日本のタイムボール

報時球

 世界のタイムボール(Timeball)の歴史と現存するタイムボールについては、「タイムボールって何?」について書いていますが、ここでは日本に設置されたタイムボールについて調べてみました。
 1905年(明治38年)に天文月報(日本天文学会機関誌)1巻12号に世界のタイムボール数が掲載されています。当時の日本には2機しかありませんでしたが、その後増設されて6機が存在したようです。
 1903年に横浜と神戸に設置され、後に門司、長崎と呉、佐世保に設置されました。日本のタイムボールについての調査をおこなっています。
 ところでタイムボールの訳語ですが、広辞苑には「時球」とされています。また「報午球」「報時球」「標準球」「時報球」「表時球」など様々な訳語が使われましたが、1901年(明治34年)逓信省管船局により法令用語として「報時球」が定められました。

日本のタイムボール

横浜港(貿易港) Japan Yokohama
1903〜1923? Lat.35°26.8′N
Long.139°38.9′E
神戸港(貿易港) Japan Kobe
1903〜1927 Lat.34°41.3′N
Long.135°11.0′E
神戸港(貿易港) Japan Kobe
1927〜1938? Lat.34°41.1′N
Long.135°11.5′E
門司港(貿易港) Japan Moji
1908〜? Lat.33°56.5′N
Long.130°57.5′E
長崎港(貿易港) Japan Nagasaki
1912〜1947 Lat.32°43.9′N
Long.129°52.2′E
大阪港(貿易港) Japan Osaka
1913?〜 Lat.34°39.1′N
Long.135°25.7′E
佐世保港(軍港) Japan Sasebo 未調査  ?Lat.33°10′N
?Long.129°43′E
呉港(軍港) Japan Kure
資料未発見 ?Lat.34°14′N
?Long.132°33′E

 明治以後、海外から入国する船舶は増加の一途をたどりました。そのなかにはクロノメーター搭載のものも少なくなく、欧米から最遠の地である日本に到着したときは誤差の累積もかなり大きくなっていたと考えられます。
明治から昭和初期にかけてのタイムボール関連の出来事です。
 1973年(明治6年)太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦があり欧米の暦年時刻法を採用。
 1884年 万国子午線会議がありイギリスのグリニジを通る子午線を経度0度とすることが決議された。
 1886年(明治19年)「本子午線経度計算方法及標準時ノ件」勅令により、明石を通る子午線が東経135度と決定。
 1901年(明治34年)逓信省管船局は、船舶向け報時信号装置の設置を促され大谷、日下部の両氏に研究を委嘱。
 1903年(明治36年)3月2日 横浜と神戸にタイムボールが設置、作動を開始。
 1908年(明治41年)6月 門司にタイムボール設置
 1912年(大正元年)2月10日 長崎にタイムボール設置(1923年6月の記述もあり)
 1913年(大正2年)9月 大阪にタイムボール設置
 1927年(昭和2年)4月 神戸のタイムボール二代目設置


 各地のタイムボールについての調査です。
 日本では 横浜・神戸・門司・長崎・大阪・佐世保・呉 の7カ所に設置されたとの記録があります。 下の世界のタイムボール分布をみると日本には6機あるように書かれていますが、この6機がどれを指すのかはわかりません。1904年当時には日本には2機、設置年代不明の軍港を入れても4機しかなかったはずです。
 可能性として考えられるのは台湾です。日本は1895年に台湾の統治権を得て日本領としていました。台湾にタイムボールがあれば日本のものとして数えられていたはずです。しかし台湾にタイムボールがあったという記録はみつかっていません。(朝鮮半島を併合したのは1910年です)

