大学教員の方々からの手紙
〜菅原先生と私の教員生活〜



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○大学教員の方々からの手紙○
 〜菅原先生と私の教員生活〜




プチ編集後記は こちら 
○長崎大学教育学部 教授  安達 謙三  「菅原民生先生の退職によせて」               私が菅原先生に最初にお会いしたのは私が九州大学大学院博士課程 1年の時でした。菅原先生は京都大学大学院理学研究科を修了された後 山口大学理学部助手を経て昭和44年12月に九州大学理学部助手に着 任されました。  当時私が受けた印象は新進気鋭の数学者という感じで、位相数学講座 に所属されていたので、ほとんど話をしたことはありませんでした。私は博 士課程2年で退学して茨城大学の助手に就職しましたので、九大で1年と 少し先生と一緒だったことになります。  その後、菅原先生は奈良教育大学に助教授として移られ、そこで教授に 昇任されました。私は茨城大学の助手を5年間勤めて長崎大学教育学部 に講師として赴任しました。  今から十数年ほど前に長崎大学に教育学研究科を設置するという話が 持ち上がり、そのためには幾何学の教授が必要だということになりました。 鷲尾先生をはじめ、数学教室の先生達と相談して菅原先生にお願いする ことになり、菅原先生も快く引き受けて下さり、13年前に長崎大学教育学部 に着任されました。  ご存じの通り、長崎大学では学生の教育に非常に熱心に取り組まれ、「数 学のひろば」を開催され、長崎県の小中高の生徒に数学の楽しさ・おもしろさ を知ってもらおうと奮闘されました。  高校生対象の学部紹介(オ−プンキャンパス)では私にはアイデアが浮か ばず、いつも菅原先生のお世話になっていました。特に正多面体について 手作りの模型を使って見学にきた高校生に説明されていましたが、とても 私には真似できません。手伝った学生達も勉強になったと思います。  また、指宿の菜の花マラソンにも何回か出場され、毎回完走されたのには 感心しました。3年ほど前から、カリキュラムに総合演習が入ってきて、菅原 先生はそこで堆肥作りを指導されました。技術科の農場を借りて学生達とト マトを植えたりされていました。  大学の仕事のことで私が困ったときに何度となくアドバイスをしていただき、 私も気楽に相談できて大変助かっていたのですが、その先生が3月限りで 退職されるのは寂しい限りです。  これからも健康に十分注意されて、いつまでもお元気で過ごされることを心 からお祈りしています。 ■ページトップへGO! ○長崎大学教育学部 教授  鷲尾 忠司  「菅原民生先生のご退官を祝して」  菅原民生先生、ご退官おめでとうございます。  菅原先生には幾何学担当の教授として奈良教育大学から長崎大学に お出でいただいて、大学院を設立にご尽力いただきました。  さらに本学部での講義を通じて学生達を教育、指導していただく以外 にも「いぶすき菜の花マラソン」、「環境教育」、「数学のひろば」な どによって学生達の教育活動力を高めていただきました。  また教室運営にも積極的にかかわってくださり、私どもをご指導いただ きました。本当にいい先生に長崎大学に来ていただいたと感謝いたして おります。その先生が長崎大学を去られることは実に残念で惜しまれて なりません。  先生は「数学のひろば」には特に熱心に取り組まれ、学部紹介のなど では数学教室のメインとして活躍していただき、数学科の学生たちの数 学の教材開発力、数学教育の実践力を高めてこられたと思います。この ような菅原先生の「数学のひろば」では、学生のみならず私もまた色々 と恩恵をうけましたので、その御礼の気持ちをこめてその一つを紹介さ せていただきます。  教育学部に大学院が立ち上がった頃、代数学や整数論の学習教材で、 小学校、中学校、高校でも教材として使えそうなものが何かないかと思 案しておりましたところ、ある日、菅原先生から「数学の広場」について 色々とお話しを伺っている中で、話題が「スピログラフ」に及びました。  