き た の て ん ま ん ぐ う
↓↓↓ 下の地図は、広い境内のざっくりとした場所をしめしています。 ↓↓↓
細かいものは、頁をお進みいただくとおわかりいただけるかと思います。
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<一ノ鳥居>

今出川通に面している、北野天満宮の正面入り口になります。
神社の正しい参拝の作法に従って入るなら、まずはここから。
夜にはライトアップされて、それはそれでなかなか趣きがあり素敵です。
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一ノ鳥居をくぐり、まず右手に「影向松」というのがあります。

立て札には、
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初雪の日 御祭神この松にに影向(降臨)ありて歌をよみ給うと古くより 伝えられ毎年初雪の日(三冬の内)この大前にて初雪祭を行う。 |
その影向松の後ろにはこんな石碑が建っています。

人艸(草)や 来た野(北野)の 露乃 五郎兵衛
と書いてあります。近くに説明書きがありました。
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昔、延宝・天和の頃(1681〜84) 露の五郎兵衛という人が、此所、北野天満宮をはじめ、祇園真葛が原、四条河原町、百万遍、その他諸所の開帳場に場所を占め、自作の笑いばなしを、口演、都の名物男と言われ、日本落語家第一号となりました。 元禄16年(1703)61歳で亡くなるまで、都の人気を一身に集め、数部の咄本を著し、遺した咄三百数十話、直接、関節に、現行落語の原話になっているものが沢山あります。 ゆかりの名前をいただいております私、落語生活50年を期に、開祖の碑建立を発願し。北野天満宮様の御好意と、社団法人京都デザイン協会・柴田石材様はじめ四方諸兄姉の御賛同、御協力によって完成致しました。 日本最初の落語家、露の五郎兵衛師の偉業をたたえ、遺徳に感謝し、ここに顕彰するものであります。 建立人 二代目 露の五郎 平成十一年三月吉日 |
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さて、その向かいにこんな入口があります。
普段は、閉ざされていて公開されていません。
こちらは「茶席 松向軒」です。

横に立て札があるのですが…雨風にさらされて、年号がはっきりと読めなくなっていますが
秀吉の北野大茶会のことなので天正15(1587)年のことだと思います。
北野大茶会については、もう少し先に登場する「北野大茶会碑」のところで簡単にご説明します。
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天正(立て札では、このへんが消えてます)豊太閤松原にて 大茶湯を催した際 細川三斎公使用の井戸(三斎井戸)この内にあり |
こちらが、その三斎井戸

細川忠興公も絶賛した名水。細川ガラシャも口にしたのでしょうか…告知看板に書かれてありました。
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参道を進むと二ノ鳥居が見えてきます。
<二ノ鳥居>

写真向かって、左手に「東向観音寺」があります。
「東向観音寺」は、また別になりますので、ここでは割愛します。
気になる方は「東向観音寺」の頁へお進み下さい。→こちら(現在準備中)
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さらに参道を進みますと三ノ鳥居が見えます。
鳥居の大きさも、一ノ鳥居から順に小さくなっています。
<三ノ鳥居>

この三ノ鳥居の写真向かって左手に、「伴氏社」があります。

小さなお社なのですが、こちらは、道真さんのお母さんを祀っているお社です。(お母さんは大伴氏)
この鳥居は、京都三鳥居のひとつです。
柱の下に蓮華座があり、額束が島木(2本の柱の上に架け渡す横木)にくい込んでいるというもの。
こちらが蓮華座のアップ

そしてこちらが額束のアップ

また、その他の2つの鳥居は、
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居。
こちらは、島木が唐破風形をしているそいうです。
あとの一つは、太秦にある木嶋神社内の蚕の社の三柱鳥居です。
こちらの鳥居は、当サイトの蚕の社のページでご覧いただけます。→こちら
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三ノ鳥居をくぐって、右手に柵にかこまれた何かが見えます。

こちらが、「太閤井戸」。
こんな柵と「車激突注意」なんて書かれていると、用水路の蓋みたいですが…(^^;
その向こうに「北野大茶湯之碑」があります。

こちらが豊臣秀吉が天正15(1587)年10月1日に、北野天満宮の境内において
九州平定と聚楽第竣工を祝って催したという大茶会の碑です。
この大茶会では、秀吉自らが亭主をつとめ、庶民も参加し、1,000人以上もの参加者で賑わいました。
諸家の茶席には、秘蔵の名茶器・道具が展観されたといいます。
これがきっかけで、庶民にも広く茶湯が広まった…と言われています。
そのお隣に、おなじみのさざれ石がありました。

さて、参道に戻ります。
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少々の石段を登ると、「楼門」があります。
<楼門>

この先にある「三光門」とこの「楼門」の大きな門が存在するのは
神社としては不思議な形なのです。北野天満宮の特異な部分の一つですね。
石段を登るのが大変な方ように、写真右手にはスロープが作られています。
足の不自由な方やお年寄りにはありがたい、バリアフリーな門です(^^;
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門をくぐると、右手に手水舎があります。その後ろにはお手洗い。
手水舎で、手をすすぎ、いざ参拝へ…
でも、拝殿までにもいろいろあるんですよ、これがまた…
まずは、手水舎のお隣「宝物殿」です。

