ある芸術家の思いで(造形作家 故・竹中敏洋さんのこと)

00742368.jpg 長男が生まれてから、当時旭光学が発売していた一眼レフカメラ「アサヒペンタックス・S2」を薄給の身ながら求めて以来、子供の成長だけでなく、仕事でも、遊びでも、写真を撮りまくって来た。本当はペンタックス・SPという露出計を備え、ファインダーが明るいモデルが欲しかったのだが、確か、SPは1万8000円で、初任給が1万6000円で入社して以来3年目の私には買えなかったのだ。S2は、それでも1万4000円くらいだっただろうか。
以来何十年、目だった写真コンテストに応募することも無く、カメラは5,6台更新した。振り返って見ると、駄作の山を作るために大金を注ぎ込んできたほのかな後悔を覚えるのも、デジタルカメラの出現で様変わりし、趣味としての写真の価値観が変わってしまったためと思う。
撮りためた写真を、何かの拍子に思い出しては整理し捨てる、という作業をするようになったのも、老年のせいだろう。そんな時、私が毎年のように、仕事で足繁く通った北海道は日高の静内の写真を見ているうちに、自然、彫刻家というか造形作家・故・竹中敏洋さんとの出会いと、一緒に過した日々のことを思い出した。
竹中さんに初めて会ったのは私が会社生活晩年になって赴任していた北海道恵庭市での「遊び仲間」が、偶々引き合わしてくれた。

 北海道には札幌近郊にビールやウイスキーの会社が多いせいか、「サッポロビール会」「キリンビール会」「アサヒビール会」などのビール会社のファンクラブがある他、「ニッカ」や「サントリー」などウイスキーの会もあるし、名前が自然発生的についた同好会も多い。例えば、親友春夫さんは、人懐っこく人を寄せ付ける温かい人柄で、特にご婦人方にも豊富な人脈のあるようであり、私の知っている限りでは、そのような会を沢山作っているか、関わっているという特技がある。「恵庭シネマ会」はかって恵庭にあった映画館の愛好者の会だし、「歴史と音楽を学ぶ会」もチェンバロ奏者やピアニストと開いていた会だし、「博酔会」に入れと忠告してくれたのも彼である。

 当時、北海道新聞の千歳恵庭版に交代で続けていた「せせらぎ」というエッセイ・コラムがあった。コラムの末尾に名前と所属する組織名を書くことになっていた。わたしも会社生活では「トウ(蕗のトウ=花穂というあれ)が立って」会社での肩書きは恵庭に無縁になった。 それまで「恵庭工場長」などと言って地元の人として同人に入れてもらっていたのが、使えぬようになってしまったのだ。そこで春夫さんが「博酔会」に入れてくれたのである。丁度、会社など糞食らえ!の時期にも差し掛かっていたので、とてもうれしかったのを思い出す。要するに、春夫さんは私のことを「酔」の字に当てたのだろうと納得した。挙句の果ては今のヨイヨイなのだから、以って瞑すべし。
「博」が作家・小檜山博(はく)さんの博だと知ったのは、だいぶ後になって知った。知っていたら、小檜山さんと呑む機会があっただろうにと、ちょっぴり悔しい。

 春夫さんが仲間の集まりに連れて来てくれたのが「ダンプ母ちゃん」こと竹中幸子さんだった。丁度、「ダンプ母ちゃん」が、出稼ぎに行っていた川崎のダンプ職場から帰って来た、というのだ。その席にはご主人・竹中敏洋さんが、恥ずかしそうに付いてきた。その頃既に民放TVの東芝劇場で「ダンプ母ちゃん」シリーズが放映されていたらしい。
敏洋さんはお酒はあまり飲まなかった。いや、その頃から、敏洋さんの体調が心配で、幸子さんがけん制している風だった。春夫さんも、そのエッセイの中で、風変わりな好もしい芸術家の姿を伝えていた。

たまたま、私は隣に敏洋さんの座ったので、気難しい方だろうと思い、話の糸口も見つからないまま、絵の話彫刻の話などをしたように記憶するが、敏洋さんもポツリポツリと気の乗らないのを隠さなかった。誰かが、座ってギターを弾く人の10cmくらいの高さの彫像を持ってきた。昔、敏洋さんが作ったのだということだった。なにか、ジョーン・バエズが歌っているような、訴えているような、彫像だった。今は盤尻で「氷の造形」取り組んでいるとのことだった。「千歳・氷瀑祭り」も彼の発案だと知った。2回目から地元との折り合いが付かず、そのときはもう氷瀑祭りは一人歩きをしているようだった。
別にサッポロビール工場の付属レストラン・バルハラの庭園にも、氷のモニュメントを作ると言う話も聞いた。が、生憎夏だったように思うので話だけに終わった。その席にはサッポロビールの工場長Oさんもいたように思う。私の社宅も、同じ同階2戸のマンションでOさんのお隣に入ったばかりだったので、顔見知りだった。