その当時、私はスピログラフについて全く知りませんでしたので、それ についてどのようなものかお尋ねしたところ、それはスーパーなどの店頭 で百円で売っている子供の玩具で、女児などがそれを使って花模様を描 いて遊ぶものだということなどを詳しく教えていただきました。  それは「スピロデザイン」、「デザイン定規」や「デザインルーラー」 とも呼ばれていて、実際に販売されているものでした。2つの歯車の関 係を数理と結びつければ数論の教材に利用できそうに思えましたので、 早速近所のスーパーに出かけてデザイン定規を手にいれました。このこ とが切っ掛けとなりまして、「遊びの中の数理」について話をするとき には、今でもこのデザイン定規を教具として活用させてもらっています。 其のほかにも菅原先生には色々なことを教えて戴き、菅原先生にはとて も感謝しています。 ご退官後も「数学の広場」を通じての数学の教育活動、啓蒙活動をお続 けになられ、また「菜の花マラソン」にも参加されて、ますますお元気で活 躍されますよう祈念いたします。 ■ページトップへGO! ○長崎大学教育学部 助教授  平岡 賢治  菅原民生先生 ご退官おめでとうございます。  先生とお会いしたの、6年前に長崎大学に赴任してきたときでした。  その当時は、ご専門の幾何学のほかに、数学のひろばや高校生への講座 などの活動を積極的に行っておられました。そして、いくつかの場にご一 緒をさせていただき、数学教育に大変ご熱心な先生だという印象でした。  また、一方ではご自分の授業で、「学生がなぜわからないか、よくわか らない」などと、愚痴をこぼされながら、いろいろお話したこともありま した。日ごろのウオーキング、いぶすき菜の花マラソン、堆肥作りなど、 数学以外にも積極的な活動をされるなど、その行動力と若さにはいつも驚 かせられていました。卒論発表会では、いつも率先して発言され、われわ れに学生への指導のあり方を示していただきました。  ご退官後は、奈良県にお住まいとのことです。集中講義で何度かお願い をしています。この秋には、パプアニューギニアへ数学教育の指導で行か れるとお聞きしました。そこでの新たな発見を、われわれに還元していた だければ幸いです。菅原先生の若さの秘訣はチャレンジ精神であろうと思 っています。大いに菅原ワールドを広げ、お元気でご活躍されることを願 っています。 ■ページトップへGO! ○長崎大学経済学部 教授  村田 嘉弘(専門:可積分系)  菅原先生、ありがとうございました。  所属学部が異なるものの、菅原先生とはいろいろなことを話し合い、 本当にいろいろなことを教えて頂きました。  菅原先生は教育学部の数学教員という枠を超えて、長崎大学に多くの ものを残されました。長崎市・長崎県の数学教育への貢献はどなたかが 語られるでしょうから、私は、私から見た菅原先生像・先生が残された ものを語ることにしたいと思います。 1 子供と訪れた「数学のひろば」  平成6年、私の長男がまだ小学校1年生であった頃、長大祭に合わせ て開催された「数学のひろば」を訪れました。  教育学部の教育工学実験教室で開催された「数学のひろば」は長男に とって珍しく、展示物を手に取ったり、いろいろ実験してみたりと普段 触れたことの無い世界に驚いているようでした。まだ算数もよく知らな い長男には、分からないけれど何か不思議な世界があるのだと映ってい たようです。  大学から数学の道をずっと歩いてきた私自身、このような形での 数学体験広場は初めてでした。  私の中での数学は、研究対象としての数学、教育上の数学、物理など の応用を通じての数学であり、日常と関わるのはせいぜい数学的なクイ ズぐらいなものでした。  しかし、目の前にあったのは、日常からちょっと踏み込んでみると そこに豊かな数学の世界があるということを示すさまざまな展示物で した。  今までに無い経験でした。  私が小さな長男を連れて「数学のひろば」を訪れたことを気にいられ たのか、菅原先生は大変ご機嫌な様子で、長男の写真を撮ってください ました。  そのときの「ながさき数学のひろば」の資料は今でも我が家に大切に 保管してあります。 2 数学教官会議の旗揚げ  平成9年の長崎大学改組がある前は、長崎大学の数学教員は、教養部、 教育学部、医学部、経済学部に分属しており、一同に会するのは、 科研費の申請のための打ち合わせのときだけでした。