Mr. Strangelove, M.A., or: How I learned to stop worrying and love IR.

The TA Gazette in Canada

里竹の夏休み日記「カナダTA時報」

The TA Gazette in Canada: Summertime Episode



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2002/08/29

 「わたしは忘れない」(Je me souviens)。当地に来れば誰もが目にする言葉である。車のナンバープレートに刻印されているからだ。しかし、その言葉が意味するものに対して、衆目が一致する見解があるわけではない。ナンバープレートにこの言葉を刻印するのを決めたのはルネレベック首相であるが、言葉自体の起源は1880年あたりに遡るといわれる。ケベック州議事堂の設計者・タシュが議事堂の正面玄関のファサドに「わたしは忘れない」と彫り込んだのがことの始まりとされる。しかし、タシュの意図がどこにあったのかは不明であり、それゆえに、人々の間で諸説が飛び交うことになる。

 ドキュメンタリー映画「Un certain souvenir / A licence to remember-- Je me souviens」は、ナンバープレートに刻印された「わたしは忘れない」という言葉を手がかりに、市井の人々へのインタビューを集積した秀作である。人々はただ一つの質問を投げかけられる――「わたしは忘れない」って、一体全体、何を忘れないのでしょうか?――このたった一つの質問に対して人々は様々な反応をすることになる。

 「歴史を忘れないってことさ」「自分がどこから来たかっていう、ルーツをね」「わたしって、誰?」「われわれ、じゃいけないのか?」「忘れることも大切なんだよね」「いや、忘れるからこそ、忘れないことが大事なんだ」「要するに、ケベック人とは誰かってこと」………

   ケベックとは何か。ケベック人とは誰か。ケベックとカナダの関係は? 仏語系カナダ人と英語系カナダ人の関係は?――「わたしは忘れない」この言葉をめぐる人々の思いは、ケベックが抱えるアイデンティティの問題へと行きつくことになる。おそらく、インタビューに答える全ての人が、意識的にせよ無意識的にせよ、ケベックのアイデンティティについて思いをめぐらせる。そしてこのアイデンティティ問題の重苦しさと厄介さを直感的に理解する。それゆえに、直截的な反応、天邪鬼な態度、扇動的な発言、ほとばしる情熱、シニカルな笑い、逆説的なレトリックが生まれる。

 あるケベッコワはルーツをフランスに求める。ルーツを忘れず、棄民政策を忘れず、英語系支配の抑圧を忘れない。そしてこのようにも言う。「英語系カナダ人がいるからこそ、仏語系カナダ人が存在できる」。
 しかし、ヨーロッパ人が「新大陸」を「発見」する以前からこの地にすむ者にとっては、ヨーロッパ人が奪った土地を、血を、モノを、文化を、言葉を忘れないということになる。「ケベック人の範疇に、わたしたち先住民は含まれていないのよ。わたしは忘れない、なんて偽善よね」。
 遅れてやってきた移民も同様に感じる。移民二世以降の世代は、ケベック人として「今」を共有するが、フランスのルーツを共有するわけではない。あるヨーロッパからの移民二世は、名前を名乗ると常に「どこから来たのか」と問われ続ける。彼は不思議でならない。「どこって、ケベックシティの郊外の町だよ」。友達は納得しない。彼は思い余って父親に聞く。「父さん、僕たちどこから来たの?」「ポーランドさ」。彼は、ケベックで生まれ、フランス語を話すポーランド系カナダ人として生きることを忘れないという。
 英語しか解さないケベック州民は、地域の隣人として仏語系とコミュニティの中で共存しているが、文化を共有しているわけではない。彼らは、「わたしは忘れない」の言葉の中に、ケベック人定義の排他性を読み取っている。フランス語を解さなければ、ケベック人ではないのか? 仏語系にも言い分がある。仏語系は生活の必要に迫られて英語を話すが、英語系は仏語を学ぼうという意思がないではないか。これは、フェアではない、と。

 監督はこのインタビューのために、自分の車のナンバープレートを肌身離さず持ち歩く――車を運転している時も。そして、パトロール中の警官に違反切符を切られることになる。監督はその警官に尋ねる。「このプレートの、わたしは忘れない、とは何を忘れないのでしょうか?」「……罰金を払うのを忘れずにね」。

