R.M さん から M.Sさん(いずれも故人になりました)に宛てた手紙

拝啓

 家内よりM様のお話伺い また詳細なお便り拝見しました。
私も京城の、しかも新堂町におり、昭和十七年に櫻丘小学校(当時は既に国民学校)に入学しましたが、実は同年五月末に北朝鮮の咸鏡南道咸興府に転居し、敗戦を咸興で迎えました。
 ソ連軍の占領下 抑留状態となり、昭和二十一年五月から七月にかけて、貨物列車と徒歩で三十八度線を越えて引き揚げてまいりましたので、正しくは北朝鮮咸興からの引揚者です。
 

 私は父が大毎(大阪毎日新聞社)におりましたので、父の京城赴任に伴って、昭和十五年に京城に渡りました。住んでいた場所は奨中壇方向に行く市電通り途中から左手(東側)丘陵になった住宅街に入り、旧城壁のところを通り過ぎて少し行った右側の、日本家屋が数件固まったところです。左側には派手な両班(ヤンバン)家屋?が二、三件あり、大変目立ちましたので、あるいはあの辺の光景をご記憶かもしれません。

 家から更に東へゆるやかな坂道を下ると、あまりきれいではない川の橋にさしかかり、橋の下ではいつもオモニが二、三人水に浸した衣類を棒で叩いて洗濯していました。
橋を渡って南北に走るやや広い道を右に行くと、すぐ左手が櫻丘小でした。
先生は江島もとよ でした。
 十年ばかり前、二泊三日で戦後初めて京城ではない、ソウルに行き、昔の家のあたりや、明治町(明洞)、光化門通りの突き当たりの旧総督府、母が入院していて良く見舞いに行った京城帝大病院等々、思い出に残るところを何箇所か見て歩きました。
昔の家は既に無く、あたりは薄汚れた景色に変わり、櫻丘小(→青丘<チョング>国民学校)は講堂こそ残っていたものの、人口増で、新しい校舎がひしめき、周りの丘の上は樹木が無くなってびっしりと民家が立ち並び、大きく変貌していました。今は更に変わってしまったという話も聞きます。

 櫻丘小を一年生の一学期のうちに転校し、北朝鮮の東海岸の咸鏡南道道庁所在地、咸興府の咸興公立高等国民学校というところに移り四年生の夏に敗戦を迎えました。
町はマンセイ、マンセイと言う朝鮮人の歓呼に包まれ、ソ連軍が巨大な戦車の砲塔を回転させながら入城し、満州国境方面から大量の日本人避難民が咸興の町に押し寄せました。
父親が残した当時の「咸興日本人委員会」の記録によれば、咸興に滞留した日本人総数三万九千人、うち九千人が、大流行した発疹チフス、寒さ、栄養不良などで死亡したとあります。
地獄のような体験をした多くの避難民に比べれば、初めから咸興にいた私たちは、はるかにマシな状態でしたが、二十一年春先私も発疹チフスにやられ、ようやく回復して足腰立つようになった五月下旬、日本人委員会の職にあった父と別れ、病身の母と幼い弟との三人で、病人護送の名目でソ連軍の黙認を受けた引き揚げ列車で(有蓋無蓋混成の貨物列車)で南下を始めました。
暴徒が襲ってくるなど恐れで、三十八度線付近は夜中隠密で山越えし、南側の漁港から厚生省のチャーター引き揚げ船である米軍LST(上陸用舟艇)で内地に向かいました。
到着して分かったのですが、着いたところは山口県仙崎港の沖、さんざん待たされて上陸したのは七月一日でした。引き揚げ後 伝手を頼って転々とした時期を含め、二度と味わいたくない体験ですが、人に話しても分かってくれないもどかしさを、こんにちに至るまで感じてまいりました。

M様は、私よりずっと先輩で、私が櫻丘小に入学したときは既に卒業なさっていたわけですから、私としては話が合うかどうかも、実はいささか気にしているしだいですが、機会がありましたら、是非お目にかかりたいと思っております。仕事もありませんので、病院の予約日以外ならいつでも出かけられます。(体調を悪くしておりますので、家内が付き添ってくれた方が安心です。酒は飲めます)。もしお会いできるなら、家内にでもおっしゃって下さい。

猛暑が当分続きそうです。くれぐれもご自愛くださいますよう。

敬具

七月三十一日

M.S 様                     R.M
       (以前R.Tと書いていましたが、編者の誤記でした。お詫びして訂正します)

(テオ注:2000年と思う。この後、2000年8月9日18:00から新横浜の「うなぎ大黒屋」で櫻ケ丘同窓会合として初会合。Rさんは奥様送迎付き添いで。)

Mさんは 大学同窓会機関紙にテオが投書した俳句記事に 偶然「京城」の文字を見つけ もしや? と連絡を下さった。これも偶然 テオの大叔父とも引き揚げ後旧制中学で知り合っていたという。これも偶然 母同士が同郷だったことが分かった。京城・龍山中学から引き揚げ後旧制大津中学に編入。テオの大学先輩にも当たる。

 Rさんは東京放送(株)を定年退職された。桜ケ丘国民学校で1年上級生。

手紙は 時代の手記の一つとして どなたかのお役に立つこともあろうかと あえて公開させて頂く。

Mさん Rさん も故人になられたが 喜んでいただけると信じる。お許しあれ!

2012年5月注:その後偶然 ch2 掲示板上で 編者の R.T さんなる記述が、東京放送(株)を定年退職された R.M(楽衛)さんの誤記ではないかとの話題があったのを知りました。
確かに編者の「楽衛さんの漢字読み間違え」でした。お詫びして訂正します。