スロウニンのスロウな生活

このコーナーは地域の「横浜タウン新聞」
にも掲載しています。(非同期)



9/Juiy/2008

34.なんでもない話―展覧会ハシゴ

 同行のスケッチ仲間と離れ、自分ひとりだけでしたが、念願の東京都美術館での「パリ100」展を見る機会がありました。

日仏交流150周年記念として芸術都市パリの100年の軌跡を追った展覧会で、世界的にも有名な美術館のルーブル、オルセー、ポンピドー、モンマッタン、ロダンなどの出品協力によって、ルノワール、セザンヌ、ユトリロたちの生きた街パリの1830−1930年を表したものです。有名な日本人・藤田嗣治もレオナール・フジタとして、その一角を占めています。

 土曜日の展覧会は思ったより大勢の人で、約2時間ばかり140点以上の充実した展示品を堪能しました。ルーブルやオルセー美術館で見た覚えがあるものありましたが殆どが初めて見るものばかり。ただでさえ杖を突いて歩くのがやっとの自分ですから、車椅子の世話にならずに歩いたので出口近くになるともうヘトヘトになりました。

昼近くやっとの思いで会場から出てくると、美術館内の別室で行われている沢山の団体の展覧会の中に日本水彩画会展がありました。自分たちのささやかな水彩画の会と違って、日本を代表する水彩画家集団ですから、ここで会ったが百年目、これも一見とばかり足を引きずって会場を回りました。どの作品も100号を越すと思われる大作ばかり、全壁面ところ狭しとの展示で、正直今見てきたパリ100展より疲れました。まだまだ階上フロアに続くという会場のうち2階会場まで歩いたところで、疲れと足の痛みでギブアップしました。

やっとの思いで会場を出て、どこかのベンチにでも腰掛けて朝買ってきたサンドウイッチでも食べようと思って大勢の人の動物園脇の林の道を歩いていたところ、何と今度は近くの国立科学博物館でダーウイン展をやっている看板です。しかも会期が週末に迫っていて見逃すと、また今度、というわけにはいきません。わたしの最近の上野が、四月の花のころのマリーアントワネット時代のフランス宮廷美のルーブル美術館展だったので、久し振りは久し振り。この珍しい展覧会も見ないでは居れません。老体を鼓舞してふらふらと会場に入って行きました。

科学博物館には何十年ぶり、記憶では薄暗い館内入り口に近くに、どでかい恐竜が並んでいた博物館がすっかり新しく見事な近代的な館になっていました。お恥ずかしいことですが、飲み屋なら兎も角、身障者の身で大きい展覧会を3つもハシゴするなんて欲張りこの上なくわれながら呆れました。

ダーウインはイギリスの名門の家に生まれ、医者の家を継ぐつもりでエジンバラの医学カレッジに学びましたが、血を見ることが大苦手なダーウインは途中で医者を諦めたそうです。当時はまだ麻酔が無く、麻酔無しの子どもの手術を見るに耐えなかった。仕方なく父上は彼を牧師にしようとケンブリッジに入れますが、そこで博物学や生物学に興味を持つようになったといいます。展覧会は彼の生い立ちからの軌跡と学術的な功績を、良くこんなに集めたなあと感心するほど綿密に追っていました。陶器で名高いウエッジウッド家系の奥さんとの間の多くの子どもに囲まれた幸せな人でしたが、数奇な縁で調査船ビーグル号の人となり、ガラバコス島の探検をしました。人間が猿から進化したという彼の説は許しがたいという教会からの迫害も大きいものでした。

実は、スロウニンの書斎の小さな本棚には、まだ夢と希望に満ちていた?青雲の志の学生時代に神田の古本屋で買い、今は色褪せ古ぼけて丈夫な外箱が壊れかけた厚さ4cmの部厚い、ダァヰン著(懐かしい昔のカナ表記)大杉栄訳「種の起原」があります。古書店の小さいラベルや扉に蔵書印があるこの本は昭和32年通学途中の神田の高村書店で皮のコンサイス小辞典と一緒につい買ったのでした。何故かしらこの2冊だけが数多くの転居にも居残って、私の青春を共にしてきたという不思議な因縁の本です。出版元はまだ牛込区と言った矢来町の新潮社です。古本をいくらで買ったか覚えていませんが、定価は参圓となっています。今の本だと三千円くらいでしょうか。ほぼ千倍です。大正5年7月が初版で、この本は大正14年15版ですからかなり売れたのでしょう。生物の進化論は当時でもすでに常識のようになっていたと思いますが、何よりも大杉栄が訳者だったのがわたしが買った理由だったのでしょう。私はすでに九州の大学教養部の社会論文演習で取り上げた幸徳秋水の平民新聞の大逆事件(天皇を暗殺する計画にでっち上げられた)などの顛末の中で大杉栄の名は知っていました。軍人の家に生まれ、旧陸軍幼年学校を出て今の東京外大のフランス語科に学んだ秀才の大杉栄がアナーキスト(無政府主義者)として追われフランスにまで脱出し、フランスでも「掴まってみれば日本人だった」というくらいの達者なフランス語で活動し、強制送還で帰国し、ついには軍部に虐殺されたという暗い時代に思いを馳せると、軍部の目の敵にされた純粋な青年の孤独な姿が見えるようです。 

行きがけの駄賃に余計な話をすると、ダーウインには関係はありませんが、大杉栄の同士の奥さんだった伊藤野枝との恋愛や、当時の活動家だった神近市子との有名だった日陰茶屋事件(葉山の茶屋で市子に刺された)などのどろどろの生き様の中で、野枝との子だくさんの家庭を支える一抹の収入のために、この大冊「種の起原」を翻訳したというのが本当の彼の姿だったのではないかと思うのは、思い込みに過ぎるでしょうか。晩年の神近市子氏の国会議員としての活躍を覚えておられる方も多いでしょう。その後、大杉栄は「ファーブルの昆虫記」も訳しているようです。彼の多数の政治論や主義を論じた論文は沢山あるようですが、私にとっては唯一この本を通じて「ダーウインの訳者」であるという特異な光を放っているような気がします。

足も痛いし棒のように疲れたし、展覧会の細かいパネルは殆ど読まず、ひたすら展示物の主要な表現しようとしているところだけを掴むように素早く見て回りました。疲れ果てて科学博物館を出ると、丁度ボランティアの方々がホームレスの人々にカップめんサービスをしているところでした。さすがにそこで先ほどのサンドウイッチを広げるわけに行かず、駅前まで歩き樹下のベンチで親子ずれに混じってようやくありつけたのでした。



8/Jun./2008

33.運動会は進歩する

今朝は晴天、雨で順延の運動会は今日はやれそう。
お姉ちゃんが中学に行ったので、去年は3年生の妹アスカちゃん一人の小学校運動会だった。今年は1年坊主のヒロちゃんが加わった。アスカちゃんから「おばあちゃん、おじいちゃん、うんどうかいをやります」という絵入り、手書きの案内状も貰ったので出かけた。

日ごろ忙しいお母さんが腕に縒り(より)をかけて弁当を作ったと思う。何年か前、孫たちが幼稚園まではジジもババも一緒に弁当を食べたが、お母さんが忙しすぎるので廃れてきた。今年はせめて冷やしたブドウでもおやつに持って行ってやろうやと言ったところだ。

 この小学校の運動会には、自分の子どもたち、その子の子たち(孫たち)と2代にわたって見て来たことになる。新興地の小学校にしては古い地域だろう。子、孫、僅か2代ではあるが、それでも自分の入学時の運動会の思い出を含めて、運動会にも時代の移り変わりを感じる。

 今年の運動会も「ふれあい席」という名の敬老席テントに入れて貰って拝見した。一番新鮮な驚きだったのは、6年生の「クリア走」という障害競走。「ヨーイ・ドン」数十メートル走ると、周辺を5年生たちが押さえる大きいネットを潜り、ネットを出るとお玉(汁を掬う杓子)とテニス・ボールが用意されていて、お玉に入れたボールを十数メートル先のバケツに入れる、失敗するとやり直す。

また走って行くと、バケツに入ったバレーボールがあり、ボールを取り出して20メートル位先のバケツまで、手でボールを地面に突きながら走るバスケット・ドリブルで走り、ボールをバケツに入れる。これが終わった後はゴールまで走るというものだ。

早くゴールに、という焦りと、こんなバカバカしいこと格好悪いという年頃の想いとからか、最後のボールのバケツ入れが案外難関で、面倒だとばかり単純に投げ込むと、バケツは軽いので飛び出したり、バケツごと倒れてボールが転がり出る。これはやり直さなければルール違反になる。昔からよくある競技だが、勿論要領よく素早くボールを入れて、ボールをチョットの間押さえて安定したのを確かめてから走る子や、正確に丁寧に垂直に入れて走る子や、偶々放り込んだらうまく収まる子など千差万別だが、大体は平年どうりうまく行く。

 今年ジジが驚いたのは、焦りと恥ずかしさで(あろう)最後のバケツ入れが2度も3度もうまく行かない子が居る。うまく行かないのは仕方ないことだけど、何回やっても態度・動作をわざと(の様に見える)修正しない子、挙句泣き出す6年生の男の子、先生がその男の子を「頑張れ」となだめる場面、もっと驚いたのは、何度も乱暴に放り込んだ挙句うまく行かないので腹を立て観客の前でバケツを乱暴に蹴飛ばす子、ボールが飛び出したのに知らん顔して全力で走り抜ける子、先生がその子を大きい声で追っかける場面、そんな子がたまには居るだろうが、今年は走りの組の3、4組に1人は居たのである。

 もうスロウニンは、かれこれ言う立場にはないが、荒んだ(すさんだ)少年が多い世相を思ってしまう。これで良いのか、心配がないのか、教育のせいなのか、親のせいなのか、おとなの風潮によるのか、少なくともジジたちの時代人には奇異に感じる人が多いに違いない。こんな態度だと「情緒不安定」「粗暴」と評価された。もっとも昔から大人にもそんな人が居なくもない。社会に対する親御さんたちの不満や、政治不信の話を聞いて育つ、なども無関係ではなさそうだ。淋しいことに日本では、先生をはじめお医者さんなど、世の中の良心の根幹ともいえる人たちへの敬意が正当に払えない社会に成り下がったこととも関係なくはなかろうと思う。今これを他のせいにしても、結局子どもたち自分自身に帰ってくるのに、と思うと世の中寂しくなる。社会全体として反省すべきところがあるのではなかろうか。

 もう一つの驚きは、何時ごろ変わったのか、昔風に言えば「徒競走」が、どの学年でも「男女混走」だったことである。背丈順の組み分けかどうかは知らないが、小学生男女では成長差はあっても性別差はないのかもしれない。当然大きくて早い女の子も居るし、小さくても早い女の子も男の子も居る。大きくても早く走れない子、みんな違ってみんなイイである。男女に分けないことも見ていて気持ちが良い。丈夫に育てよ〜子どもたち!と万歳したい。

 昼からは、歩いて行くのがおっくうになってサボって留守番した。オバアチャンから電話があって「動きが早くてデジカメ写真が撮れないからスタート点で撮っていたら、スタートで遅れたヒロくんが一等になったようよ。一等の列に加わっていた!」と言う。

ジジもジジの兄弟も、ヒロのお父さんも徒競走で一等になったことなんてないから、我が家で初めてジャー、そりゃ上出来だ! だけど、一等になれなくても泣かないんだぞ! 男だろ! オット、セクハラだった! 時代遅れだ!ごめん。

27/May/2008

32.青葉のころ

 このごろ、スロウニンはサラリーマン時代と違って、朝決まった時刻に起きる必要もないから、夜中にラジオの音を絞って「ラジオ深夜便」を聞くことが多い。夜11時過ぎに始まり、ニュースをはさんでインタビューや、演芸特集や、朗読などがあり、午前2時台は世界の「ロマンチック・コンサート」、「3時台は日本の歌こころの歌」、4時台は「こころの時代」という風に、予告どおりに男女担当アナウンサーが毎夜交代で番組が進むので、夜中目覚めてラジオを聴くと、そのときの番組の雰囲気で大体の時刻が分かる。特に「こころの時代」は人生の達人ともいうべき人たちのお話にこころ打たれるので、この時間だけは起きていることが多い。

 今朝もラジオを聴いて朝寝をして、茶の間に出てみるといる人も居ないし、新聞をまだ取っていないのに気付き、玄関まえの門柱の新聞受けに取りに行った。すると、もう玄関脇の梅ノ木に脚立を架け、若葉でぼうぼうになった枝を切り払っている「オバアチャン」を見つけた。今は「オバアチャン」は私の連れ合いのことで、子どもが小さいころは連れ合いは子どもに合わせて「ママ」と呼び、「オバアチャン」は母だった。母が亡くなり孫が居るようになって孫に合わせて「ママ」が「オバアチャン」になった。時が経つにつれ、一番小さい家族に合わせて呼び名が変わるのも日本風だが、連れ合いと二人だけの時「ママ」と呼んでもいいが「オバアチャン」と呼ぶと当然のように返事がない。「誰のこと?」って訳だ。

紅い花が咲くこの梅の木には若葉のころにカイガラムシが付き、そこへアブラムシが寄ってくる。スロウニンが病気前はこの梅の木のアブラムシ退治と剪定もスロウニンの仕事だったが、脚立に登れぬ、鋏も使えぬ、じゃーシャーナイ。ときどきシルバーセンターに頼んでさっぱり剪定してもらうのだが、臨時にはそうも行かない。「オバアチャン」の剪定は、枝どころか、ノコギリで二股の幹の片方もバッサリ切られている。アブラムシも退治できるし、日当たりも良くなるし、なるほどと思ったがスロウニンならこう思い切った剪定は出来ないなと思ったら「あの話」を思い出し自分の振りに思わず噴出してしまった。

「あの話」とはこうである。多分高校の古文で読んだのだろう。檀家にいつもお経を上げに来る僧は、大変な火鉢が好きで火箸を持って火鉢に埋めてある炭火を灰の中から掘り出し、その位置あちらこちらにかき回して変えるのが常だった。このように火を突付くのは「せせる」というが、このお坊さんの癖を知っている、ある檀家がお坊さんに出す火鉢に火箸をつけないで出した。するとお坊さんが火鉢に手をかざし、ぶつぶつ独り言を言っている。檀家が傍によって聞き耳を立てると「あの火をこっちに、この火をあっちに」と言っていたというのだ。日ごろの癖で、火箸はなくても頭の中で火をかき回していたというのだ。特に歳を取ると、往々にしてこんなことが多くなり口うるさくなりやすい。

このごろの家庭では火鉢で暖を取ることはないし、火鉢が残っている家庭も少ないだろうし、ましてや火箸なども見たこともない子が多いと思うので寂しいが、このエコ時代になって火鉢が見直されているとも聞く。

剪定するすべを失ったスロウニンが、この僧よろしく「この枝切って、あの枝残す」とやっている。まるでそっくりだ。いや、独り言は人に迷惑はかけないが、口に出すと傍迷惑だ。思わず噴出すわけである。

この話は室町時代の兼好法師が書いた徒然草という本にあったと思い、本を買いに行く前にネットで探してみたら、あったあった、驚いたことに「何とか徒然草」などが題名に付いた多くのブログに混じって、古文の徒然草が全文読めるサイトがあるのである。徒然草は全部で200段近くある随筆で一応通してみたが、中に「あの話」は見つからなかった。そのかわり江戸の小話の中に似た話が見つかったし、徒然草の全文に少し触れて現代のスロウニンにも見につまされる話が多いことを知って、時々は読んでみよう
と思った。

サッパリした梅の木と我が家の庭先に残る火鉢


4/April/2008

31.むだづかい 

 

 ガソリンにいろいろな税金を上乗せして結果的に高い値段になっている構造が、昨今あらためて議論になっています。この税金の使途は(道路関係にしか使ってはいけない財源)という「道路特定財源」として、もう30数年も「暫定税率」というのが続いているそうですから、いい加減な国だと思わざるを得ません。

ところが今まで「聖域」と称して隠れ蓑にしていたこの財源の使途が、国会の議論の最中に、出るわ出るわ、「不正用途」や「むだづかい」、「でたらめな使い方」があちらこちらから噴出して、政府の信用はますます下落していることは国民として恥ずかしい限りです。

  ところでスロウニンは、ひまにまかせて「むだづかい」の「むだ」について「何とかならないかなあ」といつも考えていることがあります。「むだ」というのは辞書に(役に立たないこと)、(益のないこと)とあります。「むだ」に思えることでも、効用があることもあるし、「むだ」が害になることだってあります。

「むだ」を平気でやっているなあ、と思っている一番の例が「郵便番号7ケタ化の弊害」です。「郵便番号7ケタ」が「むだ」なのではありません。かっての郵便局は「7ケタ化」のとき「7桁郵便番号で住所を書く手間が省ける」と宣伝して、嫌がる国民を説得しました。ところがその頃からパソコンが一般化して、7桁になった頃には、郵便の宛名は自動的にパソコンが、読み出したり印刷するようになりましたから、本来は人が最小限、郵便番号とあて先と住所の番地だけ書けば済むところを、パソコンが印刷するのに釣られ、こともあろうに人間が書くときにまで「市」の上の「県」まで一々表記するような癖がつきました。市役所に行っても手続き書類が簡素になる気配はまるで無く、かえってパソコン並みの表記が要求されます。子どもたちを始め、日本人は「むだ」な表記を強いられ続けます。私が知っている限り、NHKだけが良い例で、郵便番号と係り名だけで郵便物が届くようです。だから、NHK宛て以外で、手書きで郵便番号を書き、町村名以下の番地と宛名だけで届くかどうか疑問です。そういう「むだ」を重ねる社会は変えていかないと、どうでもいいことに労力を取られ、日本がどんどん世界に取り残されると思います。これは本来の「むだ」の例でしょう。

つぎに私が「何とかセニャーイカン」と考えるのは名前に付ける「ふりがな」です。子どもの名に、漢字の読みが難しい字をことさら使って、万人がその子の名を呼ぶ読み方を「ふりかな」で要求するのは「むだ」だと思います。お隣、中国も韓国も漢字の読みと字を統一する努力をしているようです。日本の公式書類にはパソコン書き含めて、ほとんど「ふりがな」欄があって2度の記名が必要です。私も、先日も入院中に事前投票に行きましたら、記名も住所も誕生日もすべて分かっているのに、投票に関係ない「ふりがな」欄に記入が無いと言われ、書かされ「バカらしさ」に腹が立ちました。戸籍に「ふりがな」なんか無い筈です。しかし戸籍欄に「ふりがな」を併記することは許されるそうだと聞いたことがありますが、その場合「ふりがな付き漢字」として、すべての表記に「ふりがな」は付ける必要がありそうです。 公文書にはパスポートと同様ローマ字表記にするか、カタカナ表記か、ひらがな表記にすればいいのではないかと思います。年金問題だって名前の間違えが非常に多いのですから、このままだと、これからも間違えは続くでしょう。年金がますます重要な社会に、二重帳簿みたいな名があること自体不思議で「むだ」なことだと思いませんか。

次に、残念ながら、どうしようもない日本の「むだ」がパソコンにあります。パソコンが英語主体で作られたため、英語以外の言葉間では必ず言語変換ソフトが必要です。そのソフトだけで膨大な人力と機材力が必要ですし、あらゆるソフトに言語変換が必要です。そのため、英語だけのパソコンに比べCPUの能力は「より早く」、記憶装置は英語だけの場合に比べ、何十倍も必要です。だからアメリカで処理能力普通のレベルのパソコンでも、日本語では同じ処理能力でも数倍高級レベルのパソコンになってしまいます。このため、アメリカ人が使う普通パソコンと、日本人が使う普通パソコンは全く値段が違うのです。インド人がパソコンの(ITの)強者であるのも、昔からインド人が数学が達者な上に、優れた数学教育によるのと同時に、イギリス植民地であったため英語が達者であることも関係があります。携帯文化は日本発祥みたいなものですから、事情が違います。

漢字や「ふりがな」の文化は、誇るべき日本の文化ではあるのですが、だからと言って「むだ」なことを子どもたちに強いるのは悪いことです。人的知的資源も限られた国ですから、子どもたちがもっと重要な思考が出来るよう、子どもたちの足かせにならない配慮をしていくべきだと思うのです。 これからの若人が世界に伍して行くのを、これらの「むだ」を省いて応援する社会にしなければいけないと、しがないスロウジイでも思っています。どうすればよいのか考えている人があれば良いのですが…・。

11/Mar./2008

30.かわうそ 

 絵の仲間と年1回先生の個展に併設の水彩画作品展を開いて今年が第9回になります。中年を過ぎての脱サラで画家として絵を楽しんでおられる先生の個展は今年第18回目。毎年のヨーロッパなどへの取材旅行、年間40〜50枚の新作を発表しいまや80歳代、まさに化け物みたいなタフガイです。先生から受けたご指導は、絵の技法(テクニクウ)ではなく「絵を楽しむ」ことであるように思います。

東京・京橋での会期の3月初め、船橋に住むイトコのススムちゃん夫妻が絵を観にきてくれました。敗戦で外地から難民になって引き揚げてきたわれわれ家族7人が転がり込んだのが山口県油谷湾の奥「渡場」という小さな田舎町の母方の祖父母と母の弟一家、両衣に紐のついた絣の子ども着のススムちゃんはまだ小学入学前でした。私が国民学校3年生、お互い老いた今、古希に迫ろうというススムちゃんがついでに持ってきてくれたのが「昭和22,3年ごろの渡場」という彼手書きの地図でした。懐かしく面白く正確に出来ています。それを見て鮮やかにあの当時の集落の家々の佇まいが思い出されました。50軒ほどの街並に、精米屋、旅館、傘屋、自転車屋、鍛冶屋、農機具店、牛乳屋、肥料屋、歯医者、豆腐屋、散髪屋、酒と雑貨屋、呉服屋、医院、や廃業した安倍寛の醤油工場などが並んでいます。今や渡場だけではなく日本中の田舎から消えてしまい、ほとんど残っていない「あの町並みはどこに行ったのでしょうね?」です。その地図を見て真っ先に思い出したのが僕が小学生5年の時に見た最後の「カワウソの死体」です。他にも思い出が詰まった地図ですが、カワウソの話をしましょう。

かって春の俳句季語に「獺(オソ)の祭」というのがありました。「オソ」は「カワオソ」「カワウソ」とも言い、イタチに似ているが数倍も大きく体長約70センチで水辺に住み、初春のころのカワウソは捕らえた魚を直ぐには食わず、岸に雑然と並べて頭から食うといい、これを祭りと見立てたということです。正しくは「獺(カワウソ)魚を祭る」というのです。毛皮がきれいで高価なために乱獲されて絶滅したと言われています。

