「I & Y のひととき」

2010年度

 12月 11月 10月  9月 8月 7月 6月  5月 4月 3月 2月  1月




12月18日(土)
 NHK人気番組の"竜馬伝"が先月末で終わった。"坂の上の雲"第2部がその後の人気を引き 継いでいる。幕末から明治にかけて、アメリカ及び西欧諸国の急速に発展したルネッサン ス文化を、いち早く吸収した時代であり、文明開化といわれている。日本が先進国への足 がかりを得た時代でもある。徳川幕府の政権から「尊王攘夷」のお題目のもと、有識者に よる大政翼賛組織にバトンタッチされた。国民の手に政治の実権が移つり、廃藩置県が 実施され、士農工商の階級も無くなった。藩からの禄で生活していた武士階級は、会社が 潰れたサラリーマンそのものでさぞかし戸惑ったことだろう。武士階層からの風当たりは 強烈なものがあったろうと推察する。33歳で暗殺されたのは返す返すも残念なことである。 土佐藩の下士であった竜馬が行った政策は、日本国の政治の屋台骨を据え替えた大工事で あり、日本国史に特筆されるべき大改革で、武士の生活の糧をゆるがし、且つ、広範囲に 影響を及ぼす大偉業といえるものであった。

その後、明治、大正、昭和、と進み、戦争の大きな代償を払いながらも、戦争の愚かさを 身にしみて会得した。政治の主権が国民の手に修まり、婦人参政権が成立して、国民の総意 が選挙を通して確認出来るようになった。アジアの東の端にある小さな島国が、先進国と いわれ、made in Japanが優良製品の代名詞に使われるまでに信頼を勝ち得ている現在、 グローバル市場を展望するとき、その信用度の価値は何物にも勝る誇りで、名誉なことで ある。

 私の年齢を、生まれた年から逆にさかのぼると、坂本竜馬が活躍していた年代になる。 それほど遠い昔の話ではない。自分が子供だった頃の家には土間があり、薪でご飯を炊い ていた。ドラマの竜馬の家よりはるかに小さく貧しかった。平成の現在から観測すれば、 明治、大正、は文明化への揺籃期であったように思える。
 蒸気機関の発明は人力では得られない、絶大な動力源を生む、それを利用した交通機関 の発達は、物質文明を豊かに開化させ、産業革命をもたらした。が、植民地政策や侵略戦争 が各地に発生し、世界を戦争の渦に巻き込んだ。戦争末期には核が使われて、無差別な 破壊行為となり、善悪の倫理の壁を越えた、人類破滅への愚かさが垣間見えるところまで いった。昭和天皇の大決断で昭和20年8月15日終戦となった。

終戦から以降現在まで65年間の文明化した生活環境は、目を見張る変化をしている。終戦 当初は大部分の市街地は焼け野原、国民総てが貧困と食糧難、先の見えない不安の毎日だ った。「国破れて山河あり」それでも田舎へ行けば山河と共に食料が有った、助け合いの 心があった。そして、楽しみと言えば、あの空襲警報を知らせた真空管ラジオの歌番組だ けだった。その後の4~5年で衣食住が落ち着き、民放開局が昭和26年、テレビ放送開局が 昭和28年、カラーテレビが昭和34年、新幹線開業が昭和39年、昭和40年以降は、所得倍総 が花開き、自家用車の普及、エアコンの普及、デジカメの普及、パソコン・携帯電話の 普及、ネット社会となり、どこにいても電話連絡がつく世の中になった。
 今年の注目ニュースは近隣国との緊張の高まりで警戒警報が出ている形である。経済力 がつくと、発言力も高まり、無理押しも出てくる。高度に発達した武器を装備した相手国 には、それに対応できる防衛力が必要である。しかし、どのような事態にも、人間性の倫理 の壁を越えた無差別な破壊行為が有ってはならない。





11月21日(日)
 尖閣諸島近海での中国漁船の操船行動を写したビデオについて質疑の模様が国会中継さ れていた。 「非公開とした理由は?」質問に答えた菅総理の答弁。「現在捜査中であり、第一義的に も捜査機関の判断を立てなければならない。総理の立場といえども、これに先んずること は出来ない。」(要約)「中国側要人との蜜約束は無かったですか?」 「私の知る限り ではまったく有りません」 「何一つ無かったと言うことですね」と念押しされていた。 ネットでそのビデオが流出されてから、その犯人探しには、間髪を容れない早い対応で、 仙谷官房長官の強い口調での犯人探し発言は、外に弱腰、内には強がりの「内弁慶内閣」 を予感させて、不快感を覚えるものだった。菅総理になってから日中関係が急に悪化して いる。そのすき間を見越して北方4島のひとつ国後島へロシヤのメドベージェフ大統領が 訪問した。「弱り目に祟り目」と狙われている感じである。

