大学 男声合唱団 メンネルコール 創部60周年記念誌 投稿したものです。 生き恥をさらし「恥ずかしながらも、よくもここまで生かしてもらった、ありがとう」という心境ですが、

今、失意にあって、死にたい!自殺したい!と苦しんでいる人がいたら、是非これを読んでもらって
「あの時死なないでよかった、と思う日が必ず来るよ。俺でさえ、大きいものに助けられ、どうやら生かしてもらったよ。君を愛している人も、必ずいるよ!その人のためにも、諦めないでよ!あきらめない!」と、老いた僕のメッセージだと思っていただきたいのです。 テオ

往時茫々「国立3工大合唱連盟」発足の頃

 関西在住のメンネルコールOBの藤田貞智さん(機械41)から「メンネルコールの誕生から60周年にあたり記念文集を計画している。ついては、国立3工大(現在は4工大)合唱連盟の発足当時の思い出を」という青天の霹靂のお申し出をいただき、老人性健忘症らしい自分は正直戸惑っております。何しろ、半世紀も昔の話ですから、細部は茫々として思い出す自信がありません。藤田さんからのご丁寧なお便りに添付されていた明専会報9月号掲載予定の「メンネルコール 創立60周年を迎えて」という入江覚さん(二機械42)のわれわれの後の四工大時代の音楽的にも、合唱を中心にした当時の北九州の人物環境的にも、詳細な記憶に基づいた専門的で優れた記事に驚いたり、感心したりしています。
自分は忘れたというより、当時から入江さんのようには合唱環境の知識を持たなかったのだろうと思います。

しかし、3工大合唱会をやったらどうだろうというアイデア誕生は旧・忘身寮の右端に近かった音楽部室だったことは間違いありません。私が部室に入ったのが1年生の終わりか、2年生になってからです。入学当初、いきなり戸畑高峰町の下宿に入り、しばらくして部室に入った私でしたが、何とか思い出すと、その当時の在室者は3年生の釜三夫さん(電気36)、高見宣明さん(機械36)、2年生の自分、は覚えていますが、移転や転入も相当あったので、4年生の浜田汎史さん(金属35)や2年生の浜田年弘さん(金属37)、藤野昌亮さん(電気37)、天野正勝さん(電気37)、1年生の故・井上博光さん(電気38)などの顔ぶれが思い出されますが、実際に住人だったかどうかは思い出せません。しかし2年生の浜田さんや藤野さんや天野さんが部室で布団に寝転んでいる写真がありますし、小生と同じ電気科の藤野さんが教科書などを抱えて朝の教室に向かう時に、私が度々「代返」を彼に頼んだのが寮の部室の前の洗面流し台のところだった覚えがありますから、少なくとも連絡が易しかった藤野さんは住人だったと思います。

今思い出しても癪な私ごとで全くお恥ずかしいのですが、入学当初から下宿するなど、ひねくれた自分の事情をゲロしなければなりません。

ド田舎の高校を卒業した年、無謀にも医者になろうと九大医学部を受験し、合格点数不足で第2志望の理学部に回されて入学し、教養部からの医学部試験(当時はそんな制度がありました)を狙っていました。昭和31年9月に1年半の教養部が終わり理学部地学科(地球学科)に席を置いたまま医学部学部入学試験のある昭和32年3月まで、東京の医学学部受験予備校に入りました。その後受験のため退学手続きした後(それが受験条件でした)、自分の何たるミス!あの皿屋敷怪談のお菊じゃないが何度教養部単位数を数えなおしても、あると思っていた受験資格の英語単位35単位が1単位不足だと判りました。英語1単位のための復学も許されず、医学部受験も出来ず、ジタバタ苦悩の末絶望のあまり博多の下宿で睡眠薬アドルム自殺を図りました。幸か不幸か、発見され助けられ蘇生した後、田舎から駆けつけた両親の世にも哀れな顔を見るにしのべず死にきれず、後に続く4人の弟たちの学資を工面しなければならない悲壮な親を目の前にして医学は諦め、ろくな大学再受験勉強も出来ないまま、近くの九工大電気工学科を受験し再出発の覚悟をしました。学部はどうでも良かったと、かなりやけくそだったと思います。

そんなわけで3浪並のひねていたわたしは、教養課程は内容的には済んでいるのですから、暇もあるので「小人閑居して不善をなす」とばかり、いつも藤野さんに代返を頼んで、何か面白いことないかなとばかり考えていたのです。