大昔には船の渡しがあったと思われる渡場集落の前には、大きい掛渕川が流れていて、あちらこちらに小さい支流や家の床下にも山からの水捌けの小川がある土地柄、カワウソが多く住んでいたのでしょう。夏、川の瀬に泳ぎに行った帰り、町外れの旅館の近くの川岸に、黒いつやつやしたビロードのような毛皮の動物の死体を囲んで大人たちが騒いでいました。野犬にでも襲われたか、日本カワウソでした。それ以降、生死に関わらずカワウソの姿はを見たことがなく、ほとんど絶滅したのだといわれています。しかし、一昨年急逝した田舎で一人住んだ叔母(ススムちゃんの母上)が亡くなる前「夜になるとカワウソが座敷に上がって来ていたずらをする………」などと親しみを持ったように話していたと言いますから、絶滅したとは言い切れないと思います。僕らの小さい頃には、床下のきれいな水路から大勢の赤い蟹がカサコソと畳を這っていて、みんなこれを追うでもなく可愛がっている風でしたから、カワウソが蟹を追ってきても不思議はないように思います。 高知県にはまだカワウソがいるとかカワウソ願望があるとかいう話ですから、山口県の田舎に残っていても不思議ではないと思います。

変わっていて面白い俳句季語ですが今は消えてしまったようで、現在歳時記に見えるカワウソに関する季語は秋に「獺祭忌(ダッサイき)」というのがあります。正岡子規の命日「子規忌」の別名です。子規はカワウソが好きで自分の書斎も「獺祭書屋」と呼んだということに因(チナ)んだものです。

茶器どもを獺の祭の並べ方       子規 

勝手な想像をすると、病床にあった子規が好きな茶道具を愛でるしかない病弱な境遇を、多少自虐の趣で、茶器を並べる自分がカワウソが魚を並べているようだと歌ったのではないかと思います。

ともあれ、再びあの黒いビロードのようなつやつやした毛並みの日本カワウソの姿を見ることが出来ないかなあと夢見ているスロウニンです。

 写真1はススムちゃんの絵地図、  2は高知県立博物館のニホンカワウソ標本
3は高知新聞に出た動物園現存のコツメカワウソ(東南アジア産)のイナバウアー

13/Feb./2008

29.さかな育ち

 病気になる前はマイカードライバーとして、病後はリハビリの一環としてリュックを背負い買い物の荷物を入れて歩く訓練を兼ねたポーターとして、カミさんについて買い物に行きます。片手片足麻痺のシェルパですから買い物を手提げは出来ませんが、リュックが重いのなら何とか人並みになりそうです。

 冗談はさて置き、スロウニンもカミサンも魚大好き人間です。魚の種類で言うとブリ、イワシ、アジ、サバなどどちらかと言うと安いアオモノが好きです。しかし、タイやヒラメやタラやシャケが嫌いというわけではありません。マグロが出てこないのは関西から西の方は冷凍を主とした流通のためか昔はマグロを食べる習慣が無かったのです。魚は肉より好きです。それも刺身や切り身など、いわゆるご馳走に入るものより魚の頭や内臓や骨付き部分などの「粗(アラ)」が好きです。

故郷の河口の町(山口油谷湾奥)橋の欄干から 海に近い漁村風景

 小学校時代の通学路には漁師さんの煮イワシの丸干し棚がずっと続いていたので、道すがらの田んぼの稲穂を失敬してしごき、イワシをつまみ食いしながら通ったようなものでした。学生時代、時々帰省すると母は必ずわたしの好きなブリのアラ煮の用意をしてくれました。魚の本当の美味しいところは見かけではなく刺身などを取ってしまったアラだと信じています。関西の人はそのことをよく知っていますから、子どもが小さいころから魚を食べる時の骨の取り方を教える人が多いのです。幼い子は別として、親に骨をとってもらうような子は一人前でなく恥ずかしかった。洋光台が出来た頃はアラなどは市民権がなく、たまに駅前の商店街で叩き売りのように安いアンコウの鍋用のアラを買うと(アンコウは全身がアラみたいですが)好奇心で見られたものです。モンターニュおじさんと呼んでいる関西出身の実業家、旅行家、兼釣りキチ友人は、お嬢さんが小さいころから魚は尾頭付き料理で与え、鯛やイサキの場合、頭部分の頬の所にある「タイのタイ」「イサキのイサキ」と呼ばれる魚の形をした骨を見つけて採集する遊びを教えたといいます。この魚の形をした骨はどの魚にもあるので骨を捜すことで魚も好きになるし、自然に魚の骨を観察する癖が付くのです。先年、成長されたお嬢さんは管理栄養士として虎ノ門の大病院に就職されました。学生時代はフィギュアースケートの選手としても学生インターハイで活躍されたのもこれと無関係ではないように思えます。 

鯛のほほ骨・タイのタイ(モンターニュおじさん作) 小学時代のお嬢さんが作った
金目ダイ、エボ鯛、イサキなどの
標本スケッチ

カミサンが買い物行くとき魚屋について行って必ず「天然鯛のアラ」「平目のアラ」「シャケのアラ」「天然ブリのアラ」「マダラのアラ」などその時々で良いものを1つは買います。料理法はそれぞれ違いますが、その魚屋さんは魚好きの心理を心得ていて、アラと言えども頭のウロコ取りも完全で、他の魚屋さんがアラは余りもの扱いでウロコなど付いたまなのと雲泥の差、アラを丁寧に扱ってくれているのが判ります。カミサンはいつも安いアラばかりの亭主に「いつもアラばかり買うのは恥ずかしいヨ」と言うのだけれど、ジジは「事実年金生活は貧乏なんだし、アラが好きなのだから仕方ないな」と平気なので、コンペンセーションの積もりか時々刺身や切り身を買ってきます。アラの値段が上がると困るので店の名はヒミツ!





 友人モンターニュおじさんが、去年の春、御前崎で釣って宅急便で送ってくれた桜鯛(桜の頃の旬の鯛をこう呼ぶという)などなどの釣果。
 片手のスロウニンは魚捌きが出来なくなったので、カミサンも何とか自分で捌けるようになりました。









9/Jan./2008

28.車フリーの箱根山

 

 新年を迎えました。日ごろスロウニンとか何とか生ぬるい生き様を晒している自分も、大晦日から新年を迎える時は生きていることをあらためてありがたいと感じ神妙な気持ちになるものです。

 ところでスロウニン、病気で体が不自由になるまでは車キチガイで,家族を乗せて北海道から鹿児島まで、極端に言えば日本中を走り回った日々がありました。そんな時には、良くも悪くも車が使えない人たちの気持ちを察することなんかありませんでした。しかし、脳梗塞で体の右半身が麻痺して右手がうまく使えないし、右足は杖を頼りにやっと歩くようになり、身体障害者と認定されました。退院後の自動車免許証の更新の際、運転機能の検査を受けて「旋回機能つき車」限定で従来のゴールド免許証の更新を認められました。つまりハンドルに「旋回用ノブ」を装着して不自由な右手でもハンドルを握って安全に回せるようにするのです。幸い足の方はアクセル・ブレーキ操作には何とか支障が無いとのことでした。しかし、年齢も若くはないし運転中に、また倒れたりすると自分だけでなく関係のない人々に害を及ぼすことだって否定できないとの自覚はありました。息子も自分の運転時に邪魔になる「旋回ノブ」を外ずして、そのまま「何処かにしまい忘れた」と言って隠してしまった様子、自分もむしろ息子の善意を感じて車を運転をするとは言い出さないことにしました。以来、横浜市の身障者・老齢者パスのお蔭でバスや市営地下鉄だけで日常生活の移動は何とか一人で出来るようになりました。それで「身障者・高齢者の小旅行ノウハウ」を考えるようになりました。今はインターネットという強い味方がありますから、これを最大限利用して情報を集めることが出来ます。一例として、市役所・図書館や病院、仲間との集まりなど自分がよく行く場所に利用するバスの経路やバス停の時刻表をインターネットで丹念に調べて、ハガキ大のクリヤーポケット手帳に小さい時刻表プリントを入れて、常時持ち歩きします。スロウになった自分には意外にバスは便利に出来ているのがわかります。運行本数が少なくて待ち時間が長いなんかは、はじめはイライラしたものの、待つコツを覚えました。たまに行く珍しいところでは、時間を利用して杖を突いてあたりを歩いて観察する、珍しい見ものや店はないか、いつも行くところでは、絵になる構図はないか、俳句や短歌にならないか、ブログのネタはないか、本を読むのは目に辛いからボケーとするなど、時間が過ぎることあっという間です。暇つぶしにコーヒーを飲みに行くなんて「勿体な〜い」です。

 そんなわけで、今回は車を利用しないで遊べる少し変わった「箱根そぞろ歩き」を報告します。何度も行った箱根でもきっと昔の箱根歩きの良さみたいな時間を味わえますよ。

いつもの箱根・仙石原のロッジに行くには
小田原駅から宮城野経由桃源台行きの
箱根登山バスで約50分
仙石営業所前で降ります(料金¥970)。
  バス停から山小屋まで、
天気なら川や写真の金時山を見ながら
杖を突いて約1.
2km歩きます。
 翌日、冬には珍しい上天気。
「何処かへ行ってみようか」と仙石原 営業所からバスで終点の桃源台に来ました(運賃¥490)。ロープウエイの終点です。下の道の車と上り下りのロープウエイのゴンドラと1度に見える珍しい場所です。シーズンオフで閑散としています。

桃源台からはロープウエイか、船で元箱根に渡るか、歩くかしかありません。丁度元箱根行きの海賊船が出航したところでした。

自分たちは健常者が歩いて5分(スロウニンには10分)という湖尻まで、木々の合い間から見える芦ノ湖を眺め、観光客相手のうどん屋やアイスクリーム屋などシーズンオフの町を見ながら散策です。

湖尻のバスターミナルは閑散としていますが中国からの団体観光客が結構多いよう
でした。背の高い中国の青年たちが
快活に話しながら船に乗り込む様は
気の抜けたような日本の青年たちより
一段と輝いている様に感じるのは
気のせいかな?
前庭の大きい樹の宿り木が印象的。
ここから1時間に2
,3本の大涌谷経由
の他社の小田原行きバスがあります。

湖尻⇒大涌谷(運賃¥490)で着いて
みると昔はなかった立派な地蔵堂が建って
いました。中国の青年男女たちがお地蔵さんの前で盛んにデジカメ写真です。

地蔵堂は建立昭和59年とあります。

20年以上来なかったことになります。
何十年か前フランス・ソルボンヌ大の女子
留学生2人と妹たちと今は亡き母を連れて
来たのが思い出されました。

ジンと名物温泉黒卵を食べた後、自分は
岩道は歩けないので、見物とみやげ物屋の
ひやかしなどで留守番。入り口から少しまでは行ってみました。
生憎の霞で裾は見えませんが、富士山頂上が見え、富士を見ながらの名物黒卵と神奈川PET茶(相模茶)を中国の少女たちと堪能。
車で来たら気がつかないであろうバスの
客への表示などが面白いと感じます。
 仙石原への帰りのバスは強羅か宮の下に降りて仙石原行きに乗り換えても良いし、来た道を帰っても良い。結局最短の来た道をのんびり帰りました。 こうして来れるだけで大満足、感謝です。

 珍しくもない地元の観光地ですがたまには思い出さなければ勿体な〜い、です。


 ロープウエイは割高で自分たちのような
 小さい旅には適しませんが、バスだけで
ゆっくり遊べるのを実感できました。

 箱根周遊券を買えば安くつくでしょう。
 久しぶりの大涌谷でした。

 

14/Dec./2007

27.
「カバヤ文庫」のこと

 

 子供たちが本を読まなくなったと嘆く声が聞かれます。本を読まない世代は子供だけではないとも聞かれます。昔に比べ知識や情報の伝達手段が格段に発達した現代、本だけが重要とは言えませんが、スロウニンとその兄弟の世代からいうと、本は大切な知識の源であり、ものの考え方の訓練の源と場であったと言って間違いはないと思うのです。テレビジョンやパソコンが無かった時代のことですから標準というわけにも行かないでしょう。けれども、テレビジョンが世に出て成長してくるのを見てきた世代の言い分としては、テレビによる映像を交えての知識を受身的に学ぶのと、本による想像力を交え文章を噛み砕き考えながら意思的に学ぶのには効果にはっきり差があると主張せざるを得ません。 孫たちが幼稚園や小学校の図書館でうれしそうに本を借りて読んだり、忙しい親たちに代わって本をジジ・ババに読んでくれとせがむのを見ていると、子供たちの本への関心がないとは一概に言えないようにも思えます。孫たちは本を読む子に育って欲しいと思います。

 そんなことを考えていたら、急に自分たちが子供のころの「カバヤ文庫」のことを思い出したのです。数年の強烈な思い出として残るその「文庫」は2歳年下の弟のヤッちゃんが見つけてわが家に導入したのを覚えています。カバヤ文庫が出た昭和27年(1952年)はわたしが高校に入学した年でした。中学2年生のヤッちゃんが1箱10円の「カバヤ・キャラメル」を買うとおまけに最高50点をはじめ、10点5点1点などの文庫カードがついていて、50点集まってお菓子会社のカバヤに送ると希望のカバヤ文庫1冊が送られてくる仕掛けでした。敗戦後の物がない時代からようやく、粗末な紙ではあったのですが、本が手にはいる時代になってきた頃です。片田舎の小学校では出始めた手塚治虫の「鉄腕アトム」や山川惣次の「少年ケニア」(題名は「だったと思う」ですが)のマンガ本は誰かが学校に持ってきた本を級長が皆に読み聞かせるのを重なり合って見る…というようなのどかな時代でもあったのです。アナウンサーになるんだと、トイレの中で大声で「バッター川上、打ちました打ちました、グングン伸びていきます。入りました。ホームラン!」と実況放送の真似をしていたヤッちゃんが何人かの友だちと組んで「カバヤ文庫」集めを始めました。あれよあれよという間に、小さめ(B6版)の120ページ位の単行本が次々に届き、それを回し読みをするのです。高校生の兄貴の私も、ヤッちゃんの弟6年生、4年生、漢字が少しの2年生の弟もフリガナで、今思えば男兄弟5人みんなその恩恵に授かったのでした。「シンデレラひめ」「イワンのバカ」「怪傑紅はこべ」「怪人2面相」「クリスマス・キャロル」「耳なし芳一」などなど、たくさんの本を読みました。調べてみますと、文庫は私が高校3年生の昭和29年まで続いたそうです。全部で160冊近く、2,500万部が発刊されたというのは驚きます。当時会社「カバヤ」は社名のカバの形の宣伝カーを繰り出していて私も見たことがありました。カバヤ本社が今も健在で岡山県だったので西日本ではカバヤの名前は誰でも知っていて、そのお世話になったようなものですが、東京など東日本ではどうだったのでしょうか。先日九州出身の老齢の友人に話したら「あれは教育的世界文化遺産だよ」と覚えていてくれ頷いていましたので嬉しくなりました。志は高くて感謝一杯の企画でしたが、経済的に決して楽ではなかっただろうと推察します。幸いというか天網恢恢というか岡山大学と岡山図書館が協同でインターネットで「カバヤ文庫」を世に残そうと収録をしているのを発見し、思わず快哉を叫び、懐かしいので半世紀以上前の「怪傑紅はこべ」他何篇かを読んでみました。後の世の評論家には「あれは原文ではなくダイジェスト版だ」とけなす人もいたようですが、学生やアルバイトの名もない方々が意欲的に執筆されたそうです。こうして覚えている人がたくさんいることは立派に役に立った証だろうと思います。リバイバル「カバヤ文庫」をネットで読む、そんな時代が来たのだと実感し、会社「カバヤ」の先駆的な企画に敬意を表します。

URLは http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kabaya/bunko/index.jp です。

1篇でも2編でも読んでみると当時の子どもの教育に対する意気込みが感じられるような気がします。

 ヤッちゃんはこの夏急逝してしまいましたが「カバヤ文庫」もまた彼の残した思い出の軌跡のひとつです。 

☆写真はいずれもカバヤの

ホームページから引用

 

☆カバの形の宣伝カー(当時) 



19/Nov./2007

26.三丁目の夕日  

げんた子どもの姿を見んようになったのー」とは、スロウ・ジジのいなかの方言です。
「げんた」は「げに=実に」という古語に「あなた」がつながったものだと考えられます。「そういえばあなた」というほどの話の呼びかけ言葉です。ジジらが過ごした戦後の日本では、特に地方から都会への人口流動に合わせるように急速に、いわゆる「核家族化」が進みました。成人して親と一緒に住むことは「封建的」と言って嫌う風潮さえありました。それと、世の中は工業化で都会にしか仕事がない状態になったのです。ジジたちもそうでした。結果、地方は老夫婦だけ、都会も青年や若夫婦と子だけの単位の家族構成が増えました。 社会が成長期だった頃は、それなりに忙しく快適な生活だったのですが、ここにきて、その弊害も出てきたように感じます。それぞれの世代が年を取って、子の世代に子が出来るようになるにつれ、世代間の寂しさも生まれてきたように感じるのはジジたちだけでしょうか? 例えば、一番の心配は家庭の中での「子のしつけ」の中から「文化の伝承」の側面が消えてしまったようです。

ジジ、ババ、オジ、オバ、イトコというような身近な「他人の始まり」みたいな両親以外の人間関係の存在が生活の中に少ないために、日ごろの生活の中で親子関係以外で「可愛がられながら教えられ感化される」という重要な文化的なしつけも少なくなったのです。例えて言えば「ジジ・ババの伝承がない歌舞伎役者」とでも言いましょうか「血筋」や「伝承」のない歌舞伎役者は育ちにくいと思います。お年寄りの話を聴く機会などがなくなって、ジジババやオジオバの意見、いわば親の意見より少し世間寄りというか客観的な目が入った意見を聞くことが出来なくなったのです。「イジメしかできない子」「直ぐキレる子」「他人の存在に気がつかない子」「ガマンが出来ない子」などが増えているのと関係がないとは言えないようです。温かい心を持った人間味のある子を育てたいものです。

自然、イトコ、ハトコ、マタイトコ、オオオジ、イトコハンなど、親戚関係を表す慣用語もだんだん解らなくなっています。

 

 スロウジジは両親が共稼ぎでバアチャン子で育ったので、昔話だけでなくいろいろな世間話もバアチャンから聞きました。だからという訳ではないのですが、年取った今頃になってありがたく感じることが多く、ジジもまた何かしら孫に話をしておきたい思いに駆られることがあります。 先日、古くからの日本橋の有名なふとん屋さんの新聞折込チラシに、懐かしい都電が走る日本橋の絵がありました。映画「Always続三丁目の夕日」の絵だと知り、懐かしいので早速見てきました。残念ながらこの映画の第1作は見ていませんが、好評だったとみえ続編が生まれたのでしょう。

 映画の冒頭、ノッケから東京タワーなどをはじめ街がゴジラに破壊されるシーンに驚きましたが、これは「近代化」「時の暴力」ともいえる力で街が変わり壊れた様を象徴しているように感じました。チラシでは東京タワーが完成した年、昭和34年の世界だということです。まだ高速道路が真上に架かっていない日本橋のたもとから西側の京橋・銀座方向の夕焼け空を見ている図です。都電が走っていますし、出来たばかりの東京タワーの先端が見えています。「あのころは東京の空が広かった」というキャッチフレーズの通りです。オート三輪、スバル360、前グリルがT型を思わせるトヨペットなどあの頃の花形乗り物が出てきます。「ああ、そうだった!」と思い出すことばかりで、出てくる人たちの生活そのものが人懐かしい昔の雰囲気で思わずほろりとしました。実はスロウジジが東京で生活したのは地方の学生のまま上京していた時、昭和32年ですから映画の2年ほど前です。そのころ「君の名は」というラジオドラマで有名な数寄屋橋も健在で、人込みで雑踏する欄干越しに、今は高速道路に埋まっている下の深いドブのような川も見え、夕暮の向こう岸には貧弱な柳の木の道に、似顔絵描きなどが並んで居たように記憶します。もちろん高速道路はまだありませんが、昔の日劇(旧日本劇場)は今のマリオンの位置に健在で、ここに入るのは学生の身に過ぎましたが一度だけショウを見に行ったことがありました。

ある日の夕方、有楽町駅のホームに立って日劇の横側の南の空をぼんやり眺めていた時、夕焼けの空にオレンジ色の見たことのない光跡が音もなくゆっくりとすべるように東に走って行きました。ホームに居た人たちは「何だ、何だ」と騒然としましたが、翌日の読売新聞で世界初の人工衛星ソビエットのスプークトニック1号だったことを知りました。ほとんど丸劇ビルの仰角の高さだったように思いますから「あのころ東京の空は広かった」のは本当です。今同じ場所に立って見ますと、乱立するビルの影で見えないようです。 地方の大学生には東京の生活は刺激的で新鮮で、新聞の切抜きをたくさんしました。例えばその年、茨城県東海村で日本初原子炉が臨界に達し「原子の火」が点りましたし、国際センターと言っていた元の両国国技館にソビエットのボリショイバレー団が初講演に来ました。大手町の新聞社前に並んで無料招待券を手に入れた思い出があります。居候先のオジの2眼レフを借りてプリマドンナの写真などを撮りました。これより少し後だったか、ウイーン少年合唱団が來日するという話をドイツのハンブルグにいたペン・パル嬢から知らせがあり資料を貰い、楽屋の彼女の知人を訪ねたことがありました。今はすっかり忘れてしまったのに、ジジもあの頃はドイツ語の手紙が書け、少しは話せたんだアー。そのころは「国電」には乗りましたが路面電車の「都電」に乗った覚えがほとんどありません。お金もなかったし、不案内だったのでしょう。子どもの頃朝鮮の京城では外出は電車ばかりだったので珍しくはなかったのですが。

朝鮮にあった製鉄所に勤めていたオジが、戦後シベリアに抑留された後引き揚げて、有楽町駅のガード下あたりで「昼は闇屋で儲け、儲けで神田で本を買い、夜は建築士の勉強」したという時代は過ぎて、ジジの行った頃は屋台こそ残っている猛烈な人込みの街でしたが、日劇の入り口から有楽町駅への道脇の日劇ビルの石の円弧の冷たい壁が妙に思い出されます。

