町の年齢(とし)まちの知恵

                             スロウニン

 先日(201210月)、わが町洋光台一丁目の第1クラブ(設立当時老人クラブ)の設立40周年のお祝い会が、町内の幼稚園の講堂をお借りして催されました。 

荒れ野に生まれた新しい町の40年は、今や老人クラブメンバーの一人になった私スロウニンも「ヘーッ」と感無量です。

 九州の大学から関東に就職し、鎌倉のアパートに住んでいた私が、息子の小学校入学に合わせて、出来立ての洋光台に越してきたのが1971年です。 同居の父母が60歳台、わたしはまだ40歳になったばかりでした。

 越して来る前年1970年の洋光台一丁目町内会が発足し、同時にそれまで磯子駅までだった根岸線が洋光台駅に延長されて洋光台駅が根岸線終点になり、私も川崎への通勤は始発電車の恩恵にあずかりました。

しかし、私が始発に乗れたのは2年後の1973年の大船駅まで延伸まででした。

 思い起こすと、日本住宅公団の洋光台土地区画整理事業の開始が1965年で、われわれはまだ着工前の洋光台の住宅公団宅地債権募集に応募して、運命の補欠当選で洋光台一丁目住人になったのでした。

 債券は買ったが実体が無く、どんな所だろうと最初に偵察に来たときには、工事も始まったばかりでした。その頃、サラリーマンでもボツボツ車を持てる時代になり、やっと手に入れたsubaru360という可愛い中古の軽自動車で親子一家で大船から、まだロクに舗装もされていなかった凸凹道の鎌倉街道を走って上大岡に来て、そこから杉田に行く道幅が狭い笹下旧道(今の笹下釜利谷道路)を通って、深い川と山筋に挟まれた昔からの「田中()」に来ました。

 今より沢山の商店が並んでいた田中の街道筋では、店先の軒のトタン屋根が、バスやトラックのすれ違いでめくれるほど狭い道の集落から脇に入って、今もある更に狭い一車線の住宅の間の山道を登って、登りきった岡上のジャガイモ畑の脇から円海山や峰の方向を見わたすと、今思えば遠く来光寺の他は家もほとんど見えない凸凹の荒れたススキや潅木が続く丘陵地で、とても今の洋光台の姿を想像できませんでした。

 田中に引き返して道なりに行き止まりだった氷取沢方向に進んで、何処をどう通ったのか分からないまま、突然山の中のゴルフ場(今の磯子カントリークラブ)の小さなクラブハウスに出ました。まだゴルフがブームにならない頃で、珍しいもの見たさに覗いて見たのを思い出します。

掲示板に会員募集という紙が張ってあり、会員券が35万円と書いてあったように思います。

宅地債権が坪あたり3万円の時代でしたから、遊びにそんな大金はとんでもないという印象でした。懐かしい思い出です。

  

 第一クラブ40周年のお祝い会の席で、クラブ会長K女史さんが、「当時仲間から洋光台は老人がいない町ね」と言われていましたとの述懐がありましたように、出来立ての町の住人は働き盛りの世代の人が多かった。

 大きいお子さんを持つ50歳代の人たちのご子息たちは外の学校や任地に居て、親の住む洋光台には帰省するだけだったのでしょうし、若い40歳台の小中学生の子を持つ世代は60歳代の親と同居しているというパターンがあったのでしょう。だから、確かに老人世代が少ない新興の町だったのです。

 当時小学校入学した息子が中学卒業する1979年から、当時小学6年生だった子が中学卒業の1982年頃までの4,5年間に、だんだんと、成長した子供が町を出て50歳代後半の親が残る家庭が多くなり、昼間は人影が薄く、学校が引けると子供だけが目立つ町でした。 最近開設された洋光台一丁目町内会ウエブサイトによりますと昭和40年(1965年)から昭和56年(1981年)までのこの時期が(創成期)と表現されています。

 

 創成期当初、市の区画再編で旧南区笹下から磯子区洋光台一丁目に編入された比較的年齢構成のバランスが取れた地区と違って、子達も進学、就職などで家を離れて行って後しばらくは、定年前後の勤めの大人ばかりになり、朝大人が出勤すると昼間は人影が無く町には子供の数が少なくなったような印象が強くなりました。

