「I & Y のひととき」
2005年度
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
12月21日(水)
年の瀬も近づき年賀状の準備で名簿を作りながら、過ぎた今年の出来事をふりかえった。 中部国際空港の開港、愛知万博の華やかさの陰で身近なところで衝撃が奔った。 私達の縁結びの神である、K先生の逝去が心にずっしり重くよみがえる。
3月、先生からの筆文字の葉書が届どいた。勢いある筆跡からは年齢をみじんも見せない 達筆な文字だった。
「今年もラッキョウ堀りにいらっしゃい、5月の末頃が堀り時季かと‥」
10年以上続いていて年中行事となっているお誘いの嬉しい便りであった。畑の木陰での 昼食パーティー、先生との語らいの場でもある。私達の近況報告やら、担任当時(妻中3) の同級生の生活四方山話をにこにこしながら楽しそうに聞いてくださった。また、先生が 今、手がけている郷土の民話の一説や取材のエピソードを話してくださったり、浜名湖西岸 は天領になっていて、このような遺跡・美術品がどこどこにあるとか、時間を忘れるひと時が 流れた。
5月、中学校当時のクラス会御招待にと、ご都合伺いのTelをしたとき、体調を悪くして入 院中であることを知らされた。早速お見舞いに伺うと、車椅子の先生が看護婦さんに押 されて診察室から病室に戻るところだった。私達を先に見つけて下さり手をあげ
「おぅおぅ‥遠いところをわざわざ有難う」と迎えてくれた。
「今年はラッキョウ堀りには付き合えないが、柿の木西側の畝が良さそうだから、好きな だけ掘って行って‥‥」
ご自分の体調よりも私達に気くばりして下さる先生に恐れ入りながら、看護婦さんに病状 をお聞きした、
「なにぶんご高齢ですので、なんとも‥‥」とのこと。
この先生は郷土史研究家でテレビ・ラジオでも活躍し、文筆活動でも多くの著書を持ち、 市史編纂の第一人者だったことなど話して「よろしくお願いします」とだけ、懇願のお見舞 となってしまった。10日後、再びお見舞いに上がったときは、眠っておられて、結婚された 末の娘さんが付き添っておられた。
「妄想なのか幻覚症状なのか、ときどき解らない事を言ったりして‥‥」と。
その後、数日して、奥様から訃報が知らされた。6月17日葬儀は自宅にてしめやかに 行われ、文化団体・教育者・教え子など多くの参列者があった。
93歳の大往生と人は言うが、情の中にある私達には、手の届かない暗く深い闇が続い ている感じで淋しさがいつまでも乾かない。
11月16日(水)
講座生の一人が浅間山のふもとに引っ越して行かれた。長年こちらの中学校 の教職に就かれていて、定年退職されてから数年間の講座生でした。お人柄は、 誠実さ勤勉さのお手本のようなかたで教職には最適人だったろうと思われる。 ご両親が住まわれている郷里に、新築の家を建てられ、お世話をしようとの ご計画のようでした。
「類は友を呼ぶ」と言いますが友人にも真面目な先生方が多く、新築のお祝い と送別を兼ねて、バラの絵を描いて欲しいと要望され、心をこめて描かせていた だきました。
先日、その友人宅でお別れのホームパーティーがあり私も招待された。 ご夫妻で出席された先生と、しばしの雑談に花を咲かせましたが随所に知性 のきらめきがあり、楽しいひと時でした。話が、バラの絵の内容に向かい説明 を求められた。
「中心の白バラは先生ご本人の清楚で誠実さをあらわし、隣の黄色のバラは幸せ の訪れを祈願し、回りの赤いバラは情熱を持って支えてくれている友人達を表し ています。」
「私こんなに・・・」「さしずめ私はこの花かな・・・」
「あなたこの花よ・・・」「下の白バラは・・・」