富士見台というところのオジの家に居候したジジは、いつも満員で朝の通勤時によく停車する時の人圧で窓ガラスが割れた西武池袋線で池袋に出て、水道橋の日本唯一の医学部予備校に通っていました。帰り道の池袋西口にフランス座という映画やショウの劇場があり「always」映画の中に出てくるような雰囲気でした。駅前の大きい紙屋さんだけが目立った街で、今のような賑やかな街ではありませんでしたが、その年三越デパートが出来て、フランス座も消えてしまいました。池袋駅から大塚駅方向に線路沿いに下っていくと線路下に細くて長く暗〜いトンネルがあり、東武デパートにつながっていました。学生服姿でも「夜の女」に声をかけられ逃げしな傘や帽子を取られたこともありました。電車の道筋に椎名町という駅があり当時は帝銀事件から間もない頃で人々は忘れていませんでした。犯人が「長崎」の消印があるハガキを出したとかで、九州に関係があるのでは?とか、探偵まがいの話題になりましたが、実は椎名町の近くにも「長崎郵便局」というのがあるのだと初めて知りました。地下鉄丸の内線が東京池袋間で開通間もない頃です。予備校は水道橋にありましたが、神田の古本屋街や御茶ノ水のアテネフランセのフランス語教室や高田の馬場の高田外語学校の関口存男先生のドイツ語講義など、余り脈絡もなくうろついていた節があり恥ずかしい限りです。

レトロな映画を見て、映画に関連する昔垣間見た今とは違う日本や東京の佇まいを思い出し、東京での古い切り抜き帳を引っ張り出してひとときの思い出に浸り、ジジのバアチャンが語ってくれたように思い出を語っておくことも何か意味あることかなと思っています。 

     写真1:新聞折込チラシの日本橋の夕日

     資料2:昭和32年の「ボリショイ劇場バレー団」チケット   と朝日新聞評(主宰は読売新聞)

     資料3:ペン・パルが送ってくれたウイーン少年合唱団パンフレット(ドイツ国内版)

     資料4:同封の現地でのウイーン少年合唱団プログラム(ノイスタットでのオペラの15分休憩に歌われたもの)




  18/Sep/2007

25.大きい「ナヰ」の記憶

 

 「ナヰ」とは地震のことです。日本では古くから、そう呼んできました。

わざわざナヰと表記したのは、古い呼び名を使うことによって、日本人のDNAに刷り込まれているであろうナヰへの恐怖感や、立ち向かう気持ちが甦ってくるのではないかと思ったからです。

 

関東に来て3年目の1964年、新潟地震(M7.5)は川崎市の会社診療所で例年の健康診断に並んでいるときでした。目まいと勘違いするほどの揺れを感じましたが、ただ呆然としていました。翌日の新聞で、基礎もろともに倒壊した5階建てくらいのアパートの写真が印象に残っています。それ以降、たくさんの地震がありましたが、なんといっても北海道での地震の記憶が鮮烈です。

1993115日の北海道釧路沖地震(M7.8)は、私が北海道の新しい工場に赴任する前前日、記念にと家内と登別温泉に泊まった夜でした。夕食後部屋に寝転んでいたとき、突き上げられるような衝撃と、その後の大きい揺れ。釧路と登別は随分離れているのに、ホテルが壊れるのではないかと思ったほどです。

北海道での地震は続きました。同年7月には北海道南西沖地震(M7.8)を経験しました。奥尻島を大津波が襲い、それまでの島の様子を根こそぎ書き換えてしまいました。

10時前後だったと思いますが、私の居た恵庭市でも直下地震ではないかと思うほどの大きい揺れがありました。しばらくして震源が奥尻島に近いと判って、さあ大変。まだ津波が来たニュースは届いていませんでしたが、わが社では、ちょうど奥尻島のレーダー・サイトの保守整備に、本社と工場の技術者がそれぞれ数人が出張していたのです。部下の安否を確かめようにも、電話が通じません。その日の仕事はとうに終わって、宿にいるはずですが、津波が襲ったというニュースがあっても、みなの安否はわかりません。焦りましたが、どうしようもありません。

ホテルや防波堤のある港は、島の中央付近の北海道に面したところにあります。

夜明け近くになって、まだ電話が通じていたときに家に電話をしてきた人の話で、ほぼ消息がわかりました。出張していた半数はホテルにいて、津波を恐れて地元の人と共に直ぐ高台に全員避難したといいます。 残り半数は仕事で借りていたレンタカーで港の防波堤の先に夜釣りに出かけていました。防波堤では、地震が来て驚くだけのヨソ者は「津波が来る!逃げろ!」と叫んだ土地の釣り人の声で、乗ってきたレンタカーに飛び乗り引き返したそうです。土地の人の誘導と対応が早かったから助かったのです。防波堤の取り付きに来ると、先ほどの地震で既に割れ間が出来、車は通れませんでした。全員レンタカーを捨て、割れ目を飛び越えて山の方に逃げました。程なく例の大津波がやってきて、車はもちろん、ホテルも津波に飲まれてしまいました。間一髪、部下が犠牲にならなかったことに感謝でした。結局、地元の人たちの津波への対応の的確さに助けられ、レンタカー1台の損害でしたが、多くの人や家の被害の甚大さには息を呑むばかりでした。

いつも地震に対する心がけが必要だと思ってはいても「喉元過ぎれば暑さを忘れる」で家具が倒れるのを防ぐ手段ですら、なかなか満足にいっていないスロウニンではあります。皆さん準備OKですか?

 

写真は地震から10日目の7月22日、読売新聞(北海道版)に掲載された奥尻島南端の青苗地区。上の写真は、奇しくも地震当日の6時間前、釣り客・小野島章さんが飛行機で帰るとき上空で撮ったもの(小さい空港は青苗地区の近くにある)。下の写真は、読売機からほぼ同じ角度から撮影したもの。

「大津波と火災で集落の様相が一変した」とコメントがある。



25/Aug/2007

24.生きてるお蔭で

 この歳になると、先日のように突然の病気で入院する羽目になったとき真っ先に脳裏に浮かぶのは「死はこのように突然やってくるのだろうな」という一種の諦観にも似た思いです。生き方が前向きとか後ろ向きとかいうより前の問題で、仕方ないことかもしれません。そのくせ、日ごろの生き方がこれに対応して用意周到かというと、何一つ心構えが出来ていないのに愕然とします。かといって退院するとまた元の木阿弥、そんなこともすっかり忘れそうです。
開き直って、それでいいのだ、一生懸命今を感じて生きるのが大切だとも考えます。父母を含めて先人たちも皆一生懸命生きたからこそ、思いを残しながら逝ったのだろうと思います。

 さすがに、スロウニン、現役時代と違って入院して慌てることは少なくなりました。社会的存在価値の減少でもあるので寂しくもありますが、のん気なのが取り柄です。しかし、全く慌てることがないかというと今度は違いました。前にお話したかも知れませんが、今、自分は放送大学の自称聴講生なのです。

 3月の学期末集中講義を偶々受講した縁で始めた番組だったのですが、地球・宇宙科学系4科目は集中的に4月までに終えていたので、今視聴しているのは4月に始まった地球・宇宙科学系5科目と芸術史、音楽理論など3科目と、脳科学、量子力学、カオス数理学など物好きで選んだ選択学科3科目の計11科目の受講中なのです。6月中旬に倒れた時、大体の学科は全15週中第9週を迎えていました。平均して毎日2学科、約90分受講していたのです。

 実は放送大学受講を思い立って、4月からの放送大学講義に備えていろいろ研究の末、自己投資と、今のTV放送が地デジに変わるというときにも役立つ、一番安い5万円の(ずいぶん安くなりました)「ハイビジョン・チューナー付き160GBのHDD−DVDレコーダー」をアルバイト代で月賦払いという約束でカミサンに買ってもらうことにしました。(アルバイトは病気になって空手形になりましたが)。

毎朝、新聞の番組欄とレコーダーの番組表を見て1週間先の講義番組までを予約録画しておきました。時間帯や日時が都合が付かず受講できなかった時のためです。今回は結果的にこれが役に立ちました。

 この番組予約操作は、今の若い人には楽なのかもしれませんが、スロウニンには複雑で難しく、使いこなすのに結構技量を要しました。ましてや、録画画質を落としてたくさんの授業を長時間録画するテクニックを使うなど、慣れるまで試行錯誤して苦労しました。映画ではないから画質は悪くても我慢できますので、2時間の映画を録れる容量のHDDに画質を犠牲にして(チョット見た目には気がつかない)8時間分の講義を録画するといった要領です。また、160GBはそんなに余裕はありませんから、録画した講義を順次数回分ずつDVDに移してレコーダーの負担を減らしていくのです。

 ところが、病気になると授業が受けられないだけでなく、予約録画もセットできないのです。入院1週間の頃、病状が落ち着くと、これには慌てました。思い切ってカミサンに番組予約操作方法を病院で口述し(右麻痺で字が書けない)書き取ってもらい操作をしてもらうことを思いつきました。

カミサンが四苦八苦して操作が出来るようになったお蔭で、途中1週分が抜けただけで、全科目全15週の録画が出来ました。お蔭で退院した今、順次受講を続けることができます。おまけに、スロウニンが死んでも、レコーダーはカミサンにも応用できるので安心です。

 

400年に1回起こる確率というような超新星爆発に今世紀遭遇し、そこから飛来する筈という仮説のニュートリノ粒子の微弱霧箱軌跡光を、世界に先駆けて神尾鉱山跡に作っていた巨大で高感度の霧箱装置カミオカンデで見事捕らえ、仮説を立証してノーベル賞に輝いた小柴昌俊さんの快挙に、同世代として意味が理解できて出会ったことや、天体で光っている無数の恒星のそれぞれが、実は太陽のような核融合による爆発をして輝いているのだということを知ったり、赤外線やマイクロ波、ミリ波、サブミリ波、果てはガンマ線などを駆使した世界各国の宇宙探査活動がしのぎを削っている現状などなど、半世紀前の自分の学生時代では考えられなかった最新の地球と宇宙の研究の様子を知ることが出来る幸せを感じます。どうにかこうにかでも生きてるお蔭だと、あらためて感謝せずにはおられないのです。

 

写真1:講義のはじめのころの図表の1

写真2:老学生スロウニンの自作受講時間表 

 

13/Aug/2007

23.スロウニン国民学校生の思い出

 8月になると、必ず思い出す光景があります。

僕、幼少のスロウニンが旧朝鮮・京城府(現韓国ソウル特別市)の桜ヶ丘国民学校3年生(戦後2年まで小学校は国民学校と言った)になった年、昭和20年(1945年)は新学期の4月から登校途中に空襲の警戒警報のサイレンが鳴り、隊列を組んだ国民学校の子どもたちは電車道脇の防空壕に飛び込み、警戒警報解除になると学校に着くと、大抵そのまま家に引き返すといった日が多くなり、今残っている通信簿でも、夏休みまでの記録しかない登校日数はわずかしかありません。

 京城府は今、大阪府や京都府などの名前に残っているように日本の大きい都会でした。新興の住宅地から路面電車道に沿って防空壕が掘られていましたが、中に水が溜まったり、人糞があったり、防空壕避難はいやでいやで仕方ありませんでした。しかし、幸い京城は日本国ではあっても植民地であったため、実際の市街地爆撃はなかったのです。 

その日は晴天で、暑い日ざしがベランダに照っていて、ベランダに面した庭の父が掘った防空壕の入り口はいつでも飛び込めるように開いていました。正午に天皇陛下のお言葉があるとお達しがあったものとみえ、一家はラジオの前に並んでいました。父母と祖母と1年生の弟、4歳と2歳の弟たち。

ラジオは何か言っているようですが、フェージング(遠くから届く電波で周期的に音が強弱波打つ現象)で子どもにはわかりません。その日休暇か非番で家にいた父は、近くの南山高射砲陣地に召集されていた俄か2等兵(最下位の兵隊)でした。

 それが8月15日、日本の敗戦を宣言した天皇陛下の勅語だったのです。この言葉が終わるか終わらないかのうちに西側の窓から見える東大門の方から「万歳(マンセー)万歳(マンセー)」と歓声が沸き起こりました。「様子を見てくる」と言ってどこかへ出かけた父が帰ってきました。

「朝鮮人がよろこんで万歳を叫んで町に繰り出している」「カーキ色の制服を着た青年たちが、朝鮮人の暴動を抑えている」「日本人の外出は危ない」「日本人は電車にも乗れない、電車から降ろされている」父からだけでなく、いろいろな情報が次々に入ってきました。デマもありました。日本人は急に小さくなっていました。

 ここで言う「カーキ色の制服姿の青年たち」は、家の周りでも見かけました。今で言うボーイ・スカウトのような自衛韓国人組織で、日本統治下にあっても地下で(隠れて)制服を準備し、地下活動で養成されていたものでしょう。米国占領軍が来るまでの少しの間、混乱する日本人を押さえ、韓国人たち自らの略奪や暴動を抑えて混乱を防いだ力は、子ども心にも立派で日本人も見習う必要があると思いました。僕はそのことだけで、今でも韓国の人たちを信じることができます。

 午後も大分過ぎた頃、飛行機の爆音がしました。なんだろう?と思って西の窓から見ると、南山の右手京城の市街地の方向の上空に日本陸軍のあの有名な「赤とんぼ」と呼ばれた練習機に似た複葉機がぐるぐると上空を舞っていました。「もう戦争は終わったのに」という父の言葉が終わらぬうちに、飛行機は急に爆音を上げ機首を少し上げてから急降下の態勢になりキューンと音を吸い込むようにして街に突っ込みました。黒煙がもくもくと上がりました。「自決だ!」父の声がしました。僕にはその意味がわかりませんでしたが、少し前に学校行事で街の映画館で見た「ハワイ・マレー沖海戦」の中の勇猛に軍艦に突っ込むゼロ戦のシーンが思い出されました。

後で聴くところでは、飛行機は街の映画館に突っ込んだそうで、映画はやっていなかったので映画館は燃えましたが、操縦士以外の死者はなかったとのことでした。

やがて、父の会社は国策会社だということで自然消滅し、会社が内地に送ったという引き揚げ荷物は何1つ内地に届きませんでした。

京城の日本人は集められ、北朝鮮や満州からの命からがらの引揚者と合流、豚のように貨物列車に詰め込まれて釜山に送られ、釜山の女学校改造の収容所に長く留め置かれ、順番を待って連絡船に乗せられ難民として日本に引き揚げてくることになるのですが、あの敗戦の日の、凛々しい今で言う韓国のボーイ・スカウト青年たちと、赤トンボで単独自決した日本陸軍の操縦士のことが妙に心に残っています。

3年生の自分と1年生の弟、小さいながらも一人前にリュックサックを背負って内地に来た(兄弟は京城生まれなので内地すなわち日本には未だに「帰って来た」という気はしません)東京にいる弟ともっと話したいのですが、弟もこの夏病に倒れ入院していて、同様に病み上がりの自分は会えないでいます。



26/july/2007

22.降って沸いたような病気の経験。

 いい加減スロウに生きているつもりのスロウニンでもまだ脇が甘かったと見えて、突然予期しなかった病気に見舞われました。大いなる力は私に何か違うものを求めてきたのかもしれません。一ヶ月あまりの入院闘病生活の後退院してきた今でも、この病気の経験が私にとって何であったのか、大いなる力が私に課したものは何かはわからないでいますが、素直に再びパソコンに向かえ、投稿できることを感謝したいと思います。

 肺炎は体の抵抗力が減衰した老人に多いのだと理解はしていますが、今度の私の場合のようなこともあるのだと記録しておく気になりました。

ある日、東京外出の帰り、少し咳が出て風邪気味だなと感じて以来2,3日すると痰が出てくるようになりました。近くのいつもの病院へ行くと、胸のレントゲン写真を撮ってくれました。その日のうちに現像した写真を見せてもらうと、左肺が炎症を起こしているのが解りました。前々から自分の左肺には1点気になる影があって年に1回、定期的にCTでモニターしていたので、真っ先にその影が影響しているのでは?と思ったのです。

先生はまず南部病院のCT予約を取ってくれました。即日CTが使えれば問題ないでしょうが、その時の予約日までは1週間弱の時間が有りました。一応痰検査資料も提出しました。ということはガンの可能性があるということです。自分は内心いよいよ肺ガンかもしれないとの思いが強くなりました。今は止めているものの、50代までヘビー・スモーカーでしたし、あの肺の影がガンかもしれないという疑念があったからです。かと言って肺がんの症状は知らないのです。「今度のCT撮影で肺ガンだと解ったら片肺を切ってもらうしかないなー」などと不謹慎なことを考えていたのがいけなかったのでしょう。午後がCTの予約日だという日の朝方4時ごろ、目覚めると息が苦しい。一回一回意識して息を吸わないと呼吸が出来なくて居間の椅子にもたれて喘いでいると家内が気がついて、救急車を呼んでくれました。

病院に着き応急手当の酸素マスクをつけてもらいCTを撮影すると、肺を囲んでいる胸膜に大量の水が溜まっているとの診断です。肺が溺れている状態だということで、苦しいはずです。原因はわかりませんが何かの菌が入って肺炎になり、それがこじれたものと思われます。

落ち着いてから試験用の胸膜水を採集するということで、医者は超音波スキャナーで位置を探りながら、大きい注射針のような器具を背中に差込み胸膜水を抜きました。透明なあめ色の胸膜水は水というより膿のようでした。事実医者のカルテには膿と書かれていました。膿はみるみるうちに350CCくらい取れました。缶ビール1本分です。だいぶ息が楽になりました。しかし胸膜に穴を開け、肺胞を壊さぬように膿を抜くということは大変な技術であることは間違いありません。事前に調べる超音波の反射映像だけが頼りの、目に見えない手術ですから危険を伴うことも覚悟しなければなりません。肺胞に穴が開いたり出血して膿が腹部に漏れて腹膜炎を併発することだってあるとの事前説明があります。

しかも胸膜は体のどの部分より痛みが感じられる部分だそうです。麻酔はかけながらですが針が差し込まれて体の中を針先がギュウギュウ、ゴリゴリと進むのが解り時々鋭い痛みが走ります。

ようやく試験採取の痛みが取れた頃、本格的な膿抜きが始まりました。「胸部ドレナージ術」というそうです。胸に背中側から管つきの採集用プローブを差し込み出てくる膿を集めて置くタンクと直結し、期間中どこへでも本人とともに移動可能にします。トイレに行く時も、CT撮影に行くときも1式ぶら下げて移動します。タンクには病室の壁に取り付けてある圧力レギュレーターから取り込んだエアー圧が人の体内圧より僅かに負圧になるように工夫されていて、膿を吸い出す働きをしています。この圧力調整は移動の時は使えず一時中断します。これで更に2週間で500CCくらいの膿が取れました。時々CTやX線のモニター検査がある以外膿の出を待つのですが、なかなか完全には抜けません。限度一杯の時間で管を抜き後は自然に減るのを待つしかないようです。管を抜いた後も痛み止めの座薬を使わないと寝ていることもできません。2度管をさすこともあるようですが、危険度は同じですからお医者さんは自然を待つのを選ばれたのでしょう。

こんな風にノンキに見えて格闘している変わった入院生活ですが、今回つくづくと病院のありがたさを感じました。毎日のように運び込まれる救急病人、多くの入院患者や外来患者、それに対処する忙しい医者や看護士の献身的なご努力に頭が下がります。あらためて感謝し働く人々が正当に報われることを祈って止みません。

特に、男女看護士さんたちの夜勤を含む献身的な努力の医療現場には感謝感謝です。教育の行き届いた、粒が揃った技術に加え笑顔を絶やさない姿に打たれます。「これぞ市民の宝」とばかり快哉を挙げたくなります。

患者の中には病気の苦しさや、痛みや、寂しさのあまり深夜のナース・コール・ボタンを押し続けたり、わがままを言う患者も少なくありませんが、優しく適度に威厳を持って対処する姿には感動します。

また別に、以前経験した脳血管系のリハビリ病棟と違って、多種多様の患者が混在する内科病棟での患者さんたちと共に戦う闘病の姿は「病気との戦場」という感じを持ち、あらためて病院スタッフたちの質の高い医療努力、病気との闘いに敬意を表します。ありがとうございました。

今回の教訓:1.外出から帰ったらうがいと手洗いを励行する。
       2.口の中はいつもきれいに。

図は7月7日の病院夕食の七夕を祝う心遣いの献立。11600Kcal食の例です。

 

10/Jun./2007

21.ワラぞうり、竹のかわぞうり、そして古布ぞうり

最近うちのカミサンは、たんすの奥に忘れられている古い着物やシャツを探し出して「もったいないけどもうひと働きね」とかなんとか呟きながら縦長に手でビリビリとちぎり裂いています。

このごろ思い出したように流行りだした古布ぞうりを作るのです。カミサンも小学校に入った前後「自分でワラゾウリを作って履いた」最後の世代ですから、ぞうりはひとしお懐かしいのでしょう。

いまぞうりが静かなブームになっているのは、資源リサイクルと、民芸ブームと、<外反母趾を防ぐ>や<みずむし予防>に代表される健康志向と、手作り志向などが重なって主婦の関心が高まっているのだと思います。

むかしはわらで作るのが普通でしたが、いまはわらは畳を作るわらですら入手困難ですし、竹の皮に至ってはおにぎりを包むものもプリントされたプラスチックで、結局今ぞうりは古布が最適の材料です。昔は、古布は貴重でぞうりにはしにくかったのです。例えば床上で履く便所用には竹の皮が使われました。

わら束に口に含んだ水を吹きかけ適度に湿し束の先(稲穂の方)を持って束の途中に熊手の形にした手を差し入れ余分の葉を扱いて(しごいて)わら束を整えます。これをなるべくドッシリした木の台上で木の槌でトントンと根気良く「わら打ち」してしなやかにします。

先ずぞうりの片足の芯になる縄約1mほどを拝むように両手を合わせてナイます(縒る)。この縄を、前に投げだした自分の両足親指にぐるっと一巡するようにかけ手前側でぞうりを編む作業をするのですが、このとき傍で並んでぞうり編みを教えてくれる人たち……父母であったり、祖父母であったり……の素足の両指の形も自分の指も見えるのです。大きい足小さい足いろいろですが、身近な人の裸の足がこの歳になっても思い出されるくらい心に親密に焼き付きました。

履く人の足にあわせたサイズ、ぞうりの横幅、かたち、緒の取り付け位置のバランス、鼻緒の位置などなど使い勝手と美的感覚など作る人の個性も出ます。ジイチャンが作ったぞうりはタカラモノで、外見も格好いいし長持ちする上履き潰してはもったいないのでお祭りの時用に後生大事にとっておいたほどです。

ぞうりは晴れの日は良いのですが、雨が降る日に歩くと雨にぬれた泥の後ろ跳ねがふくらはぎや、ひどい時は後ろ頭まで跳ねるので泥だらけ。だから横の緒取り付け位置から後ろの長さはきびす(踵)の下少し短めにします。雪の振る日は、特に朝学校に山の上の集落から山道を降りてくる子どもたちは、学校に着くころにはそうりの底は雪と泥でぶ厚く重くなります。足も冷たく痛いほど。だから、その子たちは幅が広く縁が丈夫で盛り上がるように芯縄が太いぞうりを作りました。5、6年生の子どもたちたいていは通学用のぞうりくらいは自分で作ったものです。敗戦で引き揚げる前の旧京城(今のソウル)の国民学校(小学校)ではぞうりを見なかったし、ぞうりで通学する子はいませんでしたが、引き揚げてきた内地の田舎ではぞうり文化でした。