当時は、教養部、 教育学部が2本の柱として機能していました。  ところが、改組により教養部が廃止され、教養部所属の数学教員が 工学部、経済学部に移り、更に、入試における数学の取り扱いに関し て数学教員全体の見解を述べなくてはならなくなった頃から、次第に、 状況が変わってきました。  それまで長崎大学の数学教員のリーダー的役割を果たされていた 森川先生が工学部をお辞めになった時点で、危機はピークに達しました。  数学教官が何らかの形でひとつにまとまらなければ、発言力の低下 ばかりか、数学教員のポストすら危ういかもしれない。  何人かの教員が危機感を強めていたと思いますが、その一人であった 私は、菅原先生に、「数学教員が一同に会し、いろいろ議論をする場を 設けましょう」と申しました。  すると、菅原先生は「そうしましょう」と直ぐに賛同され、2週間も 経たないうちに長崎大学に所属する数学教員全員が教育学部に集まる 会議が開かれました。そして、その第1回目の会議で、この集まりを 「数学教官会議」とすることが決まり、そして初代議長として菅原先生が 選出されました。  「数学教官会議」は大学の規定で定められているわけではないので、 非公式な会議ではありますが、以後、大きな役割を果たしてきました。  長崎大学の入学試験の数学は、数学教官会議の名の下に大きな改革が 行なわれ、対外的に大学として対応しなければならない数学上の議題は この会議で議論されてきました。  菅原先生によって旗揚げされた「数学教官会議」は、私たち長崎大学の 数学教員をひとつにまとめ、私たちに力を与えてくれました。  温厚なお人柄で長年議長を勤められた菅原先生、本当にご苦労様でした。 3 長崎総合科学大学への道すがら  私は何年も、長崎総合科学大学の非常勤講師を務めています。菅原先生も 一時期、総科大学の非常勤講師を勤められ、平成14年、15年と2年ほど、 私と菅原先生は同じ曜日に出講しておりました。  私が、長与町のマンションから総科大学まで、JRとバスで通勤している ことをお知りになった菅原先生は、「私が迎えに行きましょう。車で 総科大まで行く途中ですから、乗せていってあげましょう」とおっしゃい ました。  私が菅原先生に「お迎えに行きましょう」と申し上げるならば分かり ますが、全くその逆です。  驚きながらも、ご好意に甘え、2年ほど先生の車に乗せていただいて 総科大に通いました。道すがらの先生との会話はとても楽しく、数学教育 から、社会情勢、海外生活、ゼミの話、大学の動向など、さまざまなことを 話し、教えていただきました。  先生が Oxford 大学の数学研究所(Mathematical Institute)に 在外研究で行かれたこと、その後、Michael Atiyah が来日したとき、 Atiyah 担当の数学者であったことなど、研究者としての菅原先生の ご活躍を知ることもでき、大変興味を覚えました。  晴れた日も、雨の日も、雪の日もあった総科大学への楽しいドライブは、 私の一生の思い出になっています。  マンションの前の道路に菅原先生の車が見えるのに、何回も約束の時間に 遅刻して、本当に済みません。慌てて車に駆け込む私を辛抱強く待っていた だいて本当にありがとうございました。 4 数学教育にかける情熱  私は今でもよく「数学とは何だろう」と思います。研究を進め、いろいろ 勉強するほどに却って不思議さが増してきます。一応自分の答えを用意は していますが、もっともっと深い答があるのではないかと思うことも あります。私は私なりの方法で、数学の面白さ、不思議さを学生たちに 伝えたいと思いますが、菅原先生の「数学の広場」は、私にまねのできない 形で、数学の面白さ、不思議さを伝えようとしていると思います。  菅原先生の数学教育への熱い情熱は、どこから来るのでしょうか。長崎大学に 着任される前の大学での体験が大きいと、伺ったことがあります。  今回、菅原先生のご定年を記念しての文集に寄せられる多くの文の中に、 その答えを見つけ出すことができればと思います。  菅原先生、何時までも、その熱い思いで数学教育を語り続けてください。  