 私の会社での仕事はJDAのGMシステムに関わってきたことを話し、ここ十年来、毎年日高の静内に行っている話になった。仲間と静内の真歌(マウタ)公園に行きシャクシャインの像にビールを献じ、ミサイルの発射試験の成功を祈っているのだと。
竹中敏洋さんは、驚いて「あれは十年も前、ぼくが作った」と言われる。今度は、こちらが吃驚!そうか、作者のことは思わなかった。もう随分長く足繁く通っているのに、迂闊なことだ!あの大きい銅像は竹中敏洋さんが作ったのだ!
その頃会社の仲間には、そのシャクシャイン像の風貌に飲兵衛の私が似ていると言ったやつがいた。がむしゃらな気迫で、持っているその像は先端が二股の棒で偶々射場の方角の空を指して雄たけびを上げているような姿の連想があった。自分は自分で、会社で開発を担当したFCSという、レーダーでミサイル射撃を統制する装置の仕上げに掛かっていたのだ。
 そんなことがあってから、春夫さんはじめ仲間が、盤尻の敏洋さん宅で野外パーティをやるようになった。盤尻は恵庭市の奥深くにある。 恵庭の開拓当初は、川を利用した発電所があり、人も集まっていたようだが、今は寂れて、恵庭市の市民スキー場になっている山奥である。そうしていつの頃からか、私は暇を見ては車を駆って盤尻の竹中さんを訪ねるようになった。

 竹中さんのアトリエの(といっても街の小さな鉄工所か鋳物工場にしか見えないが)裏手にはあの静内のシャクシャイン像の半分のスケールの像が立っている。なんでも、この像は足の辺りにアニール(鋳物の冷却によって生じるひずみ)の不具合があって長期の風雨には耐えられないので、庭に立てておいたそうである。敏洋さんが説明しても私には不具合が直ぐには理解できなかったが、静内の像とそっくりな姿を見て興奮を覚えた。

 アトリエの中は鉄工所のような鋳物部品や工具類、大きな鋳物の造形の残骸などが所狭しと置いてあり、入りきれないものは外にはみ出していると言う趣だ。芸術家の現場はこのようなものかと新鮮な驚きを覚えた。生活そのものが芸術の表現のようなのだ。

 像の裏手には恵庭ダムからの漁川の上流が流れている。川は豊かな水を想像させる地形を作っているが、ダムの影響で水量は至極少なくなり、平たい川底は向こう岸まで歩いていける程である。敏洋さんが札幌・西岡からアトリエを移した当時は、水は滔滔と流れていて、おかずになるほど魚が取れたそうである。現に、モーターボートの残骸が薮の中に転がっている。

敏洋さんが話してくれたところによると、敏洋さんは大分出身で地元の大学の美術をやったという。札幌の西岡という昔はりんご畑の中に住んでアトリエを作ったようで「気が付いたら周りのりんご畑が無くなって逃げ出した」そうである。以前勤めた北海道の中でも僻地閉校した小学校の古校舎を貰い受けてこの家を作ったという。校舎の解体から運搬、建築など仲間も手伝ってくれたが、殆ど自力でやったという。居間には大きい窓が東側と北側に向いて開いており、窓の外は広い庭を隔てて森の茂みに連なる。
東側の庭の中央には、敏洋さんと幸子さんの思い出の住居跡があると教えてくれた。越してきた、原野に近かったこの庭で、家を作るまでの間、2m余りの円形の窪みに柱を立ててそこに円錐の屋根を葺いて一家5人、つまり敏洋さん、幸子さん、幼いふたりのお子さん、敏洋さんの母上と生活したとのことだった。想像するにまるで縄文時代の竪穴住宅である。極寒の北海道の森の冬を過すには余りに厳しかったであろうし、夏秋は熊も出没するであろう。でも、おふたりの表情は明るかった。後で知れば知るほど、強烈な愛に裏打ちされた人生があることを思い致されるのである。

