● 義 仲 寺 ●
JR琵琶湖線 膳所駅を降りて、琵琶湖に向かって歩いて行き、少しわきに入ったところに
「義仲寺」があります。

こちらには、朝日将軍木曽義仲の墓があります。
この辺りは、旧東海道沿いで、古くは粟津ヶ原といいます。
再起をかけての撤退ならば、北へ逃れなければならないはずの義仲は、
すでに死を覚悟しており、「幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なん。」と契った乳兄弟の今井四郎兼平と会うため、
あえて危険な東へ向かいます。
今井四郎兼平も主君が気がかりで熱田から戻ってきます。
ここ大津の打出の浜で会えた二人は、そのまま一条次郎率いる六千騎の軍勢の中に
わずか三百騎余りで攻め込んでいきます。
この最期の場面までは、それほど木曽義仲に思いいれもなく、粗野な無精だなぁ〜と思っていただけなのですが
この乳兄弟、今井四郎兼平との最期のやりとりは、大変心に残り、あらためて訪れると、
また感慨深いものがあるお寺さんです。
また、松尾芭蕉がよく訪問し、宿舎としたことでも知られ、境内には芭蕉の墓もあります。
山門のそばに、地蔵堂があります。

こちらは、巴地蔵と呼ばれ、巴御前を追福するものだそうです。
中には少し大きめの石彫地蔵尊が祀られています。
山門をくぐり、中へ入ります。拝観料が必要です。
中には、沢山の句碑があるのですが…すいません…
今回は「平家物語」にまつわるものだけとして割愛させていただきます。
山門そばに、井戸がり、その後ろにあるのが、こちらの「山吹塚」です。

木曽義仲の側女山吹御前の塚です。
もともと、JR大津駅前にあったものを、駅の拡張工事にともない、この地に移されたそうです。
そのまま、進んで行くと、佐渡の赤石というものがあり、その隣に小さく建っているのが「巴塚」です。
義仲の側室 巴御前の塚です。
激戦の中、最期まで生き残った武勇の女性です。
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「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。
もし人手にかkらば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、
女を具せられたりけりなんどいはれん事もしかるべからず」
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そう言われてもなお、ともをしていた巴御前も、何度か言われ、東国へと落ちて行ったと書かれています。
その途中でも、八郎師重の首をねじきって捨ててしまうという場面があり
いかに武勇に優れた女性かわかります。
義仲の死後、何年かのち、義仲の墓のそばに草庵を結び、供養されてた尼僧というが
巴御前だったそうで、この庵を「無名庵」と言ったそうです。
里人が、この尼僧に誰かと問うと「われは名も無き女性(にょしょう)」と答えたそうです。
また「巴寺」や「木曽塚」「木曽寺」「義仲寺」と呼ばれたいたことが鎌倉時代後期の文書にもみられるとか。
さて、その巴塚の隣にあるのが、「木曽義仲公墓」(木曽塚)です。

宝篋印塔の立派なもので、松尾芭蕉は「木曽塚」ととなえたとか。
この後ろに見えるのが、芭蕉が宿舎とした「無名庵」です。
そこで詠んだのが
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木曽の情雪や生ぬく春の草
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義仲公墓の隣にあるのが、松尾芭蕉の墓「芭蕉翁墓」です。

芭蕉は、元禄7(1694)年10月12日午後4時頃、大阪の旅舎で亡くなられたが
「骸は木曽塚に送るべし」という遺言のもと、その夜、大阪を出て、
淀川から伏見、翌13日の午後にこちらに入り、14日に葬儀埋葬されたそうです。
当時のままの墓石に刻まれた「芭蕉翁」の文字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれています。
「平家物語」をめぐるたびは、さらに芭蕉をめぐる旅になるといわれているほど
松尾芭蕉も平家物語に関わる、多くの書きものを残しています。
中でも、木曽義仲にとてもひかれていたのですね。
平家物語にそって、芭蕉の思いを訪ねる旅もいいかもしれませんね。
義仲公墓と芭蕉翁墓の向かいにあるのが、「朝日堂」。

こちらの本堂になります。

本尊は木彫聖観世音菩薩像。
横に並ぶ厨子に「義仲・義高親子の木像が納められているとか。
さらに、写真左に並ぶ位牌は、木曽義仲、今井四郎兼平、松尾芭蕉、丈艸などのものがあるそうです。
現在の朝日堂は、昭和54(1979)年11月に改築されたものです。
「朝日堂」の隣に、小さな池と庭があり、その先にあるのが「翁堂」です。

池にかかる敷石を踏んで進むと、中も拝見できます。

中央に座っているのが、芭蕉翁座像。
左右に丈艸居士、去来先生の木像。側面、写真では見え辛いですが左手に、蝶夢法師陶像が安置されています。
翁堂は、蝶夢法師が明和6(1769)年10月に再興されたが、安政3(1856)年に類焼。
同5年再建され、現在の画像は、明治21(1888)年に穂積永機が似た画像を制作し奉納したものだそうです。
翁堂より、奥に、「木曽八幡社」があります。

こちらは、義仲寺の鎮守として、古図にもみられるもので、現在のものは昭和51(1976)年に新造されたもの。
さらに奥、翁堂の裏手になりますが、ひっそりと「曲翠墓」があります。

平家物語に関係ないので細かいことは割愛しますが、芭蕉が最も信頼したといわれる門人の一人だったそうです。
藩の悪家老曽我権太夫を刺殺し、自らも自害した曲翠の墓は後年ずっと作られなかったのですが
昭和48年、こちらに建立されたものだとか。
横の墓がそうなのか、それとも左手の小さな塚がそうなのか…細かいことはわかりませんでした。
さて、帰ろうと山門へ戻るところ、「史料観」という場所がありました。

義仲と芭蕉の軸が並んでいました。
また、ガラスケースの中には、芭蕉が使用していた杖がありました。

義仲寺を後に、今度は今井四郎兼平の墓へ向かうことにしました。
膳所駅へもどり、そこからJRでも京阪でも移動可能で、石山駅まで。
JRの方が早いですが、京阪の方が本数が多いので、時間次第では京阪の方が早いですよと
義仲寺の方に教えていただきました。
JR膳所は、新快速が停車しませんので、タイミングよく電車が来ればいいですが、
京阪の方が時間に無駄がないようですし、京阪の方が地元の電車っぽくて、趣きがあるのでおすすめです。