本当にありがとうございました。 ■ページトップへGO! ○長崎大学工学部情報システム工学科 教授  末吉 豊  菅原先生,長い間ご苦労様でした.  私は5年前に長崎大学へ参りましたが,入試のことなどいろいろと 教えていただき,有難うございました.  私が菅原先生に初めてお会いしたのは,九州大学在学中の2年後 期に,六本松の教養課程から箱崎の理学部数学科に進学して「幾何 学演習」の授業を受けたときだったと思います.  当時,菅原先生は「代数学と位相数学」講座の助手をされていたと 思いますが,授業の1回目にいきなり2次曲面の分類の話を滔々とさ れて,度肝を抜かれたことをよく憶えています.  私たちの学年はまだ学生運動の名残が少しあって,六本松では定 期試験ボイコットがあったり,数学の授業が討論に変わったりなどで, 解析も線形代数もきちんと勉強しないまま箱崎に進学していました. それまで,数学のまとまった話をあまり聞いたことがなかったので,目 を開かれる思いがしたものです.  九大にいる当時は菅原先生とあまりお話しする機会はありませんで したが,長崎大学へ参りましてからは,私も懐かしい思いがしましたが, 菅原先生も私のことをよく憶えておられて,いろいろと楽しい話をさせて いただきました.  定年退官で長崎大学を去られるとはいえ,まだまだお元気にしていら っしゃいますので,今後は少しお骨休めをなさりながら,益々のご活躍 をされることを祈っております. ■ページトップへGO! ○長崎総合科学大学  長 良夫  今年3月をもって定年退官とのことで、永きに渡るお勤めご苦労様 でした。  長崎大学に来られてから毎年、総科大でも夏期集中講義(代数学 C) を担当され、その際に学生に書いてもらう感想文を拝見させて頂きまし た。  先生の集中講義では学生に考えさせる授業を展開されていて、自分 にも通常の講義の中でそのようなことができないものかと思考錯誤し ていますが、菅原先生とは違ってなかなか旨くはいきません。先生の 今年の年賀状に書いてあった   「待つことの大切さ」 というのは、教育にも子育てにも共通するこだと思います。先生の年賀 状を読んだ家内が   「ほどよいタイミングで待つということはとても難しいこと。待つという    ことは、いかなるときにも周りの状況がしっかりみえているというこ    と。すばらしい教育理念を持った菅原先生との出会いは学生にとっ    てもあなたたちにとっても幸せね。」 と言われました。菅原先生との出会いを感謝し、これからは学生たちの 力を少しでも引き出せるような講義を心がけていきたいと思います。  10月からは、パプアニューギニアに行かれるそうですが、帰国された ら珊瑚礁などの話も聞かせてください。 ■ページトップへGO! ○長崎総合科学大学  藤原 豪 1.菅原先生との出会い    菅原先生が長崎大学に赴任して来られたのは、1992年の4月だった と思う。私の勤務する長崎総合科学大学では、ちょうど「代数学C」とい う科目の担当者を新たに探さなければならなくなっていた。鷲尾先生 だったか、梶本先生だったか、後任の方の紹介をお願いしたところ、 今度菅原先生という方が赴任して来られるので相談してみてはという ことだった。さっそく連絡をして、1992年度からこの科目を担当して頂き たいとお願いしたところ、こころよく承諾していただいた。  「代数学C」は夏季集中講義として行われた。集中講義期間中はお昼 をともにしながら、授業の様子、学生の様子などいろいろ聞かせていた だいた。  具体的なことはもう忘れてしまったが、先生の講義・授業の独特の姿、 方法にかなり驚いたことは覚えている。ひとつひとつの問題にじっくりと 取り組ませ、学生が「答え」を聞いても教えない。学生も相当驚き、戸 惑ったようだが、以来、毎年行われることになったこの集中講義は、数 学の教免取得を目指す教職課程の学生にとっては独特の学習経験を 積む場となり、特別な教育効果をもった総科大教職課程の名物講義と なった。  菅原先生の集中講義に私が驚いたのは、その変わった様相も一因で はあるが、それよりもそのような授業が実際に行われたことに対する衝 撃の方が大きかった。  