● 鎌 倉 宮 ●

か ま く ら ぐ う

 

荏柄天神を後に、木が寄り添う(連理のさかきみたいですね)鳥居をくぐり、さらに東へ進みます。

この日、この時点で午後5時半ぐらいでした。

てくてく歩きながら、もう、鎌倉宮は無理かなぁ〜今度にしようかなぁ〜と弱気になっていました。

道なりに東へ進み、広い道に出て左手に鎌倉宮をみつけました。

まだ、30分はある!

そう思ったとたん、鳥居までダッシュしていました。

もう、日は大きく傾きはじめていました。

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【鎌倉宮】

祭神:大塔宮護良親王

明治2(1869)年に、明治天皇が、後醍醐天皇の皇子、護良親王を祀って建てられました。

護良親王は、延慶元(1308)年にお生まれになり、11歳で比叡山延暦寺に入室、20歳にて

天台座主となられ、その門室を大塔言ったので、地元では「鎌倉宮」を「大塔宮」と呼ばれているそうです。

以下、いただいた由緒書きより抜粋します。

 

元弘元6月、後醍醐天皇の倒幕の計画が、幕府の知るところとなり、天皇は隠岐に配流となります。

親王は還俗し、名を護良と改め、楠木正成らとともに、倒幕に成功します。

天皇は、京に還御され、親王は征夷大将軍になりますが、倒幕にともに闘った足利高氏が征夷大将軍を欲し、

諸国の武士へ武家の棟梁であることを誇示しはじめます。

高氏による幕府擁立を危惧した親王は、兵を集めますが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉に幽閉されます。

建武2(1335)年7月23日、残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた高氏の弟、直義は、

逃れる際に、家臣の淵辺義博へ親王暗殺を命じます。

親王は、9ヶ月の幽閉の身で戦うこともできず、28歳という短い生涯を終えることとなります。

 

 

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さてさて、中で進みます。

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鳥居をくぐると、広い駐車場です。

そこに、大きな看板が立っていました。

この写真だと、大きさがあまりわかりませんが、大きい大きい看板…という印象だったので、かなり大きかったかと思います。

描かれているのは、「獅子頭(ししがしら)」と言って、鎌倉宮のお守りだそうです。

厄除け、幸運招来、交通安全のご利益があるとか。

護良親王も建武の中興成すとき、獅子頭を兜につけて、災いを避けたといただいた由緒書きに書いてありました。

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さて、正面の石段を登ります。

登ったところ、左手に手水舎があります。

先ほどの写真で、右手に、白いテントがあるのがおわかりいただますでしょうか?

ここに、あったのが・・・

「厄割り石」と書いてあります。

これは、葛原ヶ岡神社にあった「魔去ル石」と同じものです。

こんなの小説で触れてなかったですよ!!

見つけてびっくりしました。こんなところにも?!って。

意味としては、葛原ヶ岡神社と一緒だと思っていいのでしょうか???タタルさん!

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さらに石段を登ると、拝殿があります。

 お参りを済ませ、左手に進むとお社が建っています。

「攝社」と書かれていて、右に「南方社」左に「村上社」と書いてあります。

左の「村上社」は村上彦四郎義光公を祀ると書いてあるのですが、わたしが訪れた時にはありませんでした。

村上彦四郎義光公は、吉野で親王の身替わりになって戦死したという方です。

写真は、右の「南方社」だけ。

こちらは、親王とともに鎌倉に来て、親王のお世話をし、

その亡骸を理智光寺に葬ったという南御方(みなみのみかた)を祀っています。

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この先に、受け付けがあって、護良親王の土牢へ進みます。

ここから先は、拝観料が必要ですので受け付けで払って奥に進みます。

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木々に囲まれ、薄暗くて肌寒い感じで、湿度が少し高いようなそんな道です。