 インタビューはケベック人の経験した歴史上の出来事も織り交ぜながら進んでいく。そして、ケベック人の定義が一律でなく、時間を経ながら変化していくために、ひとつの歴史的事件にも多様な解釈が生まれる。Patriot Rebellion (1837-38)の解釈もその一例である。英語系に抑圧された仏語系の反乱、反英国・反植民地闘争と見る通説がある一方、階級闘争と位置付ける解釈もある。また、カトリック教会によるケベック社会支配が衰退していく様子を政教分離と見る人もいれば、フェミニストは同時に女性解放の始まりであると説く。このように、自分は何者か?と問うことは歴史の解釈の再構築を促すのである。そして、個人のアイデンティティに目を向けることは、個人と集団的アイデンティティとの間に生じる齟齬を浮き彫りにする。「わたしは忘れない」の言葉に個人主義を見出すものにとって、ケベック人の定義はますます個人に還元されていくようでもある。

 映画が進むにつれ、観客はひとつの空気を共有していく。それは決して、監督が投げかける「「わたしは忘れない」とは何を忘れないのでしょうか?」という質問に対する答えをコンセンサスとして共有するということではない。この様々に解釈されるこの言葉がもつ深みを理解し、解釈の多様性を了解するのである。アイデンティティと歴史の記憶をめぐる個人主義と集団主義の狭間で揺れるケベック人定義の揺らぎを、ケベックの現状として受け入れるのである。しかし、問いは残る。ケベックはどこに向かうのか? どこにもいけないのか? 最後のインタビュイーが答える。「「わたしは忘れない」ってことをわたしは忘れない」。



2002/08/26

 映画祭で『模倣犯』を観た。時間の流れを再構成したり、フラッシュバックを多用したりして、テクニックとしては成功していたかもしれない。それなりの効果はあったから。しかし、いまひとつのめり込めなかった。スマップ中居(漢字あってる?)が演じる犯人と見知らぬ役者が演じる共犯者、山崎努(被害者の祖父)、見知らぬ少年(発見者)、木村圭乃(雑誌記者)。山崎を除いて(さすがベテランだ)、登場人物の感情の描き込みが、もうひとつ(いや、もうみっつくらい)深みに欠け紋切り型だった。印象的な台詞はいくつかあったかもしれないが、ややもすると上滑りで説得力に欠けた。役者ではなく、脚本と演出につっこみが足りないと思う。テクニック依存の弊害である。そして、最後のシーンは、あまりにもぬるい。ぬる過ぎる。何がしかの救いを描こうとしたのかもしれないが、犯人中居の(もっと出せたはずの)凄みを、全く台無しにしてしまっている。1時間55分かけて構築した映像世界と、最後の2分が(好意的に解釈して、おそらく)提示しようとする世界との間に差がありすぎる。監督さん。それであなたは何をしたかったわけ? 宮部みゆき原作の小説は、どうだったのだろうか? しかし原作がどうあれ、それをどう膨らまし、脚色し、歪曲し、発展させるかは監督の腕の見せ所である。が、映画のみを見たわたしに言えること。監督さん、もっと頑張れ。それから、日テレ、局のアナウンサーをいーっぱい出演させることができて、満足でしたか?

***

 ソフィに誘われ、アフリカにインターンシップに出かけるという学生(クラスメートだったが、名前を忘れた)のお別れ会に出た。帰路、12時過ぎにバスに乗る。全ての乗客が降り、運ちゃんと二人きりになった。FMにあわせて運ちゃんが鼻歌を歌う。わたしは夜景を見つめながら、運ちゃんの鼻歌を聴いていた。ふと、こんなにも遠くにまできてしまったのだと、そして、どこまで遠くに行けばいいのだろうか、いや、果たして行けるのだろうかと、考えていた。深夜のバスで聴く運ちゃんの鼻歌には、自問自答効果があるらしい。


2002/08/25

 日曜日の昼下がり、近くのマーケットに買い物に出かける。器を買う。自分用のものではないので、選ぶのが難しいが、無難なものにする。余分に食材も買う。好みをまだ把握していない。おそらく好物であろうと想像して、一通りのものを買ってみる。自分以外の嗜好をも考慮に入れて買い物をするのは、意外と大変なのである。しかし慣れなくてはいけない。もはや、ひとりではないのだから。わたしが夕食を作っていると、覗きにやって来る。買ったばかりの器を用意する。ミルクを入れてテラスへ持っていく。ジョギングから帰ってテラスを覗くと、ミルクが半分なくなっていた。ほかには何が好きなんだろうか?