 人は何のためにお金を貯めるのか。それは、自分への自信と、事を成し遂げる環境を造 るためだ。と、どこかの本で読んだことがある。中国にしろ、ロシヤにしても近年目覚し い経済力をつけた国である。経済力がつくと国対国の交渉も、経済力の関係で潜在的な力 が加わり、主張や発言が重みを増し、見えない圧力となって、納得せざるを得ないことが ある。それを見込んで強引な難題を吹っかけているようにも思われる。 国の外交、それも領土問題となると一朝一夕には結論は出せない。外国との交渉は、 その国との歴史を踏まえた上で方策を立案し、現代社会のあらゆる科学と文化を織り込ん だ緻密な先読み、長期に時間をかけた検討が必要となるであろう。

古来から、国の境界線のもつれは、戦争の火種に結びつくものが多かった、社会常識 が違うように、暮らしの情、考え方、習慣も違う。一般社会生活の有り方が、国対国 の意志疎通がなかったことが、戦争にまで行き着いていたように思われる。しかし、イン ターネットの発達した現在、次第に世界の人間関係は融合する機会が多くなった。核兵器 を持つ国、原発が各国の各所にあり、これが戦争で爆破され、放射能が拡散したら地球上 はどうなるだろう、想像すら出来ない。どのような事態が発生しても戦争は避けなければ ならない。核拡散が無い環境こそが人類共通の生活環境で、必須条件であるから。
 長い階段を1歩一歩踏みしめてお互いの固い信頼を築いていくしか近道は無いのかもしれ ない。





10月12日(火)
 先月末、久しぶりに西穂高のロープウエーを使って西穂口、山頂駅に立つことが出来た。
私の誕生日プレゼントに、妻が計画してくれたもので、当初計画した日程は、募集数が 満杯になっており、空いている日取りを教えていただき、急きょ参加したバスツアー旅行 だった。前日まで雨が降り続いていて、心配された日取りだったが、出発2日前の気象予報 ではこの日だけが晴れ、翌日からはまた崩れる予報だった。当日、朝は予報通り晴れた日和 となった。目的地が中央アルプスの3000mを越える山岳地帯なので、雲の間からでも山の峰 が見えればと、そればかりがバスに乗っても心配であった。


 当日、バスは秋本番の小金波打つ田園風景を後へ後へと流して高速道路を走り続けた。 東海北陸自動車道の飛騨清見ICを降りて、トイレ休憩と昼食の弁当を積み込む、車内で配 られ、走行中に昼食を済ます。高山市を通過するころは、日差しもあり、曇ることもあり で山の天気は予想が出来なかった。一路、西穂高ロープウエーの山麓駅に向かう。バスは 急勾配の山道を登っていく。奥飛騨温泉郷からおよそ4〜500m上った頃から、山道がいろは 坂となりバスは山肌を縫って、あえぎあえぎ登っていく。山側は空が見えない急峻な山、 反対側は千尋の谷、川が白く泡立つのが見えるが、細い水路のようで、はるか下の谷底 である。

登りきったところが、段々畑の駐車場になっており観光バスや一般乗用車など100台ほどの スペースがあろうか。
車を降りると雲は見当たらず紺碧の青空と風もなくひんやりした空気、絶好の山岳展望が 期待された。ロープウエー乗り場は10mほど登った所にあった。以前は、第一ロープウエー、 第二ロープウエーと乗り継いでいた。が、近年山腹に駐車場をつくり一般車もここまで登れ るようになったのだ。ここのロープウエーは二階構造になっており、定員は1階が70名、2階 が40名とガイドさんの説明だった。大型観光バス2台分の乗客を一気に運ぶ規模には驚かされた。


