まだ陽も射さぬ夜明け前。
ふとゲオルグが目を覚すと、同室のカーンの姿はなかった。
「また眠れなかったのか・・・?」
何処に行ったのだろう、自分としてはとても気になる。
けれど互いの夜に干渉するような束縛じみた関係ではないし、
詮索されて彼が不快がるのは見えている。
常日頃、酒場の隅で呑んでいるか、妙齢の女性と共に回廊の奥へと消える姿を
多くの者が目撃しているらしいので、今回もそのいずれかだろう。
・・・どちらでも無かったら?
どこかで独り、昇らぬ月を待ち続けているのだとしたら。
カーン。
いつもなら気にもせず、再び寝入ってしまうのだが
(如何なる時も瞬時に起きて闘えるよう、睡眠は可能な限りとらねばならない)
カーンの不在がやけにゲオルグの胸を騒がせた。
尤も、居れば居たでカーンの纏っている微弱な気配が
(夜に忍び闇に立ち向かう為の、彼の長年の訓練の賜物に違いない、きっと)
・・・花のように匂やかで、砂糖菓子のように繊細で、刃のように硬質な
彼の独特の気配が、ゲオルグの心をくすぐり、落着かない心地にさせるのだが。
探しに行ってみよう。
朝の修練にはまだ時間が早い。
彼を探すのは容易かった。
酒場や誰かの部屋の中に『いない』場合だけを憂えていたので、
ゲオルグは廊下を通り、視界のよい場所から見回すだけでよかった。
湖畔に近い崖壁のへりで、東を眺めている人影がある。
貌は見えなくともカーンだと直に判った。
気がつけば、二十歩ばかりの距離まで近寄っていた。
今さら引き返しても怪しすぎる。
「そんな格好で寒くないか?」
喉元にスカーフ様の装飾がついたシャツブラウスに、初冬の夜明けには
やや薄いような上衣を羽織り、身を震わすそぶりすらない。
「寒かったらコートくらい着ますよ、子供じゃないんですから。
貴方こそ、こんな時間にお散歩ですか? それとも」
「ん?」
「年寄りは朝が早いって云いますが、まさか貴方も・・・おっとと」
ゲオルグが探しにきた事ぐらい、カーンも声をかけられる前から気付いている。
だから尚更そんな事は言葉にできなかったのだろう。
「ったく・・・俺が散歩したい気分になったら何か都合が悪いのか?」
「いいえ。折角だから一緒に見ていきますか、ゲオルグ」
「何をだ?」
「新しい天の金盤ですよ」
新しい天の金盤。
その古めかしい言い回しはゲオルグの耳に心地よかった。
とある民族は昔、太陽を神が金の円盤に油を満たした灯火だと考えていた。
毎年冬に替えられた太陽は徐々に熱をおびて夏ごろに燃えさかり、
ゆっくりと火の勢いが衰えてきた頃に、再び新しいものへと替えられると
信じていたそうだ。
「冬至祭か。確か暦ではもう少し先だったが」
カーンは微笑を浮かべ、言葉を継いだ。
「ええ、そうですよ。でも、マリィ家(うち)の暦では今日なんです」
星月の状態が敵の強さ・・・己の死活に密接に関わってきたからこそ、
一日たりとも違えてはならなかったのだ。
農耕、儀式や国家行事に基づく暦とは計りかたが違うのも当然だ。
「ひとりで、祝うつもりだったのか」
「・・・うちだけの、暦ですからね」
もう誰も、この暦で日月を数える者はない。
ゲオルグの知る限り、カーンの代で絶えてしまう暦だった。
「本にしてエミリアにでも寄付すればどうだ」
「そうですねぇ」
カーンはわかりやすい生返事。
暇をもて余しているくせに、面倒なのだろう。
陽のひかりが空の縁をわずかに染めはじめると、カーンは懐から
板片のようなものを取りだした。