と、かくかくしかじか、ぞうりの作り方解説が目的じゃありません。夜なべ作業の様子を伝えたかったのです。今では芯の縄は8mmほどの白いポリエチレン縄を使いますし、足の親指にかけるのではなく、専用の木冶具を使いますが、出来上がりは単に形や色をいうだけでなく、ぞうりの中に織り込まれた古き良き文化の感性を感じ取り、良いところを学び生かした現代のぞうりつくりの文化であって欲しいものです。

ぞうりの鼻緒を裸足の親指で挟むことによって、靴と違った快適性がある上、外反母趾足のいたわりのためにも台所に立っている間でも古布ぞうりをと思っている嫁いだ娘も、うちのカミサンにぞうり注文のメールをよこしているようです。また、さっそく自分も作ってみると言って始めた小学3年生の孫娘には作るのは少し無理だったようで、オバアチャンに仕上げてもらったぞうりを勉強部屋で履いて「キモチイ〜ッ」と言っています。すると中学生の姉も欲しいと言い出し、幼稚園の弟まで新しく出来上がるのを待っています。ついに、お母さんまで所望です。カミサンもうれしい悲鳴!「階段の上り下りには、滑るから履かない」とゲンマンして次々に作っています。何かその子にゆかりの古着を探しだして色合いを選んで作っているようです。子どものころのぞうり作りを思い出しつつ、駆け出し独学セイトのカミサンも張り切っているようです。

片手片足のスロウニンには手も足も出ない世界で、ゴルフの教えたがりの人と同様、傍で昔覚えたぞうり作りのコツなど口出しする口だけの人です。さぞや「こうるさい」ジイサンに違いありません。


1/Jun./2007

20.地産地消と子どもたち

 スロウニンにも<会社晩年>という時代もあったんですよ。まだまだ元気だと思っていたんでしょう、新しく作った北海道の工場赴任に手を上げて数十人の仲間を連れて北海道に行きました。

本業とは別に自分たちの技術を地元の農業や漁業に役立てることが出来ないかと企み、先ずは「カイより始めよ」と地元の人たちと仲良くなることを心がけました。と、言うことは格好良いのですが単身赴任の気軽さ「いろいろな趣味の友人を作り遊びや呑み歩きの口実さ」と陰口をたたくやつもいたでしょう。そのうち知人も増え、町の将来を思う熱心な市役所の若き係長や課長さんたちとも知り合い、多くのことを教わりました。しばらくして定年などで<内地>に帰ってきたのですが、あれからずいぶん経ちました。

 

先日の天気の良い日曜日、久しぶりの友人たちとの会に行く出発準備をしていて、ふとTVを見るとNHK全国放送の政治対談に出演中のわが横浜市の中田市長さんと、新しい北海道・恵庭市の中島市長の姿がありました。

いくぶん緊張気味のようでしたが、若かった昔の語り口のままの中島市長を見ていて、道(どう)に出向前の市役所係長のころ彼が熱心に推進していた<地産地消>運動を思いだしました。<元で生し(たものを)元で費しよう>という運動です。恵庭市も豊富な農漁業生産物がありながらいろいろな条件のため、必ずしも地元の消費者の手に渡らないでいるのでした。

このため、生産者も消費者もそして地元の市も、得るところも少なく経済効果も上がらない、ということで人々の啓蒙運動をしておられるところでした。この運動は今では全国各地に広がっていますが、まだ必ずしも<どこでも>とは行っていないようです。港南台や洋光台のマーケットでも時々<地元横浜産>とか<神奈川産>を銘打った大根やほうれん草などを見かけますが、季節の地元野菜が常にある状態では無いようです。ウン十年以前まで住んでいた鎌倉市には古くからの<農家が農産物を持ち寄る>人気自由市場が駅前にあります。今も懐かしく、ときどき買いに行くことがあります。多くのファンがいますが、わが横浜市ではどうでしょうか。

また話は少し飛びますが、先日深夜のラジオ番組で<小中学生の30%は生活習慣病――日本が危ない>というショッキングな内容の四国の大学の先生の話を聴きました。食生活が欧米型に変わって、中高年が「生活習慣病だメタボリック・シンドロームだ」と気を取られているうちに、子どもたちが大変な事態になっているのです。これまで無関係だと思って血液検診も疎遠になっている中小学生たちを検血してみると、3割近くに<高脂血症>などのれっきとした生活習慣病が見つかったと言うのです。大人だけかと思ったら「ブルータス、お前もか!」とばかり子どもたちが大変です。ファースト・フードや天ぷらやフライの油物、肉類など高蛋白・高脂肪食品に偏り、野菜・果物・魚が少ないのです。今<食育>が叫ばれているように、昔と違って日本人の食べ物が豊かで欧米化した弊害です。驚いた先生たちは四国のお母さん方に呼びかけて子供たちの食生活の改善運動を始め、今では子どもたちが元気を取り戻してきたと言います。食生活改善で健康を取り返すのも早いというのは救いです。

老年に達して生活習慣病で倒れたスロウニンですが、今の子どもたちは老年になる前に心筋梗塞や脳梗塞でバタバタ倒れるだろうと予測されると、子どもたち本人も、これから子どもたちに支えてもらう国も、可哀想です。子どもが大好きなファースト・フードや高蛋白・高脂肪・高エネルギー食品ばかりにせず、ぜひ地元の野菜と果物と魚を材料に油物を少なくサラダ、酢物や煮物中心のおかずをバランス良く食べて改善してもらいたいものです。

このような話、私など手遅れの老年が聴くよりお母さん方に聞いてもらいたいのですが、深夜のラジオでは無理というものです。

孫たち可愛さで、すぐにインターネットで先生の本を購入して読んで孫たちの母に回しました。年寄りの冷や水というのかもしれませんが。

対談からの連想で話がいろいろ飛びましたが、中島市長は私が存じ上げていた後にも、子どもたちに良い本を読ませて豊かに育てようと<ブック・スタート>運動を起こし<地産地消・田舎倶楽部>運動とともに、子どもの育成中心の新鮮な市政を目指しておられるようです。私たちは忘れがちですが昔も今も子どもたちは社会の根幹です。

大きい都会・横浜の中田市長(個人的にはお目にかかったことはありませんが)と小さい地方都市・恵庭の中島新市長のお二人が、期せずして同じTV画面でこれからの街づくりの対談をされているのを拝見し、とても印象的でした。

 

参考文献 『日本は滅ぶ:グルメの哲学 続』北川博敏著 美巧社 \1,429

 

 


8/May/2007

19.読み・カメ・ソロバン

 「スロウニンのスロウな生活」もだんだん「ジジの昔話」色が濃くなりがちです。昔話が多くなると皆さんも「またか!」と思うでしょうし、自分もますます老化するような気がするので気分転換が必要です。

そこでスロウニンのこのごろの「遊び」というか「生きがい」というか、日ごろの生活での「面白いこと探し」について書いてみます。「年寄りの冷や水」かな?

 「読み・書き・ソロバン」は子どものときから大切とは誰でも知っています。ところが人生長いので私のように病気でこれが出来なくなることもあります。幸い、自分は目はショボショボの老眼ですが字が見え、自分なりの音読・黙読ができるので「読み」は今のところOKだと思っています。また「ソロバン」つまり算数の方も近ごろはやりの「脳をきたえる」足し算引き算くらいはできるのでOKだろうとみています。病後に能力を残してくれた神様に感謝したい気持ちです。

   問題は「書き」です。利き腕の右手が脳梗塞で麻痺したのです。
病前は右手ばかりに頼っていたので、もうじき退院後3年になるのに満足に字がかけません。リハビリにと思って右手に鉛筆を持たせて(鉛筆を左手で取って右手にあてがって持たせる)小学生用の大きいマスメのノートに「ひらがな」を書く練習をしたりしましたが、下手のうえ早くは書けませんし楽しく書くなんてことは望めません。

幸か不幸か神様はパソコンを使う機能は残してくれたので、左手の人差し指1本のワンフィンガー・キータッチで文章が書けると一安心していました。が、考えてみるとそのために右手を使わないので余計に回復が遅くなっているのかもしれません。

 ところが今年になってから最近の「宇宙と地球科学」を学んでみることを思い立ちました。元気でいられる今のうちに知識をリフレッシュしておきたいと思ったのです。ただ知ることだけが目的といえば目的、資格がいるとか役に立つというのではありません。放送大学の資料で学びたい科目を選び入学を検討しました。入学金と1年の授業料10万円は決して高過ぎるとは思いませんが、わたしの気まぐれも知っている妻は「また始まった年寄りの道楽」扱いで正式入学することには理解が得られません。これまでの好き勝手の道楽の前歴があるので当然といえば当然で、黙って引き下がりました。しかし、幸いお金は払えなくても放送大学の講義は誰でも聞くことはできます。新聞で番組を見て聴講をはじめました。聴講を始めて初めて「日本はこんなに文化国家になったのだなあ!」と感嘆しました。学生のとき考えられなかった、ありとあらゆるといっても良い部門の質の高い授業が毎日展開されているのです。勉強する気になれば無料でも聴講できます。しかも、ここ半世紀の目を見張る科学の進歩も勉強できます。夢中にならないではいられません。

ところが、授業を聴講して早速困ったことは「書き」です。大切なところのメモが取れません。おまけに聞いたこともすぐに忘れます。メモがあれば復習のとき思い出すこともあるのでしょうが。立派な教科書が市販されているのですが安くはありませんし、ショボショボの目で科目全部買って小さい字を読むのは無理です。

そこで苦肉の策、デジカメの特性を生かしてメモを取ることを思いつきました。昔、フィルムカメラでメモを取ることもありましたが、フィルム現像の手間と費用で本格的に使えませんでした。今はデジカメがあり現像の必要もないし自分で必要な画像処理ができますので、メモになり字が読める程度の大きさでテレビ画面に出てくる図表を要所要所記録しておくのです。要所要所をまとめてくれている図表は視覚も動員するのでこれを見れば後で思い出すのも簡単です。つまり「書き」はデジ「カメ」です。

一つの授業をできるだけ1ページ分にまとまるように記録画面を整理しておけば、良いメモ記録になるのです。幸い記録も時間順に並びますから、この画像編集そのものも復習になります。テレビの前に座って卓上三脚にデジカメを置き講義に出てくる場面を瞬時によく読み、記録するかどうか判断するのも居眠り防止になるし、頭に入りやすくなります。記録した写真は1日2時間分くらいにまとめてパソコンに取り込み記憶容量が負担にならないように画面の大きさを縮小し、トリミング(切り取る)して記録図表を20枚くらい1シートに印刷しておきます。終わったらカメラの画像は次に日のために消去です。

今年は約10講座20単位分を選択していて毎日1〜2時間の講義があり、そのメモ整理など結構忙しいのです。20単位は10講座×45分×15回です。

やってみると今のデジカメにはない機能が欲しくなります。たとえば次のメモへの待ち時間に液晶画面の表示での電池の消耗を防ぐために電源が自動的にオフになり、そのたびにフラッシュ切りやズーム倍率の操作をしなければならないなどは有りがた迷惑です。毎日授業後に電池充電と画像処理をするなど何か良い工夫は無いかと考えるのも楽しみです。また今はHDD/DVDのレコーダーもありますから講義そのものの録画もできますが、録画はするとしても、この勉強方法の効果があることに変わりはありません。

このような勉強ができる楽しみ多い現代は恵まれています。ジジの勉強は何も役には立ちませんが、体が不自由でゴルフも諦めたスロウニンのせめてものぜいたくな金のかからぬ遊びではあります。今年は満杯ですが生きていれば来年も「モグリ学生」になって今度は文学系の受講をしてみようと今からわくわくしています。

27/April/2007

18.「そば」と「支那そば」と「ラーメン」と 

新横浜に「ラーメン横丁」なるものが出来て全国の有名ラーメン屋が店を出し、伊勢崎町に「ラーメン館」が出来て、東西の名物ラーメンを食べることが出来ると聞いて、びっくりしたのはついこの間だったような気がします。

その人気ラーメン館も役目を終え、近く店じまいをすると聞くと淋しくもなります。

若い世代の人には考えられないでしょうが、私たち世代の学生のころには「ラーメン」なる食べ物はありませんでした。近い食べ物とすれば「支那そば」か「中華そば」だったでしょう。中学・高校生時分は田舎で「小麦」や「そば」は自宅で植えて収穫し、粉屋で粉に引いてもらって手打ちで「うどん」や「そば」を打って食べるのが普通でした。
春の小麦刈のイガイガの感触や、秋のそば刈りと野積みでの乾燥や黒い小さな三角の実を石臼で挽いて「そば粉」と「枕のそば殻」を取るといった作業感が残っているのです。

だから大学生になって九州は福岡市郊外の学生寮にいた自分は、夜な夜な「チャルメラ」というラッパを吹いてやってくる屋台のおじさんの「支那そば」が珍しく、待ち遠しかった思い出があります。チャルメラの「ピピ・ピーヒャラ ピ・ピ・ピ・ピー」という音は今も変わりませんが、チャルメラを吹くおじさんの姿は今インスタントMラーメンのトレードマークに面影が残っています。細めの独特の匂いの固めのちじれ麺をその場で茹で、白目のどろどろスープ「とんこつスープ」をかけてねぎや支那竹を乗せた「支那そば」を川土手のリヤカーの屋台に首を突っ込んで、遠くの踏み切りの音を聞きながら立って食べる図は、夏にも冬にも似合ったと思い出されます。当時は博多でも「支那そば・中華そば」を「ラーメン」とは呼びませんでした。

そのころ、友達と初めて長崎に行きました。今は無くなった遊郭の出口の「見返り橋」という名所の近くで長崎名物「長崎皿うどん」や「長崎ちゃんぽん」を初めて食べました。どちらも、麺がうどんに近く、少し細くて平たくって固い、それは美味しかったことを覚えていますし、特に「ちゃんぽん」は博多ラーメンの元になったという「とんこつスープ」でした。「とんこつ」が「ラーメン」という呼び名との出会いはずっと後になっての話でしょう。つまりが長崎でも「ラーメン」は聞かなかったのです。

昭和32年(1957年)に学生のまま東京にでて西武池袋線沿線の親戚の家に居候をしていた私は、水道橋、御茶ノ水、銀座、渋谷、新宿など所かまわず出かけていましたが「支那そば」「中華そば」「うどん」か「カレーライス」が学生の安い昼食でした。「支那そば」は、今はなくなってしまった渋谷の「恋文横丁」で食べましたし、まだドヤ街だった新宿西口の「焼き鳥屋台横丁」の辺りでも食べることが出来ました。学生仲間で上野に名物カレー屋があると聞いて上野駅の近く今の公園口の坂の途中辺りの闇屋街で1杯10円のカレーを食べたことがありました。そのころでも10円は格安でしたから、入っていたのは犬の肉だったのでしょうか。「そば」は東京では、まともなご馳走の部類に入り、親戚の伯母は何かあらたまったときには富士見台にあった大きいそば屋から「ざる」をとってご馳走してくれました。博多では東京ほど「そば」はなかったような記憶があります。

その後の九州での学生生活でも、ご飯以外は「コッペパン」、「支那そば」、「うどん」、「カレーライス」、寮の大釜での飯炊きで出来る「お焦げセンベイ」などで、「ラーメン」は思い出せませんから、一般には「ラーメン」なる呼び名はなかったのです。

 「支那そば」「中華そば」が「ラーメン」と呼ばれ出したのは、初めて「インスタント・ラーメン」が売り出されてからで、「支那そば」という呼び名が急速になくなったように思います。調べてみると、先日亡くなった「インスタント・ラーメン」の発明者で日清食品の創始者の故「安藤翁」が「チキン・ラーメン」を発売したのが昭和33年(1858年)8月と言いますから、それから急速に「支那そば」「中華そば」に取って代わって「ラーメン」と呼ばれるようになったのでしょう。

 気がつくといつの間にか「ラーメン」を食べている自分がありました。「ラーメン」と意識して初めて食べたのはどこだったか、思い出せません。会社に入ってからの福岡の「長浜ラーメン」(正式には長浜は博多ではない)か中洲や春吉の「博多ラーメン」か、北海道の静内の宝龍ラーメンか、北海道千歳のラーメンか、思い出せません。そのほか札幌のラーメン横丁、時計台ラーメン、旭川ラーメン、近くは洋光台や磯子に来ていたラーメン屋台などいずれも屋台の雰囲気を持つ店が思い出されるのは不思議ですが、屋台の「支那そば」が原点であってみれば不思議ではありません。それに比べると、「そば」は北海道恵庭の「思君楼」、北海道の中央幹線道から富良野への入り口の古い「そば屋」、米沢の「庭があるそば屋」、会津の「桐屋」のげんこつそば、大田原の「そば屋」、出雲の「そば屋」、富士市から身延への途中の山の中の大きい「農家風そば屋」、東京の「藪そば」、富士見台の「そば屋」、などなどには屋台にはない伝統的な居住まいを感じる雰囲気がある店が多いのです。 

一方、落語や漫画に出てくる昔の「そば屋」は屋台が多いので、きっと「そば」が庶民の普通の食べ物として屋台で売られていたものが、比較的安価な「支那・中華そば」に取って変わられ、段々と「そば」は店屋物になったのだろうと推測します。「そば」から「支那そば」へ、「支那そば」から「ラーメン」へ、と順々に屋台から消えて行った時代の流れを思うと、それこそ「昭和も遠くなりにけり」の感慨に浸ります。「ラーメン」の後は何でしょうねえ。








18/Mar/2007

17.「スペイン風邪」のこと

TVや新聞でも「新型インフルエンザ」(厚生省の説明では:これまでヒトに感染しなかったインフルエンザウイルスがその性質を変異し、ヒトへと感染するようになり、ヒトからヒトへと感染するようになる)の話題が増えています。国内では鳥の「鳥インフルエンザ」の話題が身近ですが、「新型インフルエンザ」は多くの人たちのご努力によって、辛うじて「水際作戦」で国内流行が食い止められているのではないかと思います。NHKTV番組の「仕事プロフェッショナル」に出ておられたWHO(国際保健機構)の日本人女医さんの世界を駆け巡る「対・新型インフルエンザ作戦」の様子や、国内の「対・新型インフルエンザ・訓練」の報道を見ても、極めて薄氷を踏む思いの事態が現実だと思われます。

身近な国外では既に複数の国で「新型インフルエンザ」が発生しており、その地帯に往来する人の交通が続いているのですから、いつ日本に伝染・発生しても不思議ではありません。爆発的に発症し、最悪60万人の死者が出る事態になると予想されていると言いますから、国民皆で関心を持って対処する必要があると思いながらも、なかなか本気になっていないように感じるのは自分だけでしょうか。

これらの報道のたびに出てくる「1918年(大正7年)のスペイン風邪」という、当時の「新型インフルエンザ」が私たち一族の歴史に落とした影は大きいものがあります。 当時を覚えておられる方は100歳を超えておられるはずです。

当時、多分30戸程度だったと思われるふるさとの山陰の百姓村は萩の近くの比較的裕福な村だったようです。

ある日、村の誰かが風邪を引き寝込んでから、次々に高熱の風邪が蔓延しました。生前の祖母に聞いた話では、我が家は元気だった父親(私の祖父)が風邪を引き高熱で寝込みました。次いで当時の祖父・祖母が高熱で寝込み、嫁(私の祖母)と子どもたち3人(父と弟妹たち)は元気なものの幼くて、井戸水で病人の頭を冷やすのもママならず、盥(たらい)の周囲に錐で穴を開け、パイプ状の竹の小筒を差し込んで、框(かまち=座敷に上り下りする階段状の廊下)に病人を並べて、井戸からくみ上げた水を桶(おけ)で運び(たらい)に入れると、その小筒から水が病人の頭にかかるように工夫をして冷やしたといいます。隣近所も病人がたくさんで、絞った手ぬぐいで冷やすのでは間に合わなかったようです。

急を聞いて祖父の弟も帰ってきたものの感染し熱を出して寝込みました。そのころ医者は居ましたが「新型インフルエンザ」という知識もなく、ただ悪い風邪というだけだったようでしたが、村ではバタバタと亡くなる人が増え、お弔いもままならなくなりました。ついに我が家でも、まず若かった祖父が亡くなり、帰ってきた祖父の弟も亡くなり、老いたジジババ(祖父の両親)は死ななかったものの、幼子を抱えた嫁だけになったようです。村中の半数以上が亡くなり村も大ピンチを迎えました。

残った嫁すなわち私の祖母は、12歳の私の父を関釜連絡船(下関と今の韓国・釜山間の連絡船)の一人旅をさせ京城の叔母一家に預け、残った田んぼは親戚に託し、下の子2人を連れて下関の国鉄機関区に働きに出たようです。いわゆる一家離散です。それからの祖母と私の父、弟妹たちの苦労は大変なもので、私の想像を超えるものですが、父が叔母一家の兄弟同様の愛情を受けて育ち、苦学の末京城の商業学校を卒業し就職し結婚し私たちが生まれ祖母を呼び寄せ、やっとその苦境から脱したと思われたとき、再び敗戦で叔母の一家もろとも、すべてを失って難民となり日本に引き揚げるという悲劇がありました。

皆さんのご一族でも同様な危機を乗り越えてこられたものと推察しますが、今の私たちがあるのは、まさに奇跡に近いと思います。神仏や祖先への恩を忘れることは出来ないし、感謝せずにはいられないのです。

このようなわけで「新型インフルエンザ・スペイン風邪」は戦争と同様、私たち一家を含め田舎の村の生活を破壊しつくしました。全く他人事ではありません。

今は当時と違って、医療は格段に進んでいますし、薬も豊富でしょうが、交通が便利になったし人口も増えている分、感染機会もまた飛躍的に増えているでしょう。鳥は「疑わしきは全部処分」して感染を防ぎますが、人はそうは行きません。マスクをする程度では済みません。

外国の感染現場やTVの訓練を見ますと、早期に徹底的に空気を患者から遮断するため、発症者を袋に入れて搬送隔離し、看護し、人々は外出禁止にすることが効果的だといわれています。感染経路を徹底的に隔離するのです。

患者が病院に殺到するでしょうが、病院で感染が広がりますから患者は移動しないのを原則にしないと、パニックになります。国では、野外の広場に、ウイルスも外に出ないようにフィルタ付の大型の専門医療テントを配備し患者を収容することを考えているようですが、これを早急に的確に運び配置することができるのかどうかわかりません。