数々の名品あれど…とにかくわたしが感動したのは、渡邉綱が使っていた「鬼切丸」が展示されていること!
他にも、もちろん秘蔵の品々に溜め息つきながら魅入っていましたが、伝説のこの刀は感動ひとしおでした。
ですが、館内撮影禁止です。目にやきつけて下さい。
公開は、たしか…毎月25日の天神さんの日には公開されてはずです。
他に、特別公開の日もあるので、事前に確認されてから訪れてることをおすすめします。
たしか拝観料300円ほどかかったと思います…すいません…記憶が曖昧で…(><;
ちなみに、ちょこっと鬼切丸にふれておこうと思います。何故なら、ちょっとばかし「平家物語」に絡んでくるから…。
「鬼切丸」とは通称、「國綱」というらしいです。
当初「安綱」と刻銘してあったが、後代い安の字に字画を加えて「國綱」にしたと伝えられています。
源氏の重宝として最上家に伝来し、のちに北野さんに奉納されたとか。
そう宝物殿のパンフに書いてありました。
「平家物語」(屋代本)「剣巻」で、茨木童子とのやりとりで、渡辺綱の命を救ったのがこの「鬼切丸」です。
一条戻り橋で出逢い、五条の渡し付近で鬼が姿をあらわし、空中での戦いが北野天神さんの上・・・ってことになっています。
腕を切って落下した綱が落ちたところが、回廊の屋根の上だったので命拾いをした綱は
道真公のご加護と石燈籠を寄進します。
この石燈籠については、のちに写真を掲載していますので、ページを進みつつお待ちください。
さらにつけ加えると、渡辺綱は、源頼光の四天王の一人です。
この頼光も「平家物語」(屋代本)にて、土蜘蛛退治で登場します。
この土蜘蛛の塚というのが、京都に二箇所存在します。
北野天満宮の一之鳥居をぬけたところ、左手にある「東向観音寺」の境内と、「上品蓮台寺」の境内です。
詳しくは、こちらのお寺紹介のページにありますので、こちらをご覧下さい。
「東向観音寺」へ(準備中) 「上品蓮台寺」へ
余談ですが、この頼光は、「平家物語」の「鵺」で、鵺退治をし、
名馬木下の一件で、以仁王の乱に加わった、源頼政の4代前になります。
宝物殿の前の道をまっすぐゆくと、社務所ですが、この先は別のところへ向かいます。
宝物殿を出て、やや左手に「絵馬所」という休憩所があります。
自動販売機なども並ぶベンチのあるところです。

年始の書初めは、ここで行われます。
休憩してあまり気がつかないかもしれませんが、天井の方を見上げてください。
沢山の大きな絵馬がかけてあります。
絵馬だけではありません。
写真ではわかり辛いですが、表の方にずらりと並んでいるのは、百人一首の絵札です。
かなり綺麗なので、最近のものだと思いますが…なかなか綺麗なので、是非見て下さい。
写真の右手に鳥居が見えますが、この先、祈願の「絵馬掛所」です。
その前に…「絵馬所」の隣をお忘れなく!
小さな朱い鳥居。
こちらは「宗像社(むなかたしゃ)」。

祭神は、田心媛神、湍津姫神、一杵島姫神の三女神。
あれ?海とかに関わる女神が何故ここに?
と説明書きを読むと…。
やはり、ご利益は、交通・海上運搬安全とあります。
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それにしても、水のない場所にお祭りされていると、ちょっと違和感ありますね。
水のない場所に鎮座されているには、他にも理由がありそうですね。
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その「宗像社」の後ろに、東向きに小さな鳥居があります。
こちらは、「大杉社」です。

この北野さん随一の御神木だそうです。
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この「宗像社」「大杉社」と越えて進むと、左手に「古札納所」があります。
お役目を終えたお守りやお札などが、こちらに納めされます。
これまで、お守りいただいたことへ感謝しつつお返しください。
その向こうに「絵馬掛所」があります。

ずらりと並ぶ絵馬の数々、そのほとんどが受験祈願なのでしょうね。
上の写真右にちらりとありますが、下の写真左の小さなお社が「猿田彦社」、
右の少し大きめのお社が「稲荷神社」です。

