帰還
その夜、ゲオルグ・プライムは湖畔の城へと帰投した。
敵軍の掃討を終え、戦闘後の軍容を糺し、当面の執務を済ませ…
ようやく、自分の為に宛がわれた部屋へと辿りついた。
実際のところ、自分の部屋というのもおこがましい程の頻度でしか使わないのだが。
ドアの向こうに、気配がひとつ。
素人とは比較にならない、武道の経験を積んだ者の微弱な気配。
(誰だ…? 侵入者なら普通、気配くらい消すよな)
中の者に不自然に思われないよう、自分の気配は消さないままでゲオルグは扉を開いた。
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「カーン」
名前の主は、ソファに寝そべってごつい装丁の本を読みながら、ウォトカをあおっている。
そしてこちらに一瞥もくれず、ぼそりと呟いた。
「……誰かと思ったら。貴方でしたか、ゲオルグ」
カーンの言葉に、ゲオルグは脱力した。
本当ならば、即刻叩き出してさっさと眠りにつきたいところだ。
「あ…あのなぁ……っ。俺の部屋だぞ、何でお前が此処にいるんだ」
「私ですか? 使う人のいない部屋を、有効活用してさしあげてるんですよ」
ゲオルグも一杯如何です? 差し出されたグラスを、男は投げ遣りな気分で飲み干した。
手持ちで包み持っていた梨のタルトを頬張って、ようやく人心地を取り戻したゲオルグは、
やんわりと咎めるふうな視線をカーンへ投げかけた。
「散らかしたりしてないだろうな」
「掃除くらい、してますよ。失礼なひとですね」
どっちが失礼だ。勝手に人のものを触るなよ。
此処には俺の大切な角砂糖コレクションが…グリフォン印の森の村特製蜂蜜が…!!
云いかけて、ゲオルグは慌てて言葉を飲み込んだ。
「カーン、部屋のぬしも此の通り戻ってきた事だし、帰ったらどうだ。なぁ」
「嫌ですよ。この本…もう少しで読めるんですから」
「なんで俺が待たにゃぁならんのだ。掃除してくれた礼はするから、もう帰れ帰れ」
今のうちに帰らないと……お前を帰せなくなってしまう。
カーン―――なんでそれがわからないんだ、この野郎。
本格的に追い出そうと構えて、男はカーンの襟首を掴んだ。
…掴んだはずの手は、ふっと抜けてゲオルグを前にのめらせる。
「もう、わからないひとですね」
カーンに避わされた、と理解したのは耳に吐息を感じた次の瞬間だった。
「な…ななななっ!!」
熱い息を吹き込まれ、シャツがもみくちゃにされる感触に、ゲオルグの理性が熔けていく。
何だこれは…こいつは、カーンは俺に何をしているんだ?
大体、俺達は男同士じゃないか。…そりゃぁまあ、確かに俺はカーンが大好きだけれど、
想いがつのるあまり唇を重ねてしまった事さえあるけれど。
首筋をくすぐる彼の髪に、躰躯へ触れてくるしなやかな腕に、欲情を掻き立てられる。
やりたい、下半身がせり上がってくる感触にゲオルグは狼狽した。
カーンは俺に抱かれてもいいと思っているのか? ん、それとも俺が抱かれるのか?
できれば抱かれる方には、俺はなりたくないんだがなぁとぼんやり思った。
そもそも、こいつは本当にカーンなのか? 現実の人間なのか?
ゲオルグの目にうつるカーンはあまりに綺麗すぎて、時折人間とは思えない事もある。
そういや元々は
吸血鬼
(
コウモリ
)
だったかな? 今はどちらでもない――彼はこの世に唯一の、存在。
ならやっぱりカーンなのか? 少々扇情的すぎる気が…俺の妄想もついに此処まできたか。
ゲオルグが冷静に考えようとすればするほど、意識は混乱の深みへとはまり込んでいく。
「全然…わかってない」
「は?」
苛々と言葉をつむぐカーンに、ゲオルグは呆れながら向き直った。
膝の裏がソファに当たり、そのまま後方へなだれ込む。
「何ですか、貴方ってひとは…」
カーンはソファに覆い被さると、両掌でゲオルグの貌を支え、美しい唇で彼をなじった。
「お前こそ、いきなり何なんだよ。…やめろって!」
「どうして……どうしてこんなに、私を困らせるんですか」
「なんでお前が困ってるのか見当もつかないよ…」
「なんで? こんな酷い人の言葉なんか、どうしてまた信じてしまったんだろう…」
「カーン、何が何だかさっぱりわからない」
為すすべもなく首を固定されたゲオルグは、降参のあかしにじっとカーンの瞳を見つめた。
しばらく視線を絡めあい、カーンは不意にそっぽを向いた。
「無事に帰ってきたんでしょう、ゲオルグ。」
ぽそぽそと、小声で呟く。彼の声は滴るような甘えさえ含んで、ゲオルグの耳朶に届いた。
甘いものは何でも好きだが、こういう甘いはむず痒くて落着かない。
「だ、だから俺はどうすればいいんだ」
「帰ってきたら、なんて云うんですか?」
「はぁ……? 『ただいま』だろ?」
「はい、やり直し。」
「たっ……ただ、いま……」
………。カーンが殆ど聴き取れないほどか細い声で囁いた。
今、なんて云った?!