また、現代の都会では新型インフルエンザ医療現場の看護人員の不足が最も心配ではないかと思います。

結局、新型インフルエンザが流行したと思ったら、用意しておいた医薬品と食糧の備蓄で、病院はおろか、学校にも、会社にも、買い物にも行かず、一家は自分の家の中でひたすらTVやラジオやパソコンで外界の様子を見ているだけというのが正解じゃないかと思います。「スペイン風邪」のときアメリカで、いち早く外出禁止策をとった都市と1週間遅れた都市で死者数が歴然と違ったというデータもあるようです。

「スペイン風邪」の話題が出る度に、先人たちが味わった悲劇を思い起こし、子孫たちに再び味あわせてはならないと思うのですが、相変わらず口ばかりの無力をかこつスロウニンではあります。

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23/Feb./2007

16
精進料理(しょうじん・りょうり)

高度なグルメの一人だと敬愛する親友が、今は亡き水上勉さんの「精進百撰」という小さな文庫本を送ってくれました。本と一緒に脳梗塞の後遺症から左手ピアニストとして再起された舘野泉さんが書かれたこの本の「読書日記」として書評が載った新聞記事コピーがつけられているところをみると、関西人の彼はきっと「君も精進してるか?」とユーモアだったのでしょう。舘野さんと私が脳梗塞前、偶々北海道での舘野さんのコンサートのお手伝いをした出会いを知っている親友は、舘野さんに関する記事を見つけると必ず送ってくれます。

ご存知のように水上さんの貧しい農家の人減らしのため、幼い頃寺の小僧に出され、お坊さん付きの日常の生活すべての小間使いのような少年期の経験から生まれた簡素で奥深い知恵に富んだ精進料理の話です。そして舘野さんの「読書日記」の末尾には「著者も、その著作を読む側も重いもの(人生の)から開放されたのかもしれない。読後、バッハの音楽を聴いているような充実と爽やかな感動を覚えた」と締めくくっておられます。

何年か前まで、その親友に連れられて赤坂、新橋、横浜西口、関内、果ては札幌の食通の名店といわれる店などに、夜な夜な出没したことが思い出されるのです。また、満州で生まれ赤ん坊で引き揚げたので生まれた場所も知らないという後輩が定年に達したのを機に「○○くんの満州里帰り支援紀行」と称して友人4人と中国東北部の旅では「熊の掌」料理や「虎の肝」酒などを訪ね歩き食したのもつい昨日のようです。だから親友の精進料理への関心は意外な気がしましたが、関西出身で魯山人の食器を使う割烹も知る彼もまた精進料理の素晴らしさも精通しているのでしょう。

今は、精進料理と言ってもピンと来ない人が多いのは止むを得ないのでしょうが、子どもの頃には普通の生活でも仏教で言う精進日が決まっていたものです。今となっては詳しくは分かりませんが、月々に精進日があったように記憶するし、お釈迦様の誕生日(花祭り)や○○上人の命日や家々の法事や通夜葬儀などご不幸のときに、魚を含め鳥獣一切を避け野菜草木のみの料理つまり精進料理を食べました。よく禅寺の門前に「不許入薫酒(クンシュ・サンモンニ・イルヲユルサズ)」と書いてある碑が立っていますが、お酒、ネギやニンニクやニラなどもお坊さんの修行に雑念を生じると避けました。私たち世代よりもっと古くは、精進料理でなくても日本人が牛や豚など四足の動物は食べなかったし、食しだした歴史も非常に浅いのです。私たちがどなたかの通夜に行くと、お斎(トキ)と言って食事が出ることがあります。もともと、お寺では食事は午前のお斎だけで午後は食べなかったといいますし、寺で出す食事をお斎というようになり、肉を食べない精進料理のことをお斎とも言ったようです。関東に来て程なく、通夜に行って「生くさ料理」の江戸前寿司がお斎に出てくるのでびっくりしたものですが、いつの間にか西日本の田舎にでも行かない限り、葬式のときでさえお寿司が出るのが普通のしきたりになってしまいました。

生活習慣病とか飽食の時代を象徴するような成人病を恐れ苦しむ我々は、食にももっと謙虚にならないといけないと反省しますが「言うは易く行うは難し」が現実です。

水上さんの凄いところは心臓の3分の2が壊死するような重病を経てなお畑の野菜作りから客人や自分の食卓の精進料理すべてを「喜びを持って」手作りされたことです。おまけに竹を植え、これを料料にして中国から伝来の技術

に立ち返って竹紙を梳いて、好きな書画を描いて人を愉しませることを生きがいにされたことです。小僧時代の仕方なしにやった精進料理修行が生きたのだと晩年仰っていますが、日々を感謝裡に過ごされた素晴らしい人生です。

子どものころ親戚の法事に家の名代(親が忙しく手が離せなくて代わりに)で行かされると精進料理が出ます。「従兄弟(イトコ)煮」といって小豆やごぼう、大根、芋、豆腐、などなどを固いものから「追々(オイオイ)」入れて煮る料理(追々入れるから甥甥とかけて従兄弟煮というらしい)煮物や塩味の精進押し寿司を覚えています。量が多くて食べ切れなくて目を白黒させたことが思い出されます。量は別として今で言うダイエット料理です。それでいながら小学6年生のときひどい脚気に罹り通院のバスのステップが昇れなかったのは余程ビタミンB1の栄養失調に陥っていたものでしょう。

この本で精進料理が懐かしくなり自分でも手がけてみたいと思うようになりました。水上さんのように酒の肴の趣向が強くなるのも止むを得ない幸です。ひところ1時間以上車を駆って相模原の借地農園に行って、芋や、かぼちゃや、大根などを作り、子供のころの田園生活の真似に浸れたのもつかの間で、突然の病とその後遺症で自由を失った今は、狭いながらの庭で、普請の際業者が持ち込んだに違いない山土からフキが生え、春先にはフキのトウに恵まれ、夏にはフキの佃煮になるフキの恵み、また気まぐれで植えておいたアシタバが大きくなり、いつのまにかミツバやニラも生えるようになって、季節の精進料理を楽しめるなど、荒れ庭でも貧しいくささやかながら山野と同じ恵みが受けられることに感謝しています。今夜もフキのトウとお茶の葉と明日葉の「精進揚げ」にでもするとしましょうか。いや、してもらいましょうか。手元不自由な自分の天ぷら揚げは危ないからなあ。

写真1:庭の端やフキのトウ萌ゆ冬ぬくし (「冬ぬくし」「暖冬」は俳句の季語になっています)

写真2:庭で摘み取ったフキのトウ

写真3:精進ケンチン汁の図


22/Jan./2007

15.「イジメ」っ考

 このごろ、マスコミで「イジメ」の話題が目につきます。それも「イジメで子どもが自殺」と大騒ぎです。

「イジメ」は古今東西、3人以上の人間が集まるところには起こる可能性があることは誰でも知っているはずです。1対1の2人のときはイジメは成り立たない。対抗するとすれば競争か喧嘩です。これは人間が生きている以上仕方ない。当然、和平かどちらかが負ける。このとき負けた方は悔しいけど「負けるのも愛嬌」とでも思って諦めるしかない。資本主義という今の社会は「競争原理」が基本だから大人も子どもも競争は当たり前と思っているはずです。

 イジメは2人以上が徒党を組んで1人に当たることから始まりますが、これだって当たり前。しかし、往々にして「弱いもの同士」が徒党を組む。これも当たり前。「イジメる子は学校に来させない」と発想した国会議員は「法案反対には刺客を送り込む」発想と似ているし、スロウニンは日本につい最近まであった「村八分(ムラハチブ)」という大人のイジメの原型を連想します。イジメかイジメじゃないかは「紙一重」でイジメの側にも主張があるのでしょう。その主張に悪意があるかないか、理に叶っているかいないか、などがイジメとの区別ですから、イジメといわれる事件はその要件を備えているのでしょう。

 時流に乗って、根掘り葉掘り重箱をつつくようにイジメだイジメだと(ニュース・ネタが出来たとうれしそうに)報道するマスコミに踊らされて、先生も親も子どもも、大人も子どもも、判断力を失っているとしか思えません。どちらも「子ども」が主役ですからそれを忘れてはいけない。原点に帰りましょう。

イジメは古今東西にあったと書きましたが、スロウニンがだってイジメを度々経験しています。

日本の敗戦で外地から難民になって命からがら内地(日本)に引き揚げてきた時、スロウニンは小学校3年生でした。引き揚げ先の母の実家のある田舎の学校は、それまでの外地の都会と違って「引揚者」「疎開者」と、何もかも失って逃げてきた貧しい「難民の子」に激しい拒否反応(今思えばです)を示しました。東京の空襲で焼け出された疎開の子と二人は仲間に入れてもらえず、皆で無視されるのはまだ増し、持っていった弁当に死んだ蛇の頭を入れられるなど、学校に行くのが嫌で仕方ありませんでした。しかし狭い家では小さい弟たちの面倒で手一杯の祖母の邪魔になるし、共稼ぎの父母が昼間は家にいないなど居場所がなく、結局二人は学校で故意に「わるさ(いたずら)」をしました。死んだ蛇の頭をそのまま避けて弁当を喰う、習字の時間に先生の後ろから草履の鼻緒(はなお)に習字の墨を塗ったり、学校畑の作業中に先生のスカートをめくったりし、先生が怒って追いかけて来ると、桟板の隙間にわざと足を入れて「痛い痛いよ」と先生のせいになるように泣き叫んだりして、「ワル」をすることでイジメの仲間の頭目の機嫌に叶うよう工作したのです。敗戦の混乱と難民受け入れで食い扶持がなくなるという地域の不安の反映だったとも思えます。

今、偶々書きながら横目でTVを見ていたら、有名な映画監督さんとアナウンサーが東京・柴又界隈のルポで、柴又の近くの江戸川の矢切の渡しを訪ねていました。千葉県側に渡ると伊藤左千夫の「野菊の墓」のふるさとがあります。若い会社員だったスロウニンが車で行った当時とあまり変わらないのどかな田園風景です。「野菊の墓」にもマサオとタミコに対する周りのイジメがあり、それが主題と言えば主題です。また、それにつられて思い出すのが下村湖人の「次郎物語」で、確かここにもイジメに耐える少年の日々が書かれていたように記憶します。また、中学2年の頃夢中で読んだ新聞夕刊に連載の船橋聖一の「花の生涯」の中でも、ある意味での幕府のイジメに抵抗する吉田松陰を読んで尊敬しました。どれも自分がイジメから逃げるために読んだ本です。

悲しいことに、「村八分」という、地域の人たちが一人をイジメで孤立させ追い払う悪い風習があった日本です。イジメは大人子どもに限らず、いつも世の中が渋滞し不安が多いときに顕著になるようです。戦後の混乱と不安と貧しさの時代、経済成長時代の後に来た長い不況と不安の時代の今が思い起こされます。

大人になって勤めた会社での「イジメ」にも遇いました。対抗する部長同士の出世競争のトバッチリで、協同プロジェクトで相手部長のもとに派遣された自分は部長とその部下たちにことごとくイジメられました。一人出張から外される、通達が届かない無視、意見が違うのはいいとして週報の1字1句の揚げ足取り、勤務評価などなど、こうなると外部からイジメの判定も出来ません。組織や社会情勢の不安などの反映ともいえます。

「人を思いやる」という目で、子供だけではない大人にもイジメに対する監視と、イジメ事項の双方の人たちへの「優しい目」があってこその文化国家日本だと思うのです。日本が文化国家と自分たちは思っていても、日本は戦後の状態とあまり違いません。賢くなったとは思えません。むしろ社会的に程度が幼稚になったのではないかと疑います。私も出来れば「意地悪ジジ」という鬼になって、無理解な大人たちに楯突き、猫が子を舐めるように悩める子たちを舐めてやりたい。キザな言葉で言えば「理論ではない。愛だけなのだ」です。

「あいつ、エエ格好しやがって!」と思いますか? え?「ジジ、舐めたら臭い」と言う孫の声が聞こえたような。

絵:1は猫のイジメ、2は果物たちのリンゴ・イジメに見えませんか?

写真:ある幼稚園のおじいちゃんおばあちゃん参観日風景


1/Jan./2007

 14.隔世意伝 

 隔世遺伝という言葉があります。「生物の進化の過程で祖先の形質がまた後代になって現れること」(広辞苑)とあります。ここでは遺伝の話ではなく、「意伝」つまり(意を伝える)という言葉に換えて「隔世意伝」ということを提案したいのです。ここで言う「意」とは教育であり、躾であり、良かれとの思いです。

 私たちジジ・ババが子どもであった時代は家に少なくとも祖父母、父母、子が同居しているか、祖父母が近所に住んでいるのが普通でした。私の場合は父が韓国のソウル(昔は日本の植民地・朝鮮の京城府といいました)に勤めていたので父の母すなわち私の祖母が一緒に住んでいました。母が教職にあったので子どもの養育にツジばあちゃんを郷里から呼び寄せたのです。

日本の敗戦によって朝鮮は外地になり住んでいたわたしたち日本人は難民になって引き揚げてきました。

引き揚げてきて、一家は母の実家の離れに住んだので、わたしたち兄弟は母方の祖父母にも近くなりました。

(父方の祖父は父が12歳の子どものとき、有名なスペイン風邪で亡くなったといいます)。

そんな環境ですから、ごく自然にじいちゃん、ばあちゃんの考えや行動に触れて、今思い出してもいろいろな人生の知恵を教わったなあと感じます。父も母も仕事にでているし、母の実家も商店だったので、学校から帰ってくると従兄妹たちや友達と遊ぶか、じいちゃん・ばあちゃんの話を聞くか、していたように思います。このような少年時代を送った記憶を持つ人は多いはずです。

戦後しばらくして日本の経済が急速に回復し成長した子どもたちが親元を離れ都会に働きに出てくるようになり、結婚して子どもが出来ても、子どもたちは祖父母に滅多に会えないような環境になってきました。

いわゆる核家族です。古い家族像を封建的だといって、若い人たちは両親と子どもたちだけの家庭が理想的に見えてきたのも無理はありません。わたしも九州の大学を出て東京に就職し結婚して子どもができました。後になって幸い地方に居た家内の両親と同居をするようになり、子どもたちにもジジ・ババの愛情にも触れさすことができました。人間ですから3世代の同居のわずらわしさも時には無いではありませんが、子どもたちには非常に貴重な人間形成の機会だと思うのです。

最近、学校などでの子どもたちのいじめ、家庭内の虐待、誘拐や殺害など、子どもたちを取り巻く環境が殺伐としているのを見聞きするにつれ、わたしは「隔世意伝」という言葉が頭から離れません。

最も近い「隔世」というのは「ジジ・ババと孫」の関係です。だから意を伝えることができるのも束の間です。

親や先生が子どもに伝えるのはいわば「建て前」の教育です。「建て前」というのは英語でいえば「オフィシャル」といって良いでしょう。これに比べジジ・ババから孫に伝えることができるのは「本音」の教育です。「アン・オフィシャル」の教育ではないかと考えられます。「オフィシャル」「アン・オフィシャル」は私の会社時代のアメリカのロイヤーの友人が良い翻訳だといってくれましたから、多分アメリカ人にも「本音」と「建て前」というようなことはあるのでしょう。

広辞苑でも「建て前」は「表向きの方針」と書いてあり、正しくて誰もが反論できない。これに比べて「本音」は「本心から出て言葉。たてまえを取り除いた本当の気持ち」とあります。

 例えば「イジメは悪い。卑劣だ」というのは「建て前」でしょう。これを声高に言うと「イジメッ子は学校に来させない」となります。正しいように見えて実は出口が見えないと思います。

 「まあ、待ってください。大人の世界でもイジメが無いとは言えませんよ。皆で渡れば怖くないで、イジメる側についていればさしずめ自分は安全ですから。イジメる方全員がイジメッコばかりとは思えないんですが。学校から締め出すと、かえって学校中がギスギスしませんか?」というのは「本音」で、多くのジジ・ババはこう考えているでしょう」。しかし、こちらには反論も多いのです。

父兄や先生が全て「建て前」だとは言えませんし、ジジ・ババが「本音」ばかりじゃありませんが、押しなべて考えると、そんな傾向があるような気がします。子どもたちの本音を聞いてあげることが出来るのも、ジジ・ババであるような気がします。隔世だから、「教育は親マターだ」と割り切れるので親より客観的といえましょう。

自分の経験でも、子どもたちは存外に「建て前」が正しいことを認識しているものです。だからどうしようもない自分を苦しめ、逃避する。逃げることが悔しいことも知っています。自殺も逃げることだと知っていますが、かわいそうに「死」がどんなものかを本当には知らない。大人だって死の意味を知らないでいる人はたくさんいます。「死」の意味なんか知らないでいる人は幸せなのです。

 こんなことを考えていたとき、ジジが先生や親ごさんたちの「建て前」教育の邪魔をしないで、ジジから孫たちに、父方のツジばあちゃんや母方のゴロウキチじいちゃん、マツカばあちゃんが語ってくれた云わば「本音」に近い教えを思いだして書いておくのも大切かなーと思い立ち、これを「隔世意伝」と名づけたという次第です。ブログにしてリハビリ代わりに左手で下手くそパソコンお絵描きを楽しみながらボチボチ書きとめてみることにしたのです。先はどうなるか判りませんが、応援してください。







15/Nov/2006

 13.「までいライフ」って? 

昔風に言えば「隠居」のスロウライフの特権の一つは、深夜も起きていて音楽を聴いたり、書き物をしたり、ラジオを聴いたり、時間を気にせず好きなことができることです。翌日の仕事があるとすれば人のための仕事ではなく、自分の仕事ですから「納期」があるわけではないので翌日は寝ていることだって出来るのです。長年朝は6時半に家を飛び出し洋光台の駅に走ったり、妻に車で送らせたり、帰宅は午前様、家のこと子どものこと全てをほったらかし、というような無頼な生活を続けてきた身には、妻には申し訳ないと謝罪とありがとうと感謝しつつも、ジイの今になってのこの気まま生活は望外の贈り物です。それも「望外の」病を受けて身体的ハンディキャップを貰ったお蔭で、外での「夜の飲み会」や「会社同窓会」参加から開放されるし、皆さんの諸社会的福祉サービスのお蔭で出歩く自由も与えられて、かえって心身ともに健康的な生活を送れるようになったと感謝、と言ったら罰が当たりそうです(不謹慎な言いかたで申し訳ありませんが)。

深夜のラジオ番組で福島県の山村の「新しい感覚で村作り」を推進してこられた気が若い村長さんの話を聞きました。例えば、高地にあるこの山村の若いお嫁さんや若い主婦たちを、ドイツなどに旅をさせ公費で多額の補助し、意識改革で想像以上の効果を挙げたとか、その試みをさらに母と子、父と子、などの組み合わせで旅をさせ村に新しいフレキシブルな感覚を広めていこうとしているなど、をやってこられたそうです。

中でも、今進めているのが「までいライフ」運動だそうです。発想はまさに「スロウライフ」の実践だといいますが、「までい」という方言のスローガンによって、一味も二味も中身を味濃く進めたいとの意気込みがあります。

「までい」とは何でしょう。村長さんのお話ではこれは古語?「真手(まて)」からきたそうです。広辞苑によりますと真手は左右の手、すなわち両手のことだそうで、今はもうあまり使われなくなったらしいのです。この言葉は福島方言では訛って「までい」と言い、「両手で」の意味から「大切に」とか「優しく」とか「そっと」とか、たくさんの意味がこもっているそうです。とても良い言葉ですね。

「真手」「までい」という言葉を聞いて会社時代の新入女子社員のことを鮮やかに思い出しました。われわれの頃の技術系新入社員は男子がほとんどでしたが、彼女が入社の頃は入社式で新入社員の総代として機械工学科出身の女子大生があいさつをするなど、女子技術新入社員が話題になった頃です。女性はお酒も飲まず、まじめに勉強するから今では大学でもトップクラスの成績を女子が占めるといいます。わたし如きは「つめの垢でも煎じて呑まねば」なりません(こんな古い言い方をわざと使って申し訳ない)。

東京理科大出身の彼女は静かで聡明でした。そのころテレビで活躍していた同大出身の人気アナウンサーがいたこともあってみんなの注目を集めていました。わたしはそのころ部長か他課の課長だったか、いずれにせよ直接の上長ではありませんでしたが、観察するに、何より驚いたのは、彼女が依頼を受ける事務書類などを受け取るときや、出来上がった書類を上司や同僚に手渡すときなど仕事のときも、ごく普通の日常の受け渡しにも、必ずといってよいほど両手を使うのです。決して片手でポイと渡すことがないのです。

昔の人はいざ知らず、男のわたしでさえも子どもの頃母にやかましく言われた覚えがあるこの躾を実践する若い人をはじめて見ました。昔の人、特に仏教や儒教を信心した人は、片手でものを差し出すのは、特に目上の方には、大変失礼な態度だと教わったものです。「目下に呉れてやる」「ヒンジャに与える」という態度に見えたのでしょう。彼女にはごく自然に両手を差し出す動作が出来たのです。それは見事でした。

そのうち彼女は学生時代からの相手と結婚することになり、結婚式に招かれて大宮市の大宮神社に行きました。一人娘で、父上はサラリーマン、母上は習字の先生だと知りました。きっと母上が家で書道を教えながら厳しく躾をなさったのでしょう。お婿さんは筑波市のほうの会社の技術者だそうでした。その後次第に彼女も上長になり、部下になった男子技術者たちを引き連れて居酒屋で飲み会をやるなど、真手の躾を実践するわりには仕事も遊びも活発で人望があり男勝りで驚いたものです。やがて彼女は第1回の気象予報士試験に合格し、丁度彼女が担当していた気象レーダーのソフト関係の仕事とマッチしていました。

今ではお中元やお歳暮のときに風呂敷包みを両手で差し出すくらいしか機会がないし、それも宅急便で送ることが多い世の中になったので尚更、「真手でものを受け渡しする」…・日本人が忘れかけているこの仕草は、まさにスロウな生活の基本だと思い至ります。

大切に思う心、優しい心、いたわりの心、感謝の心、現代生活ではそんな動作はとても非効率だと思う人があるかもしれませんが、あの山村のようにせめて心の中では「ものを両手で差し上げ」、「ものを両手で頂戴する」動作をイメージしながらの動作をしたいものだと、村長さんのお話を聞いて反省したことでした。

 

18/Oct./2006

 12.ガソリンが使えなくなる日

 ガソリンが高くなりました。 1970年頃の第1次石油危機前には確か1バレル(樽という意味で=159リットル=ビールビン大で約251本)2ドル位だった原油が10年後のレーガン大統領が誕生の頃、35ドル位になって「べらぼうに高くなったな!」と思ったことがあります。それが2000年頃には25ドル位に落ち着いていたところへ、今は70ドル台近辺に急騰しました。‘70年時代の35倍、’00年の2.8倍です。イラク戦争などいろいろな原因が考えられますが、基本的には世界的なエネルギー不足だと思います。