 ロープウエーは上昇を始めると同時に西側窓から「笠が岳」の山並みが後方に屏風のように 立ち上がる。快晴の山岳肌は、手に取れる鮮明さで、距離感を麻痺させて迫ってくる。登るに つれて北側窓からの展望が開けて、「槍ヶ岳」が遠景に見え、中継支柱を過ぎると行く手の 山頂駅とその左上に西穂高岳の雄姿が聳えている、西日に回った日差しが岩壁に反射して雄大さ に輝きを添えている。南側窓は、焼岳が黒々とシュリエットになった山塊をどっしりと構えて 座っている。山頂駅には展望台があり、残雪はないが、雪に削られた岩肌が白く輝き、自然界 の荒々しい風雪に耐えた撓り潅木や高山植物が、なんとも力強く、生命力と存在感を示してお り感動ひとしおである。360度の景観に圧倒されて興奮がしばらく醒めやらなかった。





9月17日(金)
 「今夏(2010年6〜8月)の日本の平均気温は統計を開始した1898年以降の113年間 で第1位(これまでの第1位は1994年)の高い記録となりました」と気象庁9月1日付 けの発表があった。その後の9月に入ってから名古屋での猛暑日が10日あり、温暖 化現象が一段と厳しく近づいていることを感じさせる。
 我が家の庭に日射除けに育てた朝顔と、6月に入ってから芽が出てきた鉈豆があ る。朝顔がこのところ毎朝5〜6輪咲いており、鉈豆は今頃になって花を付けてい る。朝顔は夕刻にはしぼんでいるが、この付近で珍しくなった「いちもじせせり」 が2、3匹姿を見せてくれる。「いちもじせせりが飛びちがう」(秋のおとずれ、 国民学校国語の一節を思う) 猛暑の夏も終わりを告げたようだ。

 お熱いところでは、民社党内の総理を選抜する選挙、党を2分する激しい選挙戦で 菅さんが721ポイント、小沢さんが491ポイントとなり大差で決着した。が、ねじれ 国会が解消したわけではなく、議会内の議員の票は412ポイント対400ポイント伯仲 しており、選挙のしこりが今後どのように影を残すか。
円高は非常事態といえる動きである。菅総理が選択されたと見るや82円台にと一段 高に進む市場の有りかたは、ある意味では、政治の無策さを読まれた世界の判断で あり、真摯に受け止め、論議を深めた迅速な対策を打ってほしい、株安の経済情勢 をどう乗り切るのか、「一に雇用二に雇用三にも雇用」と身振り手振りの声は高か ったが、現状の経済情勢下でどの業種に雇用の受け皿があるのか、円高は、海外通 貨との比較で輸出製品だけでなく、人件費の差が表面化し、工場移転を促進させ、 絶対雇用受け入れ数の減少となり、雇用を一段ときびしくさせる。「党一丸となっ た挙党態勢で」と精神論はもっともだが、筋書きの無い、筋道を示さない表層で看 板倒れにならなければと心配でもある。

 敬老の日も近づいた。後期高齢者の年金生活の身、大きなお荷物的存在になって しまった高齢者、流れ行くうたかたの一つ一つが気にかかり想いめぐらすのみ。地 域社会の団体活動にも協力を心がけ、一通り地域の役職は引き受けて通過点を越え た。生活圏にかかわる役職は気力と体力を必要とする仕事、何時までもは続かない。 これからは、趣味の世界を通して、社会的負担が軽くなるように心掛け、こうした 団体会員がなごやかに継続されることを祈るばかりである。





8月19日(木)
 今年は8月に入って猛暑が続いている。天気予報の時間、熱中症の注意が放送 されない日はほとんどない。立秋が過ぎても35度以上の日が続いている。沖縄の南 で発生した台風4号が九州の西側を北上し、韓国南部をかすめて日本海に入り、 北東に進み秋田・岩手を通過し太平洋に出て、北海道の東海上を北上したといふ 進路も、あまり見かけない経路である。この夏は太平洋高気圧が本州上に深く入 り込み,その淵を回る進路となったものと見られる。この台風の通過後も、35度 以上の気温をぶり返していて、猛暑はまだ当分続きそうである。マスコミは終戦 記念日にあわせて、例年のことながら、戦争関連情報やドラマ番組で構成され、 八月は盆の行事と先祖の御霊に心配りが必要な月でもある。

