笹下城跡の山小屋
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笹下城本丸跡

亭主の口上

わしの山小屋は、奇しくも、旧武蔵国久良岐(くらき)郡、現神奈川県横浜市磯子区と港南区にまたがる地域にあったとされる戦国時代の笹下城の本丸跡の地域にある。

別にお先祖さんの地ではない。ウン十年も前、洋光台開発の分譲地に移り住んだのじゃ。
今では孫が3人いるわしの息子が小学校時代、PTAの一員として社会科の地域研究で、この地が笹下城跡一帯であることを知り、また報告書を書いた覚えがあるのじゃ。

面白いことに、わしの出身地、旧長門国の家も日置町上城(へきちょう・かみじょう)というところにある。頂上に本丸跡があって、そこの古井戸では、正月に金鶏が鳴くという山城の麓にある。

また、わしがかつて大学に入学したとき、多分、六本松の教養部の収容人員が不足したのじゃろう、九州は久留米市の筑後川のほとり、小森野という中州みたいなところに教養部の分校(現久留米高専になった)があり、わしらはそこに収まった。
途中寮生活をやめ下宿したのが久留米笹山城の石垣下、今でいえば久留米医大グラウンドの上段にあった下宿屋だった。
毎日石垣を見て、台風で流れた橋の変わりに渡し舟に乗って筑後川を渡り、大学に通ったものじゃ。
何年か前、仕事で久留米を訪ね、城跡に寄ってみた。見事、30年以上前の下宿屋は跡形もなく、朝晩登り筑後川を望み、山岳部で岩登りの練習やザイル捌きを練習した、あの久留米城址の懐かしい城の石垣だけが残りっていた。

何度か古い城跡の近くに住む。
ロマンに富むともいえるが、これも何かのご縁じゃろう。

こんなところにあるわしの山小屋じゃ。何もない、粗末な小屋じゃが、寄って旅の話もきかせてくだされい。わしの遊びも見てやってくれればありがたい。



笹下城本丸跡略図(旧こうなん道ばた風土記より)
横浜市南部の金沢道(現笹下釜利谷道)のバス停「日下小学校前」から、曲田橋で笹下川を渡り、
西に坂を上がると成就院(写真A)があり、この付近の高台が戦国時代の城であるという。

「新編武蔵」には松本村の項で「間宮豊前守陣屋・・・・金沢道の傍、笹下にあり、・・・広さ8反(約8000平米)」
と居館を記しているという。洋光台一丁目竹内宅付近に内屋敷、日下橋南側付近に下屋敷があったとされる。
(『こうなん道ばた風土記』より。以下(風土記))

A本丸跡付近から成就院
背面を望む。
向こう側が空堀跡方向。
「成就院」は山号は梅花山、宗派は浄土真宗、本尊は阿弥陀如来像。
山門は四つ足門で前述間宮氏の陣屋を廃止した時、当院に移築したという。

裏手墓地には元治元年(1864)鎌倉で英国士官を殺害し処刑された間宮一の墓がある。
境内には、横浜市指定名木古木の樹齢七百年の「片身の槇」がある。
(風土記)
成就院脇から南へ上る空堀状の道(写真B)があり、
この上の高台一帯(写真C、D)が本丸の役割を果たしていたと考えられる。
(風土記)



B本丸跡付近から空堀跡

@西方IHI社宅駐車場から本丸跡方向を見上げる。
建っている家はわしの山小屋ではない。
わしが来た当時は小高い空き地だった。

わが山小屋も本丸跡付近にある。

洋光台開発前は、ここも、成就院と同じく「笹下」に属していた。ここが磯子区と港南区の境になる。

調査が十分行われないうちに、洋光台の開発の波にのまれたので幻の城ともいわれる。

この、自然の地形を利用した「谷津構え」の山城を築いたのは、
小田原北条氏に仕えた間宮豊前守信元であったとされる。
秀吉と箱根山中城で戦い討死にした間宮豊前守康俊などが後を継いだ。



C本丸跡-1
(城跡の面影は感じられない)


D本丸跡-2
(開発当時からも既に変わった)
更に、笹下川、左右手川を外堀として房総の里見軍に備え、外郭の守りとして、
東に「杉田陣屋」、屏風ヶ浦の「森陣屋」、南に「氷取沢陣屋」、北に出城として「松本城」、
西は遠く玉縄城へと通じていたという。

(以上は主として港南の歴史研究会編『こうなん道ばたの風土記』による)