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祭神:猿田彦神 神徳:交通安全 (相殿):大宮売神 神徳:芸能・舞踊上達 猿田彦神は、日本の国をよく治めるようにという天照大神の命令を受けた瓊瓊杵命が、高天原(天上にある神々の世界)より地上に降り立たれる際、先頭に立って道案内をした神であり、この神話を持って、交通安全の神として崇められてきた。身の丈二メートルをこえる巨体と長い鼻を持ったこの神は、昔から「天狗さま」として親しまれている。 大宮売神は、天鈿女命の別名。弟神 素戔鳴命の乱暴なふるまいを嘆き悲しまれ、天岩屋戸にお隠れになった天照大神を、軽妙な踊りでなぐさめた女神であり、芸能上達の守護神として崇敬される。愛嬌のある顔立ちをされた神で、わが国に伝わる「おかめ」というユーモラスな女性の顔は、この女神をモデルにしたものである。 |
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祭神:倉穂魂神・猿田彦神・大宮女命 神徳:五穀豊穣・商売繁盛・火難除け 例祭日:二月初牛の日 祭神は「稲生りの神」と称される通り、五穀(米・麦・粟・豆・稗)豊穣をつかさどり、また商売繁盛の守護神としても代表的な神である。 当社はまた、昔この付近に大火があった際、この神社の手前で火の手がぴたりと止まったという伝えによって、『火除け稲荷』とも呼ばれ、信仰を集めている。 |
さらにこのお隣には「一之保神社」と「奇御魂神社」です。

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祭神:菅原大神(菅原道真公) 神徳:学徳成就 この神社は、道真公が大宰府に残された手作りの木像を持ち帰り、西の京(京都市中京区南西部、天満宮氏子区域)北町に建てた小さな社に納め、これを「安楽寺天満宮」称して祭られていたもので、明治になって当地へ遷された。 「安楽寺」とは、菅公の墓所となった寺で、大宰府天満宮の起源とされているが、菅公のご遺徳を忍ぶ人々によって、この寺に因んだ神社名が付けられたと思われる。 祭神:道真公の奇御魂 神徳:文芸・歌道上達の神 「奇御魂」とはさまざまな不思議や奇跡よびおこす特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃菅公のご神霊が、東福寺の開祖円爾国師(えんにんこくし)の前に現れ「わたしはこのたび宋に飛び、一日にして禅の奥義を習得した」と告げられた。その時菅公は唐衣をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため、以来このお姿を「渡唐(宋)天神」と称え祭るようになった。 また昔天満宮の境内でさかんにあった法楽連歌(天神様をなぐさめるため人々が集い和歌を詠みあう会)は、この「渡唐天神」の肖像の前で行われたことにより、菅公は和歌・文芸上達の守護神として崇敬されるようになる。 |
さらに隣にあるのが「野見宿祢神社」「豊国神社」「一夜松神社」です。

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祭神:野見宿祢 神徳:武芸・スポーツ上達 野見宿祢は、道真公の十九代前の先祖、文武両道優れた勇士で、垂仁天皇の御前試合において、最強の力士を豪語する当麻蹶速(たいまのけはや)を打ち破り相撲の祖と仰がれた。このため、大相撲京都場所は、力士の参拝も多い。 のち、宿祢は朝廷に仕え、古いしきたりを改めた功績により、土部(はじ)の姓を賜った。 祭神:豊臣秀吉公 神徳:開運・立身出世の神 豊臣秀吉公は、天下統一を達成し豊太閤と称えられる安土桃山時代の武将である。秀吉公は北野天満宮への崇敬がことほか篤く、天正15(1587)年には、当宮境内地において北野大茶湯を催され、また天満宮現本殿(国宝)の造営を遺命とされるなど数々の歴史的偉業を残された。 祭神:一夜千松の霊 神徳:延命長寿の神 一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祭るべき地は、一夜にして千本の松を生じさせる」という道真公のお告げによって、この一帯に生えた松に宿る神霊をいう。境内に多い松の樹々は、この一夜千松名残りとされる。 |
野見宿祢は、相撲の開祖にして菅原道真の先祖…というのは、このHPでもけっこうふれていませんでしたっけ?
鎌倉の荏柄天神のコーナーで、河童と道真公との関わりが云々というところで…。
上記にある、「古いしきたり」とは、天皇崩御の際の殉死をやめさせ、埴輪を作ったこと。
だから「土部」。でも、これで「はじ」と読ませるには無理がありますよね。
そのへんのことを、高田崇史先生の小説「Q.E.D」シリーズ「竹取伝説」でちょっとふれています。
殉死をするのは身分の低い人たちで、それは必死で埴輪を作らなければならないぐらいに。
そして「土部(はじ)」という姓を貰う。でも、さずがに「はじ」というのは…ということで「菅原」となったとか。
「管」という漢字も、それほど身分の高い名に使う字ではなく、これがのちに道真公流罪のきっかけになります。
出自が卑しいため…というのは、このあたりからくることなのです。
このお社のそばに、忘れられたように井戸があります。
この井戸は「連歌所井戸」(連歌所址)です。

先の「奇御魂神社」の説明にあった「法楽連歌」のことですね。
立札には、「北野連歌所は古く宗砌・宗祇等をはじめ代々の名称その奉公にあたり
毎月二十五日法楽連歌を興行せり」とありました。
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その向こうに、朱色の末社が並びます。

沢山並んでいらっしゃるので、ここは割愛させていただいて、中央の参道に戻ります。
長いので、一旦ここで頁を切ります。
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