「I & Y のひととき」
2006年度
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1月
12月22日(金)
光陰矢の如し。今年も残りわずかになった。高齢者が、月日の流れを感覚的 にとらえる式を見たことがある。[現在年齢割る子供の頃年齢]倍早く感ずるとい うもの。例えば、50才の人は 10才の子供の頃と比較すると5倍早く感ずると言 うことである。
これを別の言い方をするならば、高齢者では、同じ時間内で消化出来る情報の 受け入れ容量が5分の1に減っていることにもなり、年齢の無常さを感ずる。
今年は初夏から体調が思わしくなく、レントゲンや内視鏡で調べて頂いたが、 これという悪い処も見つからず、自律神経失調症のようなものだったらしい。 10月半ば過ぎて徐々に回復してきて、健康の自信を取り戻す意味で1泊の旅 にでた。
椰子の実で有名な、渥美半島の先端、伊良湖岬ビューホテルに宿をとった。 高台にそびえるこのホテルは一度宿泊して、朝日夕日の美しい風景を堪能し たかったからだ。
半島の根元にあたる田原市の道の駅"めっくんはうす"で昼食をとり、表浜と言わ れる太平洋岸に出て海岸線を走った。
温暖な気候でサーフィンのメッカになっている太平洋ロングビーチではサーフィン を楽しむ若者が多く見られた。海岸工事中の地元の若者に声をかけ、写真になる 風景地を尋ねると、
「和地の海岸が、岩が点在していてええかも・・・」
とおしえられた。岩場近くで小船を操り、波にゆられて漁をする人、磯から釣りをして いる人など、のどかな別天地だった。
日出の石門、恋路が浜、を散策して伊良湖港へ着いた、道の駅"クリスタルボルト" のお店を一回りして、夕日撮影に合わせて3時30分ビューホテルに入った。 部屋は最上階の日の出の見える側で、夕日撮影は屋上展望台からと照準を合わせた。 神島は手に取る近さで黒々として、志摩半島、伊勢の山並みが、千切れ雲の間か らの、「天使のはしご」と言われる光線に輝き、その荘厳さに感動させられた。幾枚 かの撮影を終えて、ふりかえると夕月が白く浮かんでいた。
磯に寄せる白波が陸と海との境界線になるころ、電照菊の温室照明がまばらに点灯 しはじめる。全点灯の最盛期は10時頃で、日付が変わるころから徐々に消えてゆく、 デリケートな菊の開花時期を配慮したコントロールだろうと思われる。
午前2時頃、ただならぬエンジン音に目を覚ました。暗い海上一帯におびただしい数の 漁船の灯が東に向かって流れていた。総てが同じ方向、先方の灯は薄くなって闇の 中に消えている、そのかず、数百とも、真夜中にこんな光景があったのだと夢の世界 と現実の世界とを行き来した思いだった。
海の夜明けを見ようと窓に寄る、まだ、水平線は真っ暗で見えないがエンジン音がに ぎやかだ、西に向かう航海灯は漁船団の帰りだった。5時頃になってようやく水平線近く が白み始め、船の姿が形を見せるころ、その数が減って三々五々となった。
暗い海の上で働く、夜の世界が漁師の現実の姿だったのだ。昼間の波を蹴立てた勇壮 な姿は氷山の一角で、闇の中での仕事場が本番なのだ、見えないご苦労を垣間見た 思いだった。
11月23日(木)勤労感謝の日
晩秋の季節、兄弟姉妹が集まって「柿狩り」をするのが数年前からの恒例にな っている。
末の弟の家は歴代続く腕のいい大工の家系であるが、大きな柿畑も所有してい て、以前は、この季節になると、親戚や近隣の人の手を借りて柿の収穫をしなけ ればならなかった。