 お盆は8月13日から15日までの3日間、先祖の供養の日とされている地区が多い。 8月15日は、終戦記念日ともなっており、先の大戦で命を落とした人も多く、広島・ 長崎の原爆犠牲者も大半がこの月である。私の郷里の風習(50年程前)では、13日は 「迎え盆」と言われ、先祖の霊を迎える日として夕闇が近付くと、家の縁側にス イカ・茄子・瓜など夏野菜をお供えし、軒先で松明を焚き先祖の霊をお迎えした。 仏壇は、笹竹に囲まれ、お寺から戴いた、お塔婆と紅白の紙飾りや夏野菜をお供え し茄子で作った馬飾りが添えられていた。14日は盆の「お中日」と言われ、仕事を 休み、お寺からお坊さんを招き、仏壇の前でお盆法要のお経をあげていただいた。 夕刻になって4時頃までにお寺に行き、お墓の前で松明を焚き、本堂内に安置され ているお位牌にもお参りした。また、「水向け」という場所があり、笹のついた1m ぐらいの竹竿と水を入れた桶が有り、その年に亡くなられた新盆の家の霊前に水を 手向けることが出来た。15 日は「送り盆」と言われ、家の前で送り火を焚き、お盆 の期間中仏壇に飾られていた飾りものをまとめて精霊流しとして海に流した。

 郷里を離れ、核家族となってからは、このような風習のない街の生活となり、 お盆は郷里の墓参りだけになった。父母は亡くなって25年が過ぎ、生家を継いだ 長男も亡くなり、姪が家の墓を守っている。いつも綺麗な花が飾られ墓石の周辺 も清掃されていて有りがたい。「苦しいときの神頼み」と言うが、経済成長が進 み生活が少し楽になると、終戦直後の苦しさを忘れ、先祖のありがたさを忘れ、 森羅万象の力を見失い、自分ひとりの功と錯覚する。盆のしきたりを省力化の名 のもとで軽く視てしまう。
松明の火も人の世の流れに沿ってゆらいでいるようだ。しかし、先祖への畏敬の 念や感謝の気持ちは、人間的な精神文化であり、ゆらぐことなく堅持して行きた いものである。
 




7月20日(火)
 夏本番になった。今日、名古屋では36゜の気温が予想されている。17日東海地方 の梅雨明け発表があってから毎日気温上昇が続き、暑さに馴れない体調は熱中症が 心配である。こまめに水分補給を心がけるよう、気象予報と共に放送されるが、汗 の出ない部屋にいて、ときどき暑いところを出入りすると、やみくもの水分補給で は体調がくずされるおそれもあるようだ。まずは、暑い季節に体を慣らすことが 先決だろう。

 暑さを避けて山間の温泉地をめざしてドライブに出た。阿智川は梅雨時の雨を集 めて、水量は白波を立て急ぎ足でくだっていく。山からの涼風は桜並木の堤防を横 切り、間口五間の大きな門をくぐり、お庭を渡って玄関に達する。以前この老舗の PRに、「能楽堂を使った吊るし飾り雛」があった、能楽堂と吊るし飾りのコラボレ ーションとは・・・、下見を兼ねて昼食を、と入ってみた。この季節は七夕をイメ ージし、ご来客様に願いを書いて戴いた短冊が風鈴の風受けとして吊下げられた、 その数4・5百個、七夕飾りの形に幾筋ものすそ野を広げた形に飾られており、季節 を意識したアイディアの一端が見て取れた。昼食は「予約なしでは・・・」と断ら れ、舞台老松前の喫茶席でコーヒーをいただきながら来年の計画をうかがった。昼 食の出来るお店を聞くと、解りやすい地図を持ってきて親切に教えてくれた。おま けに、新しく出来た足湯があるからと進められ、行ってみると無料駐車場に隣接す る川沿いで10人ほどが入れる無料の足湯だった。

 帰り道、車で行けるパラグライダーの飛翔基地のある山頂展望台に登ってみた。 360度の展望はすばらしく南アルプス一帯が遠望出来、足元には平谷の街並みが山と 山ひだを縫い合わせていて面白い。はからずも、パラグライダー生を乗せた車が登 ってきて、展望台の100m程離れた西側斜面にスクール生を下ろした。しばらくして 飛翔がはじまった。
「写真を撮らせて頂けませんか」と聞くと、
「いいですよ」とインストラクターらしい方が許可してくれた。先発で飛び立った ライダーと無線連絡していて、受信音がこれから飛び立つメンバーに聞こえるよう 流されている。
「気持ち良さそうに飛んでますね」と声をかけると、「本人はひやひやですよ」と 教えてくれた。
次ぎ次ぎと飛び立つ人達は無言のままで支度をしている、緊張の雰囲気がカメラマ ンの私にまでひしひしと感ずる。パラシュートを広げる時だけ3人が手助けするだけ で、会話らしき言葉はなにもない。
「良い写真を撮らせて頂いてありがとうございました」と丁重にお礼を述べて、張 りつめた緊張感の漂う飛翔基地を後にした。