 子供たちが高校や大学の学業を終え、結婚して子供が小学校に上がるまでの平均的と思われる年数を仮に15年と考えると1990年後半頃から、洋光台から出て行った子の世代が所帯を持ち、自分の子供の入学や、親の面倒のために、再度親元の町に帰って来る世代が増えたのでしょうか、町に小さい子等が増えてきました。親と子と孫3世代の家庭が増えてきたのでしょう。

 先の洋光台一丁目町内会ウエブサイトでは昭和57年(1982年)から平成12年(2000年)までのこの時期が(成長期)と表現されています。

  洋光台発足当時は坪当たり3万円という地価(当時は高い方だった)がバブル期に入りuあたりウン万円といわれる時代になっていました。何時の間にか、世の中の経済環境も住宅事情も様変わりして、土地の分割や2世帯住宅への改築を見るようになりました。

 勿論その間も老齢化は進み、洋光台一丁目町内会発足当時若かった40歳台の親世代の人も今では80歳台になり、当時10歳台の子らが働き盛りの親世代になっているわけです。



 去年の暮れ、今までは町内の神社でやっていた餅つきに替わり、第1回洋光台一丁目町内会餅つき大会が一丁目公園で催され、久しぶりに昼間の公園に集まった人々には幼児や子供を連れた若い世代のご夫婦が沢山いらっしゃるのに頼もしく町の新世代を感じました。

 先の町内会ウエブサイトでは、平成12年(2000年)から現在平成24年(2012年)までのこの時期は(安定期)と表現されています。

 まさに町を構成する世代が洋光台創成期の少しいびつな構成から、本来の日本の平均的な町の構成と同じになって来ていて、これからは目に見えた変化は少ないだろうと読んでいるのでしょう。 なかなか含蓄深い表現だと思います。


 現在、第1クラブには白寿(90歳)の会員もおられると思いますが、米寿(88歳)、喜寿(77歳)に近い年代の方々が多くなりました。 昔は還暦(60歳)が老人の目安でしたが、今では還暦はおろか、古希(70歳)層が若い第1クラブ会員と呼ばれ、会の活動を支えておられます。

 親世帯と子世帯とその孫が同居する、いわゆる戸建の2世帯住宅が多い、わが町洋光台一丁目のこれから先を考えてみますと、これからは、代は順次替わるとしても親世帯の老齢化によってひ孫を含む3世帯も増え、ご家庭によっては(安定的)には維持が難しくなってきそうです。

 一方、住宅債券の時代に最低70坪以上が原則と言われた比較的大きい宅地の洋光台も、子世代が洋光台に住めない家庭も増えて、家を手放してマンションなどに移住した後の土地分割化もだんだん増えてきました。

 老いた親が病院や老人ホームなど介護施設に入る必要が生じたり、自宅介護などもある介護保険の時代
になって、老両親が家に留まるにしても、周りの人たちの支援の無い介護では済まないし、子どもの所帯だけでの介護では負担が大きくなるでしょうから、理想的には親子どちらかの所帯が「スープの冷めない距離」の洋光台近辺の借家に分離して住んで、代が替わるまではお互いに付かず離れず、地域的にも介護や子育ての支援が自然に実現できるようになれば、家庭のためにも洋光台の町のためにも一番良いのではないでしょうか。大きくなった孫たちも、彼らの故郷洋光台に住み続けることが可能にしてやりたいものだと思います。

 理想的には、第1クラブ会員ハイエイジ同士の懇親が進み、ミドルエイジの町内会員同士の懇親も進んで、皆が公的機関と連携して縦にも横にも、声を掛け合って全世代がお互いに助け、支え合えることが出来る町になり、老齢化社会を豊かにするモデル地区の試みにしたいものです。

 洋光台地区が共に洋光台駅周辺の高層アパート群なども視野に入れて、経済的にも、町ぐるみ、これからの地域自己完結型の継続性のある町ぐるみマルチ世代住宅地域に育て、町の中で住民の生活循環の全てが充足するようにするのが理想的ではないでしょうか。

 これは今磯子区が目指していると伺っている「これからの洋光台地区」の行政目標に適っていると思われますし、洋光台の町が豊かな心を持つマルチ世代の町になって行けば良いと考えます。

これからの2030年を洋光台一丁目の(生き生期)あるいは(ネオ安定期)にして行きたいものです。



写真は、第2回洋光台一丁目町内会グランドゴルフ大会(平成2410月)から。