「鶴瓶の家族に乾杯」余話

毎週月曜日夕のNHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組を見るのが好きである。昨秋のある日(2008年10月27日)見たのが 華道家の仮屋崎省吾と笑福亭鶴瓶が鹿児島に旅をした番組だった。

 鶴瓶は美山という里でトイレを借りようと沈壽官窯に迷い込む。そこで会ったおじいさんは仮屋崎省吾を知らない。そのおじいさんが第14代沈壽官氏だった 司馬遼太郎の「故郷忘じ難く候」の主人公である。秀吉による朝鮮侵攻のとき、薩摩藩主により苗代川〈美山)に連れて来られた陶工の末裔である。

わたしが「故郷忘じ難く候」を読んだのは、まだ司馬遼太郎氏のご存命のころであったが、氏が亡くなってからその第十四代沈壽官氏が日経新聞文化欄の小エッセイ欄「交遊抄」に書かれた「見事な見識」というエッセイのことが思い出された。

その切抜きコピーが何かの拍子に、ヒョイとでてきた。切抜きの肝心の日付がメモし忘れでわからないが、新聞記事の下のほうにある銀行債の売り出し予告に平成9年6月13日発売とあるところをみると6月上旬であろう。 「見事な見識」は次のような書き出しに始まる。(『引用部分』)

『二人の巨人が私の人生に光芒を与えて去った。私の初訪韓は約三十年前、韓国の人々は三百七十年の時空を超えて私を迎えて下さった』 氏は当時の朴大統領に拝謁が叶い『一国の大統領に弟のように可愛がって戴く夢のような幸運に恵まれたのである』と続けられる。

『帰国後興奮未だ覚めやらぬ時、司馬遼太郎先生が来訪せられた。・・・(中略)・・・先生に「朴大統領はどんな人?」と問いかけられた』 当時の日本では軍事政権と風当たりが厳しかった。『直接、大統領の人柄に接した私はぜひ芝先生には正当な評価をと願い、角度を変えて話したのである』 と。

ここからは会話実況風に書けば、沈壽官『貴国の博物館を拝見したが何故か刀槍がない。日本の博物館には日本刀がありますが?』 

朴大統領『面白いことを質問する人だね。どんなに美しくても人を殺す道具は【美】ではないぞ』、『是非と言うなら陸軍士官学校の武器博物館長を紹介しようか』 

 『武人大統領のこの一言に恥ずかしさの余り泣き出しそうになりました』と述懐した時、暫くの無言の後『立派な見識ですね』と静かに呟かれたという。

『司馬先生の朴大統領観はこのとき定まったのではあるまいか。後日、大統領の側近より「司馬文学を愛読中」と伝言が届いた時、人生の十字路で出会った二巨人の相互理解のための街路灯の役目を果たし得た喜悦がこみ上げた。混濁の世に見識を求むるは百年清河清を待つが如しか、両巨人の在りし日がしのばれてならない』

 心に残る見事な名エッセイだと思う。司馬遼太郎文学のファンの一人として、朴大統領との一筋の糸が繋がったことがまたうれしい。在りし日の朴大領の面影もすでに忘却の彼方であるが、1992年友人とパック旅行ソウル・グルメ旅に応募し、二人だけの韓国ソウルを旅して偶々と言うか、とうとうと言うか、苦労の末、戦前私の父母、祖母、兄弟たち一家が住んだ故郷・韓国ソウル新堂洞(シンダンドン=旧新堂町)に残っていた家を訪ね当てた時、その家に住まっておられたおばあさんが通訳の女性を通じて「上のお隣は朴大統領のお宅です。今は親戚の方が住んでいます」と教えてくれた。上のお隣も朝鮮戦争の戦禍を越えて残っていた。幼いころの国民学校(小学校)の上級生、島田の洋ちゃんちだ!毎朝、この家の門の前に集まって集団登校したのを覚えている。登校途中で空襲警報のサイレンが鳴り、電車道脇の防空壕に駆け込んだ。防空壕には水がたまっていて汚かった。

 帰りに招じ入れてくれたおばあさんの家、すなわち当時のままの我が家の門柱には、私たちの住んだ昔のままの番地とおばあさんの連れ合いらしい亡くなったご主人が朴大統領側近だったらしい標識があると通訳の女性が教えてくれた。 島田の洋ちゃん家と昔の我が家だけは、おばあさんが頑なに建て替えを勧める地上げ屋から守っていたという。

それまでは、全く関わりのないと思っていた朴大統領のお人柄が伝わってくるようないい話である。
2009-6-1