 スポーツとはいえ一瞬のミスも許されない、わずかな手落ちが命と結びつく集中 した神経がみなぎる現場に、不用意に踏み込んでしまった自分が恥ずかしく、また、 命をかけた訓練の場を見せて戴いたおもいで、暑さを忘れさせてくれたひと時でも あった。





6月16日(水)
 緑陰を渡る風がさわやかになった、若葉が明るく輝き活気に溢れている。 麦秋と早苗の田園風景は収穫と新展を示唆して、この季節が好きである。日差し の中に立つと、光そのものがパワーを持っていて、万物のエネルギー源であるこ とを肌で感ずる。6月10日を過ぎても梅雨入りしない年はめずらしい。季節を忘 れず咲き始めたアジサイの花を見ながらふと思う。これも地球温暖化による過渡 現象のようなものではなかろうか、寒気団と暖気団が混ざり合う過程で、小型気 団に分裂し、迷走経路をたどり寒暖の差が大きく、雷と集中豪雨の多い気候とな り、梅雨入りが遅れたのではなかろうかと。「6月14日東海地方も梅雨入りした」 と発表があった。

 今年、我が家の梅の収穫は17kgほどだった。たわわに実っていた枝は実を収穫す ると20cmぐらい枝か持ち上がる。重い荷物を下ろした後の喜びを表現しているよう で、「ありがとう、御苦労さん」と声を掛けたい気持ちになる。葉が混み過ぎた ところ、風通し、光通しを見ながら枝の選定をする。葉裏に産み付けられた蛾や 蝶の卵を見つけて取ったり、徒長した新芽を切り詰め、根元の雑草をとったりす る。お礼肥えを撒いて、1週間ほど過ぎると葉の艶が増して、樹勢の回復が見ら れ、生き生きした活力を見せる。

 春先から咲き続けてくれたパンジーや水仙の葉を取り払い、梅の木の根元のグ ランドカバーとして植えてある雪の下が「七夕飾り」のような花が咲き終えた ところである。
ランナーを出して無造作に縄張りを広げてきた株を半分撤去して 狭い花壇を整理した。ムベが今年は当り年で40〜50個も実をつけた。樹のサイズ から考え、成長の良いものだけ10個ほど残して、他は見切りをつけて摘果した。

 クチナシの花が咲き始めた。生垣の「ひば」の新芽が黄金の扇を涼風にゆらせ ている、椿のつややかな葉が梅雨の中休みの日差しに閃光を放ち、牡丹の葉が大 きな手の平をひろげている。狭い我が家の庭にも、久々に晴れた日差しが眩しく 降り注ぎ、若葉の香りを深い青空に沁こませている。
梅の下枝につり下げた「吊りしのぶ」を、遊びに来たすずめが揺らして飛び去っ ていった。ペパーミントの新芽を摘みとりコップにさし、暫しパソコン脇に置き 初夏の香りを楽しむ。





5月16日(日)
 「五月晴れ」と言えば初夏の爽やかな風と青空をイメージするが、今朝の気温 は4月中旬並みの10℃と肌寒い。
それでも、小学校脇の野バラが一面に清楚な白い花を開いて春爛漫である。運動会 を22日(土)に控えているので、入場門・退場門となる位置に、紅白の布が巻かれ た柱が立てられ、3年生か4年生ぐらいの赤い帽子、白い帽子の体操着姿の子供たち 100人ほど、玉送り競技の練習をしている。青空のもと、元気な子供たちの溌剌と した動作は気持ちがいい。しばらく足を止めて眺めた。

二人が組になり、4m離れて向かい合って立ち、3mの棒2本で、お互い棒の端を持ち、 棒の真ん中で直径70pほどの玉を挟み、蟹歩きの横方向走りで、息を合わせて3段の 階段を昇り降りし、一回り旋回し、50p高さの障害をまたぎ越えして、次の二人組 にリレーす。3ブロックに分かれていて、その速さを競うものである。 息の合った共同作業と、バランス感覚を必要とする身体機能が要求される競技であ る。子供の成長期に大切な運動と協調する気持ちが養えて、危険性の少ない面白い 競技だと感心した。

