新聞記事で思うこと イムジン河(臨津江)

 日本語は同じような事実を伝えるのに、多彩な表現の言葉の中から使う言葉を選ぶことによって、傷みを和らげたり、事実を婉曲に言って曖昧にしたりすることが多い。事実、為政者によって言葉で誤魔化されてきたことがどれほど多いことか。

例えば「終戦」である。相手の国々は「Victory=勝利」だと叫んでいるのに、この言葉は「戦争に負けた」という事実が響いてこない。「無条件降伏」が何故「終戦」に結びつくのか私には納得がいかない。武士は負けても負けたとは言わないで腹を切るかもしれないが、明らかに「敗戦」である。「終戦」と言えば国家責任を免れるが如くで、生き残っても空襲被害や外地からの引き揚げ難民など戦争犠牲者にとっては、極めて腹立たしい。

また外地で働いていた日本人が「敗戦」によって今で言う「難民」になって命からがら「逃げて」来た人たちを自動詞的に「引揚者」といって片付けてきたのも同じ言葉遣いであろう。

日本が朝鮮や台湾を植民地にして、中国やアメリカイギリスなど世界を相手に戦争をしたことや、敗戦間際に参戦した当時のソビエト連邦に北方4島を占領されたというような歴史に無頓着な子供たちがマジョリティになりつつある今、遅くはない「終戦」ではなく「敗戦」を教え込まなければいけない。子供たちが世界で活躍しようとすればなおさら、自国の行動に謙虚でなければ、世界に通用しない、これは教養であると思う。

先日朝日新聞の土曜版に「イムジン河」というフォークルの歌にまつわる記事が出ていた。

現在イムジン河には韓国(南朝鮮)と北朝鮮の軍事境界線が敷かれている。韓国の首都ソウルの真ん中を通って北上しやがて黄海に注ぐ大きい河、漢江(ハンガン)と有名な板門店の近くで合流する。それで、思い出したのだ。

当時、国民学校(小学校)3年生のわたしは河の名前は知らなかったが、敗戦間近になってソウル(当時京城)から親戚の住む長湍(日本読み=チョウタン)に疎開した。ソウルから京義線の汽車に乗ってこの大きな河を渡るとき、鉄橋の左側の河の中ほどに沈没した貨物船の黒い煙突とマストが見えた。河は比較的浅いのか、座礁したように大半水の中に座った船体は殆ど見えなかったような気がする。その近くの河の中に黒い大きい爆弾が4枚の尾翼をつけたまま突き刺さっていた。不発弾だと思った。当時の国民学校3年生にはそのくらいは分かった。京義線の鉄橋も貨物船も重要目標だろうから、そのどちらかが空襲されたのだろうと思った。

疎開先の長湍はのどかな広々とした田園地帯で、朝手押しポンプで水を汲み顔を洗った。親戚の優しいオバサンの顔は茫々としているが…・石原のオバサンではなかったか?オバサンの息子・オジは軍人で戦地に居た。

奇しくも8月14日敗戦の前の日にソウルに帰ってきた。そして翌日ラジオは殆ど聞こえなかったが天皇陛下の敗戦勅語…・。

敗戦後の引き揚げ難民になった親たちの苦難は壮絶なものだった。父は敗戦と同時に潰れた国策商社の職を失い、

祖母と両親と4人の幼少男子を抱えて難民になった。「日本が負けたのだから仕方がない」と必死に頑張ってきた。それでもわれわれは恵まれた方で、もっとひどい苦しみを味わった人たちは数知れない。

わたしは信心が乏しいが、幸い今こうして話が出来るのも何か宇宙的な大きな方のお力だと信じ感謝するのである。

地図は朝日新聞(2010年2月20日土曜日be版)から無断借用しました。