○ ○ 様
降りそうで 雨にもならない梅雨空でございます。その後益々御元気で ご活躍の御事と存じます。
過日は御多忙中を 私のために貴重な時間をおさき下さって集まりをお持ち頂きまして 何とも御礼の申し上げようもなく存じます。また立派な記念品を頂きまして有難うございました。朝夕 皆様の厚意をしのんで眺めさせていただいております。 “先生”等 申して頂くことは おはずかしい私ですが 幼かった あの頃の通学姿が 言葉が しぐさが まざまざと思い出されてなつかしさ一入 立派な今日のご成長ぶりに接して うれしさ この上も ございません。あの会の雰囲気がもたらす何とも言えぬやわらかい気持ち まごころに包まれて ああ生きていてよかったとしみじみ思いました。深川を去ってからのこと あれもこれも お話ししたいは山々でしたが感あまって何にも言えませんでした。皆様も それぞれここまでの人生には並々ならぬ苦労やなやみがあったことと思います。人生は決して平凡なものではありませんものね。よろこびのかげには悲しみがあるものと思います。
私が 皆様の担任だったのは私の二十一歳 二十二歳の時です。あの時は 自分は師範学校できたえられた教育者だと思っていたでしょうが 子供を育てるということも 親の子に対する愛情も また社会のことも まだまだわからぬ頃でした。せめて言えることは力一杯つくしたということでしょうか。
私は 私の尊敬する恩師から “努力もて愚を補う”ということを よく聞きました。生きる道はこれだ と 思っていました。今までずっと その気持ちは 私の心の支えになっております。二十四歳の時 人丸の啓廸(ケイテキ)小学校に転勤して その4月に京城の東洋拓殖株式会社 本社勤務の主人と結婚しました。11月まで別居生活 11月に京畿道の教員になり 田舎の小学校に勤め朝鮮での生活を始めました。朝鮮の方々に大切にされ 珍しいこと うれしいこと 悲しいこと 淋しいことの入りまじった生活でした。それから 京城の普通学校にかわり 京城のお金持ちの人々の生活の中に入りました。それから数戦までの十年間は なつかしい朝鮮の子供たちとの生活でした。
昭和二十年 漸く生活の安定を得た生活が終戦でご破算になり 当時小学三年 一年 四歳 二歳 の男の子と 主人の母と七人で 引き揚げ リュックサック一つの生活からはじめました。植民地の経営を主としていた主人の会社は米軍に接収されてその日暮でした。二十一年に又 済美小学校に勤め 日置中学校と 好きな道とは言え 今思うとわき目もふらず働いたということになりましょうか。同期生の中で最後まで働いたうちに入りましょうよ。
二十二年に また男の子誕生で男ばかり五人を育てるために 主人共々 泣いたり笑ったり おこったりでしたが 苦にもなりませんでした。毎年のように 卒業 入試 をくりかえし あわただしくて寸暇もありませんでした。漸く学資が減りだしてほっとすると 結婚についての親としての取り越し苦労 それもどうやら抜けると 思わず病気 といった私の道でした。子供たちの現在は次のように落ち着きました。
近くで お世話になる息子も居ります。どうぞよろしくお願いいたします。
長男 川崎T社勤務 (○○大)
次男 東京N社勤務 (◎◎大)
三男 山口県教職員 (◇◇大)
四男 山口県教職員 (◎◎大)
五男 光市S社勤務 (◎◎大)
末っ子はチョンガーですが あとは家庭を持って小市民生活をして居ります。こんな私の歩いた道ですが 今日あることを感謝しております。もっともっと書きたいこともございますが また折があれば と 思います。人間 健康に恵まれて一生を打ち込む仕事を得ることは 幸せなことと思います。つまらぬことを書きましたが 御礼のペンをとりました。
あなたの 御健康とご発展を心より祈りいたします。そして御倖せな家庭生活をと念じております。また お通りかかりには 是非およりくださいませ。一九一号線 山電上城バス停前 柳の木のある家でございます。
かしこ
昭和四十九年六月十日
(注:文は師範学校を出てすぐ教職についたときの教え子たちが催してくれた引退時の激励会への礼状として書いたものであろう。五男の弟も定年退職を迎えた今 偶然母のガリ版刷り書き物を見つけた。自分史と思える文で われわれ兄弟の宝ともいえる。一切を子供たちに与えた両親に感謝する。兄弟の紹介部分は なにか自慢に見え心苦しいが 父母の苦労が育て上げてくれた作品であり おふくろの生きがいだったと思うので 見苦しいと思うが あえて 収録した。 どなたも それぞれ 父母の恩を思い出す機会になったら幸せである。)