横浜港 Yokohama

 横浜港のタイムボールはフランス波止場近くにありました。氷川丸から山下公園通りを挟んだ現在のホテルニューグランド(1927年創業)の前あたりです。横浜のタイムボールは黒色で、神戸のものは赤色でした。
 右の絵は当時の絵ハガキを模写したものです。(著作権があるので本物は掲載できません) フランス波止場の西隣、松並木のある海岸通り(「バンド」と呼ばれていました)から海に突きだしたところに設置されていました。現在は山下公園の「水の守護神」噴水のあるところです。
 横浜が開港した頃の桟橋は今の大桟橋の位置と、その西側の2本ありました。今の大桟橋に比べれば大変小さな桟橋で、最初にできた大桟橋のところのものがイギリス波止場、その西側にできたのが国内貨物を扱う税関波止場です。イギリス波止場は、後に波から守るため左にカーブした独特の形になりましたが、これは象の鼻と呼ばれました。

 その後1864年には現在のホテルニューグランドの前あたりの海にさらに小さな2つの波止場ができました。こちらはフランス波止場と呼ばれました。昔は海岸通が文字通り海岸線だったのですが、関東大震災の後の瓦礫を埋め立てて山下公園ができて、海岸線が少し先にのびてしまいました。そのためにフランス波止場は今では見ることが出来ません。右の写真は現在(2007年9月)の山下公園南側の歩道です。左は山下公園、右の建物はホテルニューグランド。絵はがきの構図でホテル・モントレー前で撮影しました。
 1923年9月1日午前11時58分 ちょうどタイムボールが上がっていたときに関東地震(関東大震災)がおこったという逸話が残っています。タイムボールはそのとき倒壊して以後は再建されませんでした。

明治41年6月改訂増補 航海指針(海員協会蔵版)・・保護期間満了により著作権は発生しません
横浜報時球信号手続
1.報時球ハ日曜日及大祭日ヲ除キ毎日本邦中央標準時ノ正午時(東経135度ニ於ケル平時正午時即テ英国緑威平時ノ15時)ニ於テ墜下ス
2.報時球ノ位置ハ北緯35度26分40秒988東経139度39分0秒330
3.報時球の色ハ黒色トシ櫓は白色トス
4.報時球の球は常に下部横木上ニ据置キ正午時5分前(午前11時55分)ヨリ之ヲ上部横木下マテ引上ケ東京天文台ヨリ電気作用ヲ以テ之ヲ降下セシム其降下シ始ムル瞬時ヲ以テ正午時トス
5.報時信号ニ過誤アリタルトキ又ハ故障ノ為メ誤信号ヲ為シ能ハザルトキハ球橋ノ下桁端ニ万国船舶信号ノW旗ヲ掲グ

神奈川県港務部要覧にあるタイムボールの設置場所の地図です。海岸通りとフランス波止場の間にあったようです。1901年(明治34年)には完成していましたがボールを引き上げるウインチに不具合があり2年間は実用化されなかったという記録が残っています。実用化されてもしばらくは誤動作をしていて、ボールの軽量化、シリンダー改造、先端部にバネの追加など改良を重ねて数年後には信頼できる装置になったことなども記されています。また同要覧にはタイムボールを作動させるための電気回路図も描かれています。下の図は北が左側になっています。

現在の地図(左)と当時の地図(右)を見比べてください。1906年の地図(現在の地図を海岸線のみ改変しています。原図(「100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景」に添付されていたもの)では青丸が地図上の報時球です。これによると報時球のためだけに埋め立て地を作っているように見えるのです。
しかし上の港務部要覧にある設置場所の図は地図上の位置とは異なり、もう少し東側の赤丸の場所を示していると考えられます。絵葉書などから見ると東側が正解のようにも思えます。その後1907年(明治40年)頃の地図を見つけました。ブレット薬局というところが外国人向けに出していたもので、TIME BALL の文字が見えます(下線部)。どうやらこの図が正解であろうと考えられます。報時球は数十メートル東側 ホテルグランドの正面にあったようです。
 

