日野市の城館

 

        

      平山城址公園駅前の平山季重館の発掘風景です。

     (日野市役所内で展示されているパネルを撮影)

                 平山城     
攻城日 天候 評価 遺構
2007,5,14 晴れ C 平場、腰曲輪
攻城のコメント 平場(物見台)
京王線・平山城址公園駅と名前だけはとても有名な城です。
しかし、実際に城は?と思われる方も多いと思います。
駅の南800mほどの丘陵上に城は存在しました。
紛らわしいのは現在城址公園なるものが丘陵南のありそちらが
城跡だと思う人も少なくないと思います。
ご丁寧に石垣なんかがあって困りものです。
城は丘陵上から北側斜面にかけて築かれていました。
もちろん南側(公園側)にも遺構があったかもしれませんが
現在は公園化のため破壊され確認できません。
平山季重神社のある平場とその下にある堀切状の場所に
神社下の参道に食違い虎口状の場所、腰曲輪状の場所と
決め手に欠けるものの城址らしい雰囲気は充分あります。
 
備考 食違い状の虎口?・腰曲輪?
城は室町期に平山氏によって築かれたようです。
季重神社のある平場は丸山と呼ばれ物見台
伝えられているのです。

戦国期には後北条氏の城であり東の高幡城方面から
八王子城へのつなぎの城であったことは確実です。

これは私の妄想ですが徳川家が江戸に移ってきて平山は
中山照守が地頭として治めておりました。
この中山氏が平山城を利用していたと考えられます。
 
       平山季重館(推定地その1)
攻城日 天候 評価 遺構
2007,5,14 晴れ E なし  
  写真
平山季重館といっても何箇所か推定地があります。
しかしどれも遺構は残っていなくて決め手はありません。
『多摩丘陵の古城址』で作者の田中祥彦さんは季重館の
候補地についてこう語っています。
「当時は浅川の氾濫のより館が流失することもあり館の位置は
固定的ではなく領地内で場所が変わっても不思議ではなく
また、分家などのために複数の館が近接してあってもいい」
と考えておられます。
ということで推定地を2つほど紹介したいと思います。
 
攻城のコメント どうらや土塁のようです
最初の候補地は平山城址駅南口すぐにある場所です。
ここは石碑などがあり一番有名ではないのでしょうか。
もともと、大福寺という寺があり館跡に寺を建てた可能性が
高い場所です。
かつては江戸時代に建てられて季重の墓がありましたが
現在は寺が廃寺になり南の宗印寺に移されました。
石碑があるのは狭い路地を入ったところなのですが
路地に沿って土塁のような一直線のマウンドがあります。
まさかとは思うのですが・・・違うよな〜
※余談ですが館跡の石碑の碑文はあの幕末の大剣客である
男谷精一郎信友殿が書かれた
そうです。
私は男谷殿のファンなのでこれを見るだけでも
訪れた価値がありました。
 
        平山季重館(推定地その2)
攻城日 天候 評価 遺構
2007,5,14 晴れ D なし  
攻城のコメント 平山季重墓
平山城址駅から南に500mほどの丘陵中腹にある宗印寺が
第二の推定地
です。
多摩丘陵の古城址の田中先生はここが平山宗家の館が
あったのではと考えておられます。
※季重がいたかはわからないが嫡流の館跡と推定

確かに私が見ても一番ふさわしいように思います。
眼下に浅川を臨みさらに殿ヶ谷形式のような地形に寺はあります
裏山、南西には平山城があり当時は簡素な詰めの城でも
あったのではないでしょうか。

またまた余談ですが、宗印寺は1599年に平山の地頭だった
中山照守が一庵を建てたのが始まりといわれています。
飯能中山氏、上田七本槍の照守殿ですよ。
ということは照守殿の屋敷もこの辺にあったということですね。
 
         平山北城(参考地)
攻城日 天候 評価 遺構
2012,2,11 晴れ 郭?  
攻城コメント 平山北城の郭?画像
平山城とは住宅街を挟んだ北側、平山季重の墓がある
宗印寺西側の丘陵に城郭遺構(類似遺構)があります
平山北城と名付けられて平山城の出城的な存在と
考えられています

西に延びる丘陵に郭が段々に設けられているだけで虎口や
堀、土塁は見られません
類似遺構の可能性もあるようです
この辺りには大正時代にゴルフコースが存在して
平山北城のある丘陵にはクラブハウスやティーグランドが
あったといわれます
そうなると城郭遺構とみられている郭はゴルフ場建設の造成に
よるものなのでしょうか?
日野ふるさと紀要4では平山北城を前述の理由から
参考地という扱いにしています

実際に現地を訪れてみて私が思ったのは小さな郭が
丘陵先端部まであるように見えます
クラブハウスやティーグランド跡?と思いたくなります
ただし郭らしきものは何段も確認できますが
どこか城跡らしさに欠けることも事実です