物の本を読んでみますと、世界レベルでのエネルギー不足は、中国やインドなどの経済が拡大するにつれ世界で必要なエネルギーの増加の方が、新しい油田の開発による生産量の増加より大きく、2020年には深刻なエネルギー不足に陥るといいます。現在世界の1日の石油消費量は8,200万バレルというのが、2015〜2018年には1日約4,000万バレル不足するという予測もあります。日本の1日の消費量は約500万バレルだそうですから、その8倍です。石油が買えなくなる危機もあり得ます。

世界が血眼になっているのに、大消費国日本ではまだノホホンとしていて、これまでそうであったように、石油は金さえ出せばいくらでも買えると思っている人が多いそうですが、世界のエネルギー源の争奪戦は日に日に激しくなるようです。ロシアが樺太のガスや石油の開発に待ったをかけたのも、中国の尖閣列島近辺の油田に乗り出したのも、日本のアラビア石油会社が40年もサウジアラビアで石油を掘り続けたのに2000年の採掘権延長の交渉で難条件をカバー出来ず権利を失ったのも、皆関係があるのです。どこの国も経済の成長は重要ですから必死に手を打っているのです。(中村政雄著・「原子力と環境」中公新書ラクレによる)

学生時代、「どじょう湯豆腐鍋」を作る方法を教えてもらったことがあります。先ず鍋にたっぷり水を張り、豆腐を1、2丁か人数分入れます。泥抜きにきれいな水に生かしておいたドジョウを一人当たり3,4匹入れて鍋を火にかけます。だんだん水が温かくなってくると、ドジョウはまだ冷たい豆腐に頭を突っ込み豆腐の中に逃げ込みます。湯が煮えてドジョウ入り湯豆腐が出来ます。これに似て、じわじわと迫る危機には目先の対処しか出来ないのです。ドジョウには他に回避の手段がないので可哀想ですが、国の危機では可哀想では済みません。

「この冬から石油ストーブ用灯油は配給制になります」とか、「電気・ガス暖房料金は3倍になりますから、節約してお使い下さい」という警告が張り出される日を想像します。チラシや資料を配布するコストも高騰してしまいますから張り紙か回覧板です。webに載せてありますといっても、パソコンを動かす電気代が掛かるので今のようには使えません。TVも電気代が掛かるのでウカウカ見ることが出来ません。自動車はガソリンが買えないので動きません。ガソリンを買う行列が続きます。それどころか、時間停電も予定されているのです。灯火管制下で布団をかぶって寝るのが一番という戦前・戦後の生活が蘇ります。

「来年の夏のために、冬の間に暑さをしのぐ方策を何か考えておこう。雨水を使った簡易クーラーだとか、自動車用バッテリーとダイナモ、または自転車ライト用小型発電機で扇風機が出来ないかなー。そうだ!マイカーは使えないから今のうちに自転車を出して整備しておこう。自転車を盗られないように少し高くても良い鍵を付けておかなくっちゃー。こんなことになるんだったら政府は何で早く言わなかったんだろー。そうか、原子力しか道がないと言ってくれていたらなあ。環境に悪いという理由で反対ばかりしてきた市民も市民だなあ。風力発電や水力発電では問題も多いし、量的に石油発電の代わりにならないし、絶対安全技術を磨いて、原子力発電を充実させるしか道はないと国民は早く悟るべきだったなあ!しばらく建設まで時間が掛かるから、それまで市民は我慢し原油は基幹産業の生産に回すしかないな。原子力が地球温暖化や燃料枯渇にも耐える半永久的なエネルギーだったなあ。今やっと分かった」などとスロウニンは独り言です。

地震国である日本は原子力発電基地建設にどの国よりも優れた技術を確保しなければならないだろうと思います。数年前東海村で起こったバケツを使った作業で臨海に達したという事故などはもっての外で、従業員を教育していなかったからというのも呆れます。事故が起こってからマニュアルがあるとかないとか、もですが、そんな劣悪なレベルの環境に国の浮沈を賭ける「国のかたち」が悲しいのです。

ともかく日本列島の下には、西に進む太平洋プレートと、北西に進むフィリッピンプレート、が海溝(トラフ)のところで沈み込んでいます。陸側のプレートも硬いものですからこんにゃくのようにニョロニョロしたものが沈み込むのと違って陸側のプレートが「めくりこむ」ように沈み込むために時折、溜まった ひずみ(歪)を放出します。これが地震ですから避けて通れないのです。自国もそうですが、東南アジア諸国のような地震国でもこの技術がきっと必要になります。日本はその国の原子力発電基地建設にも参加してあげなければならない日が必ず来るでしょう。

 このような世界的な普遍的な目で原子力発電を見直し育てていくことが、資源がない日本が生きる道だと、何も分からぬこのスロウニン爺でもスロウに信じるのです。みなさんはどうお思いですか?

写真 その1) あるスタンドのガソリン価格

   その2) 国際原油市場資料から(現在の価格はスケール・アウトの70ドルである)

   その3) 福島原子力発電所ホームページから

3/oct/2006

11.里山へのおもい

 最近、「里山」という言葉をよく聞きます。ところが、どんな所を「里山」というのか、私はよく知りませんでした。感じとしては、鄙びた田舎の山や森のことをいうのではないかと考えたのですが、子供の時分には里山という言葉がなかったような気がします。事実、「広辞苑」にも見当たりません。一般には「人の手が入らない山里の森や林」や「自然のままの林や森」くらいに扱われているようです。

俳優の柳生博さんがNHKのつどいで「里山」について講演しておられる録音を聞きました。茨城の田舎に育った柳生さんは、長じて山梨は八ヶ岳山麓に移り住み、「里山を取り戻す運動」を率先してやっておられるそうです。私も山育ちに近いのですが、近年いうところの「里山」とはどんな山なのか、柳生さんの話しで納得したのです。

柳生さんによると「里山」には、次の4条件があるそうです。1.人の手が入った森がある 2.生き物の住む小川がある 3.田んぼがある 4.人の住む家がある です。分かりやすく 説得力 のある定義です。 また「里山」は世界広し、といえども「世界に日本唯一」であると自信をもって言っておられます。

初めて聞く「里山」には、「自然の森」とは違ったイメージが現れます。「人の手が育てる里山」というイメージが理解できるようになりました。山の樹の下枝を払わないと良い木材が取れませんし、照葉樹などの森では間伐をしないと良い森になりません。小川は田んぼに水を配るため祖先が築いてきたシステムの一つですし、それらをうまく調和するように管理する人が住んでいるのです。そういう環境を「里山」と呼ぶのだそうです。確かに、そう言われればはっきりします。自然に見えながら、人の手が管理している場所なのだと教えられました。

思い出せば、40数年前、関東に就職し、結婚し、鎌倉の山崎や笛田に住んだとき、あの辺りはまさに里山でした。貯水池(田んぼに水を配るための)で魚を釣った思い出があります。

そこから洋光台に越してきたときも、山ばかりだった今の港南台との間の小川に沿った田園地帯(今の横横高速道路が出来る前の一帯)がそうでした。信じられないでしょうが、夏の夕方は蛍も沢山飛んでいました。  

 また、港南台の山手学院下のバス駐車場あたりに、子どもたちをつれて小川で鮒やザリガニ採りに行ったのです。どこも皆、その条件を備えていました。しかし、今となっては、あの里山は昔の姿に取り戻しようもありません。想像すればお分りでしょうが「里山を取り戻す」というのはずいぶん難しいことだと思います。

手元の「かながわ100選・私の散歩道」(上・中・下)(朝日新聞社)によりますと、私たちの周りにも多くの残したい場所があるようですが、里山といわれるところは段々少なくなりました。しかし、そういう目でまだ残っている地域または残せそうな地域を見直し育てていくのが次の世代への責任だと思いました。

話は昔に飛びますが、里山に関連して思い出すのは、私の高校の1年生から2年生にかけての祖母の壮烈な子宮ガン闘病の日々です。朝の田んぼの水回り(田に水がちゃんと満たされているかを見回る)や作業の祖母に弁当などを届けに行ったとき、祖母が他の畦に残した多量のチリ紙から「下り物」に困っているのを見つけたのをきっかけに、父母と相談の末無理やり医者の受診をさせ、子宮ガン、それも末期だと診断されました。そのころの田舎では、遠く博多の九州大学病院でしかガンの手術は出来ませんでしたし、末期では手の施しようもないと言われ、自宅療養を余儀なくされました。日に日に衰えていく祖母をなす術もなく見ているのは辛いことです。 そのうち、何か工夫をしなければ食が進まなくなり、決して贅沢ではなく、甘みのないラムネとか、冬場のスイカとか、いろいろな食べ物の注文が増え、やがて祖母が腰湯(大きいタライに薬草を煎じた湯を張り下半身を温める)を使いたがるようになりました。わたしたち兄弟は毎日、まさに「冬の里山」の小川に、湯に煎じる菖蒲の根や蓬などの薬草を採りに行きました。冬は地上部の葉が落ちているので、夏場にあった記憶を辿り、薬草のある場所を目星をつけるのです。長靴は小川の水で冷たいし、霙が顔に吹き付けるときなど、祖母がかわいそうで、兄弟の顔は涙か霙か分からないほどくしゃくしゃだったことを昨日のように思い出します。

今も、きっと同じような思いで、ご家族の看病・介護をなさっている方も大勢居られることでしょう。

医学の進歩が著しい最近では、ガンや脳卒中など、病気の治療では昔とは比べ物にはなりませんが、その分社会の高齢化も進み、「介護」という新しい社会の要請が増えてきました。
介護を受ける身に限りなく近くなった自分を含め、これにどう対応するかが、これからの私の問題でもあるのです。港南台の環境センター・プールでは沢山の老若男女が泳いだり水中歩行をしておられます。

足と手に麻痺が残る私でも、水の中では安全に(転ばないから)歩くことが出来ます。背泳ぎを試してみましたが、浮くには浮いていられるのですがバタ足が出来ないし、左肩だけではどうにも前進は無理のようです。

子どもの時、蛙の尻に麦わらを突っ込んで遊んだ「ワラしべ蛙」みたいなものだと自分で可笑しくなります。きっと、罰が当たったのだろうと。でも、スロウニン「浮くだけ良いさ!」と有難く思えば、ヘッチャラです。

聖書に私が好きな「耕すものは希望を持って耕し…・・」という言葉があるそうです。私はキリスト者ではありませんし、聖書を詳しく勉強もしているわけではありませんが、人間としてこの言葉に助けられています。

少しでも介護を受けなければならない日が遅くなるように、できればピンコロと逝くように、お願いをしながら感謝の日々を!です。

介護する側もされる側も、どうぞ希望と感謝を持ってお励みくださるようお祈りします。

スロウニンの片手の写真: @里山のイメージはあなたの心の中にあるものを

A観音崎の浜 B散り敷くきんもくせい C港南プール前のサルスベリ


2006/10/1

10.うまいもん

NHKはともかく、民放の特に夕方のTV番組には「露天温泉」と「うまいもん・料理」の番組がめちゃ多いのには驚きです。戦後の飢えを経験したわれわれの世代もこれらの番組が好きには好きだけれど、今の若者たちが寄せる関心とは違うのだろうなと想像します。

また、一方日本は今、全食品の40%を輸入に頼っていての「飽食」ですから、危なっかしさを感じないではいられません。何時食糧危機が来ないとも限らないのです。現に最近マグロなどを手始めに日本と韓国・中国など食生活が似かよっている国の間で食品の確保合戦が進んでいるといいます。今まで買わなかった国が、経済力をつけ嗜好も似てくるとなって、より高い値をつけなければ買えなくなるのです。人口は日本の約十倍近い中国ですから、中国が米などの輸入国になって日本でも主食の米でさえ手に入りにくくなる日が来ないとはいえません。大豆がすでにそうなっているようです。美味しいものを食い歩くのが持てはやされる時代は、もう過ぎようとしているのではないでしょうか。

わたしたちの世代は、学生時代に腹が減ってついに川の土手につないでいた先生のヤギを焼肉にして食った、という寮の伝説が十分に信じられ、自分たちもまた腹が減って悪いと知りながら夜中に寮を抜け出して近所の農家のトマトや大根やキュウリ畑の作物を失敬して腹の足しにした時代です。

敗戦後、2年間は国民学校と言った小学校時代から中学も高校もいつも腹が減っていた記憶があり、引き揚げてきた田舎でも米がなくて、さつま芋や、かぼちゃ、とうきび、など「代用食」といったものでもあれば良いほうでした。麦ばかりのお粥も食べました。「轟沈米」という戦争沈没船から回収した海に浸かっていて、煮ても煮えない“くさい米”も配給になりました。

今の子どもたちや孫たちは、この「代用食」がおやつとして大好きですが、われわれはこの歳になってやっと「代用食」という呪いから覚めたのだと感じるのです。だから、わたしは食べ物に好き嫌いはありません。食べるものがありさえすれば十分です。それでも、豪華なフランス料理や料亭の割烹料理も幾回となく食べて来られたのは神に感謝しなければなりません。

昔話はこの位にして、この頃歌の「キヨシ」くんが出てくるTV番組の「グッチ」さんのファースト風スロウ料理(変な言い方だけれど、簡単に見えて手の込んだ、の意)に触発された料理の話をしましょう。

年をとると朝が早くなるとよく言います。わたしも例外ではなく、病気で少し身体が不自由になったお蔭でよく昼寝をするし、時々はラジオ深夜便という朝五時までの深夜番組を聞くことが多いので、早朝からお腹が空きます。それでなくても、勝手気ままに寝たり起きたりしている自分に、早朝の飯を妻に準備してもらうには気が引けます。それで冷蔵庫の有り合わせで朝飯を作ることがあります。何時もはご飯に血液サラサラの納豆が定番ですが、その日はご飯が150gのお握りにして冷凍庫に保存してあり、解凍しなければ調理できません。150gというのはわたしにとっては最適なカロリーの1食・米量です。

その他、6枚切りのパンと妻が猫の額のような庭で作った大小のトマトがありました。わたしの右手は後遺症の麻痺で包丁を持つのは(持たせるのは、と言った方がいい)覚束ないのですが、リハビリになるので、滑って手を切らないようにトマトをスライスしてパンの上に並べます。有り合せのマヨネーズをかけて、トースターで4、5分焼きます。サンドイッチにすれば良いのですが、トマトとマヨネーズは焼くことによって抜群に美味しくなるのです。それと、トマトはマヨネーズのお酢の酸味に味が良く合います。だから焼いた後もう一枚ではさんでも良いでしょう。口の周りをマヨネーズだらけにしながら、熱いトマトの乗ったパンをフウフウ言って食べるのは至福のときです。マクドナルドのビック・マック顔負けの自信作です。

これに味をしめて、更にレパートリーを増やしました。マヨネーズがないときにはケチャップとソースを適量混ぜたものをトマトの上において焼いてもいけることが分かりました。生ハムやハム・ソーセージがあっても良いのですが、トマトは必須です。イタリア料理がトマトを多用する理由がやっと分かったのです。

それから、カレーの残りとトマトで、トマト入りカレーうどんを作りました。これも、実に美味しい。ケチャップ、ソースを少し隠し味にすると最高です。焼きそば、焼きうどんにキャベツやモヤシの他にトマトを加えると美味しくなることも分かりました。果てはすき焼きや好きなうどんバライエティに庭で取れるトマトを積極的に入れてみます。

毎日たくさん採れるミニ・トマトを写真のように串団子風にしてトースターで5分も焼くと、素敵なトマトの串焼きになります。マヨネーズ、バター、ケチャップ、などお好きなものをつけても楽しめます。

焼いたり煮たりするトマトがこんなに美味しいとは今の今まで知らなんだ、とびっくりです。有り難いことに、今年は庭のミニ・トマトやモモタロウ・トマトが豊作です。

今は2児の母になった娘が高校生だった頃、母親(わたしの妻)が栄養士として病院務めをしていたので、私は土曜日で休みということを利用して、帰ってくる娘のためにスパゲッティを作って待っていたこと思い出します。ホール・トマトの缶詰を開けてケチャップとで作るナポリタン・スパゲッティで分かっていたはずのトマトの美味しさも、缶詰を使ったために気がつかなかったのです。カルボナーラやミートソースやペペロンチーノなど、一応は全部作っているのに、生のトマトをトマトらしく使っていなかったことに気がついたお粗末さ、今度是非娘に食べさせて感想を聞きたいものです。妻はわたしの料理は大半「ゲテモノ」だと思っている節があるので評価は期待できないのです。「まっ、いいか!」とつぶやきながら、トマトが採れなくなるまでの間は「トマト・トースト」にはまっていようと思うこの頃です。簡単ですから是非試して御覧なさい。

写真は(その1)ある日のトマト・トースト(2人分)

(その2)トマト串焼き

(その3)トマト入りカレーうどん

2006/9/13

9.しらひわけ

 何時だったか、駅前の古本露店で「画家の後裔」という文庫本に出会ったことがあります。読んでみると、皆さんがご存知かどうか、福田蘭童、石橋エータロー親子が父祖の画家青木繁を書いた文庫本でした。
あのころは、仕事も現役を離れ閑職にあったから早々に会社を出て、まだ明るい夕方の街の様子を愉しく眺め始めた頃でしたから、スーパーの前で時々やっている古本屋で偶々赤地の背表紙の上部少しだけ白抜きになったところに「青木繁」と書いた薄い本が目に止まったのでした。
このときの数年前、友人と渋谷で飲んだ折、渋谷にあった料理屋「三漁洞」に連れて行ってもらったことがありました。藍を基調にしてヒラメをデザインしたろうけつ染めの額や、藍染の暖簾などが随所にかかっていて、料理も酒も一味垢抜けた店でした。なんでもクレージー・キャッツの石橋エータローの店だとのことで、グルメの友人は常連だったのです。

青木繁はご存知だと思いますが、福田蘭童は私たちの世代の人には、かってのラジオドラマ「笛吹き童子」の音楽“〜ピラーリピラリヒャ、ピラーリピラリヒャ、だれーが吹くのか♪”のテーマ曲の作曲で思い起こす人も多いだろうと思います。石橋エータローは上に書いたように、クレージー・キャッツで活躍した才能豊かな人だったのですが、残念ながらそんなことがあって程なく早世されました。

「君は学校が九州だったよね。青木繁って画家知ってる?石橋エータローはお孫さんだそうだよ」
初耳なので驚くわたしに友人は更に言いました。「福田蘭童は青木繁の息子だよ」
蘭童さんが青木繁のお子さんであるとは聞いたことがありました。大学生の頃、豊後森出身の同級生から聞いたのですが、その同級生は蘭童さんとは遠戚に当たるそうです。
友人はさらに続けました。
「この詩は青木繁のだそうだが、この(白日別)ってのが判らないんだ。九州ではこの言葉判るのかな?」
暖簾に藍で染め分けられたその詩は、

わが国は筑紫の国や白日別
母います国櫨多き国

結局そのときは判らず仕舞いで、「宿題にしよう」と約束したのですが、それ以来何度か調べたものの判らず、そのままの宿題のままだったのです。
そこで、この文庫本に何かヒントがこの本にあるのではないかと、一気に読み通しました。本の中には、この詩が三度ばかり出てくるのですがが、読み方は判っただけで意味はわからぬまま。(しらひわけ)と読むらしく、九州・大宰府の奥、高良山(こうらさん)の近くの山に詩の石碑も建てられているらしいことも判りました。高良山には大学山岳部の合宿で自分も登ったことがありました。

繁の同郷の友人北原白秋は子どものとき夏の白昼、日傘の母に捨てられたという強烈な悲しい経験からか「白」という言葉を多用していると思い、白秋全集を繰って似たような言葉を捜したが見つかりません。確かに白日、や白という言葉は多いのですが。「白日(はくじつ)の別れ」というのがあるがこのことだろうか?と思ったりしました。
白秋と違って青木繁が母の下を去ったのは十五夜の夜だったとあるから印象は違いますし、繁が泣く泣く妻子を捨てたたとあり、あるいは妻子の身になっての表現かと考えるのは思い過ごしでしょう。あるいは「百日紅」のように植物名かとも思ってもみましたが「広辞苑」や「大辞林」には無いようです。

また、くだんの店の名「三漁洞」のいわれはエータロー氏が尋ね当てた父蘭童さんの家の木札に「三漁庵」とあったことを知り思い当たりました。
こんなことがあってから何年か経って、会社にも行かなくなり、近くの高校の先生の情報(IT)のお手伝いをするようになったある日の昼休み、国語の澤田先生と雑談していたときに急に思い出して、この詩の話をしました。理科系のわたしと違って、博識の先生から程なく手紙を戴いたのです。

先生の手紙で「白日別」は日本書紀にも書かれているヤマトの国の「国造り」に関わる言葉だと原文を引いて懇切に教えていただきました。早速友人にもそれを送って、宿題は見事解決です。無知だったのは自分たちで、国造りのころから、「白日別」は筑紫の国の呼び名だったのです。

あらためて最近のインターネットで調べてみると、「イザナキ、イザナミ の結婚により、大八島を構成する島々を生み出していった。そこで何番目かに産まれた島に 筑紫島(つくしのしま):九州 があり、胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は、・白日別(しらひわけ): 筑紫国 ・豊日別(とよひわけ): 豊国 ・建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国 ・建日別(たけひわけ):熊曽国 」(前略、後略)

 解決までずいぶん時間が経ちました。でもあれやこれや想像して、時間を置いて調べていく過程も面白かったし、ついでにいろいろなことも知ったし、先生に教えてもらったこともまた思い出であるというおまけがついたのです。病後2年も経って、ふと この青木繁の詩

わが国は筑紫の国や白日別 母います国櫨多き国」

と口ずさむと、天孫降臨から続く母なる国への想いが伝わってくるようですし、宗教的な思いではなく、「懐かしい」感覚、関わる人たちの「母なる乳房」への回帰であろうか、人の運命(さだめ)も語られるような不思議な感慨が沸きます。
今ではGOOGLE検索で、すぐに答えが返って来ますから、このようなスロウな愉しみも少なくなりました。早く知りたいこと、ゆっくりスロウになるべく自力で調べること、を直感的に仕分けることもまたインターネット時代の知恵では無いだろうか?とうそぶいています。

掲載絵:webから(天瓊「ケイ=美しい玉」を以て滄海を探るの図・小林永濯・画、明治時代) 子どもの頃、この絵を教科書で見たことがある。懐かしい。

(つづく)


006/9/06

8.ブナの森のように

 私のような田舎育ちには、身に染み付いた故郷(ふるさと)があります。しかし、厳密に言うと、生まれたところは、今は他国になった朝鮮・京城府ですから、私のふるさとは京城ですが、国民学校(今の小学校)3年生のとき戦争に負けて、それまで植民地だった台湾や朝鮮に住んでいた日本人は早い話、難民になって本国日本(これを内地といいます)に逃げてきた(これを引き揚げといいます)のです。私たちを育ててくれた親たちの塗炭の苦しみは想像を絶します。

