● 木 戸 孝 允 旧 宅 ●

き ど た か よ し き ゅ う た く

 

木戸孝允の旧宅があるとインターネットで検索したのですが、どうもさだまりません。

とりあえず、銅駝美術工芸高校のそばであるとこだけをたよりに探しに行きました。

すると3つも見つかったのです。地図にしてみました。

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しかし、何故3箇所にも碑があるのでしょうね…まぎらわしい…

 

【木戸孝允(きどたかよし)】(桂小五郎)

天保4(1833)年〜明治10(1877)年

長州藩の侍医・和田昌景の子として生まれる。17歳の時、松下村塾の門下生となる。

20歳で江戸に入り、斎藤弥九郎の道場に入門し、塾頭に抜擢される。

21歳で伊豆・韮山で、江戸川太郎左衛門について西洋兵学、砲術を学び、

23歳で、手塚律蔵に蘭学を学んだ。

25歳、藩に登用され、26歳で江戸に入り、大検使・江戸番手の役に就く。

31歳で祐筆に取り立てられ、政務座役に就く。

文久2年に出府を命じられる。

文久3(1862)年8月18日に、幕府のクーデターが起こり、

長州藩を京都から一掃しようとしたとき、身の危険を感じ京都を脱出。

程なく、久坂玄瑞らと、京都に潜入。地下で七卿の赦免活動を行った。

この頃、二条大橋の下で、乞食に身をやつし、寝起きしていた。

いったん長州に戻ったが、また京に戻る。池田屋の会合に顔を出す予定が、幾松の知らせで難を逃れる。

長州藩の禁門の変で、但馬・出石に逃れる。

幕府の第1回長州征伐で、急ぎ帰郷、藩政の責任者として活躍。

坂本竜馬の仲介で、薩摩との同盟に応じ、薩長連合を成し遂げる。

維新後、「版籍奉還」「廃藩置県」などを進め、新しい中央政権の体制を固めて行ったが、

藩閥意識と政策に対する意見の相違に、精神的に衰弱し、次第に権力の中心から遠ざかっていった。

 明治9(1876)年、前原一誠が萩に反乱を起こした時は、自ら鎮撫使を願い出、また、西郷隆盛が

西南戦争を起こした時も鎮撫使を願い出たが、どちらも認められなかった。

その西南戦争の最中、明治10(1877)年5月西郷隆盛の身を案じながら、45歳の生涯をとじた。

 

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まずは「A」の場所

石長 松菊園の前

石長 松菊園の前

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続いて「B」の場所

お宿  いしちょうの横

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最後に「C」の場所

厚生会職員会館 かもがわ 敷地内。

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こちらが、木戸孝允臨終の邸宅。

 

 明治の初めに、近衛家下屋敷の河原御殿を譲り受けたものだそうです。

西南の役に際し明治天皇随行して入洛、その5月に危篤、天皇が、見舞った邸宅だそうです。

先の石碑は、そういう意味なのですね。

 

 

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