歴史にみる激動期の経営者
講師:童門冬ニ氏(作家)
織田信長が頭角を現し始めた頃、今川家といえば天下の副将軍格であり、国づくり・城下町経営においてピカ一の存在でした。ですから商人も武家も、今川家に仕えたいと集まって来ました。
そうした中に木下籐吉郎もいて、今川家の家臣、松下に仕えていました。籐吉郎は松下の経理を扱うほどに重用されましたが、同僚から妬まれ、公金横領の噂が流れました。和を重んじる松下は「横領したとは思わないが、十分な退職金を用意するのでやめてくれ」と籐吉郎に申し出ました。これに対して籐吉郎は「今は戦国の時代。主人が部下を選ぶ権利もあるが、部下にも主人を選ぶ権利がある。退職金はいらない。私があなたをクビにする」と言って、こんな家臣をもつ今川もたいしたことはないと、尾張に足を向けたのでした。
徳川家康は、今川で竹千代として12年間を過ごし、今川の軍師である臨済寺の太原雪斎から漢学を教え込まれました。鎌倉時代の史書である吾妻鏡や中国の貞観政要が用いられたようです。
「創業守成」は創業は易く守成は難しと二代目以降の難しさを説き、「民は水なり、君は舟なり」は、君主として国を治めるならば、人民の意向を重んじなければならない。そうすれば民は納得して波を立てないと教えています。そして組織内にいる幹部の「諫言」をきちんと聞いて経営を行うなど、徳川家康はこれらの教えを幕府の基盤に取り入れました。
いま篤姫が放送されていますが、彼女は江戸に残りながら、徳川家の後継者を養いました。王政復古で徳川幕府はなくなり、徳川16代当主家達は、600〜800万石から70万石の一大名として駿府に下ることになりました。そこに旗本も押し寄せたわけですが、とてもかかえきれません。
当時、渋沢栄一は使節団100人と共にパリにいましたが、突然日本からの送金が止まりました。その窮状をみたナショナルバンクの頭取フィラーリーさんは、渋沢たちの残金をナショナルバンクで運用して、帰りの船賃を工面してくれました。当時の日本では、金融は商人の副業であって日陰の商売でした。明治2年に帰国をはたした渋沢は、パリで学んだ株式と銀行を日本で実現しようと考えました。
渋沢はもともとは漢学者で、忠誠心の塊のような人物です。帰国した渋沢は、人間の道として、元の主人徳川慶喜を訪ねました。そこで目の当たりにしたのが、髭も剃らずに謹慎の姿勢を表す慶喜でした。そして慶喜に旧幕臣の家族の面倒を頼まれ、生活の道をたてようと大久保一翁と相談して、パリで学んだことを静岡版としてやってみようと考えます。
当時、藩札は使用禁止となり、一石一円として太政鑑札の貸付がなされていました。しかし70万円を旧幕臣に貸していたのではとても足りません。渋沢は貸付を止め、70万円で基金を作って、旧幕臣が食える道を作るために商工会議所を作り、土地・家・道具の確保をしました。そして渋沢は「刀を捨てろ。茶を作れ」と旧幕臣に奨励し、70万円で足りないところは、今で言うJAですが裕福なところに出資を依頼して、13年で返済するところを7〜8年で返済する程の成功を収めました。
これに驚いたのは明治政府です。当時の大蔵省は大問題を抱えていましたから、渋沢に来て貰おうということになりました。しかし渋沢は「忠臣はニ君に仕えず。しかも政府は仇」と、その申し出を断りました。しかし慶喜は「それでは今の恭順は見せ掛けで、蜂起を企てる資金を渋沢が稼いでいると思われかねないから、政府に行ってくれ」と渋沢に命じます。
明治政府に入った渋沢は、主税頭(国税局長)を命じられ、財政改革と組織改革に着手します。まず国家財政が不安定なのは、米価の相場に左右される現物収入に依存しているからであるとして、年貢制度を廃止しました。また予算制度を取り入れましたが、これは古い人には受け入れがたいことでした。今までのやり方が染み付いている彼らは、入るを計って出るを制すという予算制度を理解していませんでした。渋沢にしてみれば、査定のできない予算なんて考えられないことです。結局、渋沢は職を辞することになりますが、時事新報に事の顛末をリークして、国立銀行条例を制定し、株式制度・銀行設立への道を開きました。
渋沢栄一はそろばん勘定に熟達するとともに、論語に学んだ人でした。人はいかに生きるべきか、相手の立場に立って考える、優しさと思いやり(恕)をもった人です。
IQに対するアンチテーゼとしてEQ(心の指数)が提唱されていますが、EQは常に客の立場に立って経営しているかをQ&Aで確かめようというものです。Q&Aといっても一問一答ではなく、問いを深め、答えを深めていく必要があります。
二宮金次郎は「農民が土を耕すのは、鍬によって自分の徳を土地に伝えること。土地も徳をもっていて、農民の徳に対して作物で報いようとする」と言っています。そして「荒地にも徳がありますが、それはとんでもなく深いところであったりするので、時間を掛けて耕し続けることが必要」と言うのです。
そうした意味で、EQは日本的な考えに通じるものがあります。しかしEQは残念ながら日本に根づきませんでした。それは日本式経営に入るというアレルギーがあったのかもしれません。
私は日本式経営が大切だと思います。以前、福井日銀総裁の話を聞いて、その意を強くしました。彼は経営にあたって、1.常にイノベーションを絶やさない、2.供給する製品・サービスに文化という付加価値を加える、3.客を自分の努力で創り出す、4.働く人間の誰もが仕事にやりがい・喜びを感じる、と語られた最後に「日本式経営を復活させてもらいたい」と結んだのでした。
ドラッガ−も大切なのは「お客との信頼関係と職場の上下関係だ」と言っています。日本ではよく「うちの○○」と言います。また会社は船で、社長は船頭です。その船を岸辺(お客様)に向かって漕いでいるというのが、人の道理であり、人の道です。近江商人の理念に「三方よし」がありますが、自分よし、相手よし、世間よしで社会全体が豊かになるのです。
徳川吉宗が将軍となった当時、自分さえ良ければいいという精神が蔓延していました。そこで吉宗は、心の赤字もゼロに戻し、黒字にしたいと、恕の精神・三方よしの精神を大切にし、目安箱を設置しました。そして良いものを取り上げ、悪いものを捨てて改革を進めます。身寄りのない老人には小石川療養所を作りました。これは現在の老人福祉施設です。また七分積立金を始めました。これは今で言う公助自助互助にあたります。この資金によって養育院が運営され、明治になってからその資金は、精算委員会によって施設や上水設備・道路の整備費に用いられました。渋沢栄一は終身養育院長を務めています。
それではお時間のようです。こんなお話で「どうもん(童門)すみません」と終わらせていただきます。
以 上
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