しばらく座が盛り上がった。
人間社会は人の心の羅針盤でその方向が決められて動かされて行く、昨今の マスコミにみる、高校生の殺傷害事件を考えるとき、教師という職業は、社会形成 の根幹になる「人の心」を作るのが教育の真髄にあるのだと知りました。
10月5日(水)
10月は収穫の季節でもある。我が家にもちょっとした収穫があった。
5月、嫁が「珍しいものを見つけたから、母の日のために‥‥‥」と「マ・メール」なる ものを妻にプレゼントしてくれた。説明書を読んでみる、"缶詰のふたを開け、水を与えて 5日間たつと芽が出て「メッセージ」が見られる"、というもの、豆は「鉈まめ」(中国産)だった。
台所の明るい棚に置き、水をやって1週間くらいで土が割れ大きな豆の芽が 出始めた。豆の皮には「ありがとう」と書かれていた。これがメッセージだった。豆の芽は 日に日に大きくなり、「ジャックと豆の木」を連想させる生命力で成長して行く、あまりの 速さに興味を覚え、鉢に移植して戸外に出して、つるを植木に沿わせて育てた。
つるが 2mほどに延びた頃、花が咲き実をつけた。
実が付くと、つるの成長がピタリと止まり、かわりに、日ごとに豆のさやが大きくなりだし た。1ヶ月ほどでさやの長さが10cmを越え、2ヶ月で外形サイズが長さ25cm幅5cmになっ た。さやのサイズはここで止まったようである。3ヶ月目で内部豆の実が充実してふくらみ はじめ、さやの厚みが3cmに太った。つるの成長は止まったままである。
4ヶ月目にはいると、さやの色が黄色味を帯び、内部豆の形がふくらみと窪みがはっきり して、完熟が見て取れるようになった。すると、葉の付け根から新芽が伸びてきた。 今30cmほどに成長してきている。何処までも強い生命力であり、健康的でもある。
健康な生活を、「まめにくらしている」という挨拶言葉があるが、このあたりから生ま れた言葉かもしれない。鉈豆は食用にはならないそうだが、マメ科植物の成長過程 には驚かされる、と共に、目的に向かってエネルギーを集中し、着実に実績を残して次の ステップに進む発育ぶりに、考えさせられたり‥‥‥、元気をもらったり‥‥‥。
楽しい贈り物で夢を見させて頂きました。
9月3日(土)
「天災は忘れた頃にやって来る」と言われた寺田寅彦の名言も、昨今は当てはまらな くなってしまった。近頃は地震、台風、集中豪雨と災害がめまぐるしい。
9月1日は「防災の日」である。
先日、地域の自主防災訓練に参加した。2部構成になっていて、1部は地域の町内会を 単位とした自主防災組織の訓練。町内を巡回し、◯◯さんの安否確認や災害状態把握、 また、防災倉庫の器具点検と備蓄食料の説明などがありました。日頃あまり関心を持た なかったが、区長さん始め地域関係者の、繊細な配慮にただただ感謝するばかりでした。 2部は市が主催する訓練で、近隣の町内会が合同で、ガス・電力会社も参加して、消火 器の使い方・救急班の怪我人手当て・包帯や三角巾の使い方などの総合防災訓練にな っていた。体験学習のような実践的な訓練でよい経験でした。
阪神大震災の救急に参加した電力会社社員の説明では、
「災害直後の救急は、地域の人達の連携と協力が何よりも大きな力になります。公共の 支援を期待しても直後の2日間はまず無理です。市・消防・自衛隊など救援は災害3日目か らがほとんどです。物資の支援もこの頃からになります。先ずは、日頃、地域の人達とのお 付き合いを大切にし、顔見知りになっていてください、これこそが災害時の最も信頼できる ”助っ人”となります」