というのは、私自身も、頭の中ではこのような授業を構想することがあっ たからである。学生が主体的に学習する授業。私は以前高校の数学教 員を勤めていたが、  「何か人間が自然にものごとを学ぶようにして学習が進められる授業と いうものはないものか」、  「力学と微分積分学を一体にしたような授業は出来ないものか」 などと想っていた。想ってはいたが、本格的に教材研究をし、本気でシラ バスを書いてみようとはしなかった。どうせ学校教育の中では実行する ことが出来ないと思っていたからである。  昨今の学校教育は、生徒の今ではなく何かよく分からない将来のため に、そして生徒がともかく「先」に進むために行われているかのようであ る。数学は将来何の役に立つのだろう。確かに相当数の生徒は将来数 学を仕事の道具として役立てることになるだろう。しかし、生徒個々人の 立場から見れば、現時点で具体的な目当てをもっている生徒は少ない のではないか。  数学自体に興味をもった生徒は将来数学の先生を目指すかもしれな い。しかし、まさか数学の先生を育てるために数学教育が行われている わけではあるまい。悪いことではないと思うが、学校の中で数学の先生 が数学の先生を育て、これが未来永劫にわたって繰り返される。なんだ か窒息してしまいそうだ。当てのない準備としての数学。数学のための 数学。教科書と黒板とノートの上に閉じ込められた数学。  学校教育の中では、数学本来の姿で数学することなど到底無理なの ではないか。いずれにせよ、私はこうした言い訳によって、想うような授 業を創るために本気で努力してみることから逃げていた。菅原先生の集 中講義は、私に抽象的な教育構想と言い訳から実践への決断を迫り、 励ますものであった。  この集中講義をきっかけとして、その後今日に至るまで、私は数学教 育の面でも、また数学者としてのありようの面でも、ずっと先生の影響を 受けてきたといえる。菅原先生のご退官にあたり、ここで、先生の影響 や励ましを感じながら私自身が取り組んできた教育実践の意味を少し振 り返ってみたい。 2.エレクトロ・パズルと「数理の科学」  1992年か3年の秋だったと記憶しているが、先生から「数学のひろば」 に来てみないかとのお誘いを受けた。「数学のひろば」では、やってきた 小学生、中学生やその家族が多面体づくり、石鹸膜の実験、パズル解き をするのを長崎大学の学生たちがお世話していた。なるほど、確かに数 学のある広場であった。  私はそこにあったエレクトロ・パズルというのを手に取って試みた。金 属の軸に何重にも重なって金属の輪がくっ付いているパズルから、中に 掛けられている紐の輪を外すというもので、後に私が「カメ」と呼ぶことに したパターンである。これが解けない。口惜しい限りに、解けない。  「たかがパズルだ、数学とは関係ない」  と自分を慰めながら、その日はすごすご引き上げた。その冬のお正月、 何もすることがなく退屈していたが、風呂に入ってふとこのパズルのこ とを思い出した。  「数学者としてはやはり恥ではないか。数学者らしく解いてやろうじゃ ないか。暇つぶしにはちょうどいい」  と思いついた。数学としてアプローチするためには、問題を数学として 捉え直さなくてはならない。ポイントは正にこの「数学として捉える」こと にあった。トポロジカルに問題設定してみた。結果は30分、風呂の中で 解けた。しかも、同類の問題に一般化できる方法である。  このころ、ある先生から「本学の一般教養科目として、何かひとつ講 義科目を創ってくれないか」と相談を受けていた。私にとって、これは 「相談」というより「挑戦」であった。  「数学屋に人間教育は出来んだろう」  エレクトロ・パズルが解けたことで、私はこの「挑戦」を受けることにした。 科目名称は「数理の科学A」。この科目で、エレクトロ・パズルを解くこと にした。15コマ全部を使って、受講者全員がパズルを解ききる。今まで の数学履修歴などにとらわれず、もう一度生身の人間としてパズルに向 かい、数理的思考を行ってみること。  以前の私には、このような講義、授業に本気で踏み出す勇気はなかっ た。「数学のひろば」の賜物である。学生の反応は想像以上であった。 