日本人には、良いとも悪いとも言える「言葉で誤魔化す」癖があると思います。「敗戦」を「終戦」と言い、「敗戦記念日」と言わず、長い間「終戦記念日」と言ってきました。 それによって、自らの敗戦とその責任をあいまいにしてきたのではないかと思います。「難民」を「引揚者」と言うのもその例です。戦争の犠牲者である難民は、今世界中に沢山います。その悲惨な状況が報道されますが、引揚者と言うことによって、あたかも「好きで自発的に引き揚げてきた」というニュアンスの状況に転化して自分の責任を誤魔化してきたのです。「検討する」「真摯に受け止める」などなど、言葉だけを示す言葉の多さ。

ところで、私はここのところ、大変横浜のバスのお世話になっています。市営バスをはじめ、江ノ電、京急、神奈川中央、などさまざまです。田舎育ちで歩いてばかりいた子ども時代から、大学を出て関東に就職するまで、自分たちが自家用車を持つ時代が来ようとは思っていなかった。会社に入ると同時に東横線・日吉の寮に入り、結婚して鎌倉の民間アパートに住み、子どもが出来ると鎌倉市営住宅に住まわせてもらうなど、あちらこちらで社会のお世話になってきました。幸い、縁があって今のところに住んでいますが、子どもが出来てからずっと自家用車に頼ってきました。スバル360という可愛い中古の軽自動車に始まり、サニーやスタンザ、コロナ、セレナ、オッデセイなどを乗り継いできました。しかし、この病気になって後遺障害が残り、運転免許は旋回装置つき(ハンドルに回転ノブを付ける)の限定免許に更新したものの息子を始め家族は折角買っておいた回転ノブを隠して、私に運転させまいとしていることは明らかです。私のために気遣ってくれているのです。私は私で、あれほどの車気ちがいがすっかり冷めて、障害者バス割引の特典に十分満足しています。皆さんに「ありがとう」を感じながら。

都会では、バスや電車はとても便利に運用されています。関係のあるバス路線の時刻表を、インターネットで調べたり、バス停で時刻表の写真を撮ったり、メモしたりしてデータを溜めて自在に動き回ることが出来、しかも自家用車と違い駐車の心配もないのです。なおありがたいことに年寄りには有料無料の状況に応じた特典があります。社会に感謝しなければなりません。

ところが、先日ふるさとの山口県油谷の小さい町に行きました。豊かな自然に恵まれたこの町は、昔は少なくとも1時間に1本はバスが通っていたのに、今は時折住人の軽自動車が走る他は、交通がほとんどありません。昔の国鉄、今はJRの駅に行ってみると、駅は無人になり、列車時間表には朝の時間帯と夕方と数えるほどのディーゼル車が申し訳ほど走るだけのサービスです。これでは、車を運転しないお年寄りは病院にも行けず、買い物にも行けず、誰かの世話にならない限り手も足もでません。田や畑も家も庭も果樹園も、溢れるほどの恵みが転がっているのに、これを愉しむ術が基本から失われているのです。都会には老人が溢れ、若い人の多くはこれら老人の面倒を見ることを仕事にしているのが現状です。 田舎の豊かな自然の富を有効利用出来ないで、都会の生産活動を縮小せざるを得ない、賃金の安い外国人を雇う、こんなことが日本で起こっているのです。元はと言えば、田舎を捨てたも同然、都会に「出稼ぎ」に出た私たちのせいだと、どうしようもない悔恨に襲われます。それでも、今になって田舎に戻り田舎の生活を以前の活気ある姿にして行こうと思っても、新幹線の駅や飛行場まで行っても、レンタカーでも使わない限り、その先自分で行ける交通手段も無くなってしまっているのです。後先を考えない効率主義が、田舎の恵みを破壊しつくしたのです。列車が無くとも車で来れば良いという発想が、車でなければ来れないという場所を生みました。

丁度ブナの森が雨を蓄え、徐々に蓄えた水の恵みを時間をかけて下流に放出するように、田舎は日本全体の豊かなブナの森として、育まれ豊かにしておく視点が必要だったと反省が求められています。豊かな田舎があってこその日本の繁栄があるのだと思います。イギリスの田舎のように、豊かな人が住める田園が週末の都会人を癒すような奥深い包容力がある社会にしたいものです。「帰りなんいざ田園へ!」は何時の時代だったか?都会人のキャンペーンだったのです。 週末には田舎で過ごすような社会が実現すれば、田舎は活気が出るでしょう。私は国鉄が本当の意味の合理化をしないでJRになった弊害が田舎の荒廃に繋がったと考えます。郵政も民営化によってきっと国鉄の二の舞を踏むでしょう。国営が悪いのではなく、国営をよいことに無駄金を食い物にしてきた輩が田舎の交通手段をなくしたのです。健全な田舎が残っていれば、もし日本のどこかに天変地異で難民が発生しても、潜在力がまだ消えていない、包容力がある田舎がこれの受け入れの場所になるでしょう。敗戦のときがそうだったのです。今だったら、難民がいても、PLOやボランティアを組織でもしない限り国民の多くは「それは国の仕事だ」と言って逃げ、受け止められないのです。 これからの日本に難民が生じないという補償はありません。工業製品の世界でもコンピュータ・ソフトの世界でも、雇用は世界的競争の世界になりつつあり、優秀なガッツがある外国の若者が増え、日本の若者の多くは難民化しつつあると見たほうが良いのではないでしょうか。

老いた障害者になった私でも田舎に見果てぬ夢を持っている一人です。 新しい社会を構築するのだという覚悟を持つ人を増やさなければと思う反面、そういう人の活動を種にピンはねをすることを狙っている人が多い今の日本には失望も隠せません。 

私のスロウ・ライフは、出来もしない私めに時折こんな難題を持ちかけます。若者よ、世界遺産を見るツアーに参加するだけではなく、自分たちの田舎に関心を持って欲しい、保水力のあるブナの木の森のように田舎を護っていって欲しいと。 油谷は、風車発電と太陽熱エネルギー発電を基本とする自然とエネルギー工業の融和の立地の中で人々がバスや列車で行き交っている活気ある田舎、そんな見果てぬ夢を見ています。

2006-8-22

7.ジジ・ババの冷や水

 洋光台の1〜6丁目の新しい町が開発された今から30〜40年前、一頃はベビー・ブームというか大勢の子どもが町で目に付いた時期があります。働き盛りの比較的若い世代が引っ越してきたからです。

幼稚園や小学校が相次いで生まれ、中学校も新設されました。正確には分かりませんが学級数もどんどん増加したように思います。その頃の親であった私たち世代は、2世帯つまり自分たちの親が同居している家庭は稀でした。中でも高層住宅の家庭は、その性格上2世帯で住むには多少無理があるのか、当時も今も変わらないと思いますが、分譲個建ての家庭でも親子世代だけの家庭が多かったように記憶します。

幼稚園も小学校も親の参加はともかく、「ジジ・ババ席」すなわち敬老席を設けるということは少なかったようです。勿論盆踊りでもお年寄りの姿は少なかった。従来からの地元、田中や笹下の家庭が併合されている一丁目はまだ多い方でした。

 それから何年かして、子供たちが大きくなり大学や就職で家を離れるようになり、町は子どもの数がどんどん減少し、ひところ 盆踊りも中・老人ばかり目立つようになりました。

ところが、いろいろの出来事を経て自分たちの子育てがアッという間に終わり、我に返って辺りを見直してみると、嬉しいことに子どもの数がずいぶん増えたような気がします。朝の通学時間帯、盆踊りなどで顕著になりました。個建て住宅が多い町内で盛んに改築・増築が目立ってきた結果、祖父母(ジジ・ババ)、両親、子供が構成する2世帯家庭が増えてきたのです。この場合、昔と違って今の大抵の2世帯住宅では、基本の生活様式は1世帯いわゆる核家族ですから、ジジ・ババと一緒にご飯を食べ、風呂に入るなど、いわゆる「角突き合せて」の生活場面は少ないのですが、それでもお互い「気兼ね」「トラブル」などが無いわけでは無いと思います。特に、都市部では核家族中心に住める住環境が得られないための2世帯住宅が多いのですから、「仕方ない」というネガティブ気分は否定できないのです。社会の高齢化が叫ばれ、老人福祉だの、介護だの、ケア・プランなどの重い話題を聞かない日は無いのですから、「お嫁さん」に当たる主婦へ与える不安は、われわれ年寄りの側から見ても大変なものがあるように感じます。

(夫や子どもを愛し、家庭を護るのに一生懸命なのに、自分の親ならともかく、夫のジジ・ババの面倒を見るのはごめんだわ)と内心穏やかで無いはずです。そして(子どもの世話を手伝ってもらったり、日ごろの挨拶をしたり、子どもをしょっちゅう出入りさせたり、おすそ分けをし合ったり、日ごろ親しくし過ぎると借りが出来て、先々面倒を診る羽目になるのでは)という気分もするし、普通の核家族の家庭を持つ友だちなどとの会話でも「大変ね。お気の毒に」などと慰められたりすると余計に不安がつのるのでしょう。

これらの事情は、自分たち世代ですら、すでに経験し悩んだ人も多く、よく分かります。そう思うと年寄りは年寄りで、息子やそのお嫁さんが可哀想で仕方ありません。

人は必ず死ぬのですから、遠くにいても近くにいても、最後はいずれ誰かの世話になるでしょうが、それを身近にいる息子やお嫁さんだけに頼っているわけではありません。しかし「お前たちの介護の世話にはならない」と宣言する勇気もありません。

これに関連して、例えば「向う世間は鬼ばかり」というTV番組があります。あのドラマの話題の多くは、家庭のトラブルを多角的に、反面教師的にいやと言うほど描いて見せて、暗然とした気分にさせ、嫁さんを教育するどころか、ネガティブな面だけを啓蒙するように思えます。トラブルを掘り出して、1回だけで解決するならともかく、連続ドラマで延々と続くのは、例えそれがドラマの「手法」ではあったとしてもポジティブには感じません。もっと単純に、明るく、ポジティブに、ドラマを面白くする手腕が無いのでしょうか?

私たち世代は、幼少から日本の敗戦、引き揚げ難民、親子・祖父母とも親戚に世話になり、学校時代に何軒かの下宿家庭(下宿屋でない)の人たちも観察し、自分たちや嫁さんの親と同居して来た経験がある人が多いので、他の世代以上に周りの人の「目をうかがう」気持ちや「気兼ね」を気づかずにはいられないのです。ジジ・ババにも2世帯住宅が理想的だとは思えないことも確かですし、自分たちで生きることが出来る限り、年金、介護保険等の社会保障に頼っていこうと思っているのです。精神的にも、決して子どもたちに頼ってはいないのです。

むしろ、大抵のジジ・ババの夢は健全な孫たちの成長に寄与することだろうと思います。お互い少しの気配りで「子どもたち(孫たち)」を、学校生活の「イジメ」などに関係のない、素直で優しい子どもに育てることが出来ると思います。父親や母親が忙しくて遊んでやれない、勉強を見てやれない時など、積極的に善意に満ちた話し相手になることに生きがいを感じているのです。一国の文化の程度は、国民が「どのくらい他人を思いやれるか、他人をゆるせるか」という優しさの素質を持っているかで計れると言います。2世帯住宅の子どもたちにとっては、身近に「他人の始まりであるジジ・ババ」という有効な教材があるのだと思ってやれば良いのです。例えば一家が外出から帰ってきたとき、子どもたちが留守番のジジ・ババに「ただいま!」と明るく声をかけたとしたとき、「子どもたちが挨拶したから私はいいや」と黙っているのではなく、自分も「ただいま帰りました」と一言添えることが出来ればなんと素敵なことでしょう。ジジ・ババは、親の挨拶が欲しいというより、子どもたちが父親・母親のこの一言でどれだけ社会に向け優しく大きく生長するかということを思っているのです。子どもたちは、こんな親の姿を素晴らしいと見ているのです。子どもは親が思っている以上に敏感に大人たちの行動を見ているものです。「子連れ狼」の大五郎のように、基本の正義は直感的に察しているものです。「未成年だから判断能力が無い」というのは、一種の止むを得ない大人の方便だと思います。また、そういう風に子どもを教えてはいけないのです。子どもは自分の私物だけではありません。自分を超えていく存在なのですから。

あなた方が、そのことに本当に気付くのは、あなた方が自分たちの孫の顔を見る頃でしょう。「種は発生を繰り返す」とはダーウインが唱えた(人間も赤ちゃんは、お腹の中で、卵の発生からの長い人間進化の過程を胎内にいるときに繰り返して生まれる)という説です。人間、生まれてからも基本的には、それに当てはまらないわけはないと思うのです。

いやー、いけませんなあ! 大分スロウ度が上がってきましたなあ! 歳に免じて、お許しの程。

(つづく)

2006-8-12

6.ナスと キュウリと トマト 

 どこにでも転がっていそうで、無いと決まらないのがナスとキュウリとトマト。今は亡き親父が最も好んだのが、“ナスの塩もみ”だった。大でも小でも、適当なナスを採ってきて(戦後、国民学校3年生のとき朝鮮から引き揚げてから、中学生になる春に両親が買った中古の家には、十分な野菜がとれる畑が付いていた)包丁で軽く、まだらの筋状に皮をむき(半分くらい皮を残して)、5ミリ程度にどんどん輪切りにする。これを山盛りボウルに入れて、塩を振りかけて手揉みにする。その頃は、それまで住まわせて貰っていた河口の母の実家の近くにも塩田があったし、日本各地にも残っていたから、塩は天然の苦味のある塩だった。今も家では、塩がポイントの料理には、近所の店“バーキング・カフェ”が扱う小笠原の手製塩か、インドの岩塩を愛用する。「藻塩焼く」という古くの日本の伝統的な塩にまつわる言葉があるが、忘れたくない。

揉んでいるとナスから褐色のアクを含んだ水分が出てくる。十分に水気を出し切るように絞る。このまま食べても良いし、軽く水洗いして絞ってもよい。これが親父の大好物であった。だからというか、もちろん自分にも大好物である。適度に残した皮の感触と、さっぱりとした塩味が何とも言えず美味しい。どんなご馳走にも勝って、他の何ものも要らない。キュウリを使っても同様だが、自分はナスの方が好きだ。アクが残っているような大人の感触が何ともいえない。

4年ほど前だったか ひいきにしていた航空会社の旅行クラブの企画で「観光地に行かない旅」といった趣の格安ツアーに飛びついた。高知空港に着くと、一行はチャーターバスに乗り、高知の市内には寄らず、一目散に東に走る。もうすぐ開通という“高知くろしお鉄道”?だったか、の見学や、岩崎弥太郎生家だとか中岡慎太郎生家に寄った以外は、土地の“ゆずの里”や日本一の“ナスの里”などの協同組合を見学した。ここで、関東にも出回っている“高知のナス”を知ったことが思い出される。その規模たるや半端じゃない!ナスの大工場の呈である。

室戸岬では弘法大師ゆかりの最前崎寺(ほつみさきじ)に寄り、明けの明星に悟ったという岬の洞窟に入った。室戸岬の漁港では定置網の現場まで、特別仕立ての漁船に乗って見学した。超スピードで網の中を逃げ惑う走りのカツオが、網が絞られてきて、行方をさえぎられて止まると、瞬間、命が絶えるという現場を見て自然の凄さを実感した。カツオは動きが止まると即死だそうだ。カツオが潔く呼ばれるのはこんなところから来るのだろうと、すっかりカツオが好きになった。漁港に戻って婦人会の提供になる本場のタタキを戴いたのも感激。おまけに室戸沖の海洋深層水をくみ上げているという現場も見学しあらためてその威力を知った。

宿泊は協同組合の研修所らしかったが、仲間が出来楽しく過ごせた。中に、以前入魂にしていただいていた方が母堂の看護のため広島の郷里に引き揚げる際、お宅を譲り受けたというご夫妻を偶然知り合うことができた。後にも先にも、このようなユニークな温かみのあるツアーは無い。農協旅行に始まり、今やツアーばやりだが、上っ面だけの「見る買うツアー」では得られない旅行を目指したいものだ。

ナスの話から思わず室戸岬に飛んだが、先日、母の二十五年法事に帰省して、ついでに山口県の長門湯本温泉泊まった。 幼い頃からよく来た温泉だが、泊まるのは初めてである。懐かしい湯町の公衆浴場は「恩湯」といって仙人のお告げにより住吉さまが与えてくださったという。ホテルにも温泉はあるが、懐かしいこの温泉に入って帰る夕刻、家内のジンは町の八百屋さんで見事なナスが驚くほど安いのを見つけた。大きい箱の半箱なら売るが、小分けはしないそうである。一箱600円、半端な量では無いそうで、ジンは他の野菜も選んで宅急便に仕立てた。子どもの時馴染んだ長州ナスが、送料と同じくらいで格安というのだから気が乗ったのだろう、うちは野菜だらけ・だらけ である。早朝、ホテルの7階の部屋から、その八百屋さんの店先を見下ろすと、午前4時半にすでに店は開いており、入荷の中トラックが集まっている。この湯町の旅館やホテルの食材を供給しているのだろう。「だらけ・だらけ」は小さい方の孫娘が発明した「たくさんある」時の言葉である。

そのときはナスの塩揉みを堪能したし、ナス料理オンパレードだった。わが家の「家庭菜園」にはトマト、キュウリは十分にあるが、ナスは植えていない。案外ナスは難しいし、例年、苗を買って作るより安く手に入る。ましてや室戸のナスを見学して、愛着が沸いたのである。

塩揉みのほかは、北海道での自炊で覚えた電子レンジを使っての焼きナスも素晴らしい。 冷やして食すると、恵庭の居酒屋“惚れ太郎”を思い出す。安くて、店の連中が若くて、親切で、自分たちの起業に一生懸命だった。毎夜夕飯に通った。 北の「しめ鯖」、「海鮮ポテトサラダ」、「オホーツクのホッケ焼き」、「惚れ太郎焼き鳥」などなど、思い出すたびにもう一度行ってみたいと思う。

今回のナス騒ぎで、わが家にとっては新しいレシピが出来た。「ナスの芥子漬け」を作って差し上げた近所の方が教えてくださった。出来上がった様子だけで言うと、「ナスとキュウリのぶつきり冷せい」である。ナスとキュウリを冷製にし、酢とオリーブオイルでの味つけが効いていて、美味しい。

 身体は不自由で立っているのも辛く、座るのも不自由で、仕方なく横になる。勢い、早く寝るから朝は早く目覚め、腹が減る。リハビリにと、庭で採れるトマトを、麻痺した右手に包丁を持たせ、手を切らぬように注意して、どうにか薄い輪切りにする。それを6枚切り食パンに並べる。ハムがあればハムを、ソーセージなら半分にしてその上に並べる。マヨネーズをかけてトースターで3,4分焼く。サンドイッチにしないから多少食べにくいが、最高に美味しい。トマトの酸味は焼くことで光る。マヨネーズが酸味と調和して絶妙。思わずコーヒーを淹れる。洋光台のバーキング・カフェのコーヒーがわが家のコーヒーである。 今日も生かして貰い、美味しい食べ物にありつける幸せをあらためて感じる。 

「箸取らば 天地御世(あまつちみよ)の恩恵み 祖先や親の恩を忘るな。 戴きまーす」 五,六十年前の食前の「オマジナイ」である。

 

写真1は長門湯本の白木屋グランドホテル7Fの部屋から見た早朝の八百屋さん(白い看板の店)と河岸の足湯

写真2は室戸の明星岬(弘法大師が洞窟に篭って明けの明星が口の中に飛び込み身体を貫いたという体験をして悟ったといわれる。洞窟前の岬のスケッチ。)

写真3はナスとミニ・トマトの甘酢冷せい

(つづく) 


2006/8/10 エマノン

5.タイのタイ、イサキのイサキ

飛びぬけた お魚が 好きな親友がいます。 食べるのも大好き、釣るのも大好きです。 博多に「くえ」(幻の魚といわれるアンコウに似た魚)が取れたと聞くと飛行機か新幹線に飛び乗って博多に「くえの煮つけ」を味わいに行きます。 90歳を越してお元気だった大阪在の父上の存命中は お父上をご一緒するために、新幹線に乗って大阪経由でした。 大分の 関サバ、関アジは自分で釣ったり 刺身を堪能したり します。 「秋サケ」のシーズンには 知床に飛びますし、「桜鯛」(櫻の頃の御前崎のタイ)を追って静岡の御前崎に行きます。 今年などは 旅先のシチリア島から 御前崎に直行したくらいです。 日本中はおろか、世界中に出かけるのです。 ニュージーランドの トロールに出かける、カルフォーニアに釣行する、という具合です。 釣果は 航空便で行きつけの料理屋や自宅や友人宅などに航空便や宅急便で送ります。 度肝を抜くような大きい釣果も稀ではありません。 丸で開高健さんの「オーパイ」さながらです。 いや、それ以上かもしれません。

「タイのタイ」、「イサキのイサキ」という言葉を知っていますか? 私には、彼が教えてくれたのです。 私は山陰育ちですから、魚を食べるのが好きです。 とくに、山陰には刺身より魚の「粗」の方を好む人が多いのです。 今は亡き母などは兄弟が帰省すると、ブリの粗、鯛の粗、などなどを必ず用意してくれたものです。 関西人も 一般には同様のようです。私も住んだことがある北海道では、大体軟骨系の大きい魚が多いこともあり、豪快でまるまんま食べるので魚の食し方も見事です。 サケのチャンチャン焼き、ホッケの丸焼き、ニシンの丸焼き、小さくもコマイの丸干し、などが思い出されます。 健康的な魚好きの子を育てるには、小さいときからまるままの魚を食する癖をつけることです。 父親や母親が、魚の骨を毛嫌いするようでは、いけません。 彼は可愛い一人娘のお嬢さんを、「魚好き」に育てるために、一計を案じたそうです。 これがまた素晴らしい。

どんなお魚にも、「頬」に当たるところに、写真にあるような、魚の形をした骨があります。 カレイ、ヒラメの類は、頭が左右対称ではないので、どんな形なのかは分からないのですが、一匹に2個あるこの骨は、大体その大きさは、魚の全身の大きさに比例しているようですから、釣果の記念にもなります。 タイのこの骨を「タイのタイ」と呼びイサキのこの骨を「イサキのイサキ」と呼ぶそうです。 彼はお嬢さんに魚をなるべく全身か、お頭を食べるように仕向けました。 そして、食べるときに、この骨を探すのが楽しいことを教えたのです。 今は都内の有名病院の管理栄養士として働きスポーツでは社会人フィギュアー・スケートで活躍する お嬢さんの小学時代のノートが、その効果を物語っていて、素晴らしいことだと思います。 魚の名前も同時に覚えるのです。 このごろの都会の子や、若いお母さんは、骨が多い魚を敬遠し、骨付き魚を食べる親でも、子どもには、骨を取ってやるという人が多いようです。 魚の一番美味しくて、栄養が富んでいて、お刺身部分より値段が安い、という 願ったり 叶ったりの部分を好きにさせない、食べない教育をしているようなものです。

