「あーもう!何でよォ、みつるが何したっていうのよーっ!」


廊下に響き渡った大声に、その場にいた受験生はぎょっとした顔で声の主を見た。

長めの髪を僅かに振り乱して、泣きそうな顔をしている少女。

随分と整った顔立ちをしているが、先程の悲鳴にも似た独り言で、周囲の人間は少女の顔を見るどころではない。

大きな目に微かに涙を浮かべながら、少女はがっくりと肩を落とした。


「・・・何よう・・・幸先悪すぎる・・・」


ハァ、とため息をついて、少女は廊下の冷えた壁に凭れた。

廊下は人の波で溢れ、先程の彼女の大声など忘れてしまったかのように、元の喧騒を取り戻す。

忙しなく行き来する人の群れ。その一方で、足を止めて会話に勤しむ人間も多い。

廊下の端から端まで視線を走らせながら、少女はまた一つ 大きなため息をついた。


瑛倉実都留。彼女がこの桜海学園を受験した理由は、

単純に「制服が可愛かったから」という、なんともありきたりで不純なものであった。

偏差値が低すぎず、高すぎず―――いわゆる中堅よりやや上を行くこの高等部に入る為、

彼女は中学時代の後ろ半分を真面目に勉学に費やし、兄に家庭教師にもついてもらった。

・・・が、しかし。受験当日にこの仕打ちはあんまりではないか、神様。

そう思いながら、実都留は俯いた顔に涙を浮かべ、けれどもそれを必死に堪えていた。


こんな事になるならば、大人しく教室で勉強していれば良かった。

・・・そう考えても後の祭りであるが、「自分が入る予定の高校なんだから、ちょっと辺りを散歩してみよう」と

思い立ち、廊下に出たのがそもそもの間違いであった。

財布をポケットに仕舞い込み、受験票も無くしてはならない・・・と持って教室を出たのが10分前のこと。

最初は楽しかった。新校舎である為に、真新しい作りになっている壁や教室。

何もかもが新鮮で、「ここで4月から生活を送れたら・・・」と夢心地に近い心境だった。

人の波を縫うように、調子に乗ってすいすいと進んでいたのが恐らく、原因だったのだろう。

気がつけば――――ポケットの中に入れていたはずの受験票が、なくなっていた。

まさか、受験票を盗むような真似をする人間はいないだろう・・・と思いたい。

そうすると、考えられるのは紛失。・・・つまり、廊下の途中で落としてしまった、という事だった。


受験票の喪失に気づき、実都留はすぐさま廊下の隅々まで歩いて回った。

しかし、この人の群れ―――なかなか思うように探す事が出来ず、人に尋ねても手がかりすらもない。

・・・受験票の所持なんて、常識的な事。

紛失しました、などと素直に言って、もし合否に関わったらどうしよう―――――

それが気がかりで、実都留は必死に探し回っていたのだ。・・・だが、見つからない。



「・・・みつる、お馬鹿さんだ・・・調子に乗りすぎちゃったんだ・・・・・・」



じわ、と涙が一気に溢れて零れた感覚に気づき、実都留は焦って目の周りを拭う。

・・・受験票を失くした事も情けないけれども、その事で泣いてしまうのも情けない。

ハンカチで目を押さえようと、ポケットの中にあるハンカチに手を伸ばそうとしたその時―――――

ふと、自分の目の前に影が落ちたような気がして、実都留は慌てて顔を上げた。



「あ、あの・・・もし間違ってたら申し訳ないんだけど、もしかしてこれは君のかな?」

「え?」

「いや、さっきこれを拾ったんだけど・・・受験票を失くして探してる子がいるって、向こうの方で聞いたんだ。

 そうしたら、君だけ様子がおかしかったから・・・もしかしたら、って」



・・・そこにいたのは、眼鏡を掛けた背の高い、どこか真面目な雰囲気を醸し出す男子生徒だった。

その制服には見覚えがある。やたらときっちり着こなしている、規定通りのそれ。

男子生徒のジャケットの胸ポケットには、桜海学園の校章が縫い付けてあった。



「あ!そ、それ・・・私の受験票!!」



ふと、実都留が彼が差し出した「物」に視線を向ける。

そこには――――実都留がずっと探していた紙切れが、どこかから吹き込む緩やかな風に揺れていた。

彼の指の隙間から見える名前は確かに自分のそれで、実都留は慌ててそれを受け取る。

・・・改めて確認すると、失くす前よりも少し汚れがついているが―――確かに、彼女の持ち物であった。


「ああ、やっぱりそうだったのか。・・・はい、今度は失くさないように気をつけて」

「あ、あ、あの・・・有難うございますっ!ずっと探してたんです・・・もう見つからないって、諦めてたのに・・・」

「柱の影に落ちていたから、もしかしたら気付きにくかったのかもしれないね。

 ・・・ああ、ほら。そろそろ監督の先生方が来るから、教室に戻った方がいいよ。試験、頑張って」


男子生徒がふっと微笑むと、実都留は何故だか気分が落ち着くような感覚に陥った。

緊張がほぐれていくような・・・全てがうまくいくような、そんな錯覚。

まるで「桜海学園で待っているよ」と言われているようで、実都留は先程とは違う意味で、涙が零れそうだった。


「それじゃあ、僕は職員室に行かなければならないから・・・」

「あ!あ、あの!・・・な、名前教えて下さい!受かって入学出来たら、お礼と報告に行くので!」

「え?」


突然引き止められ、その上唐突な少女の申し出に、男子生徒はぽかんとした表情になる。

・・・けれども、すぐに口元に微笑みを取り戻し、照れたように頬を掻いた。


「そんなに気を遣ってくれなくても、当然の事をしたまでなんだけど・・・。

 僕は蒼沢翔司。桜海学園高等部で、今は二年生なんだ」

「あ、蒼沢先輩・・・」


確かめるように、彼の名前の一部を呟いてみる。

思いの外しっくりと心の中に収まったその名前に、実都留は安堵が入り混じった笑みを浮かべて、

小さく頭を下げてみせた。


「先輩、本当に有難うございます。私・・・先輩にお礼を言いにいけるように、頑張ります!」

「・・・っ・・・あ、ああ。そっ・・・それじゃあね」

「はい!」


最後、どこか挙動不審な口調へと変貌した翔司に少し首を傾げつつも、

実都留は彼の背中を見送ると、よし!と小さくガッツポーズをしてみせた。


・・・これで、また一つ受からなきゃいけない理由が増えた。

絶対に、今日は受かってみせるんだから―――――!


受験票を強く握り締め、実都留は踵を返すと、自分の受験教室へと急いだのだった。