都会や遠方で暮らしている兄弟から、「日頃、御無沙汰の兄弟だから、年に一度 くらい集まっておしゃべりもしたい」「レジャー気分で秋の一日を山に隣接する柿畑 で昼食をとりながら、柿取りの手伝いは、気分転換で日頃のストレスのリセットに もなり・・・」と話が進み意気投合してこの計画が続いている。
18日(土)地元に集合した4家族が、弟の家に宿泊しての前夜祭となった。兄弟の 子供や、孫にあたる子供達の無邪気なパホーマンスやピヤノ演奏で開幕し、くつ ろぎながらの夕食会は、お酒がはいると、一気に子供の頃の家族に帰り、懐かし いふるさとの山河をかけめぐる話題に広がり、その味わいをかみしめていた。
翌朝早々、お餅をつき、あんころ餅とし、おにぎり、
煮しめ等の弁当持参で柿畑に向かった。
朝からの曇り天気は2時間ほどの柿取りだけで、雨模様となり自宅に引き上げて 昼食になったが、それぞれ持ち寄った地域の特産品、名物を出しあって、土産物 の交換が始まり、ひととき盛り上がった。続いて、子供家族の近況に、孫の話しにと 続き、話題は尽きることを知らない。
去年マスコミの話題になった、5角(合格)柿を見つけて、受験生のある友人への プレゼント用にといただい
たり、日頃のお付き合いのお礼や、お歳暮用品としてなど、それぞれの目的に合わ せた分量を分けていただき、大変お世話をかけてしまった。
親族の情を確かめあったイベントは「来年もまた逢いましょう」の合言葉でお開き となった。
10月15日(日)
鉈豆の2代目が大きな実を付けている。去年我が家の庭で実った鉈豆、さやには きれいなピンク色の種が6個入っていた。そのうち3個を友達に分けて、3個を家に 残した。
今年は大きな鉢を使って充分に成長させて見ようと5月上旬に種蒔きし、1ヶ月ほど して2本が発芽したが、その葉は虫食いの弱々しい葉だった。その後も成長が遅く 2週間ほどして3枚葉の新芽が出てきた。それから、急に元気になり急成長をはじめ、 7月中旬には2階の軒先(5m)に届くまでになった。
葉の節目に花芽が出来て白い清楚な花を幾つも咲かせた。花が終わる頃には 5pぐらいの小さなさやが出来ていた。蔓の成長は緩やかになっていたが、栄養が さやに回るようにと蔓の先端を摘心した。
8月にはいり、1本の蔓に2個の豆さやを実らすこととし、計4個に制限して小さな さやを摘み取った、真夏の暑さにも葉の勢いはひるむことなく、生き生きとしたその 風情と、葉裏を渡る涼風はまことに気持ちがよいものである。9月中旬にはいり、 豆さやは長さ33cm、幅6cm、厚さ2.7cmとなり去年より一回り大きく威容なまで の風貌になってきた。
訪れる人が見付けては、
「これなーに?」という。
「ジャックの豆の木よ」
「すごーい・・・」
が繰り返される。
10月になって、さやの中の種が膨らみが始まってきたところである。昨年の成長 過程と比較すると、種の膨らみが1ヶ月程遅れている感じである。幸い台風の被害 は無かったものの、朝夕涼しくなっているので種の実入りが心配だ、葉の色や蔓の 元気さから予測すると大丈夫のようにも思う。
植物の育成は季節や気象状態で思うに任せないものだが、それがまた楽しみに もなる。月末までにさやの厚みが3cmを越すことを期待している。
9月13日(水)
我が家で骨董的な貴重品のひとつに昭和初期のラジオがある。戦前からのもので、 太平洋戦争の大本営発表や空襲警報もこのラジオで聞いた。中の装置は昭和27年 頃真空管全盛期に、6.3v真空管や、ミニチュア真空管を使って、当時「5球スーパー」 といわれたものに改造している。パワートランスなどネームプレートの付いたものは そのまま使っている。音質補正回路を付けたり、スピーカーをダイナミック型に変えて 歯切れのよい音質になっている。その後50年余り、まったく故障がなく、24時間タイ マーと連動させ、毎朝、朝5時30分から7時まで、自動で放送を流し目覚まし時計変 わりになっている。