わたしが訪れたときには、人もいなくて、寂し気な場所でした。

写真がぼけているのは、暗くてピントが合わなかったためです。

門(?)をくぐり、土牢の正面へ。

手前に、親王を供養するための護摩木があります。

木々の間で、少し日がさしているのですが、それでも薄暗く、牢の中をのぞいてもほとんど見えません。

由緒書きでは、中は八畳ほどあるようですが、まったくわかりません。

ここに閉じ込められたと思うと、ホントにぞくっとします。

いったいどんな思いで九ヶ月もの間過ごしたのだろう…どんな思いで亡くなったのだろうと思うと

この場所が、とても悲しく思えてきます。あまりいい場所ではないですね…。

ただ、幽閉されたのは、東光寺の座敷牢という説もあるそうです。

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護良親王に手を合わせ、さらに奥に進むと、広い庭に出ます。

ここは、小説にも書いてなかったので、わけもわからず進みました…。

ですので、全体の把握をしないまま、いろいろ撮影しました。

帰ってから、いただいた由緒書きについている地図を見て、なんとなく把握したようなものです…。

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まず左手に、「神苑」と書いてありました。

奥には、いろいろな札のついた木々があるのですが、写真が全滅なのと、

わたし自身がよくわからないので、全体写真だけで勘弁してください。

土牢から階段を下りると、正面に見えるのが、この石碑です。

「鎌倉宮碑」と書いてあるのですが、それ以外よくわかりませんでした…。すいません。

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この碑を越え、さらに正面に、「御構廟」(御首塚)があります。

淵辺義博が、親王の首を捨てたという場所です。

その横にあるのが、こんなものがありました。

中央の部分に、何か書いてあるのですが、かすれていたりで、読めませんでした。

そのまま出口へ進むと、右手に塔がありました。

「多宝塔」と書いてありました。

護良親王の皇子日叡上人が師の日賢上人の供養のために作ったといわれているそうです。

その横に、「献茶の塔」というのもあります。

札がなかったのですが、たぶんこれがそうじゃないかと…。

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さらに、この向かいに明治天皇ゆかりの「教育勅語碑」というのがあります。

たぶん…これ???かしら…

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さらに「五ヶ条の誓文」かと思われます…

写真は小さいのですが、けっこう大きな碑です。

わたしは、見上げるようなかたちになりました。

これらの内容が不安なのは、正直、読めなかったのと…(^^;

暗くて、写真がうまく撮影できなかったためです…

ご指摘受付ております。すぐに修正しますので、わかる方教えて下さい。

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そのまま出口へ向かう途中、ふと振り返って撮影したもの。

この場所に、このベンチ…不釣合いだなぁ〜と思って…

そのまま出口へ向かいます。

出口を出て振り返ると、こんな感じです。

明治天皇御座所と書いてあります。

出口手前にあるようです。

撮影場所は、社務所の前です。

こちらで、ご朱印をいただきました。

「これから、どこに行かれるのですか?」と聞かれました…

「さすがに、もうどこも閉まってしまいますよね(^^;)」と答えると

「そうですねよね〜」とにこにこされてしまいました。

すいません…ぎりぎりすべりこんで…(><)

季節にもよると思いますが、この時期は、6時までなんですよ、ここ。

ただ、拝殿は参拝自由なので、いつでも参拝できます。

土牢以下が、有料なので時間制限あります。

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そんなこんなで、この日は打ち止めです。

ようやく、次からは、江ノ電に乗れます!

…どう考えも、あの小説のように、1日で江ノ島までは行けません…わたしの足では…(T-T)

 

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さてさて…、鎌倉駅から江ノ電に乗ります。

小説の中では、会話だけで済んでいますが、江ノ電コース…まわってみました。

とりあえず、ここから先は、江ノ電鎌倉駅から江ノ島駅までご案内します。

小説に通りに進みたい方は、小説通りに回れるように作ってみました。

 

 

面白そうだから、会話の中に出て来た場所も見てみよう

・和田塚へ

 

小説通りに

・長谷寺へ向かう

 

 

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