他の講義への出席中にもこのパズルをいじっている学生がいるとお叱り を受けた。「苦情報告があった学生の方には直ちに受講放棄をお願いす る」ことを通告した。一年目、教材のパズルはこのパズルの製作会社か ら大量に仕入れていたが、学生に貸出したパズルの全てを講義の終了 した半年後に回収するのは至難の業であった。こんなことに神経を使う のはご免だ。  そこで、アルミの針金と紐を準備して学生自身に教材を作らせることに した。教材を自ら作り出すこと。これも菅原先生から教わったことのひと つである。「数学のひろば」では、多面体づくりの材料を先生はしっかり と準備されていた。安あがりにパズルが作れるようになって、いろんな 人にさしあげた。総科大周辺の小学生、中学生から好評を得たようで ある。  私は子供のころからパズルが好きではあった。パズルを解くことと数学 の問題を解くことはよく似ている。しかし、数学はもっと広くて、深い何か であるはずだ。少なくとも私にはそうでなくては困る。数学の入試問題や 演習問題、パズルを器用に解いて見せ、またその解法を上手に教える。  そうやって一生を終えるのかと考えると、なんとなくさびしい。以前から あった問題「数学とパズルの違いを述べよ」。「数理の科学A」に取り組 む中で、この問題に改めて直面した。現時点での私の答えは、  「数学は現実の世界を相手に、人間の生活とその歴史が生み出した 知恵であり、人間の生活とともに生き続けているもの。パズルは、現実 世界とは関係なく、人間がつくりだした規定に基づく問題」 というものである。両者の決定的差異をその問題の性格に求めている。 その立場から、「数理の科学B」では数学史の断片を扱い、数学的概念 や問題が発生する様子、過程を紹介することによって、学生が数学の 問題をいくらかでも内在的なものとして受け入れてくれることを期待して いる。  菅原先生は「数学のひろば」づくりに旺盛に取り組まれてきた。長崎 大学ではもちろんのこと、県下のいろんな高校でも「数学のひろば」が 開かれた。諫早少年自然の家での合宿形式のものもあった。そのいく つかに私も参加させていただいたが、私が「数学のひろば」から学んだ 一番大切な教育的指針は、生の素材に実際に触れさせることであった。 理論や計算技術の説明はともかくとして、まず事実を確認させること。 こうしたことが数学への興味や関心、問題意識をはぐくむ上で決定的に 重要だということであった。あたりまえと云えばあたりまえのことだが、 頭で考えてそう思うのと、実際に見てそう思うのはだいぶ違う。まさに この違いの大きさをどう認識するかということであろう。  学校教科の数学において、生の素材を準備することはなかなか容易 なことではない。例えば、高校数学の各単元ごとに然るべき素材を準 備し、かつ最終的にはそれをうまく料理して、生徒に教科の内容を理解 させ、各単元の教育目標を達成するということを考えると、これは並大 抵の教材研究ではすまないだろうし、また授業時間数も相当かかるも のと想われる。私にはこの問題は残ったままである。しかし、それを言 い訳にしていては始まらない。「数理の科学」は菅原先生が「数学のひ ろば」に込められてきたメッセージと問題提起に対する私なりの答えで あり、これからもそうあり続けるだろう。 3.正多面体と「幾何学」  菅原先生は正多面体や石鹸膜の話がお好きなようである。「数学の ひろば」で度々これらの話題に接することができた。この中で特に私が 興味をもったのは、石鹸膜に関係した平均曲率や、正多面体と関係し たガウス曲率の話であった。  というのも、私は総科大で幾何学の科目をいくつか担当していたから である。しかも私自身、赴任してからまだ数年しかたっていなかったこ ろで、「幾何学」の科目づくりに苦労していた。赴任初年度には、工学 部の学生を相手に、ホモロジー代数学を使ってオイラーの定理を証明 するという講義をやって、見事に失敗した。  私は「数学のひろば」から、曲率の話を使って微分幾何学を、オイラ ー数の話題で位相幾何学を紹介するとうい教科目標を得た。教科の目 標、内容よりももっと重要な意味をもつのはその教育方法で、  「可能な限り直観重視、事実重視」 という立場で取り組んでみようと考えた。