かぜのふく夜は。
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一陣の夜風が群雲をきり月の姿をあらわにする頃、地上にはひとつの人影があった。
深緑の髪を端整なるかんばせに纏いつかせて、着流した直衣にかさねを羽織り歩んでいく。この時候、幾等貴人には暖かな布衣が許されていようとも、日暮れては自ら外出などする者は皆無といってよい。理由は寒さだけではないのだが…。
高貴な姿を恋うて吹きむせぶ風に、一瞥もくれず影は進みゆく。弦月の途切れがちな光は、屋敷まで灯明なしで辿るには不向きであるのに、闇に包まれ猶も滑らかな歩みが、彼を武の人であると示していた。この高貴にして奇なる君、名を橘友雅という。彼の勤めるは左近衛府少将、やはり武官である。
やれやれ…想いの姫のもとへ通う途上ならばともかく、帰り途とはまた参ったものだね。
すずしい貌で冷え込む夜をゆきながら、橘友雅は内心で苦笑していた。
「…いや、やはり百夜通いは私に似合わないな。」
今度は声にだしてぼやく。
うむうむ。この私の場合、姫君の館へ赴けば必ずそれなりの歓待を受けて、二人でともに暁星を待つという愉しみがあるのだからね。寒い夜道を独りで帰るなぞ、愚の骨頂さ。
まさしく自身を嘲弄しながら、内裏で流行りの詩歌を吟ずる友雅の衣が翻る。
世の流れは変わり、現今となっては橘の血脈を頼もうとする輩も少ないが、友雅個人に後見と恩寵を求める変わり者は後を絶たない。正妻を未だ持たない友雅の、北の方という地位を巡って女どもは艶を競い才を比べ、果ては自家の血筋や財まで持ち出す始末…。
妻の座争奪戦の狂騒を全くの他人事と冷ややかに睥睨しつつも、友雅は女達を深く、だがいずれも等しく愛していた。
それが、今――
常識では到底はかりしれない、災厄が降りかかってきたのだ。異世界より来たりし神子、元宮あかねその人である。一体どのような場所に暮らしていたのか、彼女の奇矯な衣服や囀る言葉は理解が困難であった。宮中の食物もどうやら口には合わないらしく、一度だけ寂しそうに俯く姿をかいまみて、友雅は彼なりに心を痛めていたのだった。
かつて友雅は、せめてもの心慰みにと、一室の傍らにあった琵琶を奏じた。神人すらも地に降す、無情に過ぎ行く月さえも魅了し空に留める、如何なる香よりも芳しき音色……過ぎた評価とは思えど、自分が下手だとは考えた事もない。しかし……奏で終えた友雅がふと見遣れば、神子は友雅の衣を枕に小鼾かいて「しっかりと」眠りこけていた。
その頃はまだ良かった。散々な屈辱を味わせておきながらも、神子の側では友雅を気に入ったらしく、藤姫を介して様々な事柄を訊ねてくる。さして用もないのに、八葉として同行を求められ街中を引きずりまわされる日々…。逢うたび毎に、顔中をぱっと輝かせて喜ぶ、童女の如き姿は神聖なまぶしさを感じさせて、悪くはなかった。鬼一族との決着後、「天真くんの妹、ランが見つかるまでは」と居残った態度も、それなりに毅然として立派なものだと好感を覚えていたものだ。
しかし――夕刻になって館まで送ってくれ、と命ずるのは如何なものか。あからさまな表現に、友雅はさすがに眉を顰めた。貴賓の扱いを受ける者でも、才知に欠けた女は好みではない。まぁ竜神のいけにえ贄となったつもりで様子をみるか、と据え膳を頂戴しに神子の館に着けば、満面の笑みで礼を述べられてそれで終い。それはそれで一件落着なのだが、友雅は寒風の吹きすさぶ夜道を灯かりなしで帰らねばならない。あかねの世界では、デントウという物が夜道を照らし、コートやマフラーが寒さをしのいでくれるらしいが、生憎この世の話ではない。かくて橘少将、冒頭の暗夜行となる。
「さて、どうしたものだろうね。」