2002/08/24

 "Will & Grace"の続報。このたび、「ウィル・アンド・グレイス」は、「親が子供に見せたくないプライムタイムのテレビ番組(the Worst TV Program)」第3位に輝いたらしい。第2位は「フレンズ」。受賞理由は、「セックスや同性愛に関するきわどい会話が多く、とくに「フレンズ」などは、未婚の母を奨励するかのようなストーリー展開が、この番組を見る10代の未成年によからぬ影響を与えていると思われ、好ましくない」ということである。ちなみに第1位は「バフィ・ザ・ヴァンパイアー・スレイヤー」。題名が示すとおり、週一回、吸血鬼と対決する暴力シーンやオカルトが「品性正しい親御さん」のお気に召さないらしい。うちの政治学部の教授(中東比較政治専門)も大好きで子供と一緒に鑑賞していると、ちょっと前に新聞で報じられていたけど。親もいろいろと大変なんである。


2002/08/23

Music of Today: "One Less Bell to Answer"

 出る電話がひとつ減って
 焼く卵がひとつ減って
 誘う男がひとり減って
 嬉しいはずなのに
 わたしは泣いているばかり
 (どうして彼は行ってしまったんだろう)


 わたしはシチュエーション・コメディ(シットコム)が好きで、よく観るのだが、考えてみると、テレビを観ているときはニュースか嫉妬込む(お馬鹿なワープロめ)じゃなくてシットコムしか観ていない。たいていは「フレンズ」の再放送ばかりを観ているが、最近、新たなお気に入りをみつけた。「Will & Grace」である。ウィル、グレイス、ジャックが主な登場人物。ウィルとジャックはゲイ(でも付き合ってない)。ウィルとグレイスはルームメイトで、美術関係のエージェントを二人で共同経営している。ジャックは、歌・芝居・ダンスの三拍子がそろった自称エンターテイナーで、ウィルとグレイスの隣の部屋に住む。

 今日の歌はその「ウィルとグレイス」から。恋人ネイサンにこっぴどく振られたグレイスが、三日寝込んでベッドから出てこない。ジャックがやってきて、持ち前のショービジネス魂でグレイスを元気付けようとして歌うのがこの曲である。歌詞から明らかなように、全くの逆効果になる。グレイスの悲劇はともかく、洒落ていて、そして哀しい失恋ソングである。出なきゃいけない電話のベルがひとつ減っただけだし、朝食に焼く目玉焼きの卵がひとつ節約できるわけだし、と強がるところが余計に心の痛みを誘う。作詞はHal David、作曲はBurt Bacharach。シェリル・クロウもカバーしているらしい。今度恋に破れたら聴くとことにする。本誌のBGMに「One Less Bell to Answer」とあったら、察して頂きたい。

 ところで、ことの発端は、グレイスが恋人のネイサンからベッドインの最中にプロポーズされたことに始まる。セックスの最中にプロポーズするなんて非常識といって、グレイスは断るが、もっとロマンチックな状況ならプロポーズを受けていたかもと思い直し、今度は自分からネイサンにプロポーズしようと試みる。で、失敗して振られるのである。教訓。プロポーズにはそれに相応しいタイミングがあり、イエスといわれないようなプロポーズをしてはいけない。でも女の子からプロポーズされるってどんな気分なんだろうか? シットコムもなかなか含蓄深いのである。



