ち ょ う し ゅ う は ん や し き あ と
何故、神社仏閣の中に…とお思いの方もいらっしゃると思います。
わたしが幕末維新の時代では、長州藩が好きなのです。というより桂小五郎さんが…(*^^*)
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屋敷跡といっても、今は「京都ホテル」が建ってます。
河原町御池上ル東側…とでもいいましょうか?
河原町通と鴨川の間ぐらいにあったそうです。
そのため、京都ホテルの入り口横に、桂小五郎さんがいらっしゃいます。

写真、左下に説明書きがあります。クリックするとアップで見られます。
とりあえず、小五郎さんにお会いしたので、周辺をぐるっとまわってみました。
(桂小五郎については、「木戸孝允旧宅」のページに記す。)
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京都ホテルの裏手にありました。

ホントにすごいとこにあります。
手前はすぐ、高瀬川です。
木々にうもれて、かなり見落としそうな場所です。
向かって左が「大村益次郎遭難之碑」とあります。
向かって右が「象山先生遭難之碑」とあります。
それぞれをクリックしていただくと、もう少しアップで見られます。
【大村益次郎 (おおむら ますじろう)】
文政7(1824)年〜明治2(1869)年
代々医者をつとめる家柄に生まれる。幼名を宗太郎、のち良庵、さらに村田蔵六と改め、
慶応元年(1865)に大村益次郎と改名する。18歳の時、洋学、儒学と修め、弘化3年(1846)に大阪の
緒方洪庵が主宰する適塾に入り天稟にみがきをかける。
のち、郷里に帰るが、その見識を知った宇和島藩から、蘭学、兵学の教授としてまねかれる。
安政3年江戸に入り、幕府の藩書調所の講武所教授になる。
その活躍を聞いて、桂小五郎らの働きで、長州藩士になる。
明治になってからは、明治2(1869)年6月29日、靖国神社の前身である「招魂社(しょうこんしゃ)」を建て
鳥羽・伏見の戦から箱館戦争に至る戦死者を祀った。
同年8月、兵学校の敷地選定のため京都に入った益次郎を、同年9月4日
旅館で数人の刺客に襲った。軍体制を変えようとすすめていた益次郎に、武士階級を否定されたと
思ったものの犯行ではないかと思われる。そのまま大阪の病院に運ばれるが、同年11月5日、45年の生涯を閉じる。
襲われた場所は、木屋町。今は碑が残る。
(佐久間象山については、下記の碑の写真のもとに記す。)
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この碑の高瀬川、木屋町通をはさんで向かいに
料亭「幾松」があります。

もともと幾松さんがいらしたところだとかで、今はお料理屋になっています。
【幾松】
若狭国小浜藩士の娘に生まれ、父の死後、9歳で舞妓になる。
桂小五郎と知り合ったのは文久元年(1861年)18歳の頃。
桂小五郎が乞食に身をやつし、二条大橋の下に潜んでいた時も
にぎりめしや下着を運んだという逸話に代表されるように、
献身的につくしたと言われています。
維新後は、彼の正妻となる。
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そのまま、木屋町通をずーと下がります。
全然歩ける距離で、三条までたどりつきます。
三条木屋町の高瀬川のたもとに碑があります。

「大村益次郎遭難之碑」「象山先生遭難之碑」がここにも。
たぶん、ここが現場です。わたしもずっとここだと思ってました。
いろいろな本に、三条高瀬川とあるので…。
大河ドラマ「新撰組」のせいで、町中がそんな雰囲気なのですが、
関係各所に写真右にある説明書きが設置されていました。
【佐久間象山 (さくましょうざん)】
文化8(1811)年〜元治1(1864)年
松代藩、側右筆組頭・佐久間一学の長男として生まれる。
14歳の頃、藩主・真田幸貫によって、江戸にのぼる。
のち、勝海舟の妹・お順と結婚する。
洋学者として、西郷隆盛、桂小五郎、大久保利通と気脈を通じ、その門人には吉田松陰も加わった。
早くに近代戦争を想定した戦術と兵制を考え、開国し外国文化を取り入れよと、その重要性を朝廷や
幕府、勤王をとなえる諸藩にまでといてまわった。
その行為が尊皇攘夷派の敵意を買い、木屋町・三条小橋のたもとで刺客に襲われる。
その刺客の中に、暗殺の名手といわれる河上彦斎(かわかみげんさい)がいた。
佐久間象山54歳。
ちなみに、坂本竜馬の「海防八策」のもとは、象山が考えていた挙国体制策だったという。
少し、時代が早すぎたのかもしれない。