 従来は、小学校の運動会と言えば秋の行事とされていたものだったが、春の季節に 変わってから、かれこれ10年は過ぎただろうか。
新一年生も、通学路にもなれ、同級生にもなじみ、落ち着きを得ただろうと見計らい、 父兄の意見も含めてこの季節 を選ばれていることと思われる。日照時間も長くなり、入梅前で比較的安定した天 候でもあり、また、近年は2学期制の導入もあって、教科との時間配分もあろうかと 推察する。地域の神社の祭りも5月2日、3日で行われ、過ぎて間もない、子供たちの イベント気分も盛り上がっており、「のりのり気分」が続いている。
来る夏の暑さに耐える体調を鍛えるためにも、この季節が適しているようにも思う。

 身近なところで、他市に住む、長男夫婦と、次男夫婦の子供(孫)がそれぞれの地で、 新一年生となって元気に通学しているので、少々、関心もあり、心配でもあって子 供たちの元気さがいとおしく思われるところである。


追伸、
小学校の運動会は、予定した22日(土)、天候にも恵まれて盛大に行われた。 競技は「おとしちゃyear 2010」と題したもの、2年生全員の組対抗で、その速さを競い、 順位得点になるもの。練習と異なり、子供たちの一生懸命さが観客にも伝わり、 父兄客や生徒達の大声援となり、競技中鳴り止まず、小学2年生の競技とは思えない、 大変な盛り上がりを見せた。





4月5日(月)
今年は、桜の季節が早くやってきたようだが、寒気の南下もあって開花の寿命が延びて いる。桜の花が好きな我々には何とも嬉しい恵みである。花見と言えば桜と言われるよ うになったのは、古今和歌集が編纂された905年頃からで、それ以前は中国文化の影響で、 花と言えば梅の花が主流だったそうである。日本人の気性にあった、ぱっと咲いてぱっ と散る、「いさぎよさ」が好まれてか、また、散りゆく花吹雪の風情だとも。しかし、 「花は桜木、人は武士」と先の戦時ではこの「いさぎよさ」が持て囃され、若者の士気 鼓舞を誘い、命が桜の花になぞられて散っていった、苦く痛ましい戦争時の歴史が頭を よぎる。

 サイタサイタ、サクラガサイタ。小学一年読本の冒頭で勉強した年代である。その読本 ページの下段には満開の桜並木が挿絵になっていた。子供心にもその花の下で遊びたいと おもった。旧東海道沿いの町である小学校の本校への通学は、急峻な潮見坂を登って行 かなければならないので、一年生だけの分教室が本宿にあった。毎日、先生が本校から来 られて教鞭を取られた。
「サイタサイタ、サクラガサイタ・・・いま潮見坂公園の桜が満開でみんなに見てもらい たいな・・・二年生になって潮見坂を登ったら綺麗な桜を見てください」
先生の言われたこの言葉も、いつしか忘れてしまって、一年生の勉強は夢のように過ぎて いった。

 二年生になって初めて坂上の本校へ登校となった。上級生に連れられて、2列に並んで坂 を登った。登り切ったところに桜並木のトンネルがあった。桜花の豪快さと華麗さに感嘆 し「桜のトンネルだ、トンネルだ・・・」と歓声を上げたことを覚えている。道の両側が 桜の並木になっていて200m程続いている。花のトンネルを抜けると潮見坂公園があって、 その周りにも幾十本かの桜で埋め尽くされ、中央部には高さ5mほどの築山があり「明治 天皇御遺跡地記念碑」と書かれた石柱が聳えていた。柱の礎石には「木戸孝允日記(中略)」 の銅板が埋め込まれていた。(要約、明治天皇遷都の途上、当地より茫洋なる太平洋を眺め られ、暫し御休み給う)
新学期が始まる桜の季節は、毎年この桜のトンネルを通って通学するのが楽しかった。

 高学年の春休みになって連日休校が続くと、坂上の畑で野良仕事を手伝うことが有った。 山の高台から見える通学路の桜並木は、麦畑がジグザグに続く浅緑の彼方に、もっこり もっこりとピンク色で連なり、桜の間に樹齢2〜3百年の老松が点々と高くそびえて、読本 の挿絵そっくりである。春休みの解放感と共に、桜のトンネルに出会った日の感動がよ みがえるのだった。
その後、幾十年かが過ぎ去り、記憶は遠い遠い昔のことになった。桜の公園だったこの地 には、小学校・中学校が移築されており、桜並木も樹齢で枯渇。古木の松並木も切り倒された り、枯れたりして無くなってしまった。記念碑は、学校脇の旧東海道沿いに移設されて いる。が、鮮やかな桜のトンネルは、幻しとなり、私の脳裏にのみ残る物だけになって しまった。