2002/08/22

 朝、ベッドを出る。唐突に接続を切ったりフリーズしたりする機能を、おそらく世界中でわたしだけに、特別に個人サービスしてくれる超大手プロバイダーに接続する。 You've Got Mail. 朝っぱから陽気なおっさんの声が告げる。新着メールが入っているのだ。新着メールボックスを開く。おなじみのメールアドレスの中に、見知らぬアドレスが2件混じっている。うち1件は添付ファイルつき。件名も要領を得ない。この時点でわたしの警報感知機の針は危険度3を指している。このメールは開かないほうがいい。わたしの直感と経験はそう警告する。しかし好奇心が「添付ファイルなしのほうは試しに開いてみていいんじゃない?」と唆す。わたしはメールをウェッブメールで見ることにする。超大手プロバイダーのページに行き、サイン・オンすれば、ウェッブ上でメールを閲覧できるのだ。(ウェッブメールなら、自分のコンピュータにメールは取り込まれないから安心、と信じているのだが、これは正しいのであろうか? コンピュータに詳しい読者諸氏にご教示願いたい。>ハヘロさん。)とりあえず、見知らぬアドレスのうち添付ファイルなしのほうを開いてみる。

「わたしからウィルスつきのメールが送信されたようです。開かずに削除してください。開いただけで感染します。ご迷惑をおかけしました。よろしくおねがいします」

 また、である。わたしは、ウィルス感染メールが頻繁に送られてくる男として周囲に一目置かれている。先日なんて、ジェイに友人を紹介されて、「じゃ、メールで連絡しますね」というと、言下に「メールはやめてください」と真顔で真剣に拒絶されたくらいである。もっとも、ウィルスメールが来る割には感染したのは2度(3度かな?)だけだし、わたしがウィルスメールを他人に送りつけたことは1件(朝日新聞富山支局)しかない。わたしなりに自己防衛と予防をしているのだ。アウトルックは使わないし、メールソフト内にはアドレス帳を作ってない。ウィルスチェックは頻繁にするし、ウィルスチェックソフトの更新もこまめにやっている。しかし、まったく見ず知らずのメールアドレスからウィルスメールがやってくるのは防ぎようがない。さらに、今回のメールで気になるのは、添付つきのウィルスメールと感染お詫びメールの差出人がまったく異なっているところだ。なんでそうなるのだ。

 今回も早速ウィルスチェックしたが、感染していない模様なので、まずはひと安心だが…



2002/08/16
BGM: Sinead O'Connor, "The Last Day of Our Acquaintance"

里竹日記シネマ批評 "Quebec-Montreal"


 ケベック・シティからモントリオールまで車で約3時間。男三人連れと二組の男女、あわせて3つのグループが、それぞれの理由を抱えてケベック・シティを出発する。今ひとつさえない男三人組はキューバへのバカンスへ行くため、モントリオールの国際空港へと向かっている。美女とその同僚はビジネスの会議のためダウンタウンへ。若い男女のカップルは、彼女の昇進にあわせてモントリオールに移り住む。

 一組目:男三人組(A,B,C)はひとりの女の子をめぐって微妙な関係にある。AとBは女の子と3Pをするが、その女の子と付き合っているCはそれを知らない。さらに悪いことには、うぶなBは彼女に惚れてしまっている。
 二組目:美女は恋愛をゲームだと言い切り、恋の駆け引きに長けている。自分の魅力がいかに男を惹きつけるかをよくわかっており、それを利用する術を心得ている。彼女に密かに思いを寄せる男は、このモントリオールへの小旅行で彼女をなんとかモノにしたいと下心いっぱいだが、いかんせん不器用で墓穴をほっていく。
 三組目:男のほうは知り合いのいないモントリオールへ移り住むのに乗り気でない。また、昇進によって彼女の世界が広がっていけば、彼女を失ってしまうのではないかと怯えている。ケベックを離れたくないのだ。そこには友達も大勢いる。彼女はそんな内弁慶な男をクールに見極めている。
 途中、日替わりで浮気のスケジュールを組むのに忙しい中年弁護士(男)とその仲間がからんで、3組の恋のドライブは、やがて哀しい結末へと指針を取り始める。