 そういえば、30数年以上も前、洋光台に越してきたとき、商店街の魚屋に「肝付きアンコウ」の大盛りザルが、買う人がないと見え只同然で売られていて、ビックリしたことがあります。 それで結構鮟鱇鍋を堪能した頃がありますがきっと若い人の家庭が多く、食べ方が分からなかったのでしょう。 ついこの間まで、わが家の大好きな駅前の魚屋さんの「粗」が、割合安く買えましたが、このごろ、ファンが増えたらしく、徐々に手に入りにくくなってきました。 ここの「粗」は、頭の部分でもちゃんと丁寧にうろこが落としてあるから、流石魚好きの心が分かっているなと感心します。 日本人は、これからも魚中心の食生活で健康な身体を作らないといけませんから、是非子どもに骨付きの魚を食べる技術を教えておくのが、親の子への贈り物でしょう。 骨付きの魚を美味しそうに食べる女性を見ると、きっと健康なお子さんをお持ちだろうな、と思いますし、骨があると魚に手をつけない男性を見ると、ああ虚弱児童だなと思ってしまいます。 

春先、彼が釣った大きな桜鯛とイサキが 御前崎から届きました。 自分は病気になって悲しいかな片麻痺の身、大きい鯛を捌くことは出来なくなったので、家内が見よう見まねで捌きます。 大分堂に入ってきました。 丸侭の鯛は古くから神棚のお供えの最たるものです。 冬はタラの粗の煮付け、春は櫻鯛や天然鯛、ヒラメの粗の煮付けや澄まし汁、こんなご馳走は最高です。 昔から、魚は丸ごと買うのが常識でしたよ。 私は まるままは買えないときは 優先するのは粗です。 スロウ生活の基本でした。 

写真は: 御前崎から直送の桜鯛とイサキ。 タイのタイ。 幼少のころのお嬢さんのタイのタイの写生。 

(つづく)





2006/7/20 エマノン

4.天の恵み マヒ、アシタバ、や フキ

不幸中の幸い、脳の梗塞した場所が前頭葉でなかったようなので、言語、記憶については、もともとの自分の「脳足りん」のまま、残ってくれたのですが、指の先端のしびれ、指の曲がり、親指人差し指でさえ指折り数える動作も出来ない、洗面台で手を洗うにも左手では水はすくえない、石鹸も使えない、足は、約1ヶ月で杖を突いて立てるようにはなったものの、歩こうとすると、ビッコで右足側に倒れそう など、「五体不満足」だらけでした。 それが満2年経った今、指の曲がりやしびれは、すこしは改善し、肩の痛みは取れましたし、階段を下りるときの不安は、手摺さえあれば感じなくなりました。 歩きも杖さえあれば、遅いながらも2kmくらいは平気で歩けます。 血管が詰まったところが、呼吸中枢があるという脳幹に近いので、あるいは命と引き換えに麻痺を貰ったような気がし、考えようによっては、天からの授かりものと思って感謝しなければならないことかもしれません。 ありがとうと言いたくなります。 ただし、自分はそれで折り合いが付きますが、周りの人には負担が増え 迷惑をかけます。 病院は完全介護ではあるけれど日参する家内も大変です。 家族や兄弟や友人たちも、心配してお見舞いに来てくれるし、遠くからはお見舞いの手紙を貰います。 感謝しなければ罰が当たります。

 入院中読んだ雑誌で、偶然、有名なピアニスト舘野 泉さんが、私の発病2年前、北欧の演奏会のステージで倒れられたと知りビックリしました。 私と同い年の舘野さんとは、数年前に北海道恵庭市で、地元の有志主宰のコンサートでの司会に私が狩り出され、一夜楽屋で過ごした思い出があります。 JALのPR誌で健康な舘野さんのご様子を伺ったりしていたので、まさか!と信じられませんでした。 ピアニストの右麻痺は致命的だと思いましたが、自分が退院してからインターネットであれこれ調べてみると、今、両手でピアノをというのでなく、左手の音楽の喜びを研究されているところで、きっと新しい舘野泉になってカムバックをなさるであろう、との情報を得て、その生き方に感動しました。 また、今の私にとっても大きな力付けになりました。 そして昨年、見事に「真面目(しんめんもく)」のカムバックをされたのは、ご存知の通りです。 その後も、巨人の長島監督、コメディアンの坂上二郎さんなど、次々に同病で倒れられる方が続き、懸命にリハビリに励んでおられるご様子を目の当たりにして、挫けそうな自分を励まします。

退院して改めて ああ生きて帰れたのだ!と猫の額ほどのわが家の庭を見回すと、いつの間にか昔 新島で苗を分けてもらったアシタバの株が増え、大きくなり毎日のように新芽が摘めます。 この頃はスーパーや八百屋さんでもアシタバを見かけるようになりました。 成長が早く、明日葉とも書く元気が出る植物です。 新島で民宿に泊まると、朝は味噌汁に夕食にはお浸しにと出てくるように、すぐれた野菜並みです。 

その昔、仕事のため新島の秋に1ヶ月も駐在したことがあります。 夕方になると、針が沢山付いた仕掛けのさおで船着場の岸壁から小あじがバケツ一杯取れました。 民宿で から揚げにしてもらい、明日葉の天婦羅とで、皆で宴会になったものです。 明日葉は、秋口に にんじんの花 に似た花が咲き、それに小さな平べったい実がなり、触ると弾けて実が地面に飛び散ります。 春になるとこの実から、小さな芽が出て大きくなるのです。 半日陰でも畑でなくとも育ちますから、木の間にでも植えておくと楽しいものです。 是非試してください。 新島では畑に植えるというより山で取ってくるのが一般的です。 

夜のラジオ番組を聴いて朝早いときは、リハビリを兼ねて自分で朝食の味噌汁を作ります。 明日葉とたまねぎやジャガイモ、大根など、冷蔵庫などにある野菜を具に入れます。 たまにはスープにしたいときは、明日葉とたまねぎ、セロリなどを具に、スープストックを1個入れます。 ベーコンのあまりなどがあれば最高。パン食にも合います。 

夕方、家内は明日葉、蕗、お茶の葉などを天婦羅にします。 偶には庭の しその葉(関東では おおば と言うのでしょうか)も入れます。 お浸し、白ぬた、刺身のつま、などいろいろな料理が出来ます。 小さい、猫の額(英語でも“狭い”というのを“cat’s brow”というらしいのですが、面白いですね)の庭に、蕗まで生えているのです。 昔 建築屋が山から埋め土を持ち込んだ際、一緒についてきたらしいのです。春先に蕗のトウの天婦羅、夏まで蕗の茎煮などが楽しめます。 お茶は数本の狭山茶が植えてあります。 お茶にするほどないので 天婦羅にする方が多いのです。 田舎育ちだから、こんな生活が似合っているのかもしれません。 だから、2人だけの生活だと、夏の間は たいてい 野菜は買わずに間に合いますから、スロウニン生活には助かります。 これも片麻痺と一緒、天からの贈り物と感謝しなければなりません。

      (つづく)

 4.項については「スロウニンのスロウな生活(2)」をご覧下さい。

2006-7-10

3.ビワの葉のお茶

退院が近い頃、麻痺した右肩の痛みがだんだんひどくなってきました。 寝てもさめても痛いという感じなのです。 外側が痛いのではなく、肩甲骨の中のどこか奥の方のようだが、どこか分からない、肩にズブッと麻酔注射でも打ってもらったら楽じゃないかというような気がする痛さです。 そこで、何か良い改善方法は無いかと、痛みに関する本を漁ってみると、案外ないのです。 確かに痛みというのは千差万別で、捕まえようがないのかもしれないけれど、それでも「自分でできる“痛み”のリハビリ」という変わった名の本が見つかりました。 早速取り寄せてみると、川崎にある見慣れた関東労災病院の勤労者リハビリセンターのスタッフの先生方が書かれた新書版の本(中災防新書、900円+税)で、患者のリハビリの側面からみた、患者が理解できる程度の痛みの原因や対応が、痛みの部位にわけて書かれた珍しい本です。 読んでみると、例えば肩はとても微妙な構造を持っていて、沢山の骨と筋肉が組み合わさって微妙なバランスで、あらゆる方向に動くので、どの部分が麻痺しても硬くなった筋肉同士が刺激しあって痛むのだといいます。 この痛みは、退院して通院リハビリになっても続き、2年目になろうかという時まで治まりませんでした。 時々箱根の温泉や弘明寺のみうら湯に連れて行ってもらったりして患部を温めてやるときは、多少痛みが和らぐのですが、冷めるとまた痛み、冬の間中続きました。 おかげ様で、2年目になって痛みが取れてきました。 これから書くビワの葉茶のお蔭かどうか分かりませんが、痛みはすっかり忘れています。 麻痺は取れませんが。 

痛みが続くこんなときに、ある雑誌で「ビワの葉療法」という記事を読みました。 その中にも書いてあったのですが、何と3000年の昔から、ビワの葉を治療に使っていたという話です。 子どもの頃 祖母から聞いたことがあるような気がします。 奈良時代の光明皇后(聖武天皇妃)が施薬院でビワの葉で病人を治したといわれている話です。 早速 田舎の叔母の裏庭にあったビワの木を思いだして葉を送ってもらいました。 ビワの葉は表がつやつやしていて裏側には白いビロードのような産毛が生えている比較的大きい硬い葉で、昔の家にはたいてい庭先にビワが植えてあったものです。 あるいはこの薬用の話の名残かもしれないと思いますが、港南台や洋光台など新しい街では見かけないものの、JR大船駅の京浜東北線のホームから見える商店側の裏庭に大きなビワの木が見えます。 

先ずビワの葉茶を試してみました。 鍋に2リットルくらいの水を入れ、その中に洗ったビワの葉12〜3枚を料理バサミで2〜3センチ幅に切って入れて煎じます。 およそ2〜30分煎じて お茶の色が褐色に変わったら出来あがりですから簡単です。 多少白いアクのようなものが浮かぶこともありますが、害は無いが気になるようなら除きます。 私は茶漉しのような目の小さいお玉で掬い取ります。 100円ショップにあります。 お茶にするのだから、葉は生葉でも乾いた葉でも良いので葉は乾いても大丈夫です。

このお茶は気になる匂いもなくすっきりした味で違和感なく飲めます。 というよりコンビニで買うお茶よりむしろ美味しいと言うと怒られますかな? 水代わりに、このお茶を飲んで1週間もすると、何か肩が軽くなったような気がしました。 薬なら、治ると言うと薬事法に触れるかもしれませんが、お茶だから、たかがお茶だと思ってやってみてください。 奥さんが膝が痛いという友人や、私と同病で肩が痛いという人にも勧めて喜んでもらいました。 お茶話になること請け合いです。

なぜ利くかと昔から研究されているようで、現在ではアミグダリンという成分が含まれていると考えられているそうです。 この成分は暖めると血液を弱アルカリ性に変化させるといい、健康に良くない酸性に傾いた血液を浄化するらしいのです。 だから、きれいにしたビワの葉をつやのある面を患部に当て、その上からこんにゃくを湯で温めタオルで包んだものを乗せておくと痛みが取れるという療法もあるそうです。 じきに葉が乾くので、葉の上からラップをかけておくと良いようです。私は、面倒なので、こんにゃくでは試していませんが、火であぶった葉で直接肩をなでてみました。 ほとんどおまじないのようなものですが、いわしの頭も信心からといいますから、無駄ではないと思います。 この方法はれっきとした研究者が専門的に治療をなさっているといいますから、こんなことを言ってはいけませんね。 でも1回2回じゃ駄目ですよ。 ビワの葉を送ってくれた90に近い叔母は、残念ながら3月末に心臓発作で急死してしまいましたが、生前、叔母もお友だちと、私の教えたビワ茶を楽しんでいたようです。 叔母の話では、田舎の人にホワイト・リカーにビワの葉1kgばかりを漬け込んで、梅酒のように水で割ってのむ人もあると言っていました。 砂糖は入れないそうです。 

 悪友たちは、私が倒れたことを聞いて皆自分にも心当たりがあるらしく「前兆があった?」とか「原因は?」と聞いてきます。 その気持ちは良く分かります。 飲兵衛だった私に「酒の所為だ」と言わしたいのでしょうが、酒の名誉にかけて言わないことにしています。 メタボリック・シンドロームが言われる前でしたが、肥満で、血糖値が高くて、血圧要注意だったので、この原因は確かに「酒が好き」ということでしょうが、脳梗塞の直接的な原因は「水抜きドライ・サウナ」だと思いたいところです。 私は「ビワ酒」にしたいのですが、周りの連中は、「飲みたいからだろう?」と言うのでかないません。 発病2年目を迎えた今、180ミリ・リットル(1合というと少なすぎる?気がするから)の日本酒(以前はウイスキーや焼酎、ビールだった)をなめるように嗜んでいるのですが、気を緩めると本家帰りをすると自重はしている積もりです。    (つづく) 

   写真1:大船駅ホームから見えるビワの木  

写真2:ペットボトルに入れたビワ茶、アシタバの葉、自分のコーヒー入れ道具 


2006/6/20

2.絵でも描かなきゃ「うつ」になる

冷静になって考えると 倒れて二日は右の手や足はまだ動いていました。 ベッドの中で「軽くて助かった」と思ったくらいです。 ベッドの脇の柵に手をかけて 握ることも 力を入れることも出来たし 右足で掛け布団を蹴って掛け具合を修正できたのです。 だから 1〜2週間で退院できるのじゃないかと 看護師さんに聞いて 笑われたりしました。   だが 徐々に右麻痺が自覚されるようになり 3日目には右足が何か重くなりました。 

2週間 点滴だけで  何も固形物は食べないから 「大」はほとんど無く 出るのは「小」だけです。 だから 車椅子乗せて貰ってさえ トイレに行くことが大変な時期に かえって助かりました。 うがった言い方をすれば 点滴だけという効用は そこにもあるように思いました。 

さすがに 2週間点滴だけが続くと 固形物が欲しくなります。 だが いきなり米の飯と思っても そうはいかないのです。 2週間経って ゲル(どろどの粘液状)にした食事が許されました。 「嚥下障害(飲み下しの障害)」の有無が未だ解っていないからです。 事実 時々急いで飲み込もうとすると 飲み込むタイミングが合わず むせることがあります。 食事制限がいやなので 人には気づかれないように誤魔化すのですが 看護師さんは見逃さないのでしょう。 粒の無い粥状のお米食 緑色の ほうれん草らしい液状おかず お魚らしい白身のおかず みなペースト状のどろどろに卸してあり 丸で離乳食です。 毎食 同じものに見えてきます。

だが 「食堂部」の心遣いは大変なものです。 毎日 毎食の個人のメニューに書いてある通り 見た目には同じゲル食も メニューは変わっています。 病状に多少ゆとりが出来た患者さんには 基本メニューの中の選択肢のアンケートがとられ ある程度の個人の嗜好に応えようとしているし また 七夕や 病院の創立記念日や旗日には 心のこもった記念メニューに 小さなお祝いのコメントが お盆に載せてあったりします。 病人には こんなことが 殊更嬉しいのです。 このようにして 毎週月曜日の体重測定日には看護師さんがベッド脇まで体重計を持ってきて 身体を支えて測定すると 見る見る体重が減っているのが分かります。 健康なうちに点滴をすれば良かったのに ! 冗談も言いたくなります。

  ゲル食が始まると同じ時期に リハビリが始まりました。 昔は 脳卒中で倒れた人は 「絶対安静」といわれて身体も頭も動かさないようにしたのを見聞きしたものです。 今は できるだけ早く 麻痺した部位も積極的に動かすリハビリが 進められます。 ボランティアの制服を着た人が 予定の時間に病室に迎えに来て 車椅子に乗せられ リハビリ棟に運ばれ 言語のリハビリに言語聴覚士 身体の麻痺に対するリハビリに 理学療法士 作業療法士 など たくさんの人の力を借りて 機能回復が始まります。 

点滴をつけたまま 歩行訓練。 平行棒に掴まっても 立つことも出来ません。優しくされればされるほど惨めな自分に打ちのめされます。 予約時間に沿って 次から次へと 患者さんが出入りしますが誰一人 同じ症状の人はいないのです。 まるで言葉を失った人もあります。 記憶が無い人もいます。 自分だって 何が失われているかは 徐々に調べないと分からないのです。 だから指導は勢いマン・ツウ・マンで 指導してくれる先生は決められます。 

後で聞いたことですが 私の梗塞部位は脳幹に近い「橋(きょう)」という 脳から神経が左右の身体に交差する部分だそうです。 だからか 手足の右麻痺と 右側麻痺による顔面 舌 など 筋肉制御機能の障害がありました。 私の場合 右顔面がたれて 右目ウインクも出来ません。 言語のリハビリの先生から与えられる「タ パ カ」の発音に多少障害はありました。 いままで経験したこともない猛烈な便秘に襲われたのもこの頃で 必死の思いでやっと出たのが ピンポン玉大の硬くて大きい 数個でした。 また 同室の人も経験したのが 原因不明の腹痛でした。 七転八倒しましたが 一晩 湯たんぽで暖めたら直りました。 これも右麻痺 特に内臓が右麻痺に関係しているのではないかと 素人考えをしました。 が お医者さんは そんなことは無いよ と言います。 でも 医者は 右麻痺を経験したわけではないから 未だに信じられません。 

入院後1ヵ月 内科病棟から リハビリ病棟に 移り 嚥下障害が無いとの主治医の判断で ゲル食から刻み食になりました。 ご飯はお粥 副食はすべて丁寧に刻まれています。 これがまた 2週間続きました。 その頃から 自分にとっては 麻痺の機能回復そのものより 「気の持ちようの改善」の方がキーではないかと思い始めました。 年寄りだから 機能が不十分になって嘆くより 生きがいを失う方がこわい と思ったのです。 

そこで 家からスケッチ道具を持ってきてもらい おぼつかない左手で 字はまだ読めない可愛い孫息子におじいちゃんの病気の話をするつもりで 小さい「紙芝居」を描き始めました。 紙芝居を束ねたとき 見せる絵の面の話が 読み手の目の前にあるように作っていく工夫も考えなければなりません。 ストーリーも考え 左手で絵も描かなければなりません。 病後の危険の一つは「病後うつ」ではないかと 私は身をもって感じますが この「紙芝居を作る」というリハビリ・アイディアはこの面でも成功だったような気がします。  

絵は病室で 左手で描いた「あじさい」と 病室で 左手で描いた紙芝居「モーツアルト療法」の「絵」と「かたり」

                                        (つづく)



2006/6/1

1.はじめのころ
 
新聞によると 先ごろ製薬会社ファイザーがインターネットで、脳卒中に関してて40歳以上の男女600人の調査をしたそうだ(朝日新聞5月6日)。

その結果 45%が家族や同僚・友人に脳卒中になった人がいると答え 自分が患った場合の心配ごとは 「後遺症」が53.7% 「介護家族への負担」が25.0% 「介護や治療での金銭的な負担」が13.8% と続いたという。

これは大変な問題である。 およそ半数近い人が身近に、この病気を見聞きしているのだ。確かに 私が南部病院に入院していたときも、見舞いに来てくれた人の多くが「私の兄が」とか「私の父が」といっておられたことを思い出す。

脳卒中は 脳梗塞や脳出血の総称であるが、こんなに身近で苦しみ多い病気となると、日ごろから気を配って、予防をすることが大切だと 反省仕切りである。私には病気になった今ごろになって、気が付いても遅いが「反面教師」として 闘病体験なり 闘病生活なり の日々の生活に起こることを、書き留めてみるのも何かお役に立てるのではないかと思う。

言うまでもなく アンケートにあるように この病気の最大の恐怖は「後遺症」である。入院中も 毎日のように運びこまれる患者さんがあり、また通院リハビリにと退院していく人も次々である。お医者さんも看護師さんも病院スタッフの方々も 文字通り医療にリハビリに 献身的に対応されておられる。本当に頭が下がる思いである。

私が発病してから満2年になる。発病前まではいわゆる肥満体で、身長165cmは我々世代では普通だが、体重は85kg 近くの医院の血糖を抑える薬を服用していた。また 運動が欠かせないので夫婦で港南中央のスポーツクラブ・ルネッサンスに通っていた。プール内で歩き、泳ぎ、サウナに入る、をユットにしていた。1ユニットで約1.5kg減量するのが楽しみであったが、後で解ったがこれが落とし穴だったのである。水分を多量に補給するのが正しかったのだ。

その日 久し振りに親しい友人たちと新橋で会うことになっていた。夕方約2kmの上大岡まで歩いていつもの京急・地下鉄で行った。
何時もの料理が旨い親しい居酒屋の小部屋で酒を酌み交わした。あまり飲まないうちに 私が酩酊した格好になったらしい。酒には酔わない私だったので友人は変だと思ったらしいが2次会に行こうと 肩を組んで外へでた。自分には肩を担がれていると解り 話しかけられる言葉も分かる。それでいて立てないし、自分の言うことが友人に通じない。

結局2次会は止め、タクシーに乗せようということにしたらしく 友人の一人と タクシーで一時間 洋光台に帰ってきた。道順は 自分が動作で知らせて何とか玄関先に到着した。担ぎ込まれると 妻が「お父さん 変。左はいいけど 右目が他所を向いてる!」 
すぐに南部病院に電話をしたら「すぐ自家用車で来なさい。救急車は時間がかかるかもしれない」 すぐにCT検査。点滴がはじまった。

後で分かったことだが 日本では当時未認可の薬PTがあるそうだ。一時間以内なら 血栓を溶かすことが可能だと言う。アメリカで劇的に麻痺が改善されるビデオが紹介された。日本では 東北で使用例があると後でインターネットで知った。

こうして私の入院生活が始まった。幸か不幸か、長年払っていた入院保険があったので、経済的には打撃は少なかった。入院同室に私より10歳も若い方がおられた。どちらも年老いたご両親が健在ではあったが、これから面倒を見る立場。やりきれない思いであったろう。深夜ベットで啜り泣きが聞こえたりすると、こちらももらい泣きをしたこともあった。

編集室より
はたと周りを見渡すと、本当に脳梗塞の話をよく聞きます。実は私の父もただ今リハビリ中だったりします。人事とは思えませんが、その後の暮らし方は人によって大きく違いますね。どんなことがあっても前向き前向きに生きていきたいものです

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