3月15日(月)
 「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や、沖の小島に波の寄る見ゆ」 (源実朝) と歌われた 初島の眺めは、峠を越えても雨雲の中にかすみ、白波寄せる島影はみられなかった、が、視界 が開けて、飛び込んで来た広々とした海の景観は、運転の緊張と疲れを、いっときながら も忘れさせてくれた。今朝の出発は小雨の中、静岡あたりで雨は止んだが富士山は雲の中 で見られず残念、「河津桜」は花まつりらしく雑踏の中にのみ込まれ、花吹雪に包まれる ものだった。午後4時、予約の温泉宿にはいった。予定の人気のスポット「吊るし飾り雛 見学」は宿から歩いて行ける距離である。吊るし飾り発祥の地だけあって見学客が多い。 コンクール形式になっていて入賞作品は、作品の斬新さ、出来栄え、内容の深さ、に卓越 したところが見られた。会場が2か所にあり、第2会場は翌日、車で行くことにして宿に戻 る。温泉の湯は肌触りがよく格別な癒し効果で満足なものだった。

 先月末、妻が心筋梗塞手術から2年経過したので経過状態の診察があった。掛かり 付けのN先生からは
「順調です、3カ月ごとの検査では今回が一番良い結果が出ており、まず大丈夫のようで す。しかし、お薬は今までどおり、ずっと飲み続けて下さい」
と言われた。検査数値が良好であるのは何よりの励ましであり、先行きの不安が払拭され た思いがして元気を戴いた、今回の旅計画が出来たのも、先生の言葉が力強くバックアッ プしてくれているからである。
翌朝、朝方曇っていたが、第2会場をたずねた、到着した頃から暗雲が切れて暖かい日差し となった。こちらの会場は、出品点数は多かったものの、圧倒される迫力、豪快さが見ら れなかった。しかし、個々に見ると仕立ての綺麗さ、布選びの巧みさ、親心の表れたもの など、洗練されたあじの含みがあり、吊るし飾りの発祥の地を感じさせた。

 海岸沿いの会場は駐車場の海側が老松の並木となっており、隣が漁港になっている。 坂ばかりの街中の道路、温泉と海の幸が生活の糧を得る収入源であるこの地域。漁に出ら れる男衆と、家にいて子供を守り育て、賄いを引き受けた母親達、相模湾の海は遠浅部分が なく急に深くなっている。沖合のおだやかで静かに見える海はうねりが磯辺に近づくと急 に盛り上がり大波となって打ち寄せる。子供の遊び場としては非常に危険が伴うことが多 かったのだろう。
この生活環境での子育ては、子供の安全が母親達の祈願となり、必然性から発生したであ ろう祈りの姿が「吊るし飾り」の形となったものと推察される。
母親達の「子を思う切なる願い」が込められた飾り雛である。

 稲取温泉を後にして、海岸沿いの135号を南下した。白浜大浜の海岸はサーフィンでにぎ わいを見せ、下田の街並みでは黒船襲来開国と歴史に残る日本の黎明期を思いながら通過、 石廊崎を訪ねたが灯台への道には綱が張られ、ここにはジャングルパークが有ったのだが ・・・入れなかった。奥石廊では西風が吹き上げる丘に登り、太平洋の展望をカメラに収 めた。日差しは明るく、岬からの海原は岩場にくだけて白い歯を見せて戯れている。南伊豆を 一周し、一足早い早春の海辺の香りをあじわった。雲見からは雪を戴いた富士山が青空に溶 け込んでいる、雪か雲か判別できない、映した写真で富士を確認した程である。堂が島を 過ぎて富士見台まで来ると裾野まで見える雄大な富士となっていた。西伊豆の土肥温泉か ら山越えして、修善寺を経由し、沼津から高速道路に入り帰路についた。





2月7日(日)
 我が家の梅の木もちらほらと開花し始めたが、このところの冬将軍のにらみに慄いてか、つぼみ が白い頭を出したまま足踏み状態である。昨日は、東海地方では珍しく雪景色の朝を迎えた。 車のフロントガラスの雪下ろしで、およそ5cmの積雪であった。今朝はこの冬の最低気温だった ろうと思われる。
朝のラジオ番組で、作家の「落合恵子」さんが「春を待つ心」と題したこの季節の話をしていた 「冬芽」
「ほら、あそこにも、そこの枝にも・・・」「ここにも・・・」
「つややかな生命のいぶき・・・」
葉を落とした木々の新芽はすがすがしい、雪国の人達は、家の周りの残雪から、初めて土が顔を 出したとき、春の訪れを見つけた感動と、冬を乗り切って解放の自由を得る喜びにしたるそうで す。陽だまりのみずみずしい緑草にも、朝夕の日照時間の伸びにも、季節風が治まった日の霞み や朝もやにも、待ちわびる春の訪れを期待して、敏感に反応する。「なごり雪」「光の春」とい う言葉もこんなところから生まれたのだろうか。
木々の小さな、小さな新芽に目を留めて、春を待つ望みを膨らませ、勇気付けられる。
浅間山の山麓に住むお友達からの手紙には、「春を待つ心もいいものです」と書かれていたことを 思い出します。