ブレット薬局の地図(1907年頃) 上の図との比較のため上下逆転しています

グーグルアースで見た横浜港です。

神戸港 Kobe

 阪急・阪神元町駅から西へ約400mほどのところに花隈公園があります。現在は石垣の下部は市営駐車場になっています。戦国武将 荒木村重の出城跡であった花隈公園には当時英国領事館がありましたが逓信省が買収しタイムボールが設置されました。周囲に高層建築物のない当時は海抜18mであるが神戸港全体を見渡すには十分な高台であったと考えられます。一時期は午砲と併用されていたときもあり、この場所を「ドン山」、タイムボールを「ドン玉」と呼んでいたそうです。
 このタイムボールは完全な球ではなく数枚の紡錘形金属板を上下端で留めて球形にしたもので、やや縦長で金属板には隙間があったとされています。
 太平洋戦争後に花隈公園として整備されましたが、そのときまで鉄製の支柱が残っていました。
 タイムボールの運用については下記の神戸報時球信号手続が残っています。

兵庫県告示第104号・・・公文書により著作権は発生しません
神戸市花隈町本県港湾務部内ニ報時球ヲ設置シ信号手続左ノ通リ相定メ明治36年3月2日ヨリ之ヲ施行ス
明治36年2月26日
兵庫県知事 服部一三
神戸報時球信号手続
1.報時球ハ日曜日及大祭日ヲ除キ毎日本邦中央標準時ノ正午時(東経135度ニ於ケル平時正午時即テ英国緑威平時ノ15時)ニ於テ降下ス
2.報時球ノ位置ハ北緯34度41分10秒823東経135度10分18秒025
3.報時球の球は常に下部横木上ニ据置キ正午時5分前(午前11時55分)ヨリ之ヲ上部横木下マテ引上ケ東京天文台ヨリ電気作用ヲ以テ之ヲ降下セシム其降下シ始ムル瞬時ヲ以テ正午時トス
4.報時信号ニ過誤アリタルトキ又ハ故障ノ為メ誤信号ヲ為シ能ハザルトキハ球橋ノ下桁端ニ万国船舶信号ノW旗ヲ掲グ

なお明治41年6月改訂増補 航海指針(海員協会蔵版)には 報時球の色は赤色 櫓は白と書かれています。

 1920年台になり花隈の事務所が手狭になったため、メリケン波止場の東約200mに合同庁舎(兵庫県港務局、逓信省海事部神戸出張所、水上警察署)が建てられ、1927年4月20日 屋上に2代目タイムボールが設置され作動を開始しました。正午のサイレンと併用されていた時期もありました。このタイムボールがいつまで作動していたのかは不明ですが、昭和13年にはすでに役目を終えて作動していなかったということです。
 下の写真は神戸海洋博物館が所蔵する弓倉恒男氏(元同館館長)の著作にある写真を許可を得て転載したものです。左が花隈にあったタイムボール、右はメリケン波止場(現メリケンパーク)から見た合同庁舎です。右の水兵の後ろにある建物の屋上にかろうじてタイムボールが確認できます。
 報時球の位置表示が現在の値と異なるのは、現在の緯度経度の測定方法が人工衛星を用いて当時より格段に進歩して日本の位置が正確にわかったためです。
 右は神戸市立博物館に展示されている1940年頃の神戸港のジオラマです。元の資料に当たることはできませんでしたが、竹中工務店が坂本勝比古氏監修で制作したものです。花隈公園の初代は赤でしたが2代目は黒になっています。右下の水兵の後ろに写っている建物と見比べてください。