九大で男声合唱団に席を置いたし、東京にいたころ東工大に在学していた級友のシュワルベン・コール(当時はそう発音していた)の演奏会も聞いたりしていたので、メンネルコールに入った後も、もっと演奏会の機会を増やすなど垢抜けないかなと思っていました。それで、1年上級生になった九大の弟と一緒に住んでいた博多の下宿から戸畑の安下宿に移り、やがて忘身寮に入って、同室の皆さんに国立3工大構想の話を持ち出したように思います。要は金もないくせに、暇だらけの遊び人だったから発想出来たとも言えます。

当時は、公衆電話ですら貴重で、東京や名古屋に長距離電話など思いもよらず、汽車で移動するにも東京まで20時間以上かかる急行がせいぜいで新幹線などあろう筈もなく、3工大構想をまとめるにも、会ったこともない代表者同士の手紙交換に依ったと思います。残念ながら、このときの資料は何も残っていなくて、今になって当時の皆さんの記憶をまさぐる始末ですが、未だに覚えておられる人が見つかりません。あるいは、この稿が皆さんのお目に留まって、何かの記憶が甦ることも期待しています。
 ともかく、先ず第1回演奏会は「言い出し兵衛」の九工大の地から、第2回は名工大の名古屋、第3回は東工大の東京と決まりました。何しろはじめての試みですから大変で文字通り思い出せないくらい「無我夢中」だったのでしょう。

今、私の手元には第3回東京での演奏会プログラムしか残っていませんでしたが、先日鳳龍クラブに程近い銀座ライオンでの「メンネルコールOBの集い」に集まった面々から、思いもかけない多くの資料が入手できましたし、そのときの縁で東工大シュバルベンコールのホームページにもたくさんの情報があることがわかりました。

その内の1つの第1回北九州でのプログラムを手にして表紙を見た途端、鮮やかに記憶が甦りました。そうです、表紙のデザインをしたのは素人の私でした。表紙の色バイオレットは当時の私の心情色でした。挫折で死に損なった思いと、それでもなお青春を追うロマンとが交錯して微妙な色にこだわっていた自分は、小倉・大門の電停を降り線路を渡った「日あがり」地区にあった小さな印刷所に何度も印刷交渉に行ったことを思い出しました。音符と工学をイメージした白抜きの図柄は、色はともかく今思うと少し線が弱いかなあと思います。

また、学長、音楽部長や合唱連盟のあいさつ文などを集めましたが、当時の部長河村芳平助教授にほとんどお世話になったものと思います。パンフレットの印刷も同じ印刷所にお願いしましたが、予算が足りず印刷費の交渉には苦労したことが暑い夏の日差しとともに、おぼろげながら思い出されます。また、三工大の男性コーラス演奏という物珍しさもあり、チケット販売も大勢の協力でマアマアの実績を挙げたと思います。

1960.1.16()九工大講堂と1.17()八幡市民会館での第1回国立3工大合唱会のときの九工大の指揮者は釜三夫さん(3年生)、名工大は林健吉さん(4年生)、東工大は矢澤亮夫さん(2年生)ですが、いずれも設立の時にはお互い面識もなくことが運んだのですから、素晴らしいことだったと思います。
北九州で演奏会後の打ち上げをやったかどうかは覚えていませんが、その時の林さんや矢澤さんのお顔を覚えていないところを見ると、八幡での演奏会後は何かと忙しくて、東京、名古屋組は、演奏後は夜行列車でそれぞれ帰ってしまったて打ち上げなどはしなかったのでしょうか。

後になって、名古屋・愛知文化講堂での第2回目演奏会か、東京・共立講堂での第3回目演奏会後か(忘れましたが)の打ち上げ会で、卒業して京大大学院に行っておられた名工大の第1回目の指揮者林健吉さんが駆けつけられ、東工大の指揮者矢澤亮夫さんとも談笑したのを覚えています。何でも林さんのお父上がデンソーの幹部(社長さん?)だったようで、矢澤さんは林さんとの合唱の縁でデンソー入社を予定していると、うれしそうに話しておられるのを聞き、3工大合唱連盟も良いなあと思ったものです。

東京・共立講堂での第3回国立三工大合唱団合同演奏会を最後に三工大時代は室蘭工大を加えた四工大時代へと進んだことになります。

そのころ、入江さんの記事にも見える石川清子先生や大田一郎先輩などの指導する?「エオリアン・コール」という混声合唱団の練習に、何人かの工大仲間と砂津あたりにあった石川先生のお宅に夕方通っていたことが思い出されます。若い女性も多く、色気でどきどきする雰囲気で、大勢の会員が薄暗い電灯下のしもた屋での合唱練習をしたのが思い出されます。そのときのロマンスでカップルが誕生したような気がしますが、どうなったかは茫々です。

とりとめもない話になって申し訳ありませんが、久しぶりに卒業アルバムに残っていたそのころのスナップ写真を取り上げました(順不同)。ご覧ください。青春の一時が甦ったでしょうか?【ここでは写真を省略します】