敗戦から67年、敗戦日の思い出

 昭和20年(1945年)8月15日、日ごろは家の窓から見える京城府の南山(今も韓国ソウル市のテレビ塔がある丘)の高射砲部隊に勤務していた2等兵(赤紙で召集された一番位の低い兵隊さん)の父が、この日は家に帰っていた。

 夏の日差しが、ガラス戸を開け放ったサンルームまで差し込み、3年生の僕と1年生の弟、よちよち歩きの弟、生まれたばかりの幼児の弟たちが、父母と祖母に混じってラジオの玉音放送(天皇の勅語放送を玉音と言った)を聞いた。

聞いたと言っても、遠い東京からの電波は、当時の進んだ真空管式ラジオにも、ほとんど届かないし、フェージング(電離層などの反射現象により音が強弱する)などにより音が大きくなったり小さくなるのを拾って、大人がやっと意味を少し理解したくらいで、子供に分かるはずもない。

 日本が無条件降伏の敗戦をしたのである。 

 当時、日本帝国・朝鮮・京畿道・京城府と言った京城(現韓国ソウル特別市)の街は、大阪府、京都府と並んで、植民地朝鮮の首都だった。京城帝国大学はじめ京城高等工業学校や女子医学専門学校、京城中学や龍山中学、高等女子学校などがあった(もちろんこれは僕たち子供は知らないこと。後で知ったことだ)。

 大正時代のスペイン風邪で父親を亡くした12歳の父が、途方に暮れて京城に嫁いでいた叔母一家を頼って朝鮮に渡り、父の従兄弟たちと共に成長し、年長の父が内地の田舎から嫁をもらって、私たちが生まれた。       我々兄弟に一番年が近かった秀雄おじさん(正確には大叔父だろうが今でもおじさんと呼んでいる)は憧れの京城中学生だった。

 小学生(当時は尋常小学校の呼び名を戦時中、国民学校に変えていた)3年生だった僕は、歩いて15分ほどの日本人のための桜ヶ丘国民学校に通っていた。

 天気の良い日は大きい藤棚のある校庭で遊んでいる間に、集合合図の大太鼓がドウン、ドウン、ドウン〜ドウン、ドウン、ドン、ドン、ドンと大きな音がすると、皆その場に直立(立つ)する。

鳴り終わると、一斉に朝礼台の前の、決められた列の、決められた位置に駆け寄り、整列して(並んで)天皇の御製(歌われた)の歌を斉唱した。

 朝ぼらけ 澄み渡りたる 大空の 広きにおのが 心ともなが 

 (明るい朝がきて、澄み渡った大空を見渡すと その広さに私の心も広々とする)と言った意味だろうか。

 その後、奉安殿と呼ぶ天皇陛下を祭った(写真が納まっていた)小さな社があって白い手袋の校長先生が拝んだような気がするが、これはよく覚えていない。内地に帰ってからも国民学校では暫く奉安殿を拝んだ記憶がある。

 スチーム暖房用の煙突が後にあった鉄筋コンクリートの3階建てのビルの校舎の窓から見下ろすと、軍事 

教練が始まる4年生以上は、両手を広げて自立輪車に入り、他の人から押し転がしてもらって、目が回らぬよう飛行機の宙返りの練習をする。

 4月から6月位の頃までは、お隣の6年生小島の洋ちゃんを先頭に整列登校をして、空襲の警戒警報のサイレンが鳴ると、道路脇に掘った近くの防空壕に飛び込む日が多くなって、7月になってからは空襲警報ばかりで、ほとんど登校できなくなっていた。

 お昼にラジオで敗戦の勅語(昭和天皇陛下の言葉)を聞いた直後、当時「赤とんぼ」と呼ばれていた陸軍航空隊の小さなだいだい色の複葉(羽が二枚の飛行機)の飛行機(赤トンボと呼んでいた)が1機、エンジンの音高く、家の窓から見えた東大門から京城中央に近い空に飛来して、暫く上空を旋回していたかと思うと、急に爆音を轟かせて上空に向かったと思うと、一転してまっ逆さまに市街地に突っ込んだ。

市街地から黒煙が上がった。

「自爆だ」父が言った。軍人が前途を見失って軍用機を使って自爆したのだ。

天皇陛下のために戦うようにと、命令されてきた、あたら惜しかった人命なのだと思う。
                                        上は九三式訓練機(赤トンボ)

 それから2ヶ月くらい、京城の街は電車を始めすべて朝鮮の人たちに占拠され、街の治安は韓国人の、今で言うボーイスカウト風の自警団と、わずかに進駐してきた米兵に任されて、「日本人は皆殺しになる」「京城中の食べ物に毒が入れられる」など、デマと風評に翻弄されながら過ごした。

 北朝鮮や満州から命からがら逃げてきた人たちの収容所(今の難民収容所と同じだ)に、着の身着のまま(着ている衣服だけの姿で何も持たないで)リュックザックだけの姿で集められて、10月の始めの寒い枯れかかった葉が付いたプラタナスの並木の道を、長い行列が、とぼとぼ歩いて龍山駅という貨物集積駅に着き、無蓋車(屋根なし貨物車)有蓋車(屋根付き貨物車)混成の貨物列車に順番に詰め込まれて、夜どうし走って釜山に着き、釜山の丘の中腹にあった女学校の校庭に沢山張られた難民テント・キャンプで1週間は足止めを食った。難民を運ぶ船のやり繰りが付かなかったと見える。

 食べ物と水は、進駐軍が軍用ジープやトラックで運んできた乾パンや缶詰などだった。もちろん、今のペットボトルなど軽くて便利なものはなく、運んできた水は持っている鍋や釜、我が家はリュックに入れていた山用のコッヘルで貰った。

 帰国の船の順番が来て、またリュック姿の行列でとぼとぼと港に歩いた(今我々が見る戦争下の難民たちの悲惨な姿と同じだと思う)。

 当時、関釜連絡線(山口県下関と朝鮮釜山を結ぶ連絡船)は7,000トン級の興安丸と金剛丸があったが米軍の投下した機雷により金剛丸をすでに失っていた。船の中は廊下にも、大人子供       九四式偵察機 これは海軍仕様
で一杯の人が座っていて、場を離れると自分たちの居場所が分からなくなりそうだった。

 下関のある関門海峡は機雷が浮いていて危険なので、興安丸は入れないので、引き揚げ難民を山陰の仙崎漁港に運ぶしかない。

大きい興安丸は、小さい山口県仙崎の漁港に直接停泊できない。夕方にやっと青海島沖合いに停泊して、ランチボートのピストン輸送で漁港に運ばれたのが夜の9時過ぎだったと思う。

 仙崎の人たちの港の炊き出しのお握りなど頂いて、遠くは北海道の人も居て、列車の便までの泊まりなどの世話になり、近くの僕たちはトラックで最寄の駅に運ばれ、全国に散らばっていった。 

 今、先崎は昭和の詩人金子みすずの故郷で有名になったが、敗戦後67年経った今、難民になって外地から引き揚げた人の記憶は、ほとんど忘れ去られようとしている。                  (2012/8/15