先日友達との会話のなかで、
「最近、近くにミニFM放送局が出来たんですね」という、
「短波放送になるのでまだ聴いたこと無いですが‥‥」
「FM放送ですよ、短波放送ではないですよ」
と、さも当然そうに言われた。
「ええ‥‥、FM放送(超短波帯VHFを使用)でも短波帯域を使った放送だから短波放送 になるんじゃないですか」
と言うと、
「短波放送は特殊な受信機が必要で、普通の受信機では受信できませんよ」という。
考えればその通りである。
戦後の復興期、民間放送が開始されアマチュア無線も開放された。半世紀ほど前の 話になるが、手作りした短波放送受信機でショートウエーブ帯域をサーフィンしたこと があった、「台風は九州に上陸しました」とのラジオニュースがあった直後、
「こちら都城市、都城市、風もおさまり、ただいま青空がみえています(台風の目?)」
と言うアマチュア無線局の声が飛び込んで感動したり、
日本短波放送開局の、試験電波を受信し、はがきで連絡して受信カードを頂いたり、 楽しいものだった。当時は、この帯域の通信放送を総称して短波放送と慣用的に呼ん でいた。
テレビの音声がFM(周波数変調)放送で始まり、その音質の良さが騒がれたことを思 い出す。まだFM放送局が無かった時代である。
現在では、「短波放送」と言えば、国際放送や一部民放とハム通信の認識になり、 イメージが一変している。アマチュア無線も、携帯やパソコンメールの陰に隠れて存在 感が薄れている。一方、FM放送局が社会的な居場所を得てポピュラー的になりつつある。 (短波放送は、3Mhz〜30Mhzまでの電波を使用、FM放送は76Mhz〜90Mhzの電波を使用)
仕事の都合で無線通信から離れて40数年余り、今、しみじみと放送通信の進歩を見つ めて郷愁に浸る秋の夜長である。
8月19日(土)
「アート同好会」の小品展が8月16日から市の図書館展示コーナーで始まった。40名 を越すグループとなると、絵画ジャンルも広がり、水彩・油彩、抽象・具象が混在してい て、作品のレベルも雑多で面白い。
ほとんどが現役をリタイヤしたシルバー世代だから人生経験が豊富で、作品にもその 人となりが現れている。アート同好会のグループ仲間とはいえ、あまり会話の機会がな いので、個人的な経歴や性格など仔細は分からないが、何回か同じ展示会場に飾られ た作品を見せて頂くと、人柄や性格のようなものが理解され定着して、長いお付き合い していたような親近感が生まれてくるから不思議である。作品として優れた傑作でなく ても、気持ちを込めて描かれた作品からは、人となりが溢れているように感じる。 (右は出品作品 夏が過ぎ)
絵画は奥が深く、追求すれば際限がない。定年を過ぎてからのチャレンジでは趣味の 範囲から抜け出ることは出来ないが、それでも、絵を通して人の性格が読めたり、色・ 形の調和の読みが、日常生活の潤いになったり、カラーコーディネーター効果を生み 出してくれたりする。
お孫さんを前景に、そのお子さんが遊びで描いた絵を幾枚か組み合わせて一枚の絵 にまとめられた作品を見ていると、作者の優しさと家庭の雰囲気まで見えてきて心に響 きます。海外旅行が夢だったであろう年配会員が旅先の観光地で見た氷河を描いたも のや、ヨーロッパのお城を描いた作品では写真には写らない感動と人生経験が、色と形 に味付けされて組み立てられ、その人らしさが表現されている。