「被災直後に、さしあたり困るのが水でした。水の確保で意外と忘れられているのが家庭 用の温水タンクです。水道は止まってもタンク内の水は2日間の飲料水としてなら、ご近所 に分けて上げられる程あります。また、家を出て避難するとき、皆さんガスの元栓は止め ますが、忘れられるのが電気のブレーカー遮断です。つけっ放し器具が有ったり、倒壊 した弾みに電線を圧迫したりし、漏電から火災の原因になります。」とのことでした。
具体的な作業の手ほどきや体験談を含めた訓練は、防災意識の高揚にもなり、地域の 人達とのコミニケイションの場ともなって有効な一日となりました。
8月15日(月)終戦記念日
戦後60年、今年も終戦記念日がやってきた。私の戦争記憶の一部である。
学校農園(当時は国民学校)からの帰り道、私達50人程の小学生の列が艦載機 (グラマン)の機銃掃射で狙い打ちされた、二三十メートル手前に着弾の砂煙が上 がった、怪我人は無かった。山間を縫ってきた艦載機のエンジン音は聞こえず、 射撃されて初めて気付かされたほどの超低空飛行だった。飛び去る飛行機の操縦 者がこちらを向き、日本人でないのがはっきり分かった。「まだ危ない伏せろ」の声 に2m下の道路脇の畑に飛び降り、畑の土手にしばらく隠れていたが後続の艦載機 は来なかった。
艦砲射撃は午後8時〜9時頃までだったと記憶しているが‥‥、海のかなたか ら弾道の火の玉が爆裂音と共に東の空に弧を描いて飛ぶ中、暗闇の夜道を裏山 の軍事用陣地の防空壕へ避難した。地域の女・子供70人ぐらい、一晩軍の壕の中 ですごした。大人たちは海岸に出て夜通しの警備に当たっていた。浜名湖の鉄橋 と「浜名海兵団」が目標だったらしい。危機感を覚えた身近な戦争体験はこの二つ である。
静岡県と愛知県との県境、白砂青松の海辺のまち、60年前の出来事である。 当時は浜名湖今切れ付近から西側へ「浜名海兵団」という海軍の軍事基地が出来 ていた、海岸線の砂浜は、敵軍上陸適地と考えられ、集落の北側の裏山には陸軍 の陣地を築くため兵隊さんも数多く駐屯していた、海岸では浜松航空飛行学校(幹部 候補生)の兵隊さんが地引網で漁をし、多くの兵隊さんの食料としていた。海岸 近くの松並木の中には兵舎も出来ており、未体験の海の漁作業で人身事故もあっ たようである。
教官は、地元の空き家などに下宿の形で住み込み、教練ならぬ漁師の手ほどき を受けていたが、その家の子供達には勉強も教えてくれた。私も、その教官から 勉強を教わった記憶がある。旧制中学の物理の教科書を頂き、それが電気関係の 道に進むきっかけにもなった。勉強の大切さと面白さも教えてくれた。 戦時中の学校教育は、空襲と勤労奉仕の農作業で明け暮れて、まともな勉強も 出来なかったが、あの頃の義務教育を終えた年代の人達は、学力は乏しいが代償 に「根性と我慢」を植え付けられたようで、その後の世渡りを「努力と勤勉」で 克服して来た人が多いのではないか。また、それが、戦後の復興の底力になった ようにも思われる。
7月13日(水)
午前9時30分、電話の呼び出し音で妻が応対にでた。
「・・・・・・・・」「はい、そうです」
「・・・・・・・・」「はい、行きました」
「・・・・・・・・」「道の駅”桜の郷荘川”に寄りました」
「・・・・・・・・」「小銭入れで六千円ぐらいだったでしょうか」
ただならぬ電話のようで、つい耳をそばだてた。電話が終わって妻の話では
「あなたには話さなかったけど、父の日の旅行で財布を落としたの‥‥、
今の電話は荘川村の管理組合からで、その財布が届けられているからって‥‥、
郵送してくれるとのこと‥‥」興奮さめやらぬ声。
「旅行中に話したら、とことん探すから言えなかった、旅の雰囲気を壊したくなかったし‥‥、
財布の中に私の名詞が数枚入っていたので電話してくれたみたい‥‥」