グーグルアースで見た神戸港です。矢印の左側が花隈公園、右側が合同庁舎(新庁舎)です。

長崎港 Nagasaki

 「タイムボール」という言葉を初めて知り調査を開始するきっかけになったのが長崎港のタイムボールです。そのきっかけとはハレー彗星について調査しているとき1910年 東京天文台でハレー彗星を観測した田代庄三郎氏が後に長崎に赴任しタイムボールを設置したという記事を見つけたことに始まります。タイムボールがどのようなものなのか興味をもち調査を始めたのが2002年です。それ以来少しずつ調査を進めています。
 特に長崎では。1912年(明治45年) 2月鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始しました。このタイムボールは直径 2.1m、赤色に塗装されポールは白色、高さ27m。赤い玉は正午5分前にポールの上部に引き上げ、電気信号により正午ちょうどに6m落下させました。長崎のタイムボールが横浜、神戸、門司と大きく違ったのは、独自に報時観測所をもっていたため、日曜、祭日も休むことなく報時をすることができたということです。また同時に午砲も鳴り「ドンの山」として市民に親しまれました。
 上は吉田初三郎が描いた「九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》」の一部です。長崎市観光宣伝科と所蔵されている長崎大学工学部教授 岡林隆敏先生の許可を得て掲載しています。1933年(昭和8年)に描かれ翌年発行されています。大浦天主堂の裏山(鍋冠山 標高160m)中腹に観測所があり赤いタイムボールが描かれています。
 稼働していたかどうかは不明ですが1947年まで存在し、その後取り壊されて官舎が建っていました。現在は空き地になっています。
 長崎のタイムボールの写真は調査中ですが非常に少ないと考えられます。それは明治末期から太平洋戦争終了まで 長崎港が要塞地帯法に指定されていたことにより、市街地の撮影は厳しく制限されていたからです。防衛庁などには資料があるのかもしれませんが、呉や佐世保などの軍港のタイムボール写真が今後公開される可能性は低そうです。当時は汽車で軍事施設の前を通りかかると、窓のブラインドを強制的に閉めさせられたなどといった情報管制がおこなわれていました。当時の大型カメラをもって市街地をうろつけば憲兵や特高にスパイ容疑をかけられ犯人扱いされた可能性は十分あります。

グーグルアースで見た長崎港です。矢印空き地がタイムボールの跡地です。

門司港 Moji

   北九州を管轄する第七管区海上保安庁のホームページに「ほうじきゅう」の話題が掲載されていました。さっそく取材をしたところ、旧門司市市役所(現北九州市門司区役所)にあったという情報を得ることができました。
 さらに情報を正確にするため、門司区役所の町づくり推進課に取材すると今村元市氏の著書を紹介していただきました。またタイムボールの位置は区役所屋上ではなく隣接した場所であったということでした。

 今村元市氏の著書「ふるさとの想い出写真集・明治大正昭和・門司」(国書刊行会1979)に次のような記述があります。
 報時球というのは、港内に碇泊している船に正確な時間を知らせるために設けたもので、直径二メートルの大球が正午五分前に吊り上げられ、東京天文台に直通する電磁機によって正午をさす瞬間落下するようになっていた。明治三九年ごろ、福岡県港務部によって建設。位置は広石の現門鉄宿舎の真向いの小高い所にあった。後に門司税関の屋上に移された。

 右の写真は上の写真集に掲載されていたもので撮影年代は不明ですが、移築前のタイムボールのようです。色はわかりませんが、神戸のものとほとんど同じ形であることがわかります。球の向こう側が見えていて、完全な球殻ではなかったことがわかります。また広石という地名は区役所より数十メートル西の地域であること、隣接していたという証言を元に地図と衛星写真から広石1丁目の山側と位置を推定しました。なお設置年代は1908年(明治41年)が正解のようです。
写真は今村氏の了解を得て掲載しています。

グーグルアースから見た門司港です。上が税関の入っている合同庁舎 区役所の西にあるが最初のタイムボール設置場所です。

大阪港 Osaka

 大阪港にタイムボールが設置されたかどうかの公式記録は見つけられませんでした。戦災で失われた可能性もあります。大阪には午砲、いわゆる「ドン」が天保山に設置されその後大阪城内に移設されました。市民にはこちらの方がなじみが深かったため、音もせずひっそり立っているタイムボールが市民の記憶に残ることは少なかったのでしょう。
 なお第五管区海上保安庁によると 1913年(大正13年)の毎日新聞に「築港利用決議」として「船舶航行碇泊に関する件」として「埠頭地に報時球を設置すること」という一文があることがわかりました。決議であって実際に設置されたかどうかはわかりませんでしたが、大阪市立中央図書館に調査をお願いしたところ、1913年(大正2年)4月26日〜4月28日までの大阪毎日新聞に掲載された築港利用決議(三)第四章に次の文章がみつかりました。