多少の論理的な不備には目を 瞑ること。そしてこれは、先に述べたような、私が勝手に受け取った「数 学のひろば」からの問題提起に、「普通の講義科目」を通じて答えていく という実験、挑戦であった。  現在「幾何学B」では、ホワイトボードのように落書きのできる白地図 地球儀というのを購入して、地球儀上にその多角形分割を実際に書か せ、オイラー数を求めさせている。たったこれだけのことでも、学生の反 応は以外に大きい。ニコニコしながら楽しそうにやっている。球面のオイ ラー数=2はこれだけで定着する。しかし、教材研究不足や発想の貧困 もあって、全体にあまりうまくはいっていない。この文章を書きながら、 改めて意気を高めねばと思っているところである。 4.菅原先生と「数学科教育法」 ここまで書いてくると、どうしても私の主たる担当科目である「数学科教 育法」にも触れざるを得ない。「数学科教育法A」では数学教育史を扱っ た。数学教育の目的と方法の歴史的推移をたどることを主眼としている。 「数学科教育法B」では文字通り数学科教育法の理論的な基礎づけに 取り組んでいる。実際には、私の極めて主観的な教育法の弁明にすぎ ないかもしれない。いずれにせよ、この科目づくりで、私は菅原先生の 教育実践を大いに参考にさせてもらっている。  まず、数学教育史。全体的な数学教育史の中で話を展開するのは、 教育学の研鑽など微塵も積んでいない私には荷が重過ぎる。ここで文 書に残るような数学教育史概観を披瀝して、批判に晒されるのも怖い。 したがって、話が断片的になり、随分脈絡の解りにくいものになると思 われるが、ご勘弁を願うことにする。あわせて、それぞれの時代の教育 方法についての理解、評価は極めて主観的、一方的なものであり、い わば私の妄想であるということをお断わりしておく。  さて、この科目をつくるため、最初の一年は随分勉強した。遠山啓と 小倉金之助の著書や論文を読みながら、ひとコマひとコマ準備しなが らの講義となった。各時代の数学教育にはそれぞれ目的と方法に関 する考え方の類型があり、しかも面白いことに、相互に正反対とでも云 えそうなほどの対立的要素をもっている。さらに、これらの類型は、私 をも含め、現在数学を教えている先生たちをも取り込んで現代に生き ているように思える。 科目を準備していく過程で、私は小倉金之助にかなり傾倒していった ようだ。小倉金之助は欧米で始まった数学教育の近代化運動を日本 に紹介し、もちこんだ人物である。数学教育の近代化運動は、厳密な 論理展開を数学の真髄とするそれまでの形而上学的、論理主義的な 数学教育を否定し、実用、応用を重視し、近代科学の成果を生かすた めの数学教育を展開しようとする運動であった。実は、勝手に決めつ けてたいへん失礼な話ではあるのだが、私には菅原先生が、現代に おいて、この近代化運動の類型を代表する先生に思える。  菅原先生は物理学科の学生であったとお聞きした。「生活単元学習」 の体験者でもあるそうだ。事実の直観、実験、実測を重視する先生の 方法は近代化運動の方法そのものである。また、学生、生徒の学習 指導においては、その心理的側面を重視し、自主的、主体的な学習 を指導する方法の案出に心を砕いてこられた。これも近代化運動教 育論の重要な構成要素である。  ドイツにおける数学教育近代化運動の指導者、フェリックス・クライン は「今日のドイツ大学における数学者は、論理的手段のみに捕らわれ て、心理的可能性に対しては余り顧慮しないのである。これ果たして 適切なりや否や、疑いなきを得ない」と述べている。近代化運動はとう の昔、戦前のことである。その本当の姿を見ることはできない。私は菅 原先生のお話や教育実践を通じて、近代化運動の姿を想い描いてき たように思う。 近代化運動は「とうの昔」と云ったが、私はそのことで「古臭い」と云っ ているのではない。教育史をたどってみて私が感じていることは、教育 の目的や方法、教育方針の変更は、教育論の理論的な発展の帰結と して起こったのではなく、むしろ、政治的に、教育実践と教育論の理論 的総括を投げ捨てて行われてきたのではないかということである。  