書評:「名画の言い分」 木村泰司著 集英社刊
(僕の本の読み方の工夫)
元はと言えば、日曜の新聞の書評欄がきっかけである。4冊の本が紹介されていたので、面白そうな3冊をインターネットで図書館に予約して置いたら、都合良く3冊同時に順番が回ってきた。
インターネット上の横浜市営図書館の本の検索と予約システムは上手く出来ていて助かる。横浜市の図書館が所有する本の検索が簡単に出来て、予約すると貸出状況もすぐ分かり、順番待ちが表示される。
個別の本は所有する区の図書館で対応しているから、予約には利用図書館を指定する必要があるが、予約するとその本を所有する区、または貸し出し中なら現在の借り手の返却区から、予約の人が本を受け取る区の図書館まで物理的に本を運ぶという手間と時間がかかるから、同時に申し込んだ3冊が、同時に「準備できました」状態になるのは、珍しいのではないかと感謝する。
それというのも我が家から最寄りの図書館は隣の港南区の図書館で、バスを乗り継いで徒歩で行くのだが、待ち時間も入れて片道ほぼ1時間の道のりだから、何度も取りに行くのはリハビリになるとは思うものの、敬老パスで運賃はかからないが身障者の自分には辛いのだ。
自分が所属する区の図書館はバスの便がミニバスで窮屈な上、1時間に1,2本でしかもバス停からの歩きは長い。
余談はさておき、この本は1冊の本の中で有史以来の西洋美術史を古代ギリシャから説き起こした本格的な美術史概観と言って良い。読み終わって分かることだが、系統的に学術的に、時には豊富なエピソードを入れて、西洋史の中の社会と美術が、丸で講義を聞くように楽しんで読めた。それは、その講義の本のなかに豊富な「名画」の写真図版が盛り込んであって(実に40ページに108図)、図番の付番号で語り口と具体的に絵を見ながら理解でいるからである。
しかし、読書する上での難点もある。108個の図版は本の冒頭に写真印刷で40ページにまとめてあるから、読み進めて行くと何回となく読むページと冒頭の図版ページの間を往復しなくてはならない。若いうちには何でもないかも知れないが、ましてや右手が不自由な身にはページめくりも辛い。
そこで、僕は自分なりに工夫して快適に読めた。いつも気に入った本は最初に目次をスキャナーでpdf化(米アドビ社が開発した文書を携行・閲覧できる形にした文書形式、読むためには無料だがアドビ・リーダーというソフトをパソコンに入れておく必要がある)する。僕は記憶力に自信がないから、目次があれば朧ながら粗筋が思い出せるような気がする。
今回は目次の外に40ページにわたる図版ページもpdf化したのである。これをパソコンに記憶させて、パソコン画面に表示させておいて、パソコンの前で本を読むと、必要なとき目をパソコン画面に向ければ立ちどころに番号の付いた図版が見える。
これは自分には画期的な読書法で、身障者でなくても楽しめる、ちょうど黒板を見ながら美術史の講義を聞いているような、愉しい読書だった。表示の大きさも倍率を75%とか120%とかパソコン操作で容易に変えられるから、目がしょぼくれた自分には打って付けである。
身障者割引もあるから自分は比較的によく美術館に足を運ぶ方で(このホームページの「美術館巡り」をご参照ください)、国内や国外の「名画」は結構見ている方だと思っているが、この本を読んであらためて自分の今までの名画の鑑賞が、この本で著者が度々指摘しているように、現代の「感性」でしか見ていなかったかを気付かしてくれた。著者が言う「感性」で見るとは、絵が良く描けているとか、色がきれいだとか、情景が迫ってくるとか、いわゆる現代風に鑑賞することだろう。
宗教画や肖像画が中心であった古典絵画の鑑賞から、「感性」で絵を見るようになったのは近代になってルノアールなどの「印象派」になってからで、何世紀も続いた絵の対象が聖書やコーランなどの宗教画の物語や貴族たちの力を示す肖像画などから、風景画や静物画など自由に描き、自由な感性で鑑賞するようになってからのことだということを再認識した。今はそれぞれの「感性」で鑑賞し描くということが当たり前と思っているが、深い背景に裏打ちされていることに思いをいたす必要がある。
これからは、「名画」を伝統的な側面からも鑑賞できるように心がけたいと思う。ギリシャ神話を始め神々の名がギリシャ、ローマなどの文明に合わせて別々に呼ばれていることや、その神神のアトリビュート(シンボリックな目印)が決まっていることや、時代による絵の決まりごとや天使に階級があるなど、知識を増やすことが出来たし、初めて聞く逸話も多い。
この本と一緒に借りた本に同じ著者の「西洋美術史から日本が見える」という小冊子(PHP新書)がある。
こちらも著者の豊富な学識と経験に基づいた「名画」にまつわるエピソードやエッセイなど気楽に読める楽しい本である。