参考  中世城郭研究/研究ノート
     「多摩川流域の城砦群」西股総生
     
     日野ふるさと博物館紀要4号
     「日野の中世城館をさぐる」

  

                高幡城    
攻城日 天候 評価 遺構
2007,5,14 晴れ C 郭、堀
攻城のコメント 元土橋と堀切
高幡不動の後ろにそびえる山が高幡城です。
高幡不動から歩いて10分ほどで登れ気軽に訪れることが
できる城です。
今回訪れたのはちょうど日野新撰組祭りのときで
境内は新撰組隊士で溢れかえっておりました。

高幡不動の宝物館にはたしか平山季重の刀が展示されて
いたと思います。一緒に見学されるのも良いかもしれません。

遺構は山頂の尾根を削平した郭が南北に続いていて
その郭間に堀切があったようですが現在もかろうじて
確認できます。
主郭にも虎口とも堀とも思える窪みがあります。
 
備考 主郭の堀か虎口か?
城は戦国期に使用されていました。
浅川、多摩川の合流点に近く多摩川を越えた三田城(国立市)
とは向かい合う形になります。
後北条氏の多摩川〜浅川の防衛ライン上の城で平山城や
大丸城(多摩市)なども同じライン上の繋ぎの城で
あったと考えられる。
 
           南平館
攻城日 天候 評価 遺構
2009,5,16 晴れ D 土塁  
攻城コメント 土塁の名残
日野ふるさと博物館きようを見て訪れました。
高幡不動のすぐ西側の段丘を利用して築かれた館であります。
「高幡一族屋敷・下地地図」に記載される
「えちご屋敷」といわれる場所で段丘沿いに
土塁が残るとのことですが明確ではありません。
※私が見学したのは大寺平緑地(おおじっぺら)という場所です
参考にした資料「日野ふるさと博物館紀要〜4〜」が
書かれた頃と条件が変わってしまったようです。
館の立地的には高幡不動、高幡城に近く深く関わりがあったと
思われます。
とくに高幡城は詰城、物見として機能していたのでは
ないでしょうか。

(参考 日野ふるさと博物館紀要〜4〜)

 
               百草城
攻城日 天候 評価 遺構
2009,5,16 晴れ C 堀切、郭など
攻城のコメント 堀切
百草に城があると知ったのはかなり小幡晋さんの
「多摩の古城址」でですが今回紹介する城は小幡さんが
紹介する陣屋山ではなくその西側、百草園という公園の
背後(一部敷地内)の山で日野ふるさと博物館紀要第4号を
参考に訪れました。
百草八幡神社背後から遺溝が残りここから細い尾根に平場、
堀切が残るそうです。
私は神社背後の堀切と平場、百草園内の虎口と
主郭と思われる箇所を見学したのみですが見応えありました。
冬場に再訪して出来る限り遺溝を見学してみたいと
考えております。
ちなみに陣屋山ですが明確な遺構は確認できないようです。
 
 備考 主郭の近景
この地に城が築かれたのはおそらく戦国初期に
多摩川を挟んで行われた合戦の際でしょう。
多摩川(支流を含む)ラインは鎌倉に幕府があった頃から
重要な防衛ラインであり東には関戸城が西には高幡城が
所在します。
百草城も諸勢力の陣城として築かれ最終的には
戦国期、後北条氏が武蔵に進出する際の陣城として
されに拡張されたのではないでしょうか。
後北条氏が武蔵を制圧し完全に掌握した後は物見として
利用されたのでしょうね。
(参考 日野ふるさと博物館紀要〜4〜)

※この城に関しては冬場にあらためて訪れる予定です
 
堀切別角度から撮影
 
              川辺堀之内
攻城日 天候 評価 遺構
2009,5,16 晴れ C 土塁、堀
攻城のコメント 土塁
 以前紹介した川辺堀之内の記述は全くの間違いでした。
浅川の段丘上、小さな舌状台地の先端を利用して築かれ
現在も遺溝を残しております。
ゴルフの練習場が建てられ土塁の七割ほどが失われてますが
段丘の両端の土塁は規模も大きく見応えあります。
残された土塁を繋ぐと横矢のための折があったことは確実です。
館というよりも形態としては城なのだと思います。

川辺堀之内を伝える史料は室町期にこの辺りを領した
高麗氏の「高幡一族屋敷・下地地図」や
「高幡駒一族高幡不動座敷次第覚書写」を
もとに高麗左衛門という人物の館または城である
可能性が高いとされております。
(参考 日野ふるさと博物館紀要〜4〜)
 