 この映画の中で、男はひたすら情けなく、女はしたたかに描かれ、男の想いは一途だが独りよがりであり、女は現実的で打算的でときに冷酷である。一般的に、ケベックの女は強く、男は軟弱であるというのがジェネレーションX、ポスト・ジェネレーションXの特徴であるらしいが、この映画で描かれる男女の二項対立はその風潮を反映しているのであろう。しかし、わたしが思うに、この映画は、男の視点から見た昨今の男女関係にのみ焦点を当てているというところが単眼的である。フェミニズムの風が吹き、伝統的な社会規制から自由に生きようとする女は、変化を受け入れない、受け入れられない男(男社会、過激なフェミニストはチ○コ社会と呼ぶ)とどのように付き合っていくのか? 表面的に受け入れようとして媚びへつらう男をどのようにあしらうのか? 映画では、埋まらない溝が描かれ、断絶が予兆となっている。エンディングで流れる、シネ―ド・オコナーの「今日がわたしたちの交際の最終日」という歌声が一層哀しく響くのである。「その後の女たち」を描いた映画が見たい。


2002/08/15

Clinique,"Happy"
 においには、それに相応しい時と場所というものがあるのではないだろうか。ある男は、クリニークの「ハッピィ」というフレグランスをつけている女性には、もうそれだけで参ってしまうと主張してやまないが、いくらなんでも鮨屋での香水はご法度であろう。なぜいきなり「におい」の話をするかというと、夕方、サイクリング・ロードをジョギングしていると、気になるのだ。あまったるい、アルコールの臭い。それが延々と続く。スコットランドのウイスキー醸造蔵のなかを走り回っているウィスキー・キャットになったような気分である(どんな気分なんだろう?)。サイクリング・ロードは交通量の多い幹線と平行に走っているので、これまた排気ガスで空気が悪い。わたしがジョギングをこのまま続けていくには、どのようにすればよいのでしょうか?


 わたしの家の寝室は、通りに面しており、100x180センチの窓がある。通りから丸見えである。しかも、アパートの二階に通じるらせん階段が窓の前にあり、上の住人(ラファィェルちゃん)が階段を上り下りするたびに、わたしのあられもない寝姿を見られてしまうことになる。マドモアゼルに恥をかかせてはいけないので、当然、窓に目隠しが必要になる。あられもない寝姿をマドモアゼルに覗き見されないというのは、紳士のたしなみだ。で、すだれをかけているのであるが、これがもう、まったく見事なまでに光を通さない。真っ暗である。ひとは太陽の光で目覚めることが多いらしいのであるが(NHK「ためしてガッテン」より)、朝日の差し込まない寝室では、朝遅くまで惰眠を貪ることになってしまう。目覚ましをかければいいじゃないか、だと? 目覚まし一つで起きられるようなら、こんな話はしていない。


2002/08/14

 生ぬるく湿った空気が肌にまとわりつく。じっと座っていても汗ばんでくる。真夜中を過ぎても気温は下がらない。昼間のテレビで天気予報のレポーターが、この夏一番の暑さと言っていたのを思い出す。32℃。「気象観測が始まって以来、この日の気温は1947年の33.2℃が最高ですが、それに迫る勢いです。」白いノースリーブがよく似合う女性レポーターが、32℃の真夏の太陽に照らされながら、笑顔でそう告げていた。天気予報の女性レポーターという人たちは、28℃のときは28℃の、32℃のときは32℃の笑顔を顔に浮かべることができるらしい。

 午前1時34分。わたしはまだうまく眠れない。それほど遠くないところから、鉄道の踏み切り音が聞こえてくる。貨物列車が通過していく。隣家ではエアコンの室外機がうなりを上げている。エア・コンディショナー。我が家にそのような文明の利器があるはずもない。扇風機だってないのだから。うっすらと額にうかんだ汗をぬぐい、眠るのを諦めたわたしは、寝室をでてキッチンへ行く。冷えたウーロン茶が入ったポットを冷蔵庫から取り出す。昼間に作り置きしておいたのだ。お茶をウィスキー・グラスに注ぎ、一気に飲み干した。寝苦しい真夏の夜に、ウィスキー・グラスで飲む冷えたウーロン茶は、この世の中で最も輝かしい液体であるかのように感じられる。

 8月の中旬。甲子園では高校生が野球をしている。真夏の太陽が容赦なく照りつけるライト・スタンドで、麦藁帽子をかぶったわたしは、眩しそうな目でグランドを見つめていた。1979年。その風貌と実力から「浪商のドカベン」と騒がれていた選手が振りぬいた打球は、わたしのすぐそこまで飛んできた。1985年。大阪代表が山形代表を相手に毎回の得点を重ねていた。大阪代表の打球は面白いように野手の間を抜け、逆に山形代表の攻撃は点が入る気配がなかった。絶望的なまでに。大阪代表の得点が20点に達したとき、わたしは球場を後にした。