3日後、その財布が中のお金と共に届いた。
「父の日」のプレゼントにと「ひるがの高原分水嶺」を目的地とした、長男夫婦が計画してくれ た孫と私達夫婦と5人での日帰りドライブ旅だった。5連水車を先に見ようと、東海北陸自動 車道を荘川ICで降りた。昼食用の買い物に「道の駅桜の郷」に立ち寄った。
20人前後の人ごみの中で買い物をし、レジで「小銭入れ」が無いのに気づいた。が、とっさの ことで別の財布で支払った。「そばの里荘川 」の五連水車の脇で昼食を取りながらも気にし て探したがどこにも無い。旅の途中で嫁には話したが雰囲気がこわれるので皆には言えな かった。嫁が高速道路SAでの買い物をしたときのレシートを出して「あとで電話を入れれば」 と心使いしてくれたのが嬉しく、気持ちを落ち着かせてくれた。
私の性格を読んで、旅の雰囲気を壊したくなかったのは嬉しくもあったが、さぞかし、旅行中 も楽しさが半減しただろうし、その後の日々も重い気持ちでいたのだろうと思うと憐れでもあ る。この郵便物は妻のここ数日の気持ちのうっとうしさを一掃してくれて、同時に、人の心に 温もりの灯をともしてくれた。「ひるがの高原分水嶺」の爽やかな空気とともに「父の日」の忘 れられない一コマとなった。
届けて下さった方と管理組合の方々にあらためて厚く御礼申し上げます。
6月16日(木)
我が家のシンボルツリーになっている梅の木から今年は17.8kgほどの収穫があった。 去年は8kgほどだったから、それと比較するとまずまずである。今までの最高値40kgには 及ばないものの、色艶がよく品質の良い小梅である。3年前の深い剪定からだいぶ樹勢 が回復していて、葉の色や、新枝の伸びにも勢いを感ずる。あぶらむしや、けむしなどの 害虫をこまめに取ってやると、それに答えた実績を残してくれるのが嬉しい。
脚立に登って1個ずつ手で取るのだが、葉の影になって残ってしまい、何度も登り降り しながらの収穫は大変でもあり、楽しくもある。枝の先端や手の届きにくいところの実は 木に登って取ったりするが、細い枝に体重をゆだねて、ゆらりと揺れるたりしても、不思議と 身の危険を意識しない。庭木という親近感からなのか、生きものとしてのハートが結ばれ て「日頃の手入れありがとう」と梅ノ木が受け止めてくれている感じがして、一段と愛着を 覚える。
取り始めは、葡萄の房のようにたわわに生っていた実も、10kg・15kgと取り進むにつれ て、垂れていた枝を持ち上げ、軽やかなそよぎを見せて涼しげである。17.7kgを取ったこ ろ、ほぼ総ての枝を取り終えていた。あと300gで区切りがいいからと目残しをさがす、20〜 30粒くらい見つけたがその後は見つからない。先ほどまで何処にでも生っていて当り前の ように見えていた実が、無いとなったら無いものである・・・「いつまでも有ると思うな 親と金」 なのだろうか。
5月7日(土)
ゴールデンウイークが終わると楽しみが無くなって、仕事や家事に気だるさを感じられる人も 多いだろう、若葉青葉の快適な季節なのだが‥‥。新しい年度スタートも1ヶ月を過ぎると、 仕事の概要も解り、手順も飲み込めて手馴れた頃である。気温の暖かさも体の緊張を和ら げて、気持ちの弛みに重なりやすい。五月病と言われる症状もこんなところから芽生えるの かもしれない。JR西日本の大きな事故を見るに付け、この季節の安全には特に気概を持っ て当たらなければと考えさせられる。