 屋敷から川岸に降りる道は、最近敏洋さんの仕事になっているのだという。幸子さんは夫が「芸術をしない!」と嘆いているほどに気が気ではないのに、小型のブルドーザーを手に入れて、一人で川岸に下る道を開いている。幸子さんはわれわれのことも「不良どもが集まって芸術の邪魔をする」と憤慨しているが、敏洋さんが嬉しがっている姿もまた幸子さんにとっては喜びでもあるのだろう。
 幸子さんにしてみれば家は火の車だ。敏洋さんのお母さんは見るからに丈夫で如才ない挨拶をされるが、敏洋さんがもう見分けつかないようだし、ふたりのお子さんはこの山奥から歩いて一里以上の道を学校に通って、お兄さんは東京で芸術の道に入られたそうだし、下の娘さんも今は車で札幌にここから通勤して、家計を助けている。幸子さんの働きぶりはダンプ母ちゃんと言われるとおり、屋敷の畑作りからなにからこなし、この偉大なそしてアインシュタインのようなやんちゃな芸術家を支えているのに感嘆する。敏洋さんのオーディオ・セットがまた秀逸。コンクリート・ブロックをグラインダーで鮮やかな曲面で削り、オーディオ・セットに仕立てる。その曲面と言いその色合いと言い、一級の芸術家敏洋さんならではのものである。これを作った由来を懸命に説明してくれている間に、壁に掛かっている大きなポスターの話をする。幸子さんは時々相槌を入れている。ポスターに表現されていて、今やっている鋳物の熔けた金属のドリップの偶然出来る造形の面白さ、何度も何度も繰り返し造形を追求する過程、そんなものを熱心に説明してくれる。芸術家と言うものこういう人かと感心しつつも付いていけないでいる哀れな私がある。
幸子さんが促して、NHKが日曜の美術番組で取り上げた、ご子息と協同で東京で開いた氷の造形の展示のビデオを見せてもらった。新宿の駅前の池で広場で巨大なモニュメント風なオブジェを展開しているようなものだったかと記憶する。私は放送そのものは拝見していなかったが、流石にNHKが放送するだけあって、豊かな芸術的発想が随所に見られた。あらためて目の前にいる芸術家を実感した。
身のほど知らないのも程があるが、初めの頃「私の絵も見てください」と言った私に「おう、いいよ。もっといで」と気軽に答えてくれたのを、幸子さんが聞きとがめて、すかさず「吃驚するほど高いわよ」と笑って言われたことが思い出された。

 冬になって、防寒具を装備して竹中邸に集まれと言う。夜、真冬の発電所脇の山道をスタッドレスタイヤで登ってスキー客が途絶えたスキー場のそばの家に行くと、大きな氷のパオ、そう、蒙古の草原の写真で見るパオのような形の氷の室が2個立っている。脇に大きなテントを張って、バーベキューのコンロの火が燃えている。室の中では、二酸化炭素中毒になる危険があるということなのだろう。パオは直径3mはあろうかと思う。天蓋部分は星が見えるように中央に穴が開いていて、空気の吐き出しも兼ねている。壁は蒼く透明な氷でこの氷を安定して作るのがノウハウらしかった。中に皆が順番に入って居住性をみて、やがて脇のテントでサッポロビール工場長のOさんが差し入れてくれるビールで乾杯し、ジンギスカン風のバーべキューを楽しむ。氷にこだわる芸術家の魂を見る。

夏は、敏洋さん自慢のかわらに降り立ち、川ッぷちの川床に沸く湧水の中に缶ビールを転がして冷やし、ドラム缶を溶接機で割って作ったバーベキューコンロで火を焚いて焼肉を楽しむ。浅くなった川の流れの中央付近に沸く湧水を敏洋さんは知っていて、飲み水を汲んで来いという。幸子さんは諦めている風で遠くから眺めている。

こんな仲間が集まってわいわいやっている内、月日が経過し、忘れた頃車で又、顔を出して見ると「不良は来ないで。芸術の邪魔はしないで」という幸子さんの声がする。敏洋さんは「生みの苦しみ」だろうか、作風の変わった絵を見せてくれる、というような日々を過すうち、私が転勤することになった。当初は北海道に永住しようと思っていたが、孫の顔がちらほら思い浮かぶようになると、北海道に住むという気力が後退した。

ある日、北海道に出張する機会があり、久し振りに春夫さんにあったら、敏洋さんが脳卒中か何かで倒れて入院していると聞いた。青天の霹靂。時間がなくて病院へは行けずとりあえずお見舞い品を送っただけで東京に帰ってきてしまった。
また次に北海道に行った時、友人の車で盤尻に行って敏洋さんにやっと会うことが出来た。言葉が多少不自由ではあったが、歩行が出来るようになっていた。お元気な頃を思い出すと切ないほど弱弱しかったが、北の窓から庭を見やって、近況を話しておられた。
次に盤尻に行ったとき、以前とは随分回復して、お元気になられたと喜んだ。丁度、娘さんが札幌のお勤めの休日だったようで、お会いできた。幸子さんとお二人は、敏洋さんの回復を喜んでおられた。

竹中幸子さんとご子息の造形作家タケナカヒロヒコさん連名で年賀の見合わせの挨拶を頂いたのは、2002年の暮れだったか。彫刻家であり氷造形作家竹中敏洋さんのご逝去を知った。あの懐かしい笑顔と温かい心の芸術家の思い出は何時までも私の心にいる。今度は私が同じ病で右麻痺になり、早1年以上経過した今、再び敏洋さんのあの頃の思いに近づけたのではないかと懐かしい。
撮りためた写真が思わず懐古の世界を開いてくれたが、インターネットのお陰で、若き日の敏洋さんの闘う姿、例えば静内のシャクシャイン像事件、シャクシャイン台座事件、支笏湖氷爆まつり顛末、恵庭市の開拓者像、札幌の風のレリーフ、などなどを拝見するにつれ、数奇ではあるが心豊かな敏洋さんの人生とご一家の生活の一端に同道できたものの一人として、感謝の心を捧げたいのである。

2005/9/17