趣味の絵画グループの展覧会は作品の出来栄えを競わない方が味わい深くてよい。 存分に個性的な描きが出来ていて趣き深い、先生の画風とか、審査員へのアッピール など無用な配慮をしない作品こそが人柄を現す本物なのだと思う。
7月17日(月)
風呂から上がってきた妻が、
「こんなものが‥‥」とおなかの左側面をみせた。
「かゆみがあり、少し離れたところに痛みがある」という。
ごま粒大の水泡4,5個と、その周囲が赤くただれている。あまり見たことの無い湿疹に、 少々心配になり「帯状疱疹」をPC検索で調べた。次の日、皮膚科を受診した。
「帯状疱疹で早急の処置が必要」との医師の見立て、その場で点滴治療を受けるこ とになった。子供の頃の水痘ウイールスが神経細胞に隠れており、過労が幾日も続い たり、高齢になって免疫力が弱くなったとき、神経細胞にそって増殖し神経細胞を傷つ け、手遅れになると大事にもなる。が、近頃は良い薬も出来て処置が早ければ心配し なくても良いとのこと。
通院4日目、ヘルペスの表面の赤みは消えたが痛みが取れなく、日曜、月曜に予約 していたクラス会があったが、病状の好転を期待して欠席連絡に踏み切れず、前日に なってのTELキャンセルとなってしまった。
「連日の過労は分っていたが、まさか自分が‥」と思う反面、
「年齢かな‥?」とも、スカット治らない病状に意気消沈の状態です。
「あの屈託の無い、天真爛漫な彼女が帯状疱疹とは‥‥」と、同級生の話題の種に なってしまった。
最初の受診から23日が過ぎた。その間、公的な教室は開講したが、私的な教室は休 みとして休息している。病状は、全快とはいえないが、痛みが鈍痛に変わり、考え事に 集中すれば忘れられる時間も増えてきている。
ストレスが多い現代社会の中では、1割〜2割の人が体験すると言われている病気 だが、自己中心で主張することが美徳と見られがちな社会風潮の昨今では、ますます この比率が上昇しそうな感じがする。心・体ともに安静と休養が最も有効な薬で回復の 近道らしいが、思うに任せられない社会環境が、また、ストレスになったりして、こちらも、 「痛し痒し」である。
6月21日(水)
知多半島の先端にある師崎港は、三河湾に浮かぶ小島や伊良湖岬への定期船の 発着港になっている。師崎港から1キロ程の海上に、古い歴史と由緒ある古跡伝説を 持つ篠島がある。
先日、絵画仲間のスケッチ会でこの島を訪れた。高速定期船10分ほどで篠島港に 着いた。以前は漁港の隣に定期船桟橋があったように記憶していたが、今は、埋立 地で隔てられて別港になっていた。漁港から見上げる篠島小体育館は伝統の風貌 を誇示して聳えていた。
半世紀ほど前の話になるが、小学校教員となり最初の赴任先がここの小学校だっ た絵画仲間がいる。
昔の校舎に面会しようと丘の上の小学校を目指して登っていく、途中、松の老木があ り、その樹間から見下ろす漁港は係留された船や港の建物が明るく光かり、港の入り 口の「木島」は霧雨にかすんで墨絵の中だった。岩場の礫地で成長した松の樹齢は 200〜300年位の大木であった、その中の1本が茶色に枯れていて、その枝にぶら下 がる藤づるから厳しい自然環境が偲ばれて惜しまれる古木でした。
細い路地から登ってきた道は登校路ではないらしく、一旦下って、みやげ物店で道を たずねる、
「この小学校は今年度から島の中学校の敷地に移転され、ここは廃校になっている」 とのこと。