殊に、日本での数学教育近代化運動は、数学教育がその立場にたっ て行われた期間も短く、戦争と、敗戦後の「生活単元学習」、スプートニ ク・ショックを契機とする「数学教育の現代化」などによって、理論的評 価を受ける間もなく、強引に捨て去られたかにみえる。「現代化教育」 が「落ちこぼれ・数学ぎらい」を生み出して挫折したあとは、「ゆとりの教 育だ。多様性だ」と、教育の目的や方法の真摯な模索さえをも放棄した ような議論がつづき、今では、「総合的学習」が提唱されたかと思うと、 「学力低下」を理由に「総合的学習」の「見直し」が検討されるとのことで ある。  私には、まるで、古臭い50年代の議論が再現しているかのように見 える。私は、生煮えに終わった日本の数学教育近代化運動をきちんと 総括しながら、この教育論のもつ可能性を最大限のレベルまで検証し てみるべきであると考えている。菅原先生の度胸とヴァイタリティー、教 育実践は、その意味でも、私にはかけがえのないものであった。  「数学科教育法B」では、数学の性格と教育方法の検討をテーマにし ている。話が長くなったので簡単にするが、ここでは、数学の「理論」を 「論理」と「心理」の全体で構成されているものとして捉え、特にその理 論を構成する心理的要素を分析し、教育方法の改善に生かすことを目 指している。先に掲げたクラインの言葉の含蓄を我がものにしたいとい う想いである。  数学は人間が創り出したものであり、数学を「理解する」のも人間で ある。そして「理解する」、「分かる」、「納得する」ということは心理的な 現象である。問題意識をもつこと、類推や試行錯誤、仮説を想いつくこ となど、これらのことはすべて、論理的必然性によって行われるのでは ない。論理的なことではないのだ。極めて人間的で、心理的なことがら である。数学理論を分析し、その中にこのような要素を見出すことは、 教育方法を考えるうえで非常に有用であろう。  菅原先生の集中講義は、学生の反応や心理状態に対して常に心を 配りながら行われた。数学を通じた学生との対話、それこそが先生の 教育的興味、教育意欲の源泉なのかもしれない。この集中講義は、学 生の学習心理を分析するうえで、驚くほど沢山の材料を提供してくれた。 お昼休みの雑談は楽しいひとときであった。 5.最後に  とりとめもなく長々と書いてしまったのは、菅原先生のご退官にあたり、 私が先生から教わったことや残していただいた問題を整理しておきたい と考えたからである。読み返してみて、まだ足りないような気がする。そ して今一番大きなことに気づいた。「数学のひろば」を学生や生徒が主 催していたことである。  「主体的な学習の指導法」を目指しながら、私の「数学科教育法」は全 コマ講義形式である。学生は受身の聴講者のままである。学生とともに 学び考える菅原先生のありよう、そのヴァイタリティーを想うと、まだまだ 汲みとるべき、そして汲み尽くせないものがあると感じる。先生はご退官 され、私たちの総科大からも去られることになるが、私は残された問題 にひきつづき取り組んで行こうと思う。 いつかまたお会いして、雑談できる日もあろう。菅原先生、お元気で。 ■ページトップへGO! ○ プチ編集後記 ○  「数学者」 「高等数学教育者」  この2面を兼ね備われ,大学に貢献された菅原民生先生。  位相数学をご専門とされ,その研究に没頭した研究生活。 そして,日中の講義では大学生に対して,数学という学問を論理的に 語り,教授し,学生を魅了し続けた数学教育者としての教員生活。  菅原先生の大学教育でのご活躍はもちろんのこと,研究においても その業績が,先生方にご好評であったことは本ページより伝わってき ます。  大学を去られることにはなりますが,菅原先生が数学者であること には何の変わりはありません。今後は大学という場を離れ,さらなる 数学,数学教育を追い求めパワーアップされることでしょう。そのよう な菅原先生の新たな数学者としての一面をこれから応援し,生涯に 渡っての数学者であることを祈るばかりです。  諸先生方,ありがとうございました。(編集委員ひっきー談) ■ページトップへGO!  
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