人丸神社と石原小学校と


 今は廃校になってしまった 引き揚げ後過ごした母校石原小学校の同級仲間が呼びかけてくれて 先日 何と ! 信じられないが 伊上のホテルで古稀会が実行された。 卆寿(九十歳)を迎えられる岩本肇先生と傘寿(八十歳)の大田(旧姓丸山)良子先生も出席された。良子先生は 当時女子師範を出られたばかりだったのだ! その席は久し振りに集まった24名の暖かい雰囲気に包まれた楽しい会で カラオケを交えた宴会後も バーでの二次会 女子部屋での寝そべっての団欒など ユニセックス化?したとはいえ 小学校に帰ったような雰囲気で面白かった。
 これはこれで また触れる機会はあるだろうが この稿では 小学校時代の思い出 特に後々自分の仕事になった 電気工作と人丸神社のお祭りの話を描いてみようと思う。

 石原小学校を卒業して以来 噂を聞いたことはあっても 会ったことがない末村君が千葉から来てくれた。確か高学年になってから渡場の橋の袂にあった広い土間の家に越してきたように思う。お父さんはお医者さんだという話だったが 私自身は病院も知らないし会ったこともなかったが よく遊びに行った。お母さんが 中畑のご出身だとか何とかの話で 4年か5年生の途中で転校して来たように思う。覚えているのは 彼と ブリキのバケツと 塩水と 電池を壊して取ったカーボンの棒を使って 電池の実験をしたことである。実に 今度会うのに 六十年有余の歳月が過ぎ去ったことになる。後になって 従兄弟の晋ちゃんの一ツ橋大学先輩であることが分かった。

 そのころ既に 一級下の吉村君と いつも電気工作にのめり込んでいた。お父さんは渡場の歯医者さんで お父さんの歯科技工室で工具を使って工作をした。元はといえば 確か5年生のとき 人丸さまのお祭りで ブリキとエナメル線を使った小さいモーターを買ったことである。親父も電蓄やラジオなどを手がけていたので 半田ごてくらいの知識はあった。そこで 見よう見まねのモーターを作り 見事 回ったのが事の発端であった。
 そのうち モーターは戸車の車を使った模型機関車(動いたことはないが)になり 終には本物の模型電気機関車EB10を買って貰った。そうして技巧室内にレールを敷設し トランスを買い 模型機関車を動かすようになった。
 やがて機関車に電圧測定用のボルトメーター(電圧計) 電流測定用のアンペアメーター(電流計)などを自作するようになったが 電流計は上手く働かなかった記憶がある。丁度その頃 人が来ると自動的に開くドアー つまりが自動ドアーを思いついて 吉村君と一緒に科学展に出したら入選した。今と違って ブリキの手製モーターでは 動こうはずもなく 小学生の工作でアイデアを模型にしただけのものだったように記憶するが 入り口のマットに仕掛けた踏みスイッチや 吊りドアー構造は 特許の知識などない時代で 誰も気にしなかったが 世が世なら われわれの発明だと今でも思っている。
 吉村君は長門市で歯医者さんを営業していると聞くが 彼が九州の歯科大学に入学した当時はお付き合いもあったが その後会っていない。

 そのころ 人丸神社があるところは あの界隈でも 文化の中心だったように思う。神社の下の街の中心になる大きい道の坂上には 本屋さんがあったし その前当たりに浄泉寺があり 昔 祖母が住んでいた 芳賀さん?の赤瓦の大きい屋敷もあった。駅の方に行くと 左手に 祖母がよく通った 吉野病院があり その近くに先輩の峯田さん薬局があった。沢山の店が 軒を連ね 活況があった。
 「藤堂」というラジオのマニアックな小店があり 米軍から放出されたと思われる「エーコン(どんぐり)管」と呼ぶ 本当にどんぐり大で 放射状に電線の電極がついた おもちゃのような真空管が手に入った。しかし それを使うほどには 当然知識がなかった。よく 工作用のエナメル線を買いに行った 渡場に行く線路の踏み切り近くにあった「藤田ラジオ店」出身の若いご主人だった。後には 親戚の豊子ちゃんが嫁に行った「西島ラジオ店」のご主人も そこの出身だった。