教えられた登校路を登って運動場に立つ、平日ながら子供の姿が見えない体育館や 教室は音もなくたたずみ、夏草茂る花壇は淋しかった。見下ろす広い砂浜の渚、連な る岩場と小高い半島、その先に「野島」が夢のように浮かび、まさに「ふるさとの絶景」 子供達の心には一生残こる風景で、廃校にしたのが本当に惜しまれる学校でした。
「こんなにいい景色の小学校だったんですね」と声をかけると、
「建物は変わっていて分らないけど、砂浜の景色はこのようで、夕暮れの海、冬の海 がきれいだったことを覚えている」という。
ここで生活している人の立場になれば、より便利にと、埋立て道路をつくり、港を作り、 施設を作る、生活のための必需である。水平線に浮かぶ島影や岩場を洗う波、天然の 入江や砂浜など、想い出の記憶のままに残したいものもある。
年月の経過と共に変化し造形されるものと、自然のままで変化させたくないものがある。 それぞれに価値感が違う、自然環境の価値も多角的な見方で考えなければと思うの でした。
5月15日(月)
若葉の緑陰を渡ってくる風が爽やかだ。今年も春祭りの季節になった。私が住む町内 の祭りは5月2日3日で今年も盛大に行われた。近隣の町もゴールデンウィークに重なる 祭礼の地区が随所にみられる。
農村地域は秋祭りが多いが、海浜地域では春祭りが多い。三河・尾張の祭り山車は、 がっちりした木組み、からくりの仕掛け、垂れ幕の織りや刺繍に、地域文化の伝統的な 技術へのこだわりが見てとれる。飛騨高山の山車にみられる「たくみの技」は有名だが、 中部地区の「物作り文化」が発達した源流をここに見つけた思いがする。
全国には、春祭り、夏祭り、秋祭り、火祭り、雪祭り、と年中どこかで祭りが開催されてい る。祭りは信仰から端を発し、占い、厄除け、願いごと、の神事から、次第に群集が興奮 を求めた娯楽へと変化してきている。
とかく日本人は祭り好きなのだろう。
今年は海辺の町の祭りを見学しようと半多市亀崎町の「亀崎潮干祭り」に出かけた。 こちらの山車は今年3月「国指定重要無形民俗文化財」に指定されて注目を集めている もので、5月3日4日の催行であった。
町内の山車が通るコースには、しめ縄が張られている。 古式ゆかしい装束の露払いを先頭に、雅楽を奏でながら、あでやかな錦の御旗をなびか せて、古色そう然たる梵天神輿が巡航し、神前(かみさき)神社に渡御遷御する。つづいて、 5基の山車が祭囃子に包まれてコースを巡航し神社前の
海浜に集結する。
5基の山車が順番に海に引き込まれ、海中に並ぶ「海浜曳き下ろし」の勇壮な場面があ る。
砂浜への曳き下ろしは、砂場で横転しないよう、山車の上部から四方に綱を広げて操 り、一気加勢に海まで曳きこむ男衆の緊張した意気込みが迫力を持って伝わってくる。 万人の観衆共々に祭り気分が最高潮に盛り上がる。
海浜に並んだ山矛の吹流しが中空に高く、5月の青空になびくさまは誠にのどかで、 汗ばんだ肌を吹き抜ける海風も心地よく、癒される風景にしたる思いだった。
4月20日(木)
久々に時間の余裕が出来て、お伊勢参りに行ってきた。神域に入っての参拝は3回目、先回は 下の息子が大学受験の年だったからもう20年ほど前になる、今回は、ふたりの息子も結婚して 孫も生まれ、安定した生活の御礼方々、妻と二人の「伊勢内宮春のドライブ」と銘打っての旅に なった。
大鳥居をくぐり宇治橋を渡り、曇り空の天気ながら参道の桜は満開を少し過ぎて、散る花びらを 手の平で受け止められるのどかさだった。五十鈴川の「お手洗場」は工事中で入れなかったが、 流れの瀬音は参拝前の気持ちを落ち着かせてくれた。玉砂利の道、鬱蒼とした森の中、天を突 く大杉は神々しく、参拝前の心の安寧をうながす序曲を奏でている。苔むした石の階段を登り詰 めて正殿前に進み参拝を済ます。何やら肩の荷を降ろしたすがすがしさを感ずる。帰りのコース 「参拝者休憩所」でお茶を戴きながら、「伊勢講」とか「お伊勢さん参り」とか言われた時代を思い、 現代の便利さをかみしめつつ