おかえりなさい―――
おかえりなさい―――
『おかえりなさい』?!
ちくしょう、俺は夢を見ているに違いない。
こいつも夢だ。ゲオルグは目の前の躰躯を思いきり抱きしめた。
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(…ん?)
カーンの姿は相変わらず腕の中にある。じたばた動きだしたので、慌てて力を緩めた。
ぜいぜいと、荒く息をついて彼はようやく声を整えた。
「……普通だったら死んでますよ、この馬鹿力。」
「なんだ、本物か」
ふいっと投げるようにカーンを離すと、ゲオルグはソファを立って着衣を直しはじめる。
「…本物で悪かったですね」
「帰れよ…この調子だと俺、何するかわからない」
「さっき死にかけたのは誰の所為ですか。なにを今更…」
カーンは嫌味ったらしく肩をごきごきいわせながら、文句を垂れる。
その様子があまりに可笑しいので、ゲオルグは微笑した。カーンの文句はさらに増える。
「まったく貴方という人は、私は少しでも早く逢いたくて…………」
「悪いな、…夢かと思ってた」
「馬鹿な人ですね。もう少し現実見た方がいいんじゃないですか」
「そうだなあ」
「ちょっと、勝手に困らないで下さいよ。なんでそこで悩むんです!」
「……だってなぁ」
(俺はな、お前のこと抱きたいんだよ…)
心の内で叩き付けるように呟くと、ゲオルグは片手でカーンの髪を梳いた。
「本物は…逃げちまうかもしれない」
もう一方の腕で彼の腰を巻き、しっかりと体を捕らえる。
こめかみを頬に擦るようにして、カーンは囁いた。
「……逃げないかもしれません」
「嫌われるかもしれない」
「…貴方のそういう卑怯な所が大嫌いですよ」
ゲオルグの背に、回される腕。
(帰ってきたらお前と一緒に―――― そう…だったな。)
ゲオルグは一旦カーンを離し、肩に手を掛けた。
「お前のこと、好きなだけじゃ足りないんだ…カーンが欲しい。抱きたい。」
カーンの返答を待たずに、引き寄せて唇を奪った。
聞かなくても、彼の答えは決まっている。
わかっていたのに…俺ときたら、さっぱりわかっていなかったんだな。
自嘲の笑みを浮かべると、彼はさらに接吻を深めた。
カーンはそれを享受しながら、ゲオルグに向かってゆっくりと、確かに、頷いた。
彼の手を導いて、彼の存在を受けとめて―――
どちらがどちらかわからなくなるまで、絡みつき互いを貪りあう。
カーンの狭い内奥をあばき、熱く滾る自身を埋めると、どこか懐かしい心地がした。
還る――戻ってゆく―――
浮雲のように、地上を彷徨い続けるゲオルグにとって、帰属する場所などというものは
何処にも存在し得なかった。けれど、彼は…カーンは……
どんなに遠くへ旅に出るとしても、俺はカーンのもとへ還りゆくだろう。
カーンがどこの世界に行っても、俺はかならず彼のところへ辿りつくだろう。
俺の戻る場所は、カーンの腕のなかだ。
ゲオルグは傍らで眠る愛しいひとの額に、自分の額を触れてそっと囁いた。
「おかえり…カーン」
そう、言葉にすることで、自分がカーンの帰る場所になれるのではないかと思った。
俺だけは…俺だけが、彼に安らぎを与えてあげられるなら、そうなりたい。
願いを込めて何度も抱きしめながら、ゲオルグはカーンの全身にくちづけを捧げた。
カーンは夢うつつで何事か呟くと、わずかに寝覚めてゲオルグの短い髪を優しく撫でた。
終
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あとがき
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