故 M.貞雄 先輩からの手紙
このお手紙を戴いてから程なく M先輩のお世話で R・Tさんを誘い 2000年8月9日18:00から新横浜の「うなぎ大黒屋」で櫻ケ丘同窓会合として初会合をしました。Rさんは奥様送迎付き添いでした。ところが翌年にはRさんが急逝され その翌年に残念なことに 今度は M先輩が急逝され 第2回同窓会は実現しませんでした。両先輩のご冥福をお祈りします。 Rさんは東京放送(株)を定年退職された。桜ケ丘国民学校で1年上級生。 手紙は 時代の手記の一つとして どなたかのお役に立つこともあろうかと あえて公開させて頂きます。Mさん Rさん も 喜んでいただけると信じる。お許しあれ! |
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拝啓
梅雨が終わりに近づき、暑い夏が目前に来ております。
初めてお手紙を差し上げますが、私は昭和二十五年明専の機械科を卒業したものです。
この度配布された本年6〜7月会報の「明専会報」を繙(注:ひもとい)ております時、「私の一句」の「龍山」の俳号が私の目に止まり、貴方の寄稿文を読み始め、私の歩んだ道と、貴方の歩んだ道があまりに似ていることに驚くと共に、大変懐かしく追った次第です。
と言いますのは、私も終戦による京城からの引揚で、終戦時京城の龍山中学の四年生在学中でした。京城時代の住所は龍山中学からは少し遠い、城東区新堂町で卒業した小学校は、櫻ヶ丘小学校でした。龍山中学は遠かったですが、将来軍人になろうと考えておりましたので、選んだ次第です。
従って貴方の俳号の「龍山」の文字が目に入ったわけです。
そして引き揚げて最初に落ち着いた処が、私の母方の里に当たる油谷町河原(人丸駅から貴方の人丸神社とは反対の方向)でした。(原文注記)私たちが引き揚げた当時は、未だ「油谷町」ではなく「大津郡菱海村であった様に思いますが、自信はありません。
父は萩出身でしたが、終戦直後の食糧難を考え、少しでも田舎の方がということで母方の里に落ち着いた次第です。
昭和二十年の十一月に引き揚げ、十二月に大津中学の四年に転入し、山陰線で人丸の駅から通学し,昭和二十二年三月に卒業(旧制中学5年卒)、四月に明専機械工学科に入学、昭和二十五年三月卒業し、小野田セメント(株)(現在の太平洋セメント(株))に入社、その後全国を転勤して歩き、関係会社等も経て、平成九年六月より全くの自由の身にとなり、現在は、若い時代に取得した技術史の資格を活用し、時々コンサル的なことをして頭の体操、足腰の体操のためゴルフを楽しんだりして、古稀を過ぎた体の健康保持に努力する毎日です。
更に、「私の一句」の文面より貴方も大津高出身ではないかと思い、大津中学、高校の同窓会名簿を見ますと、昭和三十年卒に貴方のお名前を発見した次第です。
私の時代、大津より明専に合格する人数は、毎年0〜1人程度でした。多分貴方の時代も、ほぼ同様かと想像しております。?
私と貴方が歩んだ道で違うのは、大雑把に言うと、機械と電気、小野田セメントと東芝、と言うことでしょうか。
人丸神社のお祭り、油谷湾の風景、新鮮な魚、等々が、この手紙を書きながらも、いろいろと目に浮かんできます。
私は短歌や俳句の嗜みや、才能の持ち合わせがありませんが、貴方は若い頃より、今日まで継続して嗜んでおられることに敬意を表します。
貴方のアドレスも横浜となっており、私は昭和五十六年より港北区菊名に住んでおり、この点も符合しております。
とにかく突然、拙文、悪筆のお手紙差し上げますが、前述の通り符合する点が多く、また懐かしさのあまり、筆を取った次第です。
向暑の候、ご自愛下さい。
二〇〇〇年七月十日
M.貞雄
○○○○様