神域をあとにした。
門前町の「おかげ横丁」で名物の[赤福」と「伊勢うどん」で腹ごしらえをして、通りを散策する。 歩行者天国を思わせる道一杯を使った人通りで、指定車だけが通ることが出来る制限付きの 規制がかかっているらしく、時々通る車も、歩いている人が気が付いて避けてくれるまでゆるゆる と流れに沿って走っている。道路は清掃が行き届き、はみ出し商品もなく、古い建物を大切に した街づくりは好感がもてる。テーマパークの中か、映画のセットを思わせ、時間の流れが一昔 前にさかのぼった感じ
で居心地が良い。切妻屋根の側面が道路に面した店並びもこの商店街の特徴のようでもある。
ちょっと脇道から五十鈴川沿いに出ると古い旅籠風の建物や、河川敷には花見席が用意され て、堤防沿いの桜並木が満開の花を咲かせ、ライトアップ用の照明がセットされ、夜の賑わいを 想像させる。また、神宮関係の庁舎が大きな敷地を占め、その威容を誇る建物が伝統の重みを 誇示している。伊勢市ならではの貴重な財産でもあり大切に保存し、後世に残したい文化遺産 でもあろう。
3月8日(水)
朝から降っていた雨がようやく上がったようである。我が家の居間から小学校の窓越に廊下 を通る生徒が見える。二階のベランダに出ていると、「おじさーん」と声がかかる程の距離であ る。もう放課の時間なのか、黄色の通学帽子が見え隠れしながら廊下を流れている。家の前の 小さな路地を子供達が傘を手元で遊ばせながら帰って行く。期末のテストも終ったらしく足取り が軽く、友達との話が楽しそうである。
昨日からの雨で庭の梅が満開の花びらを散らせて、しっとりした、庭石に白い花弁を落とし、 水玉模様の絵柄を作っている。早春の夕暮れ前のひととき、静かな風景から、はるかな時空を さかのぼる追憶の世界に誘導させられるのだった。
半世紀余り前のひとときのシーンがよみがえる。年度末のテストも終わり、中学校卒業をまじ かに控えたこの季節、前途の不安と焦燥で落ち着けなくて、駅の待合室で友と語り合ったあの 日。雨上がりの黄昏雲と、そこに咲いていた満開の白い梅の花を見ながら・・・。
何を考え何を話していたか定かに覚えていないが、学校生活の終わりが無性に淋しく、進学 の夢が捨て切れなくて、就職活動にも気持ちが入らず、悶々の日々を過ごしていた。
戦後間もない社会は、衣食住総てに計画が立てられず場当たり的な暮らしで、その後進んだ、 働きながら学ぶ高校生活は、卒業できた生徒が入学時の半数となる世相だった。それでも、 情熱を持って指導してくれた先生や、近隣高校との横のつながりがあり、幾度か他校を訪問す る機会があったりして生徒会活動に生甲斐を感じていた。大変な生活だったが良い思いでばか りが残っている。
しっとり湿った空気の中に浮かぶ白い梅の花と黄昏雲が、私の記憶の片隅に、ほろにがく甘 酸っぱく焼き付いている。
2月9日(木)
先日、妻側の「兄弟会」を行った。会社経営の長男(社長)を筆頭に、兄弟姉妹が温泉に一泊 してホットな情報交換のお楽しみ会になった。50代から70代の兄弟総てが健在で、同伴者、 ゲスト参加者も含めて総数15名の会になった。人生の折り返し点を過ぎ、悠々自適の生活を 堪能していて皆さん元気な顔色である。一次会の舞踊・カラオケ・仮装かくし芸で笑いを満喫し、