 冬の間、閉じ込められた生活の中にも、美意識の詩情を求める考え方、日本古来の文化である茶道 や生け花を通して連綿と続いている、日本人の美に対する繊細な神経がこんなところにも芽吹い ている。しかし、暑さ寒さの生活の中から、生まれ培われた日本人の習い性となった「勤勉さ、 忍耐強さ、事足りる意識の持ち方、簡素なものへの美意識」など、貴重な民族の文化遺産だと思う のだが・・・。チャップリンの金言集に「人生で必要なものは、勇気と、想像と、ほんの少しの お金だ」と言うのがある。

 戦後の文化意識はこうした事に価値観を見出さない社会になりつつあるようで、何か大きなもの を忘れてきたように思えて残念でもある。効率一辺倒になって、忘れられつつある現在の社会を 見渡す時、大自然への感謝の気持ちを忘れ、生かされている人生意識を忘れて、便利さを追求し た生活に慣らされ、ややもすれば、勤勉さや、一生懸命さが恥ずかしいことと見られたりする風潮 があったりする。これは自然への高慢な態度であり、人は自然を離れて生きて行けるほど力も知識 もない、生きている限り一生懸命働き、勉強しなければならないのが常道ではなかろうか。地球 温暖化対策が叫ばれている昨今である、思い上がりの格好つけは厳に慎みたいものである。





1月16日(土)
 新年になって早くも15日になってしまった。協力会社だった会長さんからの、お付き合いの 年賀状がないので心配していた。遅ればせながらの賀状が届いたのは松の内が過ぎてからだった。 そこには、通例の年頭の挨拶言葉があり、続いて書かれていたことは、昨年6月、50年来続い た会社を閉鎖したという悲痛な言葉だった。社長の職は長男に引き継いでいたものの、一族 で立ち上げた会社で、一時は、従業員も十数名を数える程に繁栄した会社である。真面目一本 の経営と正直な仕事内容、信頼厚い人材が中枢にもいた会社だった。現役時代、私が勤めてい た会社の協力会社であり、長い年月(30年以上)苦楽を共にした、じっこんの間柄であった。 リタイヤ後は顔を合わせる機会も少なくなり年賀だけの付き合いになっていたが、住所も以前 の工場の敷地内の自宅だったものから、他の市町に変わっており、苦渋の決断だったものと思 われる。

 今回の世界的不景気の大きなうねりの中での、弱者への吹き溜まりのような、一つの社会現象 とも思われるが、なんとも悲しく寂しさのにじんだ年賀である。大手の会社の締め付けが、民間 の町工場の現実にどのように波及するか、実情をここに見た思いである。ここに勤めていた幾人 かの人達も想定外の失業となり、生活の糧をどのように組み立てていくのか・・・「稼ぐに追い つく貧乏なし」と言われた古いことわざも、今はその「稼ぐ」場所が見つからない世の中であろ うか、対策の有り方にはどんな方向があるのか、明快な打つ手が見つからない。社会の進むべき 方向付けから考え直さなければならない岐路となっている。政治主導で解決しなければ治まらな い大問題のように思われる。

 地球の裏側で始まったサブプライムローンが世界同時不況の波となり、生活の末端にまでしわ 寄せされている現実である。市場第一主義がマネーゲーム感覚となり、生産性のないところで 莫大な金融のやり取りが公然と行われ、貧富の差を拡大させるだけでなく仕事場まで奪っている。 働く人の生きる糧としての経済域を超えた、賭博の域に広がりつつある。
金融市場のどこかに限界枠を設けて、行き過ぎに歯止めをかけなければ貧しい弱者は浮かばれな い。世界のテロ組織の発生も原因がここにあるのではなかろうか。真面目に働く人が安心して 生活でき、生きる権利が保障された、平和な社会にしたいものである。