栃の木幻想

 今年は4月最後の日曜日に、毎年1回東京の画廊で仲間と開いている水彩画展が終わった。会期は1週間。絵を見に来てくれる人々をお迎えするために、バスと電車で週の大半通った。

案内状を少しでも安く印刷するために、版下という印刷原稿をパソコンで自分で作ったり、自分の作品の準備や、作品の送り出し、画廊での作品展示、パソコンを併用しての来客の記録、ささやかではあるが来客と一緒に楽しむオープニング・パーティの準備と接待、最後の片付けと作品送り出し等々、会員の皆と共に楽しくはあったが忙しい日々を過ごした。

翌日は、忘れないうちにと早速、家で会の展覧会特集のホームページ編集に掛かる。会期中に撮って置いた皆の作品の写真と会場スナップを整理して「水彩画クラブ明何会」のホームページを更新する。

日頃のスロウな生活に沸き起こった台風のような日々が終わって、事実ホッとして目的もなくバスに乗って駅前に出かけた。身なりはこざっぱりとは行かないが、いつものように菜っ葉服にリュック姿で杖を突いて、人々が行き交う駅前広場に立つ。リュック無しには、雑誌1つ買っても手では持ち運べないのだ。

目の前に、鮮やかな紅色の花をつけた1本の栃の木がある。花が上を向いて咲くのでつい先だって冬枯れから甦った葉の新緑と紅色の花の対比が鮮やかで、元気を感じさせる。

僕がこの花を知ったのは、そう昔ではない。確か病気で倒れる数年前、写真仲間と神代植物園のバラ園撮影に行った時、バラ園の周りを囲む森の中で数本の大木が一斉に紅い花をつけていた。その時初めて「栃の花」だと、どなたかに教わったのである。関西では栗が多く栃はあまり見かけないように思うが、関東以北ではなじみ深いのだろう。

戦前の小さい時から今は外地になった京城(現ソウル)や、引き揚げた後の田舎や東京や栃木で、長〜い年月お世話になっている叔母(父の従妹だが兄妹同様の)が今栃木県宇都宮に住んでいるので、西国出身の自分には栃の木を知らない割に、あこがれに似た、民族の郷愁みたいな感覚がある。栃木県花が栃の花というのは昔から如何にこの木が大切にされてきたかという証であろう。

毒がある彼岸花の球根と同様、渋くて苦くて通常の食用に耐えられない栃の実が貧しい農民たちの主食としてあるいは飢饉食として大切にされてきた歴史を知るにつけ、そう遠くはないであろう世界に起こり得る世界的食糧難に思いを馳せる。

彼岸花の球根は匂いと猛毒があり、日頃は田の畦に植えておいても掘って食べる人はいない。しかも、水に曝せば食べられることをも農民達は薦めない。飢饉の時に備えた暗黙の知恵であろう。終戦後、中学生のアルバイト作業は彼岸花の球根を掘り集めて、カマス(藁で編んだ袋)に入れて車力に積んで海沿いの工場に売りに行くことだった。工場では磨り潰し水に曝して片栗粉と同じくデンプンを取っていた。それを知って自宅でも、摩り下ろして水に曝してカタクリコを取って、お湯と甘みをを加えて幼児食の様に食べた思い出がある。

想像は付くが栃の実も、長時間水に曝したり灰汁で長時間煮たりして栃餅にするのだそうだ。栃の木の学名がAesculus(アエスキュラス)といいラテン語のaescare(食う)が語源だそうだ。家畜の飼料になったところから来たらしい。栃の木は花が白く、実は栗の実の尖がりを取ったように丸いが、よく似たマロニエは花がほんのり薄いピンクで実にはトゲがある。パリの並木で有名である。西洋栃の木とも言う。このマロニエとアメリカ紅花栃の木を交配して作られ街路樹に使われる紅花栃の木は花は濃いピンクで実が丸い。駅前の木はこれではないだろうかと思う。

花が咲いている期間は短いが、今年も紅い栃の花に会えてうれしい。飢えを知らずに平和に暮らしている孫達を見るにつけ、先行き危ういわが国の将来が、幸多いことを祈らずにはいられない。

写真は1)駅前の紅い花をつけた栃の木

2)丸っこい栃の実

3)マロニエのトゲある実