深淵
ああ主よ、我が魂は
深き淵より 主を呼べり
願わくば我が声に耳を
傾けたまえ
……応えたまえ
私は呼び続ける、
自分が滅ぼした王の名を。忌むべきもののあるじの名を。
限りない憎しみを、決して消える事のない烙印を押した男の名を。
呪われていても構わない。世界の全てを敵に回しても構わない。
彼にとって私がただの玩具でしかなくても、そんな事はどうでもいい。
―――戻りたい、
私という存在に意味を与えてくれた、彼のもとへ。
私の生命を奪わんとして伸べられた、死の腕の中へ。
でも、彼は―――
…ネクロードはもう何処にもいない。

断崖迫る教会の祭壇を前に、カーンは立ち尽くしていた。
「おんしも、此処に来たか。」
白い少女が声を掛ける、声は聴こえれども体は動こうとしない。
何の反応もない男に、彼女は叱責する素振りもみせずに祭壇へ降り立った。
ほの皎い影が、周囲の闇を深める。
影は何ものをも照らし出さず、天窓にとまっていた星の色彩までも飲み込んでしまう。
まるで光のような蒼白いそれは、闇そのものなのだから。
あらゆる光が喰らい尽くされてもなお、カーンはただ立ち尽くしている。
「シエラさん」
痛みをこらえるような男の声を、少女は確かに聴いた。
理解のしるしに首肯すると、男は祭壇のふもとへ歩み出た。
黒墨色のシャツが、シエラの視界に浮かぶ。
踏み出した足、揺れを感じさせない腕も、全て同じ暗闇の色彩を纏っている。
その姿は限りなく闇に似て、それでも闇の中で鋭い輪郭を保っている。
不思議な男よの、シエラは慨嘆した。
ひざまずいて頭を垂れたカーンは、ベレーを被っていなかった。
うち沈んだ金色の髪がシエラの双眸を灼く。
遠すぎてどうしても届かない、懐かしく優しい光にも似て。

主よ、我が罪を
咎めたまわば立つを得じ
されど 我が魂はみ救いを
待ちのぞむ
……否、待ちはせぬ
わらわは待ち続ける、
みずからの罪の咎めを。終末無き世界が、最後にわらわを裁く刻を。
永遠に在る。わらわにはその意味がわからなかった。
流れなき血をさずける事により、わらわは眷属を得た。愛しい子供達よ。
だがそれは許されるべき業ではなかった。
死すべき者は死すべき者の、
死せぬべき者は死せぬべき者の、罪を背負わねばならぬ。
そして…
代償はあまりに高くついた。
子らの生命をすべて喰らうて、わらわはふたたび罪を得る。
…罪深き愛しき我が子、滅びたからといってどうして忘れる事ができようか。

祭壇の上から、シエラは手を伸ばす。
わずかに届かぬ指でカーンの髪を愛撫する。知覚のなかで髪はさらさらと流れた。
「〈彼〉に安息を、望むのは間違いでしょうか」
愚かなことを口にしおる。
カーン…答えはおんしが最もわかっているであろう? 望むがままに、すればよい。
男は深くぬかづいて、祈りはじめた。
耳に心地よいやわらかな声で、いにしえの言葉を詠唱する。
風にも消えそうな細い歌が、滔々と流れる。
懐かしさが、悲しみが、光に包まれるような陶酔感が周囲に渦をなす。
あやつが愛したのも無理はない。
この髪は、この声は…彼は、我等が太陽に愛されていた頃を思い出させる。
「もうよい、早ぅ去れ。」
祈りは充分に届いたであろう。
おんしが傍にいると、わらわは心が痛い。きっとあやつも…安けくは眠れまい。
不覚にも、涙がこぼれた。
まるで自分の涙ではないかのように、それをとどめる事はできなかった。
泣くな…もうよい、泣くでない……
わらわの中で泣き続ける吾子を、あやすすべがみつからぬ。

主よ、我が魂は御言葉により
衛士が明日を待つにまさりて
主を待ちのぞむ
いざ御民よ、希(のぞみ)を抱け
主の憐れみは豊かに溢れ――――とこしえに、
尽きず
…尽きぬなら、どうか応えを
涙が、止まらない。
私はなす術もなく少女の前に在る。
あしたなど、来なければいい。
母たる彼女の悲しみを和らげる存在がないのなら、明日には何の価値も無い。
私の想いがいつか薄れてしまうのなら、明日など必要ない。
(シエラさん……)
男は伏せていた面貌をあげると、シエラを抱きしめた。
彼女が、悲しみのあまり倒れてしまわぬように。
自分が、渦巻く想いに流されてしまわぬように。
「…去れ。わらわは……ひとりで、かなしみたいのじゃ。」
(わらわのかなしみに、おんしを巻き込みたくない)

カーンの指がわずかに震え、ゆっくりと―――ゆっくりと、腕が離れていった。
シエラは頷いた。これで…よい。
愛すべきこの者を、止まった時間に縛りつけておいてはならない。
カーンの悲しみは流れる時が、いつか癒してくれるだろう。
だが、カーンの絶望の深さを彼女は知るよしも無かった。
現在を生きている彼には縋るものが必要なことが、このときシエラには解らなかった。
カーンの表情が意味を喪った。
(…私は、もう必要ないのですね)
昏き淵へと、落ちてゆく。
求める声は、届かない。
彼女の愛は痛いほど溢れているのに、カーンの心を照らしてはくれない。
彼の祈りを知りながら、シエラがそれを聴きいれる事はない。
祭壇で祈る少女に背を向けて、男は去っていった。
(カーン…陽の世界に還るがよい)
いつか、光の中へ―――
忘れ去られた祷りの言葉をうち捨てて、自由とともに生きてゆくがよい。
栄光と讃美とは限りなく
父・子・聖霊の唯一人の神にあれや、Amen.
私に応えを―――男は、祈る。
終