 時が過ぎ、わたしは今年、6月最後の土曜日に30歳になった。30歳になった今でも甲子園の高校野球を見ると、選手達が「お兄さん」に思えるから不思議なものである。わたしがまだ若かった頃、そう、例えば10代の頃、30歳といえば、まぎれもなく「オヤジ」であった。ああいう風にはなりたくない、そんな対象が30代だった。20代に入ると、30歳のイメージは若干好転する。30になればあらゆる物事になにがしかの価値基準を持ち(いわゆる分別盛りというやつ)、仕事では新入りの若手を引っ張り、中年の上司を突き上げる。結婚し、もしかしたら子供までいるかもしれない。しかし。実際はそうなならなかった。いまだに確固たる価値観もたずにふらふらしているし(確固たる価値観なんてありえないし、ばかげているとひにくれ)、何一つ成し遂げていないし(そんな簡単に成し遂げるものなら大したことはないとうそぶき)、結婚なんて考えたこともない。高校野球の選手を「お兄さん」と思ってしまう。やれやれ。どうやらわたしは、人間を年齢ではかることがいかにあやういことであるか、身を持って世間に示そうとしているらしい。

 午前2時49分。部屋の中の空気は相変わらずじっとしている。



2002/08/13

続・猫屋敷
 我が家のテラスを日向ぼっこに利用している猫は、4−5匹いるようである。黒2匹、白黒2−3匹。黒のうち一方は盛んにこちらの様子を伺っている。目つきが悪い。いわゆる、「メンチを切る」ってやつである。目の形が三日月みたいだ。そいつのことは、以後、クロワッサンと呼んでやることにする。せっかく名前をつけてやったのに、とくに有難がっているようにも見えない。失礼なやつである。今日の午後、白黒のうち一匹が、キッチンへ強行突破を図ろうとした。わたしが洗い物をしている隙に勝手口から入り込んできたのだ。まったく。ごめんくださいとか、おそれいりますとか、言えないのか? 言えないわな。


2002/08/11

日本の夏、当地の夏
 ハヘロさんからのお便りによると、大阪はとっても暑いようである。でも夏が暑くなくなったら大変なので、あきらめて猛暑に耐えて頂きたい。こっちの夏は、湿度も気温も高いが、日本の比ではないので、かなーり過ごしやすい。明け方などは15℃前後である。寝苦しい夜は存在しない(去年はあった)。暑苦しくて目覚めるということもない(去年はうなされた)。いやー、快適、快適。

夏の読書
 帰省しているあいだに本をたくさん仕入れたのだが、あらかた読んでしまった。日本語の本に飢える1年がまた始まろうとしている。ちなみに里竹のこの夏の邦語読書リスト。

 トレヴェニアン『夢果つる街』、『バスク、真夏の死』、『シブミ』
 藤沢周平『孤剣』、『刺客』、『凶刃』
 コーマック・マッカーシー『すべての美しい馬』
 沢木耕太郎『彼らの流儀』
 村上春樹訳『月曜日は最悪だとみんなは言うけれど』
 三谷幸喜『ありふれた生活』、『気まずいふたり』
 村上春樹『遠い太鼓』
 ティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』

中古屋めぐり
 さて、引越し後、家の整理を続けている。だいたい必要な家具や電気製品を、タダか安価で、知人(の知人)から譲ってもらったので引越しのコストはかなり安くついたと思う。が、意外と買い揃えなければならない物が多いのに気が付いた。電子レンジ、コーヒーメーカー、ソファ、コーヒーテーブル、絨毯、自転車、ステレオ、ビデオ、掃除機、アイロン、ブラインドなど。これだけの物を新品でそろえるとゆうに1,000ドルを越える(1ドル=80円でお考えください。はうまっち)。1,000ドルといえば一ヶ月の生活費である。しかも間が悪いことに今は夏休みである。給料がない。というわけで、必要最低限のものを、中古屋で仕入れることにした。まずは、電子レンジである。新品の最低価格は100ドルということは既に調査済みなので、半額の50ドルあたりを目安に物色する。で、49.99ドルと値札のついた電子レンジを発見。中古屋のあんちゃんに「これをくれ」というと、「35ドルね」という。値札と言い値が随分違うじゃん、と思ったが、安いので即購入した。しかし、である。「ワンタッチメニュー」(1分間温め)しか機能しない。肉・魚解凍とか、何分何秒温めるとか、何ワットで温めるとか、できないのである。「2分30秒の250ワット」とセットしてスタートボタンを押しても動かない。電子レンジは沈黙を続ける。ワンタッチボタンを押すと待ってましたとばかりに動き出す。これが私のワンタッチ・レンジ。

