初めて東京物語

 九州のある大学2年の秋口に、一時東京の学校で学ぼうとおじを頼って上京したことがある。

学校は中央線水道橋駅の西側(旧後楽園の反対側)にあり、おじの家は西武池袋線の富士見台駅の商店街を抜けた武蔵野の林が残る住宅街にあった。学校へは、電車で池袋駅に出て、当時国電山手線に乗り換え、新宿まで行き、そこで中央線に乗り換えて水道橋駅で降り、すぐそばのガードを潜って学校に行った。滞在は、ほんの数カ月で終わったが。

 

 その時が初めての東京だったから、見るもの聞くもの何でも面白かったと見え、スクラップ・ブックに切り抜きを貼っている。その頃からの物は殆ど捨ててしまったが、このスクラップだけは取っておいた。先日書物をしていて思い出し書棚を探したらヒョイと出てきた。

 今思うと、その年昭和32年(1957年)は僕の苦しかった青春の記念すべき年であったと同時に、敗戦後の東京が復興期に差し掛かった年で、新しい事が矢継ぎ早に起こった。これは初めてのお上りさんジジの昔話として、切り抜きを語っておくのも一興というものだ。

 

 先ず上京した夏の終わりに茨城県東海村原子力研究所で、わが国初の「原子の火」が灯った(8/27)。原子炉が臨海に達したのである。その時は、これが原子力発電に結びつく大きい事件だとは気付かずにいた。今では原子力発電所が全国に増え、地球を救えとさらに増えつつあるが、これが原点だったのだ。驚きのもう一つは、新聞活字がびっくりするほど小さかった。まだ読者の高齢化などが進んでいなかったと見える。

 

 9月の終わりに日本に初めてソビエト連邦(ソ連)からボリショイバレー団がやって来た。読売新聞社の前で記念招待券を配るというから、早速並んで国際スタジアム(両国に合った旧国技館だったと思う)での初公演舞台の袖下10番を手に入れた。

覚えていたのではない、真ん前で舞台を見上げるような座席位置だったのを覚えていたのと、その日の入場券が出てきたのだ。

赤い入場券は如何にもソ連らしい。新聞紙面を上げてスターたちの特集だった。当時の新聞の面白いところはバレー団の舞台の撮影アングルの斬新さだ。観客と舞台の全体を捉えていて、新聞社の熱気が伝わってくるようだ。

 チケットの裏面にプログラムが印刷されているのも面白い。考えてみれば、まだ紙も貴重だったのだろう。プログラムを別に印刷して発行するまでもないのだ。紙を必要以上に浪費する今の世でも考えなくてはいけない。

 











 

10月4日、ソ連が世界で初めて人工衛星「スプートニック1号」の打ち上げに成功した。

この日の夕方、僕は偶然有楽町駅のプラットホームで電車を待つあいだ、銀座の空を眺めていた。その時、新橋の方向から日本橋の方向へ見たことがない赤い光点が音もなく滑るように走っていった。仰角で20度位の感じで何かそれまで見たことのない飛行体を思わせた。UFO?まだ数寄屋橋も健在で、欄干から川底が見えたし、今の高速道路も高いビルもなく、ホームからは銀座の空が見渡せたのだろう。「あれは何だろう」とホームの人たちは騒いだが、翌日の新聞で人工衛星だと知った。

偶々おじも池袋のホームでそれを見たことを最近聞いたのは驚きだ。

 

 あれからもう53年が経つ。ソ連は国家を上げてバレー団を前面に押し出し、全力を上げてアメリカに勝とうと人工衛星を上げて奮闘した時代だった。ソ連の民間生活は豊かではなかったらしく、ボリショイのプリマドンナが万引きで捕まったなど、痛々しいニュースで苦しい生活を想像した。

誌面で気付くのは人工衛星の軌跡を星座に投影して描いた殆ど手書きの図が乗っている。新聞社のデスクで記者たちが頭を寄せ合って図を描いている様が想像されて、昨今の機械で描いたような図より親しみが持てる。アナログてきというべきか。

 

日本も今映画「三丁目の夕日」に見るように数寄屋橋を高速道路に埋めたし、ちんちん電車も取り払い、高さ333mの東京タワーを建て(昭和33年)、どんどん高層ビルを建てて繁栄を誇ってきた。しかし、今はどうだ。平家物語の語るように「おごれるものは久しからず」を味わっている。

 

日本の男女宇宙飛行士が宇宙に滞在するまでになった。しかし、アメリカでさえ、物入りで宇宙に手が回らなくなって、成金の中国に任せたいと思うようになっている。

 

 あれからほぼ半世紀、地球から目が離せない。