L字の土塁
 
              日奉氏館
攻城日 天候 評価 遺構
2009,6,27 晴れ E なし
攻城のコメント 七ツ塚古墳
武蔵七党の西党宗家・日奉氏の居館が日野市東光寺に
所在したといわれます。
多摩川の段丘上の七ツ塚古墳辺りに
館があったのではないかとのことです。
立地条件としては多摩川の段丘が北側で西側に
谷地川の断崖となり一見すると館の所在地として
相応しいように思いますがなにか???なのです。
長いこと多摩の城館を探したり見てきた勘なんですが
私は段丘下にあったんじゃないかな〜と直感で思いました。
近世水田となっていた多摩川の氾濫原である
東光寺下から栄町辺りですが中世には村が所在していたことが
発掘で明らかになり、日奉氏の祖・日奉宗頼、宗忠を祀るために
造営した日野宮神社の周辺にも集落が存在していたことから
日奉氏館もこの辺にあったのでは?とも考えられます。
あくまでも私個人の考えと勘なんですが・・・(汗)
偉そうに自説を書いておきながら画像は
七ツ塚古墳であったりします(汗)
 
  備考  
西党日奉氏は武蔵国府に出向してきた役人が国府の西側に
土着し武士団として発展し源平合戦で有名な平山季重も
西党に属します。
国府の西側に住んだ⇒西党の名前の由来いう説もあります。
立川氏、平山氏は小さいながらも土豪として発展しますが
日奉氏は鎌倉末期頃には日野から姿と消してしまうようです。
絶えてしまったのか、移住したのか不明ですが館跡の所在地が
伝わらないのはこのせいでしょうね。
(参考  日野市史  日野市ふるさと博物館紀要4 )
画像は一枚だけです
          田村館
攻城日 天候 評価 遺構
2011,4,23 晴れ E なし  
攻城コメント 館跡といわれる安養寺
万願寺地区の安養寺は後北条氏政に仕える
侍医・田村安栖の館跡といわれております。
もともと田村氏は日奉党出身の在地土豪と考えられています
どのような経緯で安栖が侍医となったのかはわかりませんが
館跡は土豪として相応しいものが構えられていたのでしょう。
もっとも現在は遺構も牛なられその名残さえも見当たりません。
安養寺は安栖が館敷地内に建てた寺であります。

余談ではありますが幕末に安養寺の寺子屋には土方歳三が
幼少時に通っていたといわれます。

参考 武蔵の古城址/小幡晋
 
               石田屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2011,4,23 晴れ E なし
攻城のコメント 石田寺(屋敷はこの辺りにあったと?)
多摩川と浅川の合流地に近い石田の地には中世に
日野を支配した高麗氏一族の屋敷がありました。
近世の石田村の北端で自然堤防上に位置します。
土方歳三さんの墓があることで知られる石田寺あたりに
「高麗一族屋敷・下地等絵図」に記載される石田屋敷が
あったと推定されています。

石田寺とその周辺を少し歩いてみましたが屋敷跡の痕跡は
見つけられませんでした。
余談ですが石田寺の北側には土方歳三さんの生家が
構えられていたそうです。

参考 日野市ふるさと博物館紀要4
 
               薬王寺館
攻城日 天候 評価 遺構
  晴れ E なし
攻城のコメント かつて土塁が存在した薬王寺東側
JR日野駅北側、線路沿いに建つ薬王寺は
日野ふるさと博物館紀要〜4〜では推定薬王寺館として
紹介されております。
かつて昭和50年代後半までは寺の東側に土塁がありました。
境内の建て替えの際に土塁はなくなってしまいましたが
発掘調査では土塁中から板碑が発見され境内からは
乱石積みの井戸が発見されたそうです。
北側には空堀状の溝もあったとのことです。

現在は寺は建て替えられ、周辺は都市化され館跡を
想像させる環境ではありませんが前述の紀要〜4〜に
載せられている航空写真を見ると館跡と推定される
理由がよくわかります。
 
 備考  
この館の主は誰か?ということですが
寺の南西には後北条氏に仕えた竹間加賀入道の墓と
伝わるものがあり、館主ではないかと考えられます。
それ以前ですと多摩川対岸に拠点をもつ立川氏がこの辺りを
領有しており立川氏の館であった可能性もあると思います。
鎌倉期ですと西党の西氏(日奉氏)の館ということも
考えられなくもないですね。

(参考 多摩のあゆみ〜立川の中世を考える 日野市史
     日野市ふるさと博物館紀要4)
画像無し

          某屋敷推定地

攻城日 天候 評価 遺構
2007,11,3 曇り E なし  
攻城コメント 堀之内下の延命寺の中世板碑
浅川の左岸のはけ下(段丘)に所在します。             以前川辺堀之内と紹介した場所ですが堀之内に         もう一つ城館推定地があります。
古来この地は馬の産地であったようです。
それを示す証拠に駒形明神社 が堀之内の中心部にあります。
その牧場に関係した土豪の屋敷か高幡高麗氏一族の館が   あったので可能性があります。

また、天正の頃には川辺十騎といわれる野武士団が
いたといわれていますが彼らに関係した
屋敷であったのでしょうか。
江戸期より度重なる浅川の氾濫で遺構などは消滅した
可能性もあります。                            場所的には延命寺の東側の微高地が怪しいとされております 
(参考 ひの史跡・歴史データベース /日野ふるさと博物館紀要〜4〜)