老いも日々新た

 どこに行っても自分の様な高齢者が多くなり老いの生き様を間近に観察できる社会になりました。

それぞれが長い人生の喜怒哀楽を経て培ってきた人生の知恵ですから、それぞれが以心伝心、大切に次世代の心に語り継がれることでしょう。

 老いについて語る本も西洋、東洋に沢山あります。

どの人の書いたものを読んでも、その知恵も百花繚乱ですから、自分に当てはまる部分もあるし、当てはまらないものもある。書いてあることが格言のように一般的な正論だと分かっていても、これまで老いの一徹で過ごしてきた自分の信念を今更変えるつもりは更々ないということもあるので、同じ本の中でも自分にとって賛成・反対の部分が混在します。要するに全体でではなく部分、部分で頷くことが多いのです。

けれども正直言えば、老いを語るなら、落語のようにもっと気楽に「俺としたことが・・・ドジだなあ、笑っちゃうよ」とか「頓馬だなあ、こう言えば良かったんだ」とか、自分のサマを人ごとのように軽く突き放して、面白可笑しく語ってくれる軽い語り口の本がもっとあっても良いのではないかと思います。

 昔といっても僕の子供がまだ小さかった昭和40年代、毒舌の評論家と言われた大宅壮一さんが居ました。
辛口の評論家の彼が、晩年老いについての心構えを何かの雑誌に書いていたのが新鮮で「おや!」と思いました。

きっと、その時44,5歳の僕にはその言葉が憧れだったのかも知れません。

いわく、≪定年退職したら自然に世間から疎まれがちになるから、次の心構えを持つと良い。

1)前に増して何時も明るい上等なジャケツと良いズボンの若々しい姿で、小さく軽快で上等なボストンバッグを下げて、これから小さな旅に出るかと思わせる出で立ちをする。

2)何かお声が掛かったら、気軽にその格好で会合に顔を出す。が、長居はせずに忙しそうに立ち去る。

3)その内「あいつは元気で身が軽い」とか、「動きが良いよなあ」と自然に役回りが来たり、やり甲斐のある仕事が回って来たりするものだ≫ と、大体こんな趣旨でした。

 辛口ジャーナリストの彼らしい語りで、本気で言っているのか誰かに当てたブラックユーモアか、トボケテいるのか分からないところがありますが、当時若かった僕には格好いいなと写ったのでしょう。

今の僕から見ますと、この老いのイメージは、今では老人とは言えない定年直後の60歳台前半、まだ活力が溢れた人の老いの一般的な姿だった。

 あれから社会はすっかり様変わりし、パソコンや携帯電話の出現の情報化社会になり、高齢化が進んだ現在は、もはやジャケツにボストンバッグは老人のイメージではないかもしれません。

OB会や同窓会などに極力姿を見せ、ゴルフに精を出し、折々に万年筆で季節の挨拶手紙を書くといった生活スタイルも変わって、携帯電話やパソコンのインターネットで世の中の情報を得て、e-メールですぐ連絡ができ、インターネットで殆どの買い物が出来てしまう社会になりました。

どうしても自分が出かけマストは会合、散歩や病院通いくらいです。

 有名な今や長老の作家曽野綾子さんは最近老いについての著作も多く、僕もインターネットで安い古本を買ってよく読みます。

                        駄弁ながら、ついこの間まで、洋光台駅前から磯子図書館や上永谷の港南図書館まで本を借りるために暇に任せてバスを乗り継いで行っていましたが、歩く距離も結構辛くなり最近はネットで安く買える
古本ばかり読みます。           2-29孫が作った初雪だるま

曽野さんは「無いものねだりはしないで自分にあるもので楽しむ生き方」を薦めています。
つまり、老いによって何が出来なくなった、これが不自由になったと、ないものを取り戻そうと、あくせく生きるより「まだ自分はこんなことも出来る」とか「こうすればまだ捨てたものじゃあない」とか、自分にある力を見つけて活かす幸せを感じて喜びにするのがお薦めということでしょう。
 僕流に言わせてもらえば、この心がけは、何も老いだけの特典でなく、育ち盛りでチャレンジする青少年時代は別として、老いにも若きにも有効で大切な処世術のように思えます。

映画「おくりびと」でアカデミー賞に輝いた俳優、本木雅弘さんが最近のNHKラジオ深夜便インタビューの中で「ほどほどに望んで喜んで人生を諦めるのがモットーです」と話しているのに感心しました。
なにごとでも自分に出来そうもない高い目標を掲げて達成できないのを苦にするより、ほどほどに身の丈に合う目標を設定して、ほどほどが達成できた喜びに甘んじて人生を豊かにするという意味でしょう。

苦労を重ねて真摯に生きる本木さんの爽やかな言葉で、曽野さんの言葉にも通じると思いました。

 恥ずかしながら僕の場合の例を挙げると、面白可笑しいピエロの自分の行動にカラ笑いニガ笑いの類がいくつでも見つかります。

例えば、これからと思った頃に脳梗塞右片麻痺になり利き腕が使えなくなっても、中年過ぎて出現したパソコンを独学で覚えておいたお蔭で、苦手のブラインドタッチの要らない左手1本指のキーボード操作でe-メールや文章が書けると片目つむって笑っていられる。

一寸した道の段差につまずき易く、脚の筋肉もすぐ疲れパンパンに痛くなるけれど、杖を突いて休み休み、ゆっくり時間をかけて周りを見回しながら最寄りのバス停に歩けば、敬老パスの御蔭でお金を使わず付き添いなしでバスや地下鉄に乗れ、病院などにも行けるとヨロコンデいられる。

身体全体の左右バランスが取れなくなって危ないので体操や散歩もロクに出来なくなって、一旦転んだら、なかなか自分で起き上がれないし、温泉が好きでも手摺のない岩風呂などでウッカリすると溺れそうになるが、カフカが「変身」の中に書いたように、ある日目覚めたら自分がカブトムシみたいな昆虫に変わっていて、上向きにひっくり返って手足をバタバタもがくコッケイな姿を思い出して思わず笑いが出るなどなど。

と言う風に何でもほどほどの中途半端でヨボヨボのヨイヨイではあるけれど、毎日が初体験の老いです。

ヨイヨいで足りないところは何か代替え案を工夫し、その案が人には見た目にコッケイに映っても面白おかしく実行してみて何とか達成できて「シテヤッタリ」と片手で膝を叩く喜びに変える愉快さ楽しさもあります。

転ばぬように、怪我をして周りに迷惑をかけぬように心がけて、周りの皆さんや福祉事業などの支えの御蔭で不自由さの中にも「何とかなるさ」で行けば毎日が初めての「生かされていることに感謝する」老いでもあるのです。

                             (201232日)