時代がくだって、豊臣秀吉の天下統一により、小田原北条氏は滅ぼされた。
しかし、このときの間宮一族の箱根山中城を守った戦いぶりが認められ、
攻撃軍の徳川家康は、笹下に残っていた間宮氏の中から多くのものを家臣に取り立てたという。

後の世、この一族から間宮林蔵、杉田玄白など優れた人材が輩出した。

(港南区制25周年記念誌『ふるさと港南の昔話50話』より抜粋

港南区発行『こうなん道ばたの風土記』抜粋


こうなん道ばたの風土記

八、笹下城跡と成就院


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 金沢道のバス停「日下小学校前」(地図1)から、西へ笹下川を
曲田橋(まがたばし、地図2)で渡ると、成就院(地図3)へ向かう坂道がある。

 この付近は、戦国時代小田原北条氏の武将間宮豊前守康俊が、父祖の代から受継いた笹下城跡(地図4)である。ここの台地にはかつて「壇地」(地図5)と言われていたものがあり、域郭用の削平地(さくへいち)で「詰めの城」があった。

「新編武蔵」には松本村の項で「間宮豊前守陣屋・・・金沢道の傍、笹下にあり、平地にして今は陸田となれり、広さ八反(約八〇〇〇u)」とその居館を記している。そして、洋光台武内氏宅付近(地図6)に内屋敷、御下公園(おしもこうえん)近くに下屋敷があったと伝えられている。

 また、成就院脇から南へ上る空堀状の道があるが、その上の高台一帯が本丸の役割を果していたと考えられる。更に、笹下川や左右手川(そうでがわ)を外堀として房総の里見軍に備え、外郭の守りとして東に「杉田陣屋」屏風ヶ浦の「森陣屋」南に「氷取沢陣屋」北に出城としての「松本城」などを構え、西は遠く玉縄城へと通じていた。

 また、「成就院」は山号は梅花山と呼び、宗派は浄土真宗、本尊は阿弥陀如来像、山門は前述間宮氏の陣屋を廃止した時、当院に移築した。

 この門前に詩人大野林火氏の「猛り鵙(もず)松籟(しょうらい)に今鎮(しず)まりぬ」の鎮魂の句碑が建っている。 裏手墓地には元治元年(一八六四)鎌倉で英国士官を殺害し処刑された間宮一の墓があり、境内には横浜市指定名木古木の樹齢七〇〇年の「片身の槙(まき)」がその古さを物語っている。

こうなん道ばたの風土記

第一章、金沢道と森・杉田道周辺


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 金沢道(かなさわみち)とは、普通近世において保土ヶ谷宿から金沢区町屋にあった陣屋までの道をいう。 そして、鎌倉時代には鎌倉から朝比奈の切り通しを経て、金沢から保土ヶ谷へと向かう「東の道」として重要視されていた。

区内では、上大岡から杉田方面に向かう大岡川右岸の道が、「金沢道」または「鎌倉道」といわれている。

また、森・杉田道とは上大岡駅東側の道で、古来杉田の梅林に向かう近道として利用されたといわれている。

なお、森道とは、海岸方面の森村へと向かう道である。

現在、古道としての面影を深く留めている所は、日下小学校から金沢方面へ100m程先の「新川橋」信号先から左へ向かう川沿いの小道である。

ここにある「元笹下橋」は、戦国時代に笹下城の大門のあったと推定される由緒の地である。城の外壕として使用された笹下川岸の竹やクヌギ林の静けさは、秀吉の小田原攻撃軍を迎え撃ち、先祖伝来の恩顧に報いるため死地に赴いた「間宮武士団」の夢の跡を偲ぶにふさわしい。

この山中城の戦いで討死にした間宮康俊が、若き日に笹下本城から守備に赴いた森陣屋(現在の屏風ケ浦駅東側付近)へ向かう戦略道路の山路が今も残っている。

この道は、金沢道から笹下三丁目三九番と十五番の間で東に分かれ、更に左に向かう坂道で地元では「森道」といっている。

これは「新編武蔵風土記稿」(以下、「新編武蔵」という。)に、「雑色村・・・此道(金沢道)の中程より東にわかれる道あり、幅五尺・・・森公田村の方に通ず」と記されている。

森道といわれるものは、幾筋もあり、一般には笹下二丁目の「関の湯」横の道が著名である。

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「こうなん道ばたの風土記」(改訂版)は「港南の歴史研究会」の編集により、平成11年10月に発行されたものです。