 第四章 船舶の航行碇泊に関する件
 第一航路標識 一、各河口に導灯を設置すること 二、航路に挂灯浮標を増設し且之を閃光灯とすること 三、大桟橋突端に信号所を設くること 四、埠頭地に報時球を設くるおと(ママ・・・「こと」の誤り)
 第二繋船浮標、繋船浮標を増設すること
 第三回船場、安治川に回船場三箇所を設くること
 第四項内巡航船、港内に市営巡航船を設くること(ママ・・・「港内巡航船」の誤り)

 同様の記事は大阪新報1913年5月10日〜5月15日の記事にも見られます。こちらは築港利用案批判の目的で掲載されています。

 大阪に設置されていたということは、弓倉恒男氏(神戸海洋博物館館長:当時)の「タイム・ボール」という論文(1994年)に登場するのみです。以下弓倉氏の文章です。

 明治36年3月、横浜と神戸でわが国最初のタイム・ボール、「報時球」が作動を開始した。その後、明治41年6月門司、大正12年6月長崎、大正13年9月大阪に設置され、この間に呉・佐世保の軍港にも置かれた。

 長崎にタイムボールが設置されたのは1912年(大正元年)ですから上の文章は明らかに誤っています。西暦を大正と誤っている可能性があるので大阪に設置されたのも1913年と考えればつじつまが合います。しかし調査が甘く「設置すること」を「設置した」と誤って解釈した可能性を否定できません。
 グーグルアースで見た現在の大阪港の築港(ちっこう)付近です。阪神高速道路湾岸線より外側の出島のような形をしています。黄色で囲んだところが住友倉庫(現三井住友倉庫)で1912年に建てられた記録があります。もしタイムボールが設置されていたとしたら天保山からマーケットプレイス・海遊館・サントリーミュージアム・水上署・税関へ至る大阪市が所有している海沿いの土地のどこかと考えられます。可能性が高いのは日本一低いとはいえ周囲より高い天保山ですが、天保山に登ってもそのような記念碑などはありません。また海に突き出した桟橋の位置からすると水上署や海遊館など島の西側であった可能性も十分考えられます。
 築港の歴史を調べると、江戸時代に安治川の浚渫工事でできた天保山、1897年から大阪市の巨大プロジェクトとして築港計画がスタートし工事がおこなわれましたが、1916年には財政難で工事中止となっています。その後第一次大戦の好景気で再開され1929年にようやく完成しています。タイムボール建設?の1913年には築港は完成しておらず、外国船も入港できないのに大桟橋だけができあがっていました。本当にタイムボールが設置されたのか疑問が残りましたが、一枚の写真の中から現物を発見することができました。
 1934年(昭和9年)9月21日に近畿地方を襲った室戸台風による被害写真にタイムボールが写っていました。正確な設置時期や廃止時期はわかりませんでしたが、存在は確実となりました。
 築港の大桟橋も被害 強風による激浪が打ち寄せた桟橋も大きな被害をこうむり、係留中の船は岸壁に打ち寄せられた。また桟橋周辺には壊れた家屋の材木辺が点々と浮かんでいる。
 という説明文が添えられています。写真には水上署と考えられる3階建ての屋上にタイムボールがはっきり写っています。これにより場所が特定できました。 形状は他港のものと異なり、東京タワー(というより旧通天閣型)のような末広がりの鉄骨の上にボールが乗っています。ボールは黒く中央に白い斑点が横に並んでいます。白く塗ってあるように見えますが、他港のボールと同様 球殻に隙間があるのかもしれません。
写真は著作権の都合で公開できませんので絵を描きました。絵では黒く描いていますが支柱は白(または明るい色)です。写真は中央突堤側から見た海遊館と水上署です。(2008年7月15日撮影)

