ふるさと 山口県油谷半島巡り
   〜小さな車旅〜

ふるさとの同窓会に出るために帰省し 暇を見つけて 故郷を出るまでは車がなくて行けなかった 油谷半島を一巡りしました。
バスや徒歩で行った記憶がある所 今ごろになって初めて行く所 最近開けた所 さまざまですが 昔のきれいさ のんびり気分を残したユートピアです。 わがノスタルジアの旅でもありました。

油谷湾の拡大地図は 

@出発は伊上(イガミ)の
ホテルでした。
ロビーや お風呂の窓から
湾が一望できます。

ホテルが出来たほかは
景色は 昔とほとんど変わり
ません。

午前10時頃の出発。



A 掛淵(カケブチ)漁港です。昔は いわし漁で
賑わいました。一夜で当時100万円の水揚げ
があったという噂も出ました。家が何軒も建つ
お金です。煮干イリコの生産も盛んで街は
宴会の音頭であふれていました。

いま写真を撮っている橋もありませんでした。

河口ですから ボラや サヨリや うなぎも
採れました。一番奥の橋がわたしのふるさと
「渡場(ワタシバ)」の橋です。

対岸に見える今出てきたホテルの手前に
見える埋立地は 大きいハマグリが どっさり
採れる白い砂浜でした。





B角山(カドヤマ)は 半島の入り口に
なります。昔の人は 奥からここまで歩いて
来ると一安心したでしょう。
湾内の人は船で来たでしょうね。
 
写真はありませんが 沖合いに
手長島という 銀河系を 思わせる
細長い砂州を伴った小島が見えます。





C角山から5km走ると 川尻(カワシリ)
に着きます。日本海に向いた大きい
漁港でした。ブリをはじめ大きい魚を
水揚げしましたが 最近は止めているようです。

駐車場の近くで 日永競馬談義を楽しむ
男たちがいました。話に加わると 何と教師を
していたお袋や弟を知っているという中年がいました。
「俺が 先生に道元を教えたんじゃー」と豪快に笑って
います。まさに「そうじゃー」と言いたくなりました。
楽しさ一杯で 幸せです。 川尻の入り口の岬を
東の方向に臨むと 黄波戸の龍宮岬が見えます。
岬のすぐ向こう側は「小田の大浜」です。





D小田の大浜(オダノオオハマ)は昔から
油谷湾随一の海水浴場です。
見事な波が押し寄せるのでこの頃は
サーフィンが盛んらしく 専門店と立派な
トイレが設置されました。
ただ この浜は 沖に向かって返る波による
水流が強いので 溺れる人も多かった。
危険な海岸でもあります。
子供の頃何度か来た覚えがあります。

Eまた油谷半島の奥の大きい漁港
久津(クヅ)に来ますと 楊貴妃の墓
というのがあります。歴史書では
中国で死んだとなっていますが
この地に 逃れてきて死んだそうです。
中国から来た楊貴妃像が立っていて
墓や 中国風東屋が建てられています。 









F久津から 大浦という油谷半島に突き出た
油谷島への砂州状の道に面した漁港を
左に見て進むと 「泊まり」という狭い道に入ります。
油谷湾は ロシヤ海戦のとき 三笠丸以下 
連合艦隊をこの湾に 集結しましたが 2箇所
がくびれていて マストが日本海側から
丸見えになるので 隠すのに苦労したようです。
そのときの写真も 週刊新潮に出たことがあります。
先日亡くなった叔母は 女学校から見学に行った
と言っていました。 






G川尻岬には寄らずに引き返し 風力発電の
風車が3基立つ「観音山」に登りました。
見晴らしが良い 整備された公園になって
いますが 山のてっぺんに社があります
から 子供の頃は土地の人が登った程度でしょう。
バーベキュウの炉が用意されていますから
楽しいでしょうね。大浦で買ってきた
缶ビールを飲みました。幸い 身障者の
自分は 免許はありますが 家族が運転を
許してくれません。勿怪の幸いとばかり 車旅でも
飲めるのです。「ざまー見やがれ!」って気分です。

さすがに 小高い丘の上には登るのは断念。





H観音山を降りると 後畑(ウシロバタ)という
部落です。「棚田100選」で有名なところです。
元校長先生の友人てっちゃんの話では
各国の大使家族がホームステイをして棚田で
田植えや稲刈りをして汗を流して 交流している
そうです。もうすぐ田植えが始まります。
山の上の方の到る所に 灌漑用の池が
作ってあり 先人のご苦労が偲ばれます。
荒れ田も増え 心が痛みます。





休耕田らしい田んぼの畦には 懐かしいレンゲの
花が咲いていました。中学生のとき 親せきの
法事に 家の名代で招かれ 後の雨乞山を越えて
きたことを思い出しました。この辺の名物
「押し寿司」と「いとこ煮」をご馳走になり お土産に
稲荷寿司を下げて 暗くなりかけた峠の道を
狐が出て化かされるのではないかと
怖くて心細い気持ちで 一目散に駆けて帰った
ことがありました。
IJ後畑に近い海岸には「立石(タテイシ)」と
「津黄(ツオ)」と呼ばれる漁港が岬を隔てて
並んでいます。 ここには「龍宮の潮吹き」という
岩の間の穴から 押し寄せる潮の力で 鯨の
潮吹きのように 天高く潮を噴出すのが
見られます。 写真の中央当たりに 白い
潮吹きが見えていますが なかなか勇壮な
潮吹きは撮れません。

そこまでは龍宮様のようにお稲荷様を思わせる
赤い鳥居の列が岩の先まで続いています。 









入り江の奥の小さい漁港は 巨大な軍艦のような
コンクリートの防波堤で護られています。


漁港より大きいのじゃないかと思うくらいの
巨大建造物です。




潮吹きの駐車場はトイレや木の歩道が完備して
います。風は強いところで帽子など飛ばされない
ように。


立石の漁港にある観音岩は子供の頃から
「立石観音」と言われ有名でした。
遠くからでも 巨大な姿が見えます。
K津黄の方から「千畳敷」に直接登るのは
非常に狭い道しかなく 言わば裏道ですが
だんだん整備されてきているようです。
子供の頃は だだの草ぼうぼうの放牧場
みたいでしたが 近年風力発電風車が
設置されたり 多目的広場が出来たり
観光の目玉になったようです。

見晴らしは素晴らしく 青海島や 長門市
見島 黄波戸の龍宮岩 などが一望です。
我が家の方も見えますが 工場が出来たり
すっかり景観が変わりました。









L長門古市駅の方に下ってくると キビネさま
と呼ばれる旧い神社や 八幡様があります。
踏み切りや 八幡様の鳥居付近は わたしには
つらい思い出 深い場所でもあります。





M古市から5kmくらい西に行くと 
「渡場(ワタシバ)」という 掛淵の上流にある
わたしのふるさとの町に帰って来ました。
今度は朝と反対に掛淵側を見ています。
いま立っている橋の右手には かって
醤油蔵があり 故安部晋太郎さんの家も
ありました。往時茫々 夾竹桃が咲き乱れ
小さい和船が舫(モヤ)っていた岸は
コンクリートになり 連翹が咲いていました。

街外れに 今は廃校になって久しい
石原小学校の校舎跡がありました。
門柱のあった場所は変わりましたが 門柱だけは
残っていました。午後3時頃 ホテルに帰りました。

これから この石原小学校時代の友と
同窓会が始まります。 (終わり)