器物破損
 食器が割れるのである。新居に移って3週間が過ぎたが、グラスが二つ割れ、お気に入りのマグカップが欠けた。とくにマグはこの2年間、わたしと苦楽を共にしてきたので、少しショックである。わたしはあまり食器を割らないほうだと思うが、一週間に一つ割れるというのはすこし多い気がする。この家には食器に対して何かよからぬものがあるのだろうか。電磁波とかなんとか。気になる。

猫屋敷
 さらに気になるのは猫である。我が家は一階なので、キッチンの勝手口を開けると、そこはちょっとしたテラスになっていて、その先には自動車2台分くらいの裏庭がある。そのテラスと裏庭に猫がやってくる。昼間、勝手口を開けると、猫が5匹ほど寝そべっている。全員こっちを睨んでいる。黒が二匹、白黒が3匹。「せっかく気持ちよく昼寝しているのに、邪魔するなよな。あんた誰だよ」。あまり友好的な雰囲気とはいえない。わたしは猫が苦手なので、猫との非友好的関係を氷解させるような外交儀礼を示すとか、猫が気に入るような美辞麗句を並べる術を知らない。猫と私の間には埋めることの出来ない溝があり、越えることの出来ない壁が存在するのだ。しかし猫というのは不思議なもので、警戒心が強いくせに好奇心も強く、勝手口を開け放していると、覗きにやってくる。首を伸ばして、そっとキッチンの中を伺っている。なぁ、お前ら、どないしてほしいねん?




2002/07/23

 やあやあ、皆さん、お久しぶり。実に一ヶ月ぶりの更新である。里竹は17日に離日し、当地に舞い戻ってまいりました。そして住まいは新居。日本風に言えば2DKかしら? これで月額3万2千円は安い。ここ数日、床の雑巾がけ、ベッドの組み立て、テレビ台の組み立て、買出し、家具の配置のアレンジ、荷物の整理、電話の設置などで大忙しであった。広いから掃除が大変なんである。3―4日で片付いたので、まぁ、順調な滑り出しといえよう。しかし気になる点が一つ。貰い物のベッドを勘で組み立てたのだが、ネジが3本余った。どうして? 寝返りを打つとよく軋むのは気のせい? それとも鴬張り?

 ともかく、新居から大学のあるダウンタウンまではバスと地下鉄を乗り継がねばならない。ここ2年間は大学まで徒歩通学であった。よく考えてみると、小学校から大学院までの20年強、交通機関を恒常的に使って通学したのは予備校の(暗黒の)1年間だけであった。ふと思うのだが、わたしにとって電車通学はダークサイドに繋がっているのではなかろうか? そうした懸念を嘲笑うかのような出来事に早速見舞われた。午後6時ごろ、地下鉄からバスに乗り換え、わたしは家路についた。駅から家の近所のバス停までは一本道である。しかし、4つ目のバス停を過ぎたあと、我々の乗るバスはごく当たり前のように右折した。「えっ?」。20人ほどの乗客は一瞬息をのみ、「おいおい、曲がっちゃだめだよ、運ちゃん」と一斉につっこんだ。運ちゃんは「やば、間違えた」と呟き、1ブロック一周して路線に戻った。バスが道を間違えるなよ。大丈夫かなぁ。フォースと共にあらんことを。



* 本誌は基本方針として、筆者の恣意的な判断基準に則って主観的に取捨選択された事実のみを記述しています。フィクションの場合は「妄想」と明記します。あらかじめご了承ください。それでは楽しんでいきたまえ。チャオ。

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