数呼吸で組み終わり、慣れた手つきで細紐を張ると、十五弦ばかりの
小さなツィターが形を為した。
爪弾いて音色を調え、かろやかな楽を奏でる。
少し弾いて、カーンが首を傾げた。
「やっぱり独りじゃ、元気が出ませんね」
冬至を祝う人々には、まだ力の弱い太陽の為に音楽を奏でる風習がある。
カーンの持つ共鳴版もない組立てのツィターでは、せいぜい傍らにいる
ゲオルグにしか聞こえはしない。
「カーン、今度は俺に弾かせてくれないか」
意外そうな表情を浮かべ、カーンがツィターを手に渡す。
弾けるんですか? とからかわれるかとも思ったが、
いつになく素直にされて何となく小気味がいい。
ゲオルグは胡坐をかいた膝の上にツィターを置き、板面の隅で拍子を取ると
空覚えの音曲をかき鳴らす。
叙情的な早弾きの短調に、時折陽射しのように明るい和音が差込む。
・・・こんなものを手にしていたのはもう忘れる程の昔だというのにな、
ゲオルグは内心驚き呆れながらどうにか弾き終えた。続けて、どこにでもある
素朴な旋律の和声を奏でる。
おそらくは室内で伴奏をするための、この小さなツィター。
カーンが歌えるということを薄々気付いており、歌って欲しいと思いながらも、
何を歌うのかまでは考えもつかなかったゲオルグは牧歌を選んだのだ。
しばらく耳を傾け、カーンは頷く。
声量は控えめながら柔らかな声がフレーズを辿り、音に寄り添う。
ゲオルグはその唇に触れてしまったときの柔らかさを思い、どきりとした。
音はいつしか、何処のものとも知れぬ異国の言葉で歌われ、
カーンに合わせて祈り歌の旋律をなぞっていた。
そしてひと通り澄んだ和音を織りあげ、二人は手と声をとめる。
続きは湖風が奏でてくれる。
「太陽ですね・・・」
カーンが眩しげに手を翳す。
髪は光に梳かれて、きらきらとさざめいている。
「・・・もう痛みはしないのか?」
心配げに問いかけた。ある因縁でカーンが陽光に苛まれていたことを
ゲオルグは知っていたからだった。
「ええ」
諾とも否ともとれぬ溜息。
時々恐ろしいほどの精神力で平静を装っているから、油断がならない。
本当は一瞬たりとも目を離していたくはない。
人一倍壊れやすい癖に、傷を隠すことばかり長けて、笑顔ばかり上手くなって。
俺の言葉をお前はどこまで聞いてくれているのだろう、
この我儘な憧れをお前はどこまで受け容れてくれているのだろう、
お前は何を想っているのだろう。ゲオルグは頭をかきむしった。
「ありがとう・・・ゲオルグ」
ふと見遣ると、カーンの貌に間違いなく本物の微笑が浮かんでいた。
「・・・・・・」
「もう二度と、こうして新しい太陽を迎えるなんてことは出来ないと、
ずぅっと諦めていたんです」
「別に俺はあいつと戦った訳でもないし、会った事もないんだがな」
「いいえそんな事じゃなく」
口をつぐみ、それ以上は云おうともしない。
カーンの為には何もできなかった自分が、あえて言わせることでもない。
そう思ったゲオルグは、伸びをして立ち上がった。
「音楽なんて、柄じゃないんだがな。・・・お前さんの歌はとても、」
「はぁ」
「好きだからまた聞かせてくれ。朝練に行かなきゃならんので、失礼するぞ」
早口にまくしたて、立ち上がるカーンに手をかすと、ゲオルグは
さっさと建物の方角へ歩き始めた。
「慌しいひとですね、もう」
「カーン・・・・・・ありがとう。」
ぽつりと呟いて、さらに男は歩みを早めた。
その背中を、カーンはしばらく眼で追いかけ、かぶりを振った。