呉港・佐世保港 Kure ・ Sasebo

 呉港・佐世保港にタイムボールが設置されていたことはほとんど知られていません。当時 この2港は軍港で一般の商船や客船・貨物船などは入港できませんでした。物資輸送は鉄道でおこなわれ、入港できるのは軍艦のみです。軍人以外は近づけない場所にあったので、当然見知っている人が少ないのも頷けます。また長崎のところでも書いていますが、情報管制が敷かれていたので、いつ頃どこに設置されたかを調べるのは容易ではなさそうです。今後 防衛庁・防衛施設庁関係に取材をするしかなさそうです。
 呉・佐世保に設置されていたということは、上記 弓倉恒男氏の「タイム・ボール」という論文(1994年)に登場するのみです。

 2006年10月24日 防衛庁に取材をしてみました。
 呉地方総幹部に電話をすると「報時球については誰も知らない」という返事をいただき、防衛庁防衛研究所を紹介してもらいました。
 防衛庁防衛研究所に電話をすると「戦史については判るが他は判らない」とのことで、呉の大和ミュージアム、海上自衛隊佐世保資料館を紹介してもらいました。担当者には丁寧な対応をしていただきました。
 海上自衛隊佐世保資料館に電話をすると電話に出た担当者が「誰か報時球って知ってるか?」と周囲に聞く声が・・・数秒後「誰も知らないようです」との返事・・・そんなに簡単に判るはずないでしょ、食い下がって「資料を閲覧してもよろしいか?」と問うと「勝手にどうぞ」とのことでした。
 この時点で午後5時になったので、大和ミュージアムには連絡できず。防衛庁も国民の質問にはたらい回しをするようです。佐世保の担当者のやる気の無さそうな対応が、この人物の立場(資料館などは窓際の閑職なのでしょう)を示しています。
 後日 大和ミュージアムに連絡を入れましたが、対応は丁寧でしたが結局わからずじまいでした。しかし設置されていたとすれば呉と佐世保の鎮守府の建物が有力ではないかとのアドバイスを頂きました。

呉港での調査

 2007年8月8日 呉港の大和ミュージアム、海上自衛隊鉄のくじら館へ行ってきました。
 大和ミュージアムでは学芸員さんに直接尋ねました。また呉市の図書館の史料編纂室にも連絡をとっていただきましたが、タイムボールの存在は確認できませんでした。
 ついで大和ミュージアムで吉田初三郎(長崎の鳥瞰図を描いた人)の呉市周辺の鳥瞰図を発見しましたが、軍港部分はやはり空白になっていて描かれていません。しかし「新版呉軍港案内」という書物(昭和8年初版)の復刻本を手に入れました。ここには次のような記述がみられます。


 城山
 やはり呉鎮守府裏門の石段をおりた付近で呉工廠を見学したら、北門から帰り道の左手に小高い丘が見える・・・(中略)・・・現在では海軍気象観測所並無線電信所の支柱などがあって、部外者は登攀を許されない、呉市民に時を知らす午砲はこの山上から発砲されている。


 鎮守府東側の盛り上がった場所で現在は松が茂っていますが、午砲があったこと、1933年(昭和8年)にはすでに電信施設があることでタイムボールの存在意義はありません。日本のタイムボールは建物の屋上や塔の頂上ではなく、専用の大きな鉄塔を建てていたものばかりなので、この本が書かれた時点で存在していれば必ず記載されているはずです。タイムボールがあったとしても撤去された後でしょうが、存在すればこの場所である確率が高いと考えられます。

その他

 日露戦争(1904)、日韓併合(1910)や第一次世界大戦(1917)によって朝鮮半島・台湾や中国の一部が日本国や日本の租借地となっていました。これらの地域にあったタイムボールが日本のものと記されていた可能性があります。
 1918年の満州日日新聞(1918.2.2)には、大連港のタイムボールが第一次大戦(欧州戦争)勃発により発電機が届かず、設備はできたものの動作していないという記事が出ています。また旧ドイツ領の山東半島付け根にある膠州にもタイムボールが設置されていたこともわかっています。
 香港では メリディアンビルの屋上に設置されていたようです。「經線大廈(Meridian Building)屋頂上懸掛了一個紅色報時球,?天下午1點降下,以作河上船舶對時之用」の記述があります。