2次会席で子供の頃の生活が話題となりいろいろなエピソードを聞くことが出来た。
長男中心の子育てであったが男は学歴より家業の技術優先・社交性重視が父親の考え方 であった。子供の頃から人との交際が第一と、夏休み、冬休み、春休みなどに父母の在所や 親戚の家に宿泊しながらお客に出されたことがあった。おじさん・おばさんは親切にしてくれて、 取れたてのミカンがご馳走だったが、姉妹だけでの外泊は心細く、夕暮れになるとホームシッ クになり部屋の隅で泣けたりした。 ホテルよりの風景
次女だった妻が高校に行きたいと言い出したとき「家にはそんな金はない」と父親にいわれて しょげていた。担任の先生が家に来て、「受験だけでもさせてやってくれ、公立校は学費も まあまあだから‥‥」と助言され、「受験だけだぞ!!」と父親も承知してくれた。当時はお金持ち 家庭の子女だけが進学する時世だったので世間体もあり‥‥。先生が合格通知を持って来て くれたとき両親は畑に出ており、自転車で畑にまで来て、共に喜んで「ぜひ進学させて下さい」 と進めてくれた。父親も名誉なことでもあり内心喜んでくれたようだった。
末っ子が生まれて間もなく、父方の子供のない親戚に里子に出すことになった。引き取りに 来られたとき、兄弟で赤ちゃんを乳母車に乗せて逃げ出した、ただならぬ出来事、人さらいに 思えて家に帰れずさまよった。それからの母は、こどもの成長を見るたびに陰で泣いていたと いう。今となれば、現状のほうが本人も幸せだったのかも知れないが‥‥その後、父親が亡 くなったのを機に、末の弟として兄弟の宣言をし、本人に知らせた。当人は小学生の頃から 「なにか有ることは知っていたものの、兄弟のことは何も分らなかった」と言う。
戦後、苦難の怒涛をのり越えてきた兄弟姉妹には、語り尽くせない人間性の物語があり、 苦しさを笑いに結びつける明るさがあった。近頃のすさんだ不祥事を見るにつけ、兄弟愛に 結ばれた底力に意義深さを感ずるのでした。
1月14日(土)
「一年の計は元旦にあり」この格言が真剣に実践されたのは、バブル以前の経済発展期 だったように思われる。
現役だったころ、毎年めぐりくる正月明けの仕事始めに、「社長年頭の言葉」が全社員従 業員を集めた年頭式典のメインテーマだった。神武景気、岩戸景気などといわれ、今の中国 以上にGNPがうなぎ登りの発展期だった。社長の言葉はいつも
「我が社の宝はここにいる皆さんです、企業を作るのも人だが、人を作るのも企業です。新し い技術やアイディア、新製品の開拓は若い皆さんに任せたい‥‥」
と言われ、社会情勢の現状と国際化の流れに目を向けた解説を厳しく語ってくれた。
正月気分を一掃するのに充分な迫力と充実した刺激をもって聞いた。仕事に対する一途な やる気、覇気を鼓舞させられた。あの感動は今味わうすべもないが、ニートとかフリーターとか 言われる若者が多い昨今、どんな仕事も若者には経験として無駄にはならないだろうが、 有限な命は計画的に有効に使いたいもの。
今年は若者が夢を描き、世職に就ける年にしたいものである。
国内景気は長かったデフレのトンネルを脱し、バブル以前の価値感や体質を改善して本格的 な成熟期に這入ろうとしています。しかし、国の財政はまだまだバブルの付けが大きなしこりと なって残っていて、財政の負債がどのような形で国民に課せられるか心配でもある。
目標を決め、計画をたて、何事にもチャレンジ、これは若者だけの特権だろうが、老体のわれ われにも、生きていること、健康であることに対するお返しの意味でも、「何か人が喜んでくれ ることをしなければ」と近頃考えるのである。