身を竦めたい程の冷気の中、誰が見ている筈もないが、友雅はそんな無様な真似などせず、背筋を伸ばし頬を外気に曝して歩いている。自身の館までまだ少し距離がある。どんなに夜更けであろうとも、前もって約を交わしていたかの如く迎え入れてくれる女御なら心当たりがあるが、帰路にあっては一枝の麗花すら持っていない。懐紙に文を書き、道すがら歌を詠む事はできても、何も持たずに行っては物寂しかろう。そう考えて、今更ながらに友雅は帰宅を決意した。
きしり、と前方の路地でひそやかな物音が聞こえた。このような時間に人目を憚る様な引戸の軋み。墨か藍か、色定かならざる人影が疾り出ていく。認めた友雅の双眸が、きりと絞られた。追うには遠いと判断し、あやしきものの現れた邸へと足を運ぶ。
その家屋には暮らしの臭いが無く、友雅は戸惑いを覚えた。不審者は夜盗の類だと考えたものの、無駄足を運んでしまったか。さにあらず、と五感の他に訴える何かがある。
すぐさま燭皿を見付け、触れてみればまだ熱をもっていた。友雅は躊躇わずに灯を点した。
深闇のなか、もうひとつ月が生まれた。手元の燭火に照らされ輝く、友雅その人である。灯をもて奥へ。微かな異臭を確かめようとするが、めぼしい物は見当たらない。乱雑さが自然すぎる事が、なにより友雅の心裏を不安の爪でかき乱す。
そして…見つけてしまった。
「何かを埋めた…か。」
視界には、数刻と経たぬ土の乱れが痛々しい。そこで友雅の興味も失せたので、筵を被せ傷跡を隠すと、平然と空居を後にした。
「友雅さんっ!」
けたたましい足音で、神子が馳せてくる。数日前のあの件かな。友雅は自分の頭が一気に重くなった気がして、几帳の側にもた凭れかかると、ゆるやかにあかねを視認した。
その胸元に、領巾のような羽衣のような奇妙な物体が差し出される。
「神子どの…これは、何だい…?」
呆気にとられて、不躾ながらも神子の顔を覗きこむ。あかねはにっこり微笑むと、
「マフラーっていうんです♪ 毛糸って無いから、一遍わたしの世界に取りに行って作っちゃいました。 こう、首に巻くと暖かいんですっ。友雅さん、使ってくださいね…」
はっきりと物品で誤魔化されたと思ったが、悪い気分はせず友雅は素直に受け取る。ふわ、と暖かいそれは、一本の糸で織られた布だという。友雅はふと気になった。この贈り物をあかねは一体いつ、思いついたのだろう。あの宵より前ではありえなかった、彼女が姿を消していたのは…翌日からだった。友雅の寒さをあかねも感じ取ったのだろうか。八葉と神子は何処かで、心の一部が繋がっているのかもしれない。困ったね…友雅は今度こそ、かつてない窮地に立たされそうな予感がした。
黄昏…「誰そ彼」と呼ばれる刻を、友雅はかち徒歩で地にきざみこむ。異装の人影が群がるは、無人の館。先夜のものが捕らえられたか、友雅はさして注意も払わず通り過ぎようとする。異装の衆のなかに、知った貌を見出して会釈を交わす。
「これはこれは、泰明じゃないか。鬼でも出たかい?」
鬼の姿は京より一掃されてすでにない。そうと知っての軽口には、苦笑が返る筈だった。だが陰陽師たる阿部泰明の表情は昏いどころか蒼白となり、厳しい眼光が注がれた。
「………だ」
友雅は己の耳を疑った。泰明はただ淡々とふたたび述べた。
「似たようなものだ。お前の身に異常は見られぬようだがな。」
知られている?
泰明は、空家の不審を放置した友雅を詰問しなかった。
何故だ? 問う眼差しに声もなく。泰明の応えは頭蓋に直接わたされた。
(式神は、お前を最初に見出した)
瞬間、空は燃え尽くされ東から迫りきた暗黒が夜を覆い隠した。
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