世界のタイムボール分布

 
20世紀初頭のタイムボールの分布 1904 (天文月報第1巻12号による)
国名・地域名
展開板
円筒形
 
国名・地域名
展開板
円筒形
イギリス
 
 
  ドイツ
 
 
 地中海沿岸
 
 
   膠州湾(中国山東省)
 
 
 インド
 
  ノルウェー
 
 海峡植民地
 
 
  デンマーク
 
 
 香港(中国広東省)
 
 
  スウェーデン
 
 
 アフリカ西海岸
 
 
  ロシア
 
 
 セントヘレナ
 
 
  フランス
 
 喜望峰植民地(南アフリカ)
 
 
  ポルトガル
 
 
 モーリシャス
 
 
  スペイン
 
 
 オーストラリア
 
 
  イタリア
 
 タスマニア
 
 
  オーストリア
 
 ニュージーランド
 
 
  エジプト
 
 
 カナダ
 
 
  アメリカ合衆国
16
 
 
 バミューダ
 
 
   マニラ(フィリピン)
 
 
 英領ギアナ・西インド諸島
 
   西インド諸島
 
 
ベルギー
 
 
  南アメリカ
 
オランダ
 
 
  中国
 
 
 東インド
 
 
  日本
 
 


取材をおこなった公的機関

 海上保安庁第三管区海上保安本部広報室  海上保安庁第五管区海上保安本部広報室
 海上保安庁神戸海上保安部 海上保安庁第七管区海上保安本部マリンレジャー安全推進室 
 大阪市港湾局海務課  大阪市港湾局振興課
 北九州市門司区役所まちづくり推進課  長崎市観光宣伝課「長崎のさるき方」 
 長崎大学工学部  総務省近畿総合通信局
 独立行政法人情報通信研究機構 国立天文台(大学共同利用機関法人自然科学研究機構)
 社団法人神戸港振興協会神戸海洋博物館  横浜開港資料館 
 神戸市立博物館   
 国立国会図書館関西館  国立国会図書館 デジタルアーカイブポータル 
 大阪市立 大阪歴史博物館 大阪市立 なにわの海の時空館 
 大阪市立中央図書館  大和ミュージアム 
 海上自衛隊呉地方総幹部 海上自衛隊鉄のクジラ館
 海上自衛隊佐世保資料館 × 防衛庁防衛研究所
  ●は有益な情報が得られたところ ×は国民をなめているところ

参考文献

 タイム・ボール:弓倉恒男:神戸海洋博物館紀要:1993
 改訂増補 航海指針:海員協会蔵版:1908
 神奈川県港務部要覧:神奈川県:1910
 丙種運転士運用術独学:福井清司:春芳堂:1909
 100年前の横浜・神奈川 絵葉書でみる風景:横浜開港資料館:有隣堂:1999
 横浜大桟橋物語:客船とみなと遺産の会:JTBパブリッシング:2004
 ふるさとの想い出写真集 門司:今村元市:国書刊行会:1979
 九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》:吉田初三郎:1933
 写真集おおさか100年:サンケイ新聞社:1987
 毎日新聞マイクロフィルム 1913年版
 新版呉軍港案内:呉郷土史研究会:1934復刻版2000
 旧神戸外国人居留地 Old Foreign Settlement of KOBE 復元模型 神戸市立博物館所蔵

当サイトの写真・図版等は所有者・著作権者に許可を得て使用しています。またそれ以外の図版は当サイト管理人の ねこんた が版権を所有していますので転載禁止です。(連絡を頂いても許諾しません

関連サイト

 鍋冠山のタイムボール
 吉田初三郎が描いたながさき
 神戸海洋博物館
 マリンレジー安全レポート(第七管区海上保安庁)

2006.09.12 横浜・神戸・長崎
2006.09.14 門司
2006.09.17 呉・佐世保・大阪
2006.09.29 横浜
2006.10.10 大阪
2006.10.24 呉・佐世保
2006.11.03 横浜 追補
2006.11.28 追補
2007.08.11 呉 追補
2007.09.25 横浜
2008.05.25 神戸
2006.07.16 大阪

前に戻る