自動車運転も免許取り立ての頃から1〜2ヶ月までは緊張から注意力が集中し事故が少 なく、車に慣れた頃から3年以内の事故が多いそうである。車の操作に慣れ、交通の流れ にも緊張しなくなり、運転に自信が付いた頃が一番危険な時期らしい。まだハンドル・アク セル・ブレーキの操作も意識しながら動かしているし、流れの中の他車の動きが読めてい ないのに、運転の自信だけが過剰になり、安全に対する意識は持っていても無謀な運転 になりやすい。
運転暦が3年を過ぎた運転手は危険を察したとき無意識にブレーキに足が移動しハンドル 操作も流れに反応して行っている。前方車や後方車には常に注意していて、その運転ぶり から、追い抜きたいのか、車線変更したいのかなど、運転者の気持ちが読めるようになる。 カーブでの遠心力は体で覚えた感覚でスピ―ドコントロールが出来ている。
いずれにしても、この季節は誰もが、ぬるま湯の中に浸かっているようなもので、緊張 感の持続がむずかしい。危うきには近寄らず、常に心技体の充実を心がけ、「絶対に事故 は起こさないぞ!」と肝に銘じ続けなければなるまい。
4月7日(木)
孫が2歳の誕生日を迎える。最初に覚えた言葉が「カンパーイ」である。
振り回してもこぼれないストロー付きの幼児用カップを持って、パパママのビールカップに タッチして「カンパーイ」。我が家に来ると、食卓を囲む全員の湯のみ、茶碗、にもタッチしないと 手をひっこめない。子供は親のしぐさをよく見ている。「たったたった」が出来た頃や、2・3 歩あるき始めた頃、親が手をたたいて喜び、ほめた。
近頃は、遊びの中でおもちゃの操作が出来たときや遊んだ玩具を片付けたときなど自分で 手をたたき、ほめてもらおうとジエスチャーする。そのしぐさがなんとも可愛いい。2・3ヶ月前 から話し言葉の単語数が急に増えはじめ、内容の理解も出来ているようである。子供の脳 には数多くの単語が蓄積されていたらしく、それが堰をきって出て来たようである。
「三っ子の魂百まで」(幼いときの性質は年をとっても変わらない) 三才までの躾と、環境や 体験がその人の一生の性格を形成するとも言われています。この春から「リトルキッズ」 講座に入るそうだが賢明な方策だと思う。
3月5日(土)
先日、小学校当時の同窓会旅行に参加した。人生大半の成果が決まった同年輩の顔には、 子供の頃の「やんちゃ坊主」「向こう見ずさ」は消えているものの、どこかに当時の雰囲気を漂わせ ていて面白い。話の発想や言動は相変わらず残っている。お酒がはいり、会話が弾むと、チラリ、 と60年前の顔がのぞく。自己顕示欲の強い人は、自己主張がはげしいく、引っ込み思案の人は、 いつも話の本筋に出ようとしない。だが、この歳までの人生経験から、皆さん、程々ということをわ きまえている。やんちゃな言動に、チクリと刺す突っ込み発言がでる、とっさに鉾先をおさめ、方向 転換するのがうまい。政治家に学んだのかな‥? と、ふと思う。また、引っ込み思案の人の唐突な 発言に座が一瞬沈黙したり、笑いが起きたり。人生山あり谷ありの経験は、誰もが無駄な時間を過 ごさなかったようである。
現役社長として活躍中の幼なじみ、終戦直後の話。10代後半の頃、地引網の網引き上げの際、 大漁で引く網が重くなると、若い者が寒中の海に這入り、網を纏めて引きやすくする、今ならウエッ トスーツが有るが当時は裸、網が岸に引き上げられるまで海から上がれない、水に入っている間 は緊張で寒さを感じないが、水から上がり、夕闇せまる頃の強い西風に吹かれると濡れた体は一気 に冷やされる。暖を取るため年配の人達が焚き火を焚いて待っていてくれる。が、寒風吹きすさぶ砂 浜を50M走らなければその焚き火に到達できない、足の筋肉が固まって動けない。意識が朦朧と してくる、生死をさまよった辛さ「生きているだけで丸儲け」の朝ドラの言葉が実感出来ると言う。