 中学に進んで 渡場から上城に移ってからも ときどき藤堂に行って 珍しいものがあったら買ったように思う。その頃は 工作用のエナメル線が欲しかったし 貴重でもあった。そのころ 家には親父が購読していたアメリカの雑誌「ポピュラー・サイエンス」(翻訳版)や「リーダース・ダイジェスト」を 読んでいたから 炭酸ガスボンベをエンジンに使った模型ボートで小船を引かせる記事や Uコントロール(長い細いワイアーロープで模型飛行機の制御をする)方式の飛行機だの 東京皇居前広場で米軍人が飛ばしたエンジンつきの模型機が 観客の子供にあったて大怪我をしたとか 結構田舎にしては物知りだったと思う。好奇心旺盛だった親父の影響だろう。
 おまけに いまもある誠文堂新光社の「子供の科学」も読んでいたし 毎日新聞連載の船橋聖一の吉田松陰を描いた小説「花の生涯」を欠かさず読んだし 岩波写真文庫の「捕鯨船」に凝って1mほどのキャッチャーボートの模型を自作したことを覚えている。この船は 阿波先生に請われて 山奥の畑部落にあった「益習(えきしゅう)」小学校の 海や船を見たことがない子供たちにと あげた。その後は 知らない。

 人丸神社のお祭りは 四月十八日前後だったように思う。駅前の通りには 露店が並び ラムネをはじめ 食べ物店も多かったが 子供用おもちゃのモーターだの お面だの 魅力溢れる製品が 並んでいて わずかな小遣いを手に握り締めたわれわれ子供たちをわくわくさせた。
 祭りの日には 親に貰ったわずかのお金を胸に 渡場の「大橋」を渡り 5分ほど先の小さい「竹橋」を渡り 左手に田舎競馬があった「芝の馬場」の藪地を過ぎて 「エンコ松」のほとりを通る。大きい幹を川の上に4,5m横に張り出して そこから直角に上方に幹が伸びる独特の樹勢のため 河童=エンコ の連想が生まれたものだろう。連想だけとは言えなくて 事実この付近で子供が溺れることも間々あった。溺死すると肛門が開く というまことしやかな噂もあった。だから 一人歩きや 夜歩きは ご法度だった。人丸様や 吉野病院や その先の親戚北山へ行くときも 必ず通った。
 お祭りで買ったブリキのモーターが 今の原点になったとは。人の運とは 不思議な気がする。

 人丸さまでは 日曜日に短歌会があった。メンバーの記憶はあまりないが 近所の大人たち 商店の親父 歯医者 医者 先生たち が出席されていた。 六年生の自分も出してもらった。「高山章介」さんという白髪の小柄な老人 人丸さまの神主さんが 指導者で 長く長方形に並べた座卓を前にして 各自お題にしたがって短歌の短冊を提出し みなで欄間したの長押に吊り下げる。 一辺の座卓に十人ほど並ぶので 30人を超す盛況だったような気がする。各自 自作を除いた推薦歌を選び発表する。 いわゆる互選である。

 章介さんは母も習ったことがあるという先生でもあったから 私も何やかやと世話になったようだ。そのころ 小学生の分際で何を詠んだのかは 一向に覚えがない。 境内には寝そべった牛の像があって 油谷湾の方向を向いている。柿木人麿の望郷の思いが伝わるようだ。むろん当時は そんなことは露知らなかった。

 梅原 猛氏は 1990年(平成2年)の日本経済新聞の土曜版の 「古代幻視」・・・・人麿・人生とその歌(十五)・・・・ の中で 人丸神社について くわしく 述べておられる。
 人麿は 文武天皇の御世に 讃岐に流罪になった。その後 また石見に 計二度の流罪になったとしている。その二度の流罪の間に油谷の人丸に二年ばかり滞在したというのである。 

「山口県の人丸というところがある。そこに人丸神社というのがあり、その神社の伝承によれば、唐から四つ目のある鬼が筑紫にやってきたときに、人麿が勅命を受けて、歌の力でその鬼を退治した。そしてその筑紫からの帰り道にここに寄り、二年ほどいて石見の国へ行ったという。」と書いている。

 そのころ 新羅との国交は緊迫し 「四つ目の鬼」と形容された強面の新羅史が来訪し うろたえた朝廷が知識人の流人であった人麿を当てたが 終わったあと都の返すわけにも行かず

 「こうして人麿は筑紫に行き、人丸神社の伝承にあるように、その役割は果たしたけれど、いったん流人になったこの詩人を都へ帰したらろくなことはないと考えたのであろう。そしていろいろな伝承が伝えるように、石見守あるいは石見権守として、あの油谷の人丸神社のある場所に住まわせて、二年の閑日月を過ごさせたのであろう。」  と言っておられる。

 実は縁あって 人丸さまは われわれの婚礼の場所だし 高山章介さんは神主を務めていただいた。
そのころ、境内や森に「万葉の植物」を集め始めておられる様子を 熱心に説明してくださったのを覚えている。後々になって 章介師が書かれた 「古典の木草(きぐさ)」 という研究成果の小冊子を 先生の身内の方に頂き 親しくその息遣いに触れることの出来るよろこびを感じないではいられない。
 
 なんだか取りとめもない話になってしまったが 子どもの頃の「人丸様」の思い出を綴った。しようもない話である。

2006/4/27