また、公職は引退したものの、今も現役、嘱託で週何日か公共施設に勤務している友、その年齢 を見せない意気込みに励まされる。 戦時中の小学校で机を並べた友の消息を聞くことが出来て、 懐かしさに感慨ひとしお。故郷を離れた私にとって、ふるさとの現状ニュースは、心にしみ入る清涼剤、 気付けのカンフル剤のようにしびれてくる。しかし、訃報の多いのには心を悼める。移り行く世の流れ、 世代交代の寂しさを覚える。河津の早咲き桜と共に記憶の1ページとなった。
今回の旅行をまとめてくれた、地元幹事の皆さんに厚く御礼申し上げます。
2月13日(日)
昨年12月中旬、伊勢湾岸道路が豊田ジャンクションで東名高速とつながり開通した。中部国際 空港が2月17日から開港する。愛知万博に照準を合わせた大規模工事がつぎつぎと完成してきて、 中部圏のアクセスが充実し、地元民として喜ばしい限りである。
先日、伊勢湾岸道路のサービスエリア「ハイウエーオアシス」が刈谷市北部に出来て一般公開さ れた。地元特産品の売店をはじめ、生鮮食料品の売店、食堂あり、温泉あり、足湯あり、観覧車あ り、刈谷市の観光イベントのPRと、地元の集客にも視点が置かれている。観覧車に乗ると三河の 平野が一望され随所にある貯水池が望め、のどかさの中に走る高速道路が現代感覚のうねりを見 せている。高速道路の駐車場とは別に、一般道路側にも数百台の駐車場が確保されている。
はからずも、昨日、夕食を共にする来客があったので、食料品を確保しようと新しく綺麗な「ハイウ エイオアシス」に行くことにした。幹線道路からオアシス駐車場にと右折れすると駐車場500m手前 で渋滞が始まってしまった。皆なハイウエイオアシスに行くらしく渋滞は動かない。10分程待ったが あきらめて他の食料品店に切り替えた。
3連休の、なか日のせいもあろうが地元民に人気が高いのも確かである。とかく、高速道路のサー ビスエリアは地元民には敷居が高く、高速道を走る人だけのものだった感が有った、が、オアシスの 人気をみると、地元民の生活も考慮したエリヤが始まったことに新しい心使いが感じられて、”公団 民営化も良かったんだ・・・”と頭をかすめるのでした。
1月10日(月)成人の日
年があらたまり、正月気分も少し残る成人の日、晴れ着姿のあでやかな新成人に行きかう。 ときめく若者の姿は微笑ましく、和やかな気分にさせられる。平和なればこその、豊かな日本の 風情になりつつある。毎年めぐり来るこの日には、各市町村で成人の式典があったりするが、古来 の元服の儀式から来たものらしい。成人としての自覚をうながす意味で意義深いものと思われる。
今日、はからずも我が家には、晴れ着姿の新成人の来客があった。式典を終えたその足で訪ね てくれた。ひととき華やいだ空気が家中に漲り、久しぶりに活気に満ちあふれた。若い人を身近に 見ることの少なくなった私達の年代には、はたちの若さは、美しさと共に、エネルギッシュな活動力 に溢れていて、その動作には生きる力の迫力を感ずる。優雅な和装のたおやかさは、今日の日差 しと共にまぶしく輝いている。肌の張り、皮膚の透明感は、この年代の特権のようなもので大切にし たいものだが、ご本人は、自分の若さの価値をあまり認識していないようだ。一生のうちでも、期間 限定の神様からの最高の贈り物なのだが・・・
・・・贅沢な話である。
ふと思った。会社勤めの仕事も、きわめて大事なことだが、それ以上に自分を大切に考え、これか ら、体験するであろう人間関係の機微をうまく乗り